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■2013/07/20 (Sat)
シリーズアニメ■
物語は、七瀬遙の少年時代のできごとから始まる。スイミングスクールに通い、仲間達と出会い、輝かしい時代を過ごしていた。
が、一転してその数年後。スイミングスクールは潰れ、身近な場所からプールはなくなり、仕方なく小さな浴槽に水を張って潜っている七瀬遙。大きな体を水の中に沈ませながら、七瀬遙は憂鬱に思考を巡らす。
「死んだ婆ちゃんから聞いた古い諺。10で神童、15で天才、20すぎるとただの人。……ただの人まで、あと3年ちょっと。ああ、早くただの人になりてぇ……」
七瀬遙は自身が普通の人間と違うことに自覚的でいる。過剰に、中毒者のように水を求める性格。泳ぐ行為そのものへの渇望。それから言うまでもなく泳ぐための圧倒的な技術。
七瀬遙は天才だ。天才ゆえに水を渇望してしまう。しかしただの人になりさえすれば、もう泳ぐことを求めずに済むかも知れない。もしかしたら、泳ぐ才能で他の誰かを打ちのめしてしまうこともなくなるかもしれない……という思いもあるかもしれない。
『Free!』は水を失って彷徨い続ける少年の物語だ。通っていたスイミングスクールは潰れ、進学した高校にはプールはあるものの、長年使用されておらず荒廃が進んでいる。
七瀬遙は水泳の才能と、水泳への愛着を抱きながら、その機会を完全に失ってしまった少年だ。
その一方で、自由に水へアクセスできる少年が登場する。七瀬遙のライバルである松岡凜だ。しかし2人は対立状態にあり、松岡凜はオーストラリアに水泳留学をしながらも、挫折し現在水泳部に所属していない。いつでも水に触れられる立場にありながら、松岡凜はあえて水と接触していないのだ。
この2人の関係は、ともに少年時代に遡ることができる。おそらく松岡凜は、分断された七瀬遙の少年時代の一つなのだろう。七瀬遙が取り戻そうとしているのは、少年時代、スイミングスクールに通っていたあの時なのだ。
荒廃したプールを修復するのは、七瀬遙の精神の修復するためだろう。対立関係にある松岡凜は、おそらくは七瀬遙から切り離されたもう一つの自我。だから七瀬遙と松岡凜、2人が和解した時にこそ、荒廃した七瀬遙の精神が回復し、次なる段階へ成長する切っ掛けになるのだろう。七瀬遙が目指しているのは、失われた少年時代の再現だ。
アニメーションとしての『Free!』の主軸は、言うまでもなく“水”と“水泳”だ。水泳をテーマにして描く限り、避けて通れない要素だろう。
水を描くのは難しい。手書きアニメーションの世界だけではなく、デジタルアニメーションの世界でも同様に言われている。なぜなら、“教科書”が存在しないからだ。
アニメーションの動きは、多くが教科書が存在する。歩き方、走り方、振り向き、フォロースルー、煙や風の表現……アニメーションはだいたいこの基礎的な動きの組み合わせで成り立っている。アニメーションの教科書を買えば、人間が歩くときどのように足を上げて、重心を移動しているか解析的に描かれているのがわかると思う。キャラクターが自由自在に動いているように見えるアニメーションは、先人がその基礎的な動きを細かく解剖して、形式的な表現を体型付けしているから、今の作り手がその上に様々な創意を積み上げられるのだ。
が、しかし水に限っては教科書がない。教科書には参考としていくつかカットを取り上げているものの、決定的なものとは言いがたい。
水はどのように動くのか? おそらくアニメの作り手にとって、大きな課題であったに違いない。漠然とした感覚で、水がどのように動くのか理解しているものはある。しかしそれを絵画として動きとして再現できるか、という間には大きな溝が立ちふさがっている。
“何となく知っている”と“本当の意味で理解している”との間には、あまりにも大きな差異があり、絵を描くという行為は、芸術的行動云々ではなく実際にはこの“理解する”という部分を突き詰めていく作業であり、ある種の科学的追求の一様であるとも言える。“知らない”で描いた絵は、漠然と近いものがあっても真実と呼ぶには足りぬのだ。
この水を観察し、絵の中で再現する過程のなかで、どんな葛藤があったのか我々はまだ知ることができない。これから作り手による情報が開示されると思われるが、相当な苦労があったと想像される。手書きアニメーションとしては“水”というテーマは前人未踏の領域だ。これをテーマとして掲げた時点で、『Free!』にはアニメ史的な意義があるといえるだろう。
また“水”の表現と同じくらいに、この作品では“泳ぐ姿”が大きなテーマに掲げられている。“泳ぎ”も“水”と同様に、教科書にない動きだ。アニメーターは“水”の表現と同じくらいに、泳ぐ姿の描写に精力を注いだことだろう。
人間が泳ぐとき、どのように動くのか……。まず飛び込みの瞬間。人はどれくらいの速度と角度で水面に突っ込んでいくのか。また水は、どの程度弾け飛ぶのか。水の中に潜り、泡をまといながら這い進んでいく。それから水面に這い上がっていき、腕で水を掻き出しつつ泳ぐ。この時の腕の動きは、3コマ撮りの場合、何コマで動くべきか。アニメーターは動きを徹底的に解析しなければならない。1枚画で再現すればいいのなら、写真をトレースすればいい。しかしアニメーションは動きを分析しつつ、アニメーションとして洗練された動きに見えなければならない。リアルであればいいというのではなく、アニメーションとして落とし込み、人間の動き、水の動きを同時に体系化していかねばならない。教科書がないから、アニメーター達はいちから全てを模索しなければならなかったはずだ。
泳ぎ、あるいは競泳をテーマにしたアニメは、寡聞にして私は知らない。おそらくはアニメで初めての試みだと思われるし、これはサッカーやテニスやバスケを描くよりも、よほど大きな冒険だったはずだ(もっともアニメにおけるサッカーやテニスやバスケは、実際的な観察によるものではなく、多分にファンタジーだが。特にテニスは)。
現在第3話まで放送されているが、水と泳ぎの表現に関しては見事というしかなくらいによく描けている。アクションシークエンスとして、その他のアニメの中に際立った存在感を持っているとも言える。
『Free!』がいい形に終わり、この作品で描かれたアニメーション……すなわち“水”と“泳ぎ”の表現が教科書として残れば、この作品が映像化された意義は非常に大きいと考えられる。
映像の印象はといえば、どちらかといえば淡い印象だ。線は柔らかく、色彩は淡い。影はノーマル色とのギャップが少なく、キャラクターを立体的に見せる効果としてはあまり有用的に機能しているとは言えない。フィルターの効果で肌がじわりと滲み、柔らかな印象をより強調している。これは線や色の柔らかさを誇張するためだ。
背景も同様にざっくりと描かれている。線は少なく、色数も少ない。必要最低限の奥行きだけで、その他のものが削ぎ落とされている。場面によっては、パースが怪しく見える場面すらある。
物語の主眼が、そうしたキャラクターや空間表現にないことがよくわかる。
その一方で、やはり注目は男性キャラクターの骨格だろう。いや、筋肉というべきか。ただしその表現は筋骨隆々、というのではなく、体脂肪を極限まで抑えられた姿だ。それはスポーツしている人間の体というより、モデルのような美しく、流線的なボディだ。こういった描きように、ある種フェティッシュな執着を感じずにはいられない。第1話の冒頭の場面、水から這い上がる七瀬遙の体を伝って落ちていく水滴が、これでもかと立体的に描かれていた。ここで、作り手のこだわりのポイントがどこにあるかがわかる。
『Free!』はリアルな男性の体格が追求されたアニメではなく、美術家としての理想が追い求められた作品だ。筋肉の描き方に、「こうでなければならない!」という作り手のこだわりと、執着、美意識が同時に感じられる部分である。
アニメーションの制作は、京都アニメーションというより、アニメーションDoとするべきだろう。アニメーションDoは2000年に設立されたアニメーション会社で、その設立目的そのものが京都アニメーションのバックアップであり、外注を受け付けた場合は“京都アニメーション”と一括される場合もあるようだ。
業界において高クオリティを誇示する京都アニメーションの縁の下として支えてきたアニメーションDoだが、その中でも優れた作家が育ちつつあるようだ。『Free!』の監督内海紘子は、現在もアニメーションDoの所属だ。内海紘子だけではなく、作画監督や演出にアニメーションDoのスタッフが名前を連ねるようになってきた。
アニメーションDoはすでに、単に京都アニメーションを下支えするだけの存在ではない。しかしライバル関係のような対立はなく、立場は良好で、才能の交流が進んでいるようだ。
京都アニメーションとアニメーションDo……ふたつの優れた才能が、相乗効果となって今後もよりより作品を作っていくことに期待したい。
作品データ
監督:内海紘子 原案:おおじこうじ
シリーズ構成:横谷昌宏 キャラクターデザイン・総作画監督:西屋太志
美術監督:鵜ノ口穣二 色彩設計:米田侑加 小物設定:秋竹斉一
撮影監督:高尾一也 編集:重村建吾
音響監督:鶴岡陽太 音楽:加藤達也 音楽制作:ランティス
アニメーション制作:京都アニメーション/アニメーションDo
出演:島﨑信長 鈴木達央 宮野真守 代永翼 平川大輔 渡辺明乃
雪野五月 佐藤聡美 津田健次郎 宮田幸季 家中宏
が、一転してその数年後。スイミングスクールは潰れ、身近な場所からプールはなくなり、仕方なく小さな浴槽に水を張って潜っている七瀬遙。大きな体を水の中に沈ませながら、七瀬遙は憂鬱に思考を巡らす。
「死んだ婆ちゃんから聞いた古い諺。10で神童、15で天才、20すぎるとただの人。……ただの人まで、あと3年ちょっと。ああ、早くただの人になりてぇ……」
七瀬遙は自身が普通の人間と違うことに自覚的でいる。過剰に、中毒者のように水を求める性格。泳ぐ行為そのものへの渇望。それから言うまでもなく泳ぐための圧倒的な技術。
七瀬遙は天才だ。天才ゆえに水を渇望してしまう。しかしただの人になりさえすれば、もう泳ぐことを求めずに済むかも知れない。もしかしたら、泳ぐ才能で他の誰かを打ちのめしてしまうこともなくなるかもしれない……という思いもあるかもしれない。
『Free!』は水を失って彷徨い続ける少年の物語だ。通っていたスイミングスクールは潰れ、進学した高校にはプールはあるものの、長年使用されておらず荒廃が進んでいる。
七瀬遙は水泳の才能と、水泳への愛着を抱きながら、その機会を完全に失ってしまった少年だ。
その一方で、自由に水へアクセスできる少年が登場する。七瀬遙のライバルである松岡凜だ。しかし2人は対立状態にあり、松岡凜はオーストラリアに水泳留学をしながらも、挫折し現在水泳部に所属していない。いつでも水に触れられる立場にありながら、松岡凜はあえて水と接触していないのだ。
この2人の関係は、ともに少年時代に遡ることができる。おそらく松岡凜は、分断された七瀬遙の少年時代の一つなのだろう。七瀬遙が取り戻そうとしているのは、少年時代、スイミングスクールに通っていたあの時なのだ。
荒廃したプールを修復するのは、七瀬遙の精神の修復するためだろう。対立関係にある松岡凜は、おそらくは七瀬遙から切り離されたもう一つの自我。だから七瀬遙と松岡凜、2人が和解した時にこそ、荒廃した七瀬遙の精神が回復し、次なる段階へ成長する切っ掛けになるのだろう。七瀬遙が目指しているのは、失われた少年時代の再現だ。
アニメーションとしての『Free!』の主軸は、言うまでもなく“水”と“水泳”だ。水泳をテーマにして描く限り、避けて通れない要素だろう。
水を描くのは難しい。手書きアニメーションの世界だけではなく、デジタルアニメーションの世界でも同様に言われている。なぜなら、“教科書”が存在しないからだ。
アニメーションの動きは、多くが教科書が存在する。歩き方、走り方、振り向き、フォロースルー、煙や風の表現……アニメーションはだいたいこの基礎的な動きの組み合わせで成り立っている。アニメーションの教科書を買えば、人間が歩くときどのように足を上げて、重心を移動しているか解析的に描かれているのがわかると思う。キャラクターが自由自在に動いているように見えるアニメーションは、先人がその基礎的な動きを細かく解剖して、形式的な表現を体型付けしているから、今の作り手がその上に様々な創意を積み上げられるのだ。
が、しかし水に限っては教科書がない。教科書には参考としていくつかカットを取り上げているものの、決定的なものとは言いがたい。
水はどのように動くのか? おそらくアニメの作り手にとって、大きな課題であったに違いない。漠然とした感覚で、水がどのように動くのか理解しているものはある。しかしそれを絵画として動きとして再現できるか、という間には大きな溝が立ちふさがっている。
“何となく知っている”と“本当の意味で理解している”との間には、あまりにも大きな差異があり、絵を描くという行為は、芸術的行動云々ではなく実際にはこの“理解する”という部分を突き詰めていく作業であり、ある種の科学的追求の一様であるとも言える。“知らない”で描いた絵は、漠然と近いものがあっても真実と呼ぶには足りぬのだ。
この水を観察し、絵の中で再現する過程のなかで、どんな葛藤があったのか我々はまだ知ることができない。これから作り手による情報が開示されると思われるが、相当な苦労があったと想像される。手書きアニメーションとしては“水”というテーマは前人未踏の領域だ。これをテーマとして掲げた時点で、『Free!』にはアニメ史的な意義があるといえるだろう。
また“水”の表現と同じくらいに、この作品では“泳ぐ姿”が大きなテーマに掲げられている。“泳ぎ”も“水”と同様に、教科書にない動きだ。アニメーターは“水”の表現と同じくらいに、泳ぐ姿の描写に精力を注いだことだろう。
人間が泳ぐとき、どのように動くのか……。まず飛び込みの瞬間。人はどれくらいの速度と角度で水面に突っ込んでいくのか。また水は、どの程度弾け飛ぶのか。水の中に潜り、泡をまといながら這い進んでいく。それから水面に這い上がっていき、腕で水を掻き出しつつ泳ぐ。この時の腕の動きは、3コマ撮りの場合、何コマで動くべきか。アニメーターは動きを徹底的に解析しなければならない。1枚画で再現すればいいのなら、写真をトレースすればいい。しかしアニメーションは動きを分析しつつ、アニメーションとして洗練された動きに見えなければならない。リアルであればいいというのではなく、アニメーションとして落とし込み、人間の動き、水の動きを同時に体系化していかねばならない。教科書がないから、アニメーター達はいちから全てを模索しなければならなかったはずだ。
泳ぎ、あるいは競泳をテーマにしたアニメは、寡聞にして私は知らない。おそらくはアニメで初めての試みだと思われるし、これはサッカーやテニスやバスケを描くよりも、よほど大きな冒険だったはずだ(もっともアニメにおけるサッカーやテニスやバスケは、実際的な観察によるものではなく、多分にファンタジーだが。特にテニスは)。
現在第3話まで放送されているが、水と泳ぎの表現に関しては見事というしかなくらいによく描けている。アクションシークエンスとして、その他のアニメの中に際立った存在感を持っているとも言える。
『Free!』がいい形に終わり、この作品で描かれたアニメーション……すなわち“水”と“泳ぎ”の表現が教科書として残れば、この作品が映像化された意義は非常に大きいと考えられる。
映像の印象はといえば、どちらかといえば淡い印象だ。線は柔らかく、色彩は淡い。影はノーマル色とのギャップが少なく、キャラクターを立体的に見せる効果としてはあまり有用的に機能しているとは言えない。フィルターの効果で肌がじわりと滲み、柔らかな印象をより強調している。これは線や色の柔らかさを誇張するためだ。
背景も同様にざっくりと描かれている。線は少なく、色数も少ない。必要最低限の奥行きだけで、その他のものが削ぎ落とされている。場面によっては、パースが怪しく見える場面すらある。
物語の主眼が、そうしたキャラクターや空間表現にないことがよくわかる。
その一方で、やはり注目は男性キャラクターの骨格だろう。いや、筋肉というべきか。ただしその表現は筋骨隆々、というのではなく、体脂肪を極限まで抑えられた姿だ。それはスポーツしている人間の体というより、モデルのような美しく、流線的なボディだ。こういった描きように、ある種フェティッシュな執着を感じずにはいられない。第1話の冒頭の場面、水から這い上がる七瀬遙の体を伝って落ちていく水滴が、これでもかと立体的に描かれていた。ここで、作り手のこだわりのポイントがどこにあるかがわかる。
『Free!』はリアルな男性の体格が追求されたアニメではなく、美術家としての理想が追い求められた作品だ。筋肉の描き方に、「こうでなければならない!」という作り手のこだわりと、執着、美意識が同時に感じられる部分である。
アニメーションの制作は、京都アニメーションというより、アニメーションDoとするべきだろう。アニメーションDoは2000年に設立されたアニメーション会社で、その設立目的そのものが京都アニメーションのバックアップであり、外注を受け付けた場合は“京都アニメーション”と一括される場合もあるようだ。
業界において高クオリティを誇示する京都アニメーションの縁の下として支えてきたアニメーションDoだが、その中でも優れた作家が育ちつつあるようだ。『Free!』の監督内海紘子は、現在もアニメーションDoの所属だ。内海紘子だけではなく、作画監督や演出にアニメーションDoのスタッフが名前を連ねるようになってきた。
アニメーションDoはすでに、単に京都アニメーションを下支えするだけの存在ではない。しかしライバル関係のような対立はなく、立場は良好で、才能の交流が進んでいるようだ。
京都アニメーションとアニメーションDo……ふたつの優れた才能が、相乗効果となって今後もよりより作品を作っていくことに期待したい。
作品データ
監督:内海紘子 原案:おおじこうじ
シリーズ構成:横谷昌宏 キャラクターデザイン・総作画監督:西屋太志
美術監督:鵜ノ口穣二 色彩設計:米田侑加 小物設定:秋竹斉一
撮影監督:高尾一也 編集:重村建吾
音響監督:鶴岡陽太 音楽:加藤達也 音楽制作:ランティス
アニメーション制作:京都アニメーション/アニメーションDo
出演:島﨑信長 鈴木達央 宮野真守 代永翼 平川大輔 渡辺明乃
雪野五月 佐藤聡美 津田健次郎 宮田幸季 家中宏
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