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■2013/04/17 (Wed)
シリーズアニメ■
ハナガ……サイタヨ……
ハナガ……サイタヨ……
第1話。カット2番。この最初のシーンで、作品に込められた言い様の知れない気配を感じて、見る者は愕然とするだろう。
このアニメは全編ロトスコープで制作されている。冒頭に“歩き”のカットが採用されたのは、おそらく通常のアニメとロトスコープのアニメとの差異が誰の目にも明らかに出るからだ。
ロトスコープで制作された歩きの動きは、左右にゆらゆらと不規則に揺れて、視線は一箇所に定まらない。通常のアニメであると、上下の動きは美しい軌道線に守られて規則正しく動き、何より視線は殆どの場合一箇所へ、もしも誰かに名前を呼ばれて振り向くとしても視線は迷わず対象に向けられる。
ロトスコープで制作された動きは、何もかも定まらない。キャラクターがどこを見て何を考えているのか、何も読めない。これが生身の人間の正しい動きなのだ。アニメ『惡の華』は、冒頭からこの生身の人間の動きの生理的“不快”さを突きつけようとしている。
通常のアニメーションはアニメーターによる理想が具現化されている。キャラクターのルックスが、というだけではなく、動きについても徹底された理想化が計られる。人間はアニメーションで描かれるように綺麗な動きはできない。アニメは常に視線を一点に定め、そこだけを見てシンプルにアクションする。時には動きの中に誇張が込められる。
日本のアニメは、この軌道線とコマの操作に特別なこだわりを持っている。リミテッドアニメーションと呼ばれる手法で、これは秒間8枚の絵が描かれる(3コマ撮りと呼ばれている)。しかし日本のアニメを見る限り、秒間8コマという少なさを自覚することはまずない。ゲームの世界では秒間60コマで動くが当たり前だが、これがもしも8コマに減らされたら動きがガタガタで、とてもゲームは進められないだろう。
何故かといえば、秘密が軌道線と詰めの作り方にある。軌道線を美しくなぞりながら、あるコマについては大雑把に飛ばし、ある動きだけは誇張してコマ数を増やす。線に対する執着も強い。線一本でもトレスにミスが出ないよう、フェティッシュに線を追跡していく。さらに言うと、実際には秒間8枚ではなく、ある瞬間には2コマあるいは1コマというタイミングが混在し、コマ単位で動きを慎重に操作している(実はリミテッドアニメーションではない。“部分的に”リミテッドアニメなのだ)。日本のアニメの流麗さはそこから現れている。
海外のアニメでもごく稀にリミテッドアニメーションが作られるが、日本のアニメのように美しい動きが作れない理由がここにある。
『惡の華』の動画に接した時、動きが美しく見えない理由がこれだ。動きがガタついて見えるのは、従来のアニメーション的な制作方法を無視しているからだ。軌道線に一貫した流れを作らず、なのに3コマ撮りだから、動きがガタついて見えてしまう。
ロトスコープの代表者と言えばラフル・バクシが挙げられるが、彼のアニメーションがまずまず流麗に見えるのは、フルコマ(秒間24コマ)で描かれているからだ。(とはいえ、アニメ『指輪物語』はホビットの動きがあまりにも流麗すぎてロトスコープで制作されたキャラクターが浮いて見えてしまったが)
『惡の華』はそうしたアニメーターとアニメファンが作り上げてきた理想化を、徹底的に破壊し、ある印象を突きつける。
“不快さ”だ。
そもそもなぜロトスコープで制作する必要があったのか? 実写撮影するのだったら、そのまま実写ドラマとして放映すればよかったのではないか……。
いや、ロトスコープすることに意義があるのだ。さらに言うと、絵にすることに意味があるのだ。
人間は、自分の身の周りにあるものをあまり詳しく見ていない。毎日会って言葉を交わす友人がどんな顔をしているのか、実はあまりしっかり観察していない。「絵に描いてみろ」と言われて、即座に再現できる人はまずいないだろう。それは“何も見ていないから”だ。
絵画には何の意味があるのか? いつかお金に代替できる価値ある品か? いや違うだろう。絵にすることの本当の意義は、それそのものがどんな形をしているか、正しく知るためだ。絵にすることで、人はそれがどんな姿をしているのか初めて理解する。絵というものは、それそのものを周囲の世界から切り離し、存在そのものを誇張して意識に突きつける効果を持っている。絵にしない限り、人は何も気付かないし、何も感じず、ぼんやりした気持ちのまま日々を流されるように過ごすだけだ。人は庭を飛んでいる鳥には興味を持たないが、絵画になった鳥には感心を向ける。
アニメーションはそれに動きを加えたものだ。人は、アニメーションとして描かれていたものを見て、初めて人がどんな動きをするのか、その瞬間にどんな顔をしているのか、気付き発見するのである。
『惡の華』はそれを実践し、実証してみせている。
人間がどんな姿をしているのか、その瞬間にどんな顔をするのか。まず人間のフォルムの不格好さ。人間はあんなに首や腰が太かっただろうか。普段理想化されたフォルムを追跡したアニメを見ているから、あの不格好さには見るに堪えないものがある。
さらに動き。実写トレースされた人間の動きは、ふらふらと一点に定まらず、美しさはどこにもない。とくに酷いのは歩く姿だ。どの若者もうつむいた格好でひょこひょことペンギンみたいに歩いている。
そうした理想を叩きのめし、理想を崩壊させた向こうにある人間が本来持っている“不快さ”を徹底的に誇張し突きつけること、ここに『惡の華』の狙いが隠されている。
『惡の華』を拒絶する人は多いが、それはおそらく「巨人の国」に迷い込んだガリバーのような気持ちなのだろう。人間が醜悪であることを、初めて知った、という人達だ。
人は人を理想化して見ている。それはアニメが、という限定は作らない。美しい記号を備えた女性は美しいと思い込んで見ているし、可愛いという特徴をそろえた犬や猫は可愛いと思っている。美しく見えるグラビア写真が美しく見えるのは、美しく見えるように色んな人が手を加えて、現実を作り替えているからだ。
正しい意味でそれがどんな姿をしているのか、人はよくよく理解していない。
人は実際のものを前にしても、社会的に刷り込まれてきたものに感覚を引き戻そうとする。外国人の多くが「日本人は目が細い」という印象を持ち、実際の日本人を見てもその印象を変えようとしないが、それはおそらく浮世絵の印象で、実際の日本人はそう言われるほど目は小さくも細くもないし、西洋人の中に目が小さく細い人は一杯いる。それでも外国人の多くが「日本人は目が細い」と思い続けているのは、社会常識を強く持ちすぎているからだ。
アニメは人間が思い込み、理想とするフォルムをどこまでも追跡して作られたものだ。アニメの心地よさは、人間が人間に対して「そうであってほしい」という記号の集積である。
しかし『惡の華』はこの思い込みや理想を徹底的に破壊し、突きつけている。人間の醜悪さを。人間の不快さを。それがこの作品に込められたテーマである「思春期の闇」と深い関連を持ってくる。
人は人を理想化されたシルエットのみを見詰めて、その実際がどんな形を持っているかなど知ろうともしない。それは自分自身に対してもそうだ。(自分自身を絵に描いてみろ、と言われて即座に描ける人はまずいない。他人以上に、自分自身を描けという方が難しいだろう)
春日高男は自分を優れた人間であると信じている。本に出会って少々の知識を得ていくうちに、自分は周りにいる人達よりとても優秀で才能溢れた人間だと思うようになる。映像はしばしば、春日高男だけを取り残して無人の教室を描く。自分は特別な一人――そんな優越感。
しかしテストの成績は芳しくなく、作品は密かに春日を平凡か平凡以下の学生であることをほのめかす。
春日高男は実際、特別優れた人間でもなかった。性に囚われて性に流されて性に振り回される、ごくごく普通の16歳の高校生だ。そんな少年の前に、好きな女の子の、性的な思いを抱いている相手の体操着が差し出される。
抗いがたい欲望……理想化した自分という表皮の下に流れていた、ただの性欲に溺れる若者の実像が現れてくる。
春日高男は、思わず体操着を手に取り、恍惚の表情で眺めてしまう。この時の表情……従来の準備されたリストからカスタマイズするだけのアニメでは描けない、ロトスコープならではの表情だ。
しかし、その場面を中村佐和に目撃されてしまう。中村佐和は抉るように春日高男の罪を暴き出し、翻弄する。中村佐和の前では、どんな理想化も通用しない。もっとも不快で下劣な実像を、春日高男自身に突きつけ、精神的に追い詰める。
あの教室の中には春日高男の他に、あと2人、自分が特別だと思っている人間がいる。佐伯奈々子と中村佐和の2人だ。
佐伯奈々子は仮面を被り、回りと危うく折り合いを付けているが、一方中村は堂々と毒を吐き捨てる。
「クソムシが」
春日高男や佐伯奈々子が思っていて口に出さない一言を、平然と言ってのける存在。社会の拘束力に恐れや、弾かれることに不安すら抱いていない存在。
3人の関係は歪に交差していく。
中村佐和は春日高男がどんな本を読んでいるか知っているし、体操着を盗んだことも知っている。
佐伯奈々子は春日高男がどんな本を読んでいるか知らないし、体操着を盗んだことも知らない。
一方は理想化を拒否した関係であり、一方は理想化という仮面を被った関係だ。
この作品と接すると、妙に居心地が悪く、ざわざわした気持ちがどこからか這い上がってくるように感じる。それはこの作品がアニメにありがちな理想化を排除し、不快な部分をわざわざ誇張して突きつけてくるからだ。
映像はやけに日常描写が多い。延々と映し出される風景描写。普通のアニメならせいぜい3カットまでだが、『惡の華』は延々、風景描写が続く。それも、みんなどこか歪み腐敗した風景ばかりで、映像作品なのにかかわらず美を拒否している。また風景描写が、状況を伝える点描としての役割を果たしていない。
従来のアニメは登場人物の台詞やアクションといったプロットで物語を先導するように作られているが、『惡の華』はそういう指向を捨てている。実写撮影し、それを“編集”するところから物語を組み立てられている。編集で作品に厚みを作る、という手法が採られているから、物語に動きがないのに関わらず、作品に一種の詩情ともいえる余韻が現れている。風景描写が物語を解説する記号という役割を持っていないのはこのためだ。絵コンテから作品を作り出すアニメの方法と比較しても、作劇の本質がそもそも違う。
そこまでしてロトスコープでの映像にこだわる理由は、やはり不快さを突きつけるだけだろう。非日常だが、何一つヒロイズムもカタルシスもない、ただ救いのないだけの非日常があるだけ。踏み外して、奈落に転がり落ちるだけの少年少女の物語。これを、不快さを最大にさせる方法がロトスコープだったのだ。
生理的に不快なものを感じさせる。それも一番強烈な方法で。理想化した仮面を剥ぎ落とし、作者はあの一言を突きつけている。
「クソムシが」
そう、お前らはクソムシだ。自分もクソムシだし、お前もお前ら全員クソムシ。ごまかすな。特別なんてありはしない。お前らはただ地面に這いつくばって、流されるままに生きて、その辺で死ぬだけのクソムシだ。その事実に叩きのめされた上で一生這いつくばって最後には死ね。
そんな作者の言葉が聞こえてきそうだ。
『惡の華』はアニメ史における異端だ。後に振り返ってみても、この作品はアニメ史の中においても真っ黒な闇となって穴を開けているだろう。いつかそこに迷い込んで、堕ちる人間をじっと待ち構えながら、密かに笑い続けるのだろう。
作品データ
監督:長濱博史 原作:押見修造
助監督:平川哲生 シリーズ構成:伊丹あき キャラクターデザイン:島村秀一
美術監督:秋山健太郎 色彩監督:梅崎ひろこ 撮影監督:大山佳久
動画監督:佐藤可奈子 編集:平木大輔 実写制作:ディコード
音響監督:たなかかずや 音楽:深澤秀行
アニメーション制作:ZEXCS
出演:植田慎一郎 伊瀬茉莉也 日笠陽子
松崎克俊 浜添伸也 上村彩子 原紗友里
ハナガ……サイタヨ……
第1話。カット2番。この最初のシーンで、作品に込められた言い様の知れない気配を感じて、見る者は愕然とするだろう。
このアニメは全編ロトスコープで制作されている。冒頭に“歩き”のカットが採用されたのは、おそらく通常のアニメとロトスコープのアニメとの差異が誰の目にも明らかに出るからだ。
ロトスコープで制作された歩きの動きは、左右にゆらゆらと不規則に揺れて、視線は一箇所に定まらない。通常のアニメであると、上下の動きは美しい軌道線に守られて規則正しく動き、何より視線は殆どの場合一箇所へ、もしも誰かに名前を呼ばれて振り向くとしても視線は迷わず対象に向けられる。
ロトスコープで制作された動きは、何もかも定まらない。キャラクターがどこを見て何を考えているのか、何も読めない。これが生身の人間の正しい動きなのだ。アニメ『惡の華』は、冒頭からこの生身の人間の動きの生理的“不快”さを突きつけようとしている。
通常のアニメーションはアニメーターによる理想が具現化されている。キャラクターのルックスが、というだけではなく、動きについても徹底された理想化が計られる。人間はアニメーションで描かれるように綺麗な動きはできない。アニメは常に視線を一点に定め、そこだけを見てシンプルにアクションする。時には動きの中に誇張が込められる。
日本のアニメは、この軌道線とコマの操作に特別なこだわりを持っている。リミテッドアニメーションと呼ばれる手法で、これは秒間8枚の絵が描かれる(3コマ撮りと呼ばれている)。しかし日本のアニメを見る限り、秒間8コマという少なさを自覚することはまずない。ゲームの世界では秒間60コマで動くが当たり前だが、これがもしも8コマに減らされたら動きがガタガタで、とてもゲームは進められないだろう。
何故かといえば、秘密が軌道線と詰めの作り方にある。軌道線を美しくなぞりながら、あるコマについては大雑把に飛ばし、ある動きだけは誇張してコマ数を増やす。線に対する執着も強い。線一本でもトレスにミスが出ないよう、フェティッシュに線を追跡していく。さらに言うと、実際には秒間8枚ではなく、ある瞬間には2コマあるいは1コマというタイミングが混在し、コマ単位で動きを慎重に操作している(実はリミテッドアニメーションではない。“部分的に”リミテッドアニメなのだ)。日本のアニメの流麗さはそこから現れている。
海外のアニメでもごく稀にリミテッドアニメーションが作られるが、日本のアニメのように美しい動きが作れない理由がここにある。
『惡の華』の動画に接した時、動きが美しく見えない理由がこれだ。動きがガタついて見えるのは、従来のアニメーション的な制作方法を無視しているからだ。軌道線に一貫した流れを作らず、なのに3コマ撮りだから、動きがガタついて見えてしまう。
ロトスコープの代表者と言えばラフル・バクシが挙げられるが、彼のアニメーションがまずまず流麗に見えるのは、フルコマ(秒間24コマ)で描かれているからだ。(とはいえ、アニメ『指輪物語』はホビットの動きがあまりにも流麗すぎてロトスコープで制作されたキャラクターが浮いて見えてしまったが)
『惡の華』はそうしたアニメーターとアニメファンが作り上げてきた理想化を、徹底的に破壊し、ある印象を突きつける。
“不快さ”だ。
そもそもなぜロトスコープで制作する必要があったのか? 実写撮影するのだったら、そのまま実写ドラマとして放映すればよかったのではないか……。
いや、ロトスコープすることに意義があるのだ。さらに言うと、絵にすることに意味があるのだ。
人間は、自分の身の周りにあるものをあまり詳しく見ていない。毎日会って言葉を交わす友人がどんな顔をしているのか、実はあまりしっかり観察していない。「絵に描いてみろ」と言われて、即座に再現できる人はまずいないだろう。それは“何も見ていないから”だ。
絵画には何の意味があるのか? いつかお金に代替できる価値ある品か? いや違うだろう。絵にすることの本当の意義は、それそのものがどんな形をしているか、正しく知るためだ。絵にすることで、人はそれがどんな姿をしているのか初めて理解する。絵というものは、それそのものを周囲の世界から切り離し、存在そのものを誇張して意識に突きつける効果を持っている。絵にしない限り、人は何も気付かないし、何も感じず、ぼんやりした気持ちのまま日々を流されるように過ごすだけだ。人は庭を飛んでいる鳥には興味を持たないが、絵画になった鳥には感心を向ける。
アニメーションはそれに動きを加えたものだ。人は、アニメーションとして描かれていたものを見て、初めて人がどんな動きをするのか、その瞬間にどんな顔をしているのか、気付き発見するのである。
『惡の華』はそれを実践し、実証してみせている。
人間がどんな姿をしているのか、その瞬間にどんな顔をするのか。まず人間のフォルムの不格好さ。人間はあんなに首や腰が太かっただろうか。普段理想化されたフォルムを追跡したアニメを見ているから、あの不格好さには見るに堪えないものがある。
さらに動き。実写トレースされた人間の動きは、ふらふらと一点に定まらず、美しさはどこにもない。とくに酷いのは歩く姿だ。どの若者もうつむいた格好でひょこひょことペンギンみたいに歩いている。
そうした理想を叩きのめし、理想を崩壊させた向こうにある人間が本来持っている“不快さ”を徹底的に誇張し突きつけること、ここに『惡の華』の狙いが隠されている。
『惡の華』を拒絶する人は多いが、それはおそらく「巨人の国」に迷い込んだガリバーのような気持ちなのだろう。人間が醜悪であることを、初めて知った、という人達だ。
人は人を理想化して見ている。それはアニメが、という限定は作らない。美しい記号を備えた女性は美しいと思い込んで見ているし、可愛いという特徴をそろえた犬や猫は可愛いと思っている。美しく見えるグラビア写真が美しく見えるのは、美しく見えるように色んな人が手を加えて、現実を作り替えているからだ。
正しい意味でそれがどんな姿をしているのか、人はよくよく理解していない。
人は実際のものを前にしても、社会的に刷り込まれてきたものに感覚を引き戻そうとする。外国人の多くが「日本人は目が細い」という印象を持ち、実際の日本人を見てもその印象を変えようとしないが、それはおそらく浮世絵の印象で、実際の日本人はそう言われるほど目は小さくも細くもないし、西洋人の中に目が小さく細い人は一杯いる。それでも外国人の多くが「日本人は目が細い」と思い続けているのは、社会常識を強く持ちすぎているからだ。
アニメは人間が思い込み、理想とするフォルムをどこまでも追跡して作られたものだ。アニメの心地よさは、人間が人間に対して「そうであってほしい」という記号の集積である。
しかし『惡の華』はこの思い込みや理想を徹底的に破壊し、突きつけている。人間の醜悪さを。人間の不快さを。それがこの作品に込められたテーマである「思春期の闇」と深い関連を持ってくる。
人は人を理想化されたシルエットのみを見詰めて、その実際がどんな形を持っているかなど知ろうともしない。それは自分自身に対してもそうだ。(自分自身を絵に描いてみろ、と言われて即座に描ける人はまずいない。他人以上に、自分自身を描けという方が難しいだろう)
春日高男は自分を優れた人間であると信じている。本に出会って少々の知識を得ていくうちに、自分は周りにいる人達よりとても優秀で才能溢れた人間だと思うようになる。映像はしばしば、春日高男だけを取り残して無人の教室を描く。自分は特別な一人――そんな優越感。
しかしテストの成績は芳しくなく、作品は密かに春日を平凡か平凡以下の学生であることをほのめかす。
春日高男は実際、特別優れた人間でもなかった。性に囚われて性に流されて性に振り回される、ごくごく普通の16歳の高校生だ。そんな少年の前に、好きな女の子の、性的な思いを抱いている相手の体操着が差し出される。
抗いがたい欲望……理想化した自分という表皮の下に流れていた、ただの性欲に溺れる若者の実像が現れてくる。
春日高男は、思わず体操着を手に取り、恍惚の表情で眺めてしまう。この時の表情……従来の準備されたリストからカスタマイズするだけのアニメでは描けない、ロトスコープならではの表情だ。
しかし、その場面を中村佐和に目撃されてしまう。中村佐和は抉るように春日高男の罪を暴き出し、翻弄する。中村佐和の前では、どんな理想化も通用しない。もっとも不快で下劣な実像を、春日高男自身に突きつけ、精神的に追い詰める。
あの教室の中には春日高男の他に、あと2人、自分が特別だと思っている人間がいる。佐伯奈々子と中村佐和の2人だ。
佐伯奈々子は仮面を被り、回りと危うく折り合いを付けているが、一方中村は堂々と毒を吐き捨てる。
「クソムシが」
春日高男や佐伯奈々子が思っていて口に出さない一言を、平然と言ってのける存在。社会の拘束力に恐れや、弾かれることに不安すら抱いていない存在。
3人の関係は歪に交差していく。
中村佐和は春日高男がどんな本を読んでいるか知っているし、体操着を盗んだことも知っている。
佐伯奈々子は春日高男がどんな本を読んでいるか知らないし、体操着を盗んだことも知らない。
一方は理想化を拒否した関係であり、一方は理想化という仮面を被った関係だ。
この作品と接すると、妙に居心地が悪く、ざわざわした気持ちがどこからか這い上がってくるように感じる。それはこの作品がアニメにありがちな理想化を排除し、不快な部分をわざわざ誇張して突きつけてくるからだ。
映像はやけに日常描写が多い。延々と映し出される風景描写。普通のアニメならせいぜい3カットまでだが、『惡の華』は延々、風景描写が続く。それも、みんなどこか歪み腐敗した風景ばかりで、映像作品なのにかかわらず美を拒否している。また風景描写が、状況を伝える点描としての役割を果たしていない。
従来のアニメは登場人物の台詞やアクションといったプロットで物語を先導するように作られているが、『惡の華』はそういう指向を捨てている。実写撮影し、それを“編集”するところから物語を組み立てられている。編集で作品に厚みを作る、という手法が採られているから、物語に動きがないのに関わらず、作品に一種の詩情ともいえる余韻が現れている。風景描写が物語を解説する記号という役割を持っていないのはこのためだ。絵コンテから作品を作り出すアニメの方法と比較しても、作劇の本質がそもそも違う。
そこまでしてロトスコープでの映像にこだわる理由は、やはり不快さを突きつけるだけだろう。非日常だが、何一つヒロイズムもカタルシスもない、ただ救いのないだけの非日常があるだけ。踏み外して、奈落に転がり落ちるだけの少年少女の物語。これを、不快さを最大にさせる方法がロトスコープだったのだ。
生理的に不快なものを感じさせる。それも一番強烈な方法で。理想化した仮面を剥ぎ落とし、作者はあの一言を突きつけている。
「クソムシが」
そう、お前らはクソムシだ。自分もクソムシだし、お前もお前ら全員クソムシ。ごまかすな。特別なんてありはしない。お前らはただ地面に這いつくばって、流されるままに生きて、その辺で死ぬだけのクソムシだ。その事実に叩きのめされた上で一生這いつくばって最後には死ね。
そんな作者の言葉が聞こえてきそうだ。
『惡の華』はアニメ史における異端だ。後に振り返ってみても、この作品はアニメ史の中においても真っ黒な闇となって穴を開けているだろう。いつかそこに迷い込んで、堕ちる人間をじっと待ち構えながら、密かに笑い続けるのだろう。
作品データ
監督:長濱博史 原作:押見修造
助監督:平川哲生 シリーズ構成:伊丹あき キャラクターデザイン:島村秀一
美術監督:秋山健太郎 色彩監督:梅崎ひろこ 撮影監督:大山佳久
動画監督:佐藤可奈子 編集:平木大輔 実写制作:ディコード
音響監督:たなかかずや 音楽:深澤秀行
アニメーション制作:ZEXCS
出演:植田慎一郎 伊瀬茉莉也 日笠陽子
松崎克俊 浜添伸也 上村彩子 原紗友里