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■2013/04/15 (Mon)
シリーズアニメ■
「おいアルミン! いったい何が……」
エレンはやっとアルミンに追いついて、その背中に声を掛けた。アルミンはもともと色白だった顔をもっと白くさせて、広場にいる人達と同じように固まっていた。唇が小さく震えていて、返事をするほどの力があるようには見えなかった。
エレンはアルミンや他のみんなが見ている方向を見上げた。そして――驚愕が全身を貫くのを感じた。
空は暮れかけて、にわかに黄昏の色を混じらせかけていた。やけに多く散っている雲も、風を失ったようにその場に留まっている。そんな眺めを遮るように、巨大な壁――高さ50メートルのウォール・マリアが街全体を囲んでいた。壁の向こうで夕日が煌めき、街に夕闇の影を落としかけている。何かを燃やしているのか、灰色の煙が一筋、立ち上っていた。
それに続いて、掌の主が、信じられないくらい巨大な人間の頭が、壁の向こうからゆらりと現れた。
その日、その時、人々は思い出した。奴らに支配されている恐怖を。この壁の中が、自ら作った鳥籠に過ぎなかったことを。安寧――それは壁という虚像に守られた束の間のものだったことを。
名作が今ここに生まれた。我々は巨人と人類の戦いの目撃者となると同時に、名作が生まれる瞬間を目撃するのだ。
『進撃の巨人』が諫山創の手によって描かれたのは2006年。完璧に構築された異世界を背景に、人間と巨人の戦いを描き、深みのある設定と、全てを読み切ることのできない巧みなストーリー構成で話題を呼び、2006年当時から現在に至るも漫画界隈にける一番の話題作であり続けている。
それがついにアニメーションで描かれる。しかも監督は荒木哲郎――『DEATHNOTE』や『ギルティクラウン』などで圧倒的な作画パワーを惜しみなく放出し続ける作家である。制作は「WIT STUDIO」。名門PRODUCTIONI.Gから分派した新興アニメーションスタジオだが、作品を見るにおそらく実力のあるアニメーター達が揃っているのだろう。
映像化としてのプロジェクトが発表されたのは2012年。間もなくプロモーション映像が公開されたが、それはもはや、テレビアニメという枠から完全に外れた、とてつもないスケールの大きな作品になっていた。美麗なキャラクターや背景というだけではなく、アクションの凄まじさ。特に立体機動アクションは、板野サーカスと並んで一つの文法として確立する可能性すらある斬新かつ魅力的でテクニカルな動画である。アニメーションの技術は毎年天井知らずに上がり続けるが、『進撃の巨人』はその中から頭一つ飛び抜けた作品であり、未来からやってきた、と言ってもいいくらいに時代のハードルを2つ3つほどすっ飛んだパワーを秘めている。
壮大なアクションの連続はもちろん異様なほど高度に煮詰めた技術に裏打ちされたものだが、その手法そのものは実は昔からある伝統的なものばかりで、古くからある日本のアニメーション技術を引き継ぎ、これを新しい時代のアイデアで刷新されたものである。
1・太線
ただし、この見せ方は単純に輪郭線を2本描かねばならず、アニメーションのように何枚も描く場合にはやや時間がかかってしまうし、線の太さ細さもきちんと中割しないと、動いた時に意外とブレが目立つなど、厄介な側面は多い。最近のアニメが比較的シャープな線の折り重ねで描かれるようになったのは、そういう背景がある。
ニコニコ動画を見ると、コンピューターが自動的に生成してくれると思っている人がいたようだが、そんな機械はこの世には存在しない。レタスには線の太さを少々変える機能があるが、それは少々修正する程度のもので、ここまで動画全体に一貫したメリハリを付ける機能ではない。
撮影台の時代からある、いっそ古典的と言っていいくらい歴史のある作画方法である。
2・止め絵
絵を止めるのは、止めることでその場面の持っているメッセージを誇張し、シーンの美を象徴的に描くためだ。『進撃の巨人』の第1話では、遠征隊の凱旋の場面に止め絵は使用された。絵を動かすよりもあえて止めることで、帰ってきた兵士の顔に浮かぶ絶望感が強調されている。
その前後のカットの動きがしっかりしていればするほどに、止めたカットの印象はより強烈に浮かび上がってくる。ヒッチコック映画の『鳥』では、ガソリンスタンドが吹っ飛ぶ急展開の場面に、あえて止め絵を差し挟むことでその場に集まった人々の驚きの表情を強調した。意図するところは同じである。
3・背景動画
まず左のカット。地面の動きが“背景動画”で描かれている。背景動画とは、文字通り、動画スタッフが背景を動かすことである。左の例に掲げられたような、カメラがキャラクターを追って移動する際に使われる手法である。最近ではデジタル製背景動画で失われつつある表現になっている。
4・望遠レンズ
例に掲げた場面では、無数の騎馬が平面上に並んでいるように見え、馬の動きはその場運動、微妙に左右に動いているだけである。それでも見ている側には刷り込みで「手前に走っている」と錯覚させることができる。
5・密着
まず手前と奥で動く背景の動き。これは“密着”と呼ばれる技法である。まず美術で描いた背景をハサミで切り(最近ではデジタルを使うのでハサミは使用しない)、手前の地面の部分だけを切り抜く(美術スタッフがセルに描く場合もある……今の現場でセルは使用しないが)。同じように遠景にある木も切り分ける。このように切り分けたものを速度を変えながら、一番手前の地面は左に、奥の森は右へスライドさせ、さらに一番奥の木は手前の木より少し遅く右へスライドさせて距離感を出す。このカットでは合計3枚の背景が移動している。これが“密着”、あるいは“密着マルチ”と呼ばれる技法だ(私は密着について、詳しくわからないので解説はここまで)。
画面の手前を馬の足が横切り、巨人の周囲では兵士が振り子運動している。馬はカメラ手前を右へ横切った後、今度は右から左方向へ進み始める。かなり強調された遠近法だが、同じ馬の列が方向を変えてカメラの右から左へ、さらに右へと疾走していることを現している。
巨人の動きは見た目通りただのその場歩きである。対象を中心に固定しながら、カメラだけをPANさせるとこういった移動感を持った画面を作ることができる。実写でもよく使われるカメラワークである。
6・デジタル背景
7・付けPAN
『進撃の巨人』ではキャラクターが立体機動に入った後、付けPAN状態になり空中を滑空するキャラクターの動きをカメラが追跡しているように描かれる。左に掲げられた例の場合、まず一人目がフレーム手前から奥へと移動する動きをカメラが追跡し、次に画面左側から飛び出してくるキャラクターを中心に捉え、滑空していく様を追跡していく。滑空するキャラクターの動きが構図の中心で静止しているのにかかわらず、背景がもの凄い速度で移動しているのがわかるだろう。キャラクターが移動していることを想定して描かれているので、背景だけが移動しているのだ。こういったキャラクターとカメラの動きを、アニメーターは脳内のみで想像して紙の上に描くのだ。
第1話、第2話ではまだ本格的なアクションは描かれていない。プロモーション映像で披露された大がかりな付けPANが描かれるのはまだもう少し先になるようだ(オープニングでほんの一瞬使用されている)。プロモーション映像ラストに使用された、背景がデジタル制御されて動く付けPANは、従来の付けPANよりかなり複雑なプロセスが必要になる。正確にはわからないが、まず手書きでキャラクターの動き、背景の動きを大雑把に描き、その後デジタルでカメラの動きや、周囲の街の立体物の動きなどを正確に割り出し、その後アニメーターに戻し動きを作る。プロモーション映像のアクションは、まず手前に走るエレンの姿が描かれていたが、単に手前に走る動きの繰り返しではなく、途中煙突に足をのせてジャンプする動きも加わり、異常なほど厄介である。
この手法が使われた例は『けいおん!!』第2期1クール目のオープニングで、5人が演奏する姿をカメラが回転しながら捉える場面がある。『けいおん!!』のオープニングシーンで最も作画困難なカットで、あのカットだけで5人のアニメーターが協力し、あまりの作業の複雑さに挫折しかけたという、曰く付きのカットである。『進撃の巨人』の立体機動アクションはこれより数段複雑で、間違ってもテレビアニメーションのスケールで描くような代物ではない。板野サーカスと同じように、新しい表現として独立させてもいいのではないかと思う。私はとりあえず、《ハイパーアルティメット付けPAN》と勝手に呼んでいる。
例えば第1話。遠征から帰ってきた兵士の前に、一人の老女が立ちふさがる。
「モーゼス! モーゼス! ……あの息子が、モーゼスが見当たらないんですが、息子はどこでしょうか」
……という場面は、映像の世界では数千回近く繰り返し描かれた場面で、あまりにも使い古したために陳腐化し、もはやパロディでしか見られない光景である。うっかりすれば、いやどう考えてもギャグにしかならず、普通の演出家なら避けて代替案を出すであろう場面だ。しかしアニメ『進撃の巨人』はこれをド直球で描いた。
しかしこの場面はギャグにはならなかった。作画の凄まじさ、声優の演技の異様さに完全に飲み込まれてしまった。ただ虚構に接しているのではない、その瞬間は、あの母親の嘆きと兵士の絶望に深く感情移入して、我々は傍観者ではなく“当事者”としてあの場面に参加させられたのだ。
ウォール・マリアを突破した巨人達。エレンは母親の身を案じて、ただちに家へと走る。そこには、潰れた屋根の下敷きになる母親が。救い出そうとするエレンとミカサ。そこに、ハンネスがやってくる。
「みくびってもらっちゃ困るぜカルラ。俺は巨人をぶっ殺して、きっちり三人とも助ける!」
今こそ兵士の性分を見せる時だ。ハンネスは決意を固めて、巨人へと立ち向かう。二人の子供のために、グリシャに恩返しするために――。
が、巨人の前に立った時、ハンネスは恐怖に足がすくんでしまう。強く固めたはずの結束はその瞬間崩壊し、恐怖に囚われてしまったのだ。
この場面が語っているのは表情だけである。一連のカットの流れに、際だって優れたものはない。言ってしまえば、凡庸に極みである。しかし、ハンネスのあの表情を見た瞬間、観客は納得してしまうのである。「ハンネスは精神的に敗北したのだ」と。
とことん強度に高められた作画のエネルギー、一般的な言葉で言い換えれば「めちゃくちゃに絵が巧」く、その上に最高度までに誇張された人間の心理描写、ド直球で描かれた表情描写で何もかも押しきってしまうある種の徹底した愚直さ、これら全てがあの熱気の中で醸成されている――これがアニメ『進撃の巨人』における魅力となって輝いているのだろう。
原作では巨人によるウォール・マリア突破とシガンシナ区陥落の後、エレンの少年時代の物語が終わり、次のエピソードに入るともう大人になっていて、兵士になるための訓練を終えているところから始まる。それまでに何があったか、については、その都度その都度で必要な部分を少しずつ回想で解説する方法が取られている。
これは漫画の世界では古くから使われている手法である。例えばスポーツ漫画などで、試合が始まってからそれぞれのキャラクターを解説するために、その都度その都度で回想を差し挟む。このように描くことで試合の緊張感を持続させながら、キャラクターを解説することで試合のドラマに厚みを加え、なおかつ読者を飽きさせず物語に引き寄せ続ける効果がある。またこの手法は、作者の「後で思いついた」が自由に利く手法で極めて便利である。弱点としては、全体として見ると、一つの試合が異様に長くなり、気付けば一つの試合を終えるのに1年使っていた、なんてことが起きてしまい、現実の時間に合わせるために試合後、突然1年が経過した、ということになり、それまでに何が起きたかを次の試合中に再び解説するという状況が発生してしまう。
漫画版『進撃の巨人』は回想で解説する手法が中心だが、アニメ版はバラバラに描かれていた原作を概ね時系列順に組み替えて、エレンの立場に何が起きたかを順番に追いかけながら描いている。エピメテウスの発想からプロメテウスの発想に転換したのだ。
結果として、アニメ版には原作版では描かれなかった場面や、不明瞭になっていた場面も時系列順に追って見られるようになった。例えばシガンシナ区が陥落した後、エレンがどうやって生活をしていたか。配給での生活や、元シガンシナ区の住人達が巨人討伐に駆りだされたことや、避難民としての生活を送っていたことや……原作でももちろん描かれた場面だけど、例えば巨人討伐を名目に住人が処分されたことは単に解説だけで感情的に感じるところはなかったし、避難民生活の話もどの時代に属するかいまいちわかりづらかった。単に解説ではなく、アルミンが祖父と別れる場面も描かれ、シーンに感情的なドラマも追加されている(アルミンが調査隊に入る動機も、ここから読み取れるようになっている)。
原作では、少年時代の物語の後、いきなり訓練を終えて、いきなり再び超大型巨人と対決するエピソードが描かれていた。おそらく、連載の当初だから読者を惹き付けておくために展開を急がせたのだろう。それ故に、後になって回想を描くのにかなり手間をかけているし、回想があまりにも多くて時間軸がわからなくなるケースが時々起きている。
しかしアニメ版では、少年時代を経て何があったかを順番に解説している。原作ではだいぶ後になってから登場した宗教家の話も第1話から登場しているし、第3話では訓練生時代のエピソードがしっかり描かれるようだ。これは後々有用な効果を持ってくると考えられる。原作では、超大型巨人と再会するエピソードを先に描いてしまったばかりに、登場してくるキャラクターが充分に掘り下げられておらず、故に感情移入しづらい展開になってしまっていた。単純に、誰が誰なのか、読者が充分に把握できていない状態だった。これがアニメ版では、事前にきっちりと人物を掘り下げてくれるようだ。
またこの構成には楽しみが一つある。原作ではアクションの最中に一時停止して過去に話が引き戻され、メインストーリーの進捗状況が停滞することがしばしばあったが、アニメ版では原作で回想として描かれた場面があらかじめ解説されるわけである。ということは、アクションが始まればノンストップで、一気に描かれるのだ。
おそらく原作第1巻から第3巻にまたいで描かれたアクションシーンに到達するまで、アクションシーンは少なく、人間の物語が丹念に描かれるのだろう、と想像される。またこれも私の予想だけど、原作第3巻のアクションを終えたところで、おそらく1クールを消費する計画ではないだろうか。
想像通りの構成になるかはまだわからないが、あの立体機動アクションが壮大なスケールで、充分な物語上の準備を経た後に描かれるのだ。今から楽しみで仕方がない。
もう1つの問題は漫画は絵が動かないことだ。漫画なんだから当たり前……わかってはいるのだが、立体機動のアクションはすでに、読者の脳内で動いているのだ。空中を自由に滑走し、巨人に肉薄する瞬間! あの恍惚、カタルシスがもう読者の脳内で動いていて、実際に動く瞬間を渇望していたのだ。
第1の問題は、今アニメ業界で最も作画に対し執着を見せる荒木哲郎監督が描いてくれている。作画に関する心配は完全に解消された。荒木哲郎によるアニメーションは欠点を探せというほうが難しいくらいに高度な技術に支えられたものだった。アニメーションとしても完璧だし、構図の一つ一つが美しい。色彩設計も素晴らしく、夕暮れ時の空の色彩は17世紀のオランダバロック絵画を連想させる。
第2の問題は、アニメ中ではまだ立体機動アクションは本格的に描かれておらず、プロモーション映像のみでの披露だったが、期待していい内容になっているだろう。読者が漫画から読み取り、脳内補正されたアクションが、さらに凄まじい技術と作画が上乗せされて映像の上に再現されているのだ。もう私は、この作品に対しては何の不安を抱かず、安心して物語のみを追っていきたいと思う。
というのも、例えば時代劇や特撮の世界では、技術の継承に失敗したからだ。時代の変遷で一時的にでも必要とされなかったために、世代間断層が生まれ、若い世代は時代劇を描こうとしても“正しい人間の所作や様式”がわからない。かといって上の世代との交流が密に取れない状況が生まれているために、時代劇は最近になって再び描かれ始めてきているものの、玄人を満足させられる作品は僅少という結果になっている。(人形劇の世界だと、もう若い担い手がいないそうだ)
海外に目を向けると、ディズニーでは手書きアニメーションの技術が死んでいる。かつてディズニーといえば、世界最高の手書きアニメーションの技術を持っていたが、今は見る影もない(『ライオンキング』や『美女と野獣』を描いていた頃の技術は今の日本でも勝てないかも知れない)。現在のディズニーはデジタルが中心で、時々手書きアニメーションを発表する時があるのだが、そこに往年の技術は見出せない。はっきりいって技術レベルが低い。デジタルへ移行した時に、伝統的な手書きの技術が継承されなかったのだ。
そうした最中、日本のアニメだけがいま世界的な注目を集めている理由はただ一つ、伝統的な技術の一つ一つが断層を作らず継承され、新しい感性のもとで刷新され続けているからだ。世界のアニメがデジタル化へ移行していく中、一時期「時代遅れ」と揶揄されたが、それでも愚直に技術の継承を怠らなかったからこそ、今の立場があるのだ。
この作品は日本国内でとどまらず、世界に向けて挑戦すべき作品だ。おそらくどの国のどんな人間に見せても、『進撃の巨人』の映像に圧倒され、そこに描かれるドラマの濃密さに心奪われるだろう。そしてこの作品が劇場向けに作られた映像ではなく、実はシリーズ作品として作られていることに多くの人達は唖然とし、アニメーションを職業とする人達はあまりの技術の高さに愕然としてしまうだろう。
そう、信じがたいことにこの作品はテレビアニメーションなのだ。劇場映画でもそうそう体感できない異様に高度なアクションと心理描写が展開しているのにかかわらず、劇場スケールよりさらに小さなバジェットで作られているのだ。テレビシリーズでこの作品を接することのできる奇跡を、あるいは幸福を、今は何も考えずに存分に味わいたい。
テレビアニメ『進撃の巨人』公式サイト
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■ 第3話の感想
■ 第4話の感想
作品データ
監督:荒木哲郎 原作:諫山創
総作画監督:浅野恭司・門脇聡 シリーズ構成:小林靖子
アクション作画監督:江原康之・今井有文 キャラクターデザイン:浅野恭司
巨人設定:千葉崇明 3D監督:藪田修平 美術監督:吉原俊一郎
色彩設計:橋本賢 撮影監督:山田和弘 プロップデザイン:肥塚正史
編集:肥田文 音響監督:三間雅文
音楽:澤野弘之 音響効果:倉橋静男
アニメーション制作:WIT STUDIO
出演:梶裕貴 石川由衣 井上麻里奈 谷川紀章 嶋村侑 小林ゆう
三上枝織 下野絋 逢坂良太 細谷佳正 橋詰知久 藤田咲 藤原啓治
YouTube:進撃の巨人公式PV
ニコニコ動画:進撃の巨人第1話「二千年後の君へ」
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