赤い海に水没する街。車道には、戦車が警戒態勢で整列している。
突然現れる、正体不明の巨人――使徒。
碇シンジは、十年ぶりに再会した父親に、「エヴァに乗り使徒と戦え」と命じられる。
シンジは、戦いの恐怖と、父親の反発から、何度も逃げ出そうとする。
それでもシンジは、幾多の葛藤を潜り抜けて、戦う決意を固める。
あれから十年。碇シンジの顔つきも、やや凛々しくなった。
あの衝撃的なテレビシリーズから、十年。
エヴァンゲリヲンは、劇場作品として、完全復活を成し遂げた。
ヒロイン、綾波レイは、しばしば“萌え”の原点として語られることがある。(萌えの語源は、セーラームーンの土萌蛍から)
だが、かつてのエヴァシリーズと、様相は異なる。
テレビシリーズでは執拗に描かれた、メランコリーが希薄になった。
男性性が欠落した碇シンジと、傷だらけの少女、綾波レイ。
今回の新劇場版においては、どちらも、キャラクターとして描かれているだけだ。
少年のメランコリーは、もはや中心的テーマではない。
追加作画されたシーンは、どれもトレス線がシャープだ。
古い作画と、どうしても較べて見てしまう。
人間のドラマは、どこまでも希薄で、淡々と描かれている。
具体的なアクションは、ほとんど起きない。
継ぎ接ぎのカットが並び、断片的なナレーションが流れるだけだ。
人間のドラマに、時間的な繋がりも、地理的な連続性もない。
心象風景が、わずかに流れるだけだ。
メカの描写が凄まじい。人間のドラマは希薄で、映画の中心がメカにあるとわかる。
技術が徹底されているが、どうしても子供っぽいものを感じる。
その一方で、過剰に描かれたのが、メカのギミックだ。
メカの描写は、どこまでも詳細で、一つ一つのアクションが執拗に描かれる。
音楽も、人間のドラマより、メカの魅力をいかに増幅させるか、という部分に力点が置かれている。
だからこの映画は、人間のドラマではなく、“ドラマチックなメカ”が中心のアニメと呼ぶべきだろう。
エヴァと周囲のスケールが、より詳細に描かれるようになった。
そうしたメカへの愛情、フェティシズムは強烈だ。
徹底した描写は、“アニメはディティールを描けない”という通念を軽々と飛躍する。
強大なメカが、モーター音をかき鳴らしながら次々と現れ、盛大に破壊されていく。
映画のほとんどが、メカと破壊の連続だか、それがとてつもなく楽しい。
映像に音楽の力が宿ると、メカにも魂が宿る。
作り手のフェティッシュが、凄まじいエネルギーとなって、躍動し始める。
その瞬間、映画はかつてない輝きを放ち始め、大きなドラマが動き出す。
あれから、すでに十年の歳月が流れた。
しかし、エヴァンゲリヲンは、いまだに古びない。
十年間、日本のアニメの進歩に、とどめを刺し続けた作品だ。
今でも最も強烈だし、いまだにアニメの業界内において、イコン的存在である。
アニメは、今もエヴァが見せたイマジナリィから逃れることも、越えることもできない。
作品データ
総監督 庵野秀明
監督 鶴巻和哉 摩砂雪 音楽 鷺巣詩郎
出演 緒方恵美 三石琴乃
山口由里子 林原めぐみ