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■2009/09/05 (Sat)
映画:外国映画■
女は小刻みに体を震わせていた。足音を立てて近付く。女は一瞬、身をこわばらす。
「吸うかい?」
「ええ。あなたも退屈なの?」
「パーティーじゃなくて、君が目当てさ」
女はタバコを口にくわえる。俺は、女のタバコに火を点ける。
「何を語っているの?」
女は緩く微笑んだ。照れをごまかす笑いだ。俺は女の心が揺れているのを感じた。
「君は、妙に冷静だ。逃げるのをやめて、現実に立ち向かおうと決心している。でも、一人では、行きたくない」
俺は女に静かに囁いた。女の息遣いと、同じリズムで。
「そう。一人で立ち向かうのは、嫌」
風が二人を誘う。女の体は柔らかく、暖かかった。女の香水が、俺の涙を誘った。
俺は言う。“安心しろ。どこかへ連れて行ってやる”と。
女はサイレンサーの鈍い音とともに、死んだ。俺の腕の中で。
『シン・シティ』は三本プラスの短編から成り立っている。それぞれの関連は弱く、通してみるとやや長い印象すらある。
あと一時間で、俺の勤務も終わりだ。30年間の警察勤務もようやく終わる。
女房が脂肪たっぷりのステーキ肉を、しぶしぶ買う姿が目に浮かんだ。
だが、まだ未解決事件が一つ残っていた。俺の最後の事件だった。
「よせ、ハーティガン。殺されちまうぞ」
相棒のボブが忠告した。ありがたい相棒だ。だが引退の時間が近いんだ。一人で行かせてもらうぜ。
引退の日が、とんだ相棒の解消劇になっちまった。
俺は犯人のいる倉庫へ向かった。扉をぶち破って、目についた男を銃で撃ち殺した。
しかし油断した。背後から肩を撃たれた。
撃ったのは、ロアーク・ジュニアだ。ロアーク・ジュニアは、少女を抱えて倉庫を飛び出していった。
俺は膝をついた。ただのかすり傷だ。立て、老いぼれ。
ロアーク・ジュニアは倉庫を出たところにいた。
「ロアーク。諦めろ。その子を離せ」
「お前には、手出しできない。俺の父親が誰かわかっているな? 俺は逮捕できねえんだ。銃を持つ手も上がらないくせに」
ロアーク・ジュニア。ロアーク上院議員の息子。警察も手出しできない男。
だがロアーク・ジュニアは怯えて震えていた。いい大人のくせに。大した男じゃない。
俺はロアーク・ジュニアに近付いて、銃を撃った。奴の武器を持つ右腕を、下の武器も撃った。
遠くでサイレンが聞こえてきた。さあロアーク、お前もおしまいだ。俺の事件もすべて片付いた。
しかし油断した。後ろから、誰かが俺を撃った。
「その辺にしておけ。次は殺すぞ」
相棒のボブだった。
とんだ、相棒解消劇になっちまったぜ。
一部のシーンはクエンティ・タランティーノが監督した。タランティーノ監督は、ロバート・ロドリゲス監督の友人であるし、ロドリゲスによれば「デジタル撮影の良さを知ってほしかった」だそうだ。
シン・シティ。
“罪の街”
その街は決して朝の光は射しこまない。
夜の闇が永遠に包み込み、邪な悪党達の戯れが無限に続く街。
いかれた人間だけが集る、いかれた人間のための街だ。
シン・シティにはまともなルールはない。街で一番になった悪党が、ルールを決めるのだ。
シン・シティにやってくる人間に、まともな経歴の人間はいない。
男はみんな殺し屋だし、女はみんな娼婦だ。
この街で生きていくには、超人的なパワーが必要だ。
全速力で走る車に何度轢かれても死なない体や、首を落とされても平気でにやりとするくらいの能力は必要だ。
ここでは、正気などという上等なものはない。
『シン・シティ』の映像は、フランク・ミラーの原作漫画に似せるために、手の込んだデジタル処理が加えられている。漫画特有のコントラストの使い方や、“決めポーズ”の作り方まで忠実に再現されている。
映画『シン・シティ』は独創的な映像感覚で描かれた作品だ。
背景は奥へ行くほど、古典的なマット画風になり、煙や雨は、わざとらしいくらいに強調されている。
黒と白のコントラストは、従来の照明が作り出す濃淡とは、まったく違う手法を実践している。
光があたっているのに関わらず黒く塗りつぶされたり、反対に極端なくらい白く描かれたりする。
血などの表現などは、特に真っ白に描かれて際立たせている。
すべてはデジタルの効果だが、どこかしら古い時代の映画を思わせる。
『シン・シティ』に現代的なリアリズムはない。
だからといって、どこか特定の時代の特徴だと指し示すこともできない。
『シン・シティ』は映画全体に異常な何かが起きそうな空気で張り詰めている。
実際に異常な事件が起きても、なにもかも、当たり前として受け止めている我々がいる。
デヴォン青木は西洋人が考える典型的な日本人女性像を体現する。いま米映画で、日本人の代名詞となり、日本のゲーム原作『デッド・オア・アライブ』でカスミ役で出演したのは記憶に新しい。だが正直なところ、納得がいかない。確かに西洋の画家が描く日本人は、デヴォン青木のようなルックスをしているが、日本人の視点や感性と著しく乖離している。いくら西洋で日本がブームになろうとしても、相容れない部分はあるのだ。
『シン・シティ』は、ハード・ボイルドの映画だ。
ハード・ボイルドはこの頃はすっかり毒抜きされて、ただの犯罪映画との区別が曖昧になってしまった。
本来のハード・ボイルドは、まともでない人間の、まともではない日常を描いた作品のことだ。
まともではないから、ハード・ボイルドの人間は孤独だし、常に危険な事件に巻き込まれる。
『シン・シティ』にはそんなハード・ボイルドの空気が一杯に満ちている。
『シン・シティ』の住人にまっとうな人間は一人としていない。男も女もどこか壊れていて、それでいて、異様にぎらぎらとしている。
久々に肌でひりひりと感じられる、ハード・ボイルド映画だ。
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作品データ
監督・脚本・音楽:ロバート・ロドリゲス
脚本・原作:フランク・ミラー 監督:クエンティン・タランティーノ
音楽:ジョン・デブニー グレーム・レヴェル
出演:ブルース・ウィリス ミッキー・ローク
〇〇〇クライヴ・オーウェン ジェシカ・アルバ
〇〇〇ベニチオ・デル・トロ イライジャ・ウッド
〇〇〇リタニー・マーフィ デヴォン青木
〇〇〇ジョシュ・ハートネット マイケル・マドセン
「吸うかい?」
「ええ。あなたも退屈なの?」
「パーティーじゃなくて、君が目当てさ」
女はタバコを口にくわえる。俺は、女のタバコに火を点ける。
「何を語っているの?」
女は緩く微笑んだ。照れをごまかす笑いだ。俺は女の心が揺れているのを感じた。
「君は、妙に冷静だ。逃げるのをやめて、現実に立ち向かおうと決心している。でも、一人では、行きたくない」
俺は女に静かに囁いた。女の息遣いと、同じリズムで。
「そう。一人で立ち向かうのは、嫌」
風が二人を誘う。女の体は柔らかく、暖かかった。女の香水が、俺の涙を誘った。
俺は言う。“安心しろ。どこかへ連れて行ってやる”と。
女はサイレンサーの鈍い音とともに、死んだ。俺の腕の中で。
『シン・シティ』は三本プラスの短編から成り立っている。それぞれの関連は弱く、通してみるとやや長い印象すらある。
あと一時間で、俺の勤務も終わりだ。30年間の警察勤務もようやく終わる。
女房が脂肪たっぷりのステーキ肉を、しぶしぶ買う姿が目に浮かんだ。
だが、まだ未解決事件が一つ残っていた。俺の最後の事件だった。
「よせ、ハーティガン。殺されちまうぞ」
相棒のボブが忠告した。ありがたい相棒だ。だが引退の時間が近いんだ。一人で行かせてもらうぜ。
引退の日が、とんだ相棒の解消劇になっちまった。
俺は犯人のいる倉庫へ向かった。扉をぶち破って、目についた男を銃で撃ち殺した。
しかし油断した。背後から肩を撃たれた。
撃ったのは、ロアーク・ジュニアだ。ロアーク・ジュニアは、少女を抱えて倉庫を飛び出していった。
俺は膝をついた。ただのかすり傷だ。立て、老いぼれ。
ロアーク・ジュニアは倉庫を出たところにいた。
「ロアーク。諦めろ。その子を離せ」
「お前には、手出しできない。俺の父親が誰かわかっているな? 俺は逮捕できねえんだ。銃を持つ手も上がらないくせに」
ロアーク・ジュニア。ロアーク上院議員の息子。警察も手出しできない男。
だがロアーク・ジュニアは怯えて震えていた。いい大人のくせに。大した男じゃない。
俺はロアーク・ジュニアに近付いて、銃を撃った。奴の武器を持つ右腕を、下の武器も撃った。
遠くでサイレンが聞こえてきた。さあロアーク、お前もおしまいだ。俺の事件もすべて片付いた。
しかし油断した。後ろから、誰かが俺を撃った。
「その辺にしておけ。次は殺すぞ」
相棒のボブだった。
とんだ、相棒解消劇になっちまったぜ。
一部のシーンはクエンティ・タランティーノが監督した。タランティーノ監督は、ロバート・ロドリゲス監督の友人であるし、ロドリゲスによれば「デジタル撮影の良さを知ってほしかった」だそうだ。
シン・シティ。
“罪の街”
その街は決して朝の光は射しこまない。
夜の闇が永遠に包み込み、邪な悪党達の戯れが無限に続く街。
いかれた人間だけが集る、いかれた人間のための街だ。
シン・シティにはまともなルールはない。街で一番になった悪党が、ルールを決めるのだ。
シン・シティにやってくる人間に、まともな経歴の人間はいない。
男はみんな殺し屋だし、女はみんな娼婦だ。
この街で生きていくには、超人的なパワーが必要だ。
全速力で走る車に何度轢かれても死なない体や、首を落とされても平気でにやりとするくらいの能力は必要だ。
ここでは、正気などという上等なものはない。
『シン・シティ』の映像は、フランク・ミラーの原作漫画に似せるために、手の込んだデジタル処理が加えられている。漫画特有のコントラストの使い方や、“決めポーズ”の作り方まで忠実に再現されている。
映画『シン・シティ』は独創的な映像感覚で描かれた作品だ。
背景は奥へ行くほど、古典的なマット画風になり、煙や雨は、わざとらしいくらいに強調されている。
黒と白のコントラストは、従来の照明が作り出す濃淡とは、まったく違う手法を実践している。
光があたっているのに関わらず黒く塗りつぶされたり、反対に極端なくらい白く描かれたりする。
血などの表現などは、特に真っ白に描かれて際立たせている。
すべてはデジタルの効果だが、どこかしら古い時代の映画を思わせる。
『シン・シティ』に現代的なリアリズムはない。
だからといって、どこか特定の時代の特徴だと指し示すこともできない。
『シン・シティ』は映画全体に異常な何かが起きそうな空気で張り詰めている。
実際に異常な事件が起きても、なにもかも、当たり前として受け止めている我々がいる。
デヴォン青木は西洋人が考える典型的な日本人女性像を体現する。いま米映画で、日本人の代名詞となり、日本のゲーム原作『デッド・オア・アライブ』でカスミ役で出演したのは記憶に新しい。だが正直なところ、納得がいかない。確かに西洋の画家が描く日本人は、デヴォン青木のようなルックスをしているが、日本人の視点や感性と著しく乖離している。いくら西洋で日本がブームになろうとしても、相容れない部分はあるのだ。
『シン・シティ』は、ハード・ボイルドの映画だ。
ハード・ボイルドはこの頃はすっかり毒抜きされて、ただの犯罪映画との区別が曖昧になってしまった。
本来のハード・ボイルドは、まともでない人間の、まともではない日常を描いた作品のことだ。
まともではないから、ハード・ボイルドの人間は孤独だし、常に危険な事件に巻き込まれる。
『シン・シティ』にはそんなハード・ボイルドの空気が一杯に満ちている。
『シン・シティ』の住人にまっとうな人間は一人としていない。男も女もどこか壊れていて、それでいて、異様にぎらぎらとしている。
久々に肌でひりひりと感じられる、ハード・ボイルド映画だ。
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作品データ
監督・脚本・音楽:ロバート・ロドリゲス
脚本・原作:フランク・ミラー 監督:クエンティン・タランティーノ
音楽:ジョン・デブニー グレーム・レヴェル
出演:ブルース・ウィリス ミッキー・ローク
〇〇〇クライヴ・オーウェン ジェシカ・アルバ
〇〇〇ベニチオ・デル・トロ イライジャ・ウッド
〇〇〇リタニー・マーフィ デヴォン青木
〇〇〇ジョシュ・ハートネット マイケル・マドセン
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