■ 最新記事
(08/15)
(08/14)
(08/13)
(08/12)
(08/11)
(08/10)
(08/09)
(08/08)
(08/07)
(08/06)
■ カテゴリー
お探し記事は【記事一覧 索引】が便利です。
■2009/08/22 (Sat)
劇場アニメ■
暗い夜の闇を、蛍の光が点々を瞬いていた。草むらを少し下ったところに田圃があった。まだ田植えが始まったばかりで、背の低い草がぽつぽつと生えているだけのように見えた。
「父ちゃん、竜って見たことある?」
「ああ、小っちぇころ、一度だけな。ひでぇ旱があったとき、長老達が雨を降らせるために呼んだ」
河童の親子が言葉を交わしていた。
夜は深く、虫の声も次第に遠くなりかけている。涼しげな空気が辺りを満たしていた。
そんな夜の闇に、提灯の明かりが浮かび上がった。河童の親子が振り返った。草ばかりのあぜ道を、侍と提灯を持った商人が寄り添って歩いていた。
「いやあ、よい心地に酔うた」
侍の頬が、ほのかに赤く染まっていた。提灯の明かりでも、酒に酔った侍の顔が僅かに確認できた。
「何を仰います。またいつでもお越しを……」
商人の男がしまりのない微笑を侍に向けた。
「そう度々とお金は作れぬ。帳面を書き換えるのは容易だが、どこから疑われるやもしれんからな。近頃は上も何かとうるさい。ばれない程度にやっているが、なにしろ俺たちがやっているのは、必要のない農地開拓だ。百姓の懐ではなく、俺たちの懐を肥やしている」
「まったくで」
商人の男がにやにやと笑った。侍もつられるように、喉の奥を鳴らすように笑った。
そんな商人たちの前に、河童の父親が姿を現した。
「晩でやす。ああ、たまがすつもりはねがったです。勘弁してくだせえ。お手間は取らせません。ちょっくら話を聞いてくだせえ。実はお役人様にお願いがございまして。私は竜神沼に住んでいる者でございます。聞くところによると、この度、竜神沼を開拓し、田圃にする話が進んでいるとか……。その話、どうか考え直してくれないでしょうか。あの沼を奪われては、私どもが生きていくことができねえです。なにとぞ、ご再考くだせえ」
河童の父親は、侍と商人を脅かさないように慎重に言葉を選んで頭を下げた。
「妖怪風情が調子に乗りおって。おい、河童。貴様、俺たちの話を聞いておったであろう」
「ええ。何の話か、わかんねえかったですが……」
「嘘を申せ! 開拓をやめねば聞いたことを代官に出も訴えるか!」
侍が刀を抜いた。はっとする間もなく、河童の父親の腕を切り落とした。
河童の子供は、驚いて逃げ出そうとした。だがその時、地震が襲いかかった。地面が引き裂け、河童の子供はその裂け目へと落ちていく……。
上原家の家族構成、玄関の眺めを見て、「おや?」と思った人は多いはず。『クレヨンしんちゃん』そのままだ。数年後の『クレヨンしんちゃん』といったところか。『クレヨンしんちゃん』での監督が長く、まだ引き摺っているところがあるのだろう。
それから数百年後。物語は現代の埼玉に移る。
上原康一少年は、河川敷で大きな石を発見する。その石の中に、半ミイラ化した河童が封印されていた。
水をかけると河童は蘇生し、クゥと鳴き始めた。体は衰弱してたが、食べ物を与えると次第に回復していった。
上原康一は河童にクゥと名付けて、秘密の共生生活を始める。
物語は黒目川流域を中心にしている。そのあたりは、比較的に穏やかで落ち着いた風景が見られる場所だが、映画で描かれるほど美しい場所ではない。都会人が抱きそうな幻想を描いている。ところで、この川は鯉が非常に多い。
物語の中心にあるのは、少年と河童の交流の物語だ。だが、物語は少年と河童だけに閉鎖せず、家族や現代社会を巻き込んでいく。
少年と河童の交流、それから家族との絆という暖かなテーマが大半だが、河童という闖入者によってその人間の社会性がどのように変質していくかを描いた作品である。
河童という秘密を抱えた少年は、少年のコミュニティから遠ざかっていき、河童との関係を深めていく家族に対して、妹の瞳は河童への不満から秘密を暴き出そうとする。
物語はやがて、家族スケール、地方都市スケールの物語から、日本そのものを取り巻く巨大メディアを中心にした大騒動へと発展していく。
河童という異端者が人間の本質的な光と闇を暴き出し、人間が持つ野獣性をむき出しにさせていく。それは社会性やモラルといった言葉に隠蔽された、日本人が普遍的に持っている、ひたすら環境に振り回されだけの盲目的で付和雷同的な性格そのものである。
子供社会は『ドラえもん』などと較べるとはっきりと違いがわかる。消費できるのが当然だと考える現代の子供の傲慢さを描いている。子供は人間関係すら消費としか考えず、快楽が引き出せない相手を仲間外れする。動物じみた今時の子供を描写している。
クゥとは現代に残された自然の象徴そのものだ。失われつつある自然の体現者として、現代人の前に現れた使者であるといえる。
だが日本人は、そんな最後の資源すら、お祭り騒ぎの具にして消費してしまう。
日本人にとって、あらゆる自然は消費する対象としか見ていない。ただひたすら消費し、自分の周辺から自然が失われていくことに対して、無関心と無自覚を決め込んでいる。
問題はテレビの向こう側に押し込んで、昼も夜もない狂騒に踊り狂う。
日本人は最後のときまで、ただただ群がってお祭り騒ぎを続けるのだろう。
もともとは2時間50分の長尺の映画だった。アニメには編集以上に絵コンテを重視する考え方があり、編集で切り貼りされるのは例は非常に珍しい。
『河童のクゥと夏休み』は映画としては極めて段取りが悪く、歯切れもよくない。
映像の感性は凡庸で、前衛的なエネルギーも、繊細さも感じない。物語の展開は進んだり停滞を繰り返して、連続性は弱く、見る者を引き込む力は弱い。後半の展開も、順序立てが充分ではなく強引に押し込んだ感じで、自然な流れとは言いがたい。
だが中盤にかけて、印象的な場面が多くなってくる。遠野に旅立ち、クゥと少年が交流を深めていく過程はなかなか見るべきものがある。
クゥと接した少年がどのように変化し、成長していくか、その過程を追った物語だ。それから、少年が失った絆を取り戻す過程を描いた作品だ。
夏になると、再び見る機会が巡ってくるかもしれない映画だ。
監督:原恵一 原作:木暮正夫
キャラクターデザイン:末吉裕一郎 美術監督:中村隆
色彩設計:野中幸子 撮影監督:箭内光一 編集:小島俊彦
デジタル監督:つつみのりゆき 音楽:若草恵 音響監督:大熊昭
アニメーション制作:シンエイ動画
出演:冨澤風斗 横川貴大 田中直樹 西田尚美
松元環季 安原義人 なぎら健壱 植松夏希
羽佐間道夫 藤本譲 富田耕生 一城みゆ希
岩田安生 稲葉実 定岡小百合 井上里花
藤原啓治 矢島晶子 優希比呂 子安武人
「父ちゃん、竜って見たことある?」
「ああ、小っちぇころ、一度だけな。ひでぇ旱があったとき、長老達が雨を降らせるために呼んだ」
河童の親子が言葉を交わしていた。
夜は深く、虫の声も次第に遠くなりかけている。涼しげな空気が辺りを満たしていた。
そんな夜の闇に、提灯の明かりが浮かび上がった。河童の親子が振り返った。草ばかりのあぜ道を、侍と提灯を持った商人が寄り添って歩いていた。
「いやあ、よい心地に酔うた」
侍の頬が、ほのかに赤く染まっていた。提灯の明かりでも、酒に酔った侍の顔が僅かに確認できた。
「何を仰います。またいつでもお越しを……」
商人の男がしまりのない微笑を侍に向けた。
「そう度々とお金は作れぬ。帳面を書き換えるのは容易だが、どこから疑われるやもしれんからな。近頃は上も何かとうるさい。ばれない程度にやっているが、なにしろ俺たちがやっているのは、必要のない農地開拓だ。百姓の懐ではなく、俺たちの懐を肥やしている」
「まったくで」
商人の男がにやにやと笑った。侍もつられるように、喉の奥を鳴らすように笑った。
そんな商人たちの前に、河童の父親が姿を現した。
「晩でやす。ああ、たまがすつもりはねがったです。勘弁してくだせえ。お手間は取らせません。ちょっくら話を聞いてくだせえ。実はお役人様にお願いがございまして。私は竜神沼に住んでいる者でございます。聞くところによると、この度、竜神沼を開拓し、田圃にする話が進んでいるとか……。その話、どうか考え直してくれないでしょうか。あの沼を奪われては、私どもが生きていくことができねえです。なにとぞ、ご再考くだせえ」
河童の父親は、侍と商人を脅かさないように慎重に言葉を選んで頭を下げた。
「妖怪風情が調子に乗りおって。おい、河童。貴様、俺たちの話を聞いておったであろう」
「ええ。何の話か、わかんねえかったですが……」
「嘘を申せ! 開拓をやめねば聞いたことを代官に出も訴えるか!」
侍が刀を抜いた。はっとする間もなく、河童の父親の腕を切り落とした。
河童の子供は、驚いて逃げ出そうとした。だがその時、地震が襲いかかった。地面が引き裂け、河童の子供はその裂け目へと落ちていく……。
上原家の家族構成、玄関の眺めを見て、「おや?」と思った人は多いはず。『クレヨンしんちゃん』そのままだ。数年後の『クレヨンしんちゃん』といったところか。『クレヨンしんちゃん』での監督が長く、まだ引き摺っているところがあるのだろう。
それから数百年後。物語は現代の埼玉に移る。
上原康一少年は、河川敷で大きな石を発見する。その石の中に、半ミイラ化した河童が封印されていた。
水をかけると河童は蘇生し、クゥと鳴き始めた。体は衰弱してたが、食べ物を与えると次第に回復していった。
上原康一は河童にクゥと名付けて、秘密の共生生活を始める。
物語は黒目川流域を中心にしている。そのあたりは、比較的に穏やかで落ち着いた風景が見られる場所だが、映画で描かれるほど美しい場所ではない。都会人が抱きそうな幻想を描いている。ところで、この川は鯉が非常に多い。
物語の中心にあるのは、少年と河童の交流の物語だ。だが、物語は少年と河童だけに閉鎖せず、家族や現代社会を巻き込んでいく。
少年と河童の交流、それから家族との絆という暖かなテーマが大半だが、河童という闖入者によってその人間の社会性がどのように変質していくかを描いた作品である。
河童という秘密を抱えた少年は、少年のコミュニティから遠ざかっていき、河童との関係を深めていく家族に対して、妹の瞳は河童への不満から秘密を暴き出そうとする。
物語はやがて、家族スケール、地方都市スケールの物語から、日本そのものを取り巻く巨大メディアを中心にした大騒動へと発展していく。
河童という異端者が人間の本質的な光と闇を暴き出し、人間が持つ野獣性をむき出しにさせていく。それは社会性やモラルといった言葉に隠蔽された、日本人が普遍的に持っている、ひたすら環境に振り回されだけの盲目的で付和雷同的な性格そのものである。
子供社会は『ドラえもん』などと較べるとはっきりと違いがわかる。消費できるのが当然だと考える現代の子供の傲慢さを描いている。子供は人間関係すら消費としか考えず、快楽が引き出せない相手を仲間外れする。動物じみた今時の子供を描写している。
クゥとは現代に残された自然の象徴そのものだ。失われつつある自然の体現者として、現代人の前に現れた使者であるといえる。
だが日本人は、そんな最後の資源すら、お祭り騒ぎの具にして消費してしまう。
日本人にとって、あらゆる自然は消費する対象としか見ていない。ただひたすら消費し、自分の周辺から自然が失われていくことに対して、無関心と無自覚を決め込んでいる。
問題はテレビの向こう側に押し込んで、昼も夜もない狂騒に踊り狂う。
日本人は最後のときまで、ただただ群がってお祭り騒ぎを続けるのだろう。
もともとは2時間50分の長尺の映画だった。アニメには編集以上に絵コンテを重視する考え方があり、編集で切り貼りされるのは例は非常に珍しい。
『河童のクゥと夏休み』は映画としては極めて段取りが悪く、歯切れもよくない。
映像の感性は凡庸で、前衛的なエネルギーも、繊細さも感じない。物語の展開は進んだり停滞を繰り返して、連続性は弱く、見る者を引き込む力は弱い。後半の展開も、順序立てが充分ではなく強引に押し込んだ感じで、自然な流れとは言いがたい。
だが中盤にかけて、印象的な場面が多くなってくる。遠野に旅立ち、クゥと少年が交流を深めていく過程はなかなか見るべきものがある。
クゥと接した少年がどのように変化し、成長していくか、その過程を追った物語だ。それから、少年が失った絆を取り戻す過程を描いた作品だ。
夏になると、再び見る機会が巡ってくるかもしれない映画だ。
監督:原恵一 原作:木暮正夫
キャラクターデザイン:末吉裕一郎 美術監督:中村隆
色彩設計:野中幸子 撮影監督:箭内光一 編集:小島俊彦
デジタル監督:つつみのりゆき 音楽:若草恵 音響監督:大熊昭
アニメーション制作:シンエイ動画
出演:冨澤風斗 横川貴大 田中直樹 西田尚美
松元環季 安原義人 なぎら健壱 植松夏希
羽佐間道夫 藤本譲 富田耕生 一城みゆ希
岩田安生 稲葉実 定岡小百合 井上里花
藤原啓治 矢島晶子 優希比呂 子安武人