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■2016/01/15 (Fri)
創作小説■
第5章 Art Crime
前回を読む
25
宮川は何事もなかったように、平静に戻って、ソファにふんぞり返った。「よそう。お互い教養ある人間だ。理性的に話し合おうじゃないか。燃やしたものには、何が書いてあった?」
宮川は本当に元の調子に戻っていた。この男にとって、キレたり殴ったりは、あまりにも日常的なのだ。
「1号の絵が1枚。それだけでした」
涙をぐしぐしと拭う。声がさっきよりも弱く、震えてしまっていた。
左の顔面が、じわじわと痛みを訴え始めた。まだ頬にくっきりと拳の感触が残っていて、顎の形が変形したのかと思った。
しかし、嗚咽だけは無理をしてでも喉の奥に引っ込めた。今ここで泣き崩れたら、一生立ち直れないくらいプライドがずたずたになる、と思った。
「どんな絵だ。ノートは持っているだろう。描いてみろ」
宮川はちょっと身を乗り出し、じれったそうに命令口調になった。
ツグミはちょっと躊躇して、宮川と大男を見た。嫌だ、と思った。でも、声に出して言えなかった。ツグミが拒否できる立場ではないのだ。
ツグミはリュックを開けた。中には教科書とノートが少しと、筆記用具が入れてあった。ほとんどは学校に置きっぱなしだ。
物理のノートを引っ張り出し、リュックを下敷きにして、いちばん後ろのページを開いた。物理はほとんどノートを取らないから、一番後ろは、新品みたいに真っ白だった。
ツグミはいまだに止まらない涙を拭って、ボールペンを握った。描く前に、思い出そうと目を閉じた。そうしながら、「川村さん、ごめんなさい」と謝った。川村はこのために、回りくどい方法で貸金庫に絵を隠したのだ。それを、何もかも台無しにしてしまった。
ツグミは目を開けた。罫線が引かれただけのノートに、ボールペンを走らせた。物凄い速度で、紙の上に形が現れた。
すぐに絵は完成した。ツグミはページを破り、宮川に差し出した。
「……何だ、これは?」
宮川は、それまでの調子を変えて、呆れたような顔をした。
「絵です。あと、これに雨が降ってしました」
ツグミは自分の絵に補足した。
しかし、何一つ伝わった様子はなかった。無理もない。あまりにも下手だった。
ノートには船らしきものと、どこかの港らしき風景が描かれている。それが、ぐちゃぐちゃに混乱した線の中で、偶然たまたま、船らしき形になった、という代物だった。
ちょっと注意して見ないと、何が描いてあるのか見当もつかない、一言で酷い絵だった。毎日ずっと絵と向き合って生活している人間の手によるものとは思えないくらい、予想を上回る稚拙さだった。
宮川は諦めが付いた、という感じに溜め息を吐いた。
少しでも絵に理解のある人間が見れば、冗談で描いたものではないくらいすぐわかる。技術のある人間が下手な振りをして描いても、どこかに感性の高さや技術の断片が残ってしまうものなのだ。
そういう観点からいうと、ツグミに絵の才能は、一片もなかった。それこそ、宮川の気分を完全に削ぐに足りるくらいの、技術の低さだった。
それに、絵が何を示しているのか、全く意味不明だった。
「もういい。家まで送ってやれ」
宮川は首を捻って、運転席の男に指示をした。運転手は野太い声で「はい」と答えた。
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目次
※ 物語中に登場する美術家、美術作品、美術用語はすべて空想のものです。
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