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■2010/01/03 (Sun)
映画:外国映画■
ゲームソフトを題材にした映画もシリーズ3作目だ。
バイオハザードの脅威が世界中に広がり、地上はゾンビたちの支配する地獄に変わっていた。地上から文明の光は消え、人間による自治は失われ、渾沌とした砂漠と荒野ばかりが無限に広がっていた。
生き残った人たちは少数で固まり、サバイバルの生活を続けていた。
そんな僅かに残った人間の包囲網も、次第にゾンビの脅威によって狭められていく……。
妙に愛嬌のあるゾンビたち。恐怖感は皆無だし、現代人はすでにゾンビくらいでは驚きもしないし恐怖も感じない。
『バイオハザード』はゾンビを題材にした映画だが、おそらく作り手はホラーを指向していないのだろう。
おぞましく体が崩れ、不気味な唸り声を上げるゾンビたち……。だがそこに恐怖は一片もない。むしろ不思議な愛着のようなものを感じる。
おそらく制作者は、ゾンビを恐怖の対象ではなく、もっと純粋なキャラクターとして描いたのだろう。
だからなのか、映画中には次から次へとオリジナル・ゾンビが登場する。犬ゾンビにカラスゾンビ。前作である『バイオハザード2』では、ゾンビというよりむしろ怪獣と呼ぶべきキャラクターも登場した。
『バイオハザード3』にしてようやく気付いたのだが、このシリーズはゾンビとの戯れを描いた作品と見るべきかも知れない。おぞましい恐怖表現より、子供じみた無邪気さこそが映画の主題なのかも知れない。
サックリ感のある映画。むしろ『鬼武者』的な感覚がある。後半は超能力を身につけ、ジャンプ漫画っぽいスーパーバトル展開が描かれる。
“ゲームの映画化”の歴史は意外と古い。しかし“ゲームの映画化”の成功例は非常に少ない。ほとんどの作品はあまりにも奇妙で、無理矢理にオリジナル・ゲームの要素を突っ込んだだけであって、とても鑑賞に堪えられるものではなかった。
ゲームの映画化は一般の観客だけではなく、ゲーム・ファンにすら嫌われるいちジャンルである。
その状況が変わりはじめたのは、ゲーム自体が本質を変え始めたことにあるのだろう。映像や音楽の表現がより高度に、一般的に接している絵画や映像、音楽に接近した。そうするとゲームは、ゲームらしい古典的な『構造としてのゲーム』から『シチュエーションとしてのゲーム』として姿を変えた。
――あなたは理由もわからないまま荒れ果てた廃墟で目を覚ます。扉を開けると、廊下には恐ろしいゾンビが……。あなたはそこにある物でゾンビの脅威を排除し、廃墟から脱出しなければならない。
『構造としてのゲーム』というのはルール作りがあり、そのルールを遵守しつついかに鮮やかなプレイを見せられるか。現代のゲームはそうではない。まず『シチュエーション』が設定され、そのなかでプレイヤーが何をするか――場所だけが与えられているのだ。
ゲームと映画、映像的な差異は失われつつあるが、本質的な差異は決して埋らない。ゲームはゲームだし、映画は映画。ジャンルの違いをどのように飛び越え、違うメディアでどう再現するか。
現代のゲームはかつてのものとすっかり様変わりしてしまった。企画においても、ゲーム・ルールよりもまず『シチュエーション』が提示され、それに従って構想される。
どんな状況で、どんなふううに敵が飛び出し、プレイヤーはどこへ向っていくのか。
『シチュエーション』こそが現代ゲームの本質である。
そのシチューションの構造には、観察主義に基づく映像が必須である。当然、映像として表現するのだから、映画的な技法や表現にも接近する。そうすると、ハリウッド映画の本質に近付きはじめる。
ハリウッド映画の多くは理屈がない。まずシチュエーションがあり、そのシチュエーションを説明するだけの少々の「理屈」だけがある。
だからゲームの映画化は、かつてより製作しやすくなっているはずなのである。
『ポケモン』はアニメ化の際、アニメ制作者全員が『ポケモン』をプレイするのが必須条件だった。当り前に思える話だが、当時、これが報道されるほど画期的だった。それくらい、映像作家はゲームの映像化に対し、真剣に接してこなかったわけである。
映画『バイオハザード』はそうした変化を象徴する作品だ。かつての“ゲームの映画化”は作家の独創で、あまりにも別物に書き換えられてしまったし、そうして描かれたものは大抵、見る者をがっかりさせる代物だった。そもそも作家がゲームに興味がなく、1秒もプレイせず偏見とやっつけ仕事で制作されてしまう場合すらあった。
だが現代の“ゲームの映画化”は、ゲームで描かれた映像や演出からほとんど改編を加える必要がない。むしろゲームのイメージを増幅させてくれる。
しかし一方で、ジレンマもある。
ゲームはどんなに映画を指向しても映画にはなれないし、映画はどんなにゲームのシチュエーションを再現してもゲームにはなれない。
この対立をいかに解消するか。
“ゲームの映画化”という課題は、まだ全て達成させられていない。
映画記事一覧
作品データ
監督:ラッセル・マルケイ
音楽:チャーリー・クロウザー 脚本:ポール・W・S・アンダーソン
出演:ミラ・ジョヴォヴィッチ オデッド・フェール
〇 アリ・ラーター イアン・グレン
〇 アシャンティ クリストファー・イーガン
バイオハザードの脅威が世界中に広がり、地上はゾンビたちの支配する地獄に変わっていた。地上から文明の光は消え、人間による自治は失われ、渾沌とした砂漠と荒野ばかりが無限に広がっていた。
生き残った人たちは少数で固まり、サバイバルの生活を続けていた。
そんな僅かに残った人間の包囲網も、次第にゾンビの脅威によって狭められていく……。
妙に愛嬌のあるゾンビたち。恐怖感は皆無だし、現代人はすでにゾンビくらいでは驚きもしないし恐怖も感じない。
『バイオハザード』はゾンビを題材にした映画だが、おそらく作り手はホラーを指向していないのだろう。
おぞましく体が崩れ、不気味な唸り声を上げるゾンビたち……。だがそこに恐怖は一片もない。むしろ不思議な愛着のようなものを感じる。
おそらく制作者は、ゾンビを恐怖の対象ではなく、もっと純粋なキャラクターとして描いたのだろう。
だからなのか、映画中には次から次へとオリジナル・ゾンビが登場する。犬ゾンビにカラスゾンビ。前作である『バイオハザード2』では、ゾンビというよりむしろ怪獣と呼ぶべきキャラクターも登場した。
『バイオハザード3』にしてようやく気付いたのだが、このシリーズはゾンビとの戯れを描いた作品と見るべきかも知れない。おぞましい恐怖表現より、子供じみた無邪気さこそが映画の主題なのかも知れない。
サックリ感のある映画。むしろ『鬼武者』的な感覚がある。後半は超能力を身につけ、ジャンプ漫画っぽいスーパーバトル展開が描かれる。
“ゲームの映画化”の歴史は意外と古い。しかし“ゲームの映画化”の成功例は非常に少ない。ほとんどの作品はあまりにも奇妙で、無理矢理にオリジナル・ゲームの要素を突っ込んだだけであって、とても鑑賞に堪えられるものではなかった。
ゲームの映画化は一般の観客だけではなく、ゲーム・ファンにすら嫌われるいちジャンルである。
その状況が変わりはじめたのは、ゲーム自体が本質を変え始めたことにあるのだろう。映像や音楽の表現がより高度に、一般的に接している絵画や映像、音楽に接近した。そうするとゲームは、ゲームらしい古典的な『構造としてのゲーム』から『シチュエーションとしてのゲーム』として姿を変えた。
――あなたは理由もわからないまま荒れ果てた廃墟で目を覚ます。扉を開けると、廊下には恐ろしいゾンビが……。あなたはそこにある物でゾンビの脅威を排除し、廃墟から脱出しなければならない。
『構造としてのゲーム』というのはルール作りがあり、そのルールを遵守しつついかに鮮やかなプレイを見せられるか。現代のゲームはそうではない。まず『シチュエーション』が設定され、そのなかでプレイヤーが何をするか――場所だけが与えられているのだ。
ゲームと映画、映像的な差異は失われつつあるが、本質的な差異は決して埋らない。ゲームはゲームだし、映画は映画。ジャンルの違いをどのように飛び越え、違うメディアでどう再現するか。
現代のゲームはかつてのものとすっかり様変わりしてしまった。企画においても、ゲーム・ルールよりもまず『シチュエーション』が提示され、それに従って構想される。
どんな状況で、どんなふううに敵が飛び出し、プレイヤーはどこへ向っていくのか。
『シチュエーション』こそが現代ゲームの本質である。
そのシチューションの構造には、観察主義に基づく映像が必須である。当然、映像として表現するのだから、映画的な技法や表現にも接近する。そうすると、ハリウッド映画の本質に近付きはじめる。
ハリウッド映画の多くは理屈がない。まずシチュエーションがあり、そのシチュエーションを説明するだけの少々の「理屈」だけがある。
だからゲームの映画化は、かつてより製作しやすくなっているはずなのである。
『ポケモン』はアニメ化の際、アニメ制作者全員が『ポケモン』をプレイするのが必須条件だった。当り前に思える話だが、当時、これが報道されるほど画期的だった。それくらい、映像作家はゲームの映像化に対し、真剣に接してこなかったわけである。
映画『バイオハザード』はそうした変化を象徴する作品だ。かつての“ゲームの映画化”は作家の独創で、あまりにも別物に書き換えられてしまったし、そうして描かれたものは大抵、見る者をがっかりさせる代物だった。そもそも作家がゲームに興味がなく、1秒もプレイせず偏見とやっつけ仕事で制作されてしまう場合すらあった。
だが現代の“ゲームの映画化”は、ゲームで描かれた映像や演出からほとんど改編を加える必要がない。むしろゲームのイメージを増幅させてくれる。
しかし一方で、ジレンマもある。
ゲームはどんなに映画を指向しても映画にはなれないし、映画はどんなにゲームのシチュエーションを再現してもゲームにはなれない。
この対立をいかに解消するか。
“ゲームの映画化”という課題は、まだ全て達成させられていない。
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作品データ
監督:ラッセル・マルケイ
音楽:チャーリー・クロウザー 脚本:ポール・W・S・アンダーソン
出演:ミラ・ジョヴォヴィッチ オデッド・フェール
〇 アリ・ラーター イアン・グレン
〇 アシャンティ クリストファー・イーガン