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■2009/09/12 (Sat)
映画:外国映画■
ゴールデンゲート・ブリッジは歴史が深く、美しい場所だ。
深い霧が出ると、橋全体が雲の中に浮かんでいるように見えて神秘的だ。
しかしこの橋には、もう一つの顔があった。
この橋で1250人が自殺しているのだ。
このドキュメンタリーは、自殺者の周辺にいる人達の証言で語られていく。家族や友人、恋人、職場の同僚といった人たちだ。自殺者がその直前までどんな心理だったか、どんな状態だったのか。当事者のほとんどが飛び降りてしまっているので、周囲の人達から客観的に語られていく。
映画は淡々と、死の瞬間を捉えていく。
その風景は、遠くから見るとひどく穏やかなものに見えてしまう。
写真を撮る観光客や、水上にはヨットで興じる人達がいる。
自殺の瞬間はまるで、日常の一コマのようですらある。
もし当事者自身がいてもうまく解説できないのが自殺の衝動だ。欝状態から脱すると、どうして自分が欝状態だったのか、かつての自分がまるで他人のようにすら感じてしまう。だから自殺する瞬間の心理は謎が多く、憶測で語られてしまう。結局は通俗的なお説教に回答を求めてしまう。
この映画に犯人はいない。彼らがなぜ自殺したのか?
実際の当事者は、ほとんどはこの世にいない。当事者は秘密を抱えたまま、橋から飛び降りてしまう。
彼らがどんな想いだったのか、それを知るチャンスははじめからない。
ただ残された人の言葉だけが重ねられていく。
“彼はこんな気持ちだったんじゃないか”と。
あるいは“あのときに別の判断をしていれば”と。
このドキュメンタリーがセンセーショナルな話題を得たのは、自殺を語ったことだけではない。「飛び降りる瞬間」を映像で捉えたからだ。カメラは、まるで待っていたかのように、探していたかのように、今まさに飛び降りようとする人の姿を捉える。助けにも行かない。なぜカメラマンは、あの瞬間に助けに行かなかったのか。ドキュメンタリーの制作のためか。「他人の死を見過ごした」だから問題になったのだ。
反社会的な行動をする人の心理は、平常な人間には理解できない。
殺人と自殺。
平常な人は、動揺するか怒るくらいしかできない。
彼らがなぜあそこで身を投げたのか。なぜあの時間、あの場所で身を投げなければならないと思ったのか。
遺族に同情できる人はいても、当事者の心理を理解できる人はいない。
前提できない事件に直面すると、人は激しく動揺する。
だから理解しやすい答を求める。
簡単な理由や、有名タレントのお説教、聖書のお告げ、あるいはわかりやすい悪者を作り出す。
どれも子供向け映画に出てくるファクターだ。だから安心できる。深く考えなくていいし、「答えが与えられた」という幻想を得られるからだ。
しかし現実の事件は、いくら謎解きしても犯人は出てこない。死んだ当事者自身が犯人であるから、謎解きをするチャンスすら失ってしまっている。
ただ、無常な気持ちを残すだけだ。
人同士の結びつきは決して深くはならない。ある種の幻想を、互いの心理の中に勝手に抱くだけだ。
側にいる人が「明日、自殺しよう」と考えているなんて、なかなか想像できない。予兆を感じていたとしても止められないだろう。
ブリッジから飛び降りる自殺は、ほとんどは白昼だ。
側には通行人も、カメラで撮っている観光客もいる。
しかし誰ひとり、声をかける者も、飛び降りる瞬間に気付く者もいない。
目に映っていても意識されない。目の前で起きた現実すら直面できないのだ。
自分自身が許せない人間と、世界が許せない人間がいる。
生き続ける日々に、意味を見出せない人がいる。
毎日が我慢大会にしか感じられず、その我慢大会に終わりを見出せない。
生き続けていくのはただ苦痛だ。幻想を抱いて勘違いし続けるほどの間抜けではない。自殺者は現実をまっすぐ、そこに佇む苦痛の連続だけを見出している。
誰からも愛されていない。世界から孤立している。
絶望しか、感じられない。
彼らにとって、死は何を意味するのか。
一時的な気の迷いなのか、逃避なのか、イニシエーションなのか。
彼らは病的な錯乱状態であるが、冷静でもある。
自分の死に対して、慎重に審査し、準備もしている。
だから、病的な状態である一方、死そのものが目的でもあるのだ。
ゴールデンゲート・ブリッジは、何一つ騒ぎ立てず、堂々たる佇まいを見せている。
何が、あの橋に人を引き寄せているのだろう。
そこがあまりにも美しく、幻想的だからだろうか。
答えは、何もない。
映画記事一覧
作品データ
監督:エリック・スティール
深い霧が出ると、橋全体が雲の中に浮かんでいるように見えて神秘的だ。
しかしこの橋には、もう一つの顔があった。
この橋で1250人が自殺しているのだ。
このドキュメンタリーは、自殺者の周辺にいる人達の証言で語られていく。家族や友人、恋人、職場の同僚といった人たちだ。自殺者がその直前までどんな心理だったか、どんな状態だったのか。当事者のほとんどが飛び降りてしまっているので、周囲の人達から客観的に語られていく。
映画は淡々と、死の瞬間を捉えていく。
その風景は、遠くから見るとひどく穏やかなものに見えてしまう。
写真を撮る観光客や、水上にはヨットで興じる人達がいる。
自殺の瞬間はまるで、日常の一コマのようですらある。
もし当事者自身がいてもうまく解説できないのが自殺の衝動だ。欝状態から脱すると、どうして自分が欝状態だったのか、かつての自分がまるで他人のようにすら感じてしまう。だから自殺する瞬間の心理は謎が多く、憶測で語られてしまう。結局は通俗的なお説教に回答を求めてしまう。
この映画に犯人はいない。彼らがなぜ自殺したのか?
実際の当事者は、ほとんどはこの世にいない。当事者は秘密を抱えたまま、橋から飛び降りてしまう。
彼らがどんな想いだったのか、それを知るチャンスははじめからない。
ただ残された人の言葉だけが重ねられていく。
“彼はこんな気持ちだったんじゃないか”と。
あるいは“あのときに別の判断をしていれば”と。
このドキュメンタリーがセンセーショナルな話題を得たのは、自殺を語ったことだけではない。「飛び降りる瞬間」を映像で捉えたからだ。カメラは、まるで待っていたかのように、探していたかのように、今まさに飛び降りようとする人の姿を捉える。助けにも行かない。なぜカメラマンは、あの瞬間に助けに行かなかったのか。ドキュメンタリーの制作のためか。「他人の死を見過ごした」だから問題になったのだ。
反社会的な行動をする人の心理は、平常な人間には理解できない。
殺人と自殺。
平常な人は、動揺するか怒るくらいしかできない。
彼らがなぜあそこで身を投げたのか。なぜあの時間、あの場所で身を投げなければならないと思ったのか。
遺族に同情できる人はいても、当事者の心理を理解できる人はいない。
前提できない事件に直面すると、人は激しく動揺する。
だから理解しやすい答を求める。
簡単な理由や、有名タレントのお説教、聖書のお告げ、あるいはわかりやすい悪者を作り出す。
どれも子供向け映画に出てくるファクターだ。だから安心できる。深く考えなくていいし、「答えが与えられた」という幻想を得られるからだ。
しかし現実の事件は、いくら謎解きしても犯人は出てこない。死んだ当事者自身が犯人であるから、謎解きをするチャンスすら失ってしまっている。
ただ、無常な気持ちを残すだけだ。
人同士の結びつきは決して深くはならない。ある種の幻想を、互いの心理の中に勝手に抱くだけだ。
側にいる人が「明日、自殺しよう」と考えているなんて、なかなか想像できない。予兆を感じていたとしても止められないだろう。
ブリッジから飛び降りる自殺は、ほとんどは白昼だ。
側には通行人も、カメラで撮っている観光客もいる。
しかし誰ひとり、声をかける者も、飛び降りる瞬間に気付く者もいない。
目に映っていても意識されない。目の前で起きた現実すら直面できないのだ。
自分自身が許せない人間と、世界が許せない人間がいる。
生き続ける日々に、意味を見出せない人がいる。
毎日が我慢大会にしか感じられず、その我慢大会に終わりを見出せない。
生き続けていくのはただ苦痛だ。幻想を抱いて勘違いし続けるほどの間抜けではない。自殺者は現実をまっすぐ、そこに佇む苦痛の連続だけを見出している。
誰からも愛されていない。世界から孤立している。
絶望しか、感じられない。
彼らにとって、死は何を意味するのか。
一時的な気の迷いなのか、逃避なのか、イニシエーションなのか。
彼らは病的な錯乱状態であるが、冷静でもある。
自分の死に対して、慎重に審査し、準備もしている。
だから、病的な状態である一方、死そのものが目的でもあるのだ。
ゴールデンゲート・ブリッジは、何一つ騒ぎ立てず、堂々たる佇まいを見せている。
何が、あの橋に人を引き寄せているのだろう。
そこがあまりにも美しく、幻想的だからだろうか。
答えは、何もない。
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作品データ
監督:エリック・スティール
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