■ 最新記事
(08/15)
(08/14)
(08/13)
(08/12)
(08/11)
(08/10)
(08/09)
(08/08)
(08/07)
(08/06)
■ カテゴリー
お探し記事は【記事一覧 索引】が便利です。
■2009/09/10 (Thu)
映画:日本映画■
タイを中心に、謎のウィルスが発生。ウィルスに感染すると、全身から血を噴き出し死亡してしまう。
そのウィルスは自然的なものではなく、人間の手によって作られたものだった。事件の背景にあるのは、人類の増加を抑制しようとする、過激派の自然保護団体ブルーシップの陰謀だった。ブルーシップは新種のウィルスを武器に、世界の破滅を目論んでいた。
物語のキーを握るのは、二人の少年と少女。Lに保護され、ともに活動する。しかし物語を俯瞰してみると、あまり物語の構造に介入してこない。「設定だけで役に立っていない」キャラクターになっているのが残念だ。
タイに潜入捜査していたFは、少年を連れ、村から脱出。
少年はウィルスが蔓延する村にいながら、唯一感染しなかったのだ。しかし、ブルーシップの刺客がFを葬ろうと追跡する。
死を覚悟したFは、少年をワタリに託し、死亡する。
ライトとの戦いを終えたL。死までの23日間を、捜査資料の整理に当てようとする。
一方日本では、エルはライトと最後の決着を終らせるところだった。
エルはデスノートに書かれていたルールを利用し、ライトの犯罪を暴きだす。戦いはエルの勝利であったが、結果としてエルは23日後の死亡が確定してしまった。
エルの死亡まであと23日間。そんな最中に、タイの少年が、ワタリを頼って訪ねてくる……。
本当の天才は常に社会に影響を与えるもの。天才に急速は与えられず、次なる挑戦が突きつけられる。Lの前に現れたのは、同じ孤児院を卒業した“天才”。Lの相手に不足はない。
人気原作をヒントに制作された、オリジナル・ストーリー作品である。
手抜き映画にしか見えなかった前作『デスノート』より、確実に物語の規模はスケールアップして、いくらか落ち着いて観賞できる作品となっている。
跳躍したストーリー・アイデアは相変わらずだし、それが密度の高いディティールの中で描かれ、より『デスノート』らしい風格が現れている。
話題映画であるが、大金が注ぎ込まれた大作映画ではない。むしろ予算的には低予算映画くらいだろう。冒頭の奇病が発生するタイのシーンは致命的な安っぽさだ。冒頭シーンは観客を引きこむシーンなのに、スタート地点からやや苦しい。
今回のLの敵は、同じくワタリの教え子であるKのコードネームを持つ女だ。Lと同様の天才的頭脳を持ちながら、人類に失望し、世界滅亡の計画に加担する。ライトと方法は違うが、やはり新世界の創造を目的とする。
新世界の覇者を計画する女とL。
ライトとLという構図は、そのまま踏襲しつつ物語を新しい領域に突入させている。原作を再構築し、新しい展開を作り出す方法としては、実に正しい描き方をしている。
『デスノート』の魅力は跳躍したストーリー・アイデアにある。名前を書き込んだら死亡してしまうノート。それを拾ってしまう天才少年。天才ライトは、そのノートを使って理想世界の再構築を想像する。
物語の中心となるのは、ライトとLの頭脳戦だ。物語の背景は平凡な日常だが、あらゆるものが対決の道具として利用される。テレビ・メディアやFBI(FBIは米国外での活動は認められていない)、そのうちにもミサイルなんてものも出てきた。面白ければなんで活用する、意外性があれば考証など必要としない。
はっきりいえば、ミステリとしては不合格だ。フィクションなど所詮、ウソの物語に過ぎないが、接している最中だけは現実に感じられなければならない。そうでなければ、読者を引き込み、一定の緊張感を与えることはできない。「ひょっとして、事実としてありえるかもしれない……けど」その緊張こそが必要なのだ。
だが『デスノート』には跳躍したアイデアが次々と飛び出す。冒頭の「デスノート」というアイテムからして、リアリズムの世界から一歩、踏み外してしまっている。しかしだからこそ、読者を未体験の領域へと引き込めたのだ。絶対にありえないが、物語のルール上ではすべてがありえる現象として描かれている。そのルールの中で、近年のスポーツ漫画にすらないギリギリまで神経をすり減らした頭脳戦に読者を読書に引きこんでいった。
その一方で、人物や背景の描写は驚くほど高精細に描かれていく。徹底した観察と完璧な描画力によって、物語が欠落している“リアリズム”を回収しようとする。
リアリズムという発想を捨てたからこそ、『デスノート』という物語のあったのであり、あの狂騒的な緊張感が描き出せたのだ。
何のために登場したのかわからないFBI役の南原清隆。テレビ出資映画だから、おそらく「テレビで有名な芸能人を出せば注目される」と判断されたのだろう。日本式スターシステム、というビジネスモデルの残像(信仰というべきか?)はまだまだ業界に根強い。
実写版『デスノート』はおそらく、リアリズムの設計を間違えた作品なのだろう。『デスノート』は物語にはリアリズムはないが、あの重量感のある絵画があったからこそ、バランスが保てたのだ。
実写版『デスノート』は何もかもが軽々しく、緊張感などどこにもない間抜けな映画に作られてしまった。おそらく前作を担当した金子修介監督は、原作『デスノート』の読み方を間違えたのだろう。それから、読者がどんな視点で見ていたのか、それも同時に読み違えたのだ。
実写版『デスノート』の続編として描かれた『L cange the WorLd』はある程度の軌道修正として作品が再構築されている。
原作の特色をうまくすくい取り、オリジナル・ストーリーとして再構築している。跳躍したストーリー・アイデアと天才同士の対決、その周辺に描き出される少々のリアリズム。『L cange the WorLd』はちゃんと『デスノート』として描かれている。
物語に意外性はまったくない。大人しく形に収まったという感じだ。ただ松山ケンイチは、映画史に残るユニークなキャラクターを体現した。Lとお別れするのが、少し惜しい気持ちになる映画だ。
主人公のLは、前作の攻防戦の結果、あと23日で死亡するという回避不能の宿命を背負っている。
しかし、Lは最後の瞬間まで事件を諦めない。
『デスノート』においては部屋から一歩も出なかったLが、外に飛び出し、身を削って走り、飛び、息を切らせる。ワタリなき今、Lはたった一人で最後の戦いに挑んでいく。
Lにとってこの物語は、戦いの物語である以上に、成長の物語でもあるのだ。
終わりのときまで人生を諦めず、何を残せるのか。Lは、たった23日の間に人生のすべてを凝縮させようとする。
いかにも番外編という小さな作品ではない。Lの最後にふさわしい、痛快なエンターティメントだ。
映画記事一覧
作品データ
監督:中田秀夫 原作:大場ツグミ 小畑健
音楽:川井憲次 脚本:小林弘利
出演:松山ケンイチ 工藤夕貴
〇〇〇福田麻由子 南原清隆
〇〇〇平泉成 福田響志
そのウィルスは自然的なものではなく、人間の手によって作られたものだった。事件の背景にあるのは、人類の増加を抑制しようとする、過激派の自然保護団体ブルーシップの陰謀だった。ブルーシップは新種のウィルスを武器に、世界の破滅を目論んでいた。
物語のキーを握るのは、二人の少年と少女。Lに保護され、ともに活動する。しかし物語を俯瞰してみると、あまり物語の構造に介入してこない。「設定だけで役に立っていない」キャラクターになっているのが残念だ。
タイに潜入捜査していたFは、少年を連れ、村から脱出。
少年はウィルスが蔓延する村にいながら、唯一感染しなかったのだ。しかし、ブルーシップの刺客がFを葬ろうと追跡する。
死を覚悟したFは、少年をワタリに託し、死亡する。
ライトとの戦いを終えたL。死までの23日間を、捜査資料の整理に当てようとする。
一方日本では、エルはライトと最後の決着を終らせるところだった。
エルはデスノートに書かれていたルールを利用し、ライトの犯罪を暴きだす。戦いはエルの勝利であったが、結果としてエルは23日後の死亡が確定してしまった。
エルの死亡まであと23日間。そんな最中に、タイの少年が、ワタリを頼って訪ねてくる……。
本当の天才は常に社会に影響を与えるもの。天才に急速は与えられず、次なる挑戦が突きつけられる。Lの前に現れたのは、同じ孤児院を卒業した“天才”。Lの相手に不足はない。
人気原作をヒントに制作された、オリジナル・ストーリー作品である。
手抜き映画にしか見えなかった前作『デスノート』より、確実に物語の規模はスケールアップして、いくらか落ち着いて観賞できる作品となっている。
跳躍したストーリー・アイデアは相変わらずだし、それが密度の高いディティールの中で描かれ、より『デスノート』らしい風格が現れている。
話題映画であるが、大金が注ぎ込まれた大作映画ではない。むしろ予算的には低予算映画くらいだろう。冒頭の奇病が発生するタイのシーンは致命的な安っぽさだ。冒頭シーンは観客を引きこむシーンなのに、スタート地点からやや苦しい。
今回のLの敵は、同じくワタリの教え子であるKのコードネームを持つ女だ。Lと同様の天才的頭脳を持ちながら、人類に失望し、世界滅亡の計画に加担する。ライトと方法は違うが、やはり新世界の創造を目的とする。
新世界の覇者を計画する女とL。
ライトとLという構図は、そのまま踏襲しつつ物語を新しい領域に突入させている。原作を再構築し、新しい展開を作り出す方法としては、実に正しい描き方をしている。
『デスノート』の魅力は跳躍したストーリー・アイデアにある。名前を書き込んだら死亡してしまうノート。それを拾ってしまう天才少年。天才ライトは、そのノートを使って理想世界の再構築を想像する。
物語の中心となるのは、ライトとLの頭脳戦だ。物語の背景は平凡な日常だが、あらゆるものが対決の道具として利用される。テレビ・メディアやFBI(FBIは米国外での活動は認められていない)、そのうちにもミサイルなんてものも出てきた。面白ければなんで活用する、意外性があれば考証など必要としない。
はっきりいえば、ミステリとしては不合格だ。フィクションなど所詮、ウソの物語に過ぎないが、接している最中だけは現実に感じられなければならない。そうでなければ、読者を引き込み、一定の緊張感を与えることはできない。「ひょっとして、事実としてありえるかもしれない……けど」その緊張こそが必要なのだ。
だが『デスノート』には跳躍したアイデアが次々と飛び出す。冒頭の「デスノート」というアイテムからして、リアリズムの世界から一歩、踏み外してしまっている。しかしだからこそ、読者を未体験の領域へと引き込めたのだ。絶対にありえないが、物語のルール上ではすべてがありえる現象として描かれている。そのルールの中で、近年のスポーツ漫画にすらないギリギリまで神経をすり減らした頭脳戦に読者を読書に引きこんでいった。
その一方で、人物や背景の描写は驚くほど高精細に描かれていく。徹底した観察と完璧な描画力によって、物語が欠落している“リアリズム”を回収しようとする。
リアリズムという発想を捨てたからこそ、『デスノート』という物語のあったのであり、あの狂騒的な緊張感が描き出せたのだ。
何のために登場したのかわからないFBI役の南原清隆。テレビ出資映画だから、おそらく「テレビで有名な芸能人を出せば注目される」と判断されたのだろう。日本式スターシステム、というビジネスモデルの残像(信仰というべきか?)はまだまだ業界に根強い。
実写版『デスノート』はおそらく、リアリズムの設計を間違えた作品なのだろう。『デスノート』は物語にはリアリズムはないが、あの重量感のある絵画があったからこそ、バランスが保てたのだ。
実写版『デスノート』は何もかもが軽々しく、緊張感などどこにもない間抜けな映画に作られてしまった。おそらく前作を担当した金子修介監督は、原作『デスノート』の読み方を間違えたのだろう。それから、読者がどんな視点で見ていたのか、それも同時に読み違えたのだ。
実写版『デスノート』の続編として描かれた『L cange the WorLd』はある程度の軌道修正として作品が再構築されている。
原作の特色をうまくすくい取り、オリジナル・ストーリーとして再構築している。跳躍したストーリー・アイデアと天才同士の対決、その周辺に描き出される少々のリアリズム。『L cange the WorLd』はちゃんと『デスノート』として描かれている。
物語に意外性はまったくない。大人しく形に収まったという感じだ。ただ松山ケンイチは、映画史に残るユニークなキャラクターを体現した。Lとお別れするのが、少し惜しい気持ちになる映画だ。
主人公のLは、前作の攻防戦の結果、あと23日で死亡するという回避不能の宿命を背負っている。
しかし、Lは最後の瞬間まで事件を諦めない。
『デスノート』においては部屋から一歩も出なかったLが、外に飛び出し、身を削って走り、飛び、息を切らせる。ワタリなき今、Lはたった一人で最後の戦いに挑んでいく。
Lにとってこの物語は、戦いの物語である以上に、成長の物語でもあるのだ。
終わりのときまで人生を諦めず、何を残せるのか。Lは、たった23日の間に人生のすべてを凝縮させようとする。
いかにも番外編という小さな作品ではない。Lの最後にふさわしい、痛快なエンターティメントだ。
映画記事一覧
作品データ
監督:中田秀夫 原作:大場ツグミ 小畑健
音楽:川井憲次 脚本:小林弘利
出演:松山ケンイチ 工藤夕貴
〇〇〇福田麻由子 南原清隆
〇〇〇平泉成 福田響志
PR