本館と講堂を結ぶ渡り廊下に、午後の陽射しが差し込んでいた。まだまだ冬の寒い空気が残る時期で、陽射しはゆるやかな熱の固まりになって廊下に落ちていた。じわりと白く滲み出すような光の中に、かすかな埃がちらちらと舞っていた。
そんな通りに、澪を先頭に、次に紬、紐で縛った本の束を持った律、それからゴミ袋を持った唯がふらふらとついてきた。
ふと唯が渡り廊下の半ばで足を止めた。開けっ放しになった扉の向うを、唯にしては神妙な顔で覗き込んでいた。
「どうした、唯?」
律が足を止めて振り返った。
「……うん」
唯は考え事をするみたいにうつむく。澪や紬も気付いて唯の側に集まってきた。
「さわちゃんの言ったこと、気にしてるの?」
律が心配するように唯を覗き込んだ。ついさっき、部室でさわ子先生が「留年の可能性がある」なんて話を始めたのだ。からかわれただけだ、とわかっていても、やはり引っかかるものがある。
「そうじゃないんだ。私たちね、先輩としてあずにゃんに何かしてあげるべきだと思うんだ」
思いを告白するように、唯が皆を振り返った。
◇
『けいおん!』が最初にテレビ放送されたのは2009年の春だった。深夜という見る人が限られるニッチな枠だったのに関わらず、『けいおん!』の存在感は同じ時間帯に放送される有象無象のアニメ群の中にあって際立った輝きを放ち、『けいおん!』という作品はあっという間に「深夜アニメを求める特定の人たち」からより広い意味を持った若者層へ拡大していった。翌2010年には第2期『けいおん!!』が放送。TBSアニメは1クールという原則を破って2クールという長丁場でアニメは制作され、唯たちの最後の1年間がより詳細に描かれるようになった。『けいおん!』熱の奔流は勢い留めず日本という国を、あるいは2009年から2010年という時代を駆け抜けていった。
そして2011年12月3日、誰もが待ち望んだ作品がついに封切られた。『映画けいおん!』である。
テレビ版でも重要なファクターとして扱われた渡り廊下。そこを通過すること、留まることで物語や唯たちが置かれている状況が解説されている。劇場版では間違いなく特別な場所に見えるように映像処理が施された。渡り廊下という場所を基点に見ていくと、『けいおん!』という作品への理解が深まる。
『映画けいおん!』はテレビ版を本編とする傍流作品である。テレビ版では描かれたなかった様々な場面を接ぎ穂するようにエピソード描かれている。『番外編 劇場版!』とするのが正しいだろう。
キャラクターの置かれている状況や衣装などで、テレビ版のどことザッピングしているのか容易にわかるように作られている。具体的にどの場面がテレビシリーズのどのエピソードと繋がっているかは、DVD/ブルーレイ発売後に改めてブログに書き足したいと思う。
『映画けいおん!』を一言で表現するならば「脇道の映画」である。大雑把な枠組みとして、唯たちがロンドン旅行するという話があるものの、唯たちの物語やキャラクターの対話はひたすら脇道を突き進んでいく。脇道と小さなネタが調子のいいテンポでいくつも紡がれ、ゆっくりと本筋の物語や舞台に移り進んでいく。いったいシーンの数は全体でいくつになったのだろう、というくらいシーンが矢継ぎ早に飛んでいく。
普通の映画の作法であれば、まず主題を設定し、そこへ向けて物語なり舞台を移していくものだが、『映画けいおん!』は延々脇道と脱線を繰り広げていく。その勢いはロンドンへ移っても相変わらずで、「いかにもそこにドラマが準備され待っています」という組み立てはまったく見えず、脇道と脱線を繰り返しながら、いつのまにか物語は、映画の中心的テーマへ向かっていく。ある意味過剰なくらい「いつも通り」の唯たちの物語が描かれている。「劇場版だから」といっていかにも気負った感じはなく、気合の入った小ネタ集ではあるものの、作品は決して小さくなく、むしろどっしりと構えた大きな枠組みの中に唯たちの“今”が全力で敷き詰められた作品である。
映画の物語作法としてはイレギュラーだが、『けいおん!』らしさが貫かれた『けいおん!』でしかあり得ない劇場映画として仕上がっている。『けいおん!』という作品に深く接し、誰よりも理解している山田尚子監督だから見つけ出せた、より『けいおん!』らしい作法を持った映画だ。
(例えば細田守監督だ。細田守監督作品にはまず明快な枠組みがあり、そこへ向かって迷いなく物語が展開し、その間にロマンスやドラマといった見せ場をバランスよく用意されている。細田守監督は映画の作法をきちんと守っている、わかりやすい例だ。『映画けいおん!』には細田守監督作品のような構造はないが、映像や台詞は魅力的で、惹きつけさせる力を持っている。標準的な映画の作法を持たず、なのに映画としての力強さは圧倒的だ。そこに山田尚子監督の才能の凄さを感じる)
『映画けいおん!』の映像はテレビシリーズ版と比較して、劇的に変わったという印象はない。キャラクターデザインはテレビシリーズ版のものがほぼそのままで採用されたため、線の密度や重量感が「映画だから」といって増強されたわけではない。
しかし『映画けいおん!』の映像に接していると、不思議と映像の世界に包み込まれているような、不思議な充足感に捉われる瞬間がある。確かに線の密度や設定はテレビシリーズからあえて変更が加えられていないが、“そこにあるべき空気”の存在を丹念に、繊細に描かれている。その場所にあるべき暗さや熱の感覚、奥行き。撮影スタッフは、架空の場所である絵画世界を、あたかも実在して呼吸している場所のように仕上げている。例えば教室内の仄暗さ。テレビシリーズでは漠然と描かれてきたが、劇場版ははっきりと光の存在が意識されている。どこから光が差し込んで、どれだけの暗さ、明るさをもっているのか。場面ごとにその差異がはっきりわかるように描かれている。映画という枠組みを持ったことで、生活空間の描写そのものに奥行きが与えられた点も大きいだろう。今まで見えなかった側面が、いくつも見られたのが面白かった。
また音響効果はわずかな足音、布ズレの瞬間を逃さず音を与えている。キャラクターのほんのちょっとした動きにつられて発する音の数々。アニメのキャラクターは当然実在しないわけだが、あたかもそこに実在して、本当に演技した瞬間の音を捉えたかのようにすら感じる。
音響、撮影ともにこの映画において素晴らしい仕事をした。
キャラクターの線の密度はテレビシリーズから変わらなかった一方、動画枚数は非常に多い。ほんの僅かな動き、仕草を油断なく捉える。そもそも作画監督の堀口悠紀子はキャラクターのほんの僅かな動きを逃さず、繊細な動画を得意とし、どんな動きにも暖かい柔らかさを与える作家である。細かい話をすると、手の動き、脚の動きといった原画と原画の間の詰め指示をより丁寧に、ほんのちょっとの動きでもフォロスルーを与えることであの動きが実現できる
(頭では理解できていても、職人的な経験値が必要である)。初の劇場映画の主導的な作画監督に抜擢された堀口悠紀子は、持ち前のセンスを最大限に増幅させて、映画の登場人物に生々しいまでの息吹を与えている。『映画けいおん!』が持っている不思議な温もりや優しいイメージは、現場スタッフの全ての力が合わさった結果だろう。
前半の学校のシーン、家庭のシーンは色彩は特別テレビ版から変わった印象はないものの、どこか仄暗く、閉鎖した印象で描かれている。それが一変するのがロンドン旅行が始まってからだ。舞台がロンドンに移ってから、映像はこれでもかと賑やかに、華やかに、ディティールは線と色彩の洪水という勢いで描写されていく。いかにも「ロンドン旅行」というような観光地を巡っていくだけのものではなく、フェティッシュなレベルでロンドンへ行って目に付いた風景の一つ一つが取り上げられている。ただロンドンへ設定が移っただけではなく、違う空気を持った世界であるということがはっきりと意識されている。「ロンドンへ行く」という映像的な意義や差異が意識されているからこそ描き得たシーンである。
ロンドンから帰って来た後の日常風景の描き方も注目すべきポイントだが――ここからは各々が自らの目で確かめるべきだろう。
劇場版のもう一つの注目どころは、エンディングの澪を主演に据えたPVだ。アイルランドを舞台にした映像集で、本編中ではあえて避けて描かれた唯たちの少女の部分が強調的に描かれている。少女の持つ儚さ、脆さ、屈折が詩的な映像のなかに描かれた美しい作品だ。テレビ版のエンディングより確実に高いクオリティで、尺も長く、それだけで一篇の映像として完成した作品だ。DVD特典にテロップなし版が入っていることを期待したい。
『けいおん!』は女性映画である。実写の世界ではまあまあ珍しくなくなった女性映画であるが、アニメとなると話は違ってくる。私はアニメーションのシリーズ、劇場映画、この両方で女性が監督したという前例を聞いたことがない。監督がたった一人女性、というわけではなく、脚本、キャラクターデザイン、その他、作画スタッフや衣装デザイン、色彩設計
(仕上げはもともと女性比率が高い)、末端に至るまで女性比率が際立って多い作品である。だから『けいおん!』は単に女の子が主人公のアニメという以前に、女性が女の子を描いた作品と読み取るべきだろう。
世界的な通年として、アニメーションの制作現場に女性は少ない。アニメーションの制作はひたすら厳しく、つらく、過酷なものである。しかも、日本ほど安定的な制作体制ができあがっている国は世界を探してもなかなか事例が見つからない。日本以外の場所では、アニメの企画が立てられてそれからスタッフが募集されるが、はじめからアニメーターを専門職をしている人は少ない。そんな業界に女性が立ち入ることは難しく、結果として男性比率が多く、アニメは男性目線になりがちである。
しかし『けいおん!』は世界でも珍しい女性が主導になって制作されたアニメーションである。『けいおん!』の主人公、というかほとんどの登場人物は少女である。“少女”は古くから芸術家のモチーフとして描かれてきた対象である。特にアニメにおいては、執拗
(病的?)といっていいくらい、ある種の性的コンプレクスが少女像に刻印されてきた。
この少女というモチーフを女性が女性の目線で描けばどうなるのか? その回答ともいえるのが『けいおん!』の映画である。
『けいおん!』で描かれた少女たちはとにかくも賑やかで、騒々しいといっていいくらいだ。いかにもかしこまった“かわいい”表情は作らず、いつも捻り、崩され、弾けている。記号的な“かわいい”の羅列はあえて避けられ、時に大げさに顔が崩され、鼻の穴が強調される。ふとすると、可愛いと感じられないのでは? というくらい思い切った描かれかたをしているが、むしろそういう瞬間こそ『けいおん!』のキャラクターたちが魅力的に輝いている。背景にしっかりとした少女像にビジョンが一つのスタイルとして貫かれているからだろう。女性だからこそ描ける女性の“かわいい”と“うつくしい”。女性だからこそ描ける言葉のやりとりや、落書きの継ぎ足し。唯たちは他のどのアニメのキャラクターよりも魅力的で、愛らしく、少女らしさを持っている。
芸術は嘘と真実の間をゆらゆらと行き交うものであるが、アニメはどんな手法よりもより深く嘘と真実の間を潜行していく。山田尚子監督はその実体と方法論を否定せず、真っ向から取り上げ、唯たちを描きこんでいく。よくありがちな、少女を冷たい彫刻のような、偶像としての“ビショウジョ”ではなく、より温もりをもった生命感あふれる“女の子”を描いた。だからこそ『けいおん!』は特別な作品でありえるのだ。
これが『けいおん!』が静かに成しえていた革命の一つだ。
山田尚子監督といえば脚の描写である。フェティッシュなくらい脚を描写するものの、性的ないやらしさはまったくない。山田尚子は脚を描くことについて、次のように語る。「脚は一番素直に人が出るところだから。顔だとわざとらしい。脚には理性が働かないから」(けいおん!!DVD第8巻音声解説より)。脚から人格を描く――いったいどうやって発見したかわからないが、人間の描き方に独自の個性や方法論を持ちえている時点で、すでに立派な自立した監督である。
『映画けいおん!』の公開に向けて、あらゆる場所で『けいおん!』が盛り上がりを見せた。ローソンでは繰り返しタイアップ商品が販売され、デニーズでは『けいおん!』を題材にしたメニューが登場、叡山電鉄にラッピングカーが出現、ルミネエスト、ユニバーサルジャパンで『けいおん!』テーマのイベント。ある日書店へ行くと、多くの雑誌が『けいおん!』を表紙に取り上げ特集をしていて驚かされた。まさに「市場が求めているからこそ」の広がりである。
実は『けいおん!』がいつの間にか達成した“革命”は女性映画という一点だけではない。《宣伝》という部分においても、『けいおん!』は革命的であった。
『けいおん!』は全国130館という規模で公開される。この130館という数字は、通常ジブリアニメやドラえもんでしかありえなかった数字である。しかし深夜発のアニメが、全国130館規模の映画に成長しているのである。しかも、出演キャストがすべてアニメ専門の声優が担当している。
ほとんどの劇場化されるアニメは、プロの声優は広告の後ろに回され、中心に立つのは声優経験のまったくない、知名度のみが優先された素人である。場合によっては、テレビ版のキャストが全て一新され、全員が素人に変更されるといった事例もある。そうでない場合でも、無理矢理でも“ナゾの新キャラクター”なるものが突っ込まれ、そこにやはり知名度優先の芸能人が起用される
(それで最近になって徐々に知れ渡るようになったのは、実写俳優の演技力のなさだ。アニメで描かれた作品が実写化すると、実写俳優の演技力の低さが哀れにすら思えてくる)。『けいおん!』の劇場版はおそらく京都アニメが制作費の一部を出資しているから、ある程度の純度が守られたのだろう。もしテレビ主導で『映画けいおん!』が制作されたら、AK48や韓国アイドルが豊崎愛生に代わって唯たちに声を当てていた可能性だってある。まさか、と思うが、『劇場版シンプソンズ』という実例もある
(「いや、そんな…」と思うかもしれないが、テレビはそういうことを「やらかす」のである)。
私は個人的に、アニメ映画に素人を採用するという《宣伝方法》に疑問を感じていた。映画は大きな予算を掛けて制作される。だからより多くの人に拡散される必要があるから、知名度優先の素人が採用される
(これにはアニメの宿命的“広告下手”が災いしている。ほとんどのアニメ映画は、完成してから映画雑誌の公開スケジュール表の隅っこに載っているのを見かけて、初めてそれが制作されていることを知る、といった状況である。アニメの製作者は、まず《宣伝》について考えるべきである)。確かにそれで映画製作発表などをやると、普段アニメとは接点のない記者が一杯押し寄せてきて、一見注目されているかのような雰囲気が作られる。しかし、果たしてその背後にお客さんはついて来ているのだろうか? 朝や昼のニュースショーを見ると、映画の情報はせいぜいタイトル名が告げられるだけで、あらすじの紹介もなし、映像もなし。話題の中心は「あの熱愛報道について教えてください!」といったものばかりである。果たしてあんな取り上げられ方で本当に《宣伝》になっているのか? とても伝わっているとは思えない。宣伝の効果が怪しいのに、作品のクオリティを犠牲にしてまで素人を起用する理由がわからない。
だが、『けいおん!』はその宣伝の規模の大きさにも関わらず、作品としての“純度”が完璧に守られた実に珍しいケースであり、『けいおん!』の後に道が続いていけばいいと思っている。
とはいえ、懸念要素がないわけではない。かつて「社会現象」と称されたアニメーションは多くあるものの、実際にはそれほど規模の大きなものではなかった。例えば『宇宙戦艦ヤマト』や『風の谷のナウシカ』いずれも封切り最初には長い行列ができたものの、3日目には途切れた。他の多くのアニメ映画でも共通して、3日目には客足が途絶えている。アニメーションはどんなに社会現象と呼ばれようとも、ユーザーの規模は限定されている。純度の高い宣伝方法、制作方法では、予算の回収すら難しいのが現実だ。昨今はアニメ鑑賞者は増えてたと言われているものの、それも漠然とした印象での話でしかない。果たして『けいおん!』は3日目で途絶えてしまうのか? アニメの宣伝方法における道筋を作るためにも、アニメの純度を守るためにも、成功することを願う。
(『けいおん!』人気の影で、大きな歪もあった。『映画けいおん!』の公開直前、豊崎愛生にストーカーが付きまとい、その私生活がとあるブログ上で暴露された。憶測の域を出ない話だが、背後にいるのは韓国とその関係者ではないか、という。豊崎愛生をつきまとったストーカーは、誰もが想像するとおり素人ではないだろう。何かしらの情報に長けたプロと見て間違いない。では、声優を貶めて得すのは誰か? アニメ人気を妬ましいと思っていたのは誰か? その種のプロを雇えるのは誰か? さんざごり押ししたのにも関わらず、思ったほど浸透しない韓流。対して、ろくな広告もしていないのに大人気の深夜アニメ、その代表格である『けいおん!』。条件を当てはめていくと、韓国とその周辺に関係している人たちによる工作活動、という憶測がぴったりくる。もっと条件を絞り込めれば、具体的な誰か、どの集団かまで特定可能だろう)
劇場版『けいおん!』はテレビシリーズは主流とする傍流である。テレビシリーズで説明不足になっていた様々な場面を丁寧に取り上げ、補完するための「もう一つのけいおん!」である。しかしそれでいて、いかにも「番外編映画」ではなく、限りなく純度の高い『けいおん!』である。脇道をひたすら突き進む映画だが、第23話『放課後!』での律の台詞にあるように、「人生の無駄遣い」というのが『けいおん!』の本質である。どこまでも疑いなく脇道に突っ走る、瑞々しい輝きを込めた無駄遣いである。唯たちはいっそ、“風速”と呼ぶべき勢いで、桜高の3年間を、あるいは2009年から2011年という期間の日本を猛烈な勢いで駆け抜けていった。『映画けいおん!』は壮大な脇道の結晶のような映画だが、最高の『けいおん!』だった。
『映画けいおん!』はより純度を高めた『けいおん!』である。そこに描かれるのは特定の時代を描き出した“かつて”ではない。『けいおん!』はノスタルジーではなく“今”だ。全力疾走で生きている唯たちの“今”が描かれているのが『けいおん!』だ。山田尚子監督は、唯たちの“今”という瞬間を、永遠のフィルムの中に閉じ込め、何よりも美しい芸術作品にした。
この作品は、『けいおん!』という作品とキャラクターに対する“愛”に向けられた贈り物である。
作品データ
監督:山田尚子 原作:かきふらい
脚本:吉田玲子 キャラクターデザイン・総作画監督:堀口悠紀子
レイアウト監修:木上益治 楽器設定・楽器作監:高橋博行 絵コンテ:山田尚子・石原立也
色彩設計:竹田明代 美術監督:田村せいき 美術監督補佐:田峰育子
撮影監督:山本倫 撮影監督補佐:植田弘貴 3DCG:梅津哲郎 柴田祐司
音響監督:鶴岡陽太 音楽プロデューサー:小森茂生 礒山敦 岡本真梨子 音楽:白石元
出演:
平沢唯/豊崎愛生
秋山澪/日笠陽子
田井中律/佐藤聡美
琴吹紬/寿美菜子
中野梓/竹達彩奈
真田アサミ 東藤知夏 米沢円 永田依子 中村千絵 浅川悠
中尾衣里 中村知子 MAKO 片岡あづさ 北村妙子 平野妹
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宗介は家の庭を外れて、急な小道を降りていった。少し降りていくと穏やかに波を寄せる汀に出た。小石が波に洗われて丸い形をして転がり、藻の緑に包まれていた。
宗介は波間の漂流物の中に、小瓶に詰まった謎の生き物を拾う。
「金魚だ!」

いや、金魚ではないだろう。
ポニョは「魚の子」とされているが、どう頑張っても魚には見えないし、そもそも親は魚ではない(母親のグランマンマーレが実は巨大アンコウなんて話も……?)。
だが宗介はポニョを見て「金魚だ」と断定し、その後ポニョは金魚、あ

るいは魚の子であるという前提で進行していく。
老婆のトキは「人面魚だ」ともっとも妥当な指摘をして見せるが、この映画においては少数派だ。映画の初めで宗介が「金魚だ」と規定したから、ポニョはもう金魚なのだ。
『崖の上のポニョ』は子供の視点が貫かれている。世界はまだドロド

ロとした混沌で定まらず、不可解が現象に直面しても驚きは少なく、「そういうものだ」と簡単に受け入れてしまっている。
あらゆる原理が絶対のものとして膠着している大人の視点で見ると、『崖の上のポニョ』はあまりにも渾沌として不可解なもののように映る。物語構造は破綻しているようにすら見えてしまう。

『崖の上のポニョ』は、世界は絶対のものであるという限界を飛び越え、驚くべきビジョンを描いた作品である。
宮崎駿は昨今のアニメ業界が、アジアの下請けに依存している問題を懸念している。駆け出しのアニメーターが良質な原画に接する機会が減っている。アニメ文化の根が日本からアジアに移ってしまう。だからこそポニョは機械の手を借りず、鉛筆だけで、つまり己の手だけで全て描こうと決意したのである。

「宗介に会いたい」
そう願ったポニョは人間に姿を変えて、大津波と共に地上に飛び出してくる。大津波は港街を飲み込み海底に沈めてしまうと、宗介の乗る車を猛然と追跡してくる。
あの驚くべき大津波と、驚嘆すべき猛烈なエネルギーはまさにディオ

ニソス的である。ポニョが引き起こす津波に物語の脈絡など一切なく、単なる感情の昂りの1つとして描かれている。あまりにも無意味で、恐ろしいまでに気まぐれであり、それでいてあのエネルギーが街の光景だけでなく映画のすべてを転覆させてしまっている。
そうして街は水の底に沈んでしまうが、映画は一切悲劇的に描いて

いないし、通り過ぎる人々の顔にも不安や悲しみは一切見られない。むしろ洪水という自然災害を1つのイベントとして楽しんでいるように見えて、生き生きと輝いている。
おそらくは日本人的な自然への信頼感がそこにあるからだろう。日本人は自然の浄化能力を強く信じている。水没しても必ず再生するとい

う安心があるのだ。あるいは、日本人が原型的に持っている粘り強さと打たれ強さが背景にあるのかもしれない。戦時中、空襲の後でも「清々した」と言い切って、何もかも消えてさっぱりした風景を前にしても、決して挫けずむしろ希望を抱く強さだ。
水没した街の風景も、渾沌とした破壊の印象はない。水中の色彩は

瑞々しく輝き、水に沈む街は黄昏ではなく再生と浄化を連想させる。水没した街にはデボン紀の生物がレイヤリングされ、生命が新しい力を得た瞬間の活力をそこに描き出している。
宮崎駿は若者が育ちにくい現在のアニメ業界の現状に憂いて、アニメーター養成所を独自に設置し、ジブリのベテランに指導させている。私はあまり詳しくないが、各アニメスタジオで似たような動きはあるらしい。京都アニメでも独自に養成所を開設していた。「儲けたら今度は人材育成」が今のアニメ業界の合い言葉のようだ。

『崖の上のポニョ』の物語は前後の連なりよりも情緒豊かなエモーションが優先され、映像も常識的な原理を積極的に無視している。
未確認の情報だが、宮崎駿は『崖の上のポニョ』製作中に、フライシャー兄弟の作品を繰り返し見ていたと伝えられる。(
フライシャー・スタジオ:Wikipedia)

フライシャー兄弟とは、1920年から40年ごろまで、短編を中心に多くの作品を制作したアニメーション作家である。1920年はまだアニメーションの黎明期とも言える時代で、フライシャー兄弟は偉大なる先駆者の一人として挙げられる。当時はウォルト・ディズニーのライバルでもあった。『ポパイ』や『ベティ・ブープ』といった日本でもおなじみ

のアニメもフライシャー兄弟の作品である。
フライシャー兄弟の作品を見ると、まるで夢の世界に迷い込んだ心地になる。夢と言っても、「美しく幻想的な」という意味ではない。不可解で不安にさせるほうの夢だ。
フライシャー作品はキャラクターが不可解なメタモルフォーゼを繰り返

し、物語は前後の連なりを無視して驚くべきシーンが次々と展開してくる。それでいて感情的な情緒は強く、喜びや悲しみといった感情が花火のように突発的に打ちあがり、何もかもを飲み込んでしまう。
宮崎駿が本当にフライシャー兄弟を参考にしたのかは不明だが、見比べてみると確かにフライシャー兄弟を思わせる場面が多く見られ

る。主人公のポニョからして謎の生物だし、魚と人間の中間にある第2形態はさらに不可解なものを強めている。目玉をつけた波が魚の形に変わったり、グランマンマーレは存在自体がアンビリーバボーだ。やはり感情的な動きが通俗的原理より優先して描かれ、ポニョの感情の動きに釣られて大津波が引き起こされてしまうし、その後の水

没した街に対して誰も不思議を感じていない。
単にアニメーションそのものへの根源に回帰したとも言えるが、確かにフライシャー的な場面があちこちに見られるようである。
宮崎駿は映画におけるカーニバル的な狂騒を重要視している。だから前後の連なりを無視してダイナミックな感情の奔流を表現してみせたのである。またこれは、日本の古い神話や童話が原理よりも感情の流れを重要視し、感情の動きに世界(自然)が釣られて活動する性質に注目した作りである。

映画『崖の上のポニョ』の製作をする切っ掛けとして、鈴木敏夫プロデューサーが興味深い話しをしている。
発端は、元サイゾー記者をジブリに受け入れたことに始まっている。その記者は恋人に振られたショックで仕事を辞め、アメリカに放浪の旅に出ようと考えていた。

それを知らずに鈴木敏夫は「じゃあジブリに来たら?」とこの記者を誘った。
「ジブリに入れるんなら」とこの記者はアメリカ行きをキャンセルしてジブリに就職した。
ところがその後もこの記者は働いている気配を見せない。

「あいつどうしてるの?」
「さあ?」
なんて鈴木敏夫は自分の周囲とやり取りしていたのだが、3ヵ月後驚くべき事件が発覚した。この記者がジブリの女性社員を妊娠させたのだ。しかもこの女性社員は宮崎駿のお気に入りだった女性であ

る
(愛人ではない。念のため)
しかし宮崎駿はこの一件に怒るわけでもなく、むしろ面白がってその記者に話を聞きに言った。そうしているうちにジブリ内で結婚ブームと出産ブームが同時に起き(まあ女の子が多いのだが)、宮崎駿と記者の対話も初めは無意味な雑談だったが、次第に新しい映画の話に

なり、そのうちにもポニョや宗介といったキャラクターが生まれたと言われている。
(資料:CUT2008年3月号)
『崖の上のポニョ』には『人魚姫』を題材にしている、とされているが『人魚姫』は特に重要視されていない。日本が古来から記憶している異種婚礼の物語を下敷きにしているようだ。異種婚礼の物語は国籍文化問わず悲しい離別が結末となっているが、宮崎駿はこれを祝福の物語、肯定の物語として描いた。

押井守曰く、『崖の上のポニョ』は高畑勲の影響から完全に解放された映画である。(資料:
鈴木敏夫のジブリ汗まみれ→
「崖の上のポニョVSスカイ・クロラ」)
宮崎駿にとって、映画の文法とは高畑勲であった。宮崎駿は高畑勲に演出家としての指導を受け、その後もずっと影響を受け続けてき

た。映画製作中においても、「パク(高畑勲のこと)さんはこう書かない」と高畑勲の視点を意識し続けてきた。
宮崎駿に変化が現れてきたのはおそらく『千と千尋の神隠し』であろう。続く『ハウルの動く城』でもそうだが、宮崎駿自身が持っているビジョンと、高畑から教え込まれた原理との間で激しい葛藤が見受けら

れた。
『崖の上のポニョ』において、ついに高畑勲の呪縛から解放されたようである。『崖の上のポニョ』は物語の文法からも映画の文法からも解放され、新しい生命を得たばかりのように瑞々しい感性に満ちている。『千と千尋の神隠し』と『ハウルの動く城』で見られたような生と死

が混濁するイメージも『崖の上のポニョ』には見られなかった。
どんな映画にも言える話だが、映画は楽しんだ者の勝ちだ。難しい顔をして批判している人間は多いが、それで作品の本質が変わるわけではない。はっきりいえば単なる自己満足だ。ポニョを楽しんだのは、ど
うやら多数の普通の観客のようである。
『崖の上のポニョ』は近代的な映画作りの技法も捨てている。いわゆる映画的な俯瞰やローアングル、クローズアップといったよくあるカメラワークだ。そうした手法を切り捨てて、常に正面から絵画の力だけで挑戦している。

『崖の上のポニョ』の映像は独特だ。ある一定以上に詳細な線を一切描いていない。日本のアニメーション特有のものと思われた細密な線画は『崖の上のポニョ』においてはざっくり切り捨てられ、必要最低限の主線だけで物の形を表現している。
一見ぶっきらぼうに放り出したように見える少ない線だが、驚くほど

しっかりと形を捉え、質感を表現している。画面構成はシンプルで色彩も抑え気味、台詞は全体を通して少なく、音楽がサイレント映画のように張り付いてくる。
おそらく絵画の素人は「自分でも描けそう」なんて錯覚を抱くだろう。そう思わせてしまう懐の深さと、その一方で素人を全力で遠ざける絵

画技術の行き着く先を見せ付けてくれる作品だ。まさに、アニメーターという名の画家が行き着いたある境地である。
半径3メートル以内の材料で映画を作る。というのは宮崎駿の信条だ。映画中に出てくるチキンラーメンはジブリに常備しているものだし、ハムや卵は宮崎駿の弁当の中身だ。言うまでもないが、半径3メートル以内で傑作を作れるのは宮崎駿クラスの天才だけだ。凡百の作家は真似しないほうがいい。


宮崎駿は映画『崖の上のポニョ』において、それまで築き上げたすべてを切り捨てて製作した。映画はこうであるべき、という刷り込みも切り捨てたし、過去作品において築き上げたものも切り捨てた。


『崖の上のポニョ』は他のどの作品とも似ていない驚くべきオリジナル作品だ。宮崎駿は67歳という年齢で既視感のまったくないイメージを作り出し、新たな系譜を映画史に刻みつけた。

そ

の原動力となったのは、それまでに築き上げた驚嘆すべき画歴である。それから人並みはずれた画才と頑固さ。ジブリというブランドが吸い上げる資金力についても忘れてはならない。それら全てが


1つになったところに『崖の上のポニョ』という作品がある。
『崖の上のポニョ』はまるで生まれたばかりの子供のような作品だ。何もかもはじめて接する驚きに満たされている。
『千と千尋の神隠し』と『ハウルの動く城』に描かれた死のイメージの向うにあったのは、意外にも生命誕生のビジョンである。『崖の上のポニョ』は原始の時代のように、新しい生命の輝きに満たされている。
作品データ
監督・原作・絵コンテ:宮崎駿
作画監督:近藤勝也 作画監督補:高坂希太郎、賀川愛、稲村武志、山下明彦
美術監督:吉田昇 美術監督補:田中直哉、春日井直美、大森崇
色彩設計:保田道世 映像演出:奥井敦 編集:瀬山武司
音楽:久石譲 音響効果:笠松広司 整音:井上秀司
主題歌:
『海のおかあさん』
作詞:覚和歌子 宮崎駿(覚和歌子「さかな」より翻案) 作曲・編曲:久石譲 歌:林正子
『崖の上のポニョ』(ヤマハミュージックコミュニケーションズ)
作詞:近藤勝也 補作詞:宮崎駿 作曲・編曲:久石譲 歌:藤岡藤巻と大橋のぞみ
制作:星野康二 プロデューサー:鈴木敏夫
アニメーション制作:スタジオジブリ
出演:奈良柚莉愛 土井洋輝 山口智子 長嶋一茂
〇 所ジョージ 天海祐希 矢野顕子 吉行和子
〇 奈良岡朋子 左時枝 平岡映美 大橋のぞみ
★★★★(素晴らしい) ★★★☆(すごい) ★★☆☆(とても良い) ★☆☆☆(良い)
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