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■2011/12/06 (Tue)
劇場アニメ■
そんな渡り廊下を、澪を先頭に、次に紬、律、一番最後に唯という順番で歩いている。律は紐で縛った一杯の本の束を抱えていて、唯はゴミの入った透明の袋を後ろ手に持っていた。
「あ~あ……」
ふと唯が溜め息をこぼす。
「どした?」
律が唯に声を掛ける。唯は開けたままになっていた扉の前に立って、中庭の様子を見ていた。
「うん……」
唯は律を振り向くけど、考え事をするように視線を落とす。
「さっきのさわちゃんの話?」
律が気を遣うようにする。ついさっき、部室でさわ子先生が「留年の可能性がある」なんて話を始めたのだ。からかわれていただけだ、とわかっていても、やはり引っ掛かるものがある。
「じゃなくてね」
唯が考えていたことはもう少し違うようだ。
「もしかして私たち、先輩としての威厳がないまま卒業しちゃうんじゃないかな」
「え~」
声を上げたのは律と紬だ。
「そんなことないぞ! 私たちは……」
「背が高い!」
勢いよく声を上げたのは紬だった。
「年上だ!」
律が紬を振り向く。
「元気!」
「他にないのか」
呆れるように澪が突っ込む。それじゃ、尊敬できないだろ。
唯は、再び扉から外を見ていた。校舎の向こう側に見える、淡く霞んだ空を見ていた。
「私、最後に何か先輩らしいことしたい!」
思いを告白するように、唯が振り返った。
そして2011年12月3日、誰もが待ち望んだ作品がついに封切られた。『映画けいおん!』である。
『映画けいおん!』を一言で表現するならば「脇道の映画」である。大雑把な枠組みとして、唯たちがロンドン旅行するという話があるものの、唯たちの物語やキャラクターの対話はひたすら脇道を突き進んでいく。脇道と小さなネタが調子のいいテンポでいくつも紡がれ、ゆっくりと本筋の物語や舞台に移り進んでいく。いったいシーンの数は全体でいくつになったのだろう、というくらいシーンが矢継ぎ早に飛んでいく。
映画の物語作法としてはイレギュラーだが、『けいおん!』らしさが貫かれた『けいおん!』でしかあり得ない劇場映画として仕上がっている。『けいおん!』という作品に深く接し、誰よりも理解している山田尚子監督だから見つけ出せた、より『けいおん!』らしい作法を持った映画だ。
しかし『映画けいおん!』の映像に接していると、不思議と映像の世界に包み込まれているような、不思議な充足感に捉われる瞬間がある。確かに線の密度や設定はテレビシリーズからあえて変更が加えられていないが、“そこにあるべき空気”の存在を丹念に、繊細に描かれている。その場所にあるべき暗さや熱の感覚、奥行き。撮影スタッフは、架空の場所である絵画世界を、あたかも実在して呼吸している場所のように仕上げている。例えば教室内の仄暗さ。テレビシリーズでは漠然と描かれてきたが、劇場版ははっきりと光の存在が意識されている。どこから光が差し込んで、どれだけの暗さ、明るさをもっているのか。場面ごとにその差異がはっきりわかるように描かれている。映画という枠組みを持ったことで、生活空間の描写そのものに奥行きが与えられた点も大きいだろう。今まで見えな
ま
音響、撮影ともにこの映画において素晴らしい仕事をした。
キャラクターの線の密度はテレビシリーズから変わらなかった一方、動画枚数は非常に多い。ほんの僅かな動き、仕草を油断なく捉える。そもそも作画監督の堀口悠紀子はキャラクターのほんの僅かな動きを逃さず、繊細な動画を得意とし、どん
前半の学校のシーン、家庭のシーンは色彩は特別テレビ版から変わった印象はないものの、どこか仄暗く、閉鎖した印象で描かれている。それが一変するのがロンドン旅行が始まってからだ。舞台がロンドンに移ってから、映像はこれでもかと賑やかに、華やかに、ディティールは線と色彩の洪水という勢いで描写されていく。いかにも「ロンドン旅行」というような観光地を巡っていくだけのものではなく、フェティッシュなレベルでロンドンへ行って目に付いた風景の一つ一つが取り上げられ
ロンドンから帰ってきた日常風景の描き方にも注目である。あれだけ華やかな色彩が急に抑えられて、彩度を抑えた落ち着いた印象に変わる。後半のクライマックスの一つである教室でのライブシーンですら、色彩は抑えられ、窓の外の光を強調するように描かれている。
日本側の彩度の高い描き方を見ると、不思議と旅行から帰ってきた、日本の湿度に戻ってきた、という印象を感じる。そこが作り手側の狙いの一つだろう。
物語は最後の場面へ、テレビシリーズ版の最終回のエピソードへとザッピングしていく。そこへ近づくほどに、画面は白く漂白していく。まるで夢との端境を表現するように、あるいは夢が覚める瞬間、目蓋の向こうに朝の光を感じている時のように、少女たちが抱いていく幻想を捉え、そこから飛び出していく一歩寸前の“終わりを前にした世界”が描かれていく。劇的なシーン、あるいは台詞などはどこにもないい。映画『けいおん!』のラストシーンはあまりにも静かで、ささやかな幸福が描かれ、それなのにしっかりと引き込まれていく結束の美しさが描かれている。
世界的な通年として、アニメーションの制作現場に女性は少ない。アニメーションの制作はひたすら厳しく、つらく、過酷なものである。しかも、日本ほど安定的な制作体制ができあがっている国は世界を探してもなかなか事例が見つからない。日本以外の場所では、アニメの企画が立てられてそれからスタッフが募集されるが、はじめからアニメーターを専門職をしている人は少ない。そんな業界に女性が立ち入ることは難しく、結果として男性比率が多く、アニメは男性目線になりがちである。それに、業界にやって
しかし『けいおん!』は世界でも珍しい女性が主導になって制作されたアニメーションである。『けいおん!』の主人公、というかほとんどの登場人物は少女である。“少女”は古くから芸術家のモチーフとして描かれてきた対象である。特にアニメにおいては、執拗(病的?)といっていいくらい、ある種の性的コンプレクスが少女像に刻印されてきた。
この少女というモチーフを女性が女性の目線で描けばどうなるのか? その回答ともいえるのが『けいおん!』の映画である。
『けいおん!』で描かれた少女たちはとにかくも賑やかで、騒々しいといっていいくらいだ。いかにもかしこまった“かわいい”表情は作らず、いつも捻り、崩され、弾けている。記号的な“かわいい”の羅列はあえて避けられ、時に大げさに顔が崩され、鼻の穴が強調される。ふとすると、思い切りすぎでは? というくらい思い切った描かれかたをして
芸術は嘘と真実の間をゆらゆらと行き交うものであるが、アニメはどんな手法よりもより深く嘘と真実の間を潜行していく。山田尚子監督はその実体と方法論を否定せず、真っ向から取り上げ、唯たちを描きこんでいく。よくありがちな、少女を冷たい彫刻のような、偶像としての“ビショウジョ”ではなく、より温もりをもった生命感あふれる“女の子”を描いた。だからこそ『けいおん!』は特別な作品でありえるのだ。
これが『けいおん!』が静かに成しえていた革命の一つだ。そして、アニメという文化そのものが変わろうとする継ぎ目の作品として注目すべきだろう。
実は『けいおん!』がいつの間にか達成した“革命”は女性映画という一点だけではない。《宣伝》という部分においても、『けいおん!』は革命的であった。
『けいおん!』は全国130館という規模で公開される。この130館という数字は、通常ジブリアニメやドラえもんでしかありえなかった数字である。しかし深夜発のアニメが、全国130館規模の映画に成長しているのである。しかも、出演キャストがすべてアニメ専門の声優が担当している。
私は個人的に、アニメ映画に素人を採用するという《宣伝方法》に疑問を感じていた。映画は大きな予算を掛けて制
だが、『けいおん!』はその宣伝の規模の大きさにも関わらず、作品としての“純度”が完璧に守られた実に珍しいケースであり、『けいおん!』の後に道が続いていけばいいと思っている。
『映画けいおん!』はより純度を高めた『けいおん!』である。そこに描かれるのは特定の時代を描き出した“かつて”ではない。『けいおん!』はノスタルジーではなく“今”だ。全力疾走で生きている唯たちの“今”が描かれているのが『けいおん!』だ。山田尚子監督は、唯たちの“今”という瞬間を、永遠のフィルムの中に閉じ込め、何よりも美しい芸術作品にした。
この作品は、『けいおん!』という作品とキャラクターに対する“愛”に向けられた贈り物である。
補足!
作品データ
監督:山田尚子 原作:かきふらい
脚本:吉田玲子 キャラクターデザイン・総作画監督:堀口悠紀子
レイアウト監修:木上益治 楽器設定・楽器作監:高橋博行 絵コンテ:山田尚子・石原立也
色彩設計:竹田明代 美術監督:田村せいき 美術監督補佐:田峰育子
撮影監督:山本倫 撮影監督補佐:植田弘貴 3DCG:梅津哲郎 柴田祐司
音響監督:鶴岡陽太 音楽プロデューサー:小森茂生 礒山敦 岡本真梨子 音楽:白石元
出演:
平沢唯/豊崎愛生
秋山澪/日笠陽子
田井中律/佐藤聡美
琴吹紬/寿美菜子
中野梓/竹達彩奈
真田アサミ 東藤知夏 米沢円 永田依子 中村千絵 浅川悠
中尾衣里 中村知子 MAKO 片岡あづさ 北村妙子 平野妹
2012年7月23日修正
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■2010/02/06 (Sat)
劇場アニメ■
宗介は波間の漂流物の中に、小瓶に詰まった謎の生き物を拾
「金魚だ!」
いや、金魚ではないだろう。
ポニョは「魚の子」とされているが、どう頑張っても魚には見えな
だが宗介はポニョを見て「金魚だ」と断定し、その後ポニョは金魚、あるいは魚の子であるという前提で進行していく。
『崖の上のポニョ』は子供の視点が貫かれている。世界はまだド
あらゆる原理が絶対のものとして膠着している大人の視点で見ると、『崖の上のポニョ』はあまりにも渾沌として不可解なもののように映る。物語構造は破綻しているようにすら見えてしまう。
『崖の上のポニョ』は、世界は絶対のものであるという限界を飛び越え、驚くべきビジョンを描いた作品である。
そう願ったポニョは人間に姿を変えて、大津波と共に地上に飛び出してくる。大津波は港街を飲み込み海底に沈めてしまうと、宗介の乗る車を猛然と追跡してくる。
そうして街は水の底に沈んでしまうが、映画は一切悲劇的に描いていないし、通り過ぎる人々の顔にも不安や悲しみは一切見
おそらくは日本人的な自然への信頼感がそこにあるからだろう。日本人は自然の浄化能力を強く信じている。水没しても必ず
水没した街の風景も、渾沌とした破壊の印象はない。水中の色彩は瑞々しく輝き、水に沈む街は黄昏ではなく再生と浄化を連想させる。水没した街にはデボン紀の生物がレイヤリングされ、生命が新しい力を得た瞬間の活力をそこに描き出している。
未確認の情報だが、宮崎駿は『崖の上のポニョ』製作中に、フラ
フライシャー兄弟とは、1920年から40年ごろまで、短編を中心に多くの作品を制作したアニメーション作家である。1920
フライシャー兄弟の作品を見ると、まるで夢の世界に迷い込んだ心地になる。夢と言っても、「美しく幻想的な」という意味ではない。不可解で不安にさせるほうの夢だ。
宮崎駿が本当にフライシャー兄弟を参考にしたのかは不明だが、見比べてみると確かにフライシャー兄弟を思わせる場面が多く見られる。主人公のポニョからして謎の生物だし、魚と人間の中間にある第2形態はさらに不可解なものを強めている。目玉をつけた波が魚の形に変わったり、グランマンマーレは存在自体がアンビリーバボーだ。やはり感情的な動きが通俗的原理より優先して描かれ、ポニョの感情の動きに釣られて大津波が引き起こされてしまうし、その後の水没した街に対して誰も不思議を感じていない。
単にアニメーションそのものへの根源に回帰したとも言えるが、確かにフライシャー的な場面があちこちに見られるようである。
発端は、元サイゾー記者をジブリに受け入れたことに始まっている。その記者は恋人に振られたショックで仕事を辞め、アメリ
それを知らずに鈴木敏夫は「じゃあジブリに来たら?」とこの記者を誘った。
「ジブリに入れるんなら」とこの記者はアメリカ行きをキャンセル
ところがその後もこの記者は働いている気配を見せない。
「あいつどうしてるの?」
「さあ?」
(資料:CUT2008年3月号)
宮崎駿にとって、映画の文法とは高畑勲であった。宮崎駿は高
宮崎駿に変化が現れてきたのはおそらく『千と千尋の神隠し』で
『崖の上のポニョ』において、ついに高畑勲の呪縛から解放され
『崖の上のポニョ』は他のどの作品とも似ていない驚くべきオリジナル作
『崖の上のポニョ』はまるで生まれたばかりの
『千と千尋の神隠し』と『ハウルの動く城』に描かれた死のイメージの向うにあったのは、意外にも生命誕生のビジョンである。『崖の上のポニョ』は原始の時代のように、新しい生命の輝きに満たされている。
作品データ
監督・原作・絵コンテ:宮崎駿
作画監督:近藤勝也 作画監督補:高坂希太郎、賀川愛、稲村武志、山下明彦
美術監督:吉田昇 美術監督補:田中直哉、春日井直美、大森崇
色彩設計:保田道世 映像演出:奥井敦 編集:瀬山武司
音楽:久石譲 音響効果:笠松広司 整音:井上秀司
主題歌:
『海のおかあさん』
作詞:覚和歌子 宮崎駿(覚和歌子「さかな」より翻案) 作曲・編曲:久石譲 歌:林正子
『崖の上のポニョ』(ヤマハミュージックコミュニケーションズ)
作詞:近藤勝也 補作詞:宮崎駿 作曲・編曲:久石譲 歌:藤岡藤巻と大橋のぞみ
制作:星野康二 プロデューサー:鈴木敏夫
アニメーション制作:スタジオジブリ
出演:奈良柚莉愛 土井洋輝 山口智子 長嶋一茂
〇 所ジョージ 天海祐希 矢野顕子 吉行和子
〇 奈良岡朋子 左時枝 平岡映美 大橋のぞみ
■2010/01/08 (Fri)
劇場アニメ■
ラウンテルン社工場への偵察から機投した函南優一は、報告ついでに上司の草薙水素に尋ねた。
「栗太仁朗。ここに赴任したのは7ヶ月。63回の出撃。なかなかの腕
草薙はタバコを手にしたまま、少し俯いた感じで淡々と答えた。
「どこへ行ったんですか」
函南は質問を止めない。
「その質問には答えられない」
「転出した理由は?」
「同じく」
「死んだ?」
函南がそう尋ねると、草薙にしばし沈黙が漂った。
草薙は眼鏡越しに函南を睨みつける。
「そうだとしても、君の置かれた状況に差はない。いるかいないか。人の状態はこの2つしかない」
草薙はまた視線を落として、もとの事務的な調子を取り戻した。
「飛行機を引き継ぐ時は、通常は前任者とコンタクトを取るものですよね。もちろん、前任者が生きている場合にだけ、ですけど」
函南は探るように尋ねた。
「あの機体は新しい。その必要はないと私が判断した。何か不満が?」
草薙はやはり同じ調子で、ちらと函南を睨み付けた。
「いえ、最高の機体でした」
「他には?」
「あなたは――キル・ドレですか」
あの空へ彼らは――キル・ドレは疾駆するのだ。地上の重力から解放され自由に舞い踊り、澄んだ空に汚れた灰色の雲を残していく。
平和の象徴のようなあの場所で誰かを殺すために――自身が死ぬために。
その戦闘員となるのがキル・ドレと呼ばれる子供たちだ。キル・ドレは遺伝子操作で生まれた子供たちで思春期の姿のまま成長せず、命令されるままに戦い、死ねば即座に蘇生させられる。
何度も何度も。経験を積み重ねず、だから決して成長を――物語を未来へと展開させられない。
「何に?」
函南は自我を持ち始めた子供のように、何度も疑問を呈する。
彼らの言葉は独白のようにぼそぼそとしていて、お互いの間には奇妙なくらい間延びした時間が流れる。
なぜなら彼らには役目が与えられていないからだ。世界はすでに平
そんな渦中で過ごす若者達は、戦闘以外の何の役割を与えられて
何もする事がない。新しい何かが起きそうな希望もない。
大人たちはそんな社会を自らの手で作っておきながら、末端で喘ぐ若者を非難している。若者を奇怪な鵺のような存在を見做し、攻撃の
――実体はすでに社会そのものが漂白しているのであって、社会の神(創造主であるから)である大人たちも漂白された時間の中に飲み込まれている。大人たちが若者叩きを続けるのは慰めを求めているからだ。実際には大人たち自身も社会から不要を突きつけられ、髪を
高度にシステム化された社会はすでに人間を必要としておらず、単に運営するために必要最低限の労働力だけを求めているだけだ。漂白しているのは実際には社会全てであり、だから虚構としての戦争
だが一度キル・ドレたちが空に飛び出ると、途端に映像はビビッドな輝きを放ち始める。レシプロが空中に飛び出すと、それまでそろりそろり漂っていた時間は急速に流れを持ち始め、カットは凄まじい勢いで流れて行き、音楽は勇壮なテーマ曲となって戦いを彩る。
だが彼らはそこで“殺し合い”を死にいくのだ。殺しに行くのであり、死ぬために飛んでいるのだ。
その自由な瞬間も実はゲーム・システムに縛られている。彼ら
だから函南優一はハリウッド・エンターティメントのようにヒーローにはならない。ただ与えられた任務をこなし、帰還していくだけ。激しいアクションシーンだが、そこでドラマチックな何かは
彼らは生き延びてエース・パイロットになることはできても、そこから抜きん出てヒーローにはなれないのだ。
だだ草薙水素が函南に寄せる感情は狂気をはらんでいる。彼の背中
草薙水素の愛し方は、あまりにも深く、肉体を抉るようだ。狂うぐらい相手を愛し、殺意を抱く。セックスの最中にエロスとタナトスを危険なレベルで高め、蜘蛛の交尾のごとくその対象を食い殺
愛してる。お願い殺して。
そんなアンビバレントが不純に交じり合ったセックスだ。
もう終わりにしたい。愛し合ったまま、すべてを終らせたい。
でも銃で頭をぶち抜いても、振り出しに戻されるだけ。その繰り
草薙は決して前に進めない、未来へ進めないというジレンマの中で、感情を慌しく混乱させ、その感情に自身の理性は飲み込まれてしまっている。
草薙「え?」
函南「運命とか、限界みたいなものが」
草薙「そうね。でも彼は誰にも落とせない」
函南「なぜ?」
函南「さあ。考えたこともない」
草薙「殺し合いをしているのに?」
函南「仕事だよ。どんなビジネスだって同じことさ。相手を押しのけて利益を上げたほうが勝ちなんだ。普通の企業に較べたら、
草薙「そう。ゲームだから合法的に殺すことも殺されることもできる」
函南「面白い発想だね」
草薙「面白い? 戦争はどんな時代でも完全に消滅したことはない。それは人間にとって、その現実味がいつでも重要だったから。同じ時代に、今もどこかで誰かが戦っているという現実感が人間社会のシステムに不可欠な要素だから。そしてそれは絶対に嘘では作れない。戦争はどんなものなのか、歴史の教科書に載っている昔話だけでは不十分なのよ。本当に死んでいく人間がいて、それが報道されて、その悲惨さを見
全ては相対的なものである。戦争があるから平和がある。貧困があるから豊かさがある。勝者がいるから敗者がいる。死の危機がなければ生の実感も得られない。
現実世界は一度も平和を獲得したことはないが――戦闘がなければ
物語の背景に戦闘企業であるラウンテルン社とロストック社の対立が置かれている。だがこの2つの企業は決して潰しあっているわけでもなければ勝利を目指しているわけでもない。
だがそんな八百長のゲームでも接している人々はモニターの前で熱狂し、応援と称して財産を兵器産業に投資するのである。ゲームが続けられている間はラウンテルン社もロストック社もいくらでも儲かる
背景にあるのは企業の利益であり、末端は理屈に振り回され行儀よくシナリオ通りに殺されていく……。『スカイ・クロラ』で描いてみせた情勢は、すでに我々の現代社会にも当てはまる図式のようだ。
最後に――押井守監督作品には常に神の視線がどこかにある。す
『スカイ・クロラ』の登場人物は常に監視されている。
具体的存在はラウンテルン社とロストック社という、キル・ドレたちに
函南や草薙はこの神の存在にはっきりと気付き、時に観察するように見詰め返している。台詞の中で、“彼は決して倒せない”と語る場面もある。彼――ティーチャーも神の1人であり、ティーチャーは神の
その神を、キル・ドレたちはただ恐れるだけで決して殺せない。なぜなら神はルールであり、ルールに隷属しているプレイヤーは決して神を殺せないから。
だが函南はあえてこの神に戦いを挑んだ。神の存在を暴きだし、殺そうと挑みかかった。
なぜ?
世界を崩壊させ、未来へと時間を進めさせるためである。
作品データ
監督:押井守 原作:森博嗣
脚本:伊藤ちひろ 演出:西久保利彦 キャラクターデザイナー・作画監督:西尾鉄也
美術監督:永井一男 レイアウト設定:渡部隆 メカニックデザイナー:竹内敦志
音楽:川井憲次 サウンドデザイナー:ランディ・トム トム・マイヤーズ
音響監督:若林和弘 整音:井上秀司 色彩設計:遊佐久美子 ビジュアルエフェクツ:江面久
CGIスーパーバイザー:林弘幸 CGI制作:ポリゴン・ピクチュアズ 軍事監修:岡部いさく
アニメーション制作:プロダクションI.G.
出演:菊地凛子 加瀬亮 谷原章介 山口愛
〇 平川大輔 竹若拓磨 麦人 大塚芳忠
〇 安藤麻吹 兵藤まこ 榊原良子 栗山千明
〇 竹中直人 ひし美ゆり子 下野紘 藤田圭宣
〇 長谷川歩 杉山大 水沢史絵 渡辺智美
■
つづき
■2009/08/24 (Mon)
劇場アニメ■
月の光が暗い水面に落ちていた。水の中から突き出るように立っている建物が、暗い影を落としている。コリンは、その一つに目を向けた。デパートだったらしい建物の屋上で、赤い炎が浮かんでいる。冷たく沈黙した夜に、猥雑な笑い声を投げかけていた。
コリンは、ボートをデパートのほうへ向けた。水は2階駐車場まで入り込んでいる。コリンは駐車場へ入っていき、ボートを止めた。
駐車場から中へ入っていった。内部は荒廃を極め、活動しているものは一つとして見当たらない。天井から、ミイラ化した死体が吊り下げられているのが見えた。
「よく飽きないもんだ」
死体の一つが、コリンにくるりと首を向けてにやりと微笑みかけた。
「お前もだ」
コリンは無感情に呟いて、死体のそばを通り過ぎた。
屋上に達すると、焚き火を囲んだ一団が見えた。死体を焼いてバーベキューをやっていた。コリンは警戒心を抱かず、ごろつきたちの中へ入っていった。
「なんだ、貴様は?」
男の一人がコリンの前に進み出た。頭に角がある、畸形だった。
ごろつきたちがコリンの周囲に集ってきた。いずれも異形の姿をしていて、まともな人間は一人としていなかった。
「気にするな。人を探しているだけだ」
コリンは冷静に集ってきたごろつきの顔を一つ一つ確かめた。
――妙だ。確かにあいつの気配を感じたのに。
「いい度胸だ。誰を探しているって?」
角をつけた男がコリンに掴みかかろうとした。
コリンは刀を抜いた。刃が素早く走る。次の瞬間には、男の腕が切り裂かれて地面に落ちた。
ごろつきたちの顔に恐怖が浮かんだ。さっきまでの勢いはなくなり、散り散りになってコリンから逃げ出した。
その時だ。あの気配だ。コリンはただならぬ物を察して、
欄干の側に駐車しているトラックに目を向けた。
「俺の名はマライケ。ただの賞金稼ぎかと思ったら、“同属”がやってきたとはな」
トラックから大男が現れた。手にしているのは、鋭い刃を持った異様に大きさのチェーンソーだった。
「悪いが人違いだった」
コリンはマライケを充分警戒した。
「シティが俺に賭けた1万ドルの賞金も諦めるのか?」
「酒代には多すぎる」
マライケがチェーンソーを起動させた。刃が物凄い速度で回転を始める。
マライケが突進した。コリンは避けつつ、刀で牽制した。火花が散った。マライケはさらにコリンを追撃した。巨大なチェーンソーが振り落とされる。コリンは刀で受け止めた。
「俺は500年生きてきたが、貴様ほどの奴は初めてだ! 楽しいぜ!」
マライケが筋肉質の顔を恍惚にゆがめた。
「だが生き残りし者は一人だ!」
マライケが腕に力を込めた。コリンの体が吹っ飛んだ。コリンはガラスの天井を突き破って、デパートの中へ落ちた。
マライケがチェーンソーを手に飛び降りてきた。コリンは神経を研ぎ澄
ませて身構えた。マライケの巨体が迫る。巨大なチェーンソーが唸りを上げて迫った。
瞬間、青い火花が飛び散った。
デパートの中は、廃墟としての沈黙を取り戻した。
「……ば、馬鹿な。お前はいったい」
マライケの首に、切れ目が走り、頭がずるりと落ちた。
「コリン・マクラード……。マクラード一族のコリンだ」
コリンはエスカレーターに着地して、静かに言い放った。
マライケの体から電流が溢れ出した。電流はデパート全体を走り、コリンの体に注がれた。溢れ出るエネルギーはそれでも収まらず、天上を貫き、雷を逆さまに迸らせた。

左は日本人の伽羅。戦国時代、武将だったマライケに見出され、愛人となる。伽羅は不死族だ。右はドルイドのアメルガン。主人公の導き手となるが、行動原理を含めて何者なのか不明。
主人公コリンは不死族である。首を落とされぬ限り、どんな怪我を負っても決して死なないし、寿命から解放されている。
不死族は不死身であるが、同時に戦士としての宿命を背負う。それは不死族同士の決して避けられない戦いだ。
不死族は相手の首を切った直後、その体から生命エネルギーを放ち、それを浴びるとより強い力を得られる。だから不死族は、より強い力を得るために、不死族同士殺し合いを続ける。
ただし、その舞台が聖域である場合、戦いに一時の休息が儲けられる。
また不死族は子供を作ることができない。
以上の三つが不死族に絡みつく絶対のルールである。だから不死族はより強いエネルギーを得るために、同じ不死族を求め続け、殺し合いを繰り広げる。
あらゆる時代を突き通して戦いが繰り広げられる。衣装や舞台や小道具…実写で同じ映画を製作すると、悪夢のような予算がかかっただろう。ロケーションの必要のないアニメだからこそ、(低予算で)多次元的なイメージが重ねられるのだ。
不死族の宿命という以上に、主人公のコリンにはもう一つ運命を背負っていた。
そ
れは今から2000年前、ローマ軍によるイングランド侵略だった。
間もなく迫ってくる2000人の大軍勢。抵抗するコリンが率いる軍団はわずか100人だった。
敗北が確定した戦い。それでもコリンは、一族の誇りをかけて戦うと決心していた。
しかし妻のモーヤは、ローマの将軍マルカスのもとへ一人で行き、戦いをやめるよう訴える。マルカスはそのモーヤを磔にし、コリンの村を襲い掛かった。
一夜明けて、村は壊滅。コリンだけが瓦礫の下に埋もれ、奇跡的に一命を取り留めた。だが、村の全ては滅ぼされ、顔を上げると、丘の上には磔にされて死んでいるモーヤがいた。
コリンはマルカスへの復讐を誓った。どこまでも追いかけて、必ずマルカスを殺す、と。
日本アニメ独特の決めカットが多いのが川尻監督流だ。前後のつながり以上に、絵画の強さを強調。動画作品というより、イラストレーションに近い完成度。ちなみに、影塗り分け意外は口紅を含めて殆ど実線。色彩の強烈さもあり、ポップアートの印象もある。
それから二人の宿命の戦いが始まる。互いに不死族同士だったコリントマルカス。戦いは場所を移し、時代を移しながら延々と続く。
聖十字軍の戦いであり、万里の長城を挟んだフン族との戦いであり、戦国時代の日本であり……。戦いの舞台は次第に現代に近付き、二つの大戦を乗り越えて近未来社会へと飛び越え、尚も戦いを繰り広げ続ける。
物語は直線的だし、世界観は典型的な世紀末風SFサイバーパンクである。映画『ハイランダー』独自の映像感、世界構造はそこにはない。いかにもどこかで見た、典型的なSF映画である。キャラクターも台詞も、『ハイランダー』独自の個性はどこにも見当たらない。
ただし、映像から感じるエネルギーは想像以上に鮮烈だ。
太く、濃い線でしつこいくらいに描かれたキャラクター。はっきりと切り分けられた色彩。アニメーションはどの瞬間も素晴らしい精度で完成され、見る者に一瞬の隙も許さない。
物語は単調だが、極限までに高められたアニメーション技術が、平凡さを鮮烈なビジョンへと押し上げている。
太く描かれた線と強烈な色彩で、見る者を唖然とさせるアニメーターの力技が炸裂する作品だ。
物語は直線的だし、設定は曖昧だし、こじつけにしか思えない部分はあるし、だが直線の勢いは凄まじい。「細かいことは良いんだ!」と制作者の強い言葉が聞こえる。『北斗の拳』シリーズが好きな人は理解できるかも?
物語はコリンとマルカスという二人の最強の男が出会い、戦い、決着が付けられるまでである。
単調そのものだし、結末はおおよそ想像がつく。
だが、尋常じゃない渦を巻くようなパッションが映像から溢れ出している。いつまでも続く戦い。終わりなき宿命の対決。世界戦争を経ても尚も戦いを選択し続ける男の物語。
そのドラマはとことん力強く、ビジュアル同様ぶっとい線で描かれ、嵐の勢いで流れ去ろうとする。気付けば最後の戦いが終わる瞬間まで、一時も目が離せない映像体験になっていた。
見終わった後も、しばらく体に熱が残る映画である。
監督:川尻義昭
脚本:デヴィッド・アブラモウィッツ
音楽:ユーシー・テジェルマン ネイサン・ワン
出演:小栗旬 山寺宏一 朴璐美 高山みなみ
林原めぐみ 富田耕作 日野由利加 石塚運昇
屋良有作 土師孝也 藤原啓治 小林沙苗
三宅健太 佐々木誠二 稲田徹 高瀬右光
佐藤智恵 麻生智久 金野潤 高橋研二
仁科洋平 平田絵里子 青木強 小林かつのり
園田秦隆 沢見幸徳 立岡耕造 中司優花
中上育実 高津原まり子 浅井麻理
コリンは、ボートをデパートのほうへ向けた。水は2階駐車場まで入り込んでいる。コリンは駐車場へ入っていき、ボートを止めた。
駐車場から中へ入っていった。内部は荒廃を極め、活動しているものは一つとして見当たらない。天井から、ミイラ化した死体が吊り下げられているのが見えた。
「よく飽きないもんだ」
死体の一つが、コリンにくるりと首を向けてにやりと微笑みかけた。
「お前もだ」
コリンは無感情に呟いて、死体のそばを通り過ぎた。
「なんだ、貴様は?」
男の一人がコリンの前に進み出た。頭に角がある、畸形だった。
ごろつきたちがコリンの周囲に集ってきた。いずれも異形の姿をしていて、まともな人間は一人としていなかった。
「気にするな。人を探しているだけだ」
コリンは冷静に集ってきたごろつきの顔を一つ一つ確かめた。
――妙だ。確かにあいつの気配を感じたのに。
「いい度胸だ。誰を探しているって?」
角をつけた男がコリンに掴みかかろうとした。
ごろつきたちの顔に恐怖が浮かんだ。さっきまでの勢いはなくなり、散り散りになってコリンから逃げ出した。
その時だ。あの気配だ。コリンはただならぬ物を察して、
「俺の名はマライケ。ただの賞金稼ぎかと思ったら、“同属”がやってきたとはな」
トラックから大男が現れた。手にしているのは、鋭い刃を持った異様に大きさのチェーンソーだった。
「悪いが人違いだった」
コリンはマライケを充分警戒した。
「シティが俺に賭けた1万ドルの賞金も諦めるのか?」
「酒代には多すぎる」
マライケが突進した。コリンは避けつつ、刀で牽制した。火花が散った。マライケはさらにコリンを追撃した。巨大なチェーンソーが振り落とされる。コリンは刀で受け止めた。
マライケが筋肉質の顔を恍惚にゆがめた。
「だが生き残りし者は一人だ!」
マライケが腕に力を込めた。コリンの体が吹っ飛んだ。コリンはガラスの天井を突き破って、デパートの中へ落ちた。
マライケがチェーンソーを手に飛び降りてきた。コリンは神経を研ぎ澄
瞬間、青い火花が飛び散った。
デパートの中は、廃墟としての沈黙を取り戻した。
「……ば、馬鹿な。お前はいったい」
マライケの首に、切れ目が走り、頭がずるりと落ちた。
コリンはエスカレーターに着地して、静かに言い放った。
マライケの体から電流が溢れ出した。電流はデパート全体を走り、コリンの体に注がれた。溢れ出るエネルギーはそれでも収まらず、天上を貫き、雷を逆さまに迸らせた。
主人公コリンは不死族である。首を落とされぬ限り、どんな怪我を負っても決して死なないし、寿命から解放されている。
不死族は不死身であるが、同時に戦士としての宿命を背負う。それは不死族同士の決して避けられない戦いだ。
不死族は相手の首を切った直後、その体から生命エネルギーを放ち、それを浴びるとより強い力を得られる。だから不死族は、より強い力を得るために、不死族同士殺し合いを続ける。
ただし、その舞台が聖域である場合、戦いに一時の休息が儲けられる。
また不死族は子供を作ることができない。
以上の三つが不死族に絡みつく絶対のルールである。だから不死族はより強いエネルギーを得るために、同じ不死族を求め続け、殺し合いを繰り広げる。
不死族の宿命という以上に、主人公のコリンにはもう一つ運命を背負っていた。
そ
間もなく迫ってくる2000人の大軍勢。抵抗するコリンが率いる軍団はわずか100人だった。
敗北が確定した戦い。それでもコリンは、一族の誇りをかけて戦うと決心していた。
しかし妻のモーヤは、ローマの将軍マルカスのもとへ一人で行き、戦いをやめるよう訴える。マルカスはそのモーヤを磔にし、コリンの村を襲い掛かった。
一夜明けて、村は壊滅。コリンだけが瓦礫の下に埋もれ、奇跡的に一命を取り留めた。だが、村の全ては滅ぼされ、顔を上げると、丘の上には磔にされて死んでいるモーヤがいた。
コリンはマルカスへの復讐を誓った。どこまでも追いかけて、必ずマルカスを殺す、と。
それから二人の宿命の戦いが始まる。互いに不死族同士だったコリントマルカス。戦いは場所を移し、時代を移しながら延々と続く。
物語は直線的だし、世界観は典型的な世紀末風SFサイバーパンクである。映画『ハイランダー』独自の映像感、世界構造はそこにはない。いかにもどこかで見た、典型的なSF映画である。キャラクターも台詞も、『ハイランダー』独自の個性はどこにも見当たらない。
ただし、映像から感じるエネルギーは想像以上に鮮烈だ。
太く、濃い線でしつこいくらいに描かれたキャラクター。はっきりと切り分けられた色彩。アニメーションはどの瞬間も素晴らしい精度で完成され、見る者に一瞬の隙も許さない。
物語は単調だが、極限までに高められたアニメーション技術が、平凡さを鮮烈なビジョンへと押し上げている。
太く描かれた線と強烈な色彩で、見る者を唖然とさせるアニメーターの力技が炸裂する作品だ。
物語はコリンとマルカスという二人の最強の男が出会い、戦い、決着が付けられるまでである。
だが、尋常じゃない渦を巻くようなパッションが映像から溢れ出している。いつまでも続く戦い。終わりなき宿命の対決。世界戦争を経ても尚も戦いを選択し続ける男の物語。
そのドラマはとことん力強く、ビジュアル同様ぶっとい線で描かれ、嵐の勢いで流れ去ろうとする。気付けば最後の戦いが終わる瞬間まで、一時も目が離せない映像体験になっていた。
見終わった後も、しばらく体に熱が残る映画である。
監督:川尻義昭
脚本:デヴィッド・アブラモウィッツ
音楽:ユーシー・テジェルマン ネイサン・ワン
出演:小栗旬 山寺宏一 朴璐美 高山みなみ
林原めぐみ 富田耕作 日野由利加 石塚運昇
屋良有作 土師孝也 藤原啓治 小林沙苗
三宅健太 佐々木誠二 稲田徹 高瀬右光
佐藤智恵 麻生智久 金野潤 高橋研二
仁科洋平 平田絵里子 青木強 小林かつのり
園田秦隆 沢見幸徳 立岡耕造 中司優花
中上育実 高津原まり子 浅井麻理
■2009/08/22 (Sat)
劇場アニメ■
「父ちゃん、竜って見たことある?」
「ああ、小っちぇころ、一度だけな。ひでぇ旱があったと
河童の親子が言葉を交わしていた。
夜は深く、虫の声も次第に遠くなりかけている。涼しげな空気が辺りを満たしていた。
そんな夜の闇に、提灯の明かりが浮かび上がった。河童の親子が振り返った。草ばかりのあぜ道を、侍と提灯を持った商人が寄り添って歩いていた。
侍の頬が、ほのかに赤く染まっていた。提灯の明かりでも、酒に酔った侍の顔が僅かに確認できた。
「何を仰います。またいつでもお越しを……」
商人の男がしまりのない微笑を侍に向けた。
「そう度々とお金は作れぬ。帳面を書き換えるのは容易だが、どこから疑われるやもしれんからな。近頃は上も何かとうるさい。ばれない程度にやっているが、なにしろ俺たちがやっているのは、必要のない農地開拓だ。百姓の懐ではなく、俺たちの懐を肥やしている」
「まったくで」
商人の男がにやにやと笑った。侍もつられるように、喉の奥を鳴らすように笑った。
「晩でやす。ああ、たまがすつもりはねがったです。勘弁してくだせえ。お手間は取らせません。ちょっくら話を聞いてくだせえ。実はお役人様にお願いがございまして。私は竜神沼に住んでいる者でございます。聞くところによると、この度、竜神沼を開拓し、田圃にする話が
河童の父親は、侍と商人を脅かさないように慎重に言葉を選んで頭を下げた。
「妖怪風情が調子に乗りおって。おい、河童。貴
「ええ。何の話か、わかんねえかったですが……」
「嘘を申せ! 開拓をやめねば聞いたことを代官に出も訴えるか!」
侍が刀を抜いた。はっとする間もなく、河童の父親の腕を切り落とした。
河童の子供は、驚いて逃げ出そうとした。だがその時、地震が襲いかかった。地面が引き裂け、河童の子供はその裂け目へと落ちていく……。
それから数百年後。物語は現代の埼玉に移る。
水をかけると河童は蘇生し、クゥと鳴き始めた。体は衰弱してたが、食べ物を与えると次第に回復していった。
上原康一は河童にクゥと名付けて、秘密の共生生活を始める。
物語の中心にあるのは、少年と河童の交流の物語だ。だが、物語は少年と河童だけに閉鎖せず、家族や現代社会を巻き込んでいく。
河童という秘密を抱えた少年は、少年のコミュニティから遠ざかっていき、河童との関係を深めていく家族に
物語はやがて、家族スケール、地方都市スケールの物語から、日本そのものを取り巻く巨大メディアを中心にした大騒動へと発展していく。
河童という異端者が人間の本質的な光と闇を暴き出し、人間が持つ野獣性をむき出しにさせていく。それは社会性やモラルといった言葉に隠蔽された、日本人が普遍的に持っている、ひたすら環境に振り回されだけの盲目的で付和雷同的な性格そのものである。
クゥとは現代に残された自然の象徴そのものだ。失われつつある自然の体現者として、現代人の前に現れた使者であるといえる。
だが日本人は、そんな最後の資源すら、お祭り騒ぎの具にして消費してしまう。
日本人にとって、あらゆる自然は消費する対象としか見ていない。ただひたすら消費し、自分の周辺から自然が失われていくことに対して、無関心と無自覚を決め込んでいる。
問題はテレビの向こう側に押し込んで、昼も夜もない狂騒に踊り狂う。
日本人は最後のときまで、ただただ群がってお祭り騒ぎを続けるのだろう。
『河童のクゥと夏休み』は映画としては極めて段取りが悪く、歯切れもよくない。
映像の感性は凡庸で、前衛的なエネルギーも、繊細さも感じない。物語の展開は進んだり停滞を繰り返して、連続性は弱く、見る者を引き込む力は弱い。後半の展開も、順序立てが充分ではなく強引に押し込んだ感じで、自然な流れとは言いがたい。
クゥと接した少年がどのように変化し、成長していくか、その過程を追った物語だ。それから、少年が失った絆を取り戻す過程を描いた作品だ。
夏になると、再び見る機会が巡ってくるかもしれない映画だ。
監督:原恵一 原作:木暮正夫
キャラクターデザイン:末吉裕一郎 美術監督:中村隆
色彩設計:野中幸子 撮影監督:箭内光一 編集:小島俊彦
デジタル監督:つつみのりゆき 音楽:若草恵 音響監督:大熊昭
アニメーション制作:シンエイ動画
出演:冨澤風斗 横川貴大 田中直樹 西田尚美
松元環季 安原義人 なぎら健壱 植松夏希
羽佐間道夫 藤本譲 富田耕生 一城みゆ希
岩田安生 稲葉実 定岡小百合 井上里花
藤原啓治 矢島晶子 優希比呂 子安武人
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