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■2013/12/02 (Mon)
なぜ『かぐや姫の物語』なのか。
原作『竹取物語』の物語は古く、『日本書紀』や『万葉集』に並ぶくらいの歴史を持っている。由緒正しき古典であり、日本人なら誰もが知っている物語でありながら、しかし謎めいた部分も多い。たけのこから生まれたお姫様がなぜ月を古里に帰ってしまうのか。なぜ高貴な身分の男たちが求婚しても、無理難題を突きつけて断ってしまったのか。原典には登場人物の感情がごっそり抜け落ちて、ただただ不思議な現象だけが次々に起きて、物語は終わってしまう。
奇妙な物語だが、近代的な解釈による改竄を許さないプロットの強さを持っており、ゆえに現代まで形を変えることもなく、全ての時代を通じて日本人は『竹取物語』の物語を受け入れ受け継いできた(過去に当時の都市伝説的な説話と結びついて、UFOがかぐや姫を迎えに来る映画が作られたことはあるが)
そんな古い物語をなぜ今の時代に映画化しようと思ったのか。この感情が抜け落ちた物語のどこに映画的な情緒【カタルシス】があるというのか――。『かぐや姫の物語』の「なぜ?」を問うとき、この疑問に向き合わなくてはならなくなるだろう。

映像は見ての通り余白が多い。線は大らかな柔らかい線で描かれており、通常のアニメのように正確な線で繋げられていない。
高畑勲監督は「仕方ないからあのように描いていた」と語る。アニメの絵は、なぜアニメ特有の絵になるのか。それは制作上の“都合”によるものが大きい。アニメの絵は“あのように描こうとしてああなった”のではなく、“結果的にそうなってしまった”が本当である。
だから高畑勲監督はアニメの絵に、本来そうであるはずだった絵画の性質を取り戻そうとした。制作の都合上、システマチックに構築されたアニメはすでにあまりにも高度な世界に達しており、アニメにさほど詳しくない人の目には「全てCGで作られている」と思われるようになってしまった。人の手で一枚一枚描かれている、ということを知っている人は少なく、アニメは人の手で描いているということがわからないという域に達している。
高畑勲監督の試みは、アニメからアニメを取り除くことから始めた。仕上げの線は先端を丸くした鉛筆を使い、ざらつきがはっきり出るように描かれた。色彩は水彩絵の具風で、ムラや塗り残しを敢えて作る。背景も鉛筆の線を中心に水彩絵の具でさらっと塗って仕上げた。こうして作られた映像は、背景とキャラクターの境界を限りなく曖昧にして、カットが一枚の絵として自立した力強さを持つようになった。アニメの制作方法をうまく利用しながら、仕上がりは“アニメ”ではなく、「動く水彩画」として映像を完成させたのだ。

従来のアニメの技法を使いながら仕上がりはアニメを目指さない。ゆえにこの作品特有の表現も多い。例えば発光処理だ。
冒頭の光る竹が登場する場面。光の表現を放射状に取り囲む線で表現されている。
非常に漫画的。普通の絵描きなら、色彩で光を表現する。画面のコントラストを強くして、光の存在を描こうとする。しかし『かぐや姫の物語』では従来的なセオリーを否定して、まるで子供が描く絵のように、光の放射を実線で描いた。絵描きの世界ではあり得ない“幼稚な方法”がここでは敢えて使われている。

演出は空間を表現する場合には正面を、移動感を示す場合には横の構図が使われている。
その場にある空間的なディテールを表現したい場合には対象を正面から捉えて、密度の高さを伝えようとする。
一方、移動は必ず横構図だ。横構図の移動が描かれるとき、背景は一気に削ぎ落とされ、移動する場所のみが描かれる。
単に構図からディテールを取り去り、シンプルに画面を見せる、というだけではなく、構図の流れを誰の目ににも明らかなように作られている。
光源処理が放射状の点と線で描かれるように、構図の作りも誰の目にも明らかなように、ある意味で“幼稚な描き方”をあえて取り入れることで、絵画にプリミティブな性質を与えている。

映画は作家的な芸術性以上に、学術的な視点が追求されているように思える。例えば、かぐや姫が育った環境だ。竹取の翁の生活……「野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことに使いけり」の具体的な部分を描写している。具体的に何をどのように作ったのか、が具体的に描かれている。竹を切る場面でも、道具の一つ一つが細かく描写されている。従来の絵本や映画で描かれたような、鉈一本で仕事していたのではなく、様々な道具を使い、どのように竹を切っていたか、というところまでびっしりと描いている。
翁と媼の暮らしだけではなく、周囲に住んでいる一家の描写も詳しい。捨丸一家がお椀を作り売るまでの描写を、まるで職人仕事のドキュメンタリーのように丹念に描いている。
当時の子供たちが何で遊んでいた、どんな仕事をしていたのかも詳しい。森に入ってその晩に食べる総菜を集めたり、葡萄の実を食べたり。キジを捕まえる一連の場面は、キャラクターの動き、周囲の自然の風景を含めて見事な描写だった。
そうした“学術的な目線”は都に入ってからより凄まじい力を持ち始める。当時の貴族の暮らしはどんなものであったのか。どんな家に住み、どんな衣装を着て、どんなしきたりがあったのか。名付けの儀式や、宴会の場面。一つ一つが詳しく、ディテールが徹底されている。
現代的な目線で、現代的な考え方で当時を捉えるのではなく、どこまでも学術的な目線で『竹取物語』の主舞台であると思われる平安時代の習俗を描き込んでいる。
絵には余白が多いが、その向こうに注ぎ込まれているものは非常に大きい。ディテールにこだわった映画は、画面を目一杯の密度で満たしてしまう。見る時は作ったディテールの10%が伝わればいい。捉えきれない90%が画面の迫力となって力を持つ、と考えられている。『かぐや姫の物語』は同じように学術的な目線を徹底させているが、この捉えきれない90%のところを思い切って削ぎ落として余白にしてしまう。しかし描写が的確だからこそ、余白にこそ圧倒させるディテールの密度が感じられるように作られている。この発想の転換は素晴らしい。

線の描き方は従来のアニメと違うアプローチが試みられている。従来のアニメ表現で体や顔が動かず口だけが動く場合、体は1枚の止め絵、口パクだけが3枚程度で描かれる。
しかし『かぐや姫の物語』は部分的に動く、という方法は使われていない。動く必要のない場面でも、わざわざ書き起こされ、線のブレが表現されている。動きを失ったイラストレーションになりつつ日本のアニメに対する批評のように、線がブレ、動きが与えられている。
線の動きに演出的な効果が与えられる場合がある。キャラクターの感情と線の動きが一体となって動き出す瞬間がしばしばある。かぐや姫に動揺や恐れが現れる場合、線にかすれやざらつきが大きく現れる。一方、落ち着いた心情や解放感を表す瞬間には線は美しく描かれる。線と感情が一体となっているので、シーンによってかぐや姫の顔や姿が、まるで別人のように描かれることさえある。キャラクターの動きや構図の作り方だけではなく、画面を構築する線そのものが感情を描写する一つの手法として使われている。
線のブレが最大になる瞬間は、予告編でも使われたかぐや姫が服を脱ぎ捨てながら都を飛び出すあの瞬間だ。線がかぐや姫の感情と一体となって激しくブレ、意味のない線が現れ、背景の線も一緒になって崩れ、ついにはかぐや姫は木炭の像になってしまう……。かぐや姫の葛藤が最大になった瞬間だ。
従来のアニメのように、線が機械のように硬直したものではなく、映画が持っている感情と一体となって描写され躍動するように意識されている。

映画『かぐや姫の物語』は私たちが知っている『竹取物語』をそのまま映画化したものだ。原作の記述を忠実に映像化している。
映画にする限りは、「映画的な修正と改竄」は必ず必要である。恋愛にアクション、VFX……映画的な見せ場がなければエンターテインメントとして成立しない。そう考えられている。最近のハリウッド映画では童話が次々と映像化されているが、どの作品を見ても最後にはヒロインが武器を手にして怪物の大軍と戦うストーリーになっている(私の大嫌いなパターンだ)。これも現代の観客の感性に合わせた修正と改竄だ。
しかし『かぐや姫の物語』は驚くほど原作に忠実だ。原作に書かれているとおりにかぐや姫は4人の男性からの求婚を断り、帝を拒絶して最後には月に帰ってしまう。「現代的なストーリー」というよりは、当時の風俗や習慣を徹底的に調査した上で、「当時の人達が感じていたストーリー」をそのまま再現することを務めている。こうした点でも“学術的な視点”の作品といえる。
原作に登場しない唯一のオリジナルキャラクターとして捨丸が登場するが、これはかぐや姫の子供時代、少女時代の体験を肉付けするために必要なキャラクターだし、捨丸との交流があったからこそ、その後の疑問すら氷解させる。「かぐや姫はなぜ求婚を拒絶したのか?」「なぜ月に帰らなければならなかったのか」。捨丸との生活に理想を見出していたかぐや姫が宮廷での生活に倦んで、精神的に追い詰められ、そこからの最終的な逃避として月へと帰ってしまう。いや、“月に帰る”ではなく、“月が迎えに来る”というほうが正しい。かぐや姫の月への帰還は、自ら望んだものではなく、“思いがけず強制的に”というべきものだ。
そうしたかぐや姫の心情の流れを、捨丸という存在がいるからこそ説得力あるものにしている。捨丸との森での暮らしがあったからこそ、かぐや姫が宮廷での生活に不満をためて、男たちの求婚を拒絶するというストーリーに説得力を加えている。捨丸が『かぐや姫の物語』の全体に特別な力を与えているのだ。
原作を飛躍させる捨丸は学術的なものではなく、作家的な改竄というべきものかも知れない。しかし捨丸がいるお陰で、原作中の不可解な部分に光が当てられる。原作中に削ぎ落とされたそれぞれの登場人物の感情を、克明なものとして浮き上がらせる。捨丸は作家的な産物だが、翻って学術的な視点を持って物語に“理由”を与えている。これはもはや、高畑勲監督による『新説・竹取物語』と呼ぶべき内容になっている。

これは喪失の物語である。
かぐや姫が受けた罪と罰とは何であるか。「罰」という言葉は原典『竹取物語』にも出てくるが、何を指しているかは判然としない。映画中でも「罪と罰」についてあまり詳しく掘り下げられておらず、映画本編よりパンフレットに書かれた企画原案のほうが詳しい。
もしも『竹取物語』のストーリーに、『天女の羽衣』が前編としてあったら……。というこれは、高畑勲監督個人の空想ではなく、実際に『竹取物語』と『天女の羽衣』が関連を持ったストーリーであるという学説が存在する。かぐや姫は天女の物語を知り、地上への好奇心を抱いて、天女の記憶を再生させた。天女が地上にいた頃の“幸福”だった気持ちを再生させてしまった。この“幸福”こそが、最大最悪の“苦痛”だったのだ。その苦痛を与えてしまった“罰”として、かぐや姫は地上に降ろされたのだ。
こうして、翁に拾われて『竹取物語』の物語が始まる。
地上に降ろされ、子供から人生を始めることになったかぐや姫は、自分の足で立って歩くという喜びを、言葉を発してコミュニケーションを取るという喜びを体験する。ご飯を食べて美味しい。人と接して嬉しい。野を駆け回って楽しい。どれも不老不死が約束される天上界では決して得られない感情だった。
この幸福は周囲にいる媼や翁にも伝播して、「立った!」「歩いた!」「喋った!」と些細な一つ一つに喜びを与える。それだけではなく、かぐや姫の生命力は周りのものに作用して、年老いた媼に乳を出させてしまう。
周りの誰もが幸福になり、本人も幸福を隠そうとしない。しかし間もなくこの幸福が違うものへと狂わせようとしてしまう。
はじめに道を違えたのは翁だった。かぐや姫が現れて間もなく、金が一杯に詰まった竹が現れるようになった。さらに綺麗な反物が詰まった竹も。
翁は考える。これはきっと、かぐや姫によりより生活をさせよ、相応しい場所で相応しい男性を与えよという神からのメッセージに違いない。翁は得た金で宮廷の暮らしを獲得するが、以降は宮廷での地位や立場ばかりに固執する老人になってしまう。かぐや姫自身の幸福ではなく、地位や名誉に幸福を見出そうとする(もっとも、それでも愛らしい老人として描かれている)
宮廷の生活が始まってからは、かぐや姫が持っている魔力は、負の力を持って周囲に作用する。都の男たちはみんなこぞってかぐや姫を一目見ようと思うし、恋文が大量に届くし、さらには求婚を申し出るものが後を絶たない。そうした生活がかぐや姫を追い込んでいくし、そういった生活から逃れようと拒絶するうちに周りの人達に次々と不幸が降りかかってしまう。求婚を申し出た男たちは破産し、失脚し、ついには死者が出てしまった。そうすると翁や媼の(貴族階級の暮らしの中での)立場が悪くなってしまう。かぐや姫自身もすっかり“偉い人”と思われるようになって、周りの人達が恐れて避けられるようになってしまう。
かぐや姫は宮廷での生活がついに我慢できず、あの森へと逃亡するが、自分たちが暮らした家はすでに見知らぬ一家が住んでいるし、捨丸一家は森を去ってしまっていた。捨丸の家があった周辺は、深い森に飲み込まれて跡すら残っていなかった。ただうらぶれた空気が辺りを満たすだけである。
その後、かぐや姫が再び捨丸を目撃するのは、盗人としての生活をしているところである。
エデンの追放。楽園の崩壊。一度楽園を去った者は、どんなに願っても楽園を手にすることはできない。それは過去だからだ。
かぐや姫が持っている無限の愛らしさは、周りの者達に過剰な幸福感を与え、それがある時に刺となって突き刺さり始める。幸福だった感情は、後半に入り不幸に反転し始める。
その後もかぐや姫は森での暮らしを想い続ける。森で暮らしていた頃の思い出を、どこかで追い続ける。森での暮らしは夢想の中で、理想となって輝き始める。
物語の最後、かぐや姫は捨丸と飛翔する夢を見る。飛翔は深層心理学的にいえば性的な感覚を意味するが、この作品が指向したのはもっと原初的な“解放”の感情だ。野を駆け回り、冷たい、熱いと些細なことで笑ったり大騒ぎしたりする、根源的で動物的な感情の回復。動物性の回帰。それを象徴し、最大限に表現したものがあの飛翔なのだ。そしてその飛翔はただの夢に過ぎず、はっと気付いた時にはどこかに遠ざかって消えてしまう。所詮は夢……眠っているときに見る願望に過ぎなかった。
こうしてかぐや姫は月へと帰ってしまう。“幸福”という感情を知る罰が終わったから。月への帰還は、最後の罰だった。強制的な月への帰還により、後に“心残り”が残るからだ。幸福な思い出や、この心残りを含めた全てが“苦痛”として跳ね返ってくる。これが天界がかぐや姫に与えた“罰”の全体だった。そして、幸福を得て周りに幸福を与えたことが、かぐや姫にとっての罪だった。

なぜ今の時代に『竹取物語』を映画にしたのか。『竹取物語』は映画になりうる題材なのか。
その疑問に、映画全体が回答を示してくれた。『かぐや姫の物語』には映画的な情緒で満たされている。しかも、映画は古典に「現代的な視点」をほとんど与えていない。今時な恋愛やアクションVFXは完全に拒否し、むしろ学術的な視点を徹底させて平安時代の暮らしを再現させている(ひょっとして最後はUFOが迎えに来る話か……と思ったがもちろんそういう展開もなし。現代的な視点を拒否し、古典に寄り添ったストーリーでありながら、『かぐや姫の物語』はどこまでも映画的で、映画的な感情を満たしている。映画になっているのだ。
高畑勲監督は古典『竹取物語』をより強い感情を持った物語として再生させた。『かぐや姫の物語』と接すると、よりビビッドな印象として、日本人の意識に『竹取物語』が強く刻印されることだろう。

感想補足


作品データ
監督:高畑勲 原作:『竹取物語』作者不明
脚本:坂口理子 作画監督・人物造形:田辺修 作画監督:小西賢一
美術:男鹿和雄 塗・模様作画:斎藤昌哉 色指定:垣田由紀子
撮影監督:中村圭介 CG:中島智成 音楽:久石譲
製作:氏家齋一郎 企画:鈴木敏夫
アニメーション製作:スタジオジブリ
出演:朝倉あき 高良健吾 地井武男 宮本信子
    高畑淳子 田畑智子 立川志の輔 上川隆也
    伊集院光 宇崎竜童 中村七之介 橋爪功

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■2013/10/28 (Mon)

「内容があまりにもデタラメ」という指摘を受けて削除しました。

本当に申し訳ありませんでした。私は何もわかっていませんでした。

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■2013/07/29 (Mon)
この記事には映画のネタバレが多く書かれています。
映画をまだご覧になっていない人は決して読まないでください。

オープニングアニメーション

「もーいいかい」
画面がゆっくりフェードして、大きな鳥居が現れる。赤いワンピースの少女がしゃがみ込み、自分の手で目を隠している。どうやらかくれんぼに興じているようだ。
その始まりのカットから奇妙な印象が画面全体に漂っている。鳥居が描かれているが、どこにも境内は描かれていない。少女の背後に描かれているのは異様な重々しさを持ったコンクリートの残骸――廃墟だ。しかも暮れかける時間で、廃墟に暗い影を落とし始めている。
全てが“端境”を示唆している。鳥居は人間の俗世界と神の神聖なる世界を分けるシンボルだ。暗闇が静かに広まる夕暮れの時間はかつて“逢魔が時”と呼ばれていた。廃墟はかつて何かであったものの残骸であり、現在は何物でもない建築物の遺骸である。そんな只中で“かくれんぼ”を興じる少女は、目を隠し、現実の世界から一時的に目を離している。
案の定、少女は異界に迷い込んでしまう。「もーいいかい」と目を開けて振り返ると、そこは見知らぬ場所で、案内人の白ウサギがぽつんと立っている。白ウサギについて行こうとすると、その向こうから手が伸びて、少女を掴み“あちらの世界”に引きずり込まれてしまう。少女の眼前に現れたのは様々なイメージだ。近未来の世界であり、清涼たる自然のイメージであり……。そのイメージはただ少女を翻弄するだけではなく、ついに少女の体内にまで潜り込み、少女そのものを様々なイメージに変換させる。少女は体内から沸き起こるイメージの連打に驚き、声を上げて、歓喜する。光輝く体内からふわりと現れるのは『SHORTPEACE』の文字。
少女が迷い込んだのは日本人がイメージし、日本人が描いた“日本”という名の異界だ。そのアニメーションは単に『SHORT PEACE』というタイトルを出すために作られた短編であるが、描かれているイメージは圧倒的だし、通俗的な瞬間も見られるがそれを内包しつつ突き抜けたパッションで満たされている。これから始まる映像絵巻のスケールを示唆する物として、充分な力を持った短編アニメーションだ。

作品データ
監督・デザインワーク・作画:森本晃司 音楽:Minilogue
出演:春名風花

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九十九

森はすっかり夜だった。雨は激しく降り注ぎ、雷鳴が轟いている。男はどこかに雨をしのげる場所はないだろうか、と辺りを見回す。すると鬱蒼たる森の深い闇の中に、小さな塚が建てられているのに気付く。「ちょうどいい……」と男は思い、塚の中へと駆け込んだ。
男は旅の疲れを取ろうと、目を閉じて落ち着こうとする。それからふと気付くと、違う場所に迷い込んでいた……。
『九十九』はほとんどがデジタルで作られた作品だ。キャラクターの線は、いかにもデジタルといった感じの固くくっきりとした線で、当然だが一切の“ブレ”がない。旧来的なアニメのイメージで描かれた線に対して、色彩は色トレス塗り分けのようにはっきりと分かれず、淡くグラデーションがかけらえている。静止した一点画になると、この処理がイラストレーションのようでなかなか美しい。しかし動画には線に呼吸感がなく、躍動が感じられない。
すべてがデジタルで描かれた理由と利点は、背景やキャラクターに貼り込まれた「和柄」だ。主人公である男の衣装に描かれたパッチワークのような模様。これが一切の破綻を起こさず、キャラクターにしっかり接地して動き出す。
見知らぬ場所に迷い込んだ男の前に、無数の和傘が目の前で花開く。しかし和傘は古くなり破れ、人ならざる異形が取り憑こうとしている。しかし男は驚きも怯えもせず、妖怪が取り憑く和傘を感嘆して覗き込み、さらに「ちょっと拝借」と手に取ってしまう。男は道具箱を開き、そこに収めていた和紙を引っ張り出すと、破れた和傘を次々と直してしまう。男は古くなって壊れた物を直す、「修理屋」であったのだ。
日本人は、物に対してフェティッシュな考え方を持っている。全ての物に命が宿っていると考えている。物作りを生業にする多くの人は、今でも自分の作っている物に命が宿っていると信じている。流通した後の物であっても、人々は丁重に扱い、愛着を持ち、使わなくなっても大切に保管した。それでも使い切った道具は、“捨てず”に“奉納”したのである。物を異界の霊の元に送り返したのだ。
室町時代の京都を闊歩した「百鬼夜行」と呼ばれる妖怪の集団は、見るからに道具に宿った霊達であった。まさに“物怪”である。物怪の起源についてはさすがに詳しくわからないが、“物”の“怪”という字が当てられていることから、おそらく全ての物に霊が宿るというアニミズム的な信仰と無関係ではあるまい。
『九十九』はまさにその考え方をアニメーションの中で描いた作品だ。物を愛し、物に淫し、物に霊を見出す。そうした日本人が根源的に持っている、“見えざるもの”への信仰そのものをテーマにしている。
男は、使い切ったといえず捨てられたしまった哀れな傘を修繕し、次に使われず捨てられてしまった反物を修繕する。しかしその最後に現れたのは、もはや修繕不能になった道具の霊である。修繕もできなくなり、人から捨てられた道具たちの集合体である。
そんな物怪を前にして、男は手を合わせ、拝むのである。もはや使いようのない道具の霊を感謝し、慰めるのである。使い切った道具を捨てずに“奉納”する……物に神の霊を見出す、日本人の心象そのものが、ここに描かれる。

作品データ
監督・脚本:森田修平
ストーリー原案・コンセプトデザイン:岸啓介 キャラクターデザイン:桟敷大祐
CGI監督:坂本隆輔 美術:中村豪希 作画:堀内博之 音楽:北里玲二
出演:山寺宏一 悠木碧 草尾毅

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火要鎮

映像が始まって最初に現れるのは一つの絵巻物だ。紐が解かれ絵巻物が広がると、画面は左へ左へと進んでいく。絵巻物に現れるのは17世紀の江戸の風景だ。しかもその風景は、“現代人が考えたリアルな風景”ではなく、当時の人が考え、当時の人がおそらくそうした意識で見ていたであろう浮世絵の風景であり、日本画が描いた風景である。その風景がずっと左へと進んでいくと、やがて遠くに見えていた家が接近し、とある大店の屋敷を捉えたところで止まる。
屋敷に住んでいる幼い女の子と、その隣に住んでいる同じ年頃の男の子の物語だ。この絵に、現代的な透視図法が使用されていない。平面的な縦と斜めの線だけで構築されている。影は全く描かれておらず、線の流れは流麗だが立体感はまったくない。17世紀当時、頻繁に描かれた絵画の典型的な様式の再現であり、しかもその様式美の中で人物が演技を始めるのである。
やがてカメラが接近していき、数年後の世界が描かれる。あの女の子と男の子は大人になっている。男の子は火消しに憧れて放蕩を繰り返すうちについに勘当されてしまう。女の子は年頃になり縁談話がやってくるが、想いは未だに勘当されたあの男の子にある。
『火要鎮』は浮世絵・日本画の再現である。それも完璧といえる精度である。絵を見ると現代人ではなく17世紀当時の人が描いた、と納得してしまうくらいの、あまりにも完璧、徹底的に作られた浮世絵の再現アニメである。
どの構図にもまったく立体感がない。透視図法の概念のない時代の絵画が再現されている。縦と斜めの線、それは中世の時代、頻繁に描かれた典型的な浮世絵の構図だ。キャラクターはおそらく日本画から取られているのだろう。日本髪の生え際に描かれる淡いタッチや、微妙にほつれた髪。その髪に飾られる様々な美しい装身具。人間は手書きのアニメーションで描かれ、髪の部分だけがデジタルで貼り込まれて作られた。ちょうど、デジタルのカツラを被せた、という感じだったようだ。こうして完成された動画は、まさしく美人画そのもの。アニメに対して沈黙を続ける画壇も頷かなければならないクオリティだ。
アニメーションの絵は浮世絵に似ている……。なんてことは過去50年間言われ続け、50年間無視されてきた事実だ。線を追いかけていく漫画の技法と、線での構成を様式美まで押し上げた日本画と、版画で生産する都合で線が主体になった浮世絵。それぞれに技術的理由が背景にあって結果的にそういった形に進化したわけだけど、おそらくはそれ以上に日本人が連綿として受け継いできた精神性が似通った形にしてしまうのだろう。
『火要鎮』の凄まじさは、現代的な感性を徹底的に排除して、17世紀当時の感性を再現して見せたことだ。現代的な空間構造は完全に否定されている。レイアウト作りの作法から見直されている。色彩の使い方も、アニメカラーではなく当時の絵でよく見られる淡い中間色だ。衣装の細かい模様や、髪の描き方、立ち回りや言葉遣い、何もかもが浮世絵時代の再現。現代人が考えるリアリティなどがそこに入る余地はなく、現代的な感性で時代劇の世界を刷新するという考えを放棄し、17世紀当時の視点に立ち、その当時の人達が見ていたであろう心象世界そのものを描いてしまっている。
物語後半、江戸の街は業火に包まれる。この場面の炎の描写。めらめらと燃え上がる炎の形。やはりリアルな炎ではなく、絵画の中に描かれた、当時の人が感じていたリアルな絵だ。この炎のフォルムは、伴大納言絵巻から採られているという。実際の炎はあんな形をしていないが、当時の人の美意識が様式化して見せた炎の形そのもので、しかもそれを動画として動かしつつ、かつ炎と感じられる激しさをそこに込めさせている。
火事が起きると火消しの出番だ。当時は放水技術などないから、火事が起きる隣家に乗り込んでいって、柱を切り倒し、思い切って倒してしまう。破壊消防と呼ばれる方法だ。炎が描くスペクタクルも凄まじいが、この破壊消防のシーンも圧巻だ。これまで美しい浮世絵の描写にただ感嘆していたものが、火事の場面に入ると画面が作り出す迫力に圧倒されてしまう。構図は相変わらずパースのない画であるのに関わらず、火消し達が次々と乗り込み、生々しく入り乱れる人々の姿を見て、絵画にすぎないと思っていた世界は、今度はリアルな迫力を持って引き込まれていくのを感じる。そして、そうした荒々しさの中にすっと入り込んでくる哀れさ。作品は荒々しさと詩情を交えながら終幕へと向かっていく……。

作品データ
監督・脚本:大友克洋
キャラクターデザイン・ビジュアルコンセプト:小原秀一 音楽:久保田麻琴
作画監督:外丸達也 エフェクト作画監督:橋本敬史
演出:安藤裕章 美術:谷口淳一・本間禎章
CGI監督:篠田周二 画面設計:山浦晶代
出演:早見沙織 森田成一

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GAMBO

舞台は荒廃が進んだ戦国時代だ。戦ばかりが続き、国土は消耗しきって、人は死に村は絶えて、生き残るためには戦う以外の選択肢はなかった。
そんな最中、とある村の上空から何者かが現れた。およそ3メートルの巨人で、肌の色は赤く、頭に角質化したイボのような角をぽつぽつと付けていた。
見るからにそれは鬼。巨大で凶暴で人の言葉を解さず、立ち向かう者があれば人外の豪腕で粉砕し、問答無用に人の住み家を蹂躙していく。鬼の圧倒的な力を前に人々は為す術もなく破壊されるままに破壊され、女達は連れて行かれていった。たった1匹の鬼の出現で、村は間もなく壊滅という事態まで追い詰められてしまったのだ。
もうすぐ自分も鬼に連れて行かれる……。少女は運命から逃れるように村の外へ駆けていく。辿り着いたそこは彼岸花が咲き乱れる森の一角。その向こうに待ち受けていたのは1頭の巨大な白熊。
少女はすがるように白熊に懇願する「助けて……」。
という物語の流れで、白熊は赤鬼の住み家に乗り込み、決死の戦いを始める。その圧倒的重量感。まさに重量級同士のぶつかり合い。戦国時代の当時、武士ですらやっと150センチという低身長の時代で、家屋も小さい。そんな最中で3メートル級の巨人の戦いは、今の感覚で言うところの怪獣同士の戦いを思わせるくらいの重量感で、実際に映像はそれくらいの力強さが感じられた。
この作品も、最初の一篇『九十九』と同じくデジタル技術でキャラクターが生成されている。ただしこちらの作品は、かなり手書きの生理に近い。私も見ていて、果たして手書きだろうかデジタルだろうか、ど判定できずにいた。後で解説を読むに、キャラクターは全てデジタルで制作されていたようだ。
線はロットリングで描いたような強弱を持った掠れを残し、その線には常にゆらゆらと揺れるタッチ線が添えられている。影は淡く、RETASで作成したグラデーション処理のようで、ややぼんやりした印象に感じられる。『九十九』の線は見るからにデジタルであるのに対して、『GAMBO』の線には手書き特有の呼吸感がわずかに感じられた。揺れるタッチ線がそういう印象を与えているのだろうか。
動きは、特に中割の動きがなだらかに進みすぎて、静の場面ほどデジタルの癖が出ているように感じられた。
もっとも、違和感があったのは線割の動きくらいのもので、アクションが始まったらデジタルであるか、なんてほとんど考えなくなった。おそらく、アクションの動きは1コマ1コマにアニメーターの感性が加わるからだろう。また動きが激しく、考えるより画面の持つ熱量に圧倒されてしまう。
白熊と赤鬼の肌の色は、色を一定に定めず常にゆらゆら揺れている。線画の下に隷属したこの質感がブラシストローク処理に似た印象で、かなりデジタル感があるものの、巨大なものという存在感が何かしら怪しい影がうごめいているような不気味な印象を滲み出している。
『GAMBO』は他のエピソード以上に投げっぱなしの部分が多く感じられる。十字架を下げた白髪の曰くありげな野武士。終盤になって唐突に現れる武装した兵隊は、何ら脈絡もなく現れては白熊対鬼の戦いに参戦する。しかしそれらの解説を全て放り投げて、白熊対鬼の対決という一幕に全てが注がれた作品であった。

作品データ
監督:安藤裕章 原案・脚本・クリエイティブディレクター:石井克人
キャラクター原案:貞本義行 脚本:山本健介
キャラクターデザイン・作画監督:芳垣祐介 美術監督:本間禎章
CGI監督:小久保将志 CGアニメーションチーフ:坂本隆輔
色彩設計・色指定:久保木祐一 コンポジットチーフ:佐藤広大 音楽:七瀬光
出演:田村睦心 浪川大輔

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武器よさらば

『武器よさらば』は大友克洋作品の中でも伝説的な存在感を持つ作品を原作にしている。漫画にデジタル技術が盛りこまれた、最初の作品だ。
舞台となるのは国籍不明の荒野。見渡す限り荒れ果て砂漠化した大地が続き、その中を疾駆する装甲車のような車両が砂煙を吹き上げている。やがて荒野の向こう側に、唐突に残骸のような都市が出現する。舗装されたアスファルトは荒野の手前で寸断され、その一角だけ砂漠のオアシスのように孤立しているが、かつて大きな都市だったらしく、背の高い高層ビルがそびえ立っている。都市の残骸は、長年砂嵐を浴びて、荒野と同じ日に焼けた砂の色をしていた。
主人公達ギムレットの仕事は、廃墟に残された兵器を探索し、この処理を行うことらしい。詳しい設定は語られていないが、彼らは軍人としての訓練も受け、その上でこの仕事を請け負っているようだ。
ギムレット達はプロテクションスーツを身に纏う。これは宇宙服のような外観だが、人間の力を数倍に引き出すパワードスーツで、全身密着型だが空調が効いていて中は涼しく、むしろ荒野のような熱砂の中にいるとプロテクションスーツを着ていた方が涼しいという。
隊員全員がプロテクションスーツを身に纏い、任務遂行のために都市に乗り込んでいく。そこに現れたのはかつての戦争で置き去りにされ現在も機能している無人兵器ゴングだった。ギムレット達はゴングと戦うために作戦を展開していくが……。
監督を務めたのはカトキハジメ。アニメ界隈ではメカデザイナーとしてすでに充分な地位を固めた作家だ。『武器よさらば』は原作に対する猛烈な愛情ばかりではなく、メカデザイナーという仕事で培われた知識、メカに対するフェティッシュな感性が目一杯に注ぎ込まれた作品になった。
作品の中心は言うまでもなく、ゴングとの戦いの一幕に注がれている。ゴングのAIはどうやら高度なものではないようだ。動くものを索敵して、レーザーで打ち込むだけ。ただし、その火力は圧倒的だし、反射速度が異様に速い。たかがそれだけのシンプルな構成のAIだが、人間がこれに立ち向かうのは容易ではない。
ギムレット達は空中に探索機を飛ばして、ゴングの行く先に周り、攻撃のタイミングを見計らう。矢継早に流れていくカット、緊迫した状況、確かな描写力……何もかもが完璧な精度で、少々のハッタリはあるものの充分な知識に基づくアクションだ。原作はどちらかといえばさっぱりした感じの、短いアクションものだったが、映像化された『武器よさらば』はこれでもかと密度を追加して厚みのあるアクションに仕上げている。
“メカ描写”とはやはり“線”だ。デザイン以上に線の集合で圧倒するのが、メカアニメの流儀だ。キャラクターもメカも背景も、画面を幾何学的な線で埋め尽くして圧倒する。もちろん、線には有機的な思想が込められていなければ、ただのハッタリにしかならない。『武器よさらば』では、バイザーから見えている顔面だけを手書きで描き、プロテクションスーツをデジタルで描いている。デジタルで描くことで線の密度を破綻させず一定以上の密度を保たせることができる。またデジタルにすることで、制作途中からのデザイン変更も可能だったようだ。
そうしたデジタルの利点を活かしつつ、作り手はメカアクションの描写に徹底した力を注ぐ。たった十数分のアクションだが、ゴングの脅威を充分伝える内容になっているし、それに対する人間側の作戦展開も見応えある緊迫感を出している。
『武器よさらば』は映像化する際、当時読んだ人達が「思いで補整」して現代化した部分を計算してそのぶんの厚みが追加された作品だ。原作に思い入れのある作家が描いたからこそ、より完成度を高めた大友作品になった、といえる。

作品データ
監督・脚本:カトキハジメ 原作:大友克洋
キャラクターデザイン:田中達之 メカニカルデザイン:カトキハジメ・山根公利
CGI監督:若間真 作画監督:堀内博之 美術監督:小倉宏昌
演出:森田修平 色彩設計:山浦晶代 撮影監督:田沢二郎
編集:瀬山武司 音楽:石川智久
出演:二叉一成 檀臣幸 牛山茂 大塚明夫 置鮎龍太郎

■ ■■■ ■

『SHORT PEACE』は4人の作家による4つの短編の映像絵巻である。全員が割り当てられたそれぞれの場所で、それぞれの“一幕”だけを描いている。しかしその“一幕”は起承転結としての役割を持っていない。1本の連続映画としてものの見事に投げっぱなしで、誰もストーリーを、あるいは映画をまとめようとはしていない。全員が競い合うように、その前後にあるべき物語の流れを削ぎ落として、人間とアクションがもっとも激しく躍動する“クライマックス”のみを描いている。
それだけに熱量が凄まじい。誰もが自分の描きたい一幕のみを描くために、その全てを注ぎ込んでいる。強烈なエゴイズムがフィルムに現れ、それが全体の熱量となって作品の魅力となっている。
一応、お題目として「日本」が掲げられている。4人がイメージした「日本」はそれぞれでまったく異なるものだった。『九十九』は物に取り憑く妖怪を描き日本人のアニミズムの精神性を描き、『火要鎮』は風情ある浮世絵世界の品格を完璧な精度で再現して見せた。『GAMBO』は戦国時代を背景に、好き放題ファンタジーを巡らせて超重量級アクションを描いた。『武器よさらば』は未来の日本が舞台にされているが、もはや日本でなくてもいいじゃないか、という内容になっている。しかも物語のまとめとしての役割を完全放棄している。
モチーフや映像の感触が違うというだけではなく、どの短編にも実験的な要素を孕んでいる。映画を制作するビッグバジェットを利用しつつ、映画そのものが技術実験の場にしてしまっている。それぞれで違う技術、手法が試みられて、この映画で考案されたあらゆる技術は、間もなく業界内にあまねく広がり、技術的なボーダーラインを一つあげてくれるだろう。
全員が投げっぱなしで奔放にイメージした日本。細密である一方でいい加減に風呂敷を押し広げてしまう日本。しかしそれこそ翻って日本だ。格式やありきたりな様式では決して捉えられず、むしろその様式を内包しつつ自由にイマジナリィを放出させる。
まさにそれこそが日本だ。これが日本のアニメであり、アニメの中の日本だ。

総監督:大友克洋
アニメーション制作:サンライズ


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■2013/07/26 (Fri)
この記事はネタバレが多く書かれています。
映画をまだご覧になっていない人は、決して読まないでください。


『風立ちぬ』は「堀越二郎」と「堀辰雄」という2人の実在人物をベースに作られた作品だ。もちろん物語も実際の歴史を背景にしている。そのため可愛らしいキャラクターは登場しないし、出てくる人物が豚などの動物化もしていない。物語の基本的な骨格は「堀越二郎」から多く取られているが、宮崎駿が空想で描いた部分は非常に大きく、結果として「歴史に基づく映画」ではなく飽くまでも「フィクションの映画」と割り切って作られた作品だ。
物語は大正5年から終戦の1945年(昭和20年)までのかなり広い範囲が舞台にされている。大らかな静岡の田舎時代を過ごした少年期、それから上京し三菱内燃機株式会社に入社し、軍の要請で零戦を完成させるまでが描かれる。背景に戦争の災禍が迫り、その時代の流れに荷担しつつ駆け抜けていく1人の若者の半生が映画の舞台だ。

『風立ちぬ』は実在人物をモデルとした、実際の歴史を背景にした物語である。しかし映像から受ける印象は、“リアリティ”ではなくもっと素朴な柔らかさを持った“漫画映画”の感触である。
線は最近のアニメの水準と比較すると、かなり太く描かれ、また線の数も少ない。色塗り分けも最小限に抑えられ、コントラストも淡い。
背景との関連性、例えば開くドアなど、あからさまに背景と動画、別のものだとわかる描かれ方をしている。最近ではデジタルを使って、背景と動画の境界を曖昧にする方法が一般的に使われているが『風立ちぬ』では画面を見ると、どこが背景でどこが動画であるかたちどころにわかってしまう。机の周囲に置かれた小物や、壁に引っかけられた上着、窓の外ではためく旗など、一目見るとすぐにそれらが動画であることがわかる。わかるように描かれているのだ。
映画中には電車やバス、船、飛行機といった様々な無機物が登場するが、デジタルは1シーンも使用されていない。何もかもが動画で描かれ、かつキャラクターと同じく最低限の線と色塗り分けだけで描かれている。線の数を増やしてリアルに描こうとはしていないし、ブラシを使用して背景と区別できないようにしようとも指向しておらず、誰が見てもあからさまに手書きとわかる絵で描かれている。
背景動画などもそうだ。疾走していく飛行機をカメラが追跡していく場面でも、背景の動きはデジタルではなく手書きの動画だ。真っ正面にトラックしていく場面のみデジタルが使用されているが、それは恐らく2例くらいだ。
そう、『風立ちぬ』は動画に立ち返ったアニメなのである。それも極めて古典的な動画作品への回帰であり、いかにもな顔をしてふんぞり返った“劇場アニメ”ではなく“漫画映画”なのである。

『風立ちぬ』は何もかもが活き活きとした躍動感に満たされている。例えばキャラクターの顔だ。キャラクターの顔といえば、崩せばただちに「キャラ崩壊」「作画崩壊」といった声が聞こえてきそうだが、『風立ちぬ』のキャラクターは大胆に顔が崩れる。キャラクターの感情に合わせて、キリッと勇ましく描かれたり、ぐにゃっと歪ませて動揺を表したりする。
そうした描き方はキャラクターだけに留まらず、飛行機や汽車といった無機物に対しても同様の描かれ方が試みられている。汽車はゆったりと揺れながらレールの上を走っているし、飛行機は無理に速度を上げようとした瞬間、全身がぶるぶると震えて前傾姿勢になる。
『風立ちぬ』には今どきな作家が描いている「リアリティ」が皆無なのである。細部を突き詰めて見る側を圧倒してやろう、という意思が感じられない。飽くまでも“漫画映画”として描かれ、その追求はまさに“飽くなき徹底ぶり”なのである。
映画前半の大きな見せ場といえば間違いなく関東大震災のシーンだろう。東京の町並みが“弾け飛んだ”地面に吹っ飛ばされ、家が破壊され電柱がなぎ倒され、平和な日常が瞬く間に大惨事に変わる……。そんな場面ですら、画面にはリアリティはまったくない。使われている技術は何もかもが古い。あからさまな漫画だ。凄まじい振動で跳ね飛ぶ地面は、背景を連ねて密着マルチで描かれているし、崩れる線路などは背景動画だ。デジタルは一切使用されていない。
しかしこの関東大震災のシーンは画面全体が生命観を持って、大きな“しゃっくり”でもしたように見える。その後繰り返される余震が人間の肉声を合成して作った唸り声で表現されていて、リアリティはないが異様な生々しさを持っており、「リアルな光景を目撃した」という感覚は全くないが、映像が持っている有機的イメージがその瞬間その場にいた、といような気分にさせてくれる。地震直後の阿鼻叫喚の風景が贅沢なワイドレンズで描かれ、執念のような動画がやはり凄まじいシーンに仕上げている。

『風立ちぬ』は実在の人物をモデルとしており、実際の歴史を背景にしているのに関わらず、実際の風景をリアルな画で再現してやろうという意思が全く感じられない。ある意味で“素朴”とすらいえる画だが、だからといって映像に“弱さ”はなく、むしろビビッドな力強さすら感じさせる。
歴史の背景を再現した構図はどれも美しく、大らかともいえる線のみで構成されたキャラクターのシルエットは的確だし、何より動画への執念は凄まじい。動画の軌道線はどの場面も流麗だし、映画の大画面でありながら線の流れに違和感が出る瞬間はなかった。動くときはキャラクターだけではなく画面上の何もかもが動き出して、場面の情緒を語り始める。ただ動くのではなく、画面全体が俳優として演技を始めるのだ。
素朴さと職人的な芸術が交差する画面の中で、庵野秀明の芝居とすらいえない下手糞な棒読み演技が不思議な調和を持ち始める。
『千と千尋の神隠し』と『ハウルの動く城』で徹底的に線を突き詰めた後、『崖の上のポニョ』で全てを投げて動画の原典に回帰し、その後だからこそ辿り着けた映像だ。生涯をかけて絵と動画に全てを捧げてきた画狂老人だからこそ描ける一つの境地とも呼べる精神性の高さが作品から感じられる。

『風立ちぬ』は一つ一つのシーンが短い。断片的にキャラクターの行動と発言を追いかけた後、あっという間に次の場面へと飛んでいき、場合によっては数年の時間が過ぎ去ってしまう。
宮崎駿の映画といえば、一貫した娯楽映画であり続け、多くの作品は一つ一つのシーンにそれなりの長さを持ち、キャラクターの個性がゆったりと魅力がわかるように語られ、何よりもアクションの流れがくっきりとした導線で描かれていた。
しかし『風立ちぬ』はそのように描かれていない。性急といえる早さで物語が進行していく。時に時間が前後して、重要と思える事実の解明も端的に仄めかす程度という描き方である。そうした描き方は、淡泊というほど感情を感じない。
これまでの方法論が使われない代わりに、映画には様々なモチーフが使用されている。飛ぶ帽子や、紙飛行機、こうもり傘、サバの骨……。一つ一つのシーンが短い代わりに、モチーフが全体の連なりを作り、ドラマを繋げ人物を語り始めている。今までにない宮崎駿のドラマメイキングだ。

そうした中で、かなり長いシーンがいくつか描かれている。一つは堀越二郎が見ている夢の中のシーンである。この夢の中で、堀越二郎は憧れのジャンニ・カプローニと遭遇する。ジャンニ・カプローニと堀越二郎がともに同じ夢を見ている、というが、とうとうジャンニ・カプローニが現実世界に登場することがなかったので、2人が本当に夢を共有したのかわからずじまいに終わってしまった。
『風立ちぬ』はあえてなのだろう、フィクションにありがちな独白が描かれていない。どのキャラクターも現実的な範疇での対話しかしていない。事務的な連絡事項のような対話ばかりで、現実世界で感情を剥き出しにして何かを語る、という場面がない。もっといえば、『風立ちぬ』の描写にはいかにもな“ドラマチック”が欠落している。
そうした人物の独白や感情といった部分は、夢の中で語られる。堀越二郎が飛行機作りを将来の夢にするのは、現実の風景ではなくこの夢の場面だ。新しい飛行機の設計を語るのも、現実世界ではなくこの夢の世界だ。
またジャンニ・カプローニは飛行機作りの暗部を語る。職人は単純で純粋に美しい物を作りたい、という動機で飛行機を作っているが、それは戦争の道具に使用されてしまう。これはジャンニ・カプローニを通じて、堀越二郎が抱いている懸念は不安が代弁された場面で、実際にこの懸念を抱いているのは堀越二郎である。堀越二郎が夢の中で、ジャンニ・カプローニという代理人格を通して、自分自身の不安と不満を語っているのだ。
もう一つ、長く描かれた場面がある。奈緖子と再会する軽井沢の高原の場面だ。堀越二郎が七試艦戦のテスト飛行に失敗し、挫折の傷心を癒やすためにやってきた場所である。
ここで、もう一人の外国人が登場する。カストルプと名乗るドイツ人だ。カストルプは堀越二郎の隣の席に座り、唐突にカプローニの話を始める。いうまでもなく、カストルプはカプローニの代理人であり、軽井沢の風景は、確かに現実世界であるが極めて堀越二郎の内面世界に近い場面である。軽井沢のあまりにも浮き世離れした美しい草原の風景は、堀越二郎の夢の世界に酷似している。軽井沢はもちろん現実の世界だが、一方で半分くらいは夢の世界であり、この夢の世界で堀越二郎は里見菜穂子と出会い、夢の世界だからこそ活き活きと感情を交差させるのだ。

『風立ちぬ』は風の映画である。宮崎駿といえば飛翔と風。何もない場面でも風を巻き起こす作家だ。
しかし『風立ちぬ』は全てのシーンに風が吹いているわけではない。むしろ現実の風景は風が極限まで抑えられてる。飽くまでも現実の世界として、人間や世界が地面に縛り付けられているものとして描かれている。
その一方で、夢の世界は過剰なくらい風が意識されて描かれている。雲は早く流れていき、足下の草むらにざわざわと風が流れていく様子が描かれ、人物は絶えず吹いている風を体に浴びている。菜穂子の出会いの場面も同様に強烈な風が意識されているのがわかるだろう。
また夢の場面は戦争から遠ざかった平和の場面であるといえる。現実の世界は色も重々しく、風が凪いで今まさに迫ろうとしている戦争にみんなざわざわとしている。もちろん、『風立ちぬ』には実際の戦争、あるいは戦闘の場面はまったく描かれていない。しかし風のなさと情景の重々しさが戦争の影を予告している。
その一方で風渡る夢の世界は平和の世界であり、同時にファンタジーの世界である。戦争が迫る現実世界から逃避したファンタジーである。ファンタジーだからこそそこで風が吹いているわけだし、またファンタジーだからこそ情念が交わされるのである。
飛行機を作りたいがそれは戦争に利用され、戦争に利用されるから作るチャンスが巡ってくる。しかし堀越二郎は戦争の道具など作りたいとは思っていない。そうした前提から置かれた矛盾。そうした矛盾への折り合いと、願望が実現される場所として、ファンタジーが用意されている。

『風立ちぬ』は巨匠・宮崎駿の新しい局面である。いや、『もののけ姫』を総決算映画と見なすと、それ以後の作品はずっと新しい局面を、新しい扉を開き続けているといえる。
『千と千尋の神隠し』で自身の深層心理と死を見詰め、『ハウルの動く城』では老いと死というテーマを極限まで追い詰めて、『崖の上のポニョ』では一転して無邪気な生命の誕生を高らかに描きあげた。
『風立ちぬ』はそれまで作り続けた娯楽映画の文法を全て切り捨てて、今まで手を出してこなかったドラマが描かれた。堀越二郎40歳までの経緯が描かれた作品だ。これまで、一つの事件、短い時間の間に起きた出来事ばかり描いてきたから、大胆ともいえる転換で、しかもそれがあまりにも見事に完成している。文法を変えてみても、巨匠はやはり巨匠だった、というわけだ。
70歳を過ぎてまだまだ転機。まだまだ新局面。とんでもない作家だ。宮崎駿の周囲では、まだ新しい風が吹き続けている。

ほんの少し続きを書きました→とらつぐみTwitterまとめ:『風立ちぬ』感想 夢から取り出した理想は、現実世界の醜さにまみれて失われてしまう

作品データ
原作・脚本・監督:宮崎駿
作画監督:高坂希太郎 動画検査:舘野仁美 美術監督:武重洋二
色彩設計:保田道世 撮影監督:奥井敦 編集:瀬山武司
音響演出・整音:笠松広司 アフレコ演出:木村絵理子 音楽:久石譲
プロデューサー:鈴木敏夫 製作担当:奥田誠治・福山亮一・藤巻直哉
アニメーション制作:スタジオジブリ
出演:庵野秀明 瀧本美織 西島秀俊 西村雅彦
    スティーブン・アルパート 風間杜夫 竹下景子
    志田未来 國村隼 大竹しのぶ 野村萬斎

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■2013/04/13 (Sat)
b0bc07f1.jpeg時代は1963年。戦後の混沌から切り抜け、一応の規律が生まれ高度経済成長が始まろうとする日本。あちこちで開発が盛んに進められ、希望ある未来をフレーズに華やかりし時代と賞賛される一方、舗装の進んでいない道路や鉄道はまさに交通地獄、車や工場が排出するガスで空気も空も灰色に沈んでいた。
戦後日本の青春時代――『コクリコ坂から』が舞台にしたのはまさにそんな時代である。
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松崎海は1963年当時の平均的な女子高生だった。父親は朝鮮戦争に出兵以後、帰らずの人となったが、海は毎朝、父がいつか帰ってくると希望を抱いて信号旗を上げている。母は英文学の大学助教授のため、現代はアメリカにいる。両親は不在だが、松崎家には下宿人が多く、海はみんなの食事や家事に追われて賑やかで忙しい日々を過ごしていた。
学校では文系部の部室棟であるカリチェラタンの取り壊しで揺れていた。一方的に取り壊しを断行しようとする教師達と生徒たちの対立。始めは無関係でいた海だったが、次第に学校に渦巻く狂騒のなかに取り込まれていく……。

5199999d.jpeg『ゲド戦記』から5年。宮崎吾朗が2作目の監督に選んだのは、父親達の時代、父親達が過ごした青春時代だった。
宮崎吾朗にとって、父親を知ることは、我々が考える以上に大きな意味を持っている。なぜなら、宮崎吾朗の父親は宮崎駿――近い将来、歴史上の偉人として名前が並べられることがほぼ確定化している現代を代表する芸術家だからだ。あまりにも偉大すぎる父親を持ち、それ故にチャンスが得られたが、一方で世界最高の才能と比較され皮肉られ叩きのめされる毎日……。しかもその父親は、(天才ゆえなのか)激烈な性格で知られており、息子だろうが情け容赦なく全力で谷から突き落とし、そうしてでも我が芸術を高めようという情熱の持ち主である。天才を父親に持ち、その父親から排除され、世間からは父親と比較される……それだけに宮崎吾朗にとって「父親」は避けて通れぬ命題であった。
そんな宮崎吾朗が描いた『コクリコ坂から』は、一見するとあっさりしたやわらかな線だが、時代の感覚や感性を鋭く捉えて、時代を“再構築”している。映画が始まって最初の場面、舗装されていない坂道が描かれ、そこにはやや傾いた木製の電柱が幾本も立っている。そんな風景の中に立つ松崎家はなかなか小洒落た雰囲気を持っている。
道幅はやけに狭く、しかも舗装されていない道は、車でひしめき合って灰色のガスをまきちらしている。交通地獄と揶揄された時代の感覚を、丁寧に活写している。
キャラクターの線は徹底してシンプルにまとめられている。松崎海と、妹の空とのデザイン的な差異はわずかな輪郭線の違いと、目鼻のバランスのみ。セーラー服は大雑把なシルエットだけで、襟とネクタイの線は基本的に描写されていない。キャラクターの所作で、脇の下のファスナーの存在をほのめかす程度である。
圧巻なのは物語の中心となるカルチェラタン。港南学園の文系部室棟であり、部活名目で学生が勝手に集まって何かしらの活動を勝手に展開し、それで清掃という最低限の責任すら負わない、それはまさに無法地帯と呼べる魔窟であった。
7d50a2be.jpeg映画を見てわかるように、映像としての力は全体を通して弱いのに、このカリチェラタンの場面だけは異様に際立っている。その他が明るい色彩で描かれているのに対して、カリチェラタンの描写は密度が飛び抜けて高く、光の入らない施設ゆえに映像は暗くなりがちだが、そのぶん色彩は豊かで闇の中に浮かぶディティールの一つ一つを取りこぼすことなくくっきりとした輪郭線で描いている。この場面だけに登場するキャラクターも多く、その彼らを描いたカットも多い。
とにかく生き生きしている。歯切れの悪かった冒頭の場面と比較すると、カリチェラタンが映画の核だと見ればわかる。
カリチェラタンは描く側にとっても複雑奇怪な魔窟だが、複雑さをごまかさず正面から描いている。目が回りそうなくらい多層的なな空間だが、正確なパースラインの中でしっかり描かれ、何気なく放り出されている有象無象や落書きや汚れ、崩れる屋根に足を取られる人達など、どこまでも細かいところまで目が行き届いている。隅々まで明確にイメージができているからだ。カリチェラタンの描写に、宮崎吾朗の際だった空間把握能力を見た。
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732fdf12.jpeg時代は学生運動真っ盛りである。学生は政治に夢中になり、左翼思想に心酔している。学生達は「政治だ! 革命だ!」と無邪気に叫び、もっともらしい角張った熟語を連呼し、学校や教師を“悪しき体制”と見なして一方的に攻撃を仕掛ける。
学生達は自分たちをヒーローのつもりでいたが、単に学校という閉鎖した空間の中で暴れ回っていただけである。学校という籠の中で、社会や親に保護された箱の中で、“正義の戦い”をやっているつもりだったのだ。いってしまえば、おままごとでしかない。カリチェラタンも“文化”という名目で好き放題モラトリアル期を謳歌するための場所でしかない。今時ふうの言葉で言えば、教室での喚きあいが世界を変えると信じて疑わない“セカイ系”の思想があり、目に映る全てを悪と見なして角張った熟語を振りかざせば勝利できるという考え方は“中二病”の世界である。当時の学生は、“セカイ系”と“中二病”を同時に展開していたのだ。“痛い”とかいうレベルではない。当時の若者に“黒歴史”の発想があれば、今頃は「うわああああぁぁ!」となっている頃だろう(その発想がないのが問題なんだけど)
講堂で描かれた闘争は、描写に力がなかったからだが、まさに子供のごっこ遊びであった。スクラムを組んでのぶつかり合いが、小さい子供の運動会風景にしか見えない。妙に楽しそうだ。これをこの当時の学生は、本気でやっていたというから滑稽だ。

0c85fe71.jpeg講堂のシーンに限らず、映像の力は弱い。
カリチェラタンを中心に置きながら、松崎海と風間俊の恋愛が描かれるが、やがて二人が“実は姉弟ではないか”という疑いが現れ、二人の関係を遮ってしまう。しかし二人はこれといった感情を見せはしない。穏やかに静かにかすかな感情と、あるいは言葉を交わし合うだけ。二人の感情を近づけたり突き放したりするのは、感情のドラマではなく、“設定”である。“設定”の折り重ね方で二人が実は姉弟であることをほのめかし、また一方で最後には“設定”のささやかな操作で、二人の恋愛の危機が回避される。この間に、二人は恋愛というテーマで激昂したりはしない。あくまでも静かにおだやかに、ある種の品の良さで、静かに恋愛を押し進め、姉弟という疑惑を前にあっさりと遠ざかる。この物語構造の作り方は、監督の成果というよりも脚本家の成果と言うべきだろう(宮崎駿はちゃんとしたシナリオを書けないから、丹羽圭子の実力だと思われる)
これはある種、現代っ子の反応だ。現代っ子の大人や社会の言ったことに素直に聞いて従う良い子。それでいて普段から感情は見せず、本音は語らず、関係を壊さないためにも大抵のことには我慢する……。そういう現代っ子の姿が松崎海と風間俊の間に見えてくる。

46a929fb.jpegだからといって、映像の見るべきものがないわけではない。どの場面をとっても丁寧で背景は極めて精密だ。時代の感覚をよく捉えている。
松崎海と風間俊の二人の場面で秀逸だったのは、自転車で坂道を降りる場面だ。ロング、クローズアップを3度繰り返しながら、少しずつカメラは二人に接近していく。特にこれといった対話もないのに、妙にスピード感があり、停滞しがちな映画にさわやかな感覚を与えている。学校で知り合い、お互いにちょっと気になっていたという二人が、感情を接近させ恋愛のはじまりを予兆させる場面になり、まさに映画が動く瞬間を描いている。

efaee31e.jpeg宮崎吾朗はアニメに直接関わったのは『ゲド戦記』のみで、それ以外の現場の経験はない。アニメの業界において異端の存在である。それだけに映像の作り方もやや変わった点が見られる。
例えば左の2カット。上は朝の松崎家の風景。下は松崎海が机に座っている場面である。
上のカットでは、セルで描かれているのは松崎海と松崎海が手にしている炊飯器と桶のみである。それ以外は全て美術で描かれている。
下のカットでは、海が手にしている本と次に手に取る写真立て以外全てのみ美術である。
普通の演出家なら、上のカットでは食器類や鍋類すべてセルで描き、下のカットの場合なら机の上のもの全てセル処理で描いただろう。宮崎駿ならそう描いたはずだ。
なぜなら、セルで描かれたキャラクターは背景と質感が違う。背景とキャラクター、境界線を曖昧にするための、準遠景と呼ぶべき範囲の小物まではセルで描く。特定の小物だけがセルで描かれていると、見ている側に「次にあのセルで描かれたものを手に取るんだな」と見透かされてしまう。そのために、キャラクターが手の届きそうな小物は概ね、セルで描くものなのである。
ところが宮崎吾朗は最低限のキャラクターと小物だけをセルで描き、それ以外のすべてを背景美術にしてしまった。こういうところで、宮崎吾朗はアニメ演出の経験がまだ浅いのだとわかる。

7fd1ac92.jpeg松崎海と風間俊という人物に見えてくるのは聞き分けの良い、大人しい現代っ子の姿である。物事に冷静に対処し、周りの環境にむやみに振り回されたりしない。なぜそう描かれたかといえば宮崎吾朗は特殊な父親の子として生まれたものの本質的には現代っ子だからだ。その現代っ子が、父親の時代を振り返り、自分がこうだと思う人物をそこに描く。そうすると、時代がかった風景に対して、人間が現代っ子になるのは当然だ。
それに、この映画は父親達の時代を捉え、“再構築”するための映画だ。厳密で正確な意味での1963年が描かれたわけではない。映像はかなり精密に、その時代にあったものを一つ一つ検証した上で登場させ、そうして完成した構図はなかなか堂に入ったものがある。だがこれは、現代っ子が父親達の時代を“想像で”描き、1963年という時代を“現代に”再構築したものなのだ。1963年というリアルな書き割りを背景に、現代の子供がちょっと昔ふうの衣装を着て演じている……これが『コクリコ坂から』という映画の実像だ(“再現”ではなく“再構築”なのだ)
なぜそうしたのか――そうする必要があったのだ、宮崎吾朗には。20世紀21世紀をまたいで賞賛され続ける伝説的な巨匠である父親。しかし宮崎吾朗は、その父親のことを実はあまり詳しく知らないのである。宮崎駿も、「知らないうちに大人になっていた」と成長期の息子の顔をあまり記憶していないという(逆に言えば宮崎駿も息子のことをよく知らない。『ゲド戦記』で吾朗の絵を見せられた時、茫然としてしばらく言葉も出なかったそうだ。息子が絵を描けることすら知らなかったのだ)。度の過ぎた仕事人間で、吾朗は父親という人間を――もちろん尊敬すべき偉大な人なのに関わらず――実はよく知らない。もしかすると、宮崎駿を熱心に追いかけているファンの方が詳しいかも知れない、というくらいだ。
だからこそ、父を知るために、父が過ごした時代を改めて知るために、父親の時代を描き、なおかつその時代を自分たちの時代と接近させ、自身の中で和解する必要があった。『コクリコ坂から』は、ある意味で宮崎吾朗が父親を知ろうとあがいた末に生まれた作品でもある。

987f7f9c.jpegところで、この『コクリコ坂から』には一つの疑惑がつきまとっている。
平成23年(2011年)7月に発売した『TVBros』のインタビューで、押井守はこのように語っている。
「ヒロインが好きになるハンサムな少年は敏ちゃん(鈴木敏夫のこと)なんだよ。それに彼の親友の生徒会長も敏ちゃん(中略)言い換えれば敏ちゃんの自伝的なファンタジー映画だよ」
押井守が言うには、『コクリコ坂から』には鈴木敏夫の影があまりにも強烈に出ている、という。東京オリンピックを背景にした時代は鈴木敏夫の青春時代にぴったりはまるし、松崎海、風間俊、水沼史郎の3人が直訴に向かうのは徳丸書店……鈴木敏夫が入社した徳間書店のこととしか思えないし、徳丸社長は徳間康快にそっくりなのだという。
『コクリコ坂』は実は鈴木敏夫の映画なのだ、と押井守は種明かしをしている。ドラマと時代が分離し、1963年という時代設定に必然があるのは唯一そこ、鈴木敏夫の青春時代という一点のみだという。時代は東京オリンピックの直前、東京という街がもの凄い勢いで根ごそぎ開発で変えられようとしていた時代なのに、それを思わせる描写もない。もしもあったとしてもそこにある物語との関係性がまったく見えてこない。
考えてみれば……『ゲド戦記』の冒頭の場面、アレンが突然わけもなく父親をナイフで刺したが、あれを指示したのは鈴木敏夫であった。その後、メディアでは宮崎駿と宮崎吾朗の親子対決が盛んに報じられ、映画の内容も実際の親子関係も完全に宣伝に利用されていた。そしてこの『コクリコ坂から』。『コクリコ坂から』には鈴木敏夫の青春時代が一杯に描かれている。そう、何もかもあの老獪なプロデューサー……鈴木敏夫の企みなのだ。
宮崎吾朗は父親が過ごした時代を描く、という命題を企画の中に発見し、その時代を描写することに全精力を注いだが、実際にはそれよりもっと後ろに鈴木敏夫がいて、宮崎吾朗は思惑通りに踊らされたのだ……か、どうかわからないが。『コクリコ坂から』の本当の指揮者は鈴木敏夫、これがどこまで本当なのか、押井守の思い込みの話なのか、それはよくわからない。

93d78be1.jpeg宮崎吾朗の記念すべき第1作目であった『ゲド戦記』は駄作である。どうにもならない凡庸な作品である。しかし状況を考えると、『ゲド戦記』の存在は奇跡的ですらある。宮崎吾朗は現場経験のまったくないド素人で、絵描きとしての教育は一切受けていない。絵を描いていたといっても落書き程度で、イラストなど描いたこともなかったという。アニメにも映画にもそこまで詳しいわけではない。国内最高のスタッフがバックアップしていたとはいえ、完成まで持ち込めた事実自体、奇跡のような話である。しかも彼がはじめて描いたイラストは、美術スタッフにより完成形となって広告ポスターになったが、絵描き教育を一切受けていない者の書くものとはとても思えない完成度だった。宮崎吾朗が描いたレイアウトや絵コンテも、どの絵を見てもデッサンやパースが正確で、何年も絵描きになろうと修行をしていた者を挫折させるに充分な代物だった。複雑奇怪なカリチェラタンのイメージボードや絵コンテも宮崎吾朗が描いている。
『ゲド戦記』はまったくの未経験の人間に映画(しかもファンタジー大作)を作らせるという暴挙の末に駄作となり、当時は厳しい批評が相次いだが、それより向こうが見える人には宮崎吾朗のまだ磨かれぬ純金の才能を見つけ、圧倒されたはずだ。
『コクリコ坂から』は宮崎吾朗の才能がじわじわ磨かれ、形が定まろうとする途中経過の作品だ。『コクリコ坂から』はまだ映画として平均点を獲得した、とはいえない。映像の力が弱く、人物の描写も弱く、そこからドラマが生まれる気配がない。まだ映像の向こうに、宮崎吾朗という人間が見えてこないのだ。誰がどう見ても宮崎吾朗、そういう痕跡が見えてこない限り、映画批評は誰も宮崎吾朗を認めないだろう。厳しい批評はまだまだ続きそうだ。
しかし『コクリコ坂から』には誠実さを感じる。1960年代という背景にあるものをしっかり収集し、絵の中に描写している。人間の描写には力はないが、非常に丁寧に動きを追っている。そういった真面目さや誠実さ、手を抜かない気持ちだけはよく伝わってくる。
駄作『ゲド戦記』と比較してみると『コクリコ坂から』は随分成長した。本当なら修業時代で解消しておくべき問題であったが、状況が特異なだけにそれは仕方ないだろう。これからもおそらく成長が望めるという期待が持てるし、いずれ映画に宮崎吾朗という人物が現れ、それが宮崎駿と鈴木敏夫の手から完全に離れて、吾朗という顔しか見えなくなった時、そのとき人々は彼を自立した一流の監督として認めるだろう。

作品データ
監督:宮崎吾朗 原作:高橋千鶴・佐山哲郎
脚本:宮崎駿・丹羽圭子 音楽:武部聡志 プロデューサー:鈴木敏夫
キャラクターデザイン:近藤勝也 撮影:奥井敦 音響:笹松広司
作画監督:山形厚史 廣田俊輔 高坂希太郎 稲村武志 山下明彦
美術監督:吉田昇 大場加門 高松洋平 大森崇
出演:長澤まさみ 岡田准一 竹下景子 石田ゆり子 柊瑠美
    風吹ジュン 内藤剛志 風間俊介 大森南朋 香川照之





 

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