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■2010/01/03 (Sun)
映画:外国映画■
8年前のあの事件から、すべてが始まった。
スピード・レーサーの兄、レックスは一流のカー・レーサーだった。あらゆるレースに出場し、伝説的なレコードを打ち立てていった。
だがある夜、レックスは突然に家を出て行く。弟のレーサーにマッハ号を預けて……。
その後のレックスは、人格が変わったように攻撃的なレースをするようになった。危険な妨害運転で事故を誘発し、何人もの選手を出場停止にした。その末にレックスは、カーサー・クリストの雪山のコースで、事故死を遂げる。
レースの映像は『F-ZERO GX』に酷似しているがまったくの別物。さらに『マリオカート』を足した感じだ。ギミックの1つ1つがほどよくぶっ壊れていて、楽しすぎる映画だ。
あれから8年……。
スピード・レーサーは成長し、兄レックスに匹敵する選手となった。そんなレーサーに、スカウトの誘いがひっきりなしにやってくる。
ローヤルトン工場社長、アーノルド・ローヤルトンもレーサーをスカウトしようとする一人だった。ローヤルトン社長は、レーサーを自分の工場へと案内し、契約に合意するように迫る。
だがレーサーは「家族を裏切れない」と契約を断る。
するとローヤルトン社長は、態度を豹変させ、過去50年のレースがすべて自分達の手による八百長であると明かす。そのうえに「今後、レースに出られなくしてやる」と脅迫する。
神聖なるレースの背後に蠢く、企業原理、暗黒街の陰謀――。
レーサーはあえてレースに挑戦し、八百長試合を打ちのめそうとする。
映像はあまりにも前衛的かつ先鋭的。何の偏見なしに鑑賞するのは、やや上級者向けな感じもある。某作家が、「ガキの妄想をすごいCGで描いた」とあったが的確だと思う。色々思うところはあるが“考えるな感じろ”だ。
映画『スピード・レーサー』は冒頭から強烈だ。
画像のすべてがどぎつい極彩色で塗り固められ、異様なハイテンションで物語が展開する。『マトリックス』で描かれたような静けさと孤高の哲学はどこにもない。まるで子供のお絵かきのように、キッチュで毒々しいジャンクフード的な映像が連続する。
それでも、『スピード・レーサー』は第一級のエンターティメントだ。
『スピード・レーサー』の感性は、かつて誰も見たことも経験したことのない領域に突入している。
場面が絵巻物のようにレイアリングされていく。現実的なパースティクティブを超越し、作り手のイメージを強烈に刻印する。強烈だが、それだけに挑発的だ。
『スピード・レーサー』は今時のリメイク映画にありがちな“現代的”なアレンジをあえて拒んだ映画だ。
確かに当時のアニメーションの色彩や雰囲気は現代のリアリズムと肌が合わない。
ウォシャウスキー兄弟は、当時のアニメーションが持っていた感性を一切改変せず、現代のテクノロジーの力でむしろ強烈さを倍増させて映像化した。日本のアニメに詳しいウォシャウスキー兄弟らしい思い切りだし、完成された映画には、アニメに対する愛情を一杯に感じる作品になった。
映画の“リアリティ”とはあくまでも“映画内リアリティ”であって、現実世界とは別物だ。映画のリアリティとは“映画内原理主義”ともいうべきものであって、映画のリアリティなどはっきり言えば幻想だ。リアリティという言葉が生み出した“錯覚”と言うべきだろう。リアリティのみが映画の価値を計る物差と信じている人こそ、この挑発的な映画を見て欲しい。
映画の良し悪しを判断する根拠に、よく“リアリティ”という言葉が引き合いに出される。しかし“リアリティ”という刷り込みは、現代の作家にとって制約の一つになりつつある。
従来的な撮影法と文法を几帳面に踏襲すれば、間違いなく“リアルな映画”が描けるだろう。しかし、それ以上のイマジネイションには決してたどり着けない。
だからこそ、『スピード・レーサー』は従来の手法を過去のものと見做し、まったく新しい撮影方を実験し、開拓した。
デジタルの魔力は、現実世界におけるあらゆるパースティクティブを跳躍して、直裁的に作家のイメージに刻印する。
『スピード・レーサー』の映像は、時間や空間を自由に飛び越えて、物語を独自の方法で構築する。
映画技法の限界と、デジタルとの融合。
それが映画を我々の知らない世界へと誘おうとしている。
『スピード・レーサー』はある意味で、孤高の哲学が描いた作品だ。
映画記事一覧
作品データ
監督・脚本:ラリー・ウォシャウスキー&アンディー・ウォシャウスキー
音楽:マイケル・ジアッキノ 撮影:デヴィッド・タッターサル
出演:エミール・ハーシュ クリスティナ・リッチ
〇 マシュー・フォックス スーザン・サランドン
〇 ジョン・グッドマン キック・ガリー
〇 RAIN(ピ) 真田広之
スピード・レーサーの兄、レックスは一流のカー・レーサーだった。あらゆるレースに出場し、伝説的なレコードを打ち立てていった。
だがある夜、レックスは突然に家を出て行く。弟のレーサーにマッハ号を預けて……。
その後のレックスは、人格が変わったように攻撃的なレースをするようになった。危険な妨害運転で事故を誘発し、何人もの選手を出場停止にした。その末にレックスは、カーサー・クリストの雪山のコースで、事故死を遂げる。
レースの映像は『F-ZERO GX』に酷似しているがまったくの別物。さらに『マリオカート』を足した感じだ。ギミックの1つ1つがほどよくぶっ壊れていて、楽しすぎる映画だ。
あれから8年……。
スピード・レーサーは成長し、兄レックスに匹敵する選手となった。そんなレーサーに、スカウトの誘いがひっきりなしにやってくる。
ローヤルトン工場社長、アーノルド・ローヤルトンもレーサーをスカウトしようとする一人だった。ローヤルトン社長は、レーサーを自分の工場へと案内し、契約に合意するように迫る。
だがレーサーは「家族を裏切れない」と契約を断る。
するとローヤルトン社長は、態度を豹変させ、過去50年のレースがすべて自分達の手による八百長であると明かす。そのうえに「今後、レースに出られなくしてやる」と脅迫する。
神聖なるレースの背後に蠢く、企業原理、暗黒街の陰謀――。
レーサーはあえてレースに挑戦し、八百長試合を打ちのめそうとする。
映像はあまりにも前衛的かつ先鋭的。何の偏見なしに鑑賞するのは、やや上級者向けな感じもある。某作家が、「ガキの妄想をすごいCGで描いた」とあったが的確だと思う。色々思うところはあるが“考えるな感じろ”だ。
映画『スピード・レーサー』は冒頭から強烈だ。
画像のすべてがどぎつい極彩色で塗り固められ、異様なハイテンションで物語が展開する。『マトリックス』で描かれたような静けさと孤高の哲学はどこにもない。まるで子供のお絵かきのように、キッチュで毒々しいジャンクフード的な映像が連続する。
それでも、『スピード・レーサー』は第一級のエンターティメントだ。
『スピード・レーサー』の感性は、かつて誰も見たことも経験したことのない領域に突入している。
場面が絵巻物のようにレイアリングされていく。現実的なパースティクティブを超越し、作り手のイメージを強烈に刻印する。強烈だが、それだけに挑発的だ。
『スピード・レーサー』は今時のリメイク映画にありがちな“現代的”なアレンジをあえて拒んだ映画だ。
確かに当時のアニメーションの色彩や雰囲気は現代のリアリズムと肌が合わない。
ウォシャウスキー兄弟は、当時のアニメーションが持っていた感性を一切改変せず、現代のテクノロジーの力でむしろ強烈さを倍増させて映像化した。日本のアニメに詳しいウォシャウスキー兄弟らしい思い切りだし、完成された映画には、アニメに対する愛情を一杯に感じる作品になった。
映画の“リアリティ”とはあくまでも“映画内リアリティ”であって、現実世界とは別物だ。映画のリアリティとは“映画内原理主義”ともいうべきものであって、映画のリアリティなどはっきり言えば幻想だ。リアリティという言葉が生み出した“錯覚”と言うべきだろう。リアリティのみが映画の価値を計る物差と信じている人こそ、この挑発的な映画を見て欲しい。
映画の良し悪しを判断する根拠に、よく“リアリティ”という言葉が引き合いに出される。しかし“リアリティ”という刷り込みは、現代の作家にとって制約の一つになりつつある。
従来的な撮影法と文法を几帳面に踏襲すれば、間違いなく“リアルな映画”が描けるだろう。しかし、それ以上のイマジネイションには決してたどり着けない。
だからこそ、『スピード・レーサー』は従来の手法を過去のものと見做し、まったく新しい撮影方を実験し、開拓した。
デジタルの魔力は、現実世界におけるあらゆるパースティクティブを跳躍して、直裁的に作家のイメージに刻印する。
『スピード・レーサー』の映像は、時間や空間を自由に飛び越えて、物語を独自の方法で構築する。
映画技法の限界と、デジタルとの融合。
それが映画を我々の知らない世界へと誘おうとしている。
『スピード・レーサー』はある意味で、孤高の哲学が描いた作品だ。
映画記事一覧
作品データ
監督・脚本:ラリー・ウォシャウスキー&アンディー・ウォシャウスキー
音楽:マイケル・ジアッキノ 撮影:デヴィッド・タッターサル
出演:エミール・ハーシュ クリスティナ・リッチ
〇 マシュー・フォックス スーザン・サランドン
〇 ジョン・グッドマン キック・ガリー
〇 RAIN(ピ) 真田広之
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