■ 最新記事
(08/15)
(08/14)
(08/13)
(08/12)
(08/11)
(08/10)
(08/09)
(08/08)
(08/07)
(08/06)
■ カテゴリー
お探し記事は【記事一覧 索引】が便利です。
■2009/11/10 (Tue)
評論■
アスラクラインの失敗
〇 イントロダクション
アニメ『アスラクライン』は面白くない。原作は未読なので、原案・素材としての『アスラクライン』の良さはどうなのかわからないが、とにかくアニメーションとして映像化された『アスラクライン』は面白くない。しばらく見ていても、心情的に訴えかけてくるものは何もないし、それ以前に、そもそもどういった物語なのかがまるでわからない。
なぜ『アスラクライン』は面白くないのか。なぜ理解しづらいのか。という検証に入る前に、ここで前置きをしておきたい。
批評とは悪口を書くことではない。つまらないのなら、「なぜつまらないのか」あるいは「どうするべきだったのか」これをシュミレーションしていく必要がある。単に面白くない、悪口を書くならそれは幼児でもできる。それは感情を並べただけであって、批評ではない。批評である限りは、理想とする到達点を設定し、実現可能なシュミレーションを提示する必要がある。その批評は、反省として次に創作する機会に充分活用できるものではくてはならない。それが批評の存在する意義である。
という記述を以前にも書いた気がするが、批評を書くときは毎回書く予定だ。単に感情的な悪口を並べるだけなら、プロの批評家など必要ないわけだし、自由に言葉を操れるようになった大人が書くべきではない。プロの批評家であっても、素人の批評家もどきであっても、どういった傾向を持って書くべきなのか、それはそれぞれで目標を持ってかくべきである。単に悪口を書いて、書いた人間がスッキリしたいだけの文章など誰も求めていないし、知性豊かな読者への侮辱にしかならない。
全ての批評はそもそも後出しジャンケンである、という前提も忘れてはならない。あらゆる問題は物語創作という過程に起きる現象であり、作品は結果に過ぎない。その結果をどうこう言ったところで、その時点ですでにフェアではない。作品が駄作となってしまったのは結果なのであって、作品を責めて制作者を非難すべきではない。要は批評に書かれた反省が、創作という渦中に活かせるものであるか、だ。
批評家と創作者の関係は公正ではないのだ。それを心得た上で批評というものを書くべきであり、読むべきだと心得たい。
〇 多すぎる専門用語
『アスラクライン』には様々な用語が次から次へと登場する。機巧魔神(アスラ・マキーナ)、演操者(ハンドラー)、射影体、洛芦和高校(らくろわこうこう)、第三生徒会、殺人人形(ウィジェット)……。
受け手がまず困惑するのは、この専門用語の圧倒的な多さだ(しかも漢字と読みとなる片仮名がまったく一致しない)。それぞれを個別に見ていくと、実はそれほど難解ではない。アスラ・マキーナとは巨大のロボットのことであり、ハンドラーとはその操縦者。射影体とはハンドラーに取り憑いている幽霊だ。単に物語独自のキャラクターがあり、それを補う用語があるだけの話だ。『アスラクライン』には物語独自のルールがあり、物語のドラマ部分と接するにはまずその構造を理解しなければならない。
この特殊用語というものが桁外れに多いのだ。これらの言葉を複合的に組み合わせて台詞を作ると、何を言っているのか理解不能の代物になる。キャラクター同士がなにやら深刻な顔をして台詞を言いあっているのだが、結局なにについて議論にしていたのかわからない。そこで何が判明したのか、その後の物語にどのような影響を与えたのか。言葉に物語の進行を感じさせるものがないのだ。
専門用語だらけの台詞のやり取りを見ていると、だんだん意味がわからなくなり、受け手はどこか不安定な気持ちになる。物語の展開を読み取れなくて、人によっては破綻していると受け取るかもしれない。どちらにしても、受け手の心理にいい影響は与えない。
『アスラクライン』を詰まらなくしているのは、単に専門用語が多すぎるという話ではない。特殊で専門的な職業について描かれた小説などは、独自的な用語が多く羅列される。だがそれでも、アスラクラインのようにはならないだろう。アスラクラインの問題は、なにもかも台詞で解説しようとすることにある。
例えば、文字だらけの教科書を一読して、即座に理解できる人は少ない。理解できるという人はいるだろうが、それは単にその人間が優秀なだけだ。娯楽に接する場合、ほとんどの人がリラックスした状態で、あるいはリラックスしたくて接するわけで、勉強や仕事と同じ緊張を強要すべきではない。
これを理解しやすくするにはどう描くべきか。単純な解答を言えば図説を添付すればいい。図説による解説があれば、ああなるほど、と思う。実感として体験する機会があればもっとわかりやすくなるだろう。理科の実験のようなものだ。実体的な体験以上にわかりやすい説明はない。
概念とその結果を示したデータだけで何もかも理解できる人間は少ない。概念には概念なりの美意識なるものが存在する。数式などはその典型である。だがそれを理解しろというのは、一般大衆にはあまりにもハードルが高い。私も理解できない。
だからこそ、「体験の過程」を描くことがわかりやすい、受け入れやすい物語において重要になる。漫画は概念のすべてを映像にし、キャラクターが演技して解説する。だから漫画はわかりやすく、支持されるのだ。
『アスラクライン』の世界が特殊であるから説明が難しい、というのは言い訳にならない。むしろ、解説する世界が特殊であれば特殊であるほど、その異世界への疑似体験物語はよりスリリングなものになる。『ガリバー旅行記』などがいい例だ。
独自的な用語の多い作品、特にSFなどは「わかりにくい」と評される傾向が強くなるから注意が必要だ。駄目なSF作品の典型的な例は、冒頭の長々とした解説だけで、物語の背景にある何もかもを解説したつもりになっている作品だ。「スターウォーズ」がマニアックなSFという刷り込みを抜け出られたのは、解説が短く、あとは思考の必要のない異世界を舞台にした冒険物語として描いたからだ(つまり、読む必要がない)。
冒頭にはじめる解説は、まず受け手の頭に入らないものと考えるべきだ。解説は短く、あくまでもこれから始まる物語の気分を作るだけのものと心得たい。知らせるべき重要なキーワードがあるとしても、多くしないこと。読み手が頭に入る単語は1つくらいだろう。その世界が背負っている政治状態や主人公が置かれている環境などは、本編中の描写で語るべきだ。冒頭の解説に本質を置いてしまうと、読み手を置いてけぼりにする作品になってしまう。
解説とは物語の過程に描くべきなのであり、主人公が体験すべき過程のひとつとして描くべき、いや、提示すべきなのである。
物語とは、「登場人物の感情の吐露(ドラマ)と物語背景の解説」に分解されるものと仮定する(解説と解明のみでドラマがないのがミステリ。関係ないけど念のため)。すると重要になってくるのは、解説するべき順序である。どのように解説すると理解されやすいか、あるいはどのような順序で解説するべきか。それらを物語制作の初期段階において徹底的に検証し、ぎっちり構築する。
ドラマが動き出すのはその後でも遅くない。テレビシリーズは回数を使えるのだから焦る必要はない。じっくり受け手への理解を促し、充分引きこんだと思えたところで作品にカタルシスを込めればいい。物語世界が特殊であるならば、その作品でしかない特殊な感動や感慨がそこに現れるだろう。ドラマが動き出すまで主人公が異世界的設定を体験する過程でも構わない。むしろその過程が面白ければ読者を引きこむ切っ掛けになるし、それが異世界設定を疑似体験する手っ取り早く確実な方法だ。だからまずは解説を丁寧に描き、ドラマへの準備活動をしっかり構築するべきである。
この準備段階を怠ると、どんなドラマを展開しても空回りする。どんなに素晴らしい展開を設定しても、受け手は逆に困惑するだけで、意外性を与えようとすればするほど、受け手の気分は物語から遠ざかっていく。
『アスラクライン』は明らかにこの前段階を放り出したまま物語を進めてしまっている。準備段階も充分でないままにドラマに飛びつこうとするが、そのドラマというのが既視感まみれの安っぽい三流ドラマときている。これだと受け手の気分はどこまでも作品から遠ざかって冷ややかな気分になる。
いや、ありきたりなドラマでも構わないのだ。準備段階さえしっかり構築できて主人公の気持ちと受け手の気持ちが一体になっている状態に引き込めれば、平凡でありきたりな言葉のやり取りもでも充分に涙を誘うことができる。
『アスラクライン』の場合、その状態への準備段階からして不十分なのだ。この作品の中でどんなに素晴らしい場面を作っても、受け手の気持ちと乖離して空回りするだけ。『アスラクライン』という作品でしかありえない革命的場面を作っても、注目されず埋もれるだけだろう。そんな作品にまともな批評がつくはずもなく、累々たる駄作の山に埋もれて忘れられるだけである。
追補:どんな凄いシーンを描いても、周辺の設定が不十分だと凄いという気がしない……。代表的な例が『ファイナルファンタジー』シリーズの召喚獣だ。『ファイナルファンタジー』シリーズの召喚獣ビジュアルは毎回毎回たいへんなこだわりで描いているが、まったく凄いという気がしない。むしろ長々と続くムービーシーンが目ざわりとさえ思う。なぜか。そのビジュアルがどう凄いのか、作品中にまったく指標を示していないからである。逆にどう凄いのかわかりやすい基準めいたものが描けていれば、あれだけの壮大なビジュアルは不要だ。
わかりやすい例は……若い人にはわからないと思うが『ボンバーマン』というゲームの火力の増大っぷりを例に挙げておく。あれくらいシンプルなほうが、私は好みだ。
次回 『通俗的な意識』を読む
PR