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■2009/08/04 (Tue)
創作小説■
この小説は、『さよなら絶望先生』を題材にした2次創作小説です。2次創作に関する法的問題については、こちらをご覧下さい。【著作物】【二次創作物】【パロディ】【パロディ裁判】
11
可符香のノートをチェックし終えて、糸色先生は次のノートを手に取りながら、私を改まったふうに振り返った。
「それで、日塔さん。あれから1週間が経ちましたが、具合はどうですか。そろそろ落ち着きましたか」
糸色先生は、少し私に気を遣うみたいだった。
「ありがとうございます。でも、もう随分経ちますから。平気ですよ」
私は軽く笑顔を作った答えを返した。
本当はまだ、落ち着いているとは言えなかった。夜、眠ろうとすると、あのホルマリン漬けを夢に見るのではないかと思う日はあった。
それに、あれから何度か野沢の携帯電話に掛けてみたけど、一度も応答はなかった。友達の情報を頼って、やっと家の電話を調べたけど、家族の人から「行方不明だ」と告げられた。
あの事件はまだ終っていない。私の心の底にできた闇と恐怖は、まだ晴れずに静かに漂っている。もしも、野沢君の身に何か起きていたとしたら……。私は、その時の心の準備はできているだろうか。
「野沢君、大丈夫かな」
私は何となくそれを口にするのが嫌だった。それを口にしたら、野沢が無事でないと認めるみたいだったから。
「失踪届けが出たそうです。死亡ではありません」
「失踪届け、ですか?」
糸色先生が簡単に説明した。でも私は意味がわからなくて、聞き返してしまった。
「失踪者に出される届出です。失踪届けが出れば、全国の警察に伝わり、仕事ついでに探してくれるようになるんですよ。だから、もしかすると、どこかでひょっこり見付かるかもしれませんよ」
糸色先生は私を安心するように微笑みかけた。ちなみに失踪届けは、7年が過ぎると、死亡扱いになるそうだ。7年も経つと、もう発見されないだろう、という意味だ。
「蘭京さん、まだ見付からないそうですね」
でも私の気分は晴れず、ぽつりと声を沈ませた。
「警察が目下捜索中です。すでに町中くまなく捜索されましたが、発見されていないようです。自宅にも帰った痕跡がないようです。蘭京さんには親類もいなかったそうですから、行き先は不明のまま。でも、とりあえず町内にはいないでしょう。これだけ探していないのですから。だから日塔さんも安心してもいいですよ」
糸色先生は私を元気付けるように、ちょっと笑顔で顔を上げた。
「そうですか……」
私はすぐには明るい気持ちになれず、やっぱり声を沈ませた。
蘭京太郎は発見されていなかった。糸色先生が言ったように、痕跡を残さず忽然と姿を消していた。
行方不明になった生徒も発見されていない。だからあのホルマリン漬けの持ち主が、行方不明の生徒なのか、それすらわからないままだった。
私の個人的な気持ちが、ではなく、実際に事件は終っていなかった。なのに、不思議なくらい平和な日常は戻ってきた。みんな事件などなかったみたいに、笑ったり騒いだりしている。
町に出ると、蘭京太郎の指名手配写真が一杯に貼り出されていた。事件は継続中だ、と警告するように。でもそんな風景すら日常のひとコマにしてしまって、平凡な毎日が続いている、という感じだった。
「さて、日塔さん。私は仕事があるので。そろそろ、通知表をつけねばなりませんし」
しばらく黙って立っていると、糸色先生が私に声をかけた。
私は、あっと顔を上げた。糸色先生は抽斗を開けて、これみよがしに通知表の束を引っ張り出していた。
「あ、失礼します!」
私は背筋を真直ぐ伸ばして挨拶をすると、逃げるように糸色先生の机を離れた。
そうして職員室を出て行こうとしたとき、
「……非通知にしちゃおっかな」
糸色先生が小さな声で呟くのが聞こえた。
私はふと足を止めて、糸色先生を振り返った。糸色先生は憂鬱そうに首をうなだれさせて通知表と向き合っていた。
糸色先生、私、非通知賛成です。
私は「失礼しました」と職員室を出て行った。
職員室を出ると、正面の窓に鮮やかに冴えた緑色が現れた。ミンミンと叫ぶようなセミの大合唱が聞こえていた。
そういえば、もうすぐ夏休みだな、と私は思った。
子供の頃は、楽しみに日を数えて待っていた夏休み。でも今の私の気持ちは、ぼんやりと暗いものを背中に抱えたままだった。
次回 P015 第3章 義姉さん僕は貴族です1 を読む
小説『さよなら絶望先生~赤い瞳の少女~』目次
P014 第2章 毛皮を着たビースト
11
可符香のノートをチェックし終えて、糸色先生は次のノートを手に取りながら、私を改まったふうに振り返った。
「それで、日塔さん。あれから1週間が経ちましたが、具合はどうですか。そろそろ落ち着きましたか」
糸色先生は、少し私に気を遣うみたいだった。
「ありがとうございます。でも、もう随分経ちますから。平気ですよ」
私は軽く笑顔を作った答えを返した。
本当はまだ、落ち着いているとは言えなかった。夜、眠ろうとすると、あのホルマリン漬けを夢に見るのではないかと思う日はあった。
それに、あれから何度か野沢の携帯電話に掛けてみたけど、一度も応答はなかった。友達の情報を頼って、やっと家の電話を調べたけど、家族の人から「行方不明だ」と告げられた。
あの事件はまだ終っていない。私の心の底にできた闇と恐怖は、まだ晴れずに静かに漂っている。もしも、野沢君の身に何か起きていたとしたら……。私は、その時の心の準備はできているだろうか。
「野沢君、大丈夫かな」
私は何となくそれを口にするのが嫌だった。それを口にしたら、野沢が無事でないと認めるみたいだったから。
「失踪届けが出たそうです。死亡ではありません」
「失踪届け、ですか?」
糸色先生が簡単に説明した。でも私は意味がわからなくて、聞き返してしまった。
「失踪者に出される届出です。失踪届けが出れば、全国の警察に伝わり、仕事ついでに探してくれるようになるんですよ。だから、もしかすると、どこかでひょっこり見付かるかもしれませんよ」
糸色先生は私を安心するように微笑みかけた。ちなみに失踪届けは、7年が過ぎると、死亡扱いになるそうだ。7年も経つと、もう発見されないだろう、という意味だ。
「蘭京さん、まだ見付からないそうですね」
でも私の気分は晴れず、ぽつりと声を沈ませた。
「警察が目下捜索中です。すでに町中くまなく捜索されましたが、発見されていないようです。自宅にも帰った痕跡がないようです。蘭京さんには親類もいなかったそうですから、行き先は不明のまま。でも、とりあえず町内にはいないでしょう。これだけ探していないのですから。だから日塔さんも安心してもいいですよ」
糸色先生は私を元気付けるように、ちょっと笑顔で顔を上げた。
「そうですか……」
私はすぐには明るい気持ちになれず、やっぱり声を沈ませた。
蘭京太郎は発見されていなかった。糸色先生が言ったように、痕跡を残さず忽然と姿を消していた。
行方不明になった生徒も発見されていない。だからあのホルマリン漬けの持ち主が、行方不明の生徒なのか、それすらわからないままだった。
私の個人的な気持ちが、ではなく、実際に事件は終っていなかった。なのに、不思議なくらい平和な日常は戻ってきた。みんな事件などなかったみたいに、笑ったり騒いだりしている。
町に出ると、蘭京太郎の指名手配写真が一杯に貼り出されていた。事件は継続中だ、と警告するように。でもそんな風景すら日常のひとコマにしてしまって、平凡な毎日が続いている、という感じだった。
「さて、日塔さん。私は仕事があるので。そろそろ、通知表をつけねばなりませんし」
しばらく黙って立っていると、糸色先生が私に声をかけた。
私は、あっと顔を上げた。糸色先生は抽斗を開けて、これみよがしに通知表の束を引っ張り出していた。
「あ、失礼します!」
私は背筋を真直ぐ伸ばして挨拶をすると、逃げるように糸色先生の机を離れた。
そうして職員室を出て行こうとしたとき、
「……非通知にしちゃおっかな」
糸色先生が小さな声で呟くのが聞こえた。
私はふと足を止めて、糸色先生を振り返った。糸色先生は憂鬱そうに首をうなだれさせて通知表と向き合っていた。
糸色先生、私、非通知賛成です。
私は「失礼しました」と職員室を出て行った。
職員室を出ると、正面の窓に鮮やかに冴えた緑色が現れた。ミンミンと叫ぶようなセミの大合唱が聞こえていた。
そういえば、もうすぐ夏休みだな、と私は思った。
子供の頃は、楽しみに日を数えて待っていた夏休み。でも今の私の気持ちは、ぼんやりと暗いものを背中に抱えたままだった。
次回 P015 第3章 義姉さん僕は貴族です1 を読む
小説『さよなら絶望先生~赤い瞳の少女~』目次
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■2009/08/03 (Mon)
創作小説■
この小説は、『さよなら絶望先生』を題材にした2次創作小説です。2次創作に関する法的問題については、こちらをご覧下さい。【著作物】【二次創作物】【パロディ】【パロディ裁判】
10
休校は6日間続いて7日目に学校は再開された。
学校が始まると、みんな何もかも当り前の顔をして、毎日が平然と始まった。この学校で起きた事件も、もうどこか遠い場所のできごとみたいだった。私の一週間連続日直の日々も、やはりその後も再開された。
私は、皆から集めた現国のノートを抱えて、廊下を歩いていた。全部でだいたい32人分のノートはかなり重かった。私はひいひいと汗をかきながら、やっと職員室にたどり着いた。
職員室は扉が開けたままだったので、挨拶もなくその中へ入っていき、糸色先生の机へ向かった。
「先生、提出物のノートです。助けて」
私はふらふらと糸色先生の下へと向かった。
「日塔さん、大変でしたね」
糸色先生は私に気付くと、すぐに席を立った。ノートの束の上半分を手に取り、机の端に置く。私はやっとノートの重さから解放されて、先生が置いた場所に残りのノートの束を重ねた。
それで、一番上になったノートを見て、あれ? となった。
「可符香ちゃんのノート。先生、可符香ちゃんって、提出物も“風浦可符香”なんですか?」
一番上になっていたのは可符香のノートだった。名前記入欄のところに“風浦可符香”と書かれ、最後の“香”にキツネの尻尾マークが付け足されていた。
「ええ、そうですよ」
糸色先生は椅子に座りながら答えた。
「先生、まさかと思いますけど、出席簿とかも“風浦可符香”なんて書いていたり、しませんよね?」
私は念のためと思って訊ねてみた。
「もちろん、風浦可符香で記入されていますよ。なにか、問題でも?」
糸色先生はさも当り前といった調子で答え、机の奥に並んだ書類の中から出席簿を引っ張り出した。出席簿は写真入りで生徒の名前が記されていたけど、どうやらコーヒーをこぼしたらしく、全体がココア色になって文字が滲んでしまっていた。果たして、本当に“風浦可符香”と書いているのか私にはわからなかった。
「先生、いいんですか? 風浦可符香って、たしかペンネームですよ。本当の名前じゃないんですよ。それで、いいんですか?」
私は冗談ではなく、笑顔を消して確認するように訊ねた。
「私は個人の自由を尊重しますので。憲法にもそう定められているので、認めないわけにはいきません」
糸色先生は真面目な顔をして可符香のノートを手にとり、開いてみた。
ノートの中身は意外とまともだった。黒板に書かれていた内容が、しっかり写し取られている。……と思ったら、ページがめくられると、奇怪なキャラクターをお花畑の絵が現れた。さらに次のページへ行くと、また真面目なノートに戻った。なんだか、可符香らしいノートだと思った。
「でも、先生。まさか、可符香ちゃんの住所も知らないなんて、言いませんよね?」
糸色先生にも、何か信条のようなものがあるらしい。それでも私は、もう一つ質問してみた。
すると糸色先生は、心外だったらしく、厳しい顔をして私を振り返った。
「日塔さん、失礼を言わないで下さい。私はあの子の担任ですよ。もちろん知っています。ポロロッカ星です」
糸色先生は、物凄い真面目な顔をして断言した。
私はぽかんとしながら、頭の中に「コリン星→千葉県」「ポロロッカ星→?」という図式を描いていた。
「あの、先生、本気ですか」
「もちろん、本気です」
「担任としてそれでいいんですか?」
「日塔さん。この世の中、深入りすべきではないことがたくさんあるのですよ。日塔さんも、もう少し大人になるとわかると思います。わからないことは、あえて知るべきではないのです。知らぬが華。ならば、私はあえて多くを知ろうと思いません」
糸色先生は冗談などひとかけらもない顔で、何かを諭すように私に言った。
「いや、生徒の正しい名前と住所くらい、知っておきましょうよ」
という私の的確と思える突っ込みが、先生に届くとは思えなかった。
次回 P014 第2章 毛皮を着たビースト 11
小説『さよなら絶望先生~赤い瞳の少女~』目次
P013 第2章 毛皮を着たビースト
10
休校は6日間続いて7日目に学校は再開された。
学校が始まると、みんな何もかも当り前の顔をして、毎日が平然と始まった。この学校で起きた事件も、もうどこか遠い場所のできごとみたいだった。私の一週間連続日直の日々も、やはりその後も再開された。
私は、皆から集めた現国のノートを抱えて、廊下を歩いていた。全部でだいたい32人分のノートはかなり重かった。私はひいひいと汗をかきながら、やっと職員室にたどり着いた。
職員室は扉が開けたままだったので、挨拶もなくその中へ入っていき、糸色先生の机へ向かった。
「先生、提出物のノートです。助けて」
私はふらふらと糸色先生の下へと向かった。
「日塔さん、大変でしたね」
糸色先生は私に気付くと、すぐに席を立った。ノートの束の上半分を手に取り、机の端に置く。私はやっとノートの重さから解放されて、先生が置いた場所に残りのノートの束を重ねた。
それで、一番上になったノートを見て、あれ? となった。
「可符香ちゃんのノート。先生、可符香ちゃんって、提出物も“風浦可符香”なんですか?」
一番上になっていたのは可符香のノートだった。名前記入欄のところに“風浦可符香”と書かれ、最後の“香”にキツネの尻尾マークが付け足されていた。
「ええ、そうですよ」
糸色先生は椅子に座りながら答えた。
「先生、まさかと思いますけど、出席簿とかも“風浦可符香”なんて書いていたり、しませんよね?」
私は念のためと思って訊ねてみた。
「もちろん、風浦可符香で記入されていますよ。なにか、問題でも?」
糸色先生はさも当り前といった調子で答え、机の奥に並んだ書類の中から出席簿を引っ張り出した。出席簿は写真入りで生徒の名前が記されていたけど、どうやらコーヒーをこぼしたらしく、全体がココア色になって文字が滲んでしまっていた。果たして、本当に“風浦可符香”と書いているのか私にはわからなかった。
「先生、いいんですか? 風浦可符香って、たしかペンネームですよ。本当の名前じゃないんですよ。それで、いいんですか?」
私は冗談ではなく、笑顔を消して確認するように訊ねた。
「私は個人の自由を尊重しますので。憲法にもそう定められているので、認めないわけにはいきません」
糸色先生は真面目な顔をして可符香のノートを手にとり、開いてみた。
ノートの中身は意外とまともだった。黒板に書かれていた内容が、しっかり写し取られている。……と思ったら、ページがめくられると、奇怪なキャラクターをお花畑の絵が現れた。さらに次のページへ行くと、また真面目なノートに戻った。なんだか、可符香らしいノートだと思った。
「でも、先生。まさか、可符香ちゃんの住所も知らないなんて、言いませんよね?」
糸色先生にも、何か信条のようなものがあるらしい。それでも私は、もう一つ質問してみた。
すると糸色先生は、心外だったらしく、厳しい顔をして私を振り返った。
「日塔さん、失礼を言わないで下さい。私はあの子の担任ですよ。もちろん知っています。ポロロッカ星です」
糸色先生は、物凄い真面目な顔をして断言した。
私はぽかんとしながら、頭の中に「コリン星→千葉県」「ポロロッカ星→?」という図式を描いていた。
「あの、先生、本気ですか」
「もちろん、本気です」
「担任としてそれでいいんですか?」
「日塔さん。この世の中、深入りすべきではないことがたくさんあるのですよ。日塔さんも、もう少し大人になるとわかると思います。わからないことは、あえて知るべきではないのです。知らぬが華。ならば、私はあえて多くを知ろうと思いません」
糸色先生は冗談などひとかけらもない顔で、何かを諭すように私に言った。
「いや、生徒の正しい名前と住所くらい、知っておきましょうよ」
という私の的確と思える突っ込みが、先生に届くとは思えなかった。
次回 P014 第2章 毛皮を着たビースト 11
小説『さよなら絶望先生~赤い瞳の少女~』目次
■2009/08/02 (Sun)
創作小説■
この小説は、『さよなら絶望先生』を題材にした2次創作小説です。2次創作に関する法的問題については、こちらをご覧下さい。【著作物】【二次創作物】【パロディ】【パロディ裁判】
9
糸色先生はゆっくりドアを開けて、中に立ち入った。私も先生の背中越しに部屋のなかを覗いた。
部屋は暗く、カーテンで締め切られた窓がぼんやりと浮かんでいた。本棚一杯の漫画本。小さなブラウン管テレビ。Tシャツが何枚かつるされている。でも、どれも薄く埃が降り積っていて、誰かいそうな気配も、誰かが最近そこで生活した形跡も認められなかった。
霧の姿はもちろんどこにもない。ひょっとしたら、霧の父親がなにかの病気で「娘が帰ってきた」という願望を語っているのかとすら思った。
糸色先生はそんな部屋の様子を軽く一瞥すると、迷わず押入れの前まで進んだ。
「霧さん、そこにいますね。開けてもいいですか」
糸色先生は膝をついて、落ち着いた声で呼びかけた。
少し間があって、中から気配がした。
「駄目、開けないでよ」
押入れの中から、細く途切れそうな声がした。
しばらく押入れ中でごそごそする気配があって、それからやっと襖が開いた。
中から現れたのは、小森霧だった。手入れしていない長すぎる髪が顔にかかっている。ちょっとよれた白のTシャツに、下はジャージ。そんな格好だけど、髪の毛に隠れた肌は信じられないくらい白く艶があった。顔立ちは綺麗に整って、大きな瞳はいつも訴えかけるようにうるうると揺れていた。ちょっとでもお手入れすると、きっと物凄い美少女が現れるかもしれない。それが小森霧という女の子だった。
小森霧は襖を薄く開けると、まず糸色先生を見て、それから私たちに目を向けた。その顔がなんとなく不安げに思えた。
「小森さん、あなたに聞きたい話があります。昨日の晩、学校で何が起きたのですか。あなたが学校を逃げ出して、実家に戻った理由です。話して、くれますか」
糸色先生は霧をじっと見詰めて、宥める声で切り出した。
霧は糸色先生を振り返るが、返事を返さず目線を落とした。それから、私たちをちらと見る。
「皆さん、しばらく二人だけにしてもらえますか?」
糸色先生が霧の様子を察して、私たちを振り返った。
私たちは大人しく糸色先生に従うことにした。でもこんな時だけど、私はちょっと霧に嫉妬していた。先生と二人きりになれる口実を作ったんじゃないかって、思ってしまった。霧も先生を狙っている女の子の一人だったから。
私はそんなふうに考えてから、やらしい想像をする自分を非難した。
霧の部屋を出てドアを閉めるとき、私は気になるように糸色先生と霧を振り返った。霧が押入れから身を乗り出して、何かを話そうとし始めていた。真っ白な頬が、すこし赤くなっているような気がした。
それから私たちは、廊下で糸色先生が出てくるのを待った。話は長く長く続くようだった。窓から射す灰色の光は、そのまま輝きを失って家の中は真っ黒に沈み始めた。
私たちはみんなうつむいたままで、言葉を交わさなかった。なんとなく皆、互いに壁を作って、黙っているみたいだった。一度智恵先生が、「先に帰りましょう」と提案した。でも、私たちは誰も同意しなかった。
夕方6時を回った頃、やっと糸色先生が一人きりで部屋から出てきた。
「どうでした?」
すぐに智恵先生が私たちを代表して尋ねた。
「小森さんはすべて目撃していました。それで恐くなって、学校を離れてここに隠れていたようです。警察に電話しましょう。犯人は蘭京太郎です。誰か、携帯電話を」
糸色先生は厳しい顔だったけど、穏やかな声で私たちに言った。
次回 P013 第2章 毛皮を着たビースト10 を読む
小説『さよなら絶望先生~赤い瞳の少女~』目次
P012 第2章 毛皮を着たビースト
9
糸色先生はゆっくりドアを開けて、中に立ち入った。私も先生の背中越しに部屋のなかを覗いた。
部屋は暗く、カーテンで締め切られた窓がぼんやりと浮かんでいた。本棚一杯の漫画本。小さなブラウン管テレビ。Tシャツが何枚かつるされている。でも、どれも薄く埃が降り積っていて、誰かいそうな気配も、誰かが最近そこで生活した形跡も認められなかった。
霧の姿はもちろんどこにもない。ひょっとしたら、霧の父親がなにかの病気で「娘が帰ってきた」という願望を語っているのかとすら思った。
糸色先生はそんな部屋の様子を軽く一瞥すると、迷わず押入れの前まで進んだ。
「霧さん、そこにいますね。開けてもいいですか」
糸色先生は膝をついて、落ち着いた声で呼びかけた。
少し間があって、中から気配がした。
「駄目、開けないでよ」
押入れの中から、細く途切れそうな声がした。
しばらく押入れ中でごそごそする気配があって、それからやっと襖が開いた。
小森霧は襖を薄く開けると、まず糸色先生を見て、それから私たちに目を向けた。その顔がなんとなく不安げに思えた。
「小森さん、あなたに聞きたい話があります。昨日の晩、学校で何が起きたのですか。あなたが学校を逃げ出して、実家に戻った理由です。話して、くれますか」
糸色先生は霧をじっと見詰めて、宥める声で切り出した。
霧は糸色先生を振り返るが、返事を返さず目線を落とした。それから、私たちをちらと見る。
「皆さん、しばらく二人だけにしてもらえますか?」
糸色先生が霧の様子を察して、私たちを振り返った。
私たちは大人しく糸色先生に従うことにした。でもこんな時だけど、私はちょっと霧に嫉妬していた。先生と二人きりになれる口実を作ったんじゃないかって、思ってしまった。霧も先生を狙っている女の子の一人だったから。
私はそんなふうに考えてから、やらしい想像をする自分を非難した。
霧の部屋を出てドアを閉めるとき、私は気になるように糸色先生と霧を振り返った。霧が押入れから身を乗り出して、何かを話そうとし始めていた。真っ白な頬が、すこし赤くなっているような気がした。
それから私たちは、廊下で糸色先生が出てくるのを待った。話は長く長く続くようだった。窓から射す灰色の光は、そのまま輝きを失って家の中は真っ黒に沈み始めた。
私たちはみんなうつむいたままで、言葉を交わさなかった。なんとなく皆、互いに壁を作って、黙っているみたいだった。一度智恵先生が、「先に帰りましょう」と提案した。でも、私たちは誰も同意しなかった。
夕方6時を回った頃、やっと糸色先生が一人きりで部屋から出てきた。
「どうでした?」
すぐに智恵先生が私たちを代表して尋ねた。
「小森さんはすべて目撃していました。それで恐くなって、学校を離れてここに隠れていたようです。警察に電話しましょう。犯人は蘭京太郎です。誰か、携帯電話を」
糸色先生は厳しい顔だったけど、穏やかな声で私たちに言った。
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■2009/08/01 (Sat)
創作小説■
この小説は、『さよなら絶望先生』を題材にした2次創作小説です。2次創作に関する法的問題については、こちらをご覧下さい。【著作物】【二次創作物】【パロディ】【パロディ裁判】
8
私は可符香と千里と一緒に、生徒玄関口から校舎の外に出た。そこで職員玄関口から出てきた智恵先生と合流した。
雨はぽつぽつと降っているだけで勢いは弱かった。空の雨雲は早く動いて散りかけている。もう少ししたら晴れそうだった。
私たちは傘を差して雨の中に出て行った。土が雨を吸って、いくつもの水溜りを作っていた。登校していたときは晴れていたから、思っていた以上に私が眠っていた時間は長かったのかもしれない。
そうして私たちが校門の前に行きかけた時、背後から誰かが慌しく駆けて来る気配がした。私たちは足を止めて振り返った。走ってくるのは糸色先生だった。番傘を手にしていて、袴の裾に泥を跳ね上げていた。
「あら、糸色先生。どちらへ?」
智恵先生が糸色先生の前に進み出た。
「小森さんの居場所がわかりました。これから向かうところです」
糸色先生が千恵先生の前で止まり、いつもにはない厳しい顔をした。
「どこですか?」
智恵先生にも厳しい顔が宿る。
「自宅です。昨日の晩、突然実家に帰宅したそうです。ちょうどいいから、みなさんで行きましょう」
糸色先生が私たちを見て説明した。
小森霧が実家に帰っている。学校引きこもりを始めて2ヶ月というから、あまりにも意外な隠れ場所だった。
私たちはそのまま、霧の家へ移動した。
霧の実家は、閑静な住宅街の奥へ入った、狭い通りにあった。その辺りは、ゴーストタウンみたいに静かで、勢いの弱い雨の音が際立って聞こえる気がした。アスファルトの通りは手入れされておらず、ひびが入り、苔やカビが張り付いて雑草がぽつぽつと生え始めていた。
そんな場所に置かれている霧の家は、典型的な2階建ての文化住宅だった。壁の色は汚れて黒くなり、赤い屋根は色を失いかけている。窓ガラスは曇っていて、中が暗く沈んでいた。なんとなく全体の影が重く、廃屋になる寸前で留まっている家みたいだった。
インターホンを押すと、霧の父親が出てきて応対してくれた。話は通っているらしく、すぐに私たちを家の中に通してくれた。
「よく来てくれました。お友達も一緒で。昨日の夜、急に娘が帰ってきたんですよ。もうずっと連絡もなかったものですから、本当に、なんていうべきか……。でも、やはりあの部屋にこもりっきりで食事もとらず、顔も合わせようともしないんです。一日が過ぎているんですが、物音すらせず、いったい何をしているのかと……」
霧のお父さんは、聞かれもしないのにとりとめもなく話を始めた。
お父さんは若そうだったけど、顔は疲れきって皺が多く、髪には白髪が多くなりつつあった。見たまま、苦労しているんだな、と思った。
家の中もひどく暗かった。窓からささやかに光が入ってくるけど、むしろ家全体の影を深くしているように思えた。
私は靴下の足にざらついたものを感じて、もしやと思って振り向いた。掃除もしていないらしい廊下に、私たちの足跡がくっきり写っていた。家を出るとき、足の裏の埃を払ったほうが良さそうだ。
私たちは、二階の霧がいる部屋の前まで案内された。
「霧、学校の先生がいらしてくれたよ。クラスの友達も一緒だよ。さあ、出てごらん。顔くらい見せたらどうなんだ」
霧のお父さんはドアをノックして、弱々しい声で呼びかけた。本人の前ではいえないけど、駄目なお父さんって感じだった。
「失礼、私が。小森さん、私です。ちょっと聞きたいことがあります。入りますよ」
糸色先生が代わりを務めて、呼びかけながら、ドアノブをひねった。鍵はかかっていないようだった。
次回 012 第2章 毛皮を着たビースト9 を読む
小説『さよなら絶望先生~赤い瞳の少女~』目次
P011 第2章 毛皮を着たビースト
8
私は可符香と千里と一緒に、生徒玄関口から校舎の外に出た。そこで職員玄関口から出てきた智恵先生と合流した。
雨はぽつぽつと降っているだけで勢いは弱かった。空の雨雲は早く動いて散りかけている。もう少ししたら晴れそうだった。
私たちは傘を差して雨の中に出て行った。土が雨を吸って、いくつもの水溜りを作っていた。登校していたときは晴れていたから、思っていた以上に私が眠っていた時間は長かったのかもしれない。
そうして私たちが校門の前に行きかけた時、背後から誰かが慌しく駆けて来る気配がした。私たちは足を止めて振り返った。走ってくるのは糸色先生だった。番傘を手にしていて、袴の裾に泥を跳ね上げていた。
「あら、糸色先生。どちらへ?」
智恵先生が糸色先生の前に進み出た。
「小森さんの居場所がわかりました。これから向かうところです」
糸色先生が千恵先生の前で止まり、いつもにはない厳しい顔をした。
「どこですか?」
智恵先生にも厳しい顔が宿る。
「自宅です。昨日の晩、突然実家に帰宅したそうです。ちょうどいいから、みなさんで行きましょう」
糸色先生が私たちを見て説明した。
小森霧が実家に帰っている。学校引きこもりを始めて2ヶ月というから、あまりにも意外な隠れ場所だった。
私たちはそのまま、霧の家へ移動した。
霧の実家は、閑静な住宅街の奥へ入った、狭い通りにあった。その辺りは、ゴーストタウンみたいに静かで、勢いの弱い雨の音が際立って聞こえる気がした。アスファルトの通りは手入れされておらず、ひびが入り、苔やカビが張り付いて雑草がぽつぽつと生え始めていた。
そんな場所に置かれている霧の家は、典型的な2階建ての文化住宅だった。壁の色は汚れて黒くなり、赤い屋根は色を失いかけている。窓ガラスは曇っていて、中が暗く沈んでいた。なんとなく全体の影が重く、廃屋になる寸前で留まっている家みたいだった。
インターホンを押すと、霧の父親が出てきて応対してくれた。話は通っているらしく、すぐに私たちを家の中に通してくれた。
「よく来てくれました。お友達も一緒で。昨日の夜、急に娘が帰ってきたんですよ。もうずっと連絡もなかったものですから、本当に、なんていうべきか……。でも、やはりあの部屋にこもりっきりで食事もとらず、顔も合わせようともしないんです。一日が過ぎているんですが、物音すらせず、いったい何をしているのかと……」
霧のお父さんは、聞かれもしないのにとりとめもなく話を始めた。
お父さんは若そうだったけど、顔は疲れきって皺が多く、髪には白髪が多くなりつつあった。見たまま、苦労しているんだな、と思った。
家の中もひどく暗かった。窓からささやかに光が入ってくるけど、むしろ家全体の影を深くしているように思えた。
私は靴下の足にざらついたものを感じて、もしやと思って振り向いた。掃除もしていないらしい廊下に、私たちの足跡がくっきり写っていた。家を出るとき、足の裏の埃を払ったほうが良さそうだ。
私たちは、二階の霧がいる部屋の前まで案内された。
「霧、学校の先生がいらしてくれたよ。クラスの友達も一緒だよ。さあ、出てごらん。顔くらい見せたらどうなんだ」
霧のお父さんはドアをノックして、弱々しい声で呼びかけた。本人の前ではいえないけど、駄目なお父さんって感じだった。
「失礼、私が。小森さん、私です。ちょっと聞きたいことがあります。入りますよ」
糸色先生が代わりを務めて、呼びかけながら、ドアノブをひねった。鍵はかかっていないようだった。
次回 012 第2章 毛皮を着たビースト9 を読む
小説『さよなら絶望先生~赤い瞳の少女~』目次
■2009/08/01 (Sat)
創作小説■
この小説は、『さよなら絶望先生』を題材にした2次創作小説です。2次創作に関する法的問題については、こちらをご覧下さい。【著作物】【二次創作物】【パロディ】【パロディ裁判】
7
私たちはしばし沈黙した。静かに囁く雨の音が、心にのしかかってくる気がした。
「あの、智恵先生。それは、実際の話なんですか? 映画の話とかではなく……。」
千里が軽く手を上げて質問をした。千里の額に、乱れた毛が数本被さっていた。
「もちろん、本当の話よ」
智恵先生はさらっと答えを返した。保健室の空気が、よりどんより曇るような気がした。
「智恵先生、どうしてそんな事件に詳しいんですか?」
今度は糸色先生が尋ねた。糸色先生の顔にも、恐怖が浮かんでいた。
「スクールカウンセラーですもの。神戸での事件以来、その種のテキストも必須になったのよ。性異常者による犯罪は、もう特別な事件じゃありませんから」
智恵先生が糸色先生を振り向いて説明した。なんとなく智恵先生が生き生きと話をしているように思えるのは、私の気のせいだろうか。
私は今さら、頭が重く感じてうつむいた。呼吸が詰まる気がして、胸を抑えた。そんな事件が、この学校で、この身近で起きてしまった。私は自分で抑えられない恐怖を感じていた。
「とりあえず、そういう事件だと理解しました。それで、死体はどこにいったんですか? 切り取られた、その……あれがあるのですから、死体がどこかにあるはずです。そもそもあれは、うちの生徒だったのか、という疑問もあります。」
千里はもう恐怖から克服したらしく、いつものきっちりした真ん中分け富士額に戻っていた。
「今、学校で全生徒の所在を確認しています。死体が出てきていないから、まだうちの生徒のものだ、とはいえない状況よ。そこから後は警察の仕事になるわ。蘭京さんの行方も含めてね。学校はしばらく封鎖されるから、私たちは大人しく家でじっとしているのがいいわ」
智恵先生は安心させるように、声のトーンを軽くして、私たちを見回した。
「とにかく、日塔さんが無事で何よりです。犯人らしき人と接触しかけたわけですから。私のクラスの生徒に、何も起きなくて本当に良かった」
先生がげっそり青ざめた顔に笑顔を作った。
でも智恵先生が厳しく糸色先生を睨み付けた。
「何言ってるんですか。小森霧さんが行方不明なのよ!」
「ええ!」
糸色先生が驚きの声をあげた。私も千里もぽかんと口を開けて智恵先生の厳しい顔を見ていた。
小森霧は、世にも珍しい学校引きこもりだ。だから学校に引きこもったまま、何日も家に帰っていない。学校のある一室で過ごしていて、教室にはあまり顔を出さないけど、2のへ組の一人だ。その小森霧が、学校から姿を消したらしい。
智恵先生があきれたように溜息をついた。
「まったく。いいかげん、毎朝生徒の出席をとる習慣を身に付けてください。自分のクラスの生徒のことでしょ。今すぐ電話するなり確認してください!」
「はい、すぐに行きます!」
智恵先生の言葉は穏やかだったけど、鋭い目つきで糸色先生を叱った。糸色先生は、怒られた生徒みたいに背筋を真直ぐ伸ばし、智恵先生に頭を下げると物凄い勢いで保健室を飛び出していった。
「あの、小森さんはいつからいなくなっていたんですか?」
智恵先生が私たちを振り向くと、千里が訊ねた。
「日塔さんをここに運んだ後、すぐに小森さんの様子を見に行きました。最悪の場合、事件の現場はこの学校ですから。小森さんになんらかの被害が及んでいるかも、と考えたのです。でも、部屋にはいませんでした。食事の跡から推測すると、昨日の夜、食後に失踪したようね。小森さんは引きこもりだから、そんなに遠くに行くはずがないと思うと、やっぱり気がかりで……」
智恵先生の顔に不安な影が映った。
私は暗い気持ちでまたうつむいた。もしかしたら、小森霧ともう会えないかもしれない。そう思うのがあまりにもつらかった。
「ねえ、そろそろ帰りましょう」
可符香が私たちに声をかけた。顔を上げると、可符香の気遣わしげな微笑があった。色を失って灰色に沈むこの保健室で、可符香だけが光を浴びているみたいに明るかった。
「そうね。本来、集団下校ですから、私が家まで送るわ」
智恵先生も微笑を浮かべて、可符香に続いた。
私も千里も、そうね、と同意した。
鞄は、保健室の入口側のベンチに、三つ並べて置かれていた。
私はベッドから降りて、自分の鞄を手に取った。その持ち上げた感触で、千里が持って来てくれたんだな、と理解した。机の教科書が全部入っていたからだ。
それから、私はふとサイドポケットに入れておいた携帯電話に気付いた。
「あの、ちょっと電話してもいいですか。友達のところに。一応、確認したいので……」
私は携帯電話を手に持ち、保健室にいるみんなを振り返った。智恵先生も千里も頷いて了解した。
私は携帯電話の電源を入れ、電話帳を呼び起こした。昨日登録したばかりの野沢の番号を選び、通話ボタンを押した。
携帯電話を耳に当てて、応答を待った。
コール音が聞こえた。1回、2回。3回目に入りかけたところで、音がいきなりブチッと切れてしまった。携帯電話の電源を切った感じじゃない。そういう時は、あんな音はしない。何か、潰されたような音だと思った。
私は、もう一度野沢の携帯に掛けてみた。でも返ってきたのは「現在、電源が入っていないか電波の届かないところに……」という冷たいアナウンスの声だけだった。
次回 P011 第2章 毛皮のビースト8 を読む
小説『さよなら絶望先生~赤い瞳の少女~』目次
P010 第2章 毛皮を着たビースト
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私たちはしばし沈黙した。静かに囁く雨の音が、心にのしかかってくる気がした。
「あの、智恵先生。それは、実際の話なんですか? 映画の話とかではなく……。」
千里が軽く手を上げて質問をした。千里の額に、乱れた毛が数本被さっていた。
「もちろん、本当の話よ」
智恵先生はさらっと答えを返した。保健室の空気が、よりどんより曇るような気がした。
「智恵先生、どうしてそんな事件に詳しいんですか?」
今度は糸色先生が尋ねた。糸色先生の顔にも、恐怖が浮かんでいた。
「スクールカウンセラーですもの。神戸での事件以来、その種のテキストも必須になったのよ。性異常者による犯罪は、もう特別な事件じゃありませんから」
智恵先生が糸色先生を振り向いて説明した。なんとなく智恵先生が生き生きと話をしているように思えるのは、私の気のせいだろうか。
私は今さら、頭が重く感じてうつむいた。呼吸が詰まる気がして、胸を抑えた。そんな事件が、この学校で、この身近で起きてしまった。私は自分で抑えられない恐怖を感じていた。
「とりあえず、そういう事件だと理解しました。それで、死体はどこにいったんですか? 切り取られた、その……あれがあるのですから、死体がどこかにあるはずです。そもそもあれは、うちの生徒だったのか、という疑問もあります。」
千里はもう恐怖から克服したらしく、いつものきっちりした真ん中分け富士額に戻っていた。
「今、学校で全生徒の所在を確認しています。死体が出てきていないから、まだうちの生徒のものだ、とはいえない状況よ。そこから後は警察の仕事になるわ。蘭京さんの行方も含めてね。学校はしばらく封鎖されるから、私たちは大人しく家でじっとしているのがいいわ」
智恵先生は安心させるように、声のトーンを軽くして、私たちを見回した。
「とにかく、日塔さんが無事で何よりです。犯人らしき人と接触しかけたわけですから。私のクラスの生徒に、何も起きなくて本当に良かった」
先生がげっそり青ざめた顔に笑顔を作った。
でも智恵先生が厳しく糸色先生を睨み付けた。
「何言ってるんですか。小森霧さんが行方不明なのよ!」
「ええ!」
糸色先生が驚きの声をあげた。私も千里もぽかんと口を開けて智恵先生の厳しい顔を見ていた。
小森霧は、世にも珍しい学校引きこもりだ。だから学校に引きこもったまま、何日も家に帰っていない。学校のある一室で過ごしていて、教室にはあまり顔を出さないけど、2のへ組の一人だ。その小森霧が、学校から姿を消したらしい。
智恵先生があきれたように溜息をついた。
「まったく。いいかげん、毎朝生徒の出席をとる習慣を身に付けてください。自分のクラスの生徒のことでしょ。今すぐ電話するなり確認してください!」
「はい、すぐに行きます!」
智恵先生の言葉は穏やかだったけど、鋭い目つきで糸色先生を叱った。糸色先生は、怒られた生徒みたいに背筋を真直ぐ伸ばし、智恵先生に頭を下げると物凄い勢いで保健室を飛び出していった。
「あの、小森さんはいつからいなくなっていたんですか?」
智恵先生が私たちを振り向くと、千里が訊ねた。
「日塔さんをここに運んだ後、すぐに小森さんの様子を見に行きました。最悪の場合、事件の現場はこの学校ですから。小森さんになんらかの被害が及んでいるかも、と考えたのです。でも、部屋にはいませんでした。食事の跡から推測すると、昨日の夜、食後に失踪したようね。小森さんは引きこもりだから、そんなに遠くに行くはずがないと思うと、やっぱり気がかりで……」
智恵先生の顔に不安な影が映った。
私は暗い気持ちでまたうつむいた。もしかしたら、小森霧ともう会えないかもしれない。そう思うのがあまりにもつらかった。
「ねえ、そろそろ帰りましょう」
可符香が私たちに声をかけた。顔を上げると、可符香の気遣わしげな微笑があった。色を失って灰色に沈むこの保健室で、可符香だけが光を浴びているみたいに明るかった。
「そうね。本来、集団下校ですから、私が家まで送るわ」
智恵先生も微笑を浮かべて、可符香に続いた。
私も千里も、そうね、と同意した。
鞄は、保健室の入口側のベンチに、三つ並べて置かれていた。
私はベッドから降りて、自分の鞄を手に取った。その持ち上げた感触で、千里が持って来てくれたんだな、と理解した。机の教科書が全部入っていたからだ。
それから、私はふとサイドポケットに入れておいた携帯電話に気付いた。
「あの、ちょっと電話してもいいですか。友達のところに。一応、確認したいので……」
私は携帯電話を手に持ち、保健室にいるみんなを振り返った。智恵先生も千里も頷いて了解した。
私は携帯電話の電源を入れ、電話帳を呼び起こした。昨日登録したばかりの野沢の番号を選び、通話ボタンを押した。
携帯電話を耳に当てて、応答を待った。
コール音が聞こえた。1回、2回。3回目に入りかけたところで、音がいきなりブチッと切れてしまった。携帯電話の電源を切った感じじゃない。そういう時は、あんな音はしない。何か、潰されたような音だと思った。
私は、もう一度野沢の携帯に掛けてみた。でも返ってきたのは「現在、電源が入っていないか電波の届かないところに……」という冷たいアナウンスの声だけだった。
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小説『さよなら絶望先生~赤い瞳の少女~』目次