もしかして、まだアニメ化を疑っている人いませんか?
どうしてこうなってしまったのか――。あれは10年前。ある作家の元に思いがけない知らせが届いた。
「おめでとうございます、先生! アニメ化です!」
あれは幻聴だったのか、エイプリルフールの悪戯だったのか。アニメ化の話題はそれきりふっつり途切れて、あたかも初めからそんな話などなかったかのように扱われ、ただちに人々の意識の中から忘却した。
思えばサンデー時代は苦難そのものであった。作家とは名ばかりでその地位は果てしなく低く、単に待っているだけの編集から軽く扱われ、虐げられ、苛められ、苦労して描きあげた原稿をなくされても謝罪の言葉など一つもなく、あのサンデーキャラ全員登場するはずのCMにすら『かってに改蔵』キャラは出させてくれなかった。期待していた印税は、辛うじて生活が維持できる程度しか入ってこず、編集のほうが作家よりはるかにお金をもらっているのが漫画業界における現実である。貯金を貯めて老後の備えなどできるはずもない。
作家とはただの期間工でしかない。売れればそのわずかな間だけチヤホヤされ、売れなくなると使用済みの紙くずみたいにポイッと捨てられてしまう。人情なんて一片もない酷薄な世界である。
久米田康治はそんな漫画業界の最底辺をひたすら低空飛行し続けてきた。編集からひたすら苛められ、罵倒を浴びせられ、原稿をなくされ、CM制作で無視され、講談社に移ったとたん小学館時代の全ての作品が絶版扱いにされ、それでも眼差しの奥に宿った輝きは失われず、どん底の真っ黒な沼の底からいつか夜空に輝く星たちのようになりたいと――下ネタ漫画で輝きたいと心の底から願い、恨み、妬み続けていた。
それが、どうしてこうなってしまったのか……。いうまでもない。何もかも
小学館が悪いのである。
あの頃忘れられ、失われた夢は、すっかり忘れられたタイムカプセルを知らない誰かに拾われたかのように思いがけず開かれてしまった。『かってに改蔵』連載終了から7年の時を経て、まさかのアニメ化である。
久米田康治先生、おめでとうございます。
オチのない冗談はさておき、『かってに改蔵』の原作が完結してから実に8年。「なぜこんな時期に?」と首をかしげずにはいられない作品のまさかの映像化である。
アニメ『かってに改蔵』は原作初期をベースに描かれている。キャラクターは後期の、線の数を減らした洗練された表現ではなく、連載初期の線が多く、陰影を多用してキャラクターを立体的に見せようとしていた時期をベースにしている。カットの作りは全身を捉えた舞台風のロングサイズから極端なクローズアップへと何度もジャンプを繰り返しながら描かれている。色彩は連載初期のカラーページを意識した、まるでマーカーでべったり塗りたくったような原色そのままの色で描かれ、その上に様々なフィルターが丁寧に被せられている。暗いシーンでの影はセル調の実線が消えかける滲み出るようなブラックが施され、光の差し込むシーンでは色の境界線にブルーやグリーンが淡く溶け出すような処理が与えられている。ふとすると、キャラクターにも背景にも質感を持たない単調ともいえる色彩を、撮影の効果によってこの作品特有の不思議な風合いを持った映像に仕上げている。
次回予告では特にマーカーでべったり塗ったような色彩で描かれている。茶色ならべったりと茶色、緑ならべったりと緑。まるで絵の具をチューブから出してそのまま水に薄めもせず描いたような色彩である。当時の原作の色彩を忠実に再現している。
ちなみに1話と2話で次回予告の映像は微妙に変わっている。コマ送りをしてしっかり確かめたい場面だ。
その一方、オープニング・エンディングは後期の洗練されたタッチのほうが採用されている。アニメ本編、オープニング・エンディングとでまったく違う画風が試されているのに注目である。
またアイキャッチでは「現在の久米田康治」ふうのタッチで描かれている。
エピソードは、映像化作品としては非常に勇気のあるエピソードが選抜されている。後期の『さよなら絶望先生』に続く社会風刺漫画としての要素はまだ片鱗としてわずかに見える程度でしかなく、むしろ下ネタ漫画として油の乗った、まさに第1の絶頂期ともいえるエピソードを中心に採用している。
具体的に描写するとこのブログがうっかり成人指定にされてしまいそうな、テレビのような公共的なメディアでは絶対放送できないような描写が次から次へと繰り出されていく。有り体に表現すれば、チンコである。それも子供チンコではなく、悶々と欲求のはけ口を求める成人チンコである。成人チンコが次から次へと見る者を唖然とする数で描写され、クローズアップされ、その後に作品特有の微妙な笑いを後方に残して去っていく。この頃の久米田康治が描く変態たちは、全裸がデフォルトで、ブリーフという文明的な被服はまだ獲得する前であった。
「どうせテレビ放送は絶対不可能だし、映像を買う人はそれなりの理解のある人のはずだ」という開き直りっぷりが清々しい心地よさを残していく。
(ビデオの最初に、「このビデオグラムはテレビ放送バージョンとは違う……」云々の注意書きが挿入される。あれもギャグなのだろうか)
キャラクターは漫画原作の1巻~2巻をベースに描かれている。名取羽海はまだ普通の女の子だった頃で、坪内地丹はびっくりするほど頭身が高く描かれる。いずれにしても、まだ人として真っ当な時期で、勝改蔵と天才塾の一同に振り回されていた頃だ。
女性キャラクターは特にバストを強調的に描かれている。彩園すずはともかく、このタッチのお陰で羽海も(それなりに)スタイルのいい女の子のように見える。
アニメ『かってに改蔵』は徹底した原作至上主義が貫かれた作品である。原作どおりの台詞に、原作どおりの展開。原作で提示された以上のものは何もなく、イレギュラーは徹底的に排除された映像作品である。「原作ストーカー」と新房昭之に評された龍輪直征らしいデビュー作品に仕上がっている。どこまでも原作通りで、原作に忠実であろうとする、原作原理主義の性格が映像に浮かび上がってくる。まさに『かってに改蔵』の原作が好きな人が制作し、原作が好きな人のために映像化された作品である。
第1話 覚醒めた男
Aパート 詩ってるツモリ!?
(愛蔵版第1巻第4話)

ある日の科特部。いつものように部員たちが、何かをするわけでもなくぼんやりとくつろいでいた。
ふと、彩園すずが坪内地丹の背中に何か張られているのに気付く。
「あら地丹くん。そのポエム、どうしたの?」
ポエム? 手鏡で背中を映してみると、確かにポエムがそこに貼り付けられていた。
「ああ、をとうとよ/君をヌク/君下多毛ことヌカれ」
地丹だけではなかった。勝改蔵は顔にポエムが、名取羽海は太股にポエムが書かれていた。
これはきっと奴らの仕業に違いない。「叫ぶしびんの会」と呼ばれる謎の詩人集団。そしてそれは科特部の敵に違いない……。
とそんな科特部の前に、件の「叫ぶしびんの会」の一同が堂々と姿を現す。
Bパート 走り出したら止まらない!?
(愛蔵版第2巻第2話)

唐突に、構内に悲鳴が轟いた。科特部に飛び込んできたのは、美人で有名なクラス委員の山田さんであった。
「私……妄想されたんです!」
それはその日の登校時の出来事であった。美人で有名なクラス委員の山田さんの前に、全裸の男が突然現れて――、
「お前をオレの中で妄想してやる!」
と宣言。全裸の男は美人で有名なクラス委員の山田さんをニタニタと歪めた眼差しでじっと見つめながら妄想をはじめ、興奮したあえぎ声を漏らし、全身に汗を染み出し、その最後に――どうやら絶頂に達したようだった。
というわけなのだが、特に触られたりしたわけじゃないから、罪にも問えない。
これは伝説の妄想族「吐鬼女嬉」の連中に違いない。そしてそれは、科特部の敵だろう。勝改蔵は、「吐鬼女嬉」と戦うために、彼らが現れそうな場所に待ち伏せを張る。
Cパート 学校の海パン
(愛蔵版第1巻第8話)

その学校には、古くから伝わる怪奇の伝承があった。北校舎のずっと閉鎖されたままのプール。そこで昔、生徒が溺れたそうだ。しかし、その死体が浮かび上がらず、ただ血まみれになった海パンだけが後に残されていた、という……。
第2話 美しき男たちの品格
Aパート フランスはどこだ!?
(愛蔵版第1巻第6話)

「先輩! 改蔵先輩お久しぶりです!」
改蔵が街を歩いていると、唐突にサッカーユニフォームの男が声をかけてきた。改蔵の古くからの知り合いで、いま流行りの高校生Jリーガーであった。
しかし彼は、ワールドカップ代表選抜に外された直後であった。
「残念だったな、代表入り」
「どーせ僕のパスは理解されないんです……」
サッカーユニフォームの男は愕然とうなだれた。
仕方がなかった。今の日本代表では彼のキラーパスに合わせられない。なぜならば、彼がキラーパスを放つと……。
Bパート ファッション大魔王!?
(愛蔵版第1巻第21話)

最近街で、怪事件が流行っているらしい。その名も、「連続セーラー服エリ立て魔」。その正体を掴むべく、オカルト専門の科特部が集まっていた。
とそんなところに、美人で有名なクラス委員の山田さんの悲鳴が雑踏を切り裂く。駆けつけてみると、美人で有名なクラス委員の山田さんのエリが逆立ちした格好でぱりぱりに固められていた。
「フフフ……。本来、セーラー服とはそのようにエリを立てて着こなすのだ」
不意に不敵で不気味な笑い声が耳に飛び込んでくる。颯爽と現れた男こそ「連続セーラー服エリ立て魔」の犯人、オシャレ先生マリオであった。
かってに改蔵 中巻
かってに改蔵 下巻
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作品データ
総監督:新房昭之 監督:龍輪直征 原作:久米田康治
キャラクターデザイン:山村洋貴 メインアニメーター:岩崎安利
美術監督:飯島寿治 伊藤和宏 ビジュアルエフェクト:酒井基 色彩設計:滝沢いづみ
構成:東冨耶子 構成・脚本:高山カツヒコ 編集:関一彦
撮影監督:江藤慎一郎 音響監督:亀山俊樹 音楽:川田瑠夏
プロデューサー:宮本純乃介 アニメーションプロデューサー:久保田光俊
オープニング主題歌:水木一郎と特撮 エンディング主題歌:新☆谷良子
アニメーション制作:シャフト
出演:櫻井孝宏 喜多村英梨 斉藤千和 豊崎愛生 堀江由衣
○ 立木文彦 堀内賢雄 新谷良子 小野友樹 永田依子
○ 紗倉のり子 徳本英一郎 樋口智透 渡部由佳
○ 畑健二郎 MAEDAX
[1回]
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雨が冷たく降り注いでいた。のんちゃんは通りの端でボロボロになって倒れ、雨を全身に浴びていた。
「どんな教育受けてんだ、まったく。親の顔が見たいぜ」
乱暴な言葉が無情に投げかけられる。雨の音に混じって、ピチャピチャと遠ざかっていく足音が聞こえた。
のんちゃんは薄く目を開けて、固くざらついたアスファルトのでこぼこを見詰めた。細かな石の溝の間を、雨が流れて行くのが見えた。
雨の冷たさが全身に広がっていく。落雷の音が、雨雲の中でごろごろと轟いていた。

あれから数日が過ぎて――。
のんちゃんは全身包帯まみれ、右腕を吊った格好で砂浜を歩いていた。体の状態はまだ思わしくなく、左脚をずるずると引き摺り、引き摺った跡が砂浜に長く尾を引いていた。右手の買い物籠の中には長ネギが一本入れられている。頭の上にはPちゃんが大人しく止まっていた
海風がごうごうと唸りを上げている。砂浜に鉛色の波がゆらりと押し寄せてくる。空気はどこか暗く淀んで、かすかな灰の匂いを混じらせていた。


ふと、波際に黒い一団が固まっているのが見えた。黒々とした影が小さく群がり、踊っているように見えた。町のごろつきらしい。一人が屈みこんで、石の鏃の付いた棒状のものを手にしていた。
のんちゃんは気にしないで、ごろつきの側を通り過ぎようとした。
すると、ごろつきの一人が顔を上げ、のんちゃんを振り返った。

「ミイラ男だ!」
はっと声を強張らせた。顔と体が恐怖で固まったと思うと、棒を放り出して走り去ってしまった。それに釣られるように、ごろつきの仲間たちも去ってしまった。
ごろつきたちが去ると、砂浜に小さな影が残された。目を合わせる

と、小さなカメだった。
「わー、ミイラ!」
カメは怯えた声を上げて、頭を抱えてぶるぶると震えていた。
しかし、何も応答がないのにふっと我に返り、ちらっとのんちゃんを見上げた。

「ミイラじゃないよ。のんちゃんだよ」
のんちゃんの頭の上で、Pちゃんが代わりに答えた。
カメは驚きを浮かべ、それからほっとした感じに溜め息を吐いた。
「……なんだ。ヒドイ国ですね、ここは。いじめっ子ばかりだ。でも、あなたは良い人。命の恩人です。どうです? 私の国に来ません

か? こんな国、さっさと捨てちゃいましょう」
カメは安心したのか、饒舌になって語り始めた。
のんちゃんは、何も返事しないで、踵を返し左脚を引き摺って歩き始めた。
「あちらは地上の楽園。絵にもかけない美しさです。明日もこの海岸

にいます」
カメは調子を強めて、のんちゃんの背中に向って語り続けた。
のんちゃんはいくらか気にするように歩調を緩めて、何も答えずカメの言葉を聞いた。
「ずっと待っていますから」
カメの声が、海風に消え入りそうになりがら細く聞こえてきた。

翌日の昼頃。のんちゃんはカレーを食べていた。
何気なしにテレビを点ける。流れてくる情報は暴力、殺人、詐欺、虐待――。
事件が陰惨であるほどに、ニュースキャスターが生き生きと言葉を弾ませる。
不意にのんちゃんは、幼い日の出来事を思い出した。突然の暴力。いきなり迫った包丁の刃。自分の身代わりで犠牲になった母親――。何の意味のない暴力、そして犠牲。
のんちゃんは耐え切れず外に飛び出した。この国を捨ててしまおう。そう思って。

しかし海岸に辿り着くと、風景は一変していた。地面が強烈な力で捲れ上がり、ひびが走っている。周囲の建物が瓦礫の山と化して、電線と絡み付いていた。
異変の中央へ進むと、海岸線が深く抉られ、昨日のごろつきがボロボロになって倒れているのが見えた。不快な灰の臭いが昨日よりも

強く漂ってきた。
茫然としているそこに、ドシンと地面が揺れた。はっと振り向くと、巨大な鉄の杭が、ゆっくり移動するのが見えた。いや、それは脚だった。4本の鉄の杭のような巨大な脚を持った怪物が、町の中心地を目指して歩いていた。

低く唸る獣の声が、地面をじりじりと震わせている。脚が動くたびに、地面がズシンと振動の尾を残した。
町が怪物に襲われている。助けなきゃ。
のんちゃんは持っているスプーンを振り上げた。スプーンの先端で光が砕けた。周辺の瓦礫が衝撃に吹っ飛んだ。
のんちゃんの戦いが始まった――。
◇
『海からの使者』は作家《のすふぇらとぅ》がたった一人で6年の歳月を費やして制作された、わずか8分の個人製作アニメーションである。
作品についての解説を始める前に、まず《のすふぇらとぅ》の人となりを見ていきたいと思う。
《のすふぇらとぅ》が運営するサイト、《
活動漫画館》には次のように紹介文が掲載されている。
▽
西暦19××年とある小島に誕生。高校時代、文化祭用共同製作アニメに3年連続で参加。3作目で監督を担当(各3~5分のペーパーアニメ)。専門学校時代は広告・イラストを学び、映画研究会でちょっとだけ活動する。後に広告制作会社に就職、グラフィックデザイナーになったが、特にパッとした活躍もせぬまま、志し半ばで田舎に戻ってきてしまう。現在は小さな八百屋をやってます。
△
上に書いてある通り、《のすふぇらとぅ》はプロのアニメーション作家ではなく、アニメーション作家を志した経歴もなく、それに相当する職業経験もない。多少の絵心はあり、デザインを学び広告制作会社に就職するが、これといった実績もなく、間もなく淡路島の実家に戻ってしまっている。アニメーションを描く土台となる経験は、高校時代に描いたほんの数分のペーパーアニメが全てである。
現在はありふれた町の青果店を営んでおり、作家としてではなく、ごく普通の人として日常を過ごしている。アニメーションの制作は青果店の経営とは無関係の、息抜きか趣味のようなところから始まり、《のすふぇらとぅ》本人によれば、現在においてもそれをプロの職業にするつもりはないと明言している。
物語は作者が日常を過ごしている淡路島が舞台となっている。観覧車のプレート、巨大仏像、デパート、バスの表示、マンホールの紋様。淡路島ならではのものがたくさん登場する。コマ送りにして一つ一つをじっくり確かめたい。


アニメーションを作る切っ掛けとなったのは、《のすふぇらとぅ》が当時遊んでいたチャットの仲間たちを、軽く笑わせてやろう
(あるいは驚かせてやろう)という悪戯心のようなものであったようだ。《
活動漫画館》にはその最初期の作品が今も掲


載されている。チープだが何ともいえない味わいと面白みのある、かわいらしい作品である。GIFアニメの形式で描かれた作品で、このGIF形式は最近のハイクオリティ作品においても同様に採用されている。


初期の作品はペンタブレットではなく、マウスでふらふら形を歪ませながらどうにか作った作品であるために、落書きのような画像である。《のすふぇらとぅ》はパソコン操作を知悉していたわけではなく、そ


んな作品でも相当の時間と労力を重ねて、何とかようやく構築したようである。
それ以後も《のすふぇらとぅ》は、例えばレタススタジオのような本格的なアニメーションツールを手に入れることもなく、あくまでもGIFにこだわり続け、GIF形式のままいかに精度を高められるか、いかに迫力のあるカットを作り出せるか、その研究に一人のめりこんでいく。
その後は急速な勢いで作品のクオリティを高めていく。最初のGIFアニメを発表してからわずか10年。落書きのようだった作品は、前例のない勢いで技術を向上させ、画力を上達させ、ついには『海からの使者』という途方もない傑作を作り上げるのである。
その驚くべき画力の向上、そして作品の完成度。まさに「奇跡の作家」と呼ぶべきである。
クレータは威力の大きさを示す記号である。《のすふぇらとぅ》作品には初期から爆発オチとして登場する、おなじみのモチーフである。
アクションの最中には繰り返しサブミニナルが使われ、《のすふぇらとぅ》作品にとっておなじみのキャラクターがちらちらと登場する。DVD完成版はサブミニナルは控えめになっているが、それでもコマ送りで探す楽しみはある。

『海からの使者』は短編『雨に抱かれて』の続編に当たる作品である。
少女ルカが父親らしき男から暴力を受けている。とっさに飛び出し、助けようとするのんちゃんだったが、ルカに「お父さんを、いじめないで」と止められてしまう。激昂した男は、容赦なくのんちゃんを攻撃す

る。それでものんちゃんは、反撃しないで攻撃を受け続けた。
「どんな教育受けてんだ、まったく。親の顔が見たいぜ」
男はそんな言葉を吐き捨てて、そこから去っていく。
その事件を切っ掛けに、のんちゃんは暗澹と考え込むようになった。暴力とは何か。なぜ人は暴力を振るうのか――。脳裡に浮かび上がるのは、母親が殺されたあの事件。通り魔に突然襲われて、母親を失ったのんちゃん。あの暴力に何の意味があったのか? いや何の意味もなかった。ただ襲われて、死と悲しみが後に残っただけ。
のんちゃんは自身の秘められた能力を封印し、暴力から逃れようと考えた。
そんなとき、出会ったカメから、海の向うの暴力のない世界へ行こうと誘われる。迷うのんちゃんだったが、テレビから溢れる暴力のニュースから逃れるように、カメのもとへと走る。

だがそこにあったのは、荒々しく抉られた地面と、ボロボロになって倒れている男たちだった。それから、突然に怪物が出現し、町が蹂躙されようとしていた。
のんちゃんは襲われている町の人々の中に、あのルカの姿を見つける。のんちゃんは町を守るためために、ルカを救い出すために、封印したはずの力を解放し怪物と対峙する。
『海からの使者』には完成まで6年の歳月が費やされ、それまで何度も同じシーンに手直しが加えられた。最も変わったのはヒロインのQちゃんかもしれない。DVDには2008年版のQちゃんも収録されているので、見比べてみると面白い。この違いは、《のすふぇらとぅ》が「萌えキャラクターの書き方」という教科書を買い、練習したためと言われている。ところで、Qちゃんはいつの間に女の子になったのだろう?
すでに書いたとおり、『海からの使者』はこれまでの作品と同様に、GIFアニメの形式で描かれている。現代のディスプレイで作品を見ると、『海からの使者』の映像は鮮明とはいえず、線にドット単位のがたつきが見て取れる。冒頭のゆるやかに展開していく映像を見ると、最近の高品質の映像作品には遠く及ばないものがある。
だが、その印象も後半のアクションが始まった瞬間、一変する。躍動するキャラクター、破壊される街、次々と迫ってくる戦闘機と爆撃、容赦なく繰り出される暴力。
圧倒されるようなアクションが矢継ぎ早に展開され、荒削りに思えた映像が、野獣のような迫力を放って眼前に迫ってくる。このわずか8分のアクションのために、《のすふぇらとぅ》は6年という歳月を費やして、見事に描写してみせたのである。
『海からの使者』の小さな物語である。ドラマとしての躍動は小さく、驚くような展開もなければ言葉の一つ一つに感動的な何かが込められているわけではない。ただただ痛快にして豪快なアクションがそこにあるだけである。

《のすふぇらとぅ》はアニメーションの職業作家ではないから、カットの一つ一つの完成度が必ずしも高いというわけではない。線の精度にも限界があり、背景画を見ると大雑把に線が引かれているのがわかる
(看板文字も手書きである)。そもそも劇場やDVDでの鑑賞を前提としない、あくまでもGIFアニメであるから、画面の精度もそこまで高くはない。
しかし『海からの使者』の映像にはプリミティブな感動が込められている。物語の蓋然性や道理はさて置くとして、キャラクターが自由に重力から解放され、町の構造を叩き壊し、怪物との素手の対決を挑む。そこに何の意味があるのか、なんて問うのは野暮である。
その瞬間現れる何ともいえない心地よさと痛快さ。それから恍惚。ただただ巨大な2者が対峙し、ぶつかり合い、破壊の描写が連続するだけの映像である。だが我々は、そこに圧倒されるような剥き出しの快楽を見出すのである。初源の動画快楽に感覚が一気に引き戻され、その中に飲み込まれて恍惚が溢れ出す。そんな感動を与えてくれる秀逸な作品である。
謎のカメが怪物となり、町を破壊する物語である。カメはのんちゃんを楽園に誘おうとする。その正体は何なのか。ほんの数コマだが、甲羅にハングルが書かれているのが確認できる。これがカメと楽園の正体だ。
背景にちらちらと「9条改正反対」「のんちゃんは違憲」などの書き込みがあり、意外と今日的なテーマを取り入れているのがわかる。

ところで、プロとアマチュアの境界線はどこにあるのだろうか?
大雑把に言えば、職業として仕事を引き受け、それで生活しているのがプロである。だから、そうではないのがアマチュアだ。
しかし、世間一般ではなぜかプロの仕事がより上等で、アマチュアが下等であると見做そうとしている。プロと比較すると、アマチュアの仕

事は精度が低く、さらに公共性に欠けるものと考えられている。
「プロは特別優秀であるから、アマチュアに敗北することは決してない」
特にアニメーションという分野では、制作方法があまりにも複雑で予算規模が大きいために、プロであることの地位は絶対的に守られて

いた。アニメーションというジャンルそれ自体が、プロの絶対性を保障していたわけである。
だが、高度に発達したコンピューターの手を借りることによって、プロの絶対性は少しずつ、それでいて確実に揺らぎつつある。というか、プロであることのプライドが、そろそろ根拠のない傲慢さと見栄に変

わろうとしている。
竹熊健太郎によるドキュメンタリー『淡路島に孤高のアニメ作家を尋ねて』。冒頭3分、ドキュメンタリーの流れとはまったく無関係に淡路島観光の映像が流れる。微妙な笑いと脱力感を加える、いつもの竹熊節
である。
「素人の作品は所詮、素人に過ぎない。あれはオリジナル作品とは言わない」
プロとしてのプライドにこだわりたい人の多くは、上のように言うだろ

う。確かにその指摘は間違いではない。ニコニコ動画やユーチューブで発表されている多くの個人製作アニメーションは、キャラクターや物語展開を商業作品から引用している。代表的なものでいえば初音ミクや東方プロジェクト。『機動戦士のんちゃん』シリーズを見ると、のんちゃんと対立する敵に『機動戦士ガンダム』のシャアが堂々と登場

し、宇宙の場面には宇宙戦艦ヤマト、その乗組員にはなぜか藤子不二夫作品のパーマンたち。のんちゃんが死の淵を彷徨うシーンには、『エヴァンゲリオン』の綾波レイが登場し、シーンの印象も台詞も『エヴァンゲリオン』をそのまま引用している。
のんちゃんというキャラクターのオリジナル性は、落書きの中から偶

発的に発生したものであって、物語やドラマという見通しがあって生まれたキャラクターではない。どの個人製作アニメーションを見ても同様で、ドラマという終局面を見据えてキャラクターが創作された前例は、多分まだない。借り物のキャラクターが物語のない世界で漠然とした印象を振り撒いているだけである。それは少々動きの付いたイラ

ストレーションでしかない。
どの個人製作アニメーションも物語の展開が弱く、ドラマとしての力強さをそこに見出すことはできない。そのキャラクターと物語という繋がりから生まれる感動がない
(という以前に、そもそもキャラクターが借り物に過ぎない)。その作品だからこそ現れる、あるいはその作品

/作家でしか到達し得ない独自性というものを、個人製作アニメーションはまだ見出せないでいる。エピソードをいくつも重ねてその向うにある結末を求めていくような作品は、やはり商業的な規模を持ったシリーズ作品に限られる。
だからといって、プロが制作する商業アニメーションの地位が安泰とはまったく思わない。商業アニメは、商業アニメであるがゆえの詰まらなさを抱えている。
商業アニメもどことなく似たり寄ったりのキャラクターやストーリを作り出しているのではないだろうか。商業的であるがゆえに、むしろ作品の品質は横並びに整理され、ある程度の水準や画風などの流行から、誰もその向うに踏み出せないでいるのではないか。商業的なリサーチの末に「今の流行はこういうキャラクターとストーリーだから」と時代が持っている流れに隷属させ、作家が本来持っているエネルギーを封じてしまっているのではないだろうか。あるいは過剰に発達した公共性
(欲求ばかりが増大する消費者の傲慢さを慰めるために)が作家のパーソナリティを封じ込めてしまっているのではないか。
気付けばどの作品を見ても、いつもお目にかかるキャラクターがいたりする。動画を見ると、止めに口パクと目パチがほとんどだ。どこかぼんやりした印象で、『海からの使者』で得たような痛快さと感動を持った力強い動画には、なかなかお目にかかれない。
最近制作されたアニメーションのほとんどが12話~13話という短い期間で終わってしまい、ドラマとしての大きなダイナミズムを見出す前に終わってしまう。それに、物語の終局に対して、特に蓋然性のない放送回数を消化するだけのエピソードも多く見られる。そもそも目標地点が低く設定され、作り手による挑戦や冒険精神が感じられない。はっきり言えってしまえば、ただ仕事をしているだけだ。
果たしてそんな商業アニメが、全ての面において個人製作アニメを上回っているといえるのだろうか。今後もプロは、アマチュアよりも絶対に上である、という優位性をどこまで保っていられるだろうか。それまでの優位性を、勘違いの尊大さに発展しないことを祈るばかりである。
ホームページ『活動漫画館』にはこれまでのほとんど全ての動画作品が並んでいる。一応の長編連続ものとして『機動戦士のんちゃん』が今現在も製作中だ。物語中には『ガンダム』のシャアや宇宙戦艦ヤマトなどが登場する。作者の歩んできた足跡がよくわかる作品だ(最近のアニメ作品は全く知らないらしい)。『海からの使者』を深く理解するためには、こちらのシリーズも見ておきたい。『機動戦士のんちゃん』シリーズもいつかDVD化するのだろうか。
商業アニメと個人製作アニメの境界線は、ゆるやかに混じり合おうとしている。品質という側面でいうと、個人製作アニメは集団制作アニメに肩を並べつつある。将来的には追い抜かないとも限らない。もし宮崎駿クラスの天才が個人製作アニメの世界に現れたら、アニメに対する認識は間違いなくひっくり返ってしまうだろう
(というか、宮崎駿があと50歳若く、コンピューター操作を偏見もなく理解していれば、確実に歴史的な傑作を残しただろう)。そんな事態を直面するまで、アニメの業界は個人製作アニメの存在を韜晦し、あるいは見下し続けるのだろうか。
個人アニメの分野はまだ発展の余地を残している。集団制作アニメの弱点は、優れた個人のエネルギーが何となくチームの平均値の中に埋没してしまうことにある。しかし個人製作アニメは、天才が作れば天才的な作品ができあがる。アレクサンドル・ペドロフの『
老人と海』がその実例だ。
もしも商業アニメの退屈さが素人作品の品質を下回った時、そしてアニメユーザーの目線が商業アニメから個人製作アニメに移った時、業界は大きなパラダイムシフトの直面し、自身の創作について改めて見直す切っ掛けを作るだろう。
その時に、安直に「売れるから」という理由だけで、集団制作アニメの体勢を放棄してしまわないように、と未来のアニメ会社の経営者たちに念を送るばかりである。日本のアニメーションの実体は、あの集団制作のシステム構築にこそあるのだ、ということを忘れてはならない。
何にしても、我々はもしかしすると大きな変化を前にしているのかもしれない。『海からの使者』はそんな予感を与えてくれる作品であった。
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作品データ
監督・脚本・演出・作画・編集:のすふぇらとぅ
音楽:佐藤綾子 SE:細江慎治 編集協力:うもとゆーじ
プロデュース・販売:竹熊健太郎(たけくま事務所)
制作:活動漫画館
[2回]