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■2009/10/05 (Mon)
映画:外国映画■
「……人は生きていると、いろいろな罠に転がり落ちて苦しむ。“書くこと”も罠だ。
読者に受けた旧作を焼きなおす作家達は、賞賛が忘れられない。だが、作品の価値を最後に決めるのは、作家自身だ。
批評家や編集者や出版社や読者に左右されたら、終わりだ。金と名声に捉われた作家どもは、クソと一緒に川に流しちまえ」
ヘンリー・チナスキーが唯一、自立的に活動している小説。だが執筆活動もヘンリー・チナスキーにしてみれば堕落の一つである。この映画に共感できる人は少ないと思う。美しい画面はないし、ロマンチックな場面もない。ただどこまでも影の深い陰鬱さが延々と続く。しかも主人公は救いようのない自堕落な男で、その男の生活に2時間付き合わされる感じだ。
ヘンリー・チナスキーは、自称作家だ。実際に執筆活動らしきこともしている。だが、実際に本を出版しているわけではない。ヘンリー・チナスキーは職業作家ではない。
生活の中心は執筆活動より、ほとんと酒とセックスとギャンブルに振り回される。
ヘンリー・チナスキーは完全に執筆活動を忘れて、ギャンブルにのめりこみ、ギャンブルで生活しようとしてしまう。
ヘンリー・チナスキーはただ溺れて、流されるだけの男だ。自身の生活をどうにか律して、一つの活動に専念しようとはしない。
どこまでも沈み、どこまでも堕ちていく男。
堕ちていくから、ヘンリー・チナスキーは執筆活動にも手を出してしまう。
どんな仕事も続かないチナスキー。ギャンブルにのめりこみ、ギャンブルで生活をしようとすることも。「金と名声に捉われたクソどもは…」とかっこつけるが、金が絡むと簡単に自己矛盾に陥る。堕落云々は自己弁護に過ぎない。
ヘンリー・チナスキーの生活は、まさにどん底だ。
作家としてのプライドを強く持とうとするが、すぐに消費に振り回されてしまう。ギャンブルにのめりこみ、セックスに耽溺し、生産性のない快楽に飲み込まれていく。
だが、ヘンリー・チナスキーの精神は、神の近い場所にいる。チナスキー本人は、そういう心構えでいる。
自身より上の者はいない。天上にいるのは、ただ一人だけで、たった一人でその道を歩んでいる。
それが、時になんらかの形を持つかもしれない。
女の部屋に転がり込むが、なんとなくそこを離れてしまう。「ここは俺の居場所ではない」作家は生来的に孤独なものだ。一つの場所に止まると、むしろ孤独を感じてしまう。
作家とは、放浪するものだ。
一つの場所や、一人の女に留まらないものだ。
どこまでも歩んでいき、どこまでも堕ちていき、その向うにきらめく“何か”をすくいあげる。
世界や社会は、詩人が描いたモデルケースでしかない。世界や社会は、集団が共有する願望でしかなく、実体としての形は世界や社会を指し示していない。
詩人は、たった一人で最も暗い闇の中を歩いて進み、その向うに見えた(感じた)世界を目撃し、それを形にして残す者だ。
ひたすら軸がぶれ、自己矛盾を続けるチナスキー。だが自分の描こうとしているものだけは自分で理解している。共感を求めない映画だ。どこまでもよそよそしく、一人で歩く孤独な映画。その先にあるのは、地獄か成功か。
「世界は詩だ。詩は世界だ」
堕ちていく者だけが、世界という表層の向こう側を覗き込む。
ヘンリー・チナスキーは自らの生活を捨てて、女を捨て、流動的な生き方を望む。
身体も精神も自由に解き放ち、放浪し、橋の下で眠る者。
『酔いどれ天使になるまえに』には、通俗映画が描きそうな、“放浪者の自由さや豊かさ”など描かれない。
映像に漂うのは、匂ってきそうな腐敗の生活と、救いようのない貧困。それからヘンリー・チナスキー自身の自堕落だ。
ヘンリー・チナスキーは作家であるために、本能で漂流をし続ける。
映画記事一覧
作品データ
監督・脚本:ベント・ハーメル
音楽:クリスティン・アスビョルンセン トルド・グスタフセン
脚本:ジム・スターク 原作:チャールズ・ブコウスキー
出演:マット・ディロン リリ・テイラー
〇〇〇マリサ・トメイ フィッシャー・スティーヴンス
〇〇〇ディディエ・フラマン エイドリアン・シェリー
読者に受けた旧作を焼きなおす作家達は、賞賛が忘れられない。だが、作品の価値を最後に決めるのは、作家自身だ。
批評家や編集者や出版社や読者に左右されたら、終わりだ。金と名声に捉われた作家どもは、クソと一緒に川に流しちまえ」
ヘンリー・チナスキーが唯一、自立的に活動している小説。だが執筆活動もヘンリー・チナスキーにしてみれば堕落の一つである。この映画に共感できる人は少ないと思う。美しい画面はないし、ロマンチックな場面もない。ただどこまでも影の深い陰鬱さが延々と続く。しかも主人公は救いようのない自堕落な男で、その男の生活に2時間付き合わされる感じだ。
ヘンリー・チナスキーは、自称作家だ。実際に執筆活動らしきこともしている。だが、実際に本を出版しているわけではない。ヘンリー・チナスキーは職業作家ではない。
生活の中心は執筆活動より、ほとんと酒とセックスとギャンブルに振り回される。
ヘンリー・チナスキーは完全に執筆活動を忘れて、ギャンブルにのめりこみ、ギャンブルで生活しようとしてしまう。
ヘンリー・チナスキーはただ溺れて、流されるだけの男だ。自身の生活をどうにか律して、一つの活動に専念しようとはしない。
どこまでも沈み、どこまでも堕ちていく男。
堕ちていくから、ヘンリー・チナスキーは執筆活動にも手を出してしまう。
どんな仕事も続かないチナスキー。ギャンブルにのめりこみ、ギャンブルで生活をしようとすることも。「金と名声に捉われたクソどもは…」とかっこつけるが、金が絡むと簡単に自己矛盾に陥る。堕落云々は自己弁護に過ぎない。
ヘンリー・チナスキーの生活は、まさにどん底だ。
作家としてのプライドを強く持とうとするが、すぐに消費に振り回されてしまう。ギャンブルにのめりこみ、セックスに耽溺し、生産性のない快楽に飲み込まれていく。
だが、ヘンリー・チナスキーの精神は、神の近い場所にいる。チナスキー本人は、そういう心構えでいる。
自身より上の者はいない。天上にいるのは、ただ一人だけで、たった一人でその道を歩んでいる。
それが、時になんらかの形を持つかもしれない。
女の部屋に転がり込むが、なんとなくそこを離れてしまう。「ここは俺の居場所ではない」作家は生来的に孤独なものだ。一つの場所に止まると、むしろ孤独を感じてしまう。
作家とは、放浪するものだ。
一つの場所や、一人の女に留まらないものだ。
どこまでも歩んでいき、どこまでも堕ちていき、その向うにきらめく“何か”をすくいあげる。
世界や社会は、詩人が描いたモデルケースでしかない。世界や社会は、集団が共有する願望でしかなく、実体としての形は世界や社会を指し示していない。
詩人は、たった一人で最も暗い闇の中を歩いて進み、その向うに見えた(感じた)世界を目撃し、それを形にして残す者だ。
ひたすら軸がぶれ、自己矛盾を続けるチナスキー。だが自分の描こうとしているものだけは自分で理解している。共感を求めない映画だ。どこまでもよそよそしく、一人で歩く孤独な映画。その先にあるのは、地獄か成功か。
「世界は詩だ。詩は世界だ」
堕ちていく者だけが、世界という表層の向こう側を覗き込む。
ヘンリー・チナスキーは自らの生活を捨てて、女を捨て、流動的な生き方を望む。
身体も精神も自由に解き放ち、放浪し、橋の下で眠る者。
『酔いどれ天使になるまえに』には、通俗映画が描きそうな、“放浪者の自由さや豊かさ”など描かれない。
映像に漂うのは、匂ってきそうな腐敗の生活と、救いようのない貧困。それからヘンリー・チナスキー自身の自堕落だ。
ヘンリー・チナスキーは作家であるために、本能で漂流をし続ける。
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作品データ
監督・脚本:ベント・ハーメル
音楽:クリスティン・アスビョルンセン トルド・グスタフセン
脚本:ジム・スターク 原作:チャールズ・ブコウスキー
出演:マット・ディロン リリ・テイラー
〇〇〇マリサ・トメイ フィッシャー・スティーヴンス
〇〇〇ディディエ・フラマン エイドリアン・シェリー
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