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■2010/01/04 (Mon)
レクターが姿を消して十年が過ぎた。
レクターは今どこにいるのか――死んでいるのか生きているのか、誰も知らない。
あれから十年。
その間、誰も悲鳴を上げず、悪夢を見ることもなかった。
静かに平和な時が過ぎ――しかしどこかに悪魔が眠っている気配を感じていた。

293b2688.jpg映画は静かなメロディと共に始まる。場所はどこかの屋敷のようだ。バーニーが招待を受け、醜い顔をした男と対談している。
醜い顔の男はメイスンだ。かつてレクター博士に手ひどい仕打ちを受け、復讐のためにその消息を追っている。
バーニーが招かれたのは、レクター博士の情97fcde4f.jpg報を売るためだった。レクター関連の遺物は、その筋のマニアに高く売れるのだ。バーニーはあの隔離病棟を去る時に、多くのハンにバル関連の品々を持ち出していた。バーニーはそれらを売って、日々の糧にしていた。
去り際にバーニーは、レクターがかつてつけていた仮面を差し出す。その仮面を前にして、メイスンは興奮して息を喘がせた。――まるで性的興奮を覚えたように。
d2dce035.jpg68cae1f5.jpgメイスンはレクターの手に掛かり、顔面を失い、全身麻痺という障害を負った。しかしメイスンはレクターに感謝している。狂うくらい憎めるものを与えてくれたのだから。
67d14271.jpg
メイスンはレクターを憎んでいる。レクターに顔面の顔を剥がされ、再生不能になっただけでなく、半身不随を負ってしまった。
だが同じくらいに、メイスンはレクターを欲求していた。
3494255c.jpgレクターと興じた、あの短い一時が忘れられない。自ら顔の肉を引き裂き、血を噴出し、微笑みあうと共に絶頂を達していた。あの時の興奮が忘れられない。
メイスンの愛は深く、憎しみも同時に強い。
50a32308.jpg極めて屈折した感情だが、相反する感情はメイスン自身を引き裂かず、不純に交じり合っている。
きっとメイスンは、夢の中でレクターを引き裂き、その妄想で何度も勃起したはずだ。まだ不能になっていなければ、だが。
90431164.jpgフィレンツェの宮殿でロケーションが行われた。レクター博士はフェルとして司書の仕事に雇われるところだった。パッツィ刑事は、行方不明になっているフェルの前任者を探して面会を求める。


98c1a8b2.jpgレクターはフィレンツェに潜伏している。レクターが過ごす場所としては相応しいだろう。レクターの美意識に応え、どこまでも磨いてくれる場所だ。
フィレンツェでは殺人鬼すら、優れた美意識を持つようだ。
dab7b5ba.jpgレクターは品性のない人間を嫌う。礼儀のない人間も。
だからクラリスは相応しい。クラリスは決して汚れない。その肉体も、汚職まみれの組織を身を投じながら、高潔な意思を失わない。
精神の純潔と魂の純潔。クラリスはその両方を持つ、d5b60eab.jpg稀な女だ。
だからあの女がいい。
生涯の伴侶とし、永遠の忠誠を誓わせ、快楽を無限に引き出すために。
8bf1b695.jpgクラリスは純潔の象徴だ。レクターとメイスンはクラリスを中心において対立する。2人は、いずれもクラリスを自分の下へ引き寄せ、クラリスの純潔を汚そうとする。だがクラリスは、最後まで自身の純潔を失わなかった。

5d6bf6a2.jpg我々の誰もが、時に抑えられない欲求を身の内に感じ、悶える瞬間がある。
愛するものを陵辱し、殺す欲求だ。
愛するものが憎しみに顔を歪め、悲鳴を上げて、血にまみれ376dbc8d.jpgて、その肉をソテーにして夕食をいただく。
彼女の顔は裏切られたショックのままで硬直しているだろう。いや、あなたを憎しみで睨みつけた姿のまま、果てたかもしれない。どちらにしても、興味をそそられるシチュエーションだ。
11c25056.jpgだが現実的には法という障害に阻まれ、なかなか実行できる者は少ない。度胸のない我々の多くは、夢想の中で何度もその瞬間を思い巡らし、シーツを汚すだけだ。
我々の多くは、そういった行為が社会規範に反すると刷り込まc254b78a.jpgれ、夢想に留めようとする。両親は我々に、罪や後ろめたさなどという規範を刷り込ませ、快楽を得るのを遠ざけようとする。
凡庸な親が子が芸術の道に進むのを拒むのは、恐怖心からだ。芸術はタブーに挑み、規範の脆さを揺さぶる活動からだ。
aafb3b48.jpgレクターは我々の憧れを、何の躊躇いもなく実行する。
レクターは快楽に正直に生き、自らの感性をどこまでも極めようとする。時にその楽しみを他人に分け与えつつ、行為を完成させようとする。
59a51330.jpgまさに我々が思い描くヒーローそのものである。
f9ed5fc5.jpg美しきものは、陶酔と同時に堕落をもたらす。美しき使者は暗黒世界からの使者である。美しき妻は美しいもd7ddac3a.jpgのを貪欲に求めるし、レクターの美意識とも通じ合える。

芸術は一種の倒錯行為だ。
abfa225f.jpg芸術家は、美しい対象、美しい瞬間を永遠にするために石膏の中に封じ込めようとする。そうして、その瞬間がもたらす陶酔を、無限の中に留めようとする。あの言葉にならない、心が充足に満たされ、世界のすべてと混じり合う尊き瞬間を。
8a3189c1.jpgの一瞬を切り取ろうと、芸術家はどこまでも対象を見詰め、時に実体をメスで切り取りコラージュする。ぎりぎりまで引き絞られた緊張の瞬間を。最高のポジションを見つけ出すために、すべてを投げ打つ。
2abbc5ce.jpg芸術家は陶酔を意識的に操作し、他人に提供する職業だ。
9895aac1.jpgクラリスはレクターに父親のようなものを感じている。レクターは事実、クラリスの父となって手紙で親身に慰め、自身の存在をちらつかせてクラリスに手柄を与えようとする。


『ハンニバル』はリドリー・スコット作品の中でも最も幻想的な空気を持つ。
映画が描く光景は美しく、幻想的で心が奪われる。
恐怖映画ではなく、官能映画だ。
その他のハンニバル・レクターの映画は、作り手の才能が凡庸だったのか頭が悪かったのか、原作の官能的な部分は見逃してきた。
リドリースコットだからこそ、『ハンニバル』を官能映画として描けたのだ。
e33bbee2.jpgもしもその存在に気付いても目を向けてはならないし、近付いてもならない。
ただし、覚悟があるなら止めはしない。



人はどこまでも堕ちて行く。
だがレクターは一番深い闇の奥で微笑んでいる。
さあおいで。
怖くないよ、と。
暗い影にこそ、最も美しい光が射し込んでくる。
本当に美しく、気高い魂を得たいのなら、さあ、ここだ。
もっと側に――。

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作品データ
監督:リドリー・スコット
原作:トマス・ハリス 音楽:ハンス・ジマー
脚本:デヴィッド・マメット スティーヴン・ザイリアン
出演:アンソニー・ホプキンス ジュリアン・ムーア
  ゲイリー・オールドマン ジャンカルロ・ジャンニーニ
  フランチェスカ・ネリ フランキー・フェイソン
  レイ・リオッタ イヴァノ・マレスコッティ



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この映画には、オサマ・ビン・ラディンがちらと登場する。『ハンニバル』の公開は同時多発テロの直前だった。
同時多発テロは、リドリー・スコットの次回作品である『ブラックホークダウン』の撮影中の事件だった。
オサマ・ビン・ラディンが登場するのは偶然に過ぎないが、運命的なものを想像してしまう。


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