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■2010/06/21 (Mon)
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6月16日。東京都の都議会定例会(一般会計補正予算案などを審議する会議)において、『非実在青少年規制』が否決となりました。否決となりましたが、石原慎太郎都知事は規制強化の意欲を失っておらず、9月あるいは12月の議会で再提出する考えを明らかにしています。否決になりましたが暫定的なものと考えるべきであって、油断ならない状況がまだまだ続くようです。
3月に非実在青少年規制が提示されてからおよそ3ヶ月。いつもありがちなヒステリックな批判や弾圧はなかったものの、新聞テレビを始めとする大手メディアによる宣伝戦略で一般大衆の意識にじわりじわりと刷り込んでいったように思えます。
私が購読してる読売新聞では――漫画やアニメの世界で信じられないような性暴力が頻繁に描かれている――それが原因となる犯罪が毎年増加傾向にある――などといった記事がしばしば掲載されるようになりました。もちろん、具体的な犯罪例は一件もありません。新聞屋ならいくらでも実例を挙げられそうな気がしますが、それがまったくなく、ただ危険性だけが煽り立てるようにクローズアップされていました(増加傾向にある、という具体的なデータもなく、犯罪が漫画やアニメが原因という根拠も示されません)。非実在青少年規制に反対する著作権団体についてちらと書かれていましたが、その描写はあたかも「良案に反対する怪しげな団体」風の描かれ方でした。あまり詳しくない人が読めば、規制賛成派の意見に賛成してしまうでしょう。
前回記事(→『非実在青少年規制』先送りについて)でも描きましたが、非実在青少年規制の根源的なものは“狂信と妄執”に過ぎません。私のこの意見は今でも変わっていません。規制賛成派の意見の全ては論理的なものではなく、感情的な嫌悪と不安に塗り固められたものです。単に目障りだからこの世界から削除するという、利己的な願望を基づくものです。
歴史的に見て、サブカルチャー批判は数年おきに繰り返してきましたが、今回の事件は過去の事例と様相が違います。東京都知事や警察なども加わり、権力を背景に直裁的な法改正を進めようとしました。ただ民間の団体が周期ごとに大騒ぎするお祭りとは性質が違います。これまでのヒステリックな批判は我慢さえしていればそのうち通り過ぎてしまいましたが、今回は作家が政治の舞台に立ち、反論しなければならないような事態でした。
単純な感情とは論理的な思考よりはるかに強い伝達力を持っています。強い感情にある程度の理屈、あるいは権威が加わればそれは強力な武器となって一般大衆を動かす力となります。その対象にどんな倫理的感情を抱くべきか……これは多くの人が思っている以上に簡単に操作できます。そして新聞やテレビといった大メディアは、いつも情報を大袈裟に煽り立てて、見る側の冷静な理解力を狂わせ、自分たちが意図した感情を広めようとします。
あちこちでかびますしい批判の嵐が吹き荒れると、作家側も何かしらの意思を社会に示すべきであるように思ってしまいます。それが社会人としての立場であるように錯覚しますし、厳しい批判そのものに理解を示し譲歩すべきと思う瞬間もあります。
しかし望まぬ相手への和解は必要ありません。むしろそういうときこそ大地にしっかり両足を着けて立ち、向ってくる荒波に耐える力が必要なのです。相手が戦っているのは妄想であり、妄想の実体は外部世界ではなく心の内です。批評家はカウンセラー代わりに作家とその作品を攻撃しているのです。だからただ意思を強く、あるいは辛抱強く無知と傲慢の嵐を退け、忍耐強く説明して誤解と疑念を解く必要があるのです。
日本のアニメはその黎明期から――手塚治虫が『鉄腕アトム』を制作した頃から商業的な欠陥を抱えていました。手塚治虫はアニメをあくまでも趣味的なものと捉え、商業的な意識を持ちませんでした。だからこそアニメは多様な表現方法を身に付け、発展していきましたが、その一方で商業的な欠陥はその当時から引き継いでしまいました。今でもアニメ会社に稼ぐという意識は弱く、アニメーターやアニメユーザーに商業的なものを嫌う傾向があります(CD1枚出しただけで「儲け主義だ!」と騒ぐ人が多いこと。業界がどんな状況か知っているのか?)。
日本のアニメは確かに技術的側面は飛躍的に進歩し、世界でも類を見ない至上の文化と賞賛されるほどになりました。しかし、商業的な側面は衰退しつづけたといっていいでしょう。たまたま宮崎駿のような技術的にも体力的にも常人を遥かに超えた天才がいたから何とか保っていられたようなものです。あるいは趣味的な社長さんが次から次へと現れ、制作費を出してくれたから際どく維持できていたのです(大抵の社長さんはあまりにも割に合わないので一度の出資で手を引いちゃうんだが)。
アニメはむしろ保護や援助が必要な時期に来ているのです。しかし東京都が選択したのは表現の規制でした。表現に制限を加え、日本のアニメから力と精神を奪い去ろうとしたのです。規制賛成派は、感性の部分でアニメを殺そうとしたというわけです。
最近では中国や韓国といった国がアニメや漫画に力を入れています。それまで推進してきた表現規制を改め、国が積極的な資金援助をしています。
中国や韓国のアニメが日本に敵うはずがない――そう言う人は非常に多いですが、それは『ウサギとカメ』の態度でしょう。「どうせ追い抜かれることはないさ」。そんな傲慢な態度でふんぞり返っていると、遠からず追い抜かれるでしょう。技術や表現、それから国際的な立場においても。「別に日本が世界で1番である必要はない」と考える人間が政治のトップに就いている、ということも忘れてはいけません(しかも支持されている)。それに、日本国内でも「日本のアニメはどれも一緒だ。中国や韓国産のアニメのほうが新鮮味がある」と考える人も出てきています(多数派の意見とは思いませんが)。
中国や韓国だけではなく、アメリカやフランスといった国も日本の影響を受け、日本の作品を手本に新しい作品を作ろうという模索が始まっています。そんな最中、日本は規制を強化しようというのです。勘違いしている人がいますが、この規制は一部の成人向け作品だけが対象になるわけではありません。すべての作品が対象になります。しかも規定は曖昧で、担当した検閲官一人の考えに全てが委ねられる法律です(場合によっては「袖の下」が表現の限界を決める指標となるかもしれません)。作家はどこが法律のライン引きかわからない規制の前に困惑し、キャラクター作りの段階から萎縮してしまうような状況になります。
これはもはや、日本以外の国に「どうぞ、どうぞ」と席を譲るようなものです。石原慎太郎はもともとは小説家であり、表現者であったはずですから、このような規制が文化面にどんな影響を与えるかよく知っているはずです。その上でこのような法案に執着するのですから、いっそ文化的売国奴と呼んでもいいかもしれません。
批評家たちがよく使う常套句があります。
「日本は“諸外国”と比べて遅れている」
あるいは、
「“欧米”ではこのように……」
その帰結として、
「だから“国際的な恥”である」
と。
この“諸外国”あるいは“欧米”という言葉は曲者です。具体的にどの国を示しているのか曖昧にしますし、日本人の西洋コンプレクスを見事なくらい克明に現します。
しかし、はっきり言えば“諸外国”も“欧米”もどうてもいい基準でしょう。何でもかんでもあちらの基準に合わせる必要はありません。そもそも背負ってきた歴史も文化も違う国なのですから、違って当然です。(特に良案というのでもないのに)あちらがああなっているから、という理由で無理に合わせる必要はありません。
それに、ヨーロッパの知的階層には普遍的に皮肉屋が非常に多いものなのです。彼らは挨拶代わりに相手の欠点や弱点や相違点を見出し、素晴らしいとしかいいようのない言い回しで罵倒するのです。皮肉を言うのが礼儀とすら考える文化があるのです。日本のように行儀のいい好人物はヨーロッパの知的階層にはいないと思ったほうがいいでしょう。
批評家は外国から皮肉を言われるのが嫌で、彼らと同じにしたいと言っているのでしょう。しかしもし白人国家と法律を同様にしたところで、彼らの皮肉の応酬がぴたりと止むはずがありません。また別の弱点や欠点を掘り返され罵倒されるだけです。
もし皮肉や揚げ足取りを真に受けて法律を変えても、「本当にやったのかよ」と呆れられるだけです。西洋人と同じ法律に変えれば尊敬が得られるという考え(あるいは同等と見做されるようになるという期待)は根本的に間違っているでしょう。
だから、彼らヨーロッパの人間に法整備の件について皮肉られたら、堂々とこう言って返せばいいのです。
「はい。あなた方より平和な国からやってきました。ただ、最近はあなた方の国の人がやってきて、犯罪を起こすので治安が悪くなりましたけどね」
白人からしてみれば、アジアの国など搾取する対象くらいしか価値はありません。どんなに白人文化を装って、彼らと同じように振る舞っても、民族的に継承した人種に対する差別意識は決してなくなりません。白人はその他の全ての文化を異端と捉え、自分たちと同様にすることを“近代化”と考えています。自分たちと同じ習慣、意識、宗教を獲得すれば文明的になる。特に宗教観は重要視され、自分たちと同じ神を信仰しない国の人間は野蛮とすら考えています。
しかしどんなに白人と同じ習慣や意識を獲得したところで、白人による有色人種への差別、あるいは優越感は決してなくならいでしょう。彼らは外国を、バカンスで自分たちが行きやすい場所にしたいだけです。
そんな皮肉屋の白人たちを黙らせるには、地位ではなく尊敬が必要なのです。日本では“肩書き”さえあれば中身からっぽでもみんな尊敬してくれます。でもヨーロッパでは肩書きでは誰もチヤホヤしてくれません。彼らから無条件の尊敬が欲しいのであれば、まず誰にでも明らかな功績を持ってから行くべきでしょう。
また今回のような問題が取り上げられた背景には、ある社会意識が関連していると考えるべきでしょう。「宮崎勤」というイメージです。
漫画規制、悪書撤廃運動といったムーブメントは、もはや一つの戦後史というべきものでありますが、サブカルチャー、いえ「オタク文化」がここまで反社会的なイメージをもたれるようになった切っ掛けは、間違いなく宮崎勤のイメージが根底にあると考えられます。
オタクは無条件で危険な人物である。根が暗く陰湿で、反社会的な傾向を持ちがちだ。あるいは、そのオタクが接している文化は、間違いなく犯罪に係わり、犯罪を助長する恐れがある。テレビドラマでは暗い部屋でパソコンをいじり、犯罪の計画を立てているオタクの姿はもはや定番です。一般人は直裁的に「オタク=きもい」と思考回路を結び付けています。
それは何故なのか。理由を探ると宮崎勤の事件が根底に現れてきます。今の社会は宮崎勤以後の社会であり、いまだあの事件のイメージを延長し続けているのです。つまり、オタクのイメージとは「オタク=宮崎勤=犯罪者」と繋がるわけです。そのイメージを前提において、オタク文化があるから子供に関わる犯罪がなくならないというわけです。個人的な話ですが、私は宮崎勤直撃世代なので、宮崎勤事件以前、以後で周囲の友人たちの対応があからさまに変わる瞬間を体験しました。宮崎勤事件が日本の社会、文化、意識において大きなターニングポイントであったのは間違いありません。
「宮崎勤=オタク」というイメージそのものが当時のマスコミの捏造だった、という話は重要ですが本題ではないので横に置いておきます。2ちゃんねるをやっている人はよくマスコミの偏向について非難するのに、オタクのイメージだけはマスコミのイメージを素直に受け入れてしまっている、ということに疑問を感じますが。
だから非実在青少年規制に関するこの一件も、問題としてもっとも強く指摘するべきは、宮崎勤というイメージについてでしょう。あるいは、一般の人が無条件に受け入れ、疑う機会すらない社会的刷り込みについてです。受動的な通念だけを抱えて、独力の思考力がないというべきでしょうか。大場ナナコは「オタクは認知障害であるという考えを普遍的に広めるべきだ」と断言しました。この発言の根底にあるものも宮崎勤のイメージでしょう。宮崎勤というイメージを前提において、「認知障害者」であると語ったのです。もしイメージではなく実体、あるいは現実を確かめるだけの(少々の)知性が大場ナナコに備わっていたら、こんな発言や発想はどう頑張っても出てこないでしょう。
宮崎勤事件以後、日本人は文化に対する考え方を決定的に変化させてしまいました。文化に対する意識は確実に後退し、最新の文化を生活の一部として嗜む好事家といった人種を絶滅させました。一般社会のコミュニティから文化的な意識が切り離され、ちょっとした趣向すら病的なものとして「隠すべき」という考えが定着されました。「文系」という言葉が死語になり、残ったのは軽薄短小と呼ばれるただの消費者だけです(メディアは軽薄短小を甘やかしすぎたのではないでしょうか。軽い恋愛、軽い音楽、軽い映画、軽いアニメ、軽いゲーム……娯楽は楽しむためのものですが、時に相手を挑発し動揺させる力も必要です)。
私達は当然のように受け入れている社会的な刷り込みに対して、再点検するべきかもしれません。刷り込みに妥協し、思考停止状態に陥ると文化も簡単に切り捨てられるものと考えるようになり、感情的なやり方でしか接することができなくなります。もう少し冷静に物事を見て考える力が必要でしょう。社会が漠然と醸成した感情や気分だけで、貴重な文化を破壊させてしまう前に。
今回の『非実在青少年規制』の背景には、不穏に囁かれる噂があります。なぜ都知事や警察までも熱心に法改正に絡んでくるのか。実は『非実在青少年規制』という法律そのものを隠れ蓑に、新しい利権団体を作ろうというのが本旨というのです。
それは状況証拠と推測に過ぎない――とはいえ、背景に絡んでくる組織や団体などを俯瞰して見ると、「ひょっとして」という思いもしてきます。私にはそこまでの情報分析能力はないので、この件に関してはもっと詳しい人の調査、解説に委ねるべきでしょう。もし疑いようのない証拠が出てきたら、徹底的に糾弾されるべきことですが。
なんにしても東京という場所は騒がしすぎるという気もします。前回記事にも少し書きましたが、外野が騒がしくて創作に集中できなくなったら、思い切って業界ごと移転するべきでしょう。移転先は岡山がお勧めです。
その理由として、まず岡山は物静かな県民性として知られています。犯罪発生率は非常に低く、県別ランキングで下から3位くらいです。東京のような常にどこかで犯罪、という場所と較べると、非常に平和的な土地です。交通の便は悪くなく、大阪、京都のアニメスタジオと連携が取れます。これまでは東京にいる人たちを集めて企業を作っていましたが、岡山が拠点になると西日本を中心にした人材集めが可能になります。土地代が安く、東京の10分の1、20分の1くらいは当り前です。東京では無理だった「土地を買っての会社建設」も岡山なら実現の可能性があります。住宅事情もかなり落ち着いているので、駆け出しのアニメーターが住いに困る心配は多少減ります(瀬戸大橋を越えて香川県とか行くと、月一万の借家があったります)。一年を通しての日照時間、晴れ日が日本で最も長く、ソーラーパネルなどを使用するとある程度の電力が節約できます(いまだ太陽電池の性能がイマイチなので、「ある程度」とします。最近のアニメはデジタル制作の機会が増えているので太陽電池は活用できると思います。「落雷」が少ないのもポイントです。ゲーム会社ならかなりの恩恵を得られるかもしれません)。カルト宗教とヤクザの数も非常に少ないです(ついてきちゃう可能性もありますが)。
東京で余計にまとわりついてくる色んなものを振り落とし、地方に出ましょう。東京のような汚い、人間だらけで窮屈なゴミ箱都市は住むべき場所でも仕事するべき場所でもありません。通信技術が発達しているので、東京を仕事場所にする意味ももうありません。じっくり創作に没頭したいなら、静かな土地に移るのが最良の選択です。
関連情報リンク…詳しい情報が得られるように、たくさん用意しました。
一般資料
東京都青少年健全育成条例改正問題のまとめサイト
「反オタク国会議員リスト」メモ
ニコニコ大百科 非実在青少年規制とは
Wikipedia 東京都青少年の健全な育成に関する条例
日本でのマンガ表現規制略史
京都での規制事例 山田啓二によるマニフェスト(PDF)
「第3次男女共同参画基本計画策定に向けて(中間整理)」について
第12分野「メディアにおける男女共同参画の推進」(PDF)
無名-知財政策ウォッチャーの独言→東京都青少年保護条例改正案全文の転載
「青少年の健全な育成に関する条例改正案 質問回答集」の作成について
東京都青少年の健全な育成に関する条例改正案 質問回答集(PDF)
規制推進派
新谷珠恵 マネジメントグループの紹介
大場ナナコのブログ:バースコーディネーター日記
第28期東京都青少年問題協議会委員名簿(PDF)
社団法人 東京都小学校PTA協議会 青少年健全育成条例改正案に関する緊急要望書を提出
規制反対派
たけくまメモ
→都条例「非実在青少年」規制問題について
→精華大学による「東京都青少年健全育成条例改正案」に対する意見書
→まんが・条例ができるまで(1992年作品)
→“馬のクソ’でも表現(1)
空気を読まない中杜カズサ
→東京都青少年育成条例改正案における表現規制の危険性について語る
難民チャンプ
→「非実在青少年」規制について
Timesteps
→1990年代の有害コミック運動はそれからどうなったのか
コデラノブログ4
→非実在青少年規制反対集会速報
→「非実在青少年」だけではない、東京都青少年健全育成条例改正の問題
アルファモザイク→東京都「児ポの基準を発表するわ」 「しずかちゃんの入浴」「ワカメちゃんのパンチラ」はおk
京都精華大学→東京都青少年健全育成条例改正案に関する意見書
ニュースサイト
「非実在青少年」問題とは何なのか、そしてどこがどのように問題なのか?まとめ
都・マンガ規制の問題点を読売新聞が身を呈して実証
“非実在青少年”規制条例、「知っている」層の8割が反対~ニコ動調査
「非実在青少年」問題――ネットで広まる“反対”と“賛成”の意見
漫画性表現規制「議論慎重に」 精華大学部長ら 都の民主会派に意見書
「非実在青少年」規制、橋下知事「大阪府も検討」
「しずかちゃんの入浴」「ワカメちゃんパンチラ」はOK 2次元児童ポルノ規制条例で東京都
「暴力的ビデオゲームはほとんどの子供には無害」と研究者
3月に非実在青少年規制が提示されてからおよそ3ヶ月。いつもありがちなヒステリックな批判や弾圧はなかったものの、新聞テレビを始めとする大手メディアによる宣伝戦略で一般大衆の意識にじわりじわりと刷り込んでいったように思えます。
私が購読してる読売新聞では――漫画やアニメの世界で信じられないような性暴力が頻繁に描かれている――それが原因となる犯罪が毎年増加傾向にある――などといった記事がしばしば掲載されるようになりました。もちろん、具体的な犯罪例は一件もありません。新聞屋ならいくらでも実例を挙げられそうな気がしますが、それがまったくなく、ただ危険性だけが煽り立てるようにクローズアップされていました(増加傾向にある、という具体的なデータもなく、犯罪が漫画やアニメが原因という根拠も示されません)。非実在青少年規制に反対する著作権団体についてちらと書かれていましたが、その描写はあたかも「良案に反対する怪しげな団体」風の描かれ方でした。あまり詳しくない人が読めば、規制賛成派の意見に賛成してしまうでしょう。
前回記事(→『非実在青少年規制』先送りについて)でも描きましたが、非実在青少年規制の根源的なものは“狂信と妄執”に過ぎません。私のこの意見は今でも変わっていません。規制賛成派の意見の全ては論理的なものではなく、感情的な嫌悪と不安に塗り固められたものです。単に目障りだからこの世界から削除するという、利己的な願望を基づくものです。
歴史的に見て、サブカルチャー批判は数年おきに繰り返してきましたが、今回の事件は過去の事例と様相が違います。東京都知事や警察なども加わり、権力を背景に直裁的な法改正を進めようとしました。ただ民間の団体が周期ごとに大騒ぎするお祭りとは性質が違います。これまでのヒステリックな批判は我慢さえしていればそのうち通り過ぎてしまいましたが、今回は作家が政治の舞台に立ち、反論しなければならないような事態でした。
単純な感情とは論理的な思考よりはるかに強い伝達力を持っています。強い感情にある程度の理屈、あるいは権威が加わればそれは強力な武器となって一般大衆を動かす力となります。その対象にどんな倫理的感情を抱くべきか……これは多くの人が思っている以上に簡単に操作できます。そして新聞やテレビといった大メディアは、いつも情報を大袈裟に煽り立てて、見る側の冷静な理解力を狂わせ、自分たちが意図した感情を広めようとします。
あちこちでかびますしい批判の嵐が吹き荒れると、作家側も何かしらの意思を社会に示すべきであるように思ってしまいます。それが社会人としての立場であるように錯覚しますし、厳しい批判そのものに理解を示し譲歩すべきと思う瞬間もあります。
しかし望まぬ相手への和解は必要ありません。むしろそういうときこそ大地にしっかり両足を着けて立ち、向ってくる荒波に耐える力が必要なのです。相手が戦っているのは妄想であり、妄想の実体は外部世界ではなく心の内です。批評家はカウンセラー代わりに作家とその作品を攻撃しているのです。だからただ意思を強く、あるいは辛抱強く無知と傲慢の嵐を退け、忍耐強く説明して誤解と疑念を解く必要があるのです。
日本のアニメはその黎明期から――手塚治虫が『鉄腕アトム』を制作した頃から商業的な欠陥を抱えていました。手塚治虫はアニメをあくまでも趣味的なものと捉え、商業的な意識を持ちませんでした。だからこそアニメは多様な表現方法を身に付け、発展していきましたが、その一方で商業的な欠陥はその当時から引き継いでしまいました。今でもアニメ会社に稼ぐという意識は弱く、アニメーターやアニメユーザーに商業的なものを嫌う傾向があります(CD1枚出しただけで「儲け主義だ!」と騒ぐ人が多いこと。業界がどんな状況か知っているのか?)。
日本のアニメは確かに技術的側面は飛躍的に進歩し、世界でも類を見ない至上の文化と賞賛されるほどになりました。しかし、商業的な側面は衰退しつづけたといっていいでしょう。たまたま宮崎駿のような技術的にも体力的にも常人を遥かに超えた天才がいたから何とか保っていられたようなものです。あるいは趣味的な社長さんが次から次へと現れ、制作費を出してくれたから際どく維持できていたのです(大抵の社長さんはあまりにも割に合わないので一度の出資で手を引いちゃうんだが)。
アニメはむしろ保護や援助が必要な時期に来ているのです。しかし東京都が選択したのは表現の規制でした。表現に制限を加え、日本のアニメから力と精神を奪い去ろうとしたのです。規制賛成派は、感性の部分でアニメを殺そうとしたというわけです。
最近では中国や韓国といった国がアニメや漫画に力を入れています。それまで推進してきた表現規制を改め、国が積極的な資金援助をしています。
中国や韓国のアニメが日本に敵うはずがない――そう言う人は非常に多いですが、それは『ウサギとカメ』の態度でしょう。「どうせ追い抜かれることはないさ」。そんな傲慢な態度でふんぞり返っていると、遠からず追い抜かれるでしょう。技術や表現、それから国際的な立場においても。「別に日本が世界で1番である必要はない」と考える人間が政治のトップに就いている、ということも忘れてはいけません(しかも支持されている)。それに、日本国内でも「日本のアニメはどれも一緒だ。中国や韓国産のアニメのほうが新鮮味がある」と考える人も出てきています(多数派の意見とは思いませんが)。
中国や韓国だけではなく、アメリカやフランスといった国も日本の影響を受け、日本の作品を手本に新しい作品を作ろうという模索が始まっています。そんな最中、日本は規制を強化しようというのです。勘違いしている人がいますが、この規制は一部の成人向け作品だけが対象になるわけではありません。すべての作品が対象になります。しかも規定は曖昧で、担当した検閲官一人の考えに全てが委ねられる法律です(場合によっては「袖の下」が表現の限界を決める指標となるかもしれません)。作家はどこが法律のライン引きかわからない規制の前に困惑し、キャラクター作りの段階から萎縮してしまうような状況になります。
これはもはや、日本以外の国に「どうぞ、どうぞ」と席を譲るようなものです。石原慎太郎はもともとは小説家であり、表現者であったはずですから、このような規制が文化面にどんな影響を与えるかよく知っているはずです。その上でこのような法案に執着するのですから、いっそ文化的売国奴と呼んでもいいかもしれません。
批評家たちがよく使う常套句があります。
「日本は“諸外国”と比べて遅れている」
あるいは、
「“欧米”ではこのように……」
その帰結として、
「だから“国際的な恥”である」
と。
この“諸外国”あるいは“欧米”という言葉は曲者です。具体的にどの国を示しているのか曖昧にしますし、日本人の西洋コンプレクスを見事なくらい克明に現します。
しかし、はっきり言えば“諸外国”も“欧米”もどうてもいい基準でしょう。何でもかんでもあちらの基準に合わせる必要はありません。そもそも背負ってきた歴史も文化も違う国なのですから、違って当然です。(特に良案というのでもないのに)あちらがああなっているから、という理由で無理に合わせる必要はありません。
それに、ヨーロッパの知的階層には普遍的に皮肉屋が非常に多いものなのです。彼らは挨拶代わりに相手の欠点や弱点や相違点を見出し、素晴らしいとしかいいようのない言い回しで罵倒するのです。皮肉を言うのが礼儀とすら考える文化があるのです。日本のように行儀のいい好人物はヨーロッパの知的階層にはいないと思ったほうがいいでしょう。
批評家は外国から皮肉を言われるのが嫌で、彼らと同じにしたいと言っているのでしょう。しかしもし白人国家と法律を同様にしたところで、彼らの皮肉の応酬がぴたりと止むはずがありません。また別の弱点や欠点を掘り返され罵倒されるだけです。
もし皮肉や揚げ足取りを真に受けて法律を変えても、「本当にやったのかよ」と呆れられるだけです。西洋人と同じ法律に変えれば尊敬が得られるという考え(あるいは同等と見做されるようになるという期待)は根本的に間違っているでしょう。
だから、彼らヨーロッパの人間に法整備の件について皮肉られたら、堂々とこう言って返せばいいのです。
「はい。あなた方より平和な国からやってきました。ただ、最近はあなた方の国の人がやってきて、犯罪を起こすので治安が悪くなりましたけどね」
白人からしてみれば、アジアの国など搾取する対象くらいしか価値はありません。どんなに白人文化を装って、彼らと同じように振る舞っても、民族的に継承した人種に対する差別意識は決してなくなりません。白人はその他の全ての文化を異端と捉え、自分たちと同様にすることを“近代化”と考えています。自分たちと同じ習慣、意識、宗教を獲得すれば文明的になる。特に宗教観は重要視され、自分たちと同じ神を信仰しない国の人間は野蛮とすら考えています。
しかしどんなに白人と同じ習慣や意識を獲得したところで、白人による有色人種への差別、あるいは優越感は決してなくならいでしょう。彼らは外国を、バカンスで自分たちが行きやすい場所にしたいだけです。
そんな皮肉屋の白人たちを黙らせるには、地位ではなく尊敬が必要なのです。日本では“肩書き”さえあれば中身からっぽでもみんな尊敬してくれます。でもヨーロッパでは肩書きでは誰もチヤホヤしてくれません。彼らから無条件の尊敬が欲しいのであれば、まず誰にでも明らかな功績を持ってから行くべきでしょう。
また今回のような問題が取り上げられた背景には、ある社会意識が関連していると考えるべきでしょう。「宮崎勤」というイメージです。
漫画規制、悪書撤廃運動といったムーブメントは、もはや一つの戦後史というべきものでありますが、サブカルチャー、いえ「オタク文化」がここまで反社会的なイメージをもたれるようになった切っ掛けは、間違いなく宮崎勤のイメージが根底にあると考えられます。
オタクは無条件で危険な人物である。根が暗く陰湿で、反社会的な傾向を持ちがちだ。あるいは、そのオタクが接している文化は、間違いなく犯罪に係わり、犯罪を助長する恐れがある。テレビドラマでは暗い部屋でパソコンをいじり、犯罪の計画を立てているオタクの姿はもはや定番です。一般人は直裁的に「オタク=きもい」と思考回路を結び付けています。
それは何故なのか。理由を探ると宮崎勤の事件が根底に現れてきます。今の社会は宮崎勤以後の社会であり、いまだあの事件のイメージを延長し続けているのです。つまり、オタクのイメージとは「オタク=宮崎勤=犯罪者」と繋がるわけです。そのイメージを前提において、オタク文化があるから子供に関わる犯罪がなくならないというわけです。個人的な話ですが、私は宮崎勤直撃世代なので、宮崎勤事件以前、以後で周囲の友人たちの対応があからさまに変わる瞬間を体験しました。宮崎勤事件が日本の社会、文化、意識において大きなターニングポイントであったのは間違いありません。
「宮崎勤=オタク」というイメージそのものが当時のマスコミの捏造だった、という話は重要ですが本題ではないので横に置いておきます。2ちゃんねるをやっている人はよくマスコミの偏向について非難するのに、オタクのイメージだけはマスコミのイメージを素直に受け入れてしまっている、ということに疑問を感じますが。
だから非実在青少年規制に関するこの一件も、問題としてもっとも強く指摘するべきは、宮崎勤というイメージについてでしょう。あるいは、一般の人が無条件に受け入れ、疑う機会すらない社会的刷り込みについてです。受動的な通念だけを抱えて、独力の思考力がないというべきでしょうか。大場ナナコは「オタクは認知障害であるという考えを普遍的に広めるべきだ」と断言しました。この発言の根底にあるものも宮崎勤のイメージでしょう。宮崎勤というイメージを前提において、「認知障害者」であると語ったのです。もしイメージではなく実体、あるいは現実を確かめるだけの(少々の)知性が大場ナナコに備わっていたら、こんな発言や発想はどう頑張っても出てこないでしょう。
宮崎勤事件以後、日本人は文化に対する考え方を決定的に変化させてしまいました。文化に対する意識は確実に後退し、最新の文化を生活の一部として嗜む好事家といった人種を絶滅させました。一般社会のコミュニティから文化的な意識が切り離され、ちょっとした趣向すら病的なものとして「隠すべき」という考えが定着されました。「文系」という言葉が死語になり、残ったのは軽薄短小と呼ばれるただの消費者だけです(メディアは軽薄短小を甘やかしすぎたのではないでしょうか。軽い恋愛、軽い音楽、軽い映画、軽いアニメ、軽いゲーム……娯楽は楽しむためのものですが、時に相手を挑発し動揺させる力も必要です)。
私達は当然のように受け入れている社会的な刷り込みに対して、再点検するべきかもしれません。刷り込みに妥協し、思考停止状態に陥ると文化も簡単に切り捨てられるものと考えるようになり、感情的なやり方でしか接することができなくなります。もう少し冷静に物事を見て考える力が必要でしょう。社会が漠然と醸成した感情や気分だけで、貴重な文化を破壊させてしまう前に。
今回の『非実在青少年規制』の背景には、不穏に囁かれる噂があります。なぜ都知事や警察までも熱心に法改正に絡んでくるのか。実は『非実在青少年規制』という法律そのものを隠れ蓑に、新しい利権団体を作ろうというのが本旨というのです。
それは状況証拠と推測に過ぎない――とはいえ、背景に絡んでくる組織や団体などを俯瞰して見ると、「ひょっとして」という思いもしてきます。私にはそこまでの情報分析能力はないので、この件に関してはもっと詳しい人の調査、解説に委ねるべきでしょう。もし疑いようのない証拠が出てきたら、徹底的に糾弾されるべきことですが。
なんにしても東京という場所は騒がしすぎるという気もします。前回記事にも少し書きましたが、外野が騒がしくて創作に集中できなくなったら、思い切って業界ごと移転するべきでしょう。移転先は岡山がお勧めです。
その理由として、まず岡山は物静かな県民性として知られています。犯罪発生率は非常に低く、県別ランキングで下から3位くらいです。東京のような常にどこかで犯罪、という場所と較べると、非常に平和的な土地です。交通の便は悪くなく、大阪、京都のアニメスタジオと連携が取れます。これまでは東京にいる人たちを集めて企業を作っていましたが、岡山が拠点になると西日本を中心にした人材集めが可能になります。土地代が安く、東京の10分の1、20分の1くらいは当り前です。東京では無理だった「土地を買っての会社建設」も岡山なら実現の可能性があります。住宅事情もかなり落ち着いているので、駆け出しのアニメーターが住いに困る心配は多少減ります(瀬戸大橋を越えて香川県とか行くと、月一万の借家があったります)。一年を通しての日照時間、晴れ日が日本で最も長く、ソーラーパネルなどを使用するとある程度の電力が節約できます(いまだ太陽電池の性能がイマイチなので、「ある程度」とします。最近のアニメはデジタル制作の機会が増えているので太陽電池は活用できると思います。「落雷」が少ないのもポイントです。ゲーム会社ならかなりの恩恵を得られるかもしれません)。カルト宗教とヤクザの数も非常に少ないです(ついてきちゃう可能性もありますが)。
東京で余計にまとわりついてくる色んなものを振り落とし、地方に出ましょう。東京のような汚い、人間だらけで窮屈なゴミ箱都市は住むべき場所でも仕事するべき場所でもありません。通信技術が発達しているので、東京を仕事場所にする意味ももうありません。じっくり創作に没頭したいなら、静かな土地に移るのが最良の選択です。
関連情報リンク…詳しい情報が得られるように、たくさん用意しました。
一般資料
東京都青少年健全育成条例改正問題のまとめサイト
「反オタク国会議員リスト」メモ
ニコニコ大百科 非実在青少年規制とは
Wikipedia 東京都青少年の健全な育成に関する条例
日本でのマンガ表現規制略史
京都での規制事例 山田啓二によるマニフェスト(PDF)
「第3次男女共同参画基本計画策定に向けて(中間整理)」について
第12分野「メディアにおける男女共同参画の推進」(PDF)
無名-知財政策ウォッチャーの独言→東京都青少年保護条例改正案全文の転載
「青少年の健全な育成に関する条例改正案 質問回答集」の作成について
東京都青少年の健全な育成に関する条例改正案 質問回答集(PDF)
規制推進派
新谷珠恵 マネジメントグループの紹介
大場ナナコのブログ:バースコーディネーター日記
第28期東京都青少年問題協議会委員名簿(PDF)
社団法人 東京都小学校PTA協議会 青少年健全育成条例改正案に関する緊急要望書を提出
規制反対派
たけくまメモ
→都条例「非実在青少年」規制問題について
→精華大学による「東京都青少年健全育成条例改正案」に対する意見書
→まんが・条例ができるまで(1992年作品)
→“馬のクソ’でも表現(1)
空気を読まない中杜カズサ
→東京都青少年育成条例改正案における表現規制の危険性について語る
難民チャンプ
→「非実在青少年」規制について
Timesteps
→1990年代の有害コミック運動はそれからどうなったのか
コデラノブログ4
→非実在青少年規制反対集会速報
→「非実在青少年」だけではない、東京都青少年健全育成条例改正の問題
アルファモザイク→東京都「児ポの基準を発表するわ」 「しずかちゃんの入浴」「ワカメちゃんのパンチラ」はおk
京都精華大学→東京都青少年健全育成条例改正案に関する意見書
ニュースサイト
「非実在青少年」問題とは何なのか、そしてどこがどのように問題なのか?まとめ
都・マンガ規制の問題点を読売新聞が身を呈して実証
“非実在青少年”規制条例、「知っている」層の8割が反対~ニコ動調査
「非実在青少年」問題――ネットで広まる“反対”と“賛成”の意見
漫画性表現規制「議論慎重に」 精華大学部長ら 都の民主会派に意見書
「非実在青少年」規制、橋下知事「大阪府も検討」
「しずかちゃんの入浴」「ワカメちゃんパンチラ」はOK 2次元児童ポルノ規制条例で東京都
「暴力的ビデオゲームはほとんどの子供には無害」と研究者
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