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■2009/10/08 (Thu)
この小説は、『さよなら絶望先生』を題材にした2次創作小説です。2次創作に関する法的問題については、こちらをご覧下さい。【著作物】【二次創作物】【パロディ】【パロディ裁判

P079 終章 華やかな少女写真誌

私たちは男爵の屋敷を出た。時刻は午後3時過ぎといったところ。でも鬱蒼とした前庭は、晴れた夏の午後とは思えないくらい薄暗い闇を落としていた。荒れ放題に伸びた藪と、オークの垂れ落ちる枝に囲まれた煉瓦敷きの通りは、お化け屋敷雰囲気で重たく沈黙していた。
「ねえ、先生。可符香ちゃんの本当の名前って、結局なんだったんですか?」
私は可符香を意識するように、声を潜めて糸色先生に訊ねた。可符香は私たちより少し先に進んだところで、あびるや藤吉と一緒に並んで歩いていた。
「さあ、知りませんよ」
糸色先生は何でもないできごとのように、さらっと言葉を返した。
「知らないって、先生、裁判所に行ったんじゃないんですか?」
私はびっくりしたけど、それでも声を抑えた。
「いえ、調べたのは赤木杏さんの名前だけです。なんせ時間に限りがありましたから。可符香さんの本当の名前を調べるには、本人確認の印鑑とか必要になるんじゃないですか?」
糸色先生はいつもの頼りない大人みたいに、無関心そうな口ぶりだった。
「先生、いいんですか? 本名不明の生徒がクラスにいて。そういうの、きっちりしてください。」
千里が私たちの会話に気付いて、さりげなく近付いてきた。
「まあまあ。もういいじゃありませんか。事件は解決したんですから」
糸色先生は優柔不断な微笑を浮かべて、私と千里を宥めようとした。
可符香がなんだろう、というみたいに私たちを振り返って、かわいらしく首を傾げた。私はごまかすように微笑み、それから溜め息を落とした。かっこいい糸色先生はどこに行ったのかしら?
私は、歩きながら男爵の屋敷を振り返った。そういえば赤木杏はどうしたのだろう。赤木杏の寂しげな表情が、私の胸に留まっていた。でもあの部屋を出て行ったきり、赤木杏の姿は見えなくなってしまっていた。
振り返ると、夥しい数の窓が光を宿すのが見えた。そのどこかに、赤木杏がいないか、こちらを見ていないかと探した。もし見ていたら、手を振ってあげよう。いや、声をかけてあげよう、と思っていた。“一緒に学校に行こうね”って。
どこからか視線が向けられるのを感じた。でも、どこにも赤木杏の姿はなかった。赤木杏は、はじめて見たときと同じような印象で、白昼夢の中に消えていってしまったみたいだった。
私は諦めて視線を前に戻した。糸色先生が私の肩に手を置いた。顔を上げると、気遣わしげに微笑む糸色先生の顔があった。
ようやく屋敷の敷地の外に出た。門の前には、陰気な空き地の風景が広がっている。そこも男爵の庭みたいな感じだったけど、私たちは解放感を感じて、皆で足を止めて背伸びをしたりした。
「臼井君、やったじゃない。大手柄だよ!」
藤吉が臼井の背中をばーんと叩いた。強烈だったらしく、臼井がふらふらと吹き飛びそうになっていた。
いや、別にそれほどのものでも
臼井は調子に乗ってふんぞり返り始めた。
「ねえ、他にどんな写真撮ったの? 見せてよ」
藤吉は言いながら、臼井のデジカメを分捕った。私たちは興味半分で集って、デジカメを覗き込んだ。
ああ、駄目!
臼井が慌ててデジカメを奪い返そうとした。藤吉が的確な後ろ蹴りで、臼井を退けた。
藤吉がデジカメの電源を入れた。はじめに、ニセ時田が可符香を引きずり出すあの写真が現れた。次の写真を写すと、びっくりするものが現れた。着物姿の私たちが胸元を晒し、太股を大開にして眠っている写真だった。
すぐに私は思い出した。見合いの儀が終了したあの朝。奇妙な機械音。正体は、臼井がデジカメのシャッターを切る音だったのだ
写真はそれだけではなかった。臼井はずっと私たちと一緒だったのだ。続きを見ると、信じられないくらい恥ずかしい場面や、親に見せられないようないけない写真が次から次へと出てきた。
「何よ、これ?」
千里と藤吉が、臼井を振り返った。二人の背中に、不動明王が浮かぶのが見えた気がした。
いや、これは、その、できごころというやつで……
臼井がしどろもどろに言い訳をしようとしていた。
後の惨劇については、あえて言うまい。とりあえず、今回の事件でただ一人、病院送りになった者がいた、とだけ説明しておこう。
振り向くと、糸色先生が一人で歩きだろうとしていた。私は糸色先生の側へ走り、その手を握った。
「一緒に帰ろう、先生」
私は少し恥ずかしい気持ちを感じながら、微笑みかけた。
「駄目よ」
いつの間にか側にまといが現れて、私の頬に掌を当てて押しのけようとした。
「え、まといちゃん?」
私は動揺してしまって、ふらふらと糸色先生から離れた。
昨夜は見逃してあげたけど、あれは特別だから。もう事件は解決したのよ。いつまでも先生とべたべたしないで」
「できれば、あなたもべたべたしないでほしいのですが……」
まといは刺のある言葉を私に向けて、糸色先生を後ろから抱きしめた。糸色先生が笑顔を引き攣らせていた。
「昨夜って、ええ?」
私はびっくりして、口をぽかんと開けた。
「私たちが気付かなかったと思っていたの? なんなら、録音したものを聞かせようかしら」
まといが懐から小さな録音機を引っ張り出した。
私は全身の血がいきなり沸騰したような気分になって、慌てて首を振った。
「そうよ。抜け駆けは許さないんだから。あの夜は、仕方がないから許してあげたけど、ちゃんと順番というものがあるんだから、きちんと守ってください。先生とお付き合いしたければ、まず、私たちと勝負して、勝ってからじゃないと駄目よ。」
千里が乱れた髪をさらっと直しながら、私たちの前に進み出てきた。
「……辞退します。私、普通の女の子だから」
私は千里とまといの二人に睨まれて、プライドが折れる気分で遠慮した。というか、死にたいくらい恥ずかしかった。糸色先生と私だけの思い出だと思っていたのに……。
「まあまあ、皆で一緒に帰りましょうよ。私には、皆さんを無事に家まで送り帰す義務もありますから。それに、明後日から始業式です。また皆で会えますよ」
糸色先生が私たちを宥めるように、間に入ってきた。
「ウソ! 始業式って、そんな、今日って何日?」
私はあまりにも意外な事実に、糸色先生に身を乗り出させた。
「何を言ってんのよ。よく考えなさい。見合いの儀で先生の家に行ったのが8月24日でしょ小石川に戻ったのが26日。その後、男爵の家で二日監禁され、その翌日。だから今日は8月29日でしょ。」
千里は呆れたふうに説明した。
「ええー、宿題、ぜんぜん終ってないー!」
私は頭を抱えて、その場でぺたりと座り込んでしまった。しかも、両腕は男爵にやられて動かせないままだった。
そんな私の姿を見て、糸色先生が思いついたように微笑んだ。
「おお、そうだ。こんな時ですから、みんな一緒にどうですか。さあ、皆で一緒に。せーの、

絶望した!

〇〇〇


こちらの作品は以下の書籍を参考にさせていただきました。
『子供たちは屋敷に消えた』ロバート・カレン著 広瀬順弘訳 早川書房
『悪徳の栄え 上』マルキ・ド・サド著 澁澤龍彦訳 河出文庫
『悪徳の栄え 下』マルキ・ド・サド著 澁澤龍彦訳 河出文庫

小説『さよなら絶望先生~赤い瞳の少女~』目次




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■2009/10/07 (Wed)
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P078 第7章 幻想の解体


私たちは沈黙して、遠藤を注目した。遠藤の顔は、変装が剥がれ落ちてしまいそうなくらいに、汗をかいていた。全身を小刻みに震わせて、糸色先生を細く閉じかけた目で睨みつけていた。もうその姿を見て、時田という感じはしなかった。
「遠藤、君はこれから警察に出頭したまえ。蘭京殺しの犯人としてな」
男爵が遠藤に指示を与えた。男爵の言葉に、少し疲労が浮かんでいる感じがあった。何もかもが暴かれて10年越しの計画を潰された徒労のようなものがあったのだろうか。それでも男爵は、自分が設定したゲーム・ルールに従い、潔く敗北を認めたのだ。
「御意」
遠藤が執事のような恭しい礼を男爵にした。もともと、執事体質の人間だったのかもしれない。
「先生、それじゃ時田さんは? 殺されちゃったの?」
私は急に本物の時田が心配になって、糸色先生を振り返った。
「いいえ。多分、殺されていません。さっきも言いましたが、死体を隠すのは難しいんですよ。計画が終了するまで、死体は発見されるわけにはいきません。だから絶対に発見されないという自信のある場所で、生きたまま隠しているのでしょう」
糸色先生の言葉から緊張が解放されていく感じがあった。糸色先生の表情に、心配は浮かんでいなかった。
「それは、どこですか?」
千里が心配そうな顔をして糸色先生を見上げた。
「あの坑道です。私の実家の地下。あそこなら、隠すのにうってつけでしょう。私の実家で、あそこだけあまり管理されていない場所でしたから。私は見合いを避けて、地下の坑道に逃げ込みました。しかし、そこで思わぬものが現れて気を失ってしまいました。あの玩具ですが、実は警備室のコンピューターと連動していて、特殊なパスワードを打ち込むと動く仕組みになっているんですよ。遠藤さんは私をあれ以上先に進ませないために、あの玩具を動かしたのでしょう」
糸色先生は普段の穏やかさに戻りながら、私たちに説明した。
私は今さらながら、警備室で見かけたニセ時田の行動を思い出していた。なにやら謎めいたウインドウを開き、複雑なキー入力をしていたニセ時田。あれはコンピューターに、地下の玩具を動かすよう命令を与えていたのだ。
私は信じられないくらいあからさまなニセ時田の細工を、目の前で見ていたのだった。もっとも、コンピューターの知識がなく、気がつかなかったのだけど。
「大した男だな。正解だ。あの坑道の真直ぐ進んだところで、時田が幽閉されている。飢えてなければ、まだ生きているだろう」
遠藤が時田の顔をにやりとさせて答えた。声の低い凶悪そうな声だった。
「ご心配なく。すでに家の者に知らせてありますので」
糸色先生が遠藤を振り返って、挑発を押し返すように言った。
その直後、見計らったように携帯の着信音がした。糸色先生は懐から携帯電話を引っ張り出すと、通話にした。
電話の相手は倫からだったらしい。糸色先生は短くやり取りを終えて、電話を切った。
「報告がありました。あの坑道から、本物の時田が発見されました。それから、実家の警備員リストの中から遠藤喜一の名前が発見されました。一年半前、退職したようですが。時田と入れ替わったのも、その頃でしょう」
糸色先生の言葉は、謎が明かされてストレスから解放されたみたいだった。
そんなとき、ふと客間のドアが開いた。なんとなく、部屋に明るい暖かな気持ちになれるものが流れ込むような気がして、私は振り返った。皆も振り返っていた。部屋の入口に、ワンピース姿の赤木杏が立っていた。ううん、違う。風浦可符香だ。顔はまったく一緒だけど、あの雰囲気は絶対に風浦可符香だ。
「あら、みんなでお茶会?」
皆に注目されて、可符香は少しびっくりしたみたいだったけど、それでもいつもの包み込むようなポジティブな言葉を掛けてきた。やっぱり可符香だ!
私はソファから飛び上がって可符香の側へ走った。そのまま可符香の体を抱きしめた。皆も立ち上がって、可符香の前に集ってきて、順番に抱擁した。あびると藤吉が、感激のあまり泣いてしまっていた。可符香はきょとんとしていたけど、それでも笑顔で私たちの抱擁に応じてくれた。
そんなふうに大騒ぎしている最中、私は一人、糸色先生はどうしたのだろうと振り返った。糸色先生は一人きりで、男爵の前に進んでいた。
「全て終了、ですかね」
「そのようだな」
糸色先生が世間話でもするように切り出した。男爵はソファに座ったまま、糸色先生を見上げた。その顔に、少しも痛手は浮かんでいなかった。
「あなたのことです。諦めていないんでしょう」
糸色先生の顔と言葉に、少しの緊張が宿った。
「もちろんだ。君は興味深い人間だからね。私は正直なところ、10年間の事件なんてなんとも思っていないのだよ。ただ君と、もう少しゲームを楽しみたい。それから、君が苦しみ、骸を晒す様を見たい。それだけなのだよ」
男爵がにやりと口元をゆがめた。私は男爵の微笑を直感的に嫌悪した。その微笑に、なぜか性的なものを感じていたからだ。
「何度でも挑戦を受けましょう。何度でも挑戦を受け、その度に打ち砕いてみせます」
糸色先生は静かに、それでいて決定的な言葉を突きつけた。
「それは人生に楽しみができたな」
男爵は同意を求めるみたいに、糸色先生に微笑みかけていた。
糸色先生が踵を返した。私が見ているのに気付いて、糸色先生はあっと顔を伏せて、それから笑顔を作った。
「さあ皆さん。帰りますよ!」
「はい!」
糸色先生が歩きながら、私たち全員に明るい声をあげた。私たちは糸色先生を振り返って、返事を返した。

次回 P079 終章 華やかな少女写真誌

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■2009/10/07 (Wed)
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P077 第7章 幻想の解体


私たちは食い入るように写真に注目していた。デジカメのディスプレイに写っていた写真は、あまりにも鮮明で、絶大な威力を持った証拠品だった。
私ははっと意識が過去に吸い込まれていった。見合いの儀が終了して、一人きりで目を覚ました、あの朝。竹林を歩く私の前に、青ざめた顔の臼井が飛び出してきた。竹林の先にあったのは、赤木杏が眠る沼。そうだ、臼井は決定的な瞬間を目撃し、写真に収め、それで恐怖に捉われて逃げ出していたのだ。
そういえばあの時、沼の近くの草に泥が混じって濡れていた。あれはニセ時田が赤木杏を引きずり出したためだ。
それに私はあの後、赤木杏を目撃した。みんなで帰ろうと向かった玄関先で、私を見詰めていたセーラー服姿の赤木杏。その肌の色が緑色だった。
違和感そのもののように思えた赤木杏の存在。私は白昼夢を見たのではないかと思っていた。でも赤木杏は、確かに存在していた。
それにしても、赤木杏はどうしてあの場所にいたのだろう。隠れていればいいのに、どうして私たちの前に、姿を見せたのだろう。
私は、ふと赤木杏が部屋を出るときに見せた表情を思い出した。……寂しかったのかもしれない。沼の中で10年間眠っていて、ぼんやりした意識しかなかったという赤木杏。それでも、寂しさを感じていたのかもしれない。
「いつ、気付いた。俺が偽者だと?」
時田の声に、私の意識が現実に引き戻された。
私は時田を振り返った。時田は顔を苦しそうに歪め、汗を浮かべていた。顔も声も、すでに時田ではない別人だった。
「昨日ですね。あなたの変装は見事なものです。恥ずかしながら、私も気付きませんでした。しかし、昨日あなたが持ってきた男爵の生徒リスト。あれを見て、私はすぐにおかしいと気付きました。だってあのリストには、“12人”しかいませんでしたからね」
糸色先生は旅行ケースを開けて、用紙を一枚引っ張り出し、テーブルに置いた。昨日の夜、命先生の診療所で見た救出された子供のリストだった。
でも私はリストを覗き込んで、首を傾げた。
「先生、ちゃんと13人いますけど。」
千里が私より先に、顔を上げて疑問を口にした。
糸色先生は首を振って否定した。
「いいえ、12人です。よく御覧なさい。1番目と13番目。これは名前を反転させただけの同一人物です。住所は、慌てていたのでしょう、ただのコピーですね」
糸色先生がリストの1人目と12人目を指して説明した。
私はあっとなった。1番目の「三田智菜美」と、13番目の「源民」。平仮名にすると「みたともなみ」と「みなもとたみ」となる。単に反転させて、漢字を当てはめただけだ。それに、苗字が違うのに住所が一緒。明らかな捏造だった。
「私はこれを見て、ただちに何者かが証拠品に手を加えていると察しました。しかし、これだけでは時田を疑うには判断材料に欠けます。資料を改竄したのは、時田ではない、他の誰かという可能性は充分ありますからね。そこで、もう一つの証拠品です。私は兄の命医院で、あるカルテを見ました。あなたが整形外科に通った証拠であるカルテです。私ははじめ、時田が若作りでもしたのかと思いました。でも、改めて兄に電話して確かめたのですが、“皺を増やすため”の整形手術だったそうです。この段階で、私は確信しました。あなたは偽者であり、男爵の弟子である、と。今は手袋をしていますけど、その掌、随分と若々しいらしいですね。ちらとしか見えませんが、首に皺がなさすぎです。あなたの本当の年齢は30代半ば、といったところではありまんせんか?」
糸色先生は旅行ケースの中から問題のカルテを引っ張り出し、テーブルの上に置いた。それから、ニセ時田を振り向き、畳み込みかけるように言葉を重ねる。
私はカルテを覗き込んだ。専門的な医学用語が羅列されていて、よくわからなかった。その代わりに、糸色医院で聞いた、命先生とのやりとりを思い出していた。
命先生は「“一応身内であるから”」と言った。“一応身内”すなわち、「限りなく身内に近い立場であるけど他人である」という意味だ。
それに見合いの儀の時、時田に糸色先生の幼少時代の思い出を聞くと、真っ先に17歳の事件が話に出てきた。あれは、17歳の時に起きた事件のインパクトがあったからではない。ニセ時田が17歳の糸色先生しか知らなかったからだ。
糸色先生の話はまだ終っていない。私は自分の推測から逃れて、顔を上げた。
「……それで私は裁判所へ行き、当時の正しい資料をコピーさせてもらいました。当時の事件当事者だといえば、簡単にコピーさせてくれましたよ。これがそのコピーです」
糸色先生はとどめのように宣言すると、旅行ケースから最後の資料を引っ張り出した。
資料には、次の名前が列挙されていた。

〇〇名前      当時の住所 
三田 智菜美  東京府調布市20-7
楠田 陽子   東京府調布市4-98
群 市太郎   静岡県駿河区31-121
火田 健次郎  福岡県福岡市5-21
帆府 茅香   東京府市川市3-55
市女笠 吉武  東京府守谷市大粕7-14
桜 妓市    東京府杉並区3-83
山形 富一   宮城県仙台市66-65
吉川 和海   千葉県茂原市11-534
幸田 邦仁   茨城県閲沼市3-8
池谷 彰    東京府久坂市2-35
遠藤 喜一   北海道札幌市8-1

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P076 第7章 幻想の解体


頭をふらふらさせながら、私は自分のソファに戻った。ぐったりと背に体を預ける。まだ胃の中が気持ち悪くて、お腹に手を添えた。他のみんなも、椅子に戻って顔を青くしたりうなだれたりしていた。人肉料理の事実は、あまりにも強烈だった。
「それで、人の肉をうっかり食べてしまった私は、何かの罪に問われるのかね?」
男爵が楽しげな微笑を浮かべながら糸色先生に訊ねた。
「さあ、どうなんでしょう。何の罪に問われないでしょうね。知らずに食べた肉ですから。ただ、厨房に残っている肉は回収させてもらいます。しかるべき場所に提出し、DNA鑑定に掛ければ蘭京太郎の肉であると明らかになるはずです」
「好きにしたまえ」
糸色先生は慎重に言葉を返すが、男爵はもう興味がないみたいに、簡単に許可を与えてしまった。
私は口元を押えながら、これ以上はないくらいの不愉快な気持ちで男爵を睨み付けた。人肉を食べてしまっても、驚くどころかあんなふうに笑っていられる人間の気持ちが理解できなかった。
「先生、あの、えっと、……それじゃ、男爵と遠藤喜一の接点を説明できるんじゃないんですか。男爵からの指示があったから、遠藤さんは行動したわけでしょう? これまでの話で、それを証明できるんじゃないですか。」
千里は口元をハンカチで拭いながら糸色先生に尋ねた。千里は本当に具合が悪そうで、顔が縦線を引いたみたいに青くなっていた。
「いいえ、無理でしょう。どう考えても男爵と遠藤喜一には接点があり、指示を受けていたのでしょう。でも、遠藤が指示を受けたのは10年前、男爵が逮捕される直前です。それ以降、二人は一切顔を合わせていないはずです。男爵は周到な男ですから。10年前の会話内容を証明するなんて、不可能です。今回の蘭京太郎の殺害は、遠藤喜一が独自に、勝手に行動した結果です。そうですね、男爵」
糸色先生は千里の意見を否定して、男爵を振り向いた。
「いかにも。私は私の生徒に、10年間、一度も顔を会わせていない。私自身、10年前、生徒にどんな話をしたかなんて、憶えていない」
男爵が一度頷いた。
「しかし望ぼっちゃま、問題があります。望ぼっちゃまの推測は憶測であり、どれも決定的ではないと思います。なぜ私が偽者であり、男爵に協力していたと言えるのか。根拠に欠けると思うのですが」
時田がはじめて、私たちの会話に割って入ってきた。その言葉が、苛立ちを込めたように重かった。
私は時田を振り返った。人の良さそうな老人の顔が、険しく皺の数を増やしている。私には、いまだに時田が偽者だなんて、信じられなかった。
糸色先生が、にやりと口元をゆがめて、指を一本突き立てた。
「ありますよ。決定的な証拠なら。あまりにも決定的で、誰もが納得する証拠があるんですよ」
「それはいったい……」
時田の顔が緊張で引き攣り始めた。
「それはそこにいる彼です!」
糸色先生は勢いよく振り返って指をさした。私たちは、全員で糸色先生が指した方向を振り返った。
「ふう、やっと僕の出番ですか」
糸色先生の右後方、私の左横の空間だった。でもそこには、何もなかった。少し向かったところに、灰と埃の詰まった暖炉が設置されているのが見えた。人の気配どころか、重要そうな何かがあるような感じもなかった。
「誰もいないじゃないか?」
一番に言ったのは男爵だった。
ここにいますよ、ちゃんと!
私たちも同じ意見だった。何のつもりなんだろう、と私は糸色先生を振り返って、意図を探ろうとした。
「先生、こんなところで変なボケを入れないでください!」
千里が糸色先生を叱るように身を乗り出させた。
「おっかしいなぁ。確かにそこにいたような気がしたんですが……」
糸色先生自身、困惑するように頭の後ろを掻いて、何か探すように見回していた。
ここですよここ! ちゃんといますよ! なんですか、この扱いは。せっかくかっこいい場面なのに
何となく、不快な空気が辺りに漂うような感覚があった。私は無意識に自分の腕をさすっていた。
「なんか、空気が淀んでいるよね。窓開けない?」
藤吉が隣に座っている千里に声をかけた。
「そうね。みんな吐いちゃったことだし。」
千里が同意して頷いた。
千里と藤吉が二人で席を立って、窓の前まで進んだ。窓は大きく、曲線を持ったフレームの、両開き式のものだった。その窓を開けると、冷たい風が足元をなでるように流れ込んできた。心地よい風ではなかったけど、部屋一杯に漂う据えた異臭から少し解放される気がした。
すると私のすぐ側で、何かがぱたぱたとはためいている感じがした。なんだろう、と振り向くと、いつの間にか私の側に少年がぼーっと立っていた。手にデジカメを持った臼井影郎だった。はためいていたのは、臼井のハゲ散らかした頭皮だった。
「キャア! いつからそこにいたのよ!」
私はびっくりして、ソファから飛び上がりそうになるくらいのけぞった。
ずっと一緒にいたじゃないか。一緒の新幹線に乗って蔵井沢にも行ったし、男爵の家でも一緒だったし、先生の家にも泊まったじゃないですか!
臼井は逆上したように私に言葉を返した。
「そーいう気持ち悪い嘘はやめてよ! あんたたださえキモイんだから、一緒に泊まったとかそういうの本当にやめて。側にも立たないで!」
私はこれでもかと不愉快な感情をぶつけて、虫でも追い払うように手で払った。
そんな。だいたい僕のおかげでみんな助かったんだよ? 皆が男爵に閉じ込められた時、僕が鍵を見つけて扉を開けたんだから。そうでしょ?
臼井は逆襲のように、私たちみんなに言い、最後に千里を振り返った。
「……誰?」
千里が自分の椅子の前まで進み、首をひねった。
ひどい! 2のへ組の委員長の臼井ですよ!
臼井が自分を指さして主張した。
「こんなの、いたっけ?」
千里が臼井を指さして、誰かに意見を求めるように振り返った。藤吉もまといも、本当に知らないみたいに首を振った。
ちなみに、千里やまといたちの意見によれば、扉の鍵が勝手に開いたのだそうだ。私は当然、臼井より千里たちの意見を信用した。
「まあ、冗談はさておき、話を元に戻しましょう。脱線しすぎです」
糸色先生が改めるように私たちに声をかけた。私たちは冷静な気分に戻って、糸色先生を注目した。臼井はがっかりうなだれて、糸色先生の背後に回った。
「男爵は赤木杏に改造手術を施しました。男爵は当時、東大附属植物園の研究員であり、屋敷では人体実験が行われていました。男爵は赤木杏をある目的のために、人体実験の技術を応用して改造手術を行ったのです。人体に独自に生成した葉緑体を合成させ、10年間ある場所に隠して仮死状態で眠らせるためです。10年後、計画をスタートさせるために。そのある場所こそ、私の実家でした。灯台下暗し、とはこのことを言うのでしょう。しかし計画をスタートさせるには、誰かがそのある場所へ行き、赤木杏を引き上げねばなりません。男爵自身が私の家まで来るわけには行きません。目立ちすぎますし、私たちも警戒します。そこで、ニセ時田が登場です。私の実家では、8月25日になると“見合いの義”という風変わりな行事が毎年催されていますこの期間中、無用な事故を避けるため、屋敷にいるほとんどの使用人がいなくなります。さらにニセ時田は、地下に作られた警備室で、屋敷内の人間の正確な動きを把握することができた。だからニセ時田は誰にも気付かれず、密かに赤木杏さんが眠る場所へ向かい、引き上げ、覚醒状態にして必要な栄養を与えることができた。しかし、遠藤さん。あなたは一つ見落としをしていました。あなたはその場所に向かう途上でも、充分注意したでしょう。でも世の中には、信じられないくらい存在感の薄い人間がいるのですよ。さあ、臼井君。皆に見せてやってください。決定的な証拠を!」
糸色先生は長い説明の後に、促すように臼井を振り返った。
はい
臼井が私たちの前に進み、デジカメのディスプレイに画像を写した。画面は、朝の霧がぼんやりと包む沼の風景だった。その沼から、時田が何かを引き上げようとしていた。全身が黒い泥に濡れた、裸の赤木杏だった。時田が赤木杏の両脇に手を回し、引き上げようとする瞬間だった。泥の落ちかけた赤木杏の肌ははっきりと緑色になっていて、植物の根がその体に絡みついていた。

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P075 第7章 幻想の解体


糸色先生は少し無言の間を置いた。私たちの気分が改まり、空気が入れ替わる感じがあった。全員が糸色先生を注目し、授業を受けるときの体勢になっていた。
「まず、蘭京太郎について話を始めましょう。我が校の生徒を殺害したのは、蘭京太郎です。これは小森さんの明確な証言があるので、覆りません。蘭京太郎は自らの快楽のために、生徒を殺し、体の一部をホルマリン漬けのコレクションにしていました。私の推測ですが、その時からニセ時田、遠藤喜一と蘭京太郎は接点があったのでしょう。同じ趣向を持つ者同士ですから、どこかしら惹き合い、交流を持つ切掛けがあったのだと思います。7月末頃、蘭京太郎は“使用済み”になった死体の処理に困っていました。夏に入ると、死体は匂いますからね。学校の花壇に埋めて隠そうとしていましたから、相当悩んでいたのでしょう。そこで遠藤喜一は死体の有効利用を思いつき、引き取り、その末で私の家に持ち込んで放置した。死体が発見されると、まず私に容疑が向けられるでしょう。刑事起訴に至らなくても、私の社会的信用や地位はガタ落ちになります。しかし、それがむしろ、あなたの墓穴を掘ることになりました。あなたはどうやら、余計なことをする癖があるようですね。あなたは男爵の指示するとおりに動いていたら、確実に私を殺せていたのです。この余計な工作のために、蘭京太郎は男爵と遠藤喜一の計画を知った。計画を知った蘭京太郎は、遠藤喜一を脅迫しようとした。そのために、面倒になった遠藤喜一は、蘭京太郎を殺害した……」
糸色先生の言葉に迷いはなかった。一度も詰まったり、曖昧にしたりもしなかった。何もかもが、糸色先生の言葉で明白になっていくような気がした。
「それで、どこでどうやって蘭京太郎を殺害したのかね。私が言うのもなんだが、死体を隠すのは難しい。死体はばらばらにして埋めても、いつか発見されてしまう。隠そうとしても、強烈な臭いが存在を主張する。沈めても浮かび上がってしまう。この世に、人間のいない砂漠は存在しない。余程の幸運がないかぎり、死体を運び出し、隠すことはできん。さて、蘭京太郎の死体はどこに消えたのかな?」
男爵はソファのクッションにふんぞり返るように体を預け、足を組み合わせた。あまりにも緊張感のない、いや、男爵は事件の真相に気付き、そのうえであんな態度を見せているのだろう。
「ええ、死体を隠すのは非常に難しいです。人間の死体ほど、隠すのにやっかいなものはありませんからね。でも、計画的に処理を行えば不可能ではありません。はっきり言いましょう。蘭京太郎が殺されたのは、この屋敷の中です。もっといえば、厨房で殺されました。男爵、あなたは自分ではまったく料理をしないそうですね。週に2回、厨房に調理済みの料理が配送され、あなたはそれを加熱するだけでいい、と。だから、どんな人物が厨房を出入りしているのか、それすら知らない
「いかにも」
糸色先生は確認するように男爵をじっと見て訊ねた。男爵はニヤついた微笑を浮かべて頷いた。
「おそらく、ニセ時田が蘭京太郎を厨房に招きいれたのでしょう。蘭京太郎は7月初め頃、日塔さんに秘密の部屋を暴かれて、潜伏する場所を必要としていた。蘭京さんには匿ってくれる親族もいませんでしたから。すでに交流があったのなら、遠藤喜一がこの屋敷に誘い込むのは簡単だったでしょう。厨房でどのように殺害されたのかまではわかりません。しかし、どのように処理されたかは、明らかになっています。私たちの中に、証言者がいますから」
糸色先生はさらに説明を続けた。
私は自分の膝を見詰めながら、少し自分の思考に捉われていた。
7月初めのあの朝。蘭京さんは、多分、自分のコレクションを見ようと秘密の部屋に入ったのだろう。朝の早い時間だから、誰も用務員室にはやってこない。そのしばし間、自分のコレクションに囲まれた、優雅な時を味わいたいと思ったのかもしれない。
でもそこに、私と可符香が用務員室に入っていった。慌てた蘭京太郎は、判断を誤った。秘密の部屋に隠れていればよかったのに、慌てて飛び出そうとした。しかも、部屋を隠す細工が間に合わず、パニックになって窓から飛び出してしまった。
そうして、私が秘密の部屋を発見した。一つの判断ミスが招いた事件だった。
「証言者? それは誰かね」
男爵が少し身を乗り出し気味になって、答えをせがむように問いかけた。話はまだ続いている。私は顔を上げて、糸色先生の話に再び集中した。
「小節さんです。小節さん、あなたはあらゆる動物を熟知している。動物がどんなふうに調理されるかも、その味も詳しく知っている。だから、まったく知らない肉を差し出されても、あなたはそれが何の肉なのか、即座に見当をつけられた。だからあの夜、小節さんは男爵に差し出された肉料理を見て、『絶対に食べてはいけない』と皆に警告した。小節さん。あの肉は、何の肉でしたか?」
糸色先生はあびるに諭すように話しかけた。
あびるは私の右隣で、装飾もクッションもないブラウンカラーのシンプルな椅子に座っていた。私が振り向くと、あびるは思い出したように顔を青ざめさせ、口元を引き攣らせていた。
「……ひ、……人の、人間の、肉でした」
あびるは何度もつっかえながら、消え入りそうな声で答えた。
私は、腹の底からうっとせりあがってくるものを感じた。それは一気に喉を駆け上っていき、私は慌てて口元を両手で押えた。でも、我慢できなかった。私は飛び上がり、ソファの後ろに回った。そこで膝が折れて、絨毯の上に朝食を撒き散らせてしまった。
他のみんなも同じだった。みんな座っていた椅子から転げ落ちて、絨毯の上に汚物を吐いてしまっていた。
男爵だけが笑っていた。これほど愉快なものはないと言いたげに、ソファから転げ落ちそうな勢いでふんぞり返って笑っていた。
「落ち着いて。皆さんは一口も食べませんでしたから。大丈夫ですから」
糸色先生が私たちを宥めようと声を張り上げていた。でも先生、手遅れだから。

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小説『さよなら絶望先生~赤い瞳の少女~』目次




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