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■2015/07/21 (Tue)
第1章 最果ての国

前回を読む


 ミルディは老ドルイド僧を族長の屋敷に招き入れる。老ドルイド僧はテーブルの上に地図を広げた。ミルディがテーブルの向かい側に立つ。親族の者達が、少し遠巻きにしながら様子を眺めていた。

老ドルイド僧
「数日前、わしは本部からの指令で、ここから北に少し進んだ所の森を調査しておった。ネフィリムが根城にしている不浄の森だ。邪悪な気配を強く感じた。危険な場所だが、わしは何かが潜んでいると確信した。わしは気配を消し、森の影に姿を隠しながら、奥へ奥へと潜り込んでいった。間もなく、森のもっとも暗いところ、混沌が深まる場所に大地の裂け目を見付けた。わしは近くに潜んで、裂け目を監視しておった。ある夜じゃ。不穏な気配がより強まり、何かが起こる予感がした。わしは裂け目をじっと監視した。するとそこから、武装したネフィリムの軍勢が一斉に溢れ出し、森の外を目指して駆けていった……」
ミルディ
「それが我らの村を襲ったネフィリム……」
老ドルイド僧
「ネフィリムが襲ったのは、この村だけではないぞ。多くの村が襲撃され、人が死に、畑が不浄に汚染された。壊滅させられた村もあった。わしも戦いに参加したが、守りきることはできなかった。戦いの後、村を見て回ったが、どこも惨憺たる有様じゃ。だが、この村には、どうやら闘将がついておるようだ。混沌の種子は根元から摘まねばならん。共に戦ってはくれぬか」
村人
「待ってくれ! みんな戦いで傷つき、倒れた。これ以上戦いで犠牲を増やすのか」
村人
「そうだ! 俺達はもう戦いたくない! 戦いはもう終わりだ!」
村人
「族長はいいかもしれない。だが俺はもう子や友を失いたくない!」
ミルディ
「我々が戦いを望まなくても、向こうが殺戮を望んできます。ネフィリムは軍団を組んで、何度でもやってきます。戦いを臨まなくては、戦いは永久に終わりません。戦える者は残ってください。村を守る力のある者はこの場に留まってください」

 村人らがざわめきはじめる。顔に困惑と葛藤を浮かべて、間もなくそろそろと無言で屋敷を出て行く。
 ほんの数人が屋敷に残る。人で密集して暗かった屋敷に、いくらかの光が射し込んできた。残った数人の村人は、取り残されたような不安を浮かべていた。

ミルディ
「よく残ってくれました。一緒に戦いましょう」

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■2015/07/20 (Mon)
第1章 隻脚の美術鑑定士


前回を読む

 ツグミはふと緊張が解けて息をついた。でも岡田はまだ箱をもう1つ用意していた。ツグミは改めて気持ちを緊張させた。
「絵はこれだけやないんやで。次はこれや」
 岡田は次なる箱を差し出し、蓋を開けた。現れたのは台紙に包まれた厚手の紙だった。岡田はそれを畳の上に並べる。
 版画だ。全部で8枚。大胆で荒々しいタッチ。凄まじいまでの極彩色。見る者を圧倒するような迫力を持ちながら、描かれるモチーフは静の極地である観音と菩薩であった。作者は棟方志功(※)だ。
 山下が「おお」と歓声を上げて身を乗り出した。そこそこの美術好きにはたまらない品だ。
 しかしツグミは、一目ちらっと見るだけで充分だった。
「7枚が贋物です。本物は1枚だけです」
 ツグミは淡々と、いきなり結論を下した。
「どういうことや?」
 岡田も山下も同時に身を乗り出した。ツグミはまず、ずらりと並べられた棟方版画の右端を示した。
「右から3点。棟方志功も紙にこだわる人でした。いつも好んで使っていたのは出雲産紙でした。でも、これはいい紙ですけど美農産紙です。棟方が使っていた紙じゃありません」
 決定的だったらしく、山下が「うん」と唸った。
 8枚の版画はいずれも紙の色、質感が違っていた。色の白いもの、黄色に変色しているもの、全部ばらばらだった。
「それなら残りの5枚はどうや。どれも出雲産紙やろ。なら本物やないか?」
 岡田も負けじと食い下がる。
「確かに出雲産紙です。でも、次の2点も明らかに棟方志功ではありません。絵が違います。線に勢いはないし、仏さんが太っているように見えます。色に煌びやかさがない。特におかしいのは、サインです。これは、本物の棟方の倍もあります。こんなでかいサインを描く画家がどこにいますか」
 ツグミは贋物の欠点をずばずばと並べた。
 問題の2枚は線が1点にまとまらず、ふわふわとしている。色についてもけばけばしているだけ。極彩色とはいうより、汚いという評するほうがぴったりだった。
 それにサインが大きすぎだった。観音の胸の下、でかでかと絵の下半分を覆っていた。
 そう指摘されると、山下老人の目から急速に輝きが失われていった。もう「贋作を見る目」になっていた。
「ほう。それじゃ、あとの3枚はどうや。贋物はあと2枚やと言うとったな」
 突きつけるように、岡田はツグミの前に残りの3枚を示した。
「あとの2枚、これとこれが贋物です」
 ツグミは3枚の版画の右と左を示した。
「根拠はなんや」
 岡田が口調をきつくして問い詰める。
「岡田さんも本当はわかってますでしょ? 絵の左下。何か削ったような跡があるの」
 ツグミは岡田の目を真直ぐに見て指摘した。岡田の目が、うっと歪んだ。その瞬間を見逃すまいと見詰めた。
「確かに、左下に何か……『えくらん……』なんとか、とか?」
 山下が問題の箇所をじっと覗き込んだ。絵の左下の余白部分、そこだけ紙が削れたように荒れて、繊維にうっすらと何かの跡が残されていた。
「《えくらん社》と書かれてあるんです。昭和33年。棟方は《えくらん社》の要望で『棟方志功版画柵』を刊行することになりました。このとき棟方が同意したのは300部まで。でも《えくらん社》は儲けを増やそうと7000枚もの版画を摺ってしまった。警察が後に回収できたのは5300枚。1000枚以上が未回収のまま放り出されてしまいました。岡田さん、これは確かに本物として作られたものやけど、遺族に返さなあかんやつやで」
 ツグミは丁寧な調子で説明しつつ、確実に決めた。場の空気は完全にツグミが制していた。あとはジャッジの審判を待つだけだった。
「……わしの負けや。嬢ちゃん、よくやったで」
 岡田が負けを認めた。しかし「お遊戯はもうおしまいですよ」というみたいに笑った。ツグミは肩透かしを食らった気分で、熱くなりすぎていた自分が急に恥ずかしくなってしまった。
 美術鑑定が終わり、緊張した空気はさらさらと溶けて和室特有の和やかさが戻ってきた。女中たちがやってきて、廊下と反対側の障子が全開になった。狭い空間に松の木と庭石を密集させた日本庭園が、夕日の光の中で煌きはじめていた。
「本物は結局、これ1枚だけなんやな。うん、確かに棟方志功や。やっぱり本物は違うなぁ」
 山下老人は棟方志功の版画を手にとって、「うんうん」と何度も頷いた。
「50万円でどうでしょう。真画なんやから嬢ちゃんも文句ないやろう」
 岡田は早くも商売人に戻っていた。山下は「うん、安いね」と満足気だった。贋作が多く、本物が掘り出されても100万円を越える棟方が50万円だから確かに良心的だ。
「山下さん、他の作品はどうですか。《えくらん社》の棟方はさて置き、コピー品も愛嬌があっていいもんですよ。1枚2000円くらいなら妥当なお値段です」
 ツグミは岡田の後を継ぐようにお勧めしてみた。
 しかし山下は、急につまらなそうな目をしてツグミを見た。
「妻鳥さん、それは違うわ。わしは値を張るお宝がほしいんや。それだけしか価値がないんやったら、わし、要らん」
 山下の表情に急に成金特有の卑しさが浮かぶような気がした。ツグミは自分の発言が気まずくなって、うつむき黙ってしまった。

※ 棟方志功 1903~1975年。版画家。荒々しい彫りと極彩色で印象を残す。「わだはゴッホになる」という台詞が有名。


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物語中に登場する美術家、美術作品、美術用語はすべて空想のものです。

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■2015/07/19 (Sun)
第1章 最果ての国
 
前回を読む

 午後になる頃には、戦の後始末が始まった。破壊された家の修繕が進められ、戦死者の遺体が村の裏手に集められる。女たちが怪我人の治療に奔走していた。
 誰もが戦の興奮をまだ体に残していて、疲れも涙も見せなかった。涙を見せるのは、ドルイドが派遣されてからだ――と誰もが胸中に心得ていた。
 村の北側――森の手前であり、主な戦の舞台であるそこで、ネフィリムの黒い血が付いた麦を刈り込む作業が始まっていた。
 石垣に沿うように作られた柵は、無残にも破壊され、麦畑の上に倒れている。ネフィリムの死骸がその中に転がっていた。ネフィリムは血も黒く、死体の周囲は真っ黒に沈み、昼の光に当てても色を浮かべなかった。
 ネフィリムの血の付いた麦は、不浄であるので隔離した穴に入れて焼き払う。村人の死体と一緒に焼くと使者が魂へ行けないと考えられていたし、不浄の血が付いた麦を食べるなど論外であった。
 ミルディも村人らに混じって、この麦を刈り込む仕事を手伝っていた。そうしながら、次々とやって来る仕事に、休みなく指示を与えていた。
 今日の戦は大きなものになってしまった。ネフィリムの襲撃はあらかじめ察知していたが、怪我人は非常に多いし、死者も多く出してしまった。特に戦場となった麦の損害は大きく、畦道にどろりとした黒い血で溢れるほどだった。

ミルディ
「この一帯を刈らねばならぬな。土がこれでは数年芽をつけまい」
村人
「…………」
ミルディ
「大丈夫です。少し毒気に晒されましたが、全てが汚染されたわけではありません。近隣の村に助けを要請して、来年、南側を開墾しましょう」
村人
「それにしても、奴らはいったいどこからやってくるんだ。次から次へと。あの世かからか?」
語り部老人
「わからん。ネフィリムはずっと昔からいる。爺さんの爺さんの代から、ずっと語り物の中に登場して、人間を憎み、危害を加えている。でもそれよりずっとずっと前になると、ネフィリムの話は1つも出てこん。かつて、ネフィリムのいない時代もあったのさ」
ミルディ
「ネフィリムが来たのはずっと南の方です。南からやってきて、この最果ての地に留まった」
村人
「南? 南には何があるんだ」
村人
「ロマリアか? ブリタニアか? ローマか?」
語り部老人
「エルサレムじゃよ」
村人
「あそこは神聖な場所なんだろ。色んな神が祀られているって聞いたぞ」
ミルディ
「そう伝わっています。この世でもっとも血なまぐさい場所だとも。救世主とそれを支持する者達で、何度も虐殺が行われた場所だとも」
村人
「最果ての地の田舎者には、わからん話か……」
語り部老人
「古い語り手ならば、奴らが渡ってきた時の物語を知っていたかもしれない。だが語り手たちは今や絶えようとしている。わしらには何もわからん」
ミルディ
「物語は私たちが引き継ぎますよ。こんな暗い時代でなければ、話のひとつひとつに耳を傾け、余さず記憶します」
語り部老人
「そんな時代が早く巡ってくるといいがな」
村人
「それにしたって、妙だ。奴らは海を越えられないのに、どうしてこの地を見付けられたんだろう。この地でなければならない理由はなんだ?」
ミルディ
「きっと理由があるのですよ。この地ではならない何かが……」
子供
「ミルディ様! ミルディ様!」

 子供が駆け寄ってくる。

ミルディ
「なんですか」
子供
「ドルイド様が来ました。村の外で待っています!」


 村の入口。
 小さな東屋は、古い材木に、粗末な茅葺きの屋根を乗せただけのものだった。村人らがこの東屋を取り巻いて、囁きあったり、拝んだりしている。
 ミルディがやってくると、村人らが道を空けて、東屋まで導いた。
 小さな茅葺き屋根の下に、老人が立っていた。老人はミルディがやってくると、頭を覆っていた頭巾を取り払った。灰色のローブを身にまとい、胸まで白い髭を茂らせた老人だった。
 ドルイド僧だ。ミルディは老ドルイド僧の前に進み出て、まず会釈する。

ミルディ
「よくぞ来てくれました」
老ドルイド僧
「務めを果たしに来ただけじゃ。まずは、村の中にいれてくれるかのぉ」
ミルディ
「どうぞ」

 老ドルイド僧が村の中へ入っていく。ミルディが後に続いた。村人らが少し遠巻きにして、ぞろぞろと老ドルイド僧とミルディの後に従いて行く。
 老ドルイド僧は案内されるまでもなく、戦の中心部へ向かった。足下はどろりとした黒い血に覆われて、刈り取られた麦が灰色の煙を噴き上げている。刈り取り作業をやっていた村人らが、ドルイド僧がやってくるのに気付くと、作業の手を止めて、膝を着いた。
 老ドルイド僧が静かに祝詞を唱え始める。村人らが膝を着き、押し黙った。祝詞の声が、静かに、朗々と村に満ちていく。
 やがて、風の音に嗚咽が混じり始めた。戦の終わりが告げられ、哀しみがじわりと村を覆い始める。村人らは老ドルイド僧の死者を弔う歌声に、静かに耳を傾けた。
 祝詞は始まったときのように、静かに終わった。しばしの沈黙が続く。老ドルイド僧は混沌の中心に向かって、深々と頭を上げた。太陽の煌めきが一層強くなり、戦場を浄化するように辺りを照らした。

老ドルイド僧
「死者に安らかな眠りを。命ある者に再生を」
ミルディ
「ありがとうございます。死んでいった者たちも報われます」
老ドルイド僧
「報われるかどうかは、生き残った者達の今後の働きによって現れる。わしがここにやってきたのは、その生き残った者達を導くためじゃ」
ミルディ
「何か知恵を?」
老ドルイド僧
「この近くにネフィリムの巣穴が発見された。討伐に出られる者は手を貸して欲しい」

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■2015/07/18 (Sat)
第1章 隻脚の美術鑑定士

前回を読む
 JR線に乗って芦屋駅で降り、山手方面へ徒歩十分ほど進む。山下家は豪邸が並ぶ高級住宅地の中でもひと際大きい。瓦屋根を乗せた格子戸の門に、もちろん住宅は純和風の数奇屋造りの屋敷だ。
 ツグミも、最初の頃は緊張したが今はすっかり馴れてしまった。
 インターホンを押すと屋敷の女中が応対してくれた。女中に招かれて屋敷の中へと入っていく。趣のある格子戸を潜ると、旅館かと思うような広い玄関が現れる。右手の大きな下駄箱の上には九谷焼の大皿が色も鮮やかに咲き乱れ、左手の土壁には隙間なく宮本三郎や東郷清児の油絵が飾られていた。
 正直なところ、ツグミは山下家の美術品の飾り方が好きではなかった。数奇屋造りの構造の趣がまるで感じられない。ごてごて飾り立てられた様がいかにも成金趣味的で、息苦しいとすら思った。
 という気持ちを胸の中に隠して、女中の後に従いて行った。長い廊下を通り過ぎ、客間に案内される。
 客間は十畳ほどの広い座敷で、床の間に立派な当世具足が鎮座していた。鎧を取り囲むように掛け軸や焼き物、油絵といった美術品が無節操に並んでいる。畳の上にも美術品が溢れ出し、広間のほとんどの空間を抽象画やブロンズ像や壷といったもので埋め尽くされていた。
 そんなふとするとガラクタの山のような座敷の中に、60過ぎの老人が胡坐をかいて座布団の上に座っていた。当世具足を背にして、和装にちゃんちゃんこ、座布団の傍らに肘掛を置いていた。実に隠居老人というイメージに忠実な格好だった。この老人が山下家の主だ。
 山下の手前左手に、50代くらいの痩せ気味で鼻の先が尖り、いかにも狡猾で意地の悪そうな男が座っていた。画商の岡田だ。岡田の顔を見て、ツグミはひそかに眉をひそめた。
「毎度ありがとうございます。妻鳥画廊のツグミです」
 山下を振り向いて、笑顔と愛敬を振り撒いてお辞儀した。
「うん。よく来たね。今回も、ちょっと頼むよ」
 山下は好々爺の顔を崩し、手招きした。
 ツグミは客間の中に入り、岡田と向き合う格好で置かれている座布団の上にスカートを直しながら座った。左脚は完全に曲がらないから、みっともなくならないように足を左側に投げ出すように姿勢を崩す。
「では、はじめましょうか」
 山下がツグミと岡田を順番に見て改まったように言った。ツグミと岡田は、山下を向いて恭しく頭を下げる。ツグミは試合でも始まるような、軽い緊張を感じた。
「それでは、まず、こちらをご覧あれ」
 岡田は用意していた箱を手前に置き、蓋を開けて中の絵を取り出して見せた。山下老人が「おお」と身を乗り出す。
 六号ほどの小さなキャンバスに、女性の裸が描かれていた。くっきりと縁取られた目元。白く輝くような肌。誰が見ても藤田嗣治(※)の特徴が描かれていた。
「これは見事だ。このモデル、質感……。間違いなく藤田嗣治だ」
 山下は満足したように頷きながら絵をじっくりと覗き込んだ。岡田も機嫌良さそうに頷いて返す。
 しかしツグミは、絵を見た瞬間に鼻白むような気持ちになっていた。
「岡田さん。ちょっと悪いけど、それ、額を外してもらえますか?」
 ツグミは嫌悪を滲ませながら強気に指をさした。
「うん、まあ、ええで」
 岡田は急に歯切れが悪くなった。でも大人しくツグミに従って額を外し始めた。キャンバスから額が外されると、ツグミは奪い取るみたいに絵を手に取り、裏を返した。
「やっぱり。普通の麻やないですか」
 ツグミは非難するようにきっぱりと口にした。岡田が打撃を受けたみたいに顔を顰めた。
「どういう理由か、解説をお願いしたいな」
 山下が楽しげにツグミに訊ねた。ツグミは山下に絵の裏面を向けた。
「藤田嗣治は女性の美しい肌を表現するために、すべてにおいて徹底しました。キャンバスにもこだわり、通常の画布ではなくキメの細かい、シーツに使うような布を使いました。でも、これをご覧なってください。これは普通の麻です」
「ほうほう」
 山下は絵を覗き込みながら、楽しげに頷いた。
 しかし、岡田が「ふん」と鼻を鳴らす。
「だからと言って、藤田が常にそういうキャンバスを使用したとは限らんのとちゃうか? 特に戦争で日本に戻ってからは、物資の不足で、いつでもいい材料が手に入ったとは思えん。画家でも道具に妥協する瞬間はあるやろう」
 岡田はまだ余裕といった様子で反論した。ツグミのほうに傾いていた山下が、今度は岡田のほうに傾いて「うんうん」と頷き始めた。
 でもツグミは、引くつもりも負けるつもりもなかった。
「藤田嗣治は日本に戻った時、すでに有名人で従軍画家として特別待遇を受けられる立場にあったんです。この表現方法を獲得して以後の藤田は、戦時中であれフランス時代であれ、画材に不足するようなことは一度もありませんでした。この絵は、見たところ成功後の藤田嗣治の絵を写し取ったようですが、あまりできはよくないみたいですね」
 ツグミはズバッと反論した。岡田は「うう」と呻き声を上げた。しかし、まだ顔が負けを認めていない。
「でも、だからと言って、これは誰がどう見ても藤田嗣治や。見てください、この肌の質感。藤田以外にこれを描けるものはおらへんで」
 岡田は山下に訴えかけるように言った。
「うむ。確かに藤田嗣治や。間違いない」
 ツグミはキャンバスの表が見えるようにした。山下が岡田のほうに傾きながら、じっとキャンバスを覗き込む。
「これが藤田嗣治ですって? 冗談はいけません。本当の藤田は、キャンバスの上に特殊な調合で作られた下塗りをするんです。キメの細かいキャンバスがあり、特殊な下塗りでキャンバスを固め、その上に薄く絵の具を乗せる。針のように細い線で輪郭線を描く。いくつもの技法を重ねて、あの質感が生まれるんです。贋作作家はどうも下塗りの調合方法を知らんかったようですね。山下さん、よう見てください。この絵の下に塗られているのは何なのか、わかるでしょう」
 ツグミは強気の姿勢を崩さず、山下の前に絵を突きつけた。山下もぐっと身を乗り出した。60過ぎても絵の鑑賞者だ。視力は悪くなかった。
「これは……ニスやな」
 結論を下すように、山下が断言した。
「や、山下さん……」
 岡田が冷や汗を浮かべながら、すがるような目をした。
「岡田さん、これはあかんで。もう偽物にしか見えへんわ」
 山下は岡田を振り向いて、首を横に振った。山下の顔に最初に浮かんだ感動は消えて、もう不信しか残っていなかった。
「そんな……」
 岡田の顔に敗北が浮かんだ。ジャッジが下されたのだ。

※ 藤田嗣治 1886~1968年。油彩画に日本画の技法を取り入れた絵で成功する。白く滑らかな肌が表現された裸婦たちは「乳白色の肌」と賞賛される。

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■2015/07/16 (Thu)
第1章 隻脚の美術鑑定士

 暗い森の奥で、金色の光が射し込んでいた。光はきらきらと周囲に散って、緑の苔に覆われた幹をかすかに浮かび上がらせていた。
 夜の宴は始まっていた。妖精たちが集り、うっとりとした恍惚を浮かべて光の中を漂っていた。
 そこは人の住いから遠く離れた場所だった。人間の言葉も鉄の文明も知らず、草むらには靴の跡もなかった。獣たちは原始の時代から姿を変えず、永遠の神秘の中を今も漂っていた。宴が永遠に続く場所だった。
 突然に、電話が鳴った。
「ヒィ!」
 妻鳥ツグミは思わす声を上げてしまった。ぱたぱたと周囲を見回す。画廊に誰もいないのが幸いだった。ほっと胸に手を当てて溜め息をこぼす。
 夢から突然はっと目覚めた時のように、現実世界を確かめる。学校から帰ってきたばかりで、セーラー服姿のままだった。画廊に置かれた白い円テーブルの椅子に座って、それきり絵の世界に没頭していたのだ。
 電話は事務用品を入れた小さな棚の上で、遠慮なく鳴り続けている。ツグミは夢の中の気分を少し引き摺りつつ、杖を手にして左脚をかばうように立ち上がった。受話器に手を置いて、一度深呼吸をした。
「はい、妻鳥画廊です」
 気持ちをスッと入れ替えて、事務的な声で応対した。
 妻鳥画廊。兵庫区の古い趣を残す街並みに、ひっそりたたずむ画廊だ。それなりに歴史なり由緒なりのある場所だったが、今は訪ねる人もほとんどいない。展示している絵も僅かに数点だけだった。
「芦屋の山下ですぅ。美術鑑定を依頼したいんですけどぉ」
 おっとりと間延びするような感じの女性の声が聞こえた。言葉は丁寧だけど、神戸訛だ。
 ああ、山下さん……。芦屋の高級住宅街に住んでいる美術好き。電話してきたのは常駐の女中で、ツグミにとって馴染みのある声に喋り方だった。
「わかりました。30分ほどでそちらに行きますとお伝えください」
 ツグミはいつものフレーズを口にしつつ、壁の時計に目を向けた。3時半を少し過ぎた頃だった。芦屋に到着する頃には4時頃だろう、と簡単に計算した。
 女中は「はい、おまちしておりますぅ」とおっとりした調子で言い、丁寧に電話を切った。
 ツグミも受話器を置いた。椅子に掛けてあった丈の長いトレンチコートを羽織って、襟元に入った髪をすくい上げた。忘れものはないかな、とちょっと自分の体を見て確かめた。大丈夫そうだ。
 照明を落とし、「Closure」と書かれた緑の暖簾を入口のガラス扉に掛ける。ガラス扉全体が隠れる、大きな暖簾だ。
 出発の前に一度画廊の中を振り返った。誰もいない6畳ほどの小さな空間。暗くなりかける光に、壁の白が淡く浮かんでいた。画廊には接客用の円テーブルと、簡単な事務用品を入れた棚が置かれているだけだった。
 静かで誰もいない画廊。壁に掛けた絵が、ささやかな存在感を放っていた。まるで目を離した隙に動き始めるような、そんな生命感が絵に宿っているように思えた。
「行って来ます」
 ツグミは壁に掛けられた絵に挨拶をして、そっとドアを閉めた。

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