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■2015/08/10 (Mon)
創作小説■
第2章 聖なる乙女
前回を読む
4
2人が森を抜けると、ちょうど雨が止んだ。雲が散り始め、草原に明るい光が落ちていた。湿った冷たい空気が、ざわざわと辺りを巡っている。若者は頭巾を取り払い、草原に出ようとした。しかし少女はその場に留まり、空の一点を見詰める。
少女
「いけない。取りかえっ子だわ」
若者も顔を上げる。空はまだらな雲が漂うばかりで、少女が言うようなあやかしは見当たらない。
しかし不思議なことにどこからか馬がいななく声が聞こえ、蹄が大地を叩く音が轟いていた。辺りを見回しても、人家どころか野生の馬の姿も見えない。
×××
「取りかえっ子?」
少女
「ご存知ありませんか? 子供を連れさらう悪い妖精です。――ほら、あそこ。あの不自然な雲の動き」
少女は雲の1つを指差す。すると確かにその雲は、周囲の風と逆方向に進んでいた。あのいななきと蹄の音も、あの雲から漏れ聞こえていた。子供が泣き叫ぶ声もそこに混じっていのに気付いた。
少女
「行きましょう。追いかけます!」
×××
「え?」
少女
「早く! 男手も必要です。子供が連れさらわれてしまいます!」
少女は言い終わるより先に、走り始めていた。若者もその後を追って走る。
空を漂う雲は、意外なくらい早かった。ゆるりと漂う雲に紛れながら、しかし明らかにそれとは違う速度で進んでいく。
2人は全速力で雲を追跡した。草原に落ちる、雲の影を追って走った。
時々、若者は少女を気遣った。まだ成熟しきっていない身体は、どこまで耐えうるだろう、と。しかし少女は華奢な身体でありながら思いがけないほどの俊足で、若者が全力で走る横を1歩も遅れずに走った。息を切らしてつらそうな顔をしていても、勢いと速度は落とさず、芯の強い気丈さを存分に発揮していた。
それに、少女の走る姿は美しかった。フードが弾けて長い金髪が風の中になびく。どの瞬間も、少女は草原に満たされた美の中心であった。
雲を追いながら、丘を1つ2つ乗り越えると、雲は次第に高度を落とし、やがて丘の斜面にぶつかって消滅した。その代わりに、とんがり耳の小人達が現れた。妖精達だ。妖精達は泣きじゃくる子供を2人がかりで抱え、草むらを突っ切り、ニワトコの陰の向こう、谷間へと消えていった。
妖精達が谷間へと消えていくと、若者と少女は草むらに身を潜めつつ、妖精の行く先を探った。妖精は雲ほどの俊足ではないし、見失っても子供の泣き声が辺りに木霊しているので、追跡は容易だった。
妖精はやがて谷の奥の奥へ、ごつごつとした岩が剥き出しになり、不穏な風鳴りが漂う場所へと入っていった。さらにその向こうの、両側に絶壁のせめぎ合う深い窪地に入っていくと、小さな横穴が現れた。
少女
「シュルアです。フェアリッシュのねぐらでしょう」
シュルアとは、こういった場所を漂う風の名前である。この辺りの風はひどく冷たく、入り組んだ場所を抜けるうちに、亡霊の唸りのような声となって辺りを満たしていた。
少女は妖精のねぐらの前へとやって来ると、先頭に立って入ろうとした。
×××
「待ってください。少し休みましょう」
少女
「いいえ。平気です。子供が心配です」
少女は息をぜいぜいと喘がせながら、しかしその瞳は曇らず、むしろ決意が満ちて美しく輝いていた。
若者はかすかに苦笑いを浮かべる。
×××
「わかりました。しかし私が先頭に立ちます」
少女
「はい」
※ フェアリッシュ 「妖精群」という意味。マン島の伝承では、風の妖精で、人をさらうこともあるとされている。
次回を読む
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■2015/08/09 (Sun)
創作小説■
第2章 贋作疑惑
前回を読む
2
ヒナと合流した後、旅行ターミナル2階にある《町屋小路》に向った。《町屋小路》は外国人旅行者向けに作られた、「いかにも趣のある日本の商店街」風の一画だが、現実にそういう風景が失われつつある今、日本人にとっても郷愁を誘う場所だった。
ヒナは食堂に入って行くと、メニューも見ずにハンバーグ定食を注文した。
「あれから何も食べへんかったんや。だから頭ん中ずっとハンバーグがぐるぐるしててな。到着したらとにかく食うぞーって思って」
ヒナは聞かれもしないのに楽しげに説明を始めた。ツグミとコルリは共にサンドイッチにした。
「それでヒナお姉ちゃん、このまま家に帰れるん?」
ウエイトレスが注文を聞いて去って行くと、ツグミが懸念を抱きながら訊ねた。
ヒナは長旅の疲れか、ふうっと息を吐き、背もたれに体を預けた。
「うん、そのつもりやったんやけどな。あの後また電話があって、これから美術館に戻ることになったんや。夜にはまあ、戻れるけど、寝に戻るだけや。明日の朝にはまた、飛行機や」
ヒナは化粧の下に疲労を浮かべ、それでもなんでもないみたいに微笑み、ちょっと背伸びをして体をほぐすようにした。飛行機の中で眠らなかったのだろうか、とツグミは心配になった。
食堂は《町屋小路》の雰囲気に合わせて、昔の食堂風に作られていた。レイアウト自体は普通のレストランだけど、壁や柱が年代がかった木造になっていた。テーブルの天板は木目調で、座席は畳だった。昔の料理屋風のひらひらのついた白いエプロンを着けたウエイトレスが、暇をもてあまして談笑をしていた。昼にはまだ早い時間だから、店内は人が少なかった。
「じゃあ、休みなし? そんなに人手がないん?」
コルリが同情と抗議の声を上げた。
「まあ、他人任せにはできへん仕事やからな。私が頑張らなきゃ、皆に迷惑かかるわ」
ヒナは大した苦労でないみたいに、テーブルに肘をついてコルリに微笑みかけた。
「ヒナお姉ちゃん、フランス、どうやった? 美術館とか行った?」
話が暗い方向に行きかけるのを察して、ツグミは別の話題に変えようとした。
「そうやね。今回はバルビゾンにあるお屋敷に行ってきたんや。見渡す限り、牧場も農場もみーんなそこの主の土地、っていうところで、美術館並みのコレクションを持っとったな。先祖はグランドマスターと呼ばれる画家のパトロンやっとった、ていう話しやから、なかなかお目にかかれない名画で一杯やったわ」
ヒナも気分を改めて、遠い国の御伽噺でも聞かせる調子になった。
ツグミとコルリは「へえ」と溜め息を漏らし、顔を輝かせた。
「じゃあ、ミレーの絵とかもあったん?」
コルリが続きをせがむ子供みたいに尋ねた。
「うん、一杯あったで。コローやクールベ、シャルル・ジャックにディアス、フェルディナン・シェニョー……。一番いい時代の絵がずらっと並んでたなぁ。見事なハウス・ミュージアムやったわ」
ヒナは指を折りながら画家の名前を挙げて、それから思い出したように頬をうっとりとさせた。
「いいなぁ、私も見に行きたい」
ツグミもヒナの表情に釣られるように恍惚とした気分になってしまった。頭の中で、美術館にも図録にも載せられていない、まだ見ぬ絵画を空想した。
「それで、どんな仕事やったの? 仕事の話を聞かせて」
コルリも興奮したように身を乗り出した。
「そうやね。屋敷の主と夜空を眺めながら、ワインを片手に愛について語るんや。一番のドレスを着て、相手の目をじっと見詰めて、言葉と言葉の駆け引きや。静かで情熱的に誘いかけるけど、軽い女と思われないように、知的な言葉で引き寄せたり突き放したりをしながら、夜のひとときを過ごすんや」
ヒナは水を入れたコップをワイングラス風に持ち、ちょっと大人の雰囲気を作りながら語った。
しかし、ツグミの頭の上に「?」が浮かんだ。
「ヒナお姉ちゃん、それが仕事なん?」
ツグミはきょとんとして訊ねた。ヒナは頬杖をして、ツグミに顔を寄せて意味ありげな微笑みを浮かべた。
「うん、そうやで」
次回を読む
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※ 物語中に登場する美術家、美術作品、美術用語はすべて空想のものです。
■2015/08/08 (Sat)
創作小説■
第2章 聖なる乙女
前回を読む
3
若者は村を出ると、北西に進路を定めて進んだ。しばらく森を横切る小道を進んでいく。森は明るく、下草には可憐な花がぽつぽつと顔を見せ、鳥や虫の声が賑やかに満たしていた。
そんな森を半日で通り過ぎていくと、今度は広い野に出た。草原は明るい太陽の光を浴びて、穏やかな風にゆるやかな波を立てていた。
やがて日が暮れ始める。草の先に夕日の輝きを宿す。若者は西の彼方に沈む夕日を、静かに眺めた。1日目の終わりは、ナナカマドの足下で過ごした。
その後も旅は続いた……。
人が作った道は途切れてしまったが、若者は迷いなく北へと道を進めていく。どこまでも続く平原には魔の気配はなく、穏やかな風が常に巡り吹いていた。草原の草は夜明けには露を浮かべ、夕日には黄昏の光を浮かべた。
3日目の午後。空がにわかに黒い影を浮かばせ、湿り気を帯びた風が背後から迫ってくる。積乱雲が落雷の音を轟かせ始めた。雨が近いらしい。
若者は雨宿りできる場所はないかと周囲を見回した。右手に背の高い丘が立ち塞がっていた。その向こうに森が見えるが、森は異様に深く、不穏な影を漂わせている。あの森には入るべきではない。
暗さが増す前に、早く通り抜けるべきだろう。
間もなく雨粒が若者の背中を叩いた。風がざぁとさざめき始める。雷鳴が近くで轟いた。雨雲に捉えられてしまった。
その時だ。背後で獣の唸る声がした。邪悪な黒さを混じえたその叫びは、はっきりと若者に向けられ、捉えていた。
若者が振り返る。丘の先端、切り立った斜面のところにネフィリムが1匹立っていた。その姿はまだ遠く、小さな点だった。
今なら走って逃げられる。
若者はそう判断して走った。森からネフィリムが次々と飛び出してきた。不快な唸り声が幾重にも重なる。若者は振り返らず走った。
雨が次第に激しさを増していく。落雷が近くで落ちた。雨が礫となって若者に飛びかかってくる。
若者は、近くの森に飛び込んだ。清らかな明るい森だ。だがネフィリムも後を追いかけてきた。若者は全力で走ったが、ネフィリムはさらに俊足だった。森の只中、開けた場所に入ったところで追いつかれてしまった。
若者はただちに判断を変えて、荷物を捨てて剣を抜いた。ネフィリムが飛びかかってきた。刃こぼれした山刀を振り上げる。若者は刃をかわして、打ち返した。さらに斬りかかる。黒い血がぱっと飛び散った。
だがネフィリムの徒党に恐れは現れない。むしろ闘争心を燃やし、飛び交う血に興奮したように唸り声を上げる。
ネフィリムたちが次々と襲いかかった。刃で、爪で、若者に斬りかかる。若者も攻撃した。ネフィリムたちを1匹、2匹と斬り伏せる。だが次第に劣勢になり、少しずつその身が刻まれていく。
ついに若者が膝を着いた。ネフィリムが歓喜の叫びを上げて、若者を追い詰める。若者は闘士を失わず、膝を着いたままの体勢で剣をネフィリムに向けた。
その時――、
少女の声
「伏せて!」
歌うような声が辺りに木霊した。怪物たちがそのあまりの清らかな声に動揺を浮かべる。
若者は草むらに飛び込んだ。
間一髪。電撃が広場を駆け抜けた。ネフィリムたちは一瞬にして高温高熱で焼かれ、その手から武器がこぼれた。広場に獣たちの悲鳴が交差した。
若者は再び飛び出した。電光石火で剣を走らせる。2匹のネフィリムの腕を落とし、次の1匹の首を落とした。最後の1匹には胸に深く剣を突き刺した。
戦いは終わった。広場は一転して静寂に包まれた。美しい広場に似つかわしくない醜悪な死体が転がっていた。真っ黒な血が草花を穢している。だが、雲の間から射し込んだ光が、穢れを浄化するようだった。急な雨は、降り出した時のように勢いを失い、今や緩やかな雨粒に変わっている。風が広場に清涼な空気を取り戻すようだった。
若者は剣に付いた血を払うと、鞘に収める。戦いの興奮が、まだ胸に留まっていた。不意に緊張が解けて、膝を着いた。負傷は思いのほか重かった。
森の奥から、歌声が聞こえてきた。歌声は美しく、優しく、若者に不思議な安堵を与え、活力を取り戻させた。
やがて体力を取り戻した若者は、森の中へと入っていく。歌声はずっと続いていた。まるで子守歌のように優しく、聖女のように清く、歌声は若者の心と体に癒やしを与え、その内にも体の怪我すら忘れさせてしまった。
目の前の茂みを越えると、大木が森の只中に横たわっていた。その上に、深い緑のフードを被った女が背中を向けて、座っていた。
歌声がやんだ。
×××
「助かりました」
女がフードを外すと、大木のこちら側へぴょんと飛び降りた。
少女だった。
少女
「いいえ、危ないところでしたね」
×××
「…………」
少女
「どうなさいました?」
×××
「バン・シーと思ったものですから」
そこに現れたのはうら若き乙女であった。その容姿はあどけなさをくっきりと残し、肌は雪のように白く、鮮やかな金髪がくっきりと映えるようだった。少し雨に濡れて、金髪が白い肌に貼り付いていた。
少女は、あたかも不浄を知らず、一切の汚れを受け付けない……そんな清らかさを感じさせるもがあった。
その少女が、いかにも年頃の娘らしく微笑みを浮かべた。
少女
「構いませんよ。バン・シーとお呼びください。エルフと呼ぶならば、道に迷わせていたところです。人は呼ばれた通りのものですから」
×××
「ならば、天使とお呼びしましょう」
少女
「よろしいのですか。冥界に連れて行ってしまいますよ」
×××
「それはいけない」
少女がころころと笑う。
しかしお世辞ではなく美しい少女だった。その容姿といい、身にまとう穏やかと格調高き品性といい、天使の名前であればこそ相応しいと感じた。
少女
「あなたの名前をお聞かせください」
×××
「申し訳ない。実は名前を魔物に奪われ、名乗るべき名がないのです」
少女
「それは確かですか」
×××
「偽りありません。そのために、大パンテオンに向かうところでした」
少女
「……少し顔を……」
少女は若者に近付き、その顔をじっと眺めた。
それから、少し思案するようにうつむく。
少女
「これは……」
×××
「なにか?」
少女
「事情はわかりました。旅を急いだほうがいいでしょう。大パンテオンへは、私が案内します」
×××
「感謝します。あなたの名前は? ぜひ心に留めておきたい」
少女
「今は名乗らないでおきましょう。不公平ですものね」
と少女は悪戯っ子のように微笑んだ。
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■2015/08/07 (Fri)
創作小説■
第2章 贋作疑惑
前回を読む
1
関空国際空港。朝9時。休日でしかもまだ早い時間だけど、到着広場から人の姿が絶えない。数十分おきにアナウンスが飛行機の到着を告げ、その度にゲート前は人で溢れかえる。仕事帰りの者、旅行帰りの者、それを出迎える人達とで、悲喜交々が繰り返された。
ツグミとコルリは、到着ゲートが目の前に見えるスターバックスでコーヒーを啜っていた。待ち合わせ客にコーヒーを売るのを目的とした廉価コーヒーの店は、昼時でもないのに人で一杯だった。ツグミとコルリは、ガラス張りを前にしたカウンター席に座って、ゲートを眺めていた。
「ヒナお姉ちゃん、遅いね……」
ツグミはカウンターに突っ伏して、ぼんやりとゲートを見ていた。傍らの紙パックはもう空だった。
ツグミの格好はグレーのタートルネックセーターに短いプリーツスカート、いつものトレンチコートを羽織っていた。オシャレとは程遠い格好だった。
「そうやね……」
コルリは何となく上の空の声だった。ツグミが振り向くと、コルリがEOSのレンズをじっとツグミに向けていた。ツグミが振り向いたところで、パチッと撮影する。
「もう、ルリお姉ちゃん……」
ツグミは眉をひそめて、嗜めるように言った。コルリはディスプレイの画像を見て満足そうに微笑むと、EOSをウエストポーチにしまった。
コルリはグレーのパーカーに下はジーンズを穿いていた。傍らのコーヒーはまだ残っていたけど、もう冷たくなっているようだ。あまりにも年頃の女の子らしからぬ格好だが、不思議とツグミよりきちんとオシャレしているように見えた。
カメラをしまうと、コルリはぼんやりするみたいに、到着ゲート全体の外観に目を向けた。ツグミはコルリから壁に掛けられている時計に目を移した。空港に到着してから30分が過ぎている。カウンター席の周囲は常に人で一杯だったけど、すでに3度も人が入れ替わっている。何となく、取り残されている気分だった。
そんな時、アナウンスが響いた。
「……只今、パリ発、エールフランス便が国際線南ゲートに到着。ご搭乗になる方は……」
到着広場の頭上に設置される、巨大モニター《ウェルカム・ゲート》に「ようこそ」の文字が浮かび、フランス語の案内がそれに続いた。
ツグミがあっと顔を上げて、ゲートに目を向けた。杖を手にして、席を立つ準備をする。
「待った。もうちょいや。検疫とか税関とか、色々あるやろ。もうちょっと座っとき」
コルリがツグミを留めるようにして、じっとゲートに目を凝らしていた。
間もなくゲートから人が溢れ出た。仕事帰りのビジネスマンや、フランス人旅行者といった人達だった。
ヒナはどこだろう。ツグミとコルリは、流れ行く1人1人を目で追った。
すると、長身のフランス人に混じって、すらりと背の高い女が現れた。
背に流れる長い黒髪。鼻が低く、幼い印象だが、完璧に整った目鼻立ち。飾りすぎない薄めのメイク。フランス人と並んでも違和感のない長身に、脚の長さを強調するようなブラックのストレート・パンツ。
格好は白のブラウスにトレンチコートを羽織、大きめの旅行鞄を襷に掛けていた。わかりやすいキャリアウーマン・スタイルだが、美しさは群集の中にあって、むしろ際立っていた。広場に出てきただけで、少なくとも10人の男女が振り向き、溜め息を漏らすのが見えた。
ヒナだ。ヒナは広場の中央辺りで足を止めて、所在なげに辺りをきょろきょろと見回した。
「来た来た! ヒナ姉!」
コルリがカウンター席から立ち上がり、正面のガラス窓を叩いた。
ヒナが気付いて、こちらを振り返った。コルリが大きく手を振った。ツグミは周りの目が気になって、おろおろと店内を見回してしまった。
ヒナがコルリに手を振って返した。美しい顔に、何ともいえない母性を湛えた笑顔が宿る。ツグミも溜め息を漏らしたくなるくらい魅力的な微笑みだった。
次回を読む
目次
※ 物語中に登場する美術家、美術作品、美術用語はすべて空想のものです。
■2015/08/06 (Thu)
創作小説■
第2章 聖なる乙女
前回を読む
2
翌日の朝。若者は荷物を背負い、族長の屋敷を後にする。親族だった者達が見送りに出てきた。
空が厚く雲で覆われ、村は沈んだ灰色に包まれていた。前夜の雨で、道は泥のようにぬかるみ、水溜まりがいくつも残っていた。
若者は、村の斜面をゆっくりと降りていく。村人らと何度もすれ違った。村人らはみんな黒い頭巾を被り、死者を見送るような悲しみを湛えて、若者に会釈した。若者も、そんな彼らの1人1人に会釈しながら、道を進んだ。
村を外れたところで道を曲がり、先祖の墓があるところを目指した。明るい光が射し込む木立を通り抜けると、立派に装飾された墓標がいくつも現れた。その中に、老女が1人佇んでいる。
×××
「ここでしたか」
ミルディの母
「来ると思っていました」
×××
「あなたの予感はいつも的中します。私は忠告を軽んじました」
ミルディの母
「いいえ。私が感じた予感は、ずっと遠いものです。まだ終わっていません。むしろ、本当の暗闇はこれから始まります。今までより、ずっと恐ろしく途方のないものが待ち受けているでしょう」
×××
「あまり遠すぎる未来に望みは託せません。人はいつか死んでしまいますから。せめて、手の届く範囲で、幸福を望んでください」
ミルディの母
「いいえ、これはきっと運命なのでしょう。あなた1人だけではありません。多くの者が災いに巻き込まれます。それが運命というのなら、もっと以前から始まっていたのかも知れません」
×××
「母上。いったい何の話ですか」
ミルディの母
「名前を取り戻したら、必ず村に戻ってください。明かす話があります」
×××
「……わかりました」
ミルディの母
「まだあの人を想っている?」
母が、目の前の墓標を示した。
×××
「――ええ。美しく、聡明な人でした」
ミルディの母
「死んでいく人は想いばかり残していくわ。残された人に悲しみだけを与えて……」
×××
「旅が終われば、必ず戻ります」
ミルディの母
「待っています。……ミルディ」
次回を読む
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