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■2015/08/20 (Thu)
創作小説■
第2章 聖なる乙女
前回を読む
9
若者は少女としばし別れて、身を清め、服を改めた。大パンテオンの印が入った上着を授けられた。それから食事を摂り、ふわさしい装束を身にまとった上で、僧に導かれて、指定された場所に入った。
そこは絶壁に接した、細い小道の向こうに置かれた小さな空間だった。僅かに木々が後退し、草むらの上に石柱のモニュメントが円形に配されていた。ブルーストーンである。それはパンテオンでももっとも原初的な儀式の空間であった。
石柱のサークルの中に、少女がすでに巫女達を従えて待ち受けた。雅やかな衣で儀式の場にいる彼女は、あの穏やかさは残していたものの、それ以上に神々しいの神聖さを湛えさせていた。
神が宿る神秘的な姿に、若者は3日間旅を共にしていた若い娘であることをしばし忘れ、自然と神聖さにうたれ、尊敬を抱き、その前に進んで膝を着いた。
儀式が始まった。
少女の祝詞が始まる。大地の精霊のひとつひとつに呼びかけ、祝福を約束し、ルーンの呪文がそれに続いた。サークルの中に張り裂けそうな緊張が包み込み、何もかもが、人ばかりではなく草木もが儀式の神聖さに飲み込まれるように静まり返る。若者は、自身の肉体から魂が分離し、精神と共に高みへと掬い上げられるのを感じた。
少女は手に杖を持ち、それを高く振り上げて、若者の肩を叩く。巫女達が魔除けの酒を辺りに振りまいた。
サークルの中にルーンが浮かび、若者を中心に光のリングがぐるぐると回転した。やがて、ルーンは少女の指先に操られるように秩序を持ち、いくつかの言葉がすくい上げられた。
少女
「これは古い言葉です。あなたの魂の最も深いところで眠り、忘れられていた……いわば生まれながらに持つべき本当の名前です」
少女の掌のルーンが、若者の額に移り、その中に吸い込まれるように消えた。
少女
「“オーク”。それがあなたの新しい名前です。この名に精霊の祝福がありますように」
“オーク”。
新たな名前に若者は――オークは深く頭を下げて、美しき神官に感謝を示した。
それで儀式はおしまいだった。
少女
「さあ、頭を上げて。“ソフィー”と申します。よろしくね」
少女の微笑に神々しさは去って、いつものぬくもりが戻っていた。
次回を読む
目次
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■2015/08/19 (Wed)
創作小説■
第2章 贋作疑惑
前回を読む
7
突然に、契約書が手から離れた。ツグミははっと振り返った。いつの間にそこにいたのか、コルリが背後に立っていた。コルリに契約書を奪われたのだ。「駄目! 駄目! 駄目! 返して!」
ツグミはわたわたと手を伸ばした。でもコルリは、ツグミの手を鮮やかにかわしつつ、器用に契約書の文字を見詰めた。
それから、
「ツグミ! ちょっと待った!」
コルリは急に声を上げて、ツグミに掌を突き出した。
「……何?」
ツグミはびっくりして動きを止め、目の前に突き出された掌を見詰めた。
「これはあかんわ。絶対に繋がらへんで」
コルリは手を引っ込め、今度は契約書をツグミの前に突き付けた。
「どういうこと?」
ツグミはぽかんと訊ね返してしまった。頭の中が混乱状態で、コルリが言わんとする意図が理解できなかった。
「川村さんって、垂水区の人やろ?」
コルリが確認するように訊ねる。ツグミは戸惑いに捉われながら頷いた。
「うん、そうやけど……」
「じゃあ、市外局番は078になるはずやで。垂水区の市内局番は、確か20から99だったはずだから……。この番号じゃあ、どこにも繋がらへんわ」
コルリはちょっと契約書を自分の手許に戻し、確かめるようにすると、再びツグミの前に差し出した。
「そうなん!」
ツグミはびっくりして、契約書を手に取り、そこに書かれている数字に目を凝らした。
「ウチも078やん」
コルリはさも当り前みたいな口ぶりだった。
ツグミはどーっと肩から力が抜けてしまった。気持ちの中では、膝を着いて倒れているところだった。
川村さん、どうして嘘の電話番号を書いたんやろう……。
「じゃあ、この住所は?」
ツグミはコルリに契約書を向け、住所を指差した。ショックで自分でもわかるくらい声が弱くなっていた。
「どうやろ。ありそうな気はするけど……。行ってみんことにはな……」
コルリは住所を覗き込みながら、確信が持てない様子で顎に指を当てた。
ツグミは重く溜め息を吐きながら、契約書に目を落とした。急に川村が遠い存在に感じてしまった。ずっと身近にいて、生々しく感じていた川村が、手の届かないどこかに消えてしまった気がした。
コルリは、何か考えるふうに「う~ん」と唸っていた。
「なあツグミ。川村さんのところ、行ってみようか」
ぽつりと、何気ない一言を口にするようだった。
ツグミはえっと顔を上げた。
「いい。いい。だって、そんな迷惑やん」
ツグミは精一杯、手と頭を左右に振った。
コルリは、突然ツグミの肩をがっちり掴んだ。じっと目を覗き込んでくる。
いつになく真剣な顔だった。ツグミはちょっと怖く思って、肩を小さくすぼめた。
「ツグミ、いいか? 私はツグミの味方やで。ツグミのこと、からかったり、誰かに言ったりとかもせえへんから、本当のこと言うんやで。……川村さんのこと、好きなんやろ」
コルリは慎重に切り出し、「川村さんのこと」を聞くとき、一拍だけ間を置いた。
「……え、それは……」
ツグミは困惑して目を下に落としてしまった。
体の奥が、かぁと熱くなるのを感じた。胸の中で、何かが弾ける感じだった。
そんなふうに考えなかったわけではない。しかし面と向って言葉にされると、思考も体も壊れたようになって、ただただ苦しくて泣き出したいような気持ちになってしまった。
「……わからへん。なんか、苦しい……」
泣いてしまった。言葉が掠れて、涙が溢れた。
「ごめん、ごめん。私、無理強いしたな。本当、ごめん」
コルリはツグミを抱き寄せ、宥めるように頭と背中を撫でた。ツグミはひっひっとしゃくりあげて、コルリの肩を涙と鼻水で濡らした。
コルリが優しくしてくれたおかげで、間もなく気持ちが落ち着いてきた。ツグミはコルリから離れ、濡れた頬と鼻の下を手で拭った。鼻につんとする痛みだけが残った。
「よし。じゃあ、とりあえず川村さんの家に行ってみようか。契約書の不備。会う動機はできたやろ?」
コルリはツグミから契約書を手に取り、提案した。ツグミは「うん」と掠れかけた声で頷いた。
さっそくコルリは、画廊の入口に向って歩き始めた。しかしツグミは、あっと思い出すことがあってコルリの手を掴んで引き止めた。
「あの、ルリお姉ちゃん。いつから画廊におったん?」
ツグミは訊ねながら、恥ずかしくなって目を逸らした。ひょっとして、見られちゃったのだろうか。あれを、全部。
「えーっと、ツグミが3回目に受話器を取った時……かな」
コルリはちょっと宙を見上げて、考えるふうにした。
ツグミはほっと胸に手を当てた。
「よかった……。うん?」
「よーし、行こう!」
するとコルリが、ツグミの背中に手を回し強引に進ませた。ツグミは考えを中断して、コルリに従って歩きはじめた。
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目次
※ 物語中に登場する美術家、美術作品、美術用語はすべて空想のものです。
■2015/08/18 (Tue)
創作小説■
第2章 聖なる乙女
前回を読む
8
2日後、若者と少女は賑やかな街道沿いの界隈に入っていった。宿場は南北の交通を結び、旅人や商人の往来が絶えず、商業的な交流地点として大いに賑わっていた。街の通りは人でごった返し、食べ物や土産物、美術品、武具……なんでも揃っていた。この辺りでは、地方ではほとんど流通していない通貨も当たり前にやりとりされていた。
北へ進むと王城へと繋がっている。王国北部へと繋がる、重要な中継地点になっていた。
そこまでやってくると、パンテオンはそのすぐ向こうだった。家並みの向こうに霊妙なる山脈の麓が見えた。あれこそ、この王国でもっとも大きなパンテオンが置かれる場所である。
少女も慣れた様子で、信心深い商人達の挨拶に丁寧に応じつつ、雑踏をするするとすり抜けてパンテオンに向かう道を進んだ。少女はこの辺りではそれなりに知られた存在のようだ。
賑やかな市場を通り抜けると、辺りの騒々しさは潮を引くように去って行き、人家もまばらで、パンテオンに近付くにつれて厳粛な空気へと入れ替わっていくのをひしひしと感じられた。
参道は最低限以上の人の手は加えられず、ほとんどが自然のままで、古い時代の石のモニュメントが点々と配置されていた。
少女
「随分、遠回りしましたね。お体は大丈夫ですか?」
×××
「まだ何も。僧侶のまじないが効いたのでしょう」
少女
「それはよかった。大パンテオンにお越しになられたのは初めてですか」
×××
「一度結婚の儀の時に訪ねて、洗礼を受けました」
少女
「結婚……していらしたの?」
×××
「はい。しかし4年前の戦で亡くなりました」
少女
「そうでしたか……。すみません」
×××
「いいえ」
少女
「それでは大パンテオンは不案内ですね。私に案内をさせてください。――パンテオンは、私たちケルトの宗教的祭事を担う場所で、大パンテオンはその総本山となる場所になります。ケルト宗教の中心地……ですから聖地ですね。パンテオンでは冠婚葬祭はもちろんですが、教育や医術、それに裁判も請け負っています。古くはここで神官らの手によって、神との対話が持たれ、政も行われていました。ですが、政治は司法の大部分とともに、国と分離しています。祭事の進行と主導権は今でもドルイドが一手に引き受け、日々の精神の鍛錬とともに、あらゆる口述、祝詞、記録を取得するために、修行僧は師と1対1となり、口伝とそのすべてを継承します」
×××
「私も寺院に通って、言葉を教わりました」
少女
「ならば、ドルイドの教えが身についているはずだわ」
×××
「ドルイドには教典や書物の類がないと聞きます」
少女
「はい。ドルイドは文字を使いません。しかしだからといって教えがないというわけではなく、全てが口伝で伝承します。文字は長く残せますが、読まない人が現れますし、言葉の変節で文字のほうが古くなり、読めなくなってしまうことがあります。口伝のほうが長く生き、ひとつの伝承を正確に残していけるのです。先程、文字は使用しないと説明しましたが、まったく使用されないというわけではなく、必要な時にルーンが使われます。ルーンは文字への置き換えができない言語で、我々が感知し得ない神秘の力で万物に働きかけます。ただ、ルーンを習得するのは、どんな国の言語を学ぶよりも難しく、だからドルイドは厳しい修行を通して一生をかけて習得する必要があります」
山脈の麓にやって来ると、ぽつぽつと神社が現れ、修行中の僧侶や巡礼の旅人たちが行き交う姿が見られた。大パンテオンの入口である。
入口にはロイヤル・オークの大木が頭上を覆い、それが門のようになって訪れる者はその下をくぐらなければならなかった。
大パンテオンの敷地に入ると、山の斜面に沿って長い長い石階段が作られているのが見えた。その要所要所となる場所に、森の景色を侵害しないように社がいくつも作られていた。
日々の務めに従事する僧侶や巫女が、旅人を連れた少女を見ると、畏まって頭を下げる。
ここでは何もかもが厳粛さに包まれ、自然と訪ねる者の居住まいを正させる何かがあった。しかしそれでいて、空気は清浄で、体も心も清められるような穏やかさがあった。木の枝の先、密やかに巡る風にも、精霊や神が宿るのを感じた。霊感のない人間であっても、ここに来れば神の御座す場所であると確信できるものがあるように思えた。
そんな山の石段をしばし登っていくと、少女は老僧侶を見付けて駆け寄った。
少女
「老師様。私の師ですの。老師様、ただいま戻りました」
少女は老師の前に膝を着いて挨拶をする。
若者の目にも、その老師の物腰や気風の中に只者ではないものが感じられ、できる限りの丁寧な挨拶をした。
かの老人こそ、この寺院の、ひいては全ドルイドを束ねる最高指揮者のドルイドであった。
老師
「ふむ。巡礼の旅はどうであったかな」
少女
「滞りなく済みました。ただ、風は穏やかではなく、土地土地の地霊は何かに怯えるように健やかではありません。まるで嵐の前の静けさのよう。語りかけるものは言葉を失っておりました」
老師
「そうか。時代の混乱は人の手が届くうちに何とかしたいものだが……しかし神の意志には逆らえん。――それで、そちらの人は」
少女
「私の友人です。旅の最中に出会った、心許せる人です。――実はあの人のことでお願いがあるのですが……」
老師
「何かね」
少女
「かの者は、訳あって名前を失っておられるのです。もし支障がなければ、場所を与えてくれませんか。儀式を執り行い、相応しい名前を与えたいと思うのですが……」
老師
「……ほう。その若者が、新しい名前を?」
少女
「お願いです」
少女は老師だけに聞こえる声で言った。
老師
「……ふむ。ならば3時に13番目の宮が開くから、そこを使いなさい」
少女
「ありがとうございます」
少女と若者が偉大なる老師に頭を下げた。
老師
「まずは2人とも身を清めなさい。長旅で疲れたでしょう。食事を用意させましょう。ゆるりと休んで、疲れを癒やすといいでしょう」
※ ケルトの名前が使われていますが、実際のケルトとは無関係です。この物語はあくまでもファンタジーです。
次回を読む
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■2015/08/17 (Mon)
創作小説■
第2章 贋作疑惑
前回を読む
6
ガラス戸の外で、風が重く流れていった。その音を聞いているだけで、身が凍えるように思えた。ツグミは何となくイーゼルに掛けられた絵画に目を向けた。川村の絵は、あれからずっとイーゼルに掛けられたままだった。そういえば、まだ絵のタイトルと値段を決めていなかった。
ツグミは体を折り曲げ、膝に両肘を突いて頬杖をつき、絵をじっと見詰めた。
素晴らしい絵だった。実直にして古典的。今の人には古くさく映るかも知れないが、ツグミはこの絵が大好きになってしまった。見る者の視線を、強引に引き寄せる力が絵にはあった。見ていると、絵の世界に意識が吸い込まれ、その住人にさせられるような実在感があった。単に技法的な絵というのではなく、画家の並外れた感性の強さを感じた。
その一方で、謎めいた絵だった。絵に描かれている細々としたモチーフが、いったいどんな意味を持つのか、なに一つわからなかった。
川村さんに、もうちょっと絵のことで話を聞けばよかったかな……。
ふとツグミの思考が絵から外れて、川村のことに移ってしまった。そうすると、川村の声が、顔が、姿が頭の中でぐるぐると回り始める。
ツグミは何だか胸の中でそわそわするようなもどかしさを感じた。幸福と苦しみが同時に降りかかって混濁するような、不思議な感覚だった。
ツグミは自分でも抑えられない衝動のようなものを感じて、杖を手にした。席を立ち、廊下を横切って台所へ向った。契約書類の棚からファイルを一つ抜き出し、開いた。川村の契約書類が一番上にあった。
契約書をファイルから抜き取ると、ツグミは画廊に戻った。電話棚の前に進み、受話器を手に取った。
そこで、ふっと我に返った。
「……あかんて。私、何やってねん」
素っ気なく呟いて、受話器を置いた。
電話に背を向け、テーブルの方に向おうとした。しかし、何かが強く背中を掴んでいる気がして、立ち止まってしまった。
ツグミは電話機を振り返った。それから、自分の手元の契約書に目を向けた。
絵描きは必ずしも字がうまいわけではない。むしろ字が汚い人のほうが多いかもしれない。だが川村の文字は、流れるような達筆だった。
ツグミは、しばらくじっと契約書の文字を見ていた。再び胸の中で、何かがせり上がってくるのを感じた。それは物凄い力で膨れ上がってきて、ツグミ自身で留められなくなった。
「……声を聞くだけだから。声聞くだけやったら、いいよね?」
自己弁護をしながら、ツグミは電話機を振り返り、受話器を掴み取った。何も考えず、勢いだけでボタンをプッシュした。
……6092―7824―00
受話器を耳に当てて、呼び出し音が鳴るのを待った。その間に、急に息苦しくなってしまった。我に戻ってしまった。やっぱり切ろう。そう考えを改めた。
そう思った直後、電話は素っ気ないテープの音声を流し始めた。
「……おかけになった電話番号は、現在、使われておりません……」
不審に思うより先に、ほっとしてしまった。もし繋がってしまったら、どうするつもりだったのだろう。
しかし、どういう訳だろう?
ツグミはもう一度、契約書に目を向けた。番号を間違えたのだろうか。いや、間違えたのだ。
ツグミは、もう一度、ボタンを押した。ゆっくりと、確実に。
「ちょっと試すだけだから。川村さんの声を聞いたら、すぐに切るから……」
ツグミは自分に言い聞かせるようにしながら、受話器を耳に当てた。
しかし、2回目もテープの音声だけだった。
おかしい。
ツグミは意地になりかけていた。何を話すか、というより、かけることに必死になりかけていた。
ツグミはもう一度ボタンを押した。一つ一つ確実に。絶対に間違いがないように。
やはり、呼び出し音は鳴らなかった。テープの音声だけだった。
ツグミは静かに落胆を感じて、茫然と電話機に目を落としてしまった。
次回を読む
目次
※ 物語中に登場する美術家、美術作品、美術用語はすべて空想のものです。
■2015/08/16 (Sun)
創作小説■
第2章 聖なる乙女
前回を読む
7
日が暮れかけた頃、コリオソリテース族の集落に辿り着いた。平原を横切る小さな小川に、ほんの3軒ばかりの集落が沿うように暮らしていた。トムの母親
「トム! トム!」
若者と少女が現れると、母親が大慌てで駆け寄ってきた。少女は母親にトムを引き渡す。
トムの母親
「ああ、トム……トム……よく無事で。ドルイド様、戦士様、ありがとうございます。ありがとうございます」
少女
「いいえ。その代わりに、一晩の宿をいただけませんか。悪い妖精を追いかけて、私も彼もクタクタです」
トムの母親
「ええ、もちろんです。どうぞ、こちらへ。アンタ! アンタ!」
トムの母親が走って主人を呼びに行った。
間もなく日が暮れようという時間なのに、集落の全員が集まって旅人を歓迎した。トムの母親は、知る限りの言葉でお礼と感謝を告げた。
なぜか名乗らない2人に、村人らは誰も不審がる様子を見せなかった。若者は名乗らない代わりに、妖精との戦いを武勇伝に変えて子供達に語って聞かせた。
2人には猪料理が振る舞われ、上等な布団があてがわれた。そうして床に就くと、それまで疲れた様子など見せなかった少女だったが、ふたつと呼吸せぬうちに眠ってしまった。疲れ切っていたのに関わらず、そういう素振りを一切見せずに、村人や子供の母親に、ドルイドらしい謙虚さで物腰柔らかに接していたのだ。美しいばかりではなく、術に長け、知性においても気品においても1つ欠けるもののない、まさに才女だった。
若者はそんな少女の寝姿に思わず感じ入ってしまい、少女の寝顔に言いそびれた「おやすみ」を告げて眠った。
若者が目を覚ました。辺りはまだ暗かった。家の中に光はなく、しんと静まり返っている。隣で眠っているはずの金髪の乙女の姿はなかった。
若者は起きあがると、家の外に出た。草原は静かだった。草はひっそりと夜霧をまとわせ、空はまだ赤黒く、星が少し残っていた。集落の周囲には丘すらなく、草原が茫漠と天と地が混じりあう果ての果てまで続いていた。
鶏が目覚めを告げる時間にも至っていない。朝と夜が不安定に対立する時間だった。そんな端境に、少女が1人きりで佇んでいた。
×××
「――早起きですね」
少女が振り返る。いつもの華やかさはなく、少し暗い影をまとわせていた。
×××
「何か考え事ですか」
少女
「あの子は幸福になれるでしょうか。妖精に連れ去られた子供は、いつか妖精に魅了され、妖精を求めて人里に戻らなくなると聞きます。もしそうなると、決して幸福にはなれぬと」
×××
「あなたにも経験が?」
少女
「いいえ。でも私も普通の子供にはない経験をしました。いつも1人きりで、孤独と不安に怯えておりました」
×××
「修行の最中にですか?」
少女
「いいえ。今はとても充実しています。でもかつての思いに向けると、私はいったいどこに帰るのだろう、と……そんな気持ちにかられるのです。私には懐かしいと感じるものがありません。帰る場所も。ただ、真っ白なうつろがあるだけ……」
×××
「……ご覧なさい。あの空を。あの地を。美しいと感じる心はおありでしょう。心満たされるものがあるのなら、心を病む心配はありません」
少女
「…………」
少女はかすかに微笑む。
×××
「それに、あの子供の未来なら何も案ずる必要はありません。連れ去られた古里に戻しました。僧侶なら、幸福を祈ってください」
少女
「そうですね」
×××
「さあ戻りましょう。身体が冷えてしまいます」
若者は少女の手を握った。柔らかく、旅にも戦にも向かない手だった。
少女
「はい。――あっ」
少女は歩き出そうとするが、膝が崩れた。若者がその体を抱き留める。
×××
「走りすぎたのです。今日はゆっくり歩きましょう」
少女
「そうですね」
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