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■2015/10/24 (Sat)
※ 物語中に登場する美術家、美術作品、美術用語はすべて空想のものです。

第4章 美術市場の闇

前回を読む

 事件からおよそ1週間が過ぎた、日曜日の朝。
 ツグミは一人で台所にいた。時刻は8時をちょっと過ぎた頃だ。
 台所は朝から暗い。窓のすぐ側に、向かいの家が接しているので、光はほとんど入ってこない。暗い雰囲気に、ぼんやりと窓の形だけが浮かぶ。だから、朝から照明は点けっぱなしだった。
 ツグミはもう外出着の格好だった。グレーのパーカーを上に来て、下はチェックのプリーツスカート。
 いつも制服を着ているせいなのか、普段着を選ぶのが苦手だった。これでも散々迷った末に選んだ服装だったが、後になって「やっぱりイマイチかも」と思い始めた。
 オシャレはやっぱり向いてないのかなぁ、とツグミは暗い部屋の雰囲気に釣られるように思った。後で、もっときちんとした格好に着替えよう。
 ツグミは二人分のコップに牛乳を注ぎ、食パンをオーブンに放り込む。フライパンに薄く油を引き、炒り卵を作る。これがツグミの作れる料理の限界だった。
「おはよぉー」
 しばらくして、コルリが台所に入ってきた。グレーのトレーナーに、同じ色のスウェットパンツ。寝起きの姿で、寝癖だらけだった。
 コルリはテーブルにつくと、メガネを外してそのまま突っ伏してしまった。ここで二度寝するつもりだ。
 だが、何かに気付いたみたいに、ぱっと顔を上げた。
「ツグミ、どっか行くん?」
 やっとツグミが外出着だと気付いたらしい。
 妻鳥家では外出の予定がないと、皆ジャージかトレーナーしか着ない。だから、今みたいなツグミの格好ですら、妻鳥家では外出着として認められていた。
「なに言ってんの。昨日、光太おじさんから電話があったやん。新しい絵ができたから、取りに来なさいって」
 フライパンの炒り卵ができあがって、火を消す。同じタイミングで、オーブンが「チン」と鳴った。
 コルリがテーブルに敷物を置いて、補助しようと立ち上がった。ツグミは「大丈夫だから」と慎重に手をついて、敷物の上にフライパンを置いた。
 コルリはツグミがフライパンを置くのを見届けて、立ち上がったついでにオーブンの中の食パンをそれぞれの皿に乗せて、テーブルに並べた。
「そうだっけ?」
 コルリは椅子に戻り、話の続きを進めた。
「そうやったやん。昨日、ご飯食べ終わった頃、電話きたやんか」
 ツグミは軽く非難するように言った。コルリは納得したように「あ~」と声を上げた。
「私がうたた寝してた頃やね。そういう電話やったんや」
 コルリは初めて気付いたみたいに頷いた。

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※ 物語中に登場する美術家、美術作品、美術用語はすべて空想のものです。

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■2015/10/23 (Fri)
第5章 蛮族の軍団

前回を読む
兵士
「いたぞ! こっちだ!」

 兵士が叫びながら茂みを示した。そこに、ネフィリムの一団が潜んでいた。
 ネフィリムの一団は、発見されて逃げるどころか、むしろ闘争心を燃やして兵士たちに向かってきた。
 地面がどどどと轟いた。斜面の向こう側から、騎馬の一群が現れた。ネフィリムたちはいくらか戸惑いを見せたが、やはり騎馬達に向かっていった。
 薄闇を払う光が走る。ネフィリムたちは剣と槍に払われ、倒された。残ったネフィリムも、騎馬の後に続いた歩兵がとどめを刺した。
 緊張の一瞬を終えて、騎馬の先頭にいたオークが戻ってきた。

オーク
「終わりか」

 戻ると草むらの中に不浄の者の死体がいくつも転がっているのが見えた。何匹かはまだ息があるらしく、呻き声を上げていた。
 ゆるく雨が降っていた。木々はまばらだが、その辺りの草は背丈が高い。窪地に入っていくと、大人ですらその姿が隠れてしまう。雲はようやく晴れようとして、向こうの方に光が射し込むのが見えた。

アステリクス
「これで全部です。もし残ったとしても、光が射せば、奴らの影は消えるでしょう」
オーク
「しかしこのところひどく多い。以前ならこのくらいの空の下に現れることもなかった。いったい何が……」

 長城の修復は28日が過ぎていた。修復はそれなりに進み、周辺の森もドルイド僧が丹念に邪気を祓った上で伐採され、その木材が復旧に使用されていた。
 そんなネフィリムに対する防備は万全という状況下で、ネフィリムがおよそ出現しそうにない時刻をついて、突然の襲撃が始まったのだ。

アステリクス
「近くにネフィリムのねぐらがあるのかも知れません。探して潰したほうがいいでしょう」
オーク
「そうですね」
ゼイン
「ネフィリムを根絶やしにしてやる!」

 オーク達は南の方角に目を向けた。その方向には、緩やかな丘が続き、強い風に草がざわざわと揺れ、散りかけた雲が影を落としていた。
 その草むらの中に、点のような影が動いているのに気付いた。どうやら騎馬らしい。ひどくゆるやかな様子で、草むらの中を進んでいた。
 あれは――?
 と一同が見ている前で、馬上の人がぐらりと傾いで、草の中に落ちた。

オーク
「行ってみましょう!」

 オークは仲間達を引き連れて走った。
 近くまで行くと、馬が草むらに落ちた主を気遣って、うろうろとしていた。側の草を掻き分けると、そこに兵士が1人倒れていた。
 抱き起こしてみると、兵士は満身創痍で、両目が潰されていた。真っ赤な血で両頬を濡らしていた。

オーク
「なんと酷い! すぐに砦に連れて行き、手当を」

 オークは負傷兵を馬に乗せようとした。
 しかし負傷兵はその手に抗い、オークに縋り付こうとした。

負傷兵
「その声は、その声は……セシル殿下ですか」
オーク
「いいえ。しかし殿下に仕える者です」
負傷兵
「良かった。伝えることがあります」
オーク
「後で聞きます。今は治療を受けてください」

 オークは負傷兵を配下の者に引き渡そうとする。やはり負傷兵は抗ってオークに縋り付いた。

負傷兵
「一刻を争うのです。ゼーラ族が軍団を作って迫ってきているのです。ピクト人やヴァイキングも……。指揮者が誰なのかわかりません。共に行った仲間は全員殺されてしまいました。どうか……セシル様、兵を、兵を出してください」
アステリクス
「何と言うことだ。今までどこに軍隊を隠していた」
オーク
「王とて土地の全てを知っているわけではありません。こんなまとまりのない国では特にそうでしょう。――さあ、この人を連れて行って。ご苦労でした。あなたの言葉は一語も欠けさせず王子の元まで運びます」

 ようやく負傷兵を馬に乗せたが、すでに気を失っていた。だが、まだ息絶えたわけではなかった。

※ ピクト人 実際には、スコットランド周辺に住んでいた人達を指す。

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■2015/10/22 (Thu)
※ 物語中に登場する美術家、美術作品、美術用語はすべて空想のものです。

第4章 美術市場の闇

前回を読む

 太田川沿いの道を、太一が歩いていた。
 辺りはそろそろ暮れかけようとしていて、光に淡いオレンジが混じろうとしている。それでも夏の日は長く、まだ誰も帰路に就こうとはしなかった。
 ツグミは「ああ、私、夢を見てるな」と気付いた。そう思っても、夢は一時停止も改編もできない。
 もう何度も繰り返し見た夢。二度と見たくないと思っても、夢は勝手に再生して、勝手にリピートする。ツグミ自身の意思など無関係に。まるで、夢自身に意思があるみたいに。
 あの時、ツグミは8歳だった。
 ひまわりが大きくプリントされた、オレンジのワンピースを着ていた。お気に入りの洋服だった。
 あの頃のツグミは、元気で無邪気で悪戯好きの、どこにでもいる女の子だった。悩みも苦しみも知らない。ちょっと普通の子供より、美術に詳しいだけの女の子だった。
 8歳のツグミは、通りの反対側で、川沿いを歩く父親の姿を見つけた。
「おーい、お父さーん」
 笑顔で手を振った。
 太一は白いワイシャツに、茶色のスラックスを穿いていた。いつもの仕事着で、これから帰るところだった。その日は、大きな鞄を襷に掛けていた。
 太一もツグミに気付いて振り返った。優しそうな顔だった。
 短く切り揃えた髪。角ばった顔に、大きな目。ちょっとコワモテという感じの顔だったけど、優しい人だった。怒られた記憶は一度もなかった。優しい父親だった。
 ツグミは左右を確かめて、道路に飛び出した。いつも閑散とした通りで、車は滅多に通らない場所だった。
 でもその時、太一が突然に叫んだ。「危ない」と道路を飛び出そうとした。
 ツグミは訳がわからず、きょとんと道の半ばに足を止めてしまった。
 ツグミも、8歳の自分に「逃げて」と叫びたかった。あの瞬間だけは、改編したいと何度も思った。今となっては、何もかも手遅れだった。
 幼いツグミは、ようやく猛烈な勢いで迫る何かに気付いた。
 振り返った。そこに、真っ黒な鉄の塊があった。
 直後、記憶が飛んだ。
 しばらくして、ゆっくり意識が戻ってきた。目の前に、アスファルトのごつごつとした質感があった。体の感覚が遠ざかって、もどかしくふわふわ浮いているみたいだった。なのに、ひりひりする何かがじわりと体の下に広がるのを感じた。おしっこだと思った。血だった。
 地面に倒れたきり、ツグミは動けなかった。目だけで、父が立っていた場所を探した。
 さっきの黒い鉄塊が停まっていた。その時には、黒いワゴン車だと認識した。
 ワゴン車から男達が飛び出し、太一を羽交い絞めにしていた。太一は逃れようと、叫び、手を振り回し、もがいていた。
 しかし、男達は太一が小さく見えるくらいに巨大で、力も強かった。
 太一は目一杯暴れたけど、ワゴン車の中に引きずり込まれてしまった。マフラーから噴き出た排ガスが、ツグミの体に吹きかけられる。
 車が走り出した。猛烈な勢いで進んで行き、向うの赤信号を無視した。
 ツグミは手を伸ばした。でも体はあまりにも重くて、手が自分の意思から離れてしまっているように思えた。痛みがじわじわと下の方から這い上がってきて、それが全身を痺れるような感覚に包むと、意識が途切れた。
 夢はいつもここで終わりだった。夢というより記憶だった。あの時の、一番つらくて思い出したくない記憶。この記憶が、ツグミ自身を掴んで離さなかった。左脚の強烈な痛みと一緒に。

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■2015/10/21 (Wed)
第5章 蛮族の軍団

前回を読む
 暗く、怪しい霧が何もかもを覆っていた。霧は深く、その向こうに時折見せるのは、草も見せず、精霊も宿さない赤茶けた土に枯れた木々、そして廃墟だけだった。
 不毛と呼ぶなら、それ以上に相応しい光景がない場所。そんな場所に、馬が一騎。馬の背に乗っていたのはバン・シーだった。
 バン・シーは暗く、毒でも混じっているかのような灰色の霧の中、恐れずに進んでいく。やがて、行く先に大きな門が現れた。かつては荘厳華麗であったであろう大門は今や朽ち果てて、細かな職人の手による彫刻は、グロテスクに形を歪めている。それはすでに門としての役割を果たさない代わりに、訪れる者を地獄に誘うかのように開け放たれていた。
 門を潜ると、真っ直ぐな石造りの道路が延び、その両側にいくつもの台座が置かれ、台座の上にガーゴイルたちが思い思いの姿で固まっていた。なぜか台座の半分にはガーゴイルの姿はない。
 バン・シーは道路を進む。馬の蹄の音が、辺りに響いた。響きの中に人の気配は全くない。しかしバン・シーは警戒を緩めず、奥へ奥へと入っていった。
 目の前に、建物の姿が現れた。灰色の石造りの建物は、霧に取り囲まれて全体が見えなかったが、しかし見えざる霧の向こうに圧倒的な威容を感じさせるものがあった。
 そこで、バン・シーは足を止めた。
 不意に、辺りの霧が濁ってきた。不穏な気配で満ちあふれ、そして――どこかで唸り声がするのを聞いた。まさしく地の底の魔物の声だった。

バン・シー
「また1匹目覚めたか」

 バン・シーは舌打ちして、馬の首を反対方向に向けて進もうとした。
 が、霧に向こうに急速に気配が集まってきた。大門の向こうにいたのは、ネフィリムの軍団だった。ネフィリムたちは剣や斧をかちゃかちゃ鳴らせて、狂気の目を血走らせていた。
 バン・シーは馬を止めない代わりに、顔を憤怒に歪め、掌に雷を走らせた。

バン・シー
「退け! 退かぬと地獄でも味わえぬ恐怖を喰らわすぞ!」

 爆音が轟いた。大門が吹っ飛び、ネフィリムが粉々になって弾け飛んだ。
 爆煙の中から、バン・シーが飛び出してきた。生き残ったネフィリムを踏みつぶして、城から脱出する。
 背後で、落雷のような凄まじい咆吼が轟いた。どうやら地底の魔物は、バン・シーの魔術に怒ったらしい。
 ――急がねば。
 バン・シーは馬を急がせた。

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■2015/10/20 (Tue)
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第3章 贋作工房

前回を読む

22
 振り向くと、画廊の前だった。車のドアが開き、冷たい風が流れ込んできた。
 帰ってきたのだ。
 ツグミはコルリと手を握ったまま、車を降りた。
 空が暗く浮かび始めていた。街はまだ夜の闇を残して、街灯が点々と輝きを残している。空気が突き刺さるほどに冷たく、誰も人が住んでいないみたいに静まり返っていた。
 ツグミは茫然とする思いで、街の風景を見回した。
 男達は何も言わずに、車のドアを閉めてどこかに去ってしまった。
 少し、車を見送った。トヨタ・クラウンのエンジン音も、遠慮がちに潜めているように聞こえた。
 それから、ツグミは改めて画廊を振り返った。やっと帰ってきた。ずっと帰らなかったように思えて、その風景があまりにも懐かしく感じてしまった。
「帰ってきたね」
 コルリがツグミの耳の側で囁いた。その声から暗い思いが消えて、高い山を登りきったような涼しげさが浮かんでいた。
「うん」
 ツグミは振り向き、頷いた。途端に、胸が苦しくなった。色んな感情が一気に押し迫ってきた。怖かったし、つらかった。でもすべて過ぎ去ったんだ、という解放感が、ツグミ自身を捉えていた。
 ツグミは感情を押し留められず、涙を溢れさせた。コルリがツグミを抱き寄せて、「よしよし」と頭と背中を撫でた。ツグミはコルリの胸に顔を押し当てて、遠慮なく泣いた。
 画廊の鍵を開けて、まずコルリが入り、暖簾を掻き上げた。
 誰かいないか、コルリが慎重に中の様子を覗きこむ。
 ツグミは後ろで、コルリの背中を見守った。
 すると、コルリが振り返って手招きをした。なぜか口元に、もう抑えられないといった笑顔が浮かんでいた。
 コルリに続いて、ツグミは画廊に入った。
 画廊の中は暗かった。暗い影が落ちて、そこはまだ夜だった。真っ暗闇に、白い円テーブルが浮かび上がっていた。その上に、額縁付きの絵が何枚か重ねて放り出されていた。
 すぐに「あっ」と声を上げた。
 コルリが画廊の明かりを点けて、絵を持ち上げ、ツグミに向けた。ツグミは杖を突きながら、急いで絵の前に進んだ。
 ミレーだ。羊飼いの娘が描かれていた。
 ツグミは少し絵を見て、長く息を吐いた。2度、うんうんと頷き、それから顔を上げた。
「真画や」
 コルリは、丁寧に絵をテーブルの上に置くと、それから「やったー!」と声を上げた。ツグミを抱きしめて、「きゃー」と飛び跳ねた。ツグミもよくわからない声で思い切り叫んでいた。
「そうだ。すぐにヒナ姉に電話しないと」
 コルリは抽斗に放り込んだままの電話に飛びついた。

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