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■2015/12/03 (Thu)
創作小説■
第5章 Art Crime
前回を読む
4
岡田は絵の前まで進むと、勿体つけるようにツグミを振り向き、笑いかけた。ツグミも絵の前まで進み、杖の柄に両掌を重ねて置いた。気持は晴れず、早くしろ、と苛立たしく思った。
岡田は紫の布をつかみ、ゆっくりゆっくりと布をずり下げる。はらり、と落ちかけたところで、ぱっと布を取り払った。
現れた絵を前にして、ツグミは一瞬、全てが吹っ飛んでしまった。
激しく荒れ狂う波。それに翻弄される小さな船。千切れて用をなさなくなった帆布。顔に絶望を浮かべながら、ただしがみつくだけの人々。
全ての描写があまりにも生々しく、揺れる裸電球の下で、今まさにその事件がキャンバスの上で繰り広げられているような、そんな圧倒されるような描写力がそこにあった。
それは紛れもなく、レンブラントの『ガリラヤの海の嵐』だった。
信じられなかった。どうしてこんなところに。頭の中が沸騰しそうだった。
岡田が「どうや」と言いたげな顔をして、ツグミに笑いかけていた。
ツグミは絵に引きこまれるように、ふらふらとキャンバスに近付いた。その度に、瞬発的に高まった高揚感が、同じ速度で沈んでいくのを感じた。
絵の間近までやってきて、色の濃淡や、ひび割れをじっくり見詰める。
しかし、もうそれ以上に見る必要がなかった。心に浮かんだ結論は覆ることはなかった。
「嬢ちゃん、どうや。何とか言うてみい」
岡田の声が期待に上擦っている。
「これは贋物やわ」
ツグミは絵を見上げたまま、ぽつりと断定した。
「そんなアホな。嬢ちゃん、もう1回よお見てみい。本物やろ。なあ、本物やろ」
岡田が一転して、慌てた声を上げてツグミの肩を掴んだ。
岡田の動揺も、少しは同情できると思った。確かに、凄まじく出来がいい。ツグミも自分で言いながら、実は確信が持てないでいた。論理的に説明ができない。どこでどうやって真贋の区別を付けるべきなのか。ただただ、ツグミ自身に浮かんだ直感が、「それは贋物だ」と強く告げていた。
「本当によおできてるけど、あかんわ。岡田さん、これ、贋物やで」
ツグミは自分の直感に逆らわず、岡田を振り向いて首を振った。
岡田の顔に、とてつもない失望が浮かんだ。頭を抱えて、今にも倒れそうな感じにふらふらと下がった。
この男も画商だ。それなりに目利きとしてのプライドがある。それが今、大きく抉られたのだ。
「岡田さん、いくら払ったん? これに」
さすがのツグミも同情する気分になった。
「いや、言いたくない。忘れたいわ。貯金が一瞬でパーやわ」
岡田はもう我をなくすように、側にあったスツールに腰を下ろした。
「……そうやろうな。本物のガラリヤが、こんなところにあるわけがない。あれは幻の絵や。やっぱり、日本に入ってきてなかったんや」
岡田はがっくりうなだれて、ぶつぶつと呟き始めた。
次回を読む
目次
※ 物語中に登場する美術家、美術作品、美術用語はすべて空想のものです。
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■2015/12/02 (Wed)
創作小説■
第6章 キール・ブリシュトの悪魔
前回を読む
13
悪魔との戦いは終わった。壮絶な体験であった。戦を経験するよりも桁外れの恐怖と力のぶつかり合いだった。誰もが戦いが終わると力尽きたように膝を着き、深く息を吸った。今さら恐ろしさを実感して涙を流し、失禁する者もいた。バン・シー
「怪我はないか」
セシル
「いや、大したことはない。それよりも、他の者を……」
セシルは聖剣を杖にして起き上がり、周囲を見回した。円形劇場は原型がとどめないほどに破壊され、その瓦礫の下に仲間達の死体があった。
セシル
「そんな馬鹿な。いずれも名を残すべき英雄だったというのに……。何人が生き残った?」
オークとソフィー、ゼイン、ルテニーを含む7人であった。ようやくその事実に気付いて、セシルは愕然とした。
バン・シー
「私はそなたさえ生き残ってくれればそれでいい。ソフィー。王子の面倒を見てやってくれ」
ソフィー
「は、はい」
そう言われて、ソフィーはセシルの許に駆け寄った。ソフィーの心労は他の者より大きく、手の震えも涙も止まらなかった。それでも、治療の手を休めず働き続けた。
バン・シーもさすがにくたびれた様子らしく、瓦礫の上に腰を下ろして身体を休める。
バン・シーにオークが近付いた。
オーク
「バン・シー殿。あなたはずっとこのような戦いに」
バン・シー
「そうだ」
オーク
「あの王が戦慄する理由がよくわかりました。確かに悪魔との戦いは恐ろしい。とても堪えられるものではない。しかしあなたは、なぜ悪魔と戦い続けるのですか」
バン・シー
「……約束だからだ。それだけだ」
オーク
「…………」
人並みならぬ魔術師。しかし私欲を求めず、ひたすら悪魔との戦いを求める理由……。オークが考えても、わかるような話だとは思えなかった。
誰もが力尽きていた。オークも立っていられず、バン・シーの側に座り込んだ。セシルはソフィーの治療を受けながら、それでも威厳を失わないようにどっしりと構えていたが、かつてないほどに消耗している様子だ。残りの戦士達も、放心状態か意識を朦朧とさせているかのどちらかだった。実際に戦った時間は僅かだったが、消耗は想像していた以上に大きかった。
しかしそこはネフィリムの巣窟であり、総本山だ。いつまでもゆっくりしているわけにもいかず、バン・シーはそろそろ指示を出そうと立ち上がった。
その時だ。恐るべき事態が起きた。
地の底から響くような咆吼が1つ。いや、もう1つ。邪悪なる者の気配があちこちから立ち上がった。
全員が衝撃と恐怖で跳ね上がり、しかしそれ以上の恐怖には耐えがたく、誰もが困惑を浮かべていた。
セシル
「どういうことだバン・シー! 悪魔はいったい何体いるんだ!」
バン・シー
「どうやら事態が変わったようだ。走るぞ!」
さすがのバン・シーも顔に冷や汗を浮かべていた。
セシル
「待て! バン・シー説明しろ!」
バン・シー
「甘えるな! 私がすべてを知っているわけではない。今は走って逃げることだけを考えよ」
生き残った一同は、死んだ者の遺品を素早く荷物袋に放り込み、劇場から走って脱出した。
邪悪なものの気配は、その間にも次々と立ち上がった。一同はバン・シーの導くままに通路という通路を、広間という広間を駆け抜けた。
しかし何かがオーク達を追いかけた。壁の向こうにその気配が浮かび上がった。
一行が次の広間に飛び込んだ時、突如天井が抜け落ちた。瓦礫とともに恐るべきものが落ちてくる。悪魔であった。
ルテニー
「冗談じゃないぞ! あんなのと2度も戦えるか!」
セシル
「同感だ。戦おうとするな! 走れ!」
悪魔は戦士達を捕らえようと飛びついてきた。しかしもろい床に巨体がのしかかったために地面が崩れた。悪魔は奈落へと落ちていく。
崩れる床に、戦士達も足を取られた。悪魔が奈落から手を伸ばし、戦士の1人を掴んで道連れにした。助ける余裕はなく、オーク達は走ってその場を脱出した。
次の広間に出た時、そこで出迎えたのはネフィリムの大群だった。
バン・シー
「おのれ穢わらしい者どもめ!」
バン・シーの顔に憤怒が浮かび、両掌に雷が炸裂した。ネフィリムの大群が、一気に弾け飛んだ。真っ黒な肉片が、空間一杯に飛び跳ねて、魔力の余韻があちこちで爆ぜていた。
しかしバン・シー自身、大魔法の発動に膝が崩れた。ソフィーがバン・シーを助けて、さらに走った。
出口はすぐそこだった。戦士達は一気にその向こうへと走った。
辺りを覆っていた霧とは、明らかに別の種類の雲が、キール・ブリシュトから立ち上り、もくもくと広がって辺りを包み込もうとするのが見えた。その背後で、悪魔の咆吼が轟いた。
戦士達はキール・ブリシュトを走って離れると、谷の入口で待たせていた馬にまたがり、山道を猛然と走った。ネフィリムの軍勢が戦士達を追いかけてくる。戦士達はひたすら馬を走らせ、1日かかった道のりをわずか数時間で走破してみせると、死の山から逃れ、北西の方角に進路を向けた。
辺りに夕暮れが迫って、不吉なまでに赤く染まっていた。背後を振り返ると、遠ざかる山脈の頭上に黒い雲が被さり、あからさまに不自然な様子で広がっていくのが見えた。
セシル
「バン・シー。そろそろ話せ。いったい何が起きた」
バン・シー
「どうやら想像もしたくない事態が起きたようだ」
セシル
「どういうことだ」
バン・シー
「封印の力自体が弱まっているのだ。悪魔を封じる力が失われかけているのだ」
オーク
「ならば一体どうすれば……」
バン・シー
「こんな事態にならねばいいと、ずっと祈っていた。しかし望みは失われた。行こう。今は攻めるよりも守りに徹しよう」
一同は馬を走らせ続けた。不吉なる夕日は、間もなく恐ろしい暗黒の夜を作り出した。
しばらくすると、一行の行く手から騎馬が一騎、走り寄ってきた。
ルテニーがとっさに弓矢を身構えた。
伝令
「セシル様! セシル様! ――撃つな! 急ぎ伝えたいことがある!」
しかし足を止めるわけには行かず、伝令の馬は一同の馬と併走した。
セシル
「何事か!」
伝令
「各地でネフィリムの大群が出現しています。セシル様が行ってから間もなく、各地で黒い雲が現れ、ネフィリムは昼と夜の区別なく洞窟という洞窟から姿を現したのです。まるで決起でも起こしたかのように集結、行進中です!」
セシル
「どちらに向かっている!」
伝令
「王城のほうです。大軍勢です。見慣れぬ巨人も確認されています」
全員が騎士の報告に絶句した。
バン・シー
「……災いは繰り返されるか」
その時、背後の森でぎゃあと声が上がった。夥しい数のカラスの大群が舞い上がり、赤い空を覆った。カラスの大群は、南へ向かっていた。
バン・シー
「戦いの度にカラスが増える。凶兆ならもう届いている」
あまりにも不吉な知らせに、それ以上何か言おうとする者は現れなかった。
次回を読む
目次
■2015/12/01 (Tue)
創作小説■
第5章 Art Crime
前回を読む
3
店の裏手に入るが、そこに本の在庫などどこにもなかった。代わりにあるのは夥しい数の画板で、画板はあちこちに放り出されたり積み上げられたりしていた。本はその画板に挟まれたり、下敷きにされたりして、ぐしゃぐしゃになっていた。まるで材木屋のような大きなアルミの棚が部屋にいくつか置かれ、画板がその中に無造作に突っ込まれていた。画板に絵が描いていなければ、いったい何が置かれている場所なのかわからず、うっかりすると廃棄物の山のようにすら見えた。
こんな場所でも、かつては画廊であった。岡田もまっとうな画商であった時期があったのだ。
しかし、バブル崩壊後の危機に直面すると、岡田はさらっと画商を廃業し、同じ店で成人誌専門店を経営し始めた。それがうまくいったらしくて、岡田は今日まで生き延びてこられたのだ。
表のいかがわいしさと較べると、ここはちょっとほっとする。エロ本屋独特の居心地の悪さに較べると、こんな場所でも天国みたいに思えた。
ただ絵の管理は杜撰としか言いようがなく、狭い空間に埃と湿気が渦巻いていた。埃の壁が目の前に立ち塞がっている気がして、ツグミはハンカチを口に当てて奥へと進んで行った。
置かれている絵は無名作家がほとんどだが、掘り起こせば何かしら見付かりそうな雰囲気はあった。調子が良かった当時は、手広く商売をやっていたらしい。あの時代に行方不明になった絵画も、ここでよく探したら見付かるかもしれない。
「岡田さん? いますか?」
ツグミは足元に気をつけながら、奥へとゆっくり進んだ。
「おう嬢ちゃん、来たか。こっちや、こっち」
山積みになった画板の向うから、岡田が顔を上げて手招きした。
「岡田さん、ここ、ちょっと酷いですよ。ちゃんと掃除してください。絵が可哀想です。それに、表のあんな本、悪趣味やわ。ちゃんとしてください」
ツグミは岡田を非難しつつ、床に投げ出された絵画を慎重にかわしながら進む。乱暴に放りだされているけど、もしかしたら行方不明の名品かもしれないし、そうでなかったとしても絵を踏むなんてツグミには絶対にできなかった。
「なに言ってんのや。芸術なんていうのはな、女の裸やで。ルネサンスで革命を起こしたボッティチェッリ(※1)は、おっぱい描いて有名になったんやで。ほら、あれも見てみい」
岡田は左奥を指差した。ツグミはちょっと足を止めて、岡田が指差さした方向を振り返る。
棚の2段目に、絵画が1枚こちらを向けて立て掛けられていた。作者不明の『スザンヌの水浴』(※2)だった。裸の女が泉の前で体をくねらせ、豊かな乳房や尻を挑発的に強調し、まるで誘うような目付きを、鑑賞者に投げかけていた。
ツグミは心から嫌悪を浮かべて、普段は絶対しない舌打ちをした。
『スザンナの水浴』は、もともとは聖書の外典を題材にした作品である。宗教画の一つとして、多くの画家が手がけてきた画題だ。だが、スザンナは本来の聖書中の意味がしばしば無視され、単なる猥褻画になりかける傾向が多かった。レンブラントだけは例外にして、ツグミの大嫌いな画題だった。
「で、どれなんですか。その絵は」
もう、これでもかとばかりに、声に不機嫌を込めた。
「ほら、あれや」
部屋の一番奥に、イーゼルにかけられ、仰々しく紫の布が掛けられたキャンバスがあった。
窓が画板で遮られて、辺りは薄暗い。裸電球の明かりがぼんやりと照らしていた。紫色が、薄明かりの中で、やけに強調的に浮かぶような気がした。
キャンバスの大きさは100号相当。畳み1つ分だ。紫の布はともかく、大きさだけでも大作を予感させるものがあった。
※1 サンドロ・ボッティチェッリ 1445~1510年。イタリアの画家。本名はアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピ。ルネサンス初期を代表する画家。岡田が例に挙げている作品は、おそらく『ヴィーナスの誕生』のこと。
※2 スザンナの水浴 聖書の外典であるダニエル書に書かれた短編。スザンナの水浴を題材にした画家たちは、多くは聖書中のストーリーに沿わせて画を作ったが、中には脅迫する2人の長老の姿を省略し、単に人妻の裸を扇情的に描く口実にする画家もいた。
次回を読む
目次
※ 物語中に登場する美術家、美術作品、美術用語はすべて空想のものです。
■2015/11/30 (Mon)
創作小説■
第6章 キール・ブリシュトの悪魔
前回を読む
12
通路の向こうから、冷たい風がひゅうひゅうと音を立てて流れ込んできた。通路はそこで突然終わっていた。通路が途切れ、その下に円形劇場があった。客席に、空中回廊の残骸が砕けて落ちていた。
かつて舞台であったところに、それはいた。ちょっと見たところ、巨大な黒い塊に見えた。しかしそれは1つの生物であり、恐ろしく巨大な身体に、四肢と尻尾を丸めて眠っているのだ。その者こそ「悪魔」だった。
悪魔は戦士達の気配に気付いたらしく、目を覚ました。辺りを巡らし、空中回廊にいる戦士達を見上げた。その目が薄闇の中で赤く輝き、口や鼻から息吹の代わりに炎を溜めていた。
バン・シー
「紹介したほうがいいかね」
セシル
「いや結構だ!」
セシルが空中回廊から飛び出した。客席に着地する。戦士達がセシルに続いて空中回廊へと飛び降りていく。
悪魔は全身の毛を逆立てて、怒りの咆哮を上げた。いきなり飛びついてくる。人間なら百歩も必要な距離を、悪魔は一度のジャンプで飛びついてきた。その着地の凄まじさに、振動が辺りに散って、客席の一角にひびが走った。
戦士達は武器を剣から弓矢に切り替えて、次々と放った。矢は暗黒そのもののような黒い身体に突き刺ささる。悪魔は痛みに身もだえして、反逆に炎の息を戦士たちに浴びせかけた。炎は石の上に塊となって落ち、激しく火の粉を散らした。
バン・シー
「これは運がいい。聖剣以外の武器も通じるぞ!」
セシル
「ならばダーンウィンは無駄であったな!」
バン・シー
「いや、奨励しよう。聖剣以外に悪魔に致命傷を与えられる武器はない」
しかし、そもそも悪魔に近付き、剣の一撃をくわえるのは困難な仕事だった。悪魔は巨大ばかりではなく、その動きも極めて俊敏であった。戦士らは悪魔に一歩も近付けず、矢を放ち続けた。だが矢の打撃はあまりにも弱々しく、悪魔は突き刺さった矢を、トゲでも刺さったかのようにさっと払い落としてしまった。
悪魔は戦士達に狙いを定めると、素早く迫り、鋭い爪で捕まえようとした。その力は圧倒的で、拳の力で石造りの床や壁が一撃の下に粉砕された。恐るべき尻尾は、鞭のような鋭さで空を切り、おそらく同族のものであろう石像を真っ二つに砕いた。
炎の攻撃に、戦士の1人が焼かれ、尻尾の攻撃に2人が臓物を散らして弾け飛んだ。また1人は、虫けらのように掴まれて、叩きつけられて死んだ。
それでも戦士達は、恐れを乗り越えて果敢に戦った。矢の攻撃がほとんど意味がないとわかると、1人、また1人とその背に飛びつき、剣の一撃をくわえた。剣の攻撃は弓矢より効果はあったものの、それ以上の打撃は与えず、むしろ悪魔に振り落とされ、次なる拳か、あるいは炎の一撃で、戦士は命を落としてしまった。
そんななか、効果的だったのはソフィーとバン・シーの魔術だった。2人の放った雷と火炎は、どんな剣以上に決定的に悪魔を怯ませた。
セシルもついに悪魔の背にとりついた。悪魔はセシルを振り払おうとしたが、セシルは悪魔の身体にしっかりしがみついた。仲間達は援護に回って次々に矢を放った。
ダーウィンの一撃が悪魔の後ろ頭に振り落とされた。聖剣の一撃は、どの刃よりも深く突き刺ささった。傷口から炎が噴き上がった。マグマが――いや恐ろしく熱い血液がどろりと溢れ出した。
その一撃でも充分ではなかった。セシルは悪魔に振り落とされ、叩きつけられた。そのまま昏倒してしまう。
悪魔の怒りの拳が、セシルに迫る。オークがとっさに飛びつき、セシルを救った。
意識を取り戻したセシルは、再び悪魔と向き合った。今度は正面から立ち向かう。その目にこれまでにない勇気が漲り、全身に力が溢れる。
悪魔もセシルを殺そうと飛びついてきた。戦士達が矢を放って援護する。オークが悪魔の背中にとりついた。
悪魔はオークを振り払おうと、腹を見せた。
セシルがその懐に飛びつき、悪魔の腹に一閃、聖剣の一撃をくわえた。
腹からごう、と炎が溢れ出した。マグマとともに臓物がセシルに飛びかかった。セシルは間一髪、これを避けた。臓物は外気に触れると、激しく燃えさかり、悪魔自身の体毛に火をつけた。
決定的な打撃と灼熱に、悪魔は苦しみもがいた。絶叫をあげながら、その体が焼けて、皮膚が溶け、その下の骨と臓物を剥き出しにした。それでも悪魔は絶命に至らなかった。おそるべき生命力で、全身に炎を宿しながら、セシルに飛びついてきた。
セシルはむしろ悪魔の懐に飛びつき、その心臓に一突き、聖剣の一撃をくわえた。
悪魔が断末魔の絶叫をあげた。四肢が燃えて、バラバラに散っていく。そうして、劇場の向こうの奈落へと落ちていった。
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目次
■2015/11/29 (Sun)
創作小説■
第5章 Art Crime
前回を読む
2
元町の高架下を潜り抜け、アーケード手前の細い小道に入っていく。そこに岡田書店はあった。その辺りは、いつも薄く影が落ちていて、明るい昼間でさえ、いかがわしい雰囲気が目一杯に溢れていた。空気が重く底のほうに留まり、不快な臭いが湿り気を帯びてまとわりついてくるようだった。
岡田書店の構えも、アルミの柱や壁が雨の泥で黒くなり、ぼろぼろに傷んでいる。店の名前の入ったプラスチックの看板も、下半分が欠落していた。
店の中に落ちる影はさらに重く、開けたままの扉から怪しい何かが手を伸ばしてくるように思えた。
ツグミは岡田書店の前までやって来て、そのまま通り過ぎてしまった。
正直、入りたくない。岡田の口車に乗せられ、ここまでやって来てしまった自分の判断力の甘さを呪った。
しかし、入らないわけには行かない。これは仕事なのだ。そう仕事なのだ。仕事……仕事……。
ツグミはそう自分に言い聞かせて、岡田書店を振り返った。
店の前までやって来て、ツグミは深呼吸して、最後に息を止めた。覚悟を決めて、店の中に飛び込んだ。
店の中は狭く、書棚がぎっちりと押し込まれていた。通路の幅は、人の肩幅よりもやや広いだけだった。書棚に並べられた、裸の女たちが、一斉に微笑みかけてきた。
岡田書店は成人向け雑誌を専門に取り扱う店だった。一言で言い表すと、エロ本屋だった。
店の客は当然、男性ばかり。ツグミが入っていくと、みんな一斉に振り返った。どちらかといえば、何かが異物が混じり込んだというような驚きと戸惑いの目線。その目線が……いやどんな目線であれ刺すように痛かった。
ツグミは充分に決意して入ったつもりだったが、男たちの視線の前に踏みとどまってしまった。帰りたい。強烈にそう思いながら、しかし杖をついてできるだけ早く、男たちの背後をすり抜けていった。
男たちの好奇の視線がツグミを追いかけてくる。こんなに視線が痛く感じる経験は、そうそうないだろう。よくよく考えてみれば、こんな場所で女子高生がセーラー服姿で入っていく。ありとあらゆる誤解を受けても仕方がないシチュエーションだった。それに通路の幅が狭く、どうしても男たちの後ろを、背中をくっつけて通らねばならず、それが不愉快極まりなかった。
奥のカウンターに立つ、バイト青年の前まで行く。ドレッドヘアなのだが、どちらかといえばモップが目元を隠している感じの、色黒の青年だった。
「岡田さんは?」
声に嫌悪感を隠そうとも思わなかった。
バイト青年は、無表情にカウンターの後ろを指でさした。
カウンター後ろは扉ではなく、書棚で仕切り、突っ張り棒で暖簾を掛けているだけだった。
バイト青年の無感情な対応がありがたがった。ツグミは「ありがとう」と短く感謝を告げて、カウンター奥へと入っていった。
次回を読む
目次
※ 物語中に登場する美術家、美術作品、美術用語はすべて空想のものです。