■ 最新記事
(08/15)
(08/14)
(08/13)
(08/12)
(08/11)
(08/10)
(08/09)
(08/08)
(08/07)
(08/06)
■ カテゴリー
お探し記事は【記事一覧 索引】が便利です。
■2010/01/04 (Mon)
映画:外国映画■
レクターが姿を消して十年が過ぎた。
レクターは今どこにいるのか――死んでいるのか生きているのか、誰も知らない。
あれから十年。
その間、誰も悲鳴を上げず、悪夢を見ることもなかった。
静かに平和な時が過ぎ――しかしどこかに悪魔が眠っている気配を感じていた。
映画は静かなメロディと共に始まる。場所はどこかの屋敷のようだ。バーニーが招待を受け、醜い顔をした男と対談している。
醜い顔の男はメイスンだ。かつてレクター博士に手ひどい仕打ちを受け、復讐のためにその消息を追っている。
バーニーが招かれたのは、レクター博士の情報を売るためだった。レクター関連の遺物は、その筋のマニアに高く売れるのだ。バーニーはあの隔離病棟を去る時に、多くのハンにバル関連の品々を持ち出していた。バーニーはそれらを売って、日々の糧にしていた。
去り際にバーニーは、レクターがかつてつけていた仮面を差し出す。その仮面を前にして、メイスンは興奮して息を喘がせた。――まるで性的興奮を覚えたように。
メイスンはレクターの手に掛かり、顔面を失い、全身麻痺という障害を負った。しかしメイスンはレクターに感謝している。狂うくらい憎めるものを与えてくれたのだから。
メイスンはレクターを憎んでいる。レクターに顔面の顔を剥がされ、再生不能になっただけでなく、半身不随を負ってしまった。
だが同じくらいに、メイスンはレクターを欲求していた。
レクターと興じた、あの短い一時が忘れられない。自ら顔の肉を引き裂き、血を噴出し、微笑みあうと共に絶頂を達していた。あの時の興奮が忘れられない。
メイスンの愛は深く、憎しみも同時に強い。
極めて屈折した感情だが、相反する感情はメイスン自身を引き裂かず、不純に交じり合っている。
きっとメイスンは、夢の中でレクターを引き裂き、その妄想で何度も勃起したはずだ。まだ不能になっていなければ、だが。
フィレンツェの宮殿でロケーションが行われた。レクター博士はフェルとして司書の仕事に雇われるところだった。パッツィ刑事は、行方不明になっているフェルの前任者を探して面会を求める。
レクターはフィレンツェに潜伏している。レクターが過ごす場所としては相応しいだろう。レクターの美意識に応え、どこまでも磨いてくれる場所だ。
フィレンツェでは殺人鬼すら、優れた美意識を持つようだ。
レクターは品性のない人間を嫌う。礼儀のない人間も。
だからクラリスは相応しい。クラリスは決して汚れない。その肉体も、汚職まみれの組織を身を投じながら、高潔な意思を失わない。
精神の純潔と魂の純潔。クラリスはその両方を持つ、稀な女だ。
だからあの女がいい。
生涯の伴侶とし、永遠の忠誠を誓わせ、快楽を無限に引き出すために。
クラリスは純潔の象徴だ。レクターとメイスンはクラリスを中心において対立する。2人は、いずれもクラリスを自分の下へ引き寄せ、クラリスの純潔を汚そうとする。だがクラリスは、最後まで自身の純潔を失わなかった。
我々の誰もが、時に抑えられない欲求を身の内に感じ、悶える瞬間がある。
愛するものを陵辱し、殺す欲求だ。
愛するものが憎しみに顔を歪め、悲鳴を上げて、血にまみれて、その肉をソテーにして夕食をいただく。
彼女の顔は裏切られたショックのままで硬直しているだろう。いや、あなたを憎しみで睨みつけた姿のまま、果てたかもしれない。どちらにしても、興味をそそられるシチュエーションだ。
だが現実的には法という障害に阻まれ、なかなか実行できる者は少ない。度胸のない我々の多くは、夢想の中で何度もその瞬間を思い巡らし、シーツを汚すだけだ。
我々の多くは、そういった行為が社会規範に反すると刷り込まれ、夢想に留めようとする。両親は我々に、罪や後ろめたさなどという規範を刷り込ませ、快楽を得るのを遠ざけようとする。
凡庸な親が子が芸術の道に進むのを拒むのは、恐怖心からだ。芸術はタブーに挑み、規範の脆さを揺さぶる活動からだ。
レクターは我々の憧れを、何の躊躇いもなく実行する。
レクターは快楽に正直に生き、自らの感性をどこまでも極めようとする。時にその楽しみを他人に分け与えつつ、行為を完成させようとする。
まさに我々が思い描くヒーローそのものである。
美しきものは、陶酔と同時に堕落をもたらす。美しき使者は暗黒世界からの使者である。美しき妻は美しいものを貪欲に求めるし、レクターの美意識とも通じ合える。
芸術は一種の倒錯行為だ。
芸術家は、美しい対象、美しい瞬間を永遠にするために石膏の中に封じ込めようとする。そうして、その瞬間がもたらす陶酔を、無限の中に留めようとする。あの言葉にならない、心が充足に満たされ、世界のすべてと混じり合う尊き瞬間を。
その一瞬を切り取ろうと、芸術家はどこまでも対象を見詰め、時に実体をメスで切り取りコラージュする。ぎりぎりまで引き絞られた緊張の瞬間を。最高のポジションを見つけ出すために、すべてを投げ打つ。
芸術家は陶酔を意識的に操作し、他人に提供する職業だ。
クラリスはレクターに父親のようなものを感じている。レクターは事実、クラリスの父となって手紙で親身に慰め、自身の存在をちらつかせてクラリスに手柄を与えようとする。
『ハンニバル』はリドリー・スコット作品の中でも最も幻想的な空気を持つ。
映画が描く光景は美しく、幻想的で心が奪われる。
恐怖映画ではなく、官能映画だ。
その他のハンニバル・レクターの映画は、作り手の才能が凡庸だったのか頭が悪かったのか、原作の官能的な部分は見逃してきた。
リドリースコットだからこそ、『ハンニバル』を官能映画として描けたのだ。
人はどこまでも堕ちて行く。
だがレクターは一番深い闇の奥で微笑んでいる。
さあおいで。
怖くないよ、と。
暗い影にこそ、最も美しい光が射し込んでくる。
本当に美しく、気高い魂を得たいのなら、さあ、ここだ。
もっと側に――。
映画記事一覧
作品データ
監督:リドリー・スコット
原作:トマス・ハリス 音楽:ハンス・ジマー
脚本:デヴィッド・マメット スティーヴン・ザイリアン
出演:アンソニー・ホプキンス ジュリアン・ムーア
〇 ゲイリー・オールドマン ジャンカルロ・ジャンニーニ
〇 フランチェスカ・ネリ フランキー・フェイソン
〇 レイ・リオッタ イヴァノ・マレスコッティ
レクターは今どこにいるのか――死んでいるのか生きているのか、誰も知らない。
あれから十年。
その間、誰も悲鳴を上げず、悪夢を見ることもなかった。
静かに平和な時が過ぎ――しかしどこかに悪魔が眠っている気配を感じていた。
映画は静かなメロディと共に始まる。場所はどこかの屋敷のようだ。バーニーが招待を受け、醜い顔をした男と対談している。
醜い顔の男はメイスンだ。かつてレクター博士に手ひどい仕打ちを受け、復讐のためにその消息を追っている。
バーニーが招かれたのは、レクター博士の情報を売るためだった。レクター関連の遺物は、その筋のマニアに高く売れるのだ。バーニーはあの隔離病棟を去る時に、多くのハンにバル関連の品々を持ち出していた。バーニーはそれらを売って、日々の糧にしていた。
去り際にバーニーは、レクターがかつてつけていた仮面を差し出す。その仮面を前にして、メイスンは興奮して息を喘がせた。――まるで性的興奮を覚えたように。
メイスンはレクターの手に掛かり、顔面を失い、全身麻痺という障害を負った。しかしメイスンはレクターに感謝している。狂うくらい憎めるものを与えてくれたのだから。
メイスンはレクターを憎んでいる。レクターに顔面の顔を剥がされ、再生不能になっただけでなく、半身不随を負ってしまった。
だが同じくらいに、メイスンはレクターを欲求していた。
レクターと興じた、あの短い一時が忘れられない。自ら顔の肉を引き裂き、血を噴出し、微笑みあうと共に絶頂を達していた。あの時の興奮が忘れられない。
メイスンの愛は深く、憎しみも同時に強い。
極めて屈折した感情だが、相反する感情はメイスン自身を引き裂かず、不純に交じり合っている。
きっとメイスンは、夢の中でレクターを引き裂き、その妄想で何度も勃起したはずだ。まだ不能になっていなければ、だが。
フィレンツェの宮殿でロケーションが行われた。レクター博士はフェルとして司書の仕事に雇われるところだった。パッツィ刑事は、行方不明になっているフェルの前任者を探して面会を求める。
レクターはフィレンツェに潜伏している。レクターが過ごす場所としては相応しいだろう。レクターの美意識に応え、どこまでも磨いてくれる場所だ。
フィレンツェでは殺人鬼すら、優れた美意識を持つようだ。
レクターは品性のない人間を嫌う。礼儀のない人間も。
だからクラリスは相応しい。クラリスは決して汚れない。その肉体も、汚職まみれの組織を身を投じながら、高潔な意思を失わない。
精神の純潔と魂の純潔。クラリスはその両方を持つ、稀な女だ。
だからあの女がいい。
生涯の伴侶とし、永遠の忠誠を誓わせ、快楽を無限に引き出すために。
クラリスは純潔の象徴だ。レクターとメイスンはクラリスを中心において対立する。2人は、いずれもクラリスを自分の下へ引き寄せ、クラリスの純潔を汚そうとする。だがクラリスは、最後まで自身の純潔を失わなかった。
我々の誰もが、時に抑えられない欲求を身の内に感じ、悶える瞬間がある。
愛するものを陵辱し、殺す欲求だ。
愛するものが憎しみに顔を歪め、悲鳴を上げて、血にまみれて、その肉をソテーにして夕食をいただく。
彼女の顔は裏切られたショックのままで硬直しているだろう。いや、あなたを憎しみで睨みつけた姿のまま、果てたかもしれない。どちらにしても、興味をそそられるシチュエーションだ。
だが現実的には法という障害に阻まれ、なかなか実行できる者は少ない。度胸のない我々の多くは、夢想の中で何度もその瞬間を思い巡らし、シーツを汚すだけだ。
我々の多くは、そういった行為が社会規範に反すると刷り込まれ、夢想に留めようとする。両親は我々に、罪や後ろめたさなどという規範を刷り込ませ、快楽を得るのを遠ざけようとする。
凡庸な親が子が芸術の道に進むのを拒むのは、恐怖心からだ。芸術はタブーに挑み、規範の脆さを揺さぶる活動からだ。
レクターは我々の憧れを、何の躊躇いもなく実行する。
レクターは快楽に正直に生き、自らの感性をどこまでも極めようとする。時にその楽しみを他人に分け与えつつ、行為を完成させようとする。
まさに我々が思い描くヒーローそのものである。
美しきものは、陶酔と同時に堕落をもたらす。美しき使者は暗黒世界からの使者である。美しき妻は美しいものを貪欲に求めるし、レクターの美意識とも通じ合える。
芸術は一種の倒錯行為だ。
芸術家は、美しい対象、美しい瞬間を永遠にするために石膏の中に封じ込めようとする。そうして、その瞬間がもたらす陶酔を、無限の中に留めようとする。あの言葉にならない、心が充足に満たされ、世界のすべてと混じり合う尊き瞬間を。
その一瞬を切り取ろうと、芸術家はどこまでも対象を見詰め、時に実体をメスで切り取りコラージュする。ぎりぎりまで引き絞られた緊張の瞬間を。最高のポジションを見つけ出すために、すべてを投げ打つ。
芸術家は陶酔を意識的に操作し、他人に提供する職業だ。
クラリスはレクターに父親のようなものを感じている。レクターは事実、クラリスの父となって手紙で親身に慰め、自身の存在をちらつかせてクラリスに手柄を与えようとする。
『ハンニバル』はリドリー・スコット作品の中でも最も幻想的な空気を持つ。
映画が描く光景は美しく、幻想的で心が奪われる。
恐怖映画ではなく、官能映画だ。
その他のハンニバル・レクターの映画は、作り手の才能が凡庸だったのか頭が悪かったのか、原作の官能的な部分は見逃してきた。
リドリースコットだからこそ、『ハンニバル』を官能映画として描けたのだ。
人はどこまでも堕ちて行く。
だがレクターは一番深い闇の奥で微笑んでいる。
さあおいで。
怖くないよ、と。
暗い影にこそ、最も美しい光が射し込んでくる。
本当に美しく、気高い魂を得たいのなら、さあ、ここだ。
もっと側に――。
映画記事一覧
作品データ
監督:リドリー・スコット
原作:トマス・ハリス 音楽:ハンス・ジマー
脚本:デヴィッド・マメット スティーヴン・ザイリアン
出演:アンソニー・ホプキンス ジュリアン・ムーア
〇 ゲイリー・オールドマン ジャンカルロ・ジャンニーニ
〇 フランチェスカ・ネリ フランキー・フェイソン
〇 レイ・リオッタ イヴァノ・マレスコッティ