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■2010/01/04 (Mon)
映画:外国映画■
テルマとルイーズ。二人の女の物語だ。
その日、テルマとルイーズの二人は旅行へ行く計画を立てていた。
しかしテルマは傲慢な夫から旅行の許可を得られない。夫はテルマが常に家庭にいて、家政婦のように振る舞うのが当然だと考えていた。
結局テルマは夫に黙って旅行に出てしまう。
テルマとルイーズは、旅行の途上で休息を取ろうとバーに入る。
そこでテルマは、出会った男に強姦されかけてしまう。
ルイーズは、とっさに拳銃を手にテルマを救い出す。
が、男は「早く突っ込んでやればよかった」と暴言を吐く。
逆上したルイーズは、衝動的に男を撃ち殺してしまう。
旅行の計画は、一発の銃弾で何もかも変わってしまった。テルマとルイーズは殺人犯として逃避行を始める。
だが2人の旅行は、そもそも逃避行であると予告されていた。テルマは部屋のすべてを鞄に詰めて持ち出そうとしていた。その光景は、旅行というより家出のようであった。
もう帰らない。
どこかへ行くつもり。
はじめから、帰還を予感させない旅だった。
男性の登場シーンは色彩を削除してもあまり印象が変わらない。『テルマ&ルイーズ』には必ず、どこかしらに男性の影がある。テルマとルイーズは、男性の存在の横で揺れ続けている。
テルマとルイーズが逃避するのは、男性の社会からだ。
社会とは、男性が規範を作り出し、運営することでなり立っている。男女平等がいくら叫ばれようとも、実際は男性が中心であるし、女性の社会進出が進んでももともとの形質が変化するわけではない。
その中で女性の役割は、ただ女性に隷属し、決して社会の中心的成員ではない。飽くまでも男性の添え物か補助物だ。男は女が家政婦として働くのを当然の要求だと信じているし、でなければただの性の対象だ。そこに他者としての意思は認められていない。
その利用価値がなくなれば、男は女をポイッとゴミ捨て場にでも捨ててしまう。
テルマとルーズは、そんな男の社会からの反逆を試みる。
ブラッド・ピットはこの映画を切っ掛けに注目されたと言われている。
そんな2人の前に現れるのが、謎の男J.D.である。
J.D.は“オズ”などではない。異界からの使者――サタンだ。
サタンであるJ.D.は、テルマとルイーズに女性としての性を朗らかに認め、尊敬を与える。
J.D.が2人に与えたのは、女性という以上に、人間としての喜び。解放だ。
サタンは規範的な男性の社会に属していない。
だからこそ、ありのままの価値観を与えられるのだ。
リドリー・スコット独特の映像感が、ドラマと融合し始める頃の映画だ。それ以前は知る人ぞ知る監督だったが、徐々に注目され始める。
映像は、美しく、独創的な感性で描かれる。
どの場面も凄まじいディティールで描かれるが、猥雑はさなく、一貫性のある映像美のうえに成立している。
色彩の使い方が素晴らしい。
前半は、特に男性が登場する場面では色彩は抑えられ、モノトーンに近い色彩で描かれる。
後半の2人の逃避行に移ると、色彩はビビッドに描かれ、疾走感のある移動カメラが解放的な気分を与える。
この色彩の構造は、冒頭のカットですでに示唆されている。
冒頭の、砂漠に一本道の道路が貫かれているカット。初めはモノクロームだが、次第にセピアに変わり、最後には色鮮やかなグリーンが現れる。
二人の女は社会から弾かれ、追い詰められていくほどに覚醒していく。
どこかでテルマとルイーズの2人は、あの色彩豊かな世界を見たのだろう。
最も美しく、情熱に満ちた瞬間を感じながら。
映画記事一覧
作品データ
監督:リドリー・スコット
音楽:ハンス・ジマー 脚本:カーリー・クーリ
出演:スーザン・サランドン ジーナ・デイヴィス ブラッド・ピット
〇 マイケル・マドセン クリストファー・マクドナルド
〇 スティーヴン・トボロウスキー ハーヴェイ・カイテル
第64回アカデミー賞 脚本賞受賞
第49回ゴールデングローブ賞 脚本賞受賞
その日、テルマとルイーズの二人は旅行へ行く計画を立てていた。
しかしテルマは傲慢な夫から旅行の許可を得られない。夫はテルマが常に家庭にいて、家政婦のように振る舞うのが当然だと考えていた。
結局テルマは夫に黙って旅行に出てしまう。
テルマとルイーズは、旅行の途上で休息を取ろうとバーに入る。
そこでテルマは、出会った男に強姦されかけてしまう。
ルイーズは、とっさに拳銃を手にテルマを救い出す。
が、男は「早く突っ込んでやればよかった」と暴言を吐く。
逆上したルイーズは、衝動的に男を撃ち殺してしまう。
旅行の計画は、一発の銃弾で何もかも変わってしまった。テルマとルイーズは殺人犯として逃避行を始める。
だが2人の旅行は、そもそも逃避行であると予告されていた。テルマは部屋のすべてを鞄に詰めて持ち出そうとしていた。その光景は、旅行というより家出のようであった。
もう帰らない。
どこかへ行くつもり。
はじめから、帰還を予感させない旅だった。
男性の登場シーンは色彩を削除してもあまり印象が変わらない。『テルマ&ルイーズ』には必ず、どこかしらに男性の影がある。テルマとルイーズは、男性の存在の横で揺れ続けている。
テルマとルイーズが逃避するのは、男性の社会からだ。
社会とは、男性が規範を作り出し、運営することでなり立っている。男女平等がいくら叫ばれようとも、実際は男性が中心であるし、女性の社会進出が進んでももともとの形質が変化するわけではない。
その中で女性の役割は、ただ女性に隷属し、決して社会の中心的成員ではない。飽くまでも男性の添え物か補助物だ。男は女が家政婦として働くのを当然の要求だと信じているし、でなければただの性の対象だ。そこに他者としての意思は認められていない。
その利用価値がなくなれば、男は女をポイッとゴミ捨て場にでも捨ててしまう。
テルマとルーズは、そんな男の社会からの反逆を試みる。
ブラッド・ピットはこの映画を切っ掛けに注目されたと言われている。
そんな2人の前に現れるのが、謎の男J.D.である。
J.D.は“オズ”などではない。異界からの使者――サタンだ。
サタンであるJ.D.は、テルマとルイーズに女性としての性を朗らかに認め、尊敬を与える。
J.D.が2人に与えたのは、女性という以上に、人間としての喜び。解放だ。
サタンは規範的な男性の社会に属していない。
だからこそ、ありのままの価値観を与えられるのだ。
リドリー・スコット独特の映像感が、ドラマと融合し始める頃の映画だ。それ以前は知る人ぞ知る監督だったが、徐々に注目され始める。
映像は、美しく、独創的な感性で描かれる。
どの場面も凄まじいディティールで描かれるが、猥雑はさなく、一貫性のある映像美のうえに成立している。
色彩の使い方が素晴らしい。
前半は、特に男性が登場する場面では色彩は抑えられ、モノトーンに近い色彩で描かれる。
後半の2人の逃避行に移ると、色彩はビビッドに描かれ、疾走感のある移動カメラが解放的な気分を与える。
この色彩の構造は、冒頭のカットですでに示唆されている。
冒頭の、砂漠に一本道の道路が貫かれているカット。初めはモノクロームだが、次第にセピアに変わり、最後には色鮮やかなグリーンが現れる。
二人の女は社会から弾かれ、追い詰められていくほどに覚醒していく。
どこかでテルマとルイーズの2人は、あの色彩豊かな世界を見たのだろう。
最も美しく、情熱に満ちた瞬間を感じながら。
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作品データ
監督:リドリー・スコット
音楽:ハンス・ジマー 脚本:カーリー・クーリ
出演:スーザン・サランドン ジーナ・デイヴィス ブラッド・ピット
〇 マイケル・マドセン クリストファー・マクドナルド
〇 スティーヴン・トボロウスキー ハーヴェイ・カイテル
第64回アカデミー賞 脚本賞受賞
第49回ゴールデングローブ賞 脚本賞受賞
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