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■2010/01/05 (Tue)
映画:外国映画■
……夜が明ける。
木の陰に光が差し込み、小さな蕾が淡い色づきを取り戻す。獣たちもそろそろと目を覚まし、食事を求めて茂みの中を彷徨い始めた。
穢れなき野原が一日の活動を始めようとする。
そんな森に、邪な陰が横切った。まるで夜の闇を引き摺るように、醜悪な子鬼が姿を現した。
子鬼が向った先は毒を吹く沼地だった。その中心に、恐ろしい気配を背負った古城が聳え立っていた。
――魔王が住む城だ。
トム・クルーズとミア・サラ。どちらも若い。トムはこの次作品にトニー・スコット監督の『トップガン』に出演する。特に言及する資料はないが、関連を想像してしまう。
森は午後の穏やかなぬくもりに抱かれていた。草や花は色鮮やかに色づき、競うように芽吹いている。鳥たちが枝から枝へ飛びながらさえずり歌っていた。
穏やかさに満ちた、豊かな時間だった。
そんな森の小道を、ドレス姿の少女が歌いながら走っている。リリー王女だ。
リリーはドレスの裾を掴みながら、森の深いところに入っていく。下草はリリー王女と同じ背丈まで伸びて、その姿を色とりどりの花で包み隠そうとしている。
リリー王女は誰かを探すように首を伸ばし、きょろきょろと森を見回していた。
「ジャック。どこにいるの、ジャック?」
不意に、ちょっと向うの岩場に誰かが飛びついた。リリー王女は驚いて目を背けた。
だけどすぐに怒ったように頬を膨らませて振り返った。岩場に現れたのはジャックだった。
その森はジャックとリリーの2人きりの場所であり、2人きりの秘密の時間だった。
後に『ブレードランナー ディレクターズカット最終版』で使用されたのはこのユニコーンだ。
その日、ジャックはリリーに「特別なもの」を見せたいと森のさらなる奥へと連れて行く。
人気の絶えた場所だった。獣のざわざわとした声で満ちていた。しかしそこに射し込む光は人里近い麓よりはるかに眩く煌き、むしろ神聖な気持ちに包まれるようだった。
そんな場所で待っていたのは2頭のユニコーンだった。
リリーはユニコーンの美しさに心捉われてしまう。
「リリー、近付いちゃ駄目だ。ユニコーンに触れてはいけない」
しかしリリーはジャックの忠告を聞かず、ユニコーンを歌声で誘いその鼻先を撫でる。
その時、何かが起きた。
風が強く吹き、太陽は厚い雲の向こうにかき消された。世界は闇に封じられ、冷たい吹雪が渦を巻き始める。
ユニコーンに触れた事によって、時間が凍り付いてしまったのだ。
ゴブリンに指輪。改めて見ると『ロード・オブ・ザ・リング』に似たモチーフそっくりな構図が見られる。ピータージャクソン監督はやはりこの作品を見たのだろう。
ファンタジーとは絶対的な世界だ。
夜の夢のように自由で途方がなく、不条理でどこかに必ず狂気が潜んでいる。なのにファンタジーは我々の心を捕らえて決して離させなくさせる。なぜならファンタジーには、物語自体に魔法使いの呪いが掛けられているからだ。
ファンタジー作りは難しい。
ファンタジーには作り手の全てが試される。作り手の生まれてから得た全ての知識と美意識。
ファンタジーには一片でも隙があってはならない。なにもかもが小さな世界の中で原理的な自己完結をしなければならない。英雄の冒険に求められるものと同様に、知恵と美の力が問われるのだ。
ファンタジーの創造を失敗する――それは作家の無能を晒すという意味だ。
この映画では異世界の特徴を描くために、様々なイメージがレイヤリングされる。左の場面ではシャボン玉。なぜシャボン玉なのかわからないが美しい。
物語は森のずっと深い場所で始まる。
森の奥。暗闇がどこかに潜む場所。文明の支配から遠く逃れた場所。そこがリリー王女と森の住人ジャックとの秘密の場所だった。
森は古来より、魔物が住む場所と信じられてきた。そんな場所だからこそ、最も気高きものとおぞましきものが同居している。
物語はご都合主義のように、淀みなくストンと流れ落ちてしまう。魔王という絶対的な困難を前にしているのに、見ている側はそれほど大きな障壁に感じないのが欠点だ。
神聖さの象徴であるユニコーンは決してその背に人間を乗せない。人間は存在自体が不浄――それは人間が文明を得たと同時に達成された1つの意識である。
ただし例外がある。
まだ生理を迎えていない処女。肉体も魂も汚されていない幼き娘。
そんな少女だけが、神聖なるユニコーンに手を触れる資格が得られる。ユニコーンは穢れなき乙女にのみ、その背に乗ることを許す。
神聖さの象徴であるユニコーンを、恐ろしき魔物が影を潜めて狙っている。聖と魔は常に表裏一体だ。ユニコーンは神聖なる神であると同時に、恐ろしき魔王の属性を持っている。
リリーが不純な動機でユニコーンに触れた瞬間、異変が起き、影を潜めていた子鬼たちが公然と姿を現す。
リリーが手を触れた結果、ユニコーンから神秘と神聖さが失われ、魔物へと姿を変えたのだ。
ガンプ、それから妖精ウーナ。いずれも実に妖精を思わせる容姿をしている。よく見つけてきた、といったところか。物語やキャラクターは北欧神話からイメージを得ている。デザイナーの1人に『指輪物語』の挿絵画家アラン・リーがいる。ということはやはり『ロード・オブ・ザ・リング』に近い起源を持つのだ。
ユニコーンの角が折られ、大きな異変が起きてしまう。と同時に、森は様々な秘密を明らかにしていく。
魔王の存在。それから森に潜むガンプやブラウン・トムといった精霊たちだ。
すでに日常の時間や意識は崩壊した。リリーとジャックは、過ちを犯した結果、見えざる妖精世界へと足を踏み入れてしまったのだ。
間に魅了されて踊りだすリリー。抵抗するが、あまりにも美しい光景、軽やかなメロディに誘われて、つい一緒に踊ってしまう。リリーが“堕ちる”瞬間である。映画中でも美しさが際立つシーンだ。
『レジェンド 光と闇の伝説』の物語は普遍的な少年と少女の冒険物語だ。
少年が困難に打ち克ち、愛する乙女を手にするまでの物語。少年ジャックは恐ろしき魔王に立ち向かうために、男性としての全ての資質を得る。
力。責任。友情。信念。理性。
一方で少女も困難に挑戦する。
魔王の宮殿には美しい宝石や鮮やかなドレス、舌を喜ばせる美食に満たされている。美を愛する少女は、常に美しいものに心を奪われる。それは少女自身の欲望――不純な精神との対立を表している。
少女は美を愛で、永遠の美との同化を望む。しかしその背後には恐ろしい魔王が身を潜めて、清らかな魂を汚し、肉体を陵辱しようと待ち構えている。
魔王は堂々たる全身メイク。迫力は凄まじい。ところで『ドラクエ』シリーズにそっくりのモンスター・キャラクターが登場するが偶然の一致だろうか。
物語の時間は、リリーが池に指輪を投げ入れた瞬間、全てが静止する。
ジャックが池に飛び込んだ時点で、物語は現実的なパースティクティブを喪い、精神世界に突入している。
無限に延長された精神世界の物語。
少年と少女は、その最中に夫として、妻として必要な資質のすべてを試されている。
ジャックは全ての困難を達成できたからこそ、池の底で指輪を発見できた。その瞬間、時間は再生され全てのものは新しく萌え生まれる。
『レジェンド』は究極の手作り映画だ。ほとんどはセット撮影で作られている。リドリー・スコット監督は当時の手法、自身の感性のすべてを注ぎ込み、おそらくは美術家としての資質を試そうとしたのだろう。前期リドリー・スコット作品において、もっとも美しい作品となった。だが一方で、惜しい作品であった。(下の「続き」を参照)
『レジェンド 光と闇の伝説』はどこまでも美しい映画だ。
美術家としての研ぎ澄まされた感性が見事に結集している。
『レジェンド 光と闇の伝説』は今も魔法の輝きに満ちている。
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作品データ
監督:リドリー・スコット 原作・脚本:ウィリアム・ヒョーツバーグ
音楽:ジェリー・ゴールドスミス
出演:トム・クルーズ ミア・サラ ティム・カリー
〇 ダーヴィット・ベネント アリス・プレイトン
〇 ビリー・バーティ コーク・ハバート
木の陰に光が差し込み、小さな蕾が淡い色づきを取り戻す。獣たちもそろそろと目を覚まし、食事を求めて茂みの中を彷徨い始めた。
穢れなき野原が一日の活動を始めようとする。
そんな森に、邪な陰が横切った。まるで夜の闇を引き摺るように、醜悪な子鬼が姿を現した。
子鬼が向った先は毒を吹く沼地だった。その中心に、恐ろしい気配を背負った古城が聳え立っていた。
――魔王が住む城だ。
トム・クルーズとミア・サラ。どちらも若い。トムはこの次作品にトニー・スコット監督の『トップガン』に出演する。特に言及する資料はないが、関連を想像してしまう。
森は午後の穏やかなぬくもりに抱かれていた。草や花は色鮮やかに色づき、競うように芽吹いている。鳥たちが枝から枝へ飛びながらさえずり歌っていた。
穏やかさに満ちた、豊かな時間だった。
そんな森の小道を、ドレス姿の少女が歌いながら走っている。リリー王女だ。
リリーはドレスの裾を掴みながら、森の深いところに入っていく。下草はリリー王女と同じ背丈まで伸びて、その姿を色とりどりの花で包み隠そうとしている。
リリー王女は誰かを探すように首を伸ばし、きょろきょろと森を見回していた。
「ジャック。どこにいるの、ジャック?」
不意に、ちょっと向うの岩場に誰かが飛びついた。リリー王女は驚いて目を背けた。
だけどすぐに怒ったように頬を膨らませて振り返った。岩場に現れたのはジャックだった。
その森はジャックとリリーの2人きりの場所であり、2人きりの秘密の時間だった。
後に『ブレードランナー ディレクターズカット最終版』で使用されたのはこのユニコーンだ。
その日、ジャックはリリーに「特別なもの」を見せたいと森のさらなる奥へと連れて行く。
人気の絶えた場所だった。獣のざわざわとした声で満ちていた。しかしそこに射し込む光は人里近い麓よりはるかに眩く煌き、むしろ神聖な気持ちに包まれるようだった。
そんな場所で待っていたのは2頭のユニコーンだった。
リリーはユニコーンの美しさに心捉われてしまう。
「リリー、近付いちゃ駄目だ。ユニコーンに触れてはいけない」
しかしリリーはジャックの忠告を聞かず、ユニコーンを歌声で誘いその鼻先を撫でる。
その時、何かが起きた。
風が強く吹き、太陽は厚い雲の向こうにかき消された。世界は闇に封じられ、冷たい吹雪が渦を巻き始める。
ユニコーンに触れた事によって、時間が凍り付いてしまったのだ。
ゴブリンに指輪。改めて見ると『ロード・オブ・ザ・リング』に似たモチーフそっくりな構図が見られる。ピータージャクソン監督はやはりこの作品を見たのだろう。
ファンタジーとは絶対的な世界だ。
夜の夢のように自由で途方がなく、不条理でどこかに必ず狂気が潜んでいる。なのにファンタジーは我々の心を捕らえて決して離させなくさせる。なぜならファンタジーには、物語自体に魔法使いの呪いが掛けられているからだ。
ファンタジー作りは難しい。
ファンタジーには作り手の全てが試される。作り手の生まれてから得た全ての知識と美意識。
ファンタジーには一片でも隙があってはならない。なにもかもが小さな世界の中で原理的な自己完結をしなければならない。英雄の冒険に求められるものと同様に、知恵と美の力が問われるのだ。
ファンタジーの創造を失敗する――それは作家の無能を晒すという意味だ。
この映画では異世界の特徴を描くために、様々なイメージがレイヤリングされる。左の場面ではシャボン玉。なぜシャボン玉なのかわからないが美しい。
物語は森のずっと深い場所で始まる。
森の奥。暗闇がどこかに潜む場所。文明の支配から遠く逃れた場所。そこがリリー王女と森の住人ジャックとの秘密の場所だった。
森は古来より、魔物が住む場所と信じられてきた。そんな場所だからこそ、最も気高きものとおぞましきものが同居している。
物語はご都合主義のように、淀みなくストンと流れ落ちてしまう。魔王という絶対的な困難を前にしているのに、見ている側はそれほど大きな障壁に感じないのが欠点だ。
神聖さの象徴であるユニコーンは決してその背に人間を乗せない。人間は存在自体が不浄――それは人間が文明を得たと同時に達成された1つの意識である。
ただし例外がある。
まだ生理を迎えていない処女。肉体も魂も汚されていない幼き娘。
そんな少女だけが、神聖なるユニコーンに手を触れる資格が得られる。ユニコーンは穢れなき乙女にのみ、その背に乗ることを許す。
神聖さの象徴であるユニコーンを、恐ろしき魔物が影を潜めて狙っている。聖と魔は常に表裏一体だ。ユニコーンは神聖なる神であると同時に、恐ろしき魔王の属性を持っている。
リリーが不純な動機でユニコーンに触れた瞬間、異変が起き、影を潜めていた子鬼たちが公然と姿を現す。
リリーが手を触れた結果、ユニコーンから神秘と神聖さが失われ、魔物へと姿を変えたのだ。
ガンプ、それから妖精ウーナ。いずれも実に妖精を思わせる容姿をしている。よく見つけてきた、といったところか。物語やキャラクターは北欧神話からイメージを得ている。デザイナーの1人に『指輪物語』の挿絵画家アラン・リーがいる。ということはやはり『ロード・オブ・ザ・リング』に近い起源を持つのだ。
ユニコーンの角が折られ、大きな異変が起きてしまう。と同時に、森は様々な秘密を明らかにしていく。
魔王の存在。それから森に潜むガンプやブラウン・トムといった精霊たちだ。
すでに日常の時間や意識は崩壊した。リリーとジャックは、過ちを犯した結果、見えざる妖精世界へと足を踏み入れてしまったのだ。
間に魅了されて踊りだすリリー。抵抗するが、あまりにも美しい光景、軽やかなメロディに誘われて、つい一緒に踊ってしまう。リリーが“堕ちる”瞬間である。映画中でも美しさが際立つシーンだ。
『レジェンド 光と闇の伝説』の物語は普遍的な少年と少女の冒険物語だ。
少年が困難に打ち克ち、愛する乙女を手にするまでの物語。少年ジャックは恐ろしき魔王に立ち向かうために、男性としての全ての資質を得る。
力。責任。友情。信念。理性。
一方で少女も困難に挑戦する。
魔王の宮殿には美しい宝石や鮮やかなドレス、舌を喜ばせる美食に満たされている。美を愛する少女は、常に美しいものに心を奪われる。それは少女自身の欲望――不純な精神との対立を表している。
少女は美を愛で、永遠の美との同化を望む。しかしその背後には恐ろしい魔王が身を潜めて、清らかな魂を汚し、肉体を陵辱しようと待ち構えている。
魔王は堂々たる全身メイク。迫力は凄まじい。ところで『ドラクエ』シリーズにそっくりのモンスター・キャラクターが登場するが偶然の一致だろうか。
物語の時間は、リリーが池に指輪を投げ入れた瞬間、全てが静止する。
ジャックが池に飛び込んだ時点で、物語は現実的なパースティクティブを喪い、精神世界に突入している。
無限に延長された精神世界の物語。
少年と少女は、その最中に夫として、妻として必要な資質のすべてを試されている。
ジャックは全ての困難を達成できたからこそ、池の底で指輪を発見できた。その瞬間、時間は再生され全てのものは新しく萌え生まれる。
『レジェンド』は究極の手作り映画だ。ほとんどはセット撮影で作られている。リドリー・スコット監督は当時の手法、自身の感性のすべてを注ぎ込み、おそらくは美術家としての資質を試そうとしたのだろう。前期リドリー・スコット作品において、もっとも美しい作品となった。だが一方で、惜しい作品であった。(下の「続き」を参照)
『レジェンド 光と闇の伝説』はどこまでも美しい映画だ。
美術家としての研ぎ澄まされた感性が見事に結集している。
『レジェンド 光と闇の伝説』は今も魔法の輝きに満ちている。
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作品データ
監督:リドリー・スコット 原作・脚本:ウィリアム・ヒョーツバーグ
音楽:ジェリー・ゴールドスミス
出演:トム・クルーズ ミア・サラ ティム・カリー
〇 ダーヴィット・ベネント アリス・プレイトン
〇 ビリー・バーティ コーク・ハバート
突っ込みどころ
『レジェンド 光と闇の伝説』は、究極の手作り映画である。
そのために、やはり気になってしまう場所も多い。
まずは妖精ウーナ。
小さな光の妖精だが、どう見ても糸で吊っている。
光の妖精ウーナがジャックの周囲を飛び交う。
どう見ても糸で吊っている動きだ。糸自体は見えないが、際どい感じだ。デジタル技術のなかった時代だから当然だが、気になって仕方ない。
またしても、撮影用ライトが映ってしまっている。
弓矢を撃ち放つゴブリン。
その背後にはどうみても撮影用ライト。
技術的なミスではないが、トム・クルーズの鎖帷子。なぜここまで際どいデザインに?
股間ギリギリの鎖帷子。今にも見えそうな……。
なぜそこまで短くした?
『レジェンド 光と闇の伝説』は不遇な運命の結果として作られた映画だった。
映画には子供映画らしくないグロテスクな描写がしばしば見られるが、リドリー・スコットの意図では、もっと恐ろしい映画になるはずだった。
ゴブリンや妖精たちはもっと恐ろしい存在になるはずだったし、確かな情報ではないがリリーが魔王にレイプされるシーンも構想されていたようだ。
ファンタジーは作家の精神性そのものを強く刻印する手法である。リドリー・スコットは美術家としての感性と哲学をこの作品の中で描きたかったのだろう。もっと闇が深く、恐ろしく暴力的な映画を描くつもりだったのだろう。
だが当時の映画会社の役員は、どうしてもリドリー・スコットの意図を理解できなかった。当時は「ダーク・ファンタジー」という言葉も一般的ではなく(あるいはダーク・ファンタジーという言葉自体なかった)、イメージを容易に説明する方法はなかった。
結局は『レジェンド 光と闇の伝説』は本来の毒素をまったくの無害なレベルまでに薄められ、退屈極まりない、通俗的なイメージで覆い尽くされた児童映画にまで骨抜きされてしまったのだ。
しかも『レジェンド 光と闇の伝説』は莫大な制作費を掛けたにも関わらず興行的に惨敗。その後リドリー・スコットをハリウッドから遠ざけさせてしまった。
我々が見ている『レジェンド 光と闇の伝説』はまだ本来の姿ではない。
残念なながら、この映画を本来の姿で我々の前に現れる機会は、永久にないだろう。
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