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■2010/01/03 (Sun)
映画:外国映画■
バリアンは妻が自殺した罪で投獄されていた。キリスト教の理念では、自殺は大罪である。その夫であるバリアンも、同じ罪があるとして投獄されていた。
バリアンの妻は墓地ではなく“十字路”に首を落とされた姿で埋葬された。その埋葬を取り仕切っていたのは、バリアンの弟である神父であった。
間もなくしてバリアンは釈放された。バリアンは村で唯一の鍛冶屋。教会の建設が進まないという理由だった。
バリアンは希望を失った顔のまま、鍛冶屋に戻りもとの生活を再開させた。
広大なセットに思えるが、実際に制作されたセットは1つだけだ。同じ場所を、角度と小物の配置を変えて何度も撮影している。デビュー以来、セット撮影が多かったリドリー・スコットらしい節約術だ。
自殺した妻の罪は決して許されないのか――?
妻を亡くした悲しみ、キリスト教への疑問。バリアンは何も語らず、孤独のうちで苦悩にしていた。
そんなバリアンの元に旅の騎士団がやって来た。聖十字軍のゴッドフリーだ。
ゴッドフリーはエルサレム王の直臣であり、戦地に戻れば百人の部下を持つ騎士であった。村の長はさっそくバリアンを迎え入れ、歓迎する。
だがゴッドフリーの目的は、バリアンにあった。ゴッドフリーはバリアンの鍛冶屋を訪ね、自分が父親であると告げる。そのうえで、共にエルサレムへ行こうと誘う。
しかしバリアンは、妻が眠るその土地を選ぶ。もうしばし妻といるその時間を――。
劇場公開版では存在すら感じさせなかったシビラの息子。『ブレードランナー』でもそうだったが、編集というものについて考えさせられる。基本的なあらすじは変わっていないが、どの場面を選択するかで実写の映画は大きく印象を変える。
鍛冶屋の仕事は夜更けまで続いた。バリアンはもくもくと火花を散らし、鉄を叩き続けた。
そんなバリアンを神父が尋ねる。神父はバリアンの弟で、妻の埋葬を指示した男だ。神父はバリアンを疎ましく思っていた。
だから神父は、バリアンを追い出そうとエルサレム行きを勧める。それでも頑ななバリアンに、神父はバリアンの妻を埋葬する時に、その首を落とし、十字架を奪ったと挑発する。
バリアンに、衝動の炎が宿った。
バリアンは弟を熱を持った鉄で串刺しにし、炎で焼き殺した。さらに妻の持ち物である十字架を取り戻すと、夜のうちに村を立ち去った。
本作は『ラストサムライ』と同じように、イスラム側のスタッフに意見を伺いながら制作が進められた。結果として、イスラム側の視点や思想を多く取り入れた映画となっている。
『キングダム・オブ・ヘブン ディレクターズ・カット』は2時間半の劇場公開作品よりさらに50分も追加された長大な映画だ。通して見ると3時間14分にも及ぶ。
もちろん劇場公開作品とは様々な部分で異なる。
バリアンの妻について詳細に語られるようになり、劇場公開版では存在すら感じさせなかったシビラの息子も登場する。
劇場公開版の『キングダム・オブ・ヘブン』は、エルサレムの戦いを冒険物語として描いた作品だった。フランスの若者の下に父親と名乗る男が現われ、冒険の旅が始まる。冒険の最中に幾多の困難が待ち受け、若者はいつしか英雄として目覚める……。
劇場公開版『キングダム・オブ・ヘブン』を要約すると、そういった物語になる。
だが英雄物語というほどバリアンは目立った活躍をしないし、いわゆる冒険物語のように何かの褒美を得て古里に帰還する物語ではない。英雄叙事詩としてみると、ひどく違和感のある映画だった。
だから改めてディレクターズ・カット版を見ると、映画が冒険物語として描いたのではないとわかる。
キリスト教とは何か?
信仰とは何か?
罪とは?
正義とは?
『キングダム・オブ・ヘブン ディレクターズ・カット』は劇場公開版よりもっと複雑で、深みのあるテーマを掘り下げていく。
キリストが貼り付けにされた丘で、バリアンは一晩過ごす。しかし特別な奇跡は起きない。バリアンは十字架を埋めて「君は地獄ではない。私の心に」と呟く。
現実世界でもそうだが、キリスト教は自身の理念や思想に捉われ、原理主義に陥っている。人間同士を向き合うヒューマニズムはなく、かつてキリストが論じたような理想論など影も形もない。
バリアンの旅の最中、キリスト教徒が道行く人々に、こう説教するのを見かける。
「人を殺すのは罪だ。だが異教徒を殺すのは罪にならない。天国への道だ」
自殺と、同じ宗教の者を殺すのは罪になるが、異教徒の殺人を奨励している。
バリアンの弟の神父は、そんなキリスト教の理念に従って義姉の首を落とした。さらに兄も同罪として容赦なく投獄した。それがキリスト教の教義だから、それに従ったに過ぎない。
バリアンが求めていたのは妻の魂の救済だった。
イエス・キリストは全ての人と魂に赦しを与えようとした。生まれながらにして罪を持った人間〔=原罪〕の業をたった1人で背負い、死に臨んでいった。だが現実のキリスト教は、どんな罪でも決して許そうとはしない。許す切っ掛けを決して与えない。
そんなキリスト教が支配する世界に、本当に許しなどあるのか。
バリアンは神とキリストを試すかのように弟を殺害する。妻と同じ地獄へ行くためだ。
映画中に描かれたエルサレムの戦いは実際にあったが、物語そのものはフィクションだ。登場人物も歴史から取られているが、バリアンとゴッドフリーが親子であったという事実はない。
エルサレムへ行けば、新しい世界が待っている――。
とゴッドフリーはバリアンに語って聞かせる。
身分に関係なく、生まれ持った才能と資質が試される場所。それこそがエルサレムだ。
バリアンはエルサレムへ行き、キリストの磔刑の丘まで行く。
しかし、何も得られなかった。罪の許しもなかった。神秘体験もなかった。
エルサレムは父が語ったような理想世界ではなく、不法と不徳が支配する渾沌とした国だった。
エルサレムに、果たしてどんな価値があるのか?
次第にバリアンは、信仰心を失っていく。
映画に攻城塔が登場するのは初めてではないが実際に動いたのはごく最近(参照)。近年はデジタルばかり注目されるが多くの点で撮影技術は進歩しているのだ。かつての映像作家が見たら悔しがるだろう(余談ながら雲もデジタルだ。実写映画にとって天候は1つの難関だった。雲を相手に1週間待った黒澤明なら現代の撮影法を喜んだだろう)。
僧侶であるホスピタラーは、バリアンに諭すように語る。
「信心深いのも考え物です。“神の意思”と称する狂信者がいかに非道を行ったか見てきました。私が人を殺す者の目に見えたのは“狂信”です。“聖人”とは弱き者のために、勇気を持って正義を行う人々のことです。神が望む“善”というものは、ここと――ここに。善人かどうかは日々の行いが決めます」
とホスピタラーはバリアンの頭と胸を示す。
難解なテーマを持った作品だ。冒険物語風のテイストを盛り込んだのは、物語に親しみを持たせるためだろう。だがディレクターズカットを見ると冒険映画ではないとわかる。愉快な娯楽活劇ではないし、興行的にも惨敗だった作品だが、見逃す愚は犯したくない。
本当の信仰とは、盲目的に教会に従うことではない。それは“狂信”だ。映画は“信仰”と“狂信”の違いを語る。
人々を救うために、どれだけの勇気を発揮できるか。
エルサレムでは人間の地位ではなく、人間本来の資質と高潔さが推し量られる場所だ。それはこの渾沌としたエルサレムで、いかに善行を実践できるか、という意味だった。
それこそ、正しい“天国への道”なのだ。
待ち受ける困難は、人間としての資質を量るための試練だ。
バリアンは、間もなく運命に向き合って戦う道を選ぶ。
決して自身の信念を曲げず、魂を汚す行為を犯さず、いかに人々を多く救えるか。
それは人間としての価値を試す戦いだった。
映画記事一覧
作品データ
監督:リドリー・スコット
音楽:ハリー・グレッグソン=ウィリアムズ 脚本:ウィリアム・モナハン
出演:オーランド・ブルーム エヴァ・グリーン
〇 リーアム・ニーソン ジェレミー・アイアンズ
〇 エドワード・ノートン デヴィッド・シューリス
〇 ブレンダン・グリーソン マートン・ソーカス
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