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■2010/01/04 (Mon)
映画:外国映画■
刑事ニックは押収品の横領を疑われていた。6月の事件で得た押収品の一部が消えている。
ニックは妻と離婚し、慰謝料と子供の養育費で相当の出費があるはずだ。内務捜査官は、ニックが押収品を横流しし、それで得た金を慰謝料と養育費にしていると考えていた。
もちろんニックは容疑を否認。そんなはずはない、と完全否定した。
査問が終わり、ニックはレストランで同僚のチャーリーと合流する。
そこで和やかに昼食――というわけにはいかなかった。レストランには日本のヤクザも居合わせていた。ニックとチャーリーはヤクザを気にしながら食事を続ける。
そこに、黒いコートの男が現れた。佐藤だ。
佐藤はヤクザの一団の中へ入っていくと、何かを奪って立ち去ろうとする。だがその時、日本人のうちの誰かが佐藤に何か言った。
これに佐藤は逆上した。レストランに集ったヤクザ2人を殺害し、去っていく。
ニックとチャーリーはただちに佐藤を追跡した。
格闘戦の末、ニックたちは佐藤を現行犯逮捕する。しかし佐藤の身柄はただちに日本に送られることになった。日本大使館員が介入してきたのだ。
ニックとチャーリーはしぶしぶ佐藤を日本まで護送する。
日本に到着したところで偽の警官が現れ、ニックは疑いを抱かず書類にサインし、佐藤を引き渡してしまう。
日本まで来て佐藤を逃がしてしまった失態に、日本の警察は激怒。ニックとチャーリーは捜査の権限を奪われ、さらに松本警部補の監視下に置かれる。
それでもニックは、佐藤逮捕を諦めず果敢に事件に挑む。
日本にやって来た最初のカット。『ブレードランナー』のようだがこの風景は映画のフィルターを通さずとも実際に見られる。伊勢丹空港周辺の工業地帯を晴れた夕暮れ時に走るとこの通りの風景が見られる。
舞台は日本。しかも大阪だ。もちろん日本でロケーションされた映画だ。
だが『ブラック・レイン』で見る日本は、馴染みのある場所ではない。どこか奇妙で、知らない世界のようにすら見える。『ブラック・レイン』が描く日本の風景はあまりにも猥雑で、騒々しく、あちこちで不浄のガスが渦巻いている。まるでSF映画でも見ているような奇妙な印象すらある。
道頓堀周辺らしき場所。ロケのほとんどはここで撮影された。奇妙な漢字の並ぶシーンはセット撮影だ。日本人出演者が間違いを指摘してもよかったと思うのだが。日米合作映画とはいえ、現実的にはアメリカ主導で制作されたとよくわかる。
欧米人にとって、日本は未だに遠い国である。
サムライが国を治め、ニンジャが裏社会を暗躍し、ゲイシャが夜を慰める……。
欧米人による日本人の印象なんてその程度だ。いまだ日本と中国の区別が難しいらしく、背景に奇妙な漢字が並ぶ。大量の自転車が横切ったりなど、中国のステレオタイプ的風景も登場する。
日本でロケーションされているが、映画はあえてなのか日本を親しみある場所として描いていない。遠い、どこかにあるかも知れない――あくまでも異界としての日本なのだ。
『ブラック・レイン』での日本とは飽くまでも“素材”なのであって、描こうとしたのはリドリー・スコットの感性が描く“異世界”なのである。
この映画でも対決の構図が描かれている。
物語はわかりやすい典型的な異界冒険譚として描かれる。
セオリー通りに物語がはじまり、事件が起き、アメリカ人が介入することによって解決する。事件解決のご褒美は当然、美女のキッスだ。実にハリウッド・エンターティメントとして行儀のいい作品である。
この映画で新鮮な印象をもたらすのは、リドリー・スコットがイメージして見せた“異界”としての日本であって、その物語にはない。
それからもう1つ。この映画において語らねばならないのは松田優作の存在だ。
松田優作の演技は素晴らしく、出演時間は短いものの強烈な印象を残す。不良刑事であるニックですら、松田優作が演じる佐藤の前では平凡な優等生に見えて、映画の枠組みの中に埋没している。
松田優作だけが映画のフレームを飛躍して自由に奔放に振舞い、強烈な印象を残して去っていく。
もしこの映画が心に残るとしたら、松田優作の存在感によるものだろう。
映画記事一覧
監督:リドリー・スコット
脚本:クレイグ・ボロティン ウォーレン・ルイス
撮影:ヤン・デ・ボン 音楽:ハンス・ジマー
出演:松田優作 マイケル・ダグラス 高倉健
〇 アンディ・ガルシア ケイト・キャプショー
〇 若山富三郎 内田裕也 國村隼
〇 安岡力也 神山繁 ガッツ石松
ニックは妻と離婚し、慰謝料と子供の養育費で相当の出費があるはずだ。内務捜査官は、ニックが押収品を横流しし、それで得た金を慰謝料と養育費にしていると考えていた。
もちろんニックは容疑を否認。そんなはずはない、と完全否定した。
査問が終わり、ニックはレストランで同僚のチャーリーと合流する。
そこで和やかに昼食――というわけにはいかなかった。レストランには日本のヤクザも居合わせていた。ニックとチャーリーはヤクザを気にしながら食事を続ける。
そこに、黒いコートの男が現れた。佐藤だ。
佐藤はヤクザの一団の中へ入っていくと、何かを奪って立ち去ろうとする。だがその時、日本人のうちの誰かが佐藤に何か言った。
これに佐藤は逆上した。レストランに集ったヤクザ2人を殺害し、去っていく。
ニックとチャーリーはただちに佐藤を追跡した。
格闘戦の末、ニックたちは佐藤を現行犯逮捕する。しかし佐藤の身柄はただちに日本に送られることになった。日本大使館員が介入してきたのだ。
ニックとチャーリーはしぶしぶ佐藤を日本まで護送する。
日本に到着したところで偽の警官が現れ、ニックは疑いを抱かず書類にサインし、佐藤を引き渡してしまう。
日本まで来て佐藤を逃がしてしまった失態に、日本の警察は激怒。ニックとチャーリーは捜査の権限を奪われ、さらに松本警部補の監視下に置かれる。
それでもニックは、佐藤逮捕を諦めず果敢に事件に挑む。
日本にやって来た最初のカット。『ブレードランナー』のようだがこの風景は映画のフィルターを通さずとも実際に見られる。伊勢丹空港周辺の工業地帯を晴れた夕暮れ時に走るとこの通りの風景が見られる。
舞台は日本。しかも大阪だ。もちろん日本でロケーションされた映画だ。
だが『ブラック・レイン』で見る日本は、馴染みのある場所ではない。どこか奇妙で、知らない世界のようにすら見える。『ブラック・レイン』が描く日本の風景はあまりにも猥雑で、騒々しく、あちこちで不浄のガスが渦巻いている。まるでSF映画でも見ているような奇妙な印象すらある。
道頓堀周辺らしき場所。ロケのほとんどはここで撮影された。奇妙な漢字の並ぶシーンはセット撮影だ。日本人出演者が間違いを指摘してもよかったと思うのだが。日米合作映画とはいえ、現実的にはアメリカ主導で制作されたとよくわかる。
欧米人にとって、日本は未だに遠い国である。
サムライが国を治め、ニンジャが裏社会を暗躍し、ゲイシャが夜を慰める……。
欧米人による日本人の印象なんてその程度だ。いまだ日本と中国の区別が難しいらしく、背景に奇妙な漢字が並ぶ。大量の自転車が横切ったりなど、中国のステレオタイプ的風景も登場する。
日本でロケーションされているが、映画はあえてなのか日本を親しみある場所として描いていない。遠い、どこかにあるかも知れない――あくまでも異界としての日本なのだ。
『ブラック・レイン』での日本とは飽くまでも“素材”なのであって、描こうとしたのはリドリー・スコットの感性が描く“異世界”なのである。
この映画でも対決の構図が描かれている。
物語はわかりやすい典型的な異界冒険譚として描かれる。
セオリー通りに物語がはじまり、事件が起き、アメリカ人が介入することによって解決する。事件解決のご褒美は当然、美女のキッスだ。実にハリウッド・エンターティメントとして行儀のいい作品である。
この映画で新鮮な印象をもたらすのは、リドリー・スコットがイメージして見せた“異界”としての日本であって、その物語にはない。
それからもう1つ。この映画において語らねばならないのは松田優作の存在だ。
松田優作の演技は素晴らしく、出演時間は短いものの強烈な印象を残す。不良刑事であるニックですら、松田優作が演じる佐藤の前では平凡な優等生に見えて、映画の枠組みの中に埋没している。
松田優作だけが映画のフレームを飛躍して自由に奔放に振舞い、強烈な印象を残して去っていく。
もしこの映画が心に残るとしたら、松田優作の存在感によるものだろう。
映画記事一覧
監督:リドリー・スコット
脚本:クレイグ・ボロティン ウォーレン・ルイス
撮影:ヤン・デ・ボン 音楽:ハンス・ジマー
出演:松田優作 マイケル・ダグラス 高倉健
〇 アンディ・ガルシア ケイト・キャプショー
〇 若山富三郎 内田裕也 國村隼
〇 安岡力也 神山繁 ガッツ石松
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■2010/01/04 (Mon)
映画:外国映画■
レクターが姿を消して十年が過ぎた。
レクターは今どこにいるのか――死んでいるのか生きているのか、誰も知らない。
あれから十年。
その間、誰も悲鳴を上げず、悪夢を見ることもなかった。
静かに平和な時が過ぎ――しかしどこかに悪魔が眠っている気配を感じていた。
映画は静かなメロディと共に始まる。場所はどこかの屋敷のようだ。バーニーが招待を受け、醜い顔をした男と対談している。
醜い顔の男はメイスンだ。かつてレクター博士に手ひどい仕打ちを受け、復讐のためにその消息を追っている。
バーニーが招かれたのは、レクター博士の情報を売るためだった。レクター関連の遺物は、その筋のマニアに高く売れるのだ。バーニーはあの隔離病棟を去る時に、多くのハンにバル関連の品々を持ち出していた。バーニーはそれらを売って、日々の糧にしていた。
去り際にバーニーは、レクターがかつてつけていた仮面を差し出す。その仮面を前にして、メイスンは興奮して息を喘がせた。――まるで性的興奮を覚えたように。
メイスンはレクターの手に掛かり、顔面を失い、全身麻痺という障害を負った。しかしメイスンはレクターに感謝している。狂うくらい憎めるものを与えてくれたのだから。
メイスンはレクターを憎んでいる。レクターに顔面の顔を剥がされ、再生不能になっただけでなく、半身不随を負ってしまった。
だが同じくらいに、メイスンはレクターを欲求していた。
レクターと興じた、あの短い一時が忘れられない。自ら顔の肉を引き裂き、血を噴出し、微笑みあうと共に絶頂を達していた。あの時の興奮が忘れられない。
メイスンの愛は深く、憎しみも同時に強い。
極めて屈折した感情だが、相反する感情はメイスン自身を引き裂かず、不純に交じり合っている。
きっとメイスンは、夢の中でレクターを引き裂き、その妄想で何度も勃起したはずだ。まだ不能になっていなければ、だが。
フィレンツェの宮殿でロケーションが行われた。レクター博士はフェルとして司書の仕事に雇われるところだった。パッツィ刑事は、行方不明になっているフェルの前任者を探して面会を求める。
レクターはフィレンツェに潜伏している。レクターが過ごす場所としては相応しいだろう。レクターの美意識に応え、どこまでも磨いてくれる場所だ。
フィレンツェでは殺人鬼すら、優れた美意識を持つようだ。
レクターは品性のない人間を嫌う。礼儀のない人間も。
だからクラリスは相応しい。クラリスは決して汚れない。その肉体も、汚職まみれの組織を身を投じながら、高潔な意思を失わない。
精神の純潔と魂の純潔。クラリスはその両方を持つ、稀な女だ。
だからあの女がいい。
生涯の伴侶とし、永遠の忠誠を誓わせ、快楽を無限に引き出すために。
クラリスは純潔の象徴だ。レクターとメイスンはクラリスを中心において対立する。2人は、いずれもクラリスを自分の下へ引き寄せ、クラリスの純潔を汚そうとする。だがクラリスは、最後まで自身の純潔を失わなかった。
我々の誰もが、時に抑えられない欲求を身の内に感じ、悶える瞬間がある。
愛するものを陵辱し、殺す欲求だ。
愛するものが憎しみに顔を歪め、悲鳴を上げて、血にまみれて、その肉をソテーにして夕食をいただく。
彼女の顔は裏切られたショックのままで硬直しているだろう。いや、あなたを憎しみで睨みつけた姿のまま、果てたかもしれない。どちらにしても、興味をそそられるシチュエーションだ。
だが現実的には法という障害に阻まれ、なかなか実行できる者は少ない。度胸のない我々の多くは、夢想の中で何度もその瞬間を思い巡らし、シーツを汚すだけだ。
我々の多くは、そういった行為が社会規範に反すると刷り込まれ、夢想に留めようとする。両親は我々に、罪や後ろめたさなどという規範を刷り込ませ、快楽を得るのを遠ざけようとする。
凡庸な親が子が芸術の道に進むのを拒むのは、恐怖心からだ。芸術はタブーに挑み、規範の脆さを揺さぶる活動からだ。
レクターは我々の憧れを、何の躊躇いもなく実行する。
レクターは快楽に正直に生き、自らの感性をどこまでも極めようとする。時にその楽しみを他人に分け与えつつ、行為を完成させようとする。
まさに我々が思い描くヒーローそのものである。
美しきものは、陶酔と同時に堕落をもたらす。美しき使者は暗黒世界からの使者である。美しき妻は美しいものを貪欲に求めるし、レクターの美意識とも通じ合える。
芸術は一種の倒錯行為だ。
芸術家は、美しい対象、美しい瞬間を永遠にするために石膏の中に封じ込めようとする。そうして、その瞬間がもたらす陶酔を、無限の中に留めようとする。あの言葉にならない、心が充足に満たされ、世界のすべてと混じり合う尊き瞬間を。
その一瞬を切り取ろうと、芸術家はどこまでも対象を見詰め、時に実体をメスで切り取りコラージュする。ぎりぎりまで引き絞られた緊張の瞬間を。最高のポジションを見つけ出すために、すべてを投げ打つ。
芸術家は陶酔を意識的に操作し、他人に提供する職業だ。
クラリスはレクターに父親のようなものを感じている。レクターは事実、クラリスの父となって手紙で親身に慰め、自身の存在をちらつかせてクラリスに手柄を与えようとする。
『ハンニバル』はリドリー・スコット作品の中でも最も幻想的な空気を持つ。
映画が描く光景は美しく、幻想的で心が奪われる。
恐怖映画ではなく、官能映画だ。
その他のハンニバル・レクターの映画は、作り手の才能が凡庸だったのか頭が悪かったのか、原作の官能的な部分は見逃してきた。
リドリースコットだからこそ、『ハンニバル』を官能映画として描けたのだ。
人はどこまでも堕ちて行く。
だがレクターは一番深い闇の奥で微笑んでいる。
さあおいで。
怖くないよ、と。
暗い影にこそ、最も美しい光が射し込んでくる。
本当に美しく、気高い魂を得たいのなら、さあ、ここだ。
もっと側に――。
映画記事一覧
作品データ
監督:リドリー・スコット
原作:トマス・ハリス 音楽:ハンス・ジマー
脚本:デヴィッド・マメット スティーヴン・ザイリアン
出演:アンソニー・ホプキンス ジュリアン・ムーア
〇 ゲイリー・オールドマン ジャンカルロ・ジャンニーニ
〇 フランチェスカ・ネリ フランキー・フェイソン
〇 レイ・リオッタ イヴァノ・マレスコッティ
レクターは今どこにいるのか――死んでいるのか生きているのか、誰も知らない。
あれから十年。
その間、誰も悲鳴を上げず、悪夢を見ることもなかった。
静かに平和な時が過ぎ――しかしどこかに悪魔が眠っている気配を感じていた。
映画は静かなメロディと共に始まる。場所はどこかの屋敷のようだ。バーニーが招待を受け、醜い顔をした男と対談している。
醜い顔の男はメイスンだ。かつてレクター博士に手ひどい仕打ちを受け、復讐のためにその消息を追っている。
バーニーが招かれたのは、レクター博士の情報を売るためだった。レクター関連の遺物は、その筋のマニアに高く売れるのだ。バーニーはあの隔離病棟を去る時に、多くのハンにバル関連の品々を持ち出していた。バーニーはそれらを売って、日々の糧にしていた。
去り際にバーニーは、レクターがかつてつけていた仮面を差し出す。その仮面を前にして、メイスンは興奮して息を喘がせた。――まるで性的興奮を覚えたように。
メイスンはレクターの手に掛かり、顔面を失い、全身麻痺という障害を負った。しかしメイスンはレクターに感謝している。狂うくらい憎めるものを与えてくれたのだから。
メイスンはレクターを憎んでいる。レクターに顔面の顔を剥がされ、再生不能になっただけでなく、半身不随を負ってしまった。
だが同じくらいに、メイスンはレクターを欲求していた。
レクターと興じた、あの短い一時が忘れられない。自ら顔の肉を引き裂き、血を噴出し、微笑みあうと共に絶頂を達していた。あの時の興奮が忘れられない。
メイスンの愛は深く、憎しみも同時に強い。
極めて屈折した感情だが、相反する感情はメイスン自身を引き裂かず、不純に交じり合っている。
きっとメイスンは、夢の中でレクターを引き裂き、その妄想で何度も勃起したはずだ。まだ不能になっていなければ、だが。
フィレンツェの宮殿でロケーションが行われた。レクター博士はフェルとして司書の仕事に雇われるところだった。パッツィ刑事は、行方不明になっているフェルの前任者を探して面会を求める。
レクターはフィレンツェに潜伏している。レクターが過ごす場所としては相応しいだろう。レクターの美意識に応え、どこまでも磨いてくれる場所だ。
フィレンツェでは殺人鬼すら、優れた美意識を持つようだ。
レクターは品性のない人間を嫌う。礼儀のない人間も。
だからクラリスは相応しい。クラリスは決して汚れない。その肉体も、汚職まみれの組織を身を投じながら、高潔な意思を失わない。
精神の純潔と魂の純潔。クラリスはその両方を持つ、稀な女だ。
だからあの女がいい。
生涯の伴侶とし、永遠の忠誠を誓わせ、快楽を無限に引き出すために。
クラリスは純潔の象徴だ。レクターとメイスンはクラリスを中心において対立する。2人は、いずれもクラリスを自分の下へ引き寄せ、クラリスの純潔を汚そうとする。だがクラリスは、最後まで自身の純潔を失わなかった。
我々の誰もが、時に抑えられない欲求を身の内に感じ、悶える瞬間がある。
愛するものを陵辱し、殺す欲求だ。
愛するものが憎しみに顔を歪め、悲鳴を上げて、血にまみれて、その肉をソテーにして夕食をいただく。
彼女の顔は裏切られたショックのままで硬直しているだろう。いや、あなたを憎しみで睨みつけた姿のまま、果てたかもしれない。どちらにしても、興味をそそられるシチュエーションだ。
だが現実的には法という障害に阻まれ、なかなか実行できる者は少ない。度胸のない我々の多くは、夢想の中で何度もその瞬間を思い巡らし、シーツを汚すだけだ。
我々の多くは、そういった行為が社会規範に反すると刷り込まれ、夢想に留めようとする。両親は我々に、罪や後ろめたさなどという規範を刷り込ませ、快楽を得るのを遠ざけようとする。
凡庸な親が子が芸術の道に進むのを拒むのは、恐怖心からだ。芸術はタブーに挑み、規範の脆さを揺さぶる活動からだ。
レクターは我々の憧れを、何の躊躇いもなく実行する。
レクターは快楽に正直に生き、自らの感性をどこまでも極めようとする。時にその楽しみを他人に分け与えつつ、行為を完成させようとする。
まさに我々が思い描くヒーローそのものである。
美しきものは、陶酔と同時に堕落をもたらす。美しき使者は暗黒世界からの使者である。美しき妻は美しいものを貪欲に求めるし、レクターの美意識とも通じ合える。
芸術は一種の倒錯行為だ。
芸術家は、美しい対象、美しい瞬間を永遠にするために石膏の中に封じ込めようとする。そうして、その瞬間がもたらす陶酔を、無限の中に留めようとする。あの言葉にならない、心が充足に満たされ、世界のすべてと混じり合う尊き瞬間を。
その一瞬を切り取ろうと、芸術家はどこまでも対象を見詰め、時に実体をメスで切り取りコラージュする。ぎりぎりまで引き絞られた緊張の瞬間を。最高のポジションを見つけ出すために、すべてを投げ打つ。
芸術家は陶酔を意識的に操作し、他人に提供する職業だ。
クラリスはレクターに父親のようなものを感じている。レクターは事実、クラリスの父となって手紙で親身に慰め、自身の存在をちらつかせてクラリスに手柄を与えようとする。
『ハンニバル』はリドリー・スコット作品の中でも最も幻想的な空気を持つ。
映画が描く光景は美しく、幻想的で心が奪われる。
恐怖映画ではなく、官能映画だ。
その他のハンニバル・レクターの映画は、作り手の才能が凡庸だったのか頭が悪かったのか、原作の官能的な部分は見逃してきた。
リドリースコットだからこそ、『ハンニバル』を官能映画として描けたのだ。
人はどこまでも堕ちて行く。
だがレクターは一番深い闇の奥で微笑んでいる。
さあおいで。
怖くないよ、と。
暗い影にこそ、最も美しい光が射し込んでくる。
本当に美しく、気高い魂を得たいのなら、さあ、ここだ。
もっと側に――。
映画記事一覧
作品データ
監督:リドリー・スコット
原作:トマス・ハリス 音楽:ハンス・ジマー
脚本:デヴィッド・マメット スティーヴン・ザイリアン
出演:アンソニー・ホプキンス ジュリアン・ムーア
〇 ゲイリー・オールドマン ジャンカルロ・ジャンニーニ
〇 フランチェスカ・ネリ フランキー・フェイソン
〇 レイ・リオッタ イヴァノ・マレスコッティ
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■2010/01/04 (Mon)
映画:外国映画■
テルマとルイーズ。二人の女の物語だ。
その日、テルマとルイーズの二人は旅行へ行く計画を立てていた。
しかしテルマは傲慢な夫から旅行の許可を得られない。夫はテルマが常に家庭にいて、家政婦のように振る舞うのが当然だと考えていた。
結局テルマは夫に黙って旅行に出てしまう。
テルマとルイーズは、旅行の途上で休息を取ろうとバーに入る。
そこでテルマは、出会った男に強姦されかけてしまう。
ルイーズは、とっさに拳銃を手にテルマを救い出す。
が、男は「早く突っ込んでやればよかった」と暴言を吐く。
逆上したルイーズは、衝動的に男を撃ち殺してしまう。
旅行の計画は、一発の銃弾で何もかも変わってしまった。テルマとルイーズは殺人犯として逃避行を始める。
だが2人の旅行は、そもそも逃避行であると予告されていた。テルマは部屋のすべてを鞄に詰めて持ち出そうとしていた。その光景は、旅行というより家出のようであった。
もう帰らない。
どこかへ行くつもり。
はじめから、帰還を予感させない旅だった。
男性の登場シーンは色彩を削除してもあまり印象が変わらない。『テルマ&ルイーズ』には必ず、どこかしらに男性の影がある。テルマとルイーズは、男性の存在の横で揺れ続けている。
テルマとルイーズが逃避するのは、男性の社会からだ。
社会とは、男性が規範を作り出し、運営することでなり立っている。男女平等がいくら叫ばれようとも、実際は男性が中心であるし、女性の社会進出が進んでももともとの形質が変化するわけではない。
その中で女性の役割は、ただ女性に隷属し、決して社会の中心的成員ではない。飽くまでも男性の添え物か補助物だ。男は女が家政婦として働くのを当然の要求だと信じているし、でなければただの性の対象だ。そこに他者としての意思は認められていない。
その利用価値がなくなれば、男は女をポイッとゴミ捨て場にでも捨ててしまう。
テルマとルーズは、そんな男の社会からの反逆を試みる。
ブラッド・ピットはこの映画を切っ掛けに注目されたと言われている。
そんな2人の前に現れるのが、謎の男J.D.である。
J.D.は“オズ”などではない。異界からの使者――サタンだ。
サタンであるJ.D.は、テルマとルイーズに女性としての性を朗らかに認め、尊敬を与える。
J.D.が2人に与えたのは、女性という以上に、人間としての喜び。解放だ。
サタンは規範的な男性の社会に属していない。
だからこそ、ありのままの価値観を与えられるのだ。
リドリー・スコット独特の映像感が、ドラマと融合し始める頃の映画だ。それ以前は知る人ぞ知る監督だったが、徐々に注目され始める。
映像は、美しく、独創的な感性で描かれる。
どの場面も凄まじいディティールで描かれるが、猥雑はさなく、一貫性のある映像美のうえに成立している。
色彩の使い方が素晴らしい。
前半は、特に男性が登場する場面では色彩は抑えられ、モノトーンに近い色彩で描かれる。
後半の2人の逃避行に移ると、色彩はビビッドに描かれ、疾走感のある移動カメラが解放的な気分を与える。
この色彩の構造は、冒頭のカットですでに示唆されている。
冒頭の、砂漠に一本道の道路が貫かれているカット。初めはモノクロームだが、次第にセピアに変わり、最後には色鮮やかなグリーンが現れる。
二人の女は社会から弾かれ、追い詰められていくほどに覚醒していく。
どこかでテルマとルイーズの2人は、あの色彩豊かな世界を見たのだろう。
最も美しく、情熱に満ちた瞬間を感じながら。
映画記事一覧
作品データ
監督:リドリー・スコット
音楽:ハンス・ジマー 脚本:カーリー・クーリ
出演:スーザン・サランドン ジーナ・デイヴィス ブラッド・ピット
〇 マイケル・マドセン クリストファー・マクドナルド
〇 スティーヴン・トボロウスキー ハーヴェイ・カイテル
第64回アカデミー賞 脚本賞受賞
第49回ゴールデングローブ賞 脚本賞受賞
その日、テルマとルイーズの二人は旅行へ行く計画を立てていた。
しかしテルマは傲慢な夫から旅行の許可を得られない。夫はテルマが常に家庭にいて、家政婦のように振る舞うのが当然だと考えていた。
結局テルマは夫に黙って旅行に出てしまう。
テルマとルイーズは、旅行の途上で休息を取ろうとバーに入る。
そこでテルマは、出会った男に強姦されかけてしまう。
ルイーズは、とっさに拳銃を手にテルマを救い出す。
が、男は「早く突っ込んでやればよかった」と暴言を吐く。
逆上したルイーズは、衝動的に男を撃ち殺してしまう。
旅行の計画は、一発の銃弾で何もかも変わってしまった。テルマとルイーズは殺人犯として逃避行を始める。
だが2人の旅行は、そもそも逃避行であると予告されていた。テルマは部屋のすべてを鞄に詰めて持ち出そうとしていた。その光景は、旅行というより家出のようであった。
もう帰らない。
どこかへ行くつもり。
はじめから、帰還を予感させない旅だった。
男性の登場シーンは色彩を削除してもあまり印象が変わらない。『テルマ&ルイーズ』には必ず、どこかしらに男性の影がある。テルマとルイーズは、男性の存在の横で揺れ続けている。
テルマとルイーズが逃避するのは、男性の社会からだ。
社会とは、男性が規範を作り出し、運営することでなり立っている。男女平等がいくら叫ばれようとも、実際は男性が中心であるし、女性の社会進出が進んでももともとの形質が変化するわけではない。
その中で女性の役割は、ただ女性に隷属し、決して社会の中心的成員ではない。飽くまでも男性の添え物か補助物だ。男は女が家政婦として働くのを当然の要求だと信じているし、でなければただの性の対象だ。そこに他者としての意思は認められていない。
その利用価値がなくなれば、男は女をポイッとゴミ捨て場にでも捨ててしまう。
テルマとルーズは、そんな男の社会からの反逆を試みる。
ブラッド・ピットはこの映画を切っ掛けに注目されたと言われている。
そんな2人の前に現れるのが、謎の男J.D.である。
J.D.は“オズ”などではない。異界からの使者――サタンだ。
サタンであるJ.D.は、テルマとルイーズに女性としての性を朗らかに認め、尊敬を与える。
J.D.が2人に与えたのは、女性という以上に、人間としての喜び。解放だ。
サタンは規範的な男性の社会に属していない。
だからこそ、ありのままの価値観を与えられるのだ。
リドリー・スコット独特の映像感が、ドラマと融合し始める頃の映画だ。それ以前は知る人ぞ知る監督だったが、徐々に注目され始める。
映像は、美しく、独創的な感性で描かれる。
どの場面も凄まじいディティールで描かれるが、猥雑はさなく、一貫性のある映像美のうえに成立している。
色彩の使い方が素晴らしい。
前半は、特に男性が登場する場面では色彩は抑えられ、モノトーンに近い色彩で描かれる。
後半の2人の逃避行に移ると、色彩はビビッドに描かれ、疾走感のある移動カメラが解放的な気分を与える。
この色彩の構造は、冒頭のカットですでに示唆されている。
冒頭の、砂漠に一本道の道路が貫かれているカット。初めはモノクロームだが、次第にセピアに変わり、最後には色鮮やかなグリーンが現れる。
二人の女は社会から弾かれ、追い詰められていくほどに覚醒していく。
どこかでテルマとルイーズの2人は、あの色彩豊かな世界を見たのだろう。
最も美しく、情熱に満ちた瞬間を感じながら。
映画記事一覧
作品データ
監督:リドリー・スコット
音楽:ハンス・ジマー 脚本:カーリー・クーリ
出演:スーザン・サランドン ジーナ・デイヴィス ブラッド・ピット
〇 マイケル・マドセン クリストファー・マクドナルド
〇 スティーヴン・トボロウスキー ハーヴェイ・カイテル
第64回アカデミー賞 脚本賞受賞
第49回ゴールデングローブ賞 脚本賞受賞
■2010/01/04 (Mon)
映画:外国映画■
まだ夜が開けた頃だ。古い小屋がぽつんと建つ平原。二人の男が剣を手に対峙していた。介添え人もいる。これは決闘だ。
戦いが始まった。一方的な展開で、すぐにでも勝敗が決まった。優勢だった男が、相手の腹部を刺し、勝利した。
それから数時間後。
騎兵隊の食卓に、トレアール将軍がただならぬ様子で飛び込んできた。
「誰か、フェロー中尉を知らないか! 第7騎兵隊のだ」
物凄い剣幕に、誰も声を上げない。
間もなく、騎兵隊の一人が「私が」と名乗り出た。デュベール中尉だ。
「今すぐフェローの家へ行き、“自宅に幽閉する”と言い渡したまえ! フェローは名誉のためと称し、市長の甥を刺したのだ。幸い命に別状はないが、おかげで私は2時間も、市長に侘びをし続けたのだぞ」
デュベールはしぶしぶながら、フェローの家を目指す。
しかしフェローは外出中。今度はフェローが訪問しているマダム・デリオンの邸宅に向かった。
マダム・デリオンの邸宅にフェローはいた。
「将軍から命令だ。すぐに自宅に帰って謹慎しろ」
伝言を終えて、これで役目も終わりだった。
だが、フェローは納得しなかった。
「私に恥を掻かせるのが目的だな。私が心にかけている婦人の応接間を選び、幽閉を言い渡したのだ」
フェローの怒りは、すでに沸点に達している。デュベールが「落ち着け」という言葉も届かなかった。
「剣を取れ! 決闘だ!」
始まりは些細な感情のぶつかり合いに過ぎなかった。あまりにも小さな切っ掛けだったので、やがて本人たちも決闘の理由がわからなくなる。そのうちにも、なにやらイデオロギー的な理由が上乗せされ、決闘それ自体が目的となる。
こうして、デュベールとフェローの決闘が始まった。
始まりは些細な感情の行き違いに過ぎなかった。
だがこの決闘はいつまでも決着がつかず、まるで呪いのように二人を戦いに引きずりこむ。
彫りが深く、眉がくっきりした美人。表情がはっきりと浮かぶ。この頃から女優の好みは変わっていないようだ。
『デュエリスト』はリドリー・スコット監督のデビュー映画である。
デビュー作品にはその作家のすべてが込められている、といわれるが『デュエリスト』はまさにその通りの映画だ。
光と影を操る美しい映像。古い時代を的確に、しかも美しく描く才能。残酷美。それから対決する二人。
『デュエリスト』にはリドリー・スコット映画のすべてが詰まっている。
カメラの移動などが単純だ。目の前の構図やセットに気を取られすぎて、撮影した後にフィルムまで気が回らなかったのだろう。後期の激しくカメラが動く撮影法と較べると対照的だ。
同時に、欠点もこの当時からすでに現れている。
それは音楽だ。
『デュエリスト』の映像は美しいが、音楽に力を感じない。ただその場面に、解説的に伴奏がつけられるだけだ。何ら情緒を表現していない。
そもそもリドリー・スコットは映画に音楽をつける発想すらなかったようだ。それも音楽監督に説得されて初めて音楽の重要性を認識した。
だがその後も音楽の才能は開花しなかった。映像の天才と呼ばれるリドリー・スコットだが、音楽に関してはいつも音楽監督にまかせっきりで、演奏にも滅多に顔を出さないようだ。
モノクロにするとますます絵画の印象が強くなる。ある場面では完全に静物画になっている。リドリー・スコットが絵画から映画を作っているとよくわかる事例だ。左のカットはまさにフェルメール。後期リドリー映画より絵画の印象は強い。
『デュエリスト』はすべての面で未熟な映画だ。低予算作品であちこちに荒が見つかる。
それでもどの場面も詳細に描かれ、映像世界に没入させる力を持っている。
映画のカットというより、絵画の意識が際立って強い。ときにカットが、そのまま静物画にすらなってしまう場面もある。
すべてが未熟だがすべての始まりの作品だ。巨匠リドリー・スコットがこの才能をいかに育み、開花していったか。それはもはや語る必要もない。
映画記事一覧
作品データ
監督:リドリー・スコット 原作:ジョセフ・コンラッド
音楽:ハワード・ブレイク 脚本:ジェラルド・ヴォーン・ヒューズ
出演:キース・キャラダイン ハーヴェイ・カイテル
〇 クリスティナ・レインズ エドワード・フォックス
〇 ロバート・スティーヴンス アルバート・フィニー
〇 トム・コンティ ダイアナ・クイック
戦いが始まった。一方的な展開で、すぐにでも勝敗が決まった。優勢だった男が、相手の腹部を刺し、勝利した。
それから数時間後。
騎兵隊の食卓に、トレアール将軍がただならぬ様子で飛び込んできた。
「誰か、フェロー中尉を知らないか! 第7騎兵隊のだ」
物凄い剣幕に、誰も声を上げない。
間もなく、騎兵隊の一人が「私が」と名乗り出た。デュベール中尉だ。
「今すぐフェローの家へ行き、“自宅に幽閉する”と言い渡したまえ! フェローは名誉のためと称し、市長の甥を刺したのだ。幸い命に別状はないが、おかげで私は2時間も、市長に侘びをし続けたのだぞ」
デュベールはしぶしぶながら、フェローの家を目指す。
しかしフェローは外出中。今度はフェローが訪問しているマダム・デリオンの邸宅に向かった。
マダム・デリオンの邸宅にフェローはいた。
「将軍から命令だ。すぐに自宅に帰って謹慎しろ」
伝言を終えて、これで役目も終わりだった。
だが、フェローは納得しなかった。
「私に恥を掻かせるのが目的だな。私が心にかけている婦人の応接間を選び、幽閉を言い渡したのだ」
フェローの怒りは、すでに沸点に達している。デュベールが「落ち着け」という言葉も届かなかった。
「剣を取れ! 決闘だ!」
始まりは些細な感情のぶつかり合いに過ぎなかった。あまりにも小さな切っ掛けだったので、やがて本人たちも決闘の理由がわからなくなる。そのうちにも、なにやらイデオロギー的な理由が上乗せされ、決闘それ自体が目的となる。
こうして、デュベールとフェローの決闘が始まった。
始まりは些細な感情の行き違いに過ぎなかった。
だがこの決闘はいつまでも決着がつかず、まるで呪いのように二人を戦いに引きずりこむ。
彫りが深く、眉がくっきりした美人。表情がはっきりと浮かぶ。この頃から女優の好みは変わっていないようだ。
『デュエリスト』はリドリー・スコット監督のデビュー映画である。
デビュー作品にはその作家のすべてが込められている、といわれるが『デュエリスト』はまさにその通りの映画だ。
光と影を操る美しい映像。古い時代を的確に、しかも美しく描く才能。残酷美。それから対決する二人。
『デュエリスト』にはリドリー・スコット映画のすべてが詰まっている。
カメラの移動などが単純だ。目の前の構図やセットに気を取られすぎて、撮影した後にフィルムまで気が回らなかったのだろう。後期の激しくカメラが動く撮影法と較べると対照的だ。
同時に、欠点もこの当時からすでに現れている。
それは音楽だ。
『デュエリスト』の映像は美しいが、音楽に力を感じない。ただその場面に、解説的に伴奏がつけられるだけだ。何ら情緒を表現していない。
そもそもリドリー・スコットは映画に音楽をつける発想すらなかったようだ。それも音楽監督に説得されて初めて音楽の重要性を認識した。
だがその後も音楽の才能は開花しなかった。映像の天才と呼ばれるリドリー・スコットだが、音楽に関してはいつも音楽監督にまかせっきりで、演奏にも滅多に顔を出さないようだ。
モノクロにするとますます絵画の印象が強くなる。ある場面では完全に静物画になっている。リドリー・スコットが絵画から映画を作っているとよくわかる事例だ。左のカットはまさにフェルメール。後期リドリー映画より絵画の印象は強い。
『デュエリスト』はすべての面で未熟な映画だ。低予算作品であちこちに荒が見つかる。
それでもどの場面も詳細に描かれ、映像世界に没入させる力を持っている。
映画のカットというより、絵画の意識が際立って強い。ときにカットが、そのまま静物画にすらなってしまう場面もある。
すべてが未熟だがすべての始まりの作品だ。巨匠リドリー・スコットがこの才能をいかに育み、開花していったか。それはもはや語る必要もない。
映画記事一覧
作品データ
監督:リドリー・スコット 原作:ジョセフ・コンラッド
音楽:ハワード・ブレイク 脚本:ジェラルド・ヴォーン・ヒューズ
出演:キース・キャラダイン ハーヴェイ・カイテル
〇 クリスティナ・レインズ エドワード・フォックス
〇 ロバート・スティーヴンス アルバート・フィニー
〇 トム・コンティ ダイアナ・クイック
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■2010/01/04 (Mon)
映画:外国映画■
〇男の掌が、黄金色に色づいた麦の穂先をなでていた。
〇男は古里を夢に見て、時間のはざかいを彷徨っていた。
〇 ここは何処か。戦いは終わったのか。平穏はいずこ。
〇 妻よ、子よ、そこにいるのか。
マルクス・アウレリウス皇帝によるゲルマニア遠征は、最後の段階を迎えていた。
将軍マキシマスは、兵士を集結させて、使者が戻るのを待っていた。
交渉がまとまれば、平和が訪れる。
しかし戻ってきたのは、首のない使者を乗せた馬だった。
交渉は破断した。戦いが始まろうとしていた。森の蛮族たちが姿を現し、獣のような雄叫びを上げていた。蛮族たちはすでに戦意で燃え上がっていた。
「私の合図で地獄の釜を開け」
マキシマスは戦士たちに指示を与え、自身は馬にまたがり森の中へと入っていった。
森に入ると、そこに騎士団たちが密かに集結し、整列していた。
間もなく戦いが始まった。森の外では鬨の声が上がっていた。火のついた矢が乱舞する。兵士たちが隊列を組んで蛮族の軍団とぶつかり合っていた。火の粉を散らすように、兵士の命が戦場に散っていった。
マキシマスは騎士団を引き連れ、炎に包まれる戦闘の中へと突入していった。
戦いは勝利に終わった。
蛮族たちは鎮圧されマルクス・アウレリウスの敵は消え去った。渾沌の時代が終わり、間もなく平和が訪れようとしている。
しかし、マルクス・アウレリウスには懸念があった。自身は高齢で、すでに死を予感していた。平和を得たローマを、誰かの手に託さねばならない。
腹黒い元老院か、先進的に未熟なコモドゥスか――。
マルクス・アウレリウスは、将軍マキシマスに帝位を譲る決断をする。
コモドゥスは父からこの決定を聞き、激しく動揺した。
自身が皇帝になるはずだった。父は自分を、時期皇帝に任命してくれると信じていた。
コモドゥスは動揺と錯乱に揺り動かされ、衝動的にマルクス・アウレリウスを殺害する。
その後コモドゥスは、何食わぬ顔で皇帝の座が自分に移されたと宣言した。
マキシマスはアウレリウスの死がコモドゥスの手による暗殺であると、すぐに察した。マキシマスは新皇帝であるコモドゥスに忠誠を述べず、一瞥して去っていく。
コモドゥスはマキシマスを危険と判断して、反逆の罪を着せて処刑しようとする。
だがマキシマスは処刑人の手から逃れて、急ぎ古里の家族の下へ向った。自分が逃亡したと知られたら、間違いなく家族が人質にされるはず……。
マキシマスは休みなく馬を走らせ、故郷への道のりを急いだ。
しかし駆けつけたときには、農園に炎が吹き上がっていた。妻と子は、すでに殺されていた。
マキシマスはすべての気力を失い、妻と子の墓標を作り、その前で果てようとした。
そこに何者かが現れた。何者かはマキシマスの体を掴み、連れ去ってしまう。生きる気力もないマキシマスは、運命に流されるままに、連れ去られてしまう。
俳優オリバー・リード(左)はこの映画の撮影中に事故死した。後半の出演シーンは、別のシーンのために撮影したものを台詞やカットを入れ替えたりして対話しているように見せかけた。
舞台は、ローマだ。
かつて何度も映画の中で描かれてきた時代。知らぬ者がいない栄光の時代。
そのローマが、最新の技術と最高に才能によって再び映画のスクリーンに帰って来た。
しかも『グラディエーター』の主要な舞台となったのは、まさかのコロッセオだ。
誰もが知り、それでいて映画の中で描かれることのなかった、あのコロッセオだ。
モロッコのコロッセオは死の世界の象徴だ。プロキシモはマキシマスを死の世界から引き摺り戻した死神といったところだろう。
ある男が復讐を実現するまでの物語だ。
マキシマスは一度死んだ。雪の舞う森の中で、処刑人の手にかかり死んだ。
しかし怨念が男をあの世から引きずり戻した。
ローマ室内セットは以外にも1つしか作られていない。セット撮影の節約術の1つだ。家具や柱の位置を入れ替えて繰り返し撮影したわけだ。詳しく見ると、階段や壁の位置が一緒だ。よく確認して見たい。
生命が再生する瞬間、画面には異界のイメージと獣の声で満たされる。男はもはやかつての将軍ではない。獣として、剣闘士として甦ったのだ。復讐のために、死神から幾日かの猶予が与えられたのだ。
この作品を切っ掛けにリドリー・スコット監督の作風は劇的に変わった。独特の美意識とエンターティメント性が融合し、ドラマが激しく展開する。この一作で、リドリー・スコットはマイナー監督から巨匠へと格上げされた。
映画において、ローマは常に最大級を約束する題材である。
壮大な建築。華麗な美術品。贅を凝らした調度品や衣装の数々。かつて世界の中心であった場所。世界で最も繁栄をもたらした場所。
たとえ虚構の映画の中ですら、ローマの再現は困難を極めた。巨大なセットが必要だし、それを埋め尽くすエキストラ。衣装や俳優達の食事代。
ローマは壮大であるが故に、再現は困難を極めた。
技術力の進歩が、ようやくローマを再現を実現させた。栄光のローマは映画の魔術によって、ほんの2時間だけ、輝きを持って再生されるのだ。
映画記事一覧
作品データ
監督:リドリー・スコット 音楽:ハンス・ジマー
脚本:デヴィッド・フランゾーニ ジョン・ローガン ウィリアム・ニコルソン
出演:ラッセル・クロウ ホアキン・フェニックス
〇 コニー・ニールセン オリヴァー・リード
〇 リチャード・ハリス デレク・ジャコビ
〇 ジャイモン・フンスー スペンサー・トリート・クラーク
第73回アカデミー賞 作品賞/主演男優賞/衣装デザイン賞/視覚効果賞/音響賞受賞
第58回ゴールデングローブ賞 ドラマ部門作品賞/音楽賞受賞
〇男は古里を夢に見て、時間のはざかいを彷徨っていた。
〇 ここは何処か。戦いは終わったのか。平穏はいずこ。
〇 妻よ、子よ、そこにいるのか。
マルクス・アウレリウス皇帝によるゲルマニア遠征は、最後の段階を迎えていた。
将軍マキシマスは、兵士を集結させて、使者が戻るのを待っていた。
交渉がまとまれば、平和が訪れる。
しかし戻ってきたのは、首のない使者を乗せた馬だった。
交渉は破断した。戦いが始まろうとしていた。森の蛮族たちが姿を現し、獣のような雄叫びを上げていた。蛮族たちはすでに戦意で燃え上がっていた。
「私の合図で地獄の釜を開け」
マキシマスは戦士たちに指示を与え、自身は馬にまたがり森の中へと入っていった。
森に入ると、そこに騎士団たちが密かに集結し、整列していた。
間もなく戦いが始まった。森の外では鬨の声が上がっていた。火のついた矢が乱舞する。兵士たちが隊列を組んで蛮族の軍団とぶつかり合っていた。火の粉を散らすように、兵士の命が戦場に散っていった。
マキシマスは騎士団を引き連れ、炎に包まれる戦闘の中へと突入していった。
戦いは勝利に終わった。
蛮族たちは鎮圧されマルクス・アウレリウスの敵は消え去った。渾沌の時代が終わり、間もなく平和が訪れようとしている。
しかし、マルクス・アウレリウスには懸念があった。自身は高齢で、すでに死を予感していた。平和を得たローマを、誰かの手に託さねばならない。
腹黒い元老院か、先進的に未熟なコモドゥスか――。
マルクス・アウレリウスは、将軍マキシマスに帝位を譲る決断をする。
コモドゥスは父からこの決定を聞き、激しく動揺した。
自身が皇帝になるはずだった。父は自分を、時期皇帝に任命してくれると信じていた。
コモドゥスは動揺と錯乱に揺り動かされ、衝動的にマルクス・アウレリウスを殺害する。
その後コモドゥスは、何食わぬ顔で皇帝の座が自分に移されたと宣言した。
マキシマスはアウレリウスの死がコモドゥスの手による暗殺であると、すぐに察した。マキシマスは新皇帝であるコモドゥスに忠誠を述べず、一瞥して去っていく。
コモドゥスはマキシマスを危険と判断して、反逆の罪を着せて処刑しようとする。
だがマキシマスは処刑人の手から逃れて、急ぎ古里の家族の下へ向った。自分が逃亡したと知られたら、間違いなく家族が人質にされるはず……。
マキシマスは休みなく馬を走らせ、故郷への道のりを急いだ。
しかし駆けつけたときには、農園に炎が吹き上がっていた。妻と子は、すでに殺されていた。
マキシマスはすべての気力を失い、妻と子の墓標を作り、その前で果てようとした。
そこに何者かが現れた。何者かはマキシマスの体を掴み、連れ去ってしまう。生きる気力もないマキシマスは、運命に流されるままに、連れ去られてしまう。
俳優オリバー・リード(左)はこの映画の撮影中に事故死した。後半の出演シーンは、別のシーンのために撮影したものを台詞やカットを入れ替えたりして対話しているように見せかけた。
舞台は、ローマだ。
かつて何度も映画の中で描かれてきた時代。知らぬ者がいない栄光の時代。
そのローマが、最新の技術と最高に才能によって再び映画のスクリーンに帰って来た。
しかも『グラディエーター』の主要な舞台となったのは、まさかのコロッセオだ。
誰もが知り、それでいて映画の中で描かれることのなかった、あのコロッセオだ。
モロッコのコロッセオは死の世界の象徴だ。プロキシモはマキシマスを死の世界から引き摺り戻した死神といったところだろう。
ある男が復讐を実現するまでの物語だ。
マキシマスは一度死んだ。雪の舞う森の中で、処刑人の手にかかり死んだ。
しかし怨念が男をあの世から引きずり戻した。
ローマ室内セットは以外にも1つしか作られていない。セット撮影の節約術の1つだ。家具や柱の位置を入れ替えて繰り返し撮影したわけだ。詳しく見ると、階段や壁の位置が一緒だ。よく確認して見たい。
生命が再生する瞬間、画面には異界のイメージと獣の声で満たされる。男はもはやかつての将軍ではない。獣として、剣闘士として甦ったのだ。復讐のために、死神から幾日かの猶予が与えられたのだ。
この作品を切っ掛けにリドリー・スコット監督の作風は劇的に変わった。独特の美意識とエンターティメント性が融合し、ドラマが激しく展開する。この一作で、リドリー・スコットはマイナー監督から巨匠へと格上げされた。
映画において、ローマは常に最大級を約束する題材である。
壮大な建築。華麗な美術品。贅を凝らした調度品や衣装の数々。かつて世界の中心であった場所。世界で最も繁栄をもたらした場所。
たとえ虚構の映画の中ですら、ローマの再現は困難を極めた。巨大なセットが必要だし、それを埋め尽くすエキストラ。衣装や俳優達の食事代。
ローマは壮大であるが故に、再現は困難を極めた。
技術力の進歩が、ようやくローマを再現を実現させた。栄光のローマは映画の魔術によって、ほんの2時間だけ、輝きを持って再生されるのだ。
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作品データ
監督:リドリー・スコット 音楽:ハンス・ジマー
脚本:デヴィッド・フランゾーニ ジョン・ローガン ウィリアム・ニコルソン
出演:ラッセル・クロウ ホアキン・フェニックス
〇 コニー・ニールセン オリヴァー・リード
〇 リチャード・ハリス デレク・ジャコビ
〇 ジャイモン・フンスー スペンサー・トリート・クラーク
第73回アカデミー賞 作品賞/主演男優賞/衣装デザイン賞/視覚効果賞/音響賞受賞
第58回ゴールデングローブ賞 ドラマ部門作品賞/音楽賞受賞