■ 最新記事
(08/15)
(08/14)
(08/13)
(08/12)
(08/11)
(08/10)
(08/09)
(08/08)
(08/07)
(08/06)
■ カテゴリー
お探し記事は【記事一覧 索引】が便利です。
■2009/09/23 (Wed)
映画:外国映画■
1972年9月5日未明。
ミュンヘン・オリンピック競技場内の選手村に、“黒い九月”と呼ばれるテロリスト集団が侵入した。
“黒い九月”はAK-47ライフルで武装し、イスラエル人選手が宿泊する部屋に乱入。
ほぼ二日間、イスラエル人選手を監禁し、イスラエルに収監されるパレスチナ人234名の開放を要求した。
その後、“黒い九月”はイスラエル人選手を人質に、空港へ移動。脱出用の飛行機を要求した。
だが空軍基地に到着したところで、ドイツの狙撃手と“黒い九月”による銃撃戦が勃発。
イスラエル人選手全員死亡という惨事を引き起こした。
難解な作品ではないが、予備知識がないとちょっとつらい作品だ。鑑賞前に少し学習しておいたほうがいい。これまでのスピルバーグ映画と思って観ると、どこかで置いてけぼりをくうかもしれない。
このミュンヘン・オリンピック事件を受けて、イスラエルのゴルダ・メイア首相はただちに報復を決行。
パレスチナ・ゲリラの基地を空爆し、数百人のパレスチナ人を殺害した。
だがパレスチナ・ゲリラ基地の空爆は、誰も注目しなった。
もっと世界中が注目するようなセンセーショナルな事件が必要だ。
そう判断したゴルダ・メイア首相は、ミュンヘン・オリンピック事件に関与した11人のリストを作成し、暗殺計画を提案した。
いわゆる《神の怒り作戦》と呼ばれる暗殺計画だ。
「暗殺はできれば爆弾で」というのが条件。ただ殺すのが目的ではなく、センセーショナルが目的。ただし一般人への殺人は認められないという条件も。殺人は罪だが、使命のための殺人は許される。
映画『ミュンヘン』は、ミュンヘン・オリンピック事件と、その後の暗殺事件の両方を描いた、長大でしかも複雑な映画だ。
主人公のアヴナーは、祖国と名誉のために暗殺計画を引き受けるが、やがて狙われる側になり、心理的に追い詰められていく。
全てが事実に基づいて描かれた作品ではないが、当事者の心理を詳らかに、生々しく描き重ねていく。
映画は事実に基づくが、暗殺の実行犯などは創作だ。暗殺計画と殺された人間がいるのは事実で、その周辺のやり取りはフィクション、と見ればいいだろう。
“平和の祭典”のはずであるオリンピックで起きた悲劇。
だが国家がぶつかり合い、宗教がぶつかり合うと、どこかに政治性が絡んでくる。
オリンピックの表面的な理想は、むしろ民族と政治性を際立たせる結果に終わった。
一つのルールを守り、共に走ろうという意思は、銃声と爆撃によって裏切られた。
戦争は終わらない。
戦争の残滓はあちこちに火種を残し、再び燃え盛るのを待っている。その火種を持っているのは他でもなく、我々の社会が継承する深層意識と国家への帰属意識の中に眠っている。
映画『ミュンヘン』での背景は、どれも平和な風景に見える。
暗殺の当事者は、どれも平凡な生活を営んでいるように見える。
だが平和という状況が、ただちに戦争ではない、という意味にはならない。
戦争は、いつも平和の仮面のうちに眠り続けているのだ。
「無知」「無関心」こそが最大の罪だ、と映画は語る。イスラエル人もパレスチナ人も自分阿智の存在を知らしめるために犯行を重ねる。通俗的な勧善懲悪は通用しない(つまりイスラエル人を襲ったパレスチナ人は悪人だ、という即断)。「知らなければ平和」という理屈も、世界レベルでは通用しない。
映画『ミュンヘン』はエンターティメントの巨匠による、重さのあるドラマだ。
映画の内部には多くのものが描かれ、語られるが、もっとも強く描かれているのは“民族の悲劇”だ。
それから、あらゆる世界の悲劇に対する、我々の側による無関心だ。
ミュンヘン事件の決行者は、自分達の計画の正しさを信じている。多くの人が、“黒い九月”の存在を知ってくれたからだ。
《神の怒り作戦》の大きな本質は、暗殺にセンセーショナルな衝撃を与えることだった。
遠くの世界で、数百人爆撃しようとも、誰も気付きもしないし、関心を抱こうともしない。
だから、最も我々の身近に思える場所で、戦争の状況を出現させようとしたのだ。
だが、最終的にミュンヘン事件を世界に知らしめ、記憶に残したのは、スピルバークの映画であっただろう。
映画記事一覧
作品データ
監督:スティーヴン・スピルバーグ 原作:ジョージ・ジョナス
音楽:ジョン・ウィリアムズ 脚本:トニー・クシュナー エリック・ロス
出演:エリック・バナ ダニエル・クレイグ
〇〇〇キアラン・ハインズ マチュー・カソヴィッツ
〇〇〇ハンス・ジシュラー ジェフリー・ラッシュ
〇〇〇アイェレット・ゾラー マチュー・アマルリック
ミュンヘン・オリンピック競技場内の選手村に、“黒い九月”と呼ばれるテロリスト集団が侵入した。
“黒い九月”はAK-47ライフルで武装し、イスラエル人選手が宿泊する部屋に乱入。
ほぼ二日間、イスラエル人選手を監禁し、イスラエルに収監されるパレスチナ人234名の開放を要求した。
その後、“黒い九月”はイスラエル人選手を人質に、空港へ移動。脱出用の飛行機を要求した。
だが空軍基地に到着したところで、ドイツの狙撃手と“黒い九月”による銃撃戦が勃発。
イスラエル人選手全員死亡という惨事を引き起こした。
難解な作品ではないが、予備知識がないとちょっとつらい作品だ。鑑賞前に少し学習しておいたほうがいい。これまでのスピルバーグ映画と思って観ると、どこかで置いてけぼりをくうかもしれない。
このミュンヘン・オリンピック事件を受けて、イスラエルのゴルダ・メイア首相はただちに報復を決行。
パレスチナ・ゲリラの基地を空爆し、数百人のパレスチナ人を殺害した。
だがパレスチナ・ゲリラ基地の空爆は、誰も注目しなった。
もっと世界中が注目するようなセンセーショナルな事件が必要だ。
そう判断したゴルダ・メイア首相は、ミュンヘン・オリンピック事件に関与した11人のリストを作成し、暗殺計画を提案した。
いわゆる《神の怒り作戦》と呼ばれる暗殺計画だ。
「暗殺はできれば爆弾で」というのが条件。ただ殺すのが目的ではなく、センセーショナルが目的。ただし一般人への殺人は認められないという条件も。殺人は罪だが、使命のための殺人は許される。
映画『ミュンヘン』は、ミュンヘン・オリンピック事件と、その後の暗殺事件の両方を描いた、長大でしかも複雑な映画だ。
主人公のアヴナーは、祖国と名誉のために暗殺計画を引き受けるが、やがて狙われる側になり、心理的に追い詰められていく。
全てが事実に基づいて描かれた作品ではないが、当事者の心理を詳らかに、生々しく描き重ねていく。
映画は事実に基づくが、暗殺の実行犯などは創作だ。暗殺計画と殺された人間がいるのは事実で、その周辺のやり取りはフィクション、と見ればいいだろう。
“平和の祭典”のはずであるオリンピックで起きた悲劇。
だが国家がぶつかり合い、宗教がぶつかり合うと、どこかに政治性が絡んでくる。
オリンピックの表面的な理想は、むしろ民族と政治性を際立たせる結果に終わった。
一つのルールを守り、共に走ろうという意思は、銃声と爆撃によって裏切られた。
戦争は終わらない。
戦争の残滓はあちこちに火種を残し、再び燃え盛るのを待っている。その火種を持っているのは他でもなく、我々の社会が継承する深層意識と国家への帰属意識の中に眠っている。
映画『ミュンヘン』での背景は、どれも平和な風景に見える。
暗殺の当事者は、どれも平凡な生活を営んでいるように見える。
だが平和という状況が、ただちに戦争ではない、という意味にはならない。
戦争は、いつも平和の仮面のうちに眠り続けているのだ。
「無知」「無関心」こそが最大の罪だ、と映画は語る。イスラエル人もパレスチナ人も自分阿智の存在を知らしめるために犯行を重ねる。通俗的な勧善懲悪は通用しない(つまりイスラエル人を襲ったパレスチナ人は悪人だ、という即断)。「知らなければ平和」という理屈も、世界レベルでは通用しない。
映画『ミュンヘン』はエンターティメントの巨匠による、重さのあるドラマだ。
映画の内部には多くのものが描かれ、語られるが、もっとも強く描かれているのは“民族の悲劇”だ。
それから、あらゆる世界の悲劇に対する、我々の側による無関心だ。
ミュンヘン事件の決行者は、自分達の計画の正しさを信じている。多くの人が、“黒い九月”の存在を知ってくれたからだ。
《神の怒り作戦》の大きな本質は、暗殺にセンセーショナルな衝撃を与えることだった。
遠くの世界で、数百人爆撃しようとも、誰も気付きもしないし、関心を抱こうともしない。
だから、最も我々の身近に思える場所で、戦争の状況を出現させようとしたのだ。
だが、最終的にミュンヘン事件を世界に知らしめ、記憶に残したのは、スピルバークの映画であっただろう。
映画記事一覧
作品データ
監督:スティーヴン・スピルバーグ 原作:ジョージ・ジョナス
音楽:ジョン・ウィリアムズ 脚本:トニー・クシュナー エリック・ロス
出演:エリック・バナ ダニエル・クレイグ
〇〇〇キアラン・ハインズ マチュー・カソヴィッツ
〇〇〇ハンス・ジシュラー ジェフリー・ラッシュ
〇〇〇アイェレット・ゾラー マチュー・アマルリック
PR
■2009/09/23 (Wed)
映画:外国映画■
建安13年(西暦208年)
時代の中心は曹操にあった。曹操は献帝を擁立し、圧倒的軍勢を率いて天下統一を目指していた。
曹操の軍勢はどこまでも勢力を伸ばしていき、間もなく南へと進軍する。
曹操の目的は、南方に陣を敷く劉備、孫権の二人の抹殺だった。
登場人物が多いためだと思うが、顔へのクローズアップが多い。りりしい顔立ちの俳優が、次々とクローズアップされ、映画を彩っていく。
金城武が演じる孔明は非常に若々しい。何となく孔明には仙人的イメージ(あるいはマーリーン)があるが、実際この頃の孔明は30代始め頃だったそうだ。『レッドクリフ』での孔明は若く描きすぎていると思うが、金城武の実年齢とほぼ同じくらいである。
曹操の80万人に及ぶ軍勢に攻め入られ、劉備軍はあえなく敗走。城を捨ててさらに南へと逃れるところであった。
だが民を守りつつ逃亡する劉備軍は、思うように進みない。行く先を険しい山岳に阻まれ、民の行進は滞りがちだった。
曹操の軍勢は、情け容赦なく迫ってくる。
劉備の忠実な家臣である張飛は、わずかな手勢を率いて平原に陣を敷く。背後にはまだ漢の民が残っている。曹操軍に対して多勢に無勢なのは明らかだが、退くわけにはいかなかった。
だが諸葛亮孔明は、奇策を練り曹操軍に足止めをさせ、関羽を中心とする千人に及ぶ援軍を投入させる。
まもなく民の安全を確信した孔明は、趙飛、関羽の軍勢を撤退させる。
中国の歴史は知らなくとも、三国志は日本でも漫画、アニメ、ゲームなどで高い知名度を誇る。もしそれらに接していなくとも、劉備や孔明、関羽といった名前は聞いたことあるはずだし、ここから生まれた名言などが、日本のことわざとして定着している。
劉備たちは民と共に逃亡を続け、ようやく夏口の街に落ち着く。
だが曹操の脅威は去ったわけではない。すぐにでも次の一手を考えねばならない事態だった。
そこで孔明は劉備に、孫権に援助を求めようと提案。
孫権も曹操と敵対する武将。同盟を申し出れば、必ず応じるはずだ、と。
劉備はこの提案に納得し、孔明を単身、孫権の元へ向かわせる。
レッドクリフは前後編合わせて5時間に及ぶ。それでも、三国志という長いドラマのほんの一幕に過ぎない。あらためて、三国志の壮大さに圧倒される。現代のような作られた大作主義の中国ではなく、当時の中国は本当に壮大だった。
『レッドクリフ Part1』は三国志の物語の中でも、最も苛烈な赤壁の戦いを中心に描いた壮大な歴史絵巻である。
映画の冒頭から、三国志の英雄はすでに集結している。
そこに至る余計な解説は思い切って省略され、物語は大きなクライマックスへ向かおうと進んでいる。
映画の舞台は赤壁を中心に組み立てられ、呆れるほど雄大で豪壮なセットが建築された。
戦場に集る群衆はかつてない規模で、見る者を圧倒させる。
何もかもが恐るべき雄大さで描かれた映画だ。
かつての英雄叙事詩を、最新の映画技術が壮大なドラマとしてスクリーン上に再現する。
実写撮影はくすんだ色彩で、重量感を持って描かれるが、それに対してデジタルシーンはあまりにも色彩豊か。実景とかみあわず違和感が生じている。アクションも超現実的な跳躍が多く、やや飛躍しすぎた印象だ。
三国志は実際の歴史物語だが、人間の描写にはひどく伝説めいた部分がある。
映画に描かれる英雄たちも、あまりにも超人的に描かれすぎて、現実的なものを失っている。
剣や槍の動きはあまりにも美しく描かれすぎているし、剛腕の関羽、張飛などの活躍はもはやファンタジーである。
アクションには京劇やカンフーの動きが取り入れられているが、それがかえって、自然主義的な力の流れを妨げてしまっている。
セットや風景は現実感あふれるディティールで描かれるが、活劇の部分はあまりにも跳躍しすぎで、少し違和感が残る。
圧倒的スケールで描かれた作品。ジョン・ウー監督がハリウッドで儲けたお金で作られた。戦闘シーンはどれも奇抜だが、迫力充分。セットはあまりにも壮大すぎて、本当の歴史建築だと誤解した出演者もいたようだ。
『レッドクリフ Part1』は戦場に集う戦士達の物語である。
どの武将も、潔いまでに高潔な人間として描かれている。
戦士としての友情、仁義、忠義を強く描き、敵である曹操との対比を克明にしている。
一方で、戦士としての成長のドラマでもある。
赤壁の戦いに備え、戦士たちが集結し、絆を確かめあう。やがて迫り来る、最も苛烈な戦いを前にして、決意を固めるために。
壮大な歴史絵巻も、まだ途上である。
映画記事一覧
作品データ
監督・脚本:ジョン・ウー 音楽:岩代太郎
脚本:チャン・カン コー・ジェン シン・ハーユ
出演:トニー・レオン 金城武 チャン・フォンイー
〇〇〇チャン・チェン ヴィッキー・チャオ フー・ジュン
〇〇〇中村獅童 リン・チーリン ユウ・ヨン
〇〇〇バーサンジャプ ザン・ジンシェン ソン・ジア
時代の中心は曹操にあった。曹操は献帝を擁立し、圧倒的軍勢を率いて天下統一を目指していた。
曹操の軍勢はどこまでも勢力を伸ばしていき、間もなく南へと進軍する。
曹操の目的は、南方に陣を敷く劉備、孫権の二人の抹殺だった。
登場人物が多いためだと思うが、顔へのクローズアップが多い。りりしい顔立ちの俳優が、次々とクローズアップされ、映画を彩っていく。
金城武が演じる孔明は非常に若々しい。何となく孔明には仙人的イメージ(あるいはマーリーン)があるが、実際この頃の孔明は30代始め頃だったそうだ。『レッドクリフ』での孔明は若く描きすぎていると思うが、金城武の実年齢とほぼ同じくらいである。
曹操の80万人に及ぶ軍勢に攻め入られ、劉備軍はあえなく敗走。城を捨ててさらに南へと逃れるところであった。
だが民を守りつつ逃亡する劉備軍は、思うように進みない。行く先を険しい山岳に阻まれ、民の行進は滞りがちだった。
曹操の軍勢は、情け容赦なく迫ってくる。
劉備の忠実な家臣である張飛は、わずかな手勢を率いて平原に陣を敷く。背後にはまだ漢の民が残っている。曹操軍に対して多勢に無勢なのは明らかだが、退くわけにはいかなかった。
だが諸葛亮孔明は、奇策を練り曹操軍に足止めをさせ、関羽を中心とする千人に及ぶ援軍を投入させる。
まもなく民の安全を確信した孔明は、趙飛、関羽の軍勢を撤退させる。
中国の歴史は知らなくとも、三国志は日本でも漫画、アニメ、ゲームなどで高い知名度を誇る。もしそれらに接していなくとも、劉備や孔明、関羽といった名前は聞いたことあるはずだし、ここから生まれた名言などが、日本のことわざとして定着している。
劉備たちは民と共に逃亡を続け、ようやく夏口の街に落ち着く。
だが曹操の脅威は去ったわけではない。すぐにでも次の一手を考えねばならない事態だった。
そこで孔明は劉備に、孫権に援助を求めようと提案。
孫権も曹操と敵対する武将。同盟を申し出れば、必ず応じるはずだ、と。
劉備はこの提案に納得し、孔明を単身、孫権の元へ向かわせる。
レッドクリフは前後編合わせて5時間に及ぶ。それでも、三国志という長いドラマのほんの一幕に過ぎない。あらためて、三国志の壮大さに圧倒される。現代のような作られた大作主義の中国ではなく、当時の中国は本当に壮大だった。
『レッドクリフ Part1』は三国志の物語の中でも、最も苛烈な赤壁の戦いを中心に描いた壮大な歴史絵巻である。
映画の冒頭から、三国志の英雄はすでに集結している。
そこに至る余計な解説は思い切って省略され、物語は大きなクライマックスへ向かおうと進んでいる。
映画の舞台は赤壁を中心に組み立てられ、呆れるほど雄大で豪壮なセットが建築された。
戦場に集る群衆はかつてない規模で、見る者を圧倒させる。
何もかもが恐るべき雄大さで描かれた映画だ。
かつての英雄叙事詩を、最新の映画技術が壮大なドラマとしてスクリーン上に再現する。
実写撮影はくすんだ色彩で、重量感を持って描かれるが、それに対してデジタルシーンはあまりにも色彩豊か。実景とかみあわず違和感が生じている。アクションも超現実的な跳躍が多く、やや飛躍しすぎた印象だ。
三国志は実際の歴史物語だが、人間の描写にはひどく伝説めいた部分がある。
映画に描かれる英雄たちも、あまりにも超人的に描かれすぎて、現実的なものを失っている。
剣や槍の動きはあまりにも美しく描かれすぎているし、剛腕の関羽、張飛などの活躍はもはやファンタジーである。
アクションには京劇やカンフーの動きが取り入れられているが、それがかえって、自然主義的な力の流れを妨げてしまっている。
セットや風景は現実感あふれるディティールで描かれるが、活劇の部分はあまりにも跳躍しすぎで、少し違和感が残る。
圧倒的スケールで描かれた作品。ジョン・ウー監督がハリウッドで儲けたお金で作られた。戦闘シーンはどれも奇抜だが、迫力充分。セットはあまりにも壮大すぎて、本当の歴史建築だと誤解した出演者もいたようだ。
『レッドクリフ Part1』は戦場に集う戦士達の物語である。
どの武将も、潔いまでに高潔な人間として描かれている。
戦士としての友情、仁義、忠義を強く描き、敵である曹操との対比を克明にしている。
一方で、戦士としての成長のドラマでもある。
赤壁の戦いに備え、戦士たちが集結し、絆を確かめあう。やがて迫り来る、最も苛烈な戦いを前にして、決意を固めるために。
壮大な歴史絵巻も、まだ途上である。
映画記事一覧
作品データ
監督・脚本:ジョン・ウー 音楽:岩代太郎
脚本:チャン・カン コー・ジェン シン・ハーユ
出演:トニー・レオン 金城武 チャン・フォンイー
〇〇〇チャン・チェン ヴィッキー・チャオ フー・ジュン
〇〇〇中村獅童 リン・チーリン ユウ・ヨン
〇〇〇バーサンジャプ ザン・ジンシェン ソン・ジア
■2009/09/23 (Wed)
映画:外国映画■
モトラが仕事場を出て通りに出ると、突然、切迫した声がした。
「頼む、捕まえてくれ! 私の財布を引ったくった!」
モトラが振り向くと、足を引き摺りながら叫ぶ老黒人がいた。その手前を、財布を持った男が疾走している。
モトラは突然すぎて、ぽかんと引ったくりを見送ってしまった。するとそこに、ハンチングの若者が飛び出してきて、持っていたトランクを投げた。
引ったくりは、トランクをぶつけられて倒れた。その手から財布が落ちた。
引ったくりはすぐに起き上がって、ナイフを手に身構えた。
ハンチングの若者が、引ったくりに立ち向かおうと対峙する。モトラも、ここで応戦するようにハンチングの若者に並んだ。
引ったくりは二人の姿を見て、形勢不利と見て退散する。
モトラは財布を拾って、老黒人の下へ向かった。老黒人は足を怪我して、その場に倒れこんでいた。
「すまないが、この金をある場所に届けてくれ。実はこの金はマフィアの金なんだ。四時までに、ある場所に届けなければならないんだ。私は足を怪我してしまった。頼む、代わりに金を届けてくれ!」
財布の中には5000ドルのお金が入っていた。
モトラは了解して、財布を受け取った。だが、ハンチングの若者が、
「待って。さっきの奴が待ち伏せしているはずだ。ハンカチは持っていないか?」
老黒人がハンカチを持っていた。ハンチングの若者はハンカチを受け取り、財布を包んだ。
「君の財布もだ。君のも狙われるぞ。いいか。これを、こうやってズボンの中に入れるんだ。いいな。こうしたら安全だ」
ハンチングの若者は、モトラの財布もハンカチに包むと、ズボンの中に押し込んだ。
「わかった。キン隠しだな」
モトラは納得して若者からハンカチに包んだ財布を受け取った。若者に言われたとおり、モトラは自分のズボンの中に財布を押し込む。
モトラは駆け出した。そのままタクシーに飛び乗り、行き先を告げた。しかし、老黒人が言った住所とは、反対方向だった。
タクシーが走り出すと、モトラは大笑いした。
「どうしたんですか?」とタクシーの運転手が尋ねた。
「大儲けだ! 5000ドルが手に入ったぞ!」
モトラはズボンの中に入れていたハンカチを取り出す。開けてみると、そこに財布はなく、大量のちり紙が包まれていた。
……騙された!
時代は1936年。アメリかは大恐慌の真っ只中だった。冒頭シーンなどに失業者が溢れる光景が描かれている。大金などお目にできないつらい時代だ。
ジョニーたちは、手に入れたお金をマフィアのお金だと知らない。通行人の財布を騙し取ったと思っていた。老齢のルーサーは引退を考えていた。
実は、ハンチングの若者(ジョニー)、老黒人(ルーサー)、引ったくりの三人は、詐欺師だった。三人で共謀して、モトラを騙たのだ。
ジョニーたちは、こうしてモトラの財布を騙し取ったのだが、中から出てきたのは思いがけない大量の札束。
実は、その財布こそ、シカゴマフィアの金だったのだ。
間もなくジョニーたちは、シカゴマフィアから命を狙われるようになる。
ルーサーが殺され、ジョニーは命からがらシカゴから脱出する。
ルーサーの仇を誓ったジョニーは、稀代の詐欺師であるヘンリー・ゴンドーフに協力を申し出る。
こうして、史上最大の詐欺師たちのショーが始まる。
ヘンリー・ゴンドーフとともに、詐欺ショーを共謀する事になったジョニー。だがジョニー自身、警察にもマフィアにも追われる身である。ジョニーは警戒して、アパートのドアに紙切れを挟み込む(←)。これをみて、「あっ!」と思ってしまった。『デスノート』の元ネタだ。
『スティング』は犯罪映画だが、暴力描写は少なく、安心して鑑賞できる作品だ。
詐欺師達の物語は軽妙で、リズムのいい音楽が心地よい。最近では見られないワイプが、物語の速度を早めている。
色使いも暖色系が中心で、落ち着いた印象がある。
ストーリーラインは複雑で、様々な思惑が錯綜するが、見ている側は物語を見失うことはない。
単純に物語を追っていける作品だ。
ヘンリー・ゴンドーフ(左)は、まずポーカーでマフィアボスを騙す。ヘンリーを演じたポール・ニューマンは、吹き替えなしでトランプマジックを披露した。
『スティング』の登場人物は、ほとんどが詐欺師である。
主人公のジョニーをはじめとして、登場人物はことごとく詐欺師だ。
詐欺師たちは、皆それぞれ策を練り、罠を張り込み、誰かを陥れようとしている。
ジョニーは、シカゴマフィアを騙してやろとしているし、シカゴマフィアはジョニーの命を狙っている。稀代の詐欺師ヘンリー・ゴンドーフも、FBIに狙われている。
ジョニーたちは追跡する者たちを払いのけ、いかにして儲けを手にするのか。いかにルーサーの復讐を成功させるのか。
なかなか隙のない、優れたエンターティメントだ。
映画記事一覧
作品データ
監督:ジョージ・ロイ・ヒル
脚本:デヴィッド・S・ウォード マーヴィン・ハムリッシュ
出演:ロバート・レッドフォード ポール・ニューマン
〇〇〇ロバート・ショウ チャールズ・ダーニング
〇〇〇アイリーン・ブレナン レイ・ウォルストン
〇〇〇サリー・カークランド チャールズ・ディアコップ
〇〇〇ダナ・エルカー ディミトラ・アーリス
アカデミー賞:作品賞受賞/監督賞受賞/脚本賞受賞/音響賞受賞
美術監督・装置賞受賞/ミュージカル映画音楽賞受賞/
「頼む、捕まえてくれ! 私の財布を引ったくった!」
モトラが振り向くと、足を引き摺りながら叫ぶ老黒人がいた。その手前を、財布を持った男が疾走している。
モトラは突然すぎて、ぽかんと引ったくりを見送ってしまった。するとそこに、ハンチングの若者が飛び出してきて、持っていたトランクを投げた。
引ったくりは、トランクをぶつけられて倒れた。その手から財布が落ちた。
引ったくりはすぐに起き上がって、ナイフを手に身構えた。
ハンチングの若者が、引ったくりに立ち向かおうと対峙する。モトラも、ここで応戦するようにハンチングの若者に並んだ。
引ったくりは二人の姿を見て、形勢不利と見て退散する。
モトラは財布を拾って、老黒人の下へ向かった。老黒人は足を怪我して、その場に倒れこんでいた。
「すまないが、この金をある場所に届けてくれ。実はこの金はマフィアの金なんだ。四時までに、ある場所に届けなければならないんだ。私は足を怪我してしまった。頼む、代わりに金を届けてくれ!」
財布の中には5000ドルのお金が入っていた。
モトラは了解して、財布を受け取った。だが、ハンチングの若者が、
「待って。さっきの奴が待ち伏せしているはずだ。ハンカチは持っていないか?」
老黒人がハンカチを持っていた。ハンチングの若者はハンカチを受け取り、財布を包んだ。
「君の財布もだ。君のも狙われるぞ。いいか。これを、こうやってズボンの中に入れるんだ。いいな。こうしたら安全だ」
ハンチングの若者は、モトラの財布もハンカチに包むと、ズボンの中に押し込んだ。
「わかった。キン隠しだな」
モトラは納得して若者からハンカチに包んだ財布を受け取った。若者に言われたとおり、モトラは自分のズボンの中に財布を押し込む。
モトラは駆け出した。そのままタクシーに飛び乗り、行き先を告げた。しかし、老黒人が言った住所とは、反対方向だった。
タクシーが走り出すと、モトラは大笑いした。
「どうしたんですか?」とタクシーの運転手が尋ねた。
「大儲けだ! 5000ドルが手に入ったぞ!」
モトラはズボンの中に入れていたハンカチを取り出す。開けてみると、そこに財布はなく、大量のちり紙が包まれていた。
……騙された!
時代は1936年。アメリかは大恐慌の真っ只中だった。冒頭シーンなどに失業者が溢れる光景が描かれている。大金などお目にできないつらい時代だ。
ジョニーたちは、手に入れたお金をマフィアのお金だと知らない。通行人の財布を騙し取ったと思っていた。老齢のルーサーは引退を考えていた。
実は、ハンチングの若者(ジョニー)、老黒人(ルーサー)、引ったくりの三人は、詐欺師だった。三人で共謀して、モトラを騙たのだ。
ジョニーたちは、こうしてモトラの財布を騙し取ったのだが、中から出てきたのは思いがけない大量の札束。
実は、その財布こそ、シカゴマフィアの金だったのだ。
間もなくジョニーたちは、シカゴマフィアから命を狙われるようになる。
ルーサーが殺され、ジョニーは命からがらシカゴから脱出する。
ルーサーの仇を誓ったジョニーは、稀代の詐欺師であるヘンリー・ゴンドーフに協力を申し出る。
こうして、史上最大の詐欺師たちのショーが始まる。
ヘンリー・ゴンドーフとともに、詐欺ショーを共謀する事になったジョニー。だがジョニー自身、警察にもマフィアにも追われる身である。ジョニーは警戒して、アパートのドアに紙切れを挟み込む(←)。これをみて、「あっ!」と思ってしまった。『デスノート』の元ネタだ。
『スティング』は犯罪映画だが、暴力描写は少なく、安心して鑑賞できる作品だ。
詐欺師達の物語は軽妙で、リズムのいい音楽が心地よい。最近では見られないワイプが、物語の速度を早めている。
色使いも暖色系が中心で、落ち着いた印象がある。
ストーリーラインは複雑で、様々な思惑が錯綜するが、見ている側は物語を見失うことはない。
単純に物語を追っていける作品だ。
ヘンリー・ゴンドーフ(左)は、まずポーカーでマフィアボスを騙す。ヘンリーを演じたポール・ニューマンは、吹き替えなしでトランプマジックを披露した。
『スティング』の登場人物は、ほとんどが詐欺師である。
主人公のジョニーをはじめとして、登場人物はことごとく詐欺師だ。
詐欺師たちは、皆それぞれ策を練り、罠を張り込み、誰かを陥れようとしている。
ジョニーは、シカゴマフィアを騙してやろとしているし、シカゴマフィアはジョニーの命を狙っている。稀代の詐欺師ヘンリー・ゴンドーフも、FBIに狙われている。
ジョニーたちは追跡する者たちを払いのけ、いかにして儲けを手にするのか。いかにルーサーの復讐を成功させるのか。
なかなか隙のない、優れたエンターティメントだ。
映画記事一覧
作品データ
監督:ジョージ・ロイ・ヒル
脚本:デヴィッド・S・ウォード マーヴィン・ハムリッシュ
出演:ロバート・レッドフォード ポール・ニューマン
〇〇〇ロバート・ショウ チャールズ・ダーニング
〇〇〇アイリーン・ブレナン レイ・ウォルストン
〇〇〇サリー・カークランド チャールズ・ディアコップ
〇〇〇ダナ・エルカー ディミトラ・アーリス
アカデミー賞:作品賞受賞/監督賞受賞/脚本賞受賞/音響賞受賞
美術監督・装置賞受賞/ミュージカル映画音楽賞受賞/
■2009/09/22 (Tue)
映画:外国映画■
ノースダコタ州 ファーゴ
ジェリーがおずおずとレストランの中へ入っていく。すでにあの二人は奥のテーブルで待っていた。二人の男はカールとゲアだ。
ジェリーは、カールとゲアを雇い、自身の妻ジーンを誘拐させ、身代金を得るつもりでいた。“狂言誘拐”だ。
身代金の額は8万ドル。そのうちの4万ドルをカールとゲアに引き渡す約束だった。
ジェリーは金に困っていた。
40エーカーの土地を手に入れ、事業を始めるつもりだった。だが、資金がなかった。
ジェリーは裕福な義父を説得して資金を得ようとしたが、義父はなかなか納得してくれない。それでジェリーは狂言誘拐を思いついたのだ。
ところが、数日後、急に義父は心変わりをして、資金を出してもいいと言い始める。
お金の心配がなくなった。狂言誘拐は中止だ。
ジェリーは、カールとゲアに連絡を取ろうとするが、何度電話しても通じなかった。
画面だけ見ると、ゆるやかなファミリー映画のようにすら見えてしまう。だが、それも作り手の狙いなのだろう。穏やかに見えた映像が次第に暴力の恐怖に変わっていく。時々カメラは、極端に対象から遠ざかって、まるで幾何学的な何かのように見せる。ファミリー映画ふうの穏やかさだが、しかし監督の視点は俳優に接近せず、乾いた感性で暴力を客観的に描いている。
切っ掛けは、ほんの少しのお金を得るためだった。
だが、ジェリーの計画はボロボロに崩壊していく。
ジェリーは事業を起こすにしても犯罪を犯すにしても、あまりにも平凡で、世間知らずで、非力な存在だった。
狂言誘拐の計画は思いがけない方向へ進み、悪夢のような殺戮の連鎖へと変わっていく。
ゲアの殺戮は止まることなく発展していく。「理由のわからない暴力」は、後のコーエン兄弟の監督作品『ノー・カントリー』に受け継がれ、完成していく。
コーエン兄弟はコメディとバイオレンスをはっきり視点を切り替えて描く作家だ。予備知識がないと、今回のコーエン兄弟はどっちのコーエン兄弟だろう、としばらく考えながら見てしまう。『ファーゴ』はバイオレンスのほうのコーエン兄弟だ。
映画『ファーゴ』は、犯罪映画だがいかにもな派手なシーンはない。
大袈裟なアクションはなく、スター俳優も登場しない。主人公であるマージの登場も、30分を過ぎてからだ。しかもマージは、ヒーローらしからぬキャラクターだ。ルックスにしても、お世辞にも美人女優とはいえない。
もっとも、平凡に思える映画の中で、マージの名推理は素晴らしく冴え渡る。まぎれもない名探偵だ。
どのカメラワークも平凡で、特別な事件が起きそうな予感がない。
それだけに、じわりじわりと恐怖が滲み出てくる。
なにかのタガか外れて、次々と殺人が起きる。
『ファーゴ』は、何もかもが平凡に見えるように制作されている。
だからこそ、事件の異常さが異様な重みを持って際立ってくる。
映画記事一覧
作品データ
監督:ジョエル・コーエン
音楽:カーター・バーウェル 脚本:イーサン・コーエン ジョエル・コーエン
出演:フランシス・マクドーマンド スティーヴ・ブシェミ
〇〇〇ウィリアム・H・メイシー ピーター・ストーメア
〇〇〇ハーヴ・プレスネル ジョン・キャロル・リンチ
〇〇〇クリステン・ルドルード トニー・デンマン
ジェリーがおずおずとレストランの中へ入っていく。すでにあの二人は奥のテーブルで待っていた。二人の男はカールとゲアだ。
ジェリーは、カールとゲアを雇い、自身の妻ジーンを誘拐させ、身代金を得るつもりでいた。“狂言誘拐”だ。
身代金の額は8万ドル。そのうちの4万ドルをカールとゲアに引き渡す約束だった。
ジェリーは金に困っていた。
40エーカーの土地を手に入れ、事業を始めるつもりだった。だが、資金がなかった。
ジェリーは裕福な義父を説得して資金を得ようとしたが、義父はなかなか納得してくれない。それでジェリーは狂言誘拐を思いついたのだ。
ところが、数日後、急に義父は心変わりをして、資金を出してもいいと言い始める。
お金の心配がなくなった。狂言誘拐は中止だ。
ジェリーは、カールとゲアに連絡を取ろうとするが、何度電話しても通じなかった。
画面だけ見ると、ゆるやかなファミリー映画のようにすら見えてしまう。だが、それも作り手の狙いなのだろう。穏やかに見えた映像が次第に暴力の恐怖に変わっていく。時々カメラは、極端に対象から遠ざかって、まるで幾何学的な何かのように見せる。ファミリー映画ふうの穏やかさだが、しかし監督の視点は俳優に接近せず、乾いた感性で暴力を客観的に描いている。
切っ掛けは、ほんの少しのお金を得るためだった。
だが、ジェリーの計画はボロボロに崩壊していく。
ジェリーは事業を起こすにしても犯罪を犯すにしても、あまりにも平凡で、世間知らずで、非力な存在だった。
狂言誘拐の計画は思いがけない方向へ進み、悪夢のような殺戮の連鎖へと変わっていく。
ゲアの殺戮は止まることなく発展していく。「理由のわからない暴力」は、後のコーエン兄弟の監督作品『ノー・カントリー』に受け継がれ、完成していく。
コーエン兄弟はコメディとバイオレンスをはっきり視点を切り替えて描く作家だ。予備知識がないと、今回のコーエン兄弟はどっちのコーエン兄弟だろう、としばらく考えながら見てしまう。『ファーゴ』はバイオレンスのほうのコーエン兄弟だ。
映画『ファーゴ』は、犯罪映画だがいかにもな派手なシーンはない。
大袈裟なアクションはなく、スター俳優も登場しない。主人公であるマージの登場も、30分を過ぎてからだ。しかもマージは、ヒーローらしからぬキャラクターだ。ルックスにしても、お世辞にも美人女優とはいえない。
もっとも、平凡に思える映画の中で、マージの名推理は素晴らしく冴え渡る。まぎれもない名探偵だ。
どのカメラワークも平凡で、特別な事件が起きそうな予感がない。
それだけに、じわりじわりと恐怖が滲み出てくる。
なにかのタガか外れて、次々と殺人が起きる。
『ファーゴ』は、何もかもが平凡に見えるように制作されている。
だからこそ、事件の異常さが異様な重みを持って際立ってくる。
映画記事一覧
作品データ
監督:ジョエル・コーエン
音楽:カーター・バーウェル 脚本:イーサン・コーエン ジョエル・コーエン
出演:フランシス・マクドーマンド スティーヴ・ブシェミ
〇〇〇ウィリアム・H・メイシー ピーター・ストーメア
〇〇〇ハーヴ・プレスネル ジョン・キャロル・リンチ
〇〇〇クリステン・ルドルード トニー・デンマン
■
つづきはこちら
■2009/09/19 (Sat)
映画:外国映画■
1585年のヨーロッパは、二つの宗教が対立する時代だった。
カトリックを国教とするスペインと、プロテスタントを国教とする英国。
スペイン王フェリペニ二世は、プロテスタントの女王を亡き者にし、娘を英国女王の座に就かせるために、謀略を練っていた。
侍女エリザベス(ベス)。もう一人のエリザベスとして描かれる。エリザベスの俗世の姿である。この両者の関係、決別、成長の物語が作品の主なキーワードだ。
一方の英国には、戦争の影はどこにもなかった。
英国女王エリザベスのもとに、いくつもの縁談の話が舞い込んでくる。
退屈そうにするエリザベスは、謁見場にいた、一人の男に心惹かれる。海賊の、ウォルター・ローリーだ。
豪華絢爛な衣装デザインに注目したい。大作映画だがセット数は少なく、おそらく歴史建築などが撮影に使われたのだろう。古い建築がそのまま残るのが石建築のいいところだ。だからプリ・プロダクションで力を注いだのは衣装のほうだろう。
歴史を現代の感性で美しく描いた作品だ。石建築の重厚な重々しさ、暗く差し込んでくる光。西洋絵画で見られる光を、しっかり捉えてフィルムの中に封じている。
歴史を題材にし、背景に戦争の影があるが、本質は恋愛映画だ。女王エリザベスの恋愛物語であり、成長の物語だ。
『エリザベス:ゴールデン・エイジ』には二人のエリザベスが登場する。女王エリザベスと、その侍女であるエリザベス(ベス)だ。
二人のエリザベスの関係は、光と影だ。二人は常に一緒にいるし、鏡のように対比する存在として描かれる。
権力を持ったエリザベスと、権力に服従するエリザベス。思い通りになれないエリザベスと、思い通りになるエリザベス。
ウォルター・ローリーの役割は、恋愛の主体であると同時に、この両者の関係を変質させるためにある。
我々はつい物質だけで価値判断してしまいがちだ。確かに王はあらゆる物に満たされているが、しかし自由はない。孤独であるといっていい。常に背後にある国家を意識して行動しなければならないし、どんな決断も先延ばしにできない。罠に陥れて戦争を始めたがる連中もいる。暗殺の恐れもある。ひたすら神経をすり減らしていくだけだろう。王であるためには大きな責任が伴うのだ。
王とは、俗世的な存在ではなく、偶像に近い存在だ。馬鹿げた装飾に、白塗りの面のような顔。女王自身がそんな姿を望んでいるのではない――王という立場を示すために、俗世とは違う存在である証明のために、そんな格好をしているのだ。
王とは、すべての権威の最上部にありながら自由はない。民も側近も、王に人間としたの姿など求めていない。
王とは偶像に過ぎない。王とはある意味で人間ですらない。王とは国家である。王とは大地そのものである。
だから女王エリザベスは、救いたい命も救えず、愛も得られない。人間としての欲求は、王という存在にはふさわしくないからだ。
だから女王エリザベスは、侍女のベスを通じて、ローリーの愛を得ようとする。自分の代わりにローリーと踊らせ、自分の代わりに愛の言葉を交わす。そのどちらも、女王がする行為としては認められていないからだ。
クライマックスの戦いは、象徴的に描かれる。おそらく、予算の問題が背景にあったのだと思うが、この映画はあくまでもエリザベスの成長の物語。嘔吐しての覚悟を決めるまでの物語だ。国同士の戦いも、エリザベスにとっては精神的な戦いである。兵士のぶつかり合いを中心とした合戦を期待した人はがっかり?
物語は間もなく戦争の影が忍び寄ろうとする。スペイン艦隊が、海峡に迫ってくる。
エリザベス女王は、様々な葛藤を抱き、決断を迫られる。
人間としてではない。女としてでもない。一国を背負う王として。王である立場を自ら受け入れ、民を導く覚悟のために。
そのすべてが達成させられた時にこそ、英雄の時代“ゴールデン・エイジ(黄金時代)”が得られるのだ。
映画記事一覧
作品データ
監督:シェカール・カプール
脚本:ウィリアム・ニコルソン マイケル・ハースト
音楽:クレイグ・アームストロング
撮影:レミ・アデファラシン 編集:ジル・ビルコック
出演:ケイト・ブランシェット ジェフリー・ラッシュ
〇〇〇クライブ・オーエン リス・エヴァンス
〇〇〇ジョルディ・モリャ アビー・コーニッシュ
カトリックを国教とするスペインと、プロテスタントを国教とする英国。
スペイン王フェリペニ二世は、プロテスタントの女王を亡き者にし、娘を英国女王の座に就かせるために、謀略を練っていた。
侍女エリザベス(ベス)。もう一人のエリザベスとして描かれる。エリザベスの俗世の姿である。この両者の関係、決別、成長の物語が作品の主なキーワードだ。
一方の英国には、戦争の影はどこにもなかった。
英国女王エリザベスのもとに、いくつもの縁談の話が舞い込んでくる。
退屈そうにするエリザベスは、謁見場にいた、一人の男に心惹かれる。海賊の、ウォルター・ローリーだ。
豪華絢爛な衣装デザインに注目したい。大作映画だがセット数は少なく、おそらく歴史建築などが撮影に使われたのだろう。古い建築がそのまま残るのが石建築のいいところだ。だからプリ・プロダクションで力を注いだのは衣装のほうだろう。
歴史を現代の感性で美しく描いた作品だ。石建築の重厚な重々しさ、暗く差し込んでくる光。西洋絵画で見られる光を、しっかり捉えてフィルムの中に封じている。
歴史を題材にし、背景に戦争の影があるが、本質は恋愛映画だ。女王エリザベスの恋愛物語であり、成長の物語だ。
『エリザベス:ゴールデン・エイジ』には二人のエリザベスが登場する。女王エリザベスと、その侍女であるエリザベス(ベス)だ。
二人のエリザベスの関係は、光と影だ。二人は常に一緒にいるし、鏡のように対比する存在として描かれる。
権力を持ったエリザベスと、権力に服従するエリザベス。思い通りになれないエリザベスと、思い通りになるエリザベス。
ウォルター・ローリーの役割は、恋愛の主体であると同時に、この両者の関係を変質させるためにある。
我々はつい物質だけで価値判断してしまいがちだ。確かに王はあらゆる物に満たされているが、しかし自由はない。孤独であるといっていい。常に背後にある国家を意識して行動しなければならないし、どんな決断も先延ばしにできない。罠に陥れて戦争を始めたがる連中もいる。暗殺の恐れもある。ひたすら神経をすり減らしていくだけだろう。王であるためには大きな責任が伴うのだ。
王とは、俗世的な存在ではなく、偶像に近い存在だ。馬鹿げた装飾に、白塗りの面のような顔。女王自身がそんな姿を望んでいるのではない――王という立場を示すために、俗世とは違う存在である証明のために、そんな格好をしているのだ。
王とは、すべての権威の最上部にありながら自由はない。民も側近も、王に人間としたの姿など求めていない。
王とは偶像に過ぎない。王とはある意味で人間ですらない。王とは国家である。王とは大地そのものである。
だから女王エリザベスは、救いたい命も救えず、愛も得られない。人間としての欲求は、王という存在にはふさわしくないからだ。
エリザベスは海賊ローリーに恋心を抱く。しかしエリザベスの恋は決して実現しない。
なぜなら、女王エリザベスは“バージン・クイーン”であるからだ。エリザベス自身で、絶対の処女という象徴的存在を規定した。だから、自らこれに反逆してはならない。だから女王エリザベスは、侍女のベスを通じて、ローリーの愛を得ようとする。自分の代わりにローリーと踊らせ、自分の代わりに愛の言葉を交わす。そのどちらも、女王がする行為としては認められていないからだ。
クライマックスの戦いは、象徴的に描かれる。おそらく、予算の問題が背景にあったのだと思うが、この映画はあくまでもエリザベスの成長の物語。嘔吐しての覚悟を決めるまでの物語だ。国同士の戦いも、エリザベスにとっては精神的な戦いである。兵士のぶつかり合いを中心とした合戦を期待した人はがっかり?
物語は間もなく戦争の影が忍び寄ろうとする。スペイン艦隊が、海峡に迫ってくる。
エリザベス女王は、様々な葛藤を抱き、決断を迫られる。
人間としてではない。女としてでもない。一国を背負う王として。王である立場を自ら受け入れ、民を導く覚悟のために。
そのすべてが達成させられた時にこそ、英雄の時代“ゴールデン・エイジ(黄金時代)”が得られるのだ。
映画記事一覧
作品データ
監督:シェカール・カプール
脚本:ウィリアム・ニコルソン マイケル・ハースト
音楽:クレイグ・アームストロング
撮影:レミ・アデファラシン 編集:ジル・ビルコック
出演:ケイト・ブランシェット ジェフリー・ラッシュ
〇〇〇クライブ・オーエン リス・エヴァンス
〇〇〇ジョルディ・モリャ アビー・コーニッシュ