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■2009/08/02 (Sun)
創作小説■
この小説は、『さよなら絶望先生』を題材にした2次創作小説です。2次創作に関する法的問題については、こちらをご覧下さい。【著作物】【二次創作物】【パロディ】【パロディ裁判】
9
糸色先生はゆっくりドアを開けて、中に立ち入った。私も先生の背中越しに部屋のなかを覗いた。
部屋は暗く、カーテンで締め切られた窓がぼんやりと浮かんでいた。本棚一杯の漫画本。小さなブラウン管テレビ。Tシャツが何枚かつるされている。でも、どれも薄く埃が降り積っていて、誰かいそうな気配も、誰かが最近そこで生活した形跡も認められなかった。
霧の姿はもちろんどこにもない。ひょっとしたら、霧の父親がなにかの病気で「娘が帰ってきた」という願望を語っているのかとすら思った。
糸色先生はそんな部屋の様子を軽く一瞥すると、迷わず押入れの前まで進んだ。
「霧さん、そこにいますね。開けてもいいですか」
糸色先生は膝をついて、落ち着いた声で呼びかけた。
少し間があって、中から気配がした。
「駄目、開けないでよ」
押入れの中から、細く途切れそうな声がした。
しばらく押入れ中でごそごそする気配があって、それからやっと襖が開いた。
中から現れたのは、小森霧だった。手入れしていない長すぎる髪が顔にかかっている。ちょっとよれた白のTシャツに、下はジャージ。そんな格好だけど、髪の毛に隠れた肌は信じられないくらい白く艶があった。顔立ちは綺麗に整って、大きな瞳はいつも訴えかけるようにうるうると揺れていた。ちょっとでもお手入れすると、きっと物凄い美少女が現れるかもしれない。それが小森霧という女の子だった。
小森霧は襖を薄く開けると、まず糸色先生を見て、それから私たちに目を向けた。その顔がなんとなく不安げに思えた。
「小森さん、あなたに聞きたい話があります。昨日の晩、学校で何が起きたのですか。あなたが学校を逃げ出して、実家に戻った理由です。話して、くれますか」
糸色先生は霧をじっと見詰めて、宥める声で切り出した。
霧は糸色先生を振り返るが、返事を返さず目線を落とした。それから、私たちをちらと見る。
「皆さん、しばらく二人だけにしてもらえますか?」
糸色先生が霧の様子を察して、私たちを振り返った。
私たちは大人しく糸色先生に従うことにした。でもこんな時だけど、私はちょっと霧に嫉妬していた。先生と二人きりになれる口実を作ったんじゃないかって、思ってしまった。霧も先生を狙っている女の子の一人だったから。
私はそんなふうに考えてから、やらしい想像をする自分を非難した。
霧の部屋を出てドアを閉めるとき、私は気になるように糸色先生と霧を振り返った。霧が押入れから身を乗り出して、何かを話そうとし始めていた。真っ白な頬が、すこし赤くなっているような気がした。
それから私たちは、廊下で糸色先生が出てくるのを待った。話は長く長く続くようだった。窓から射す灰色の光は、そのまま輝きを失って家の中は真っ黒に沈み始めた。
私たちはみんなうつむいたままで、言葉を交わさなかった。なんとなく皆、互いに壁を作って、黙っているみたいだった。一度智恵先生が、「先に帰りましょう」と提案した。でも、私たちは誰も同意しなかった。
夕方6時を回った頃、やっと糸色先生が一人きりで部屋から出てきた。
「どうでした?」
すぐに智恵先生が私たちを代表して尋ねた。
「小森さんはすべて目撃していました。それで恐くなって、学校を離れてここに隠れていたようです。警察に電話しましょう。犯人は蘭京太郎です。誰か、携帯電話を」
糸色先生は厳しい顔だったけど、穏やかな声で私たちに言った。
次回 P013 第2章 毛皮を着たビースト10 を読む
小説『さよなら絶望先生~赤い瞳の少女~』目次
P012 第2章 毛皮を着たビースト
9
糸色先生はゆっくりドアを開けて、中に立ち入った。私も先生の背中越しに部屋のなかを覗いた。
部屋は暗く、カーテンで締め切られた窓がぼんやりと浮かんでいた。本棚一杯の漫画本。小さなブラウン管テレビ。Tシャツが何枚かつるされている。でも、どれも薄く埃が降り積っていて、誰かいそうな気配も、誰かが最近そこで生活した形跡も認められなかった。
霧の姿はもちろんどこにもない。ひょっとしたら、霧の父親がなにかの病気で「娘が帰ってきた」という願望を語っているのかとすら思った。
糸色先生はそんな部屋の様子を軽く一瞥すると、迷わず押入れの前まで進んだ。
「霧さん、そこにいますね。開けてもいいですか」
糸色先生は膝をついて、落ち着いた声で呼びかけた。
少し間があって、中から気配がした。
「駄目、開けないでよ」
押入れの中から、細く途切れそうな声がした。
しばらく押入れ中でごそごそする気配があって、それからやっと襖が開いた。
中から現れたのは、小森霧だった。手入れしていない長すぎる髪が顔にかかっている。ちょっとよれた白のTシャツに、下はジャージ。そんな格好だけど、髪の毛に隠れた肌は信じられないくらい白く艶があった。顔立ちは綺麗に整って、大きな瞳はいつも訴えかけるようにうるうると揺れていた。ちょっとでもお手入れすると、きっと物凄い美少女が現れるかもしれない。それが小森霧という女の子だった。
小森霧は襖を薄く開けると、まず糸色先生を見て、それから私たちに目を向けた。その顔がなんとなく不安げに思えた。
「小森さん、あなたに聞きたい話があります。昨日の晩、学校で何が起きたのですか。あなたが学校を逃げ出して、実家に戻った理由です。話して、くれますか」
糸色先生は霧をじっと見詰めて、宥める声で切り出した。
霧は糸色先生を振り返るが、返事を返さず目線を落とした。それから、私たちをちらと見る。
「皆さん、しばらく二人だけにしてもらえますか?」
糸色先生が霧の様子を察して、私たちを振り返った。
私たちは大人しく糸色先生に従うことにした。でもこんな時だけど、私はちょっと霧に嫉妬していた。先生と二人きりになれる口実を作ったんじゃないかって、思ってしまった。霧も先生を狙っている女の子の一人だったから。
私はそんなふうに考えてから、やらしい想像をする自分を非難した。
霧の部屋を出てドアを閉めるとき、私は気になるように糸色先生と霧を振り返った。霧が押入れから身を乗り出して、何かを話そうとし始めていた。真っ白な頬が、すこし赤くなっているような気がした。
それから私たちは、廊下で糸色先生が出てくるのを待った。話は長く長く続くようだった。窓から射す灰色の光は、そのまま輝きを失って家の中は真っ黒に沈み始めた。
私たちはみんなうつむいたままで、言葉を交わさなかった。なんとなく皆、互いに壁を作って、黙っているみたいだった。一度智恵先生が、「先に帰りましょう」と提案した。でも、私たちは誰も同意しなかった。
夕方6時を回った頃、やっと糸色先生が一人きりで部屋から出てきた。
「どうでした?」
すぐに智恵先生が私たちを代表して尋ねた。
「小森さんはすべて目撃していました。それで恐くなって、学校を離れてここに隠れていたようです。警察に電話しましょう。犯人は蘭京太郎です。誰か、携帯電話を」
糸色先生は厳しい顔だったけど、穏やかな声で私たちに言った。
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小説『さよなら絶望先生~赤い瞳の少女~』目次
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■2009/08/01 (Sat)
創作小説■
この小説は、『さよなら絶望先生』を題材にした2次創作小説です。2次創作に関する法的問題については、こちらをご覧下さい。【著作物】【二次創作物】【パロディ】【パロディ裁判】
8
私は可符香と千里と一緒に、生徒玄関口から校舎の外に出た。そこで職員玄関口から出てきた智恵先生と合流した。
雨はぽつぽつと降っているだけで勢いは弱かった。空の雨雲は早く動いて散りかけている。もう少ししたら晴れそうだった。
私たちは傘を差して雨の中に出て行った。土が雨を吸って、いくつもの水溜りを作っていた。登校していたときは晴れていたから、思っていた以上に私が眠っていた時間は長かったのかもしれない。
そうして私たちが校門の前に行きかけた時、背後から誰かが慌しく駆けて来る気配がした。私たちは足を止めて振り返った。走ってくるのは糸色先生だった。番傘を手にしていて、袴の裾に泥を跳ね上げていた。
「あら、糸色先生。どちらへ?」
智恵先生が糸色先生の前に進み出た。
「小森さんの居場所がわかりました。これから向かうところです」
糸色先生が千恵先生の前で止まり、いつもにはない厳しい顔をした。
「どこですか?」
智恵先生にも厳しい顔が宿る。
「自宅です。昨日の晩、突然実家に帰宅したそうです。ちょうどいいから、みなさんで行きましょう」
糸色先生が私たちを見て説明した。
小森霧が実家に帰っている。学校引きこもりを始めて2ヶ月というから、あまりにも意外な隠れ場所だった。
私たちはそのまま、霧の家へ移動した。
霧の実家は、閑静な住宅街の奥へ入った、狭い通りにあった。その辺りは、ゴーストタウンみたいに静かで、勢いの弱い雨の音が際立って聞こえる気がした。アスファルトの通りは手入れされておらず、ひびが入り、苔やカビが張り付いて雑草がぽつぽつと生え始めていた。
そんな場所に置かれている霧の家は、典型的な2階建ての文化住宅だった。壁の色は汚れて黒くなり、赤い屋根は色を失いかけている。窓ガラスは曇っていて、中が暗く沈んでいた。なんとなく全体の影が重く、廃屋になる寸前で留まっている家みたいだった。
インターホンを押すと、霧の父親が出てきて応対してくれた。話は通っているらしく、すぐに私たちを家の中に通してくれた。
「よく来てくれました。お友達も一緒で。昨日の夜、急に娘が帰ってきたんですよ。もうずっと連絡もなかったものですから、本当に、なんていうべきか……。でも、やはりあの部屋にこもりっきりで食事もとらず、顔も合わせようともしないんです。一日が過ぎているんですが、物音すらせず、いったい何をしているのかと……」
霧のお父さんは、聞かれもしないのにとりとめもなく話を始めた。
お父さんは若そうだったけど、顔は疲れきって皺が多く、髪には白髪が多くなりつつあった。見たまま、苦労しているんだな、と思った。
家の中もひどく暗かった。窓からささやかに光が入ってくるけど、むしろ家全体の影を深くしているように思えた。
私は靴下の足にざらついたものを感じて、もしやと思って振り向いた。掃除もしていないらしい廊下に、私たちの足跡がくっきり写っていた。家を出るとき、足の裏の埃を払ったほうが良さそうだ。
私たちは、二階の霧がいる部屋の前まで案内された。
「霧、学校の先生がいらしてくれたよ。クラスの友達も一緒だよ。さあ、出てごらん。顔くらい見せたらどうなんだ」
霧のお父さんはドアをノックして、弱々しい声で呼びかけた。本人の前ではいえないけど、駄目なお父さんって感じだった。
「失礼、私が。小森さん、私です。ちょっと聞きたいことがあります。入りますよ」
糸色先生が代わりを務めて、呼びかけながら、ドアノブをひねった。鍵はかかっていないようだった。
次回 012 第2章 毛皮を着たビースト9 を読む
小説『さよなら絶望先生~赤い瞳の少女~』目次
P011 第2章 毛皮を着たビースト
8
私は可符香と千里と一緒に、生徒玄関口から校舎の外に出た。そこで職員玄関口から出てきた智恵先生と合流した。
雨はぽつぽつと降っているだけで勢いは弱かった。空の雨雲は早く動いて散りかけている。もう少ししたら晴れそうだった。
私たちは傘を差して雨の中に出て行った。土が雨を吸って、いくつもの水溜りを作っていた。登校していたときは晴れていたから、思っていた以上に私が眠っていた時間は長かったのかもしれない。
そうして私たちが校門の前に行きかけた時、背後から誰かが慌しく駆けて来る気配がした。私たちは足を止めて振り返った。走ってくるのは糸色先生だった。番傘を手にしていて、袴の裾に泥を跳ね上げていた。
「あら、糸色先生。どちらへ?」
智恵先生が糸色先生の前に進み出た。
「小森さんの居場所がわかりました。これから向かうところです」
糸色先生が千恵先生の前で止まり、いつもにはない厳しい顔をした。
「どこですか?」
智恵先生にも厳しい顔が宿る。
「自宅です。昨日の晩、突然実家に帰宅したそうです。ちょうどいいから、みなさんで行きましょう」
糸色先生が私たちを見て説明した。
小森霧が実家に帰っている。学校引きこもりを始めて2ヶ月というから、あまりにも意外な隠れ場所だった。
私たちはそのまま、霧の家へ移動した。
霧の実家は、閑静な住宅街の奥へ入った、狭い通りにあった。その辺りは、ゴーストタウンみたいに静かで、勢いの弱い雨の音が際立って聞こえる気がした。アスファルトの通りは手入れされておらず、ひびが入り、苔やカビが張り付いて雑草がぽつぽつと生え始めていた。
そんな場所に置かれている霧の家は、典型的な2階建ての文化住宅だった。壁の色は汚れて黒くなり、赤い屋根は色を失いかけている。窓ガラスは曇っていて、中が暗く沈んでいた。なんとなく全体の影が重く、廃屋になる寸前で留まっている家みたいだった。
インターホンを押すと、霧の父親が出てきて応対してくれた。話は通っているらしく、すぐに私たちを家の中に通してくれた。
「よく来てくれました。お友達も一緒で。昨日の夜、急に娘が帰ってきたんですよ。もうずっと連絡もなかったものですから、本当に、なんていうべきか……。でも、やはりあの部屋にこもりっきりで食事もとらず、顔も合わせようともしないんです。一日が過ぎているんですが、物音すらせず、いったい何をしているのかと……」
霧のお父さんは、聞かれもしないのにとりとめもなく話を始めた。
お父さんは若そうだったけど、顔は疲れきって皺が多く、髪には白髪が多くなりつつあった。見たまま、苦労しているんだな、と思った。
家の中もひどく暗かった。窓からささやかに光が入ってくるけど、むしろ家全体の影を深くしているように思えた。
私は靴下の足にざらついたものを感じて、もしやと思って振り向いた。掃除もしていないらしい廊下に、私たちの足跡がくっきり写っていた。家を出るとき、足の裏の埃を払ったほうが良さそうだ。
私たちは、二階の霧がいる部屋の前まで案内された。
「霧、学校の先生がいらしてくれたよ。クラスの友達も一緒だよ。さあ、出てごらん。顔くらい見せたらどうなんだ」
霧のお父さんはドアをノックして、弱々しい声で呼びかけた。本人の前ではいえないけど、駄目なお父さんって感じだった。
「失礼、私が。小森さん、私です。ちょっと聞きたいことがあります。入りますよ」
糸色先生が代わりを務めて、呼びかけながら、ドアノブをひねった。鍵はかかっていないようだった。
次回 012 第2章 毛皮を着たビースト9 を読む
小説『さよなら絶望先生~赤い瞳の少女~』目次
■2009/08/01 (Sat)
創作小説■
この小説は、『さよなら絶望先生』を題材にした2次創作小説です。2次創作に関する法的問題については、こちらをご覧下さい。【著作物】【二次創作物】【パロディ】【パロディ裁判】
7
私たちはしばし沈黙した。静かに囁く雨の音が、心にのしかかってくる気がした。
「あの、智恵先生。それは、実際の話なんですか? 映画の話とかではなく……。」
千里が軽く手を上げて質問をした。千里の額に、乱れた毛が数本被さっていた。
「もちろん、本当の話よ」
智恵先生はさらっと答えを返した。保健室の空気が、よりどんより曇るような気がした。
「智恵先生、どうしてそんな事件に詳しいんですか?」
今度は糸色先生が尋ねた。糸色先生の顔にも、恐怖が浮かんでいた。
「スクールカウンセラーですもの。神戸での事件以来、その種のテキストも必須になったのよ。性異常者による犯罪は、もう特別な事件じゃありませんから」
智恵先生が糸色先生を振り向いて説明した。なんとなく智恵先生が生き生きと話をしているように思えるのは、私の気のせいだろうか。
私は今さら、頭が重く感じてうつむいた。呼吸が詰まる気がして、胸を抑えた。そんな事件が、この学校で、この身近で起きてしまった。私は自分で抑えられない恐怖を感じていた。
「とりあえず、そういう事件だと理解しました。それで、死体はどこにいったんですか? 切り取られた、その……あれがあるのですから、死体がどこかにあるはずです。そもそもあれは、うちの生徒だったのか、という疑問もあります。」
千里はもう恐怖から克服したらしく、いつものきっちりした真ん中分け富士額に戻っていた。
「今、学校で全生徒の所在を確認しています。死体が出てきていないから、まだうちの生徒のものだ、とはいえない状況よ。そこから後は警察の仕事になるわ。蘭京さんの行方も含めてね。学校はしばらく封鎖されるから、私たちは大人しく家でじっとしているのがいいわ」
智恵先生は安心させるように、声のトーンを軽くして、私たちを見回した。
「とにかく、日塔さんが無事で何よりです。犯人らしき人と接触しかけたわけですから。私のクラスの生徒に、何も起きなくて本当に良かった」
先生がげっそり青ざめた顔に笑顔を作った。
でも智恵先生が厳しく糸色先生を睨み付けた。
「何言ってるんですか。小森霧さんが行方不明なのよ!」
「ええ!」
糸色先生が驚きの声をあげた。私も千里もぽかんと口を開けて智恵先生の厳しい顔を見ていた。
小森霧は、世にも珍しい学校引きこもりだ。だから学校に引きこもったまま、何日も家に帰っていない。学校のある一室で過ごしていて、教室にはあまり顔を出さないけど、2のへ組の一人だ。その小森霧が、学校から姿を消したらしい。
智恵先生があきれたように溜息をついた。
「まったく。いいかげん、毎朝生徒の出席をとる習慣を身に付けてください。自分のクラスの生徒のことでしょ。今すぐ電話するなり確認してください!」
「はい、すぐに行きます!」
智恵先生の言葉は穏やかだったけど、鋭い目つきで糸色先生を叱った。糸色先生は、怒られた生徒みたいに背筋を真直ぐ伸ばし、智恵先生に頭を下げると物凄い勢いで保健室を飛び出していった。
「あの、小森さんはいつからいなくなっていたんですか?」
智恵先生が私たちを振り向くと、千里が訊ねた。
「日塔さんをここに運んだ後、すぐに小森さんの様子を見に行きました。最悪の場合、事件の現場はこの学校ですから。小森さんになんらかの被害が及んでいるかも、と考えたのです。でも、部屋にはいませんでした。食事の跡から推測すると、昨日の夜、食後に失踪したようね。小森さんは引きこもりだから、そんなに遠くに行くはずがないと思うと、やっぱり気がかりで……」
智恵先生の顔に不安な影が映った。
私は暗い気持ちでまたうつむいた。もしかしたら、小森霧ともう会えないかもしれない。そう思うのがあまりにもつらかった。
「ねえ、そろそろ帰りましょう」
可符香が私たちに声をかけた。顔を上げると、可符香の気遣わしげな微笑があった。色を失って灰色に沈むこの保健室で、可符香だけが光を浴びているみたいに明るかった。
「そうね。本来、集団下校ですから、私が家まで送るわ」
智恵先生も微笑を浮かべて、可符香に続いた。
私も千里も、そうね、と同意した。
鞄は、保健室の入口側のベンチに、三つ並べて置かれていた。
私はベッドから降りて、自分の鞄を手に取った。その持ち上げた感触で、千里が持って来てくれたんだな、と理解した。机の教科書が全部入っていたからだ。
それから、私はふとサイドポケットに入れておいた携帯電話に気付いた。
「あの、ちょっと電話してもいいですか。友達のところに。一応、確認したいので……」
私は携帯電話を手に持ち、保健室にいるみんなを振り返った。智恵先生も千里も頷いて了解した。
私は携帯電話の電源を入れ、電話帳を呼び起こした。昨日登録したばかりの野沢の番号を選び、通話ボタンを押した。
携帯電話を耳に当てて、応答を待った。
コール音が聞こえた。1回、2回。3回目に入りかけたところで、音がいきなりブチッと切れてしまった。携帯電話の電源を切った感じじゃない。そういう時は、あんな音はしない。何か、潰されたような音だと思った。
私は、もう一度野沢の携帯に掛けてみた。でも返ってきたのは「現在、電源が入っていないか電波の届かないところに……」という冷たいアナウンスの声だけだった。
次回 P011 第2章 毛皮のビースト8 を読む
小説『さよなら絶望先生~赤い瞳の少女~』目次
P010 第2章 毛皮を着たビースト
7
私たちはしばし沈黙した。静かに囁く雨の音が、心にのしかかってくる気がした。
「あの、智恵先生。それは、実際の話なんですか? 映画の話とかではなく……。」
千里が軽く手を上げて質問をした。千里の額に、乱れた毛が数本被さっていた。
「もちろん、本当の話よ」
智恵先生はさらっと答えを返した。保健室の空気が、よりどんより曇るような気がした。
「智恵先生、どうしてそんな事件に詳しいんですか?」
今度は糸色先生が尋ねた。糸色先生の顔にも、恐怖が浮かんでいた。
「スクールカウンセラーですもの。神戸での事件以来、その種のテキストも必須になったのよ。性異常者による犯罪は、もう特別な事件じゃありませんから」
智恵先生が糸色先生を振り向いて説明した。なんとなく智恵先生が生き生きと話をしているように思えるのは、私の気のせいだろうか。
私は今さら、頭が重く感じてうつむいた。呼吸が詰まる気がして、胸を抑えた。そんな事件が、この学校で、この身近で起きてしまった。私は自分で抑えられない恐怖を感じていた。
「とりあえず、そういう事件だと理解しました。それで、死体はどこにいったんですか? 切り取られた、その……あれがあるのですから、死体がどこかにあるはずです。そもそもあれは、うちの生徒だったのか、という疑問もあります。」
千里はもう恐怖から克服したらしく、いつものきっちりした真ん中分け富士額に戻っていた。
「今、学校で全生徒の所在を確認しています。死体が出てきていないから、まだうちの生徒のものだ、とはいえない状況よ。そこから後は警察の仕事になるわ。蘭京さんの行方も含めてね。学校はしばらく封鎖されるから、私たちは大人しく家でじっとしているのがいいわ」
智恵先生は安心させるように、声のトーンを軽くして、私たちを見回した。
「とにかく、日塔さんが無事で何よりです。犯人らしき人と接触しかけたわけですから。私のクラスの生徒に、何も起きなくて本当に良かった」
先生がげっそり青ざめた顔に笑顔を作った。
でも智恵先生が厳しく糸色先生を睨み付けた。
「何言ってるんですか。小森霧さんが行方不明なのよ!」
「ええ!」
糸色先生が驚きの声をあげた。私も千里もぽかんと口を開けて智恵先生の厳しい顔を見ていた。
小森霧は、世にも珍しい学校引きこもりだ。だから学校に引きこもったまま、何日も家に帰っていない。学校のある一室で過ごしていて、教室にはあまり顔を出さないけど、2のへ組の一人だ。その小森霧が、学校から姿を消したらしい。
智恵先生があきれたように溜息をついた。
「まったく。いいかげん、毎朝生徒の出席をとる習慣を身に付けてください。自分のクラスの生徒のことでしょ。今すぐ電話するなり確認してください!」
「はい、すぐに行きます!」
智恵先生の言葉は穏やかだったけど、鋭い目つきで糸色先生を叱った。糸色先生は、怒られた生徒みたいに背筋を真直ぐ伸ばし、智恵先生に頭を下げると物凄い勢いで保健室を飛び出していった。
「あの、小森さんはいつからいなくなっていたんですか?」
智恵先生が私たちを振り向くと、千里が訊ねた。
「日塔さんをここに運んだ後、すぐに小森さんの様子を見に行きました。最悪の場合、事件の現場はこの学校ですから。小森さんになんらかの被害が及んでいるかも、と考えたのです。でも、部屋にはいませんでした。食事の跡から推測すると、昨日の夜、食後に失踪したようね。小森さんは引きこもりだから、そんなに遠くに行くはずがないと思うと、やっぱり気がかりで……」
智恵先生の顔に不安な影が映った。
私は暗い気持ちでまたうつむいた。もしかしたら、小森霧ともう会えないかもしれない。そう思うのがあまりにもつらかった。
「ねえ、そろそろ帰りましょう」
可符香が私たちに声をかけた。顔を上げると、可符香の気遣わしげな微笑があった。色を失って灰色に沈むこの保健室で、可符香だけが光を浴びているみたいに明るかった。
「そうね。本来、集団下校ですから、私が家まで送るわ」
智恵先生も微笑を浮かべて、可符香に続いた。
私も千里も、そうね、と同意した。
鞄は、保健室の入口側のベンチに、三つ並べて置かれていた。
私はベッドから降りて、自分の鞄を手に取った。その持ち上げた感触で、千里が持って来てくれたんだな、と理解した。机の教科書が全部入っていたからだ。
それから、私はふとサイドポケットに入れておいた携帯電話に気付いた。
「あの、ちょっと電話してもいいですか。友達のところに。一応、確認したいので……」
私は携帯電話を手に持ち、保健室にいるみんなを振り返った。智恵先生も千里も頷いて了解した。
私は携帯電話の電源を入れ、電話帳を呼び起こした。昨日登録したばかりの野沢の番号を選び、通話ボタンを押した。
携帯電話を耳に当てて、応答を待った。
コール音が聞こえた。1回、2回。3回目に入りかけたところで、音がいきなりブチッと切れてしまった。携帯電話の電源を切った感じじゃない。そういう時は、あんな音はしない。何か、潰されたような音だと思った。
私は、もう一度野沢の携帯に掛けてみた。でも返ってきたのは「現在、電源が入っていないか電波の届かないところに……」という冷たいアナウンスの声だけだった。
次回 P011 第2章 毛皮のビースト8 を読む
小説『さよなら絶望先生~赤い瞳の少女~』目次
■2009/07/30 (Thu)
創作小説■
この小説は、『さよなら絶望先生』を題材にした2次創作小説です。2次創作に関する法的問題については、こちらをご覧下さい。【著作物】【二次創作物】【パロディ】【パロディ裁判】
6
誰かが保健室に入ってきた。
「具合はどう? 少し頭をぶつけたと聞いたけど」
カーテンを開けて覗き込んできたのは新井智恵先生だった。その後ろに、糸色先生と千里がいた。
私は体を起こして、足をベッドの外に出した。
「いえ、別に。寝起きで体がちょっと怠いだけです」
私は先生を不安にさせないように、と軽く微笑んで答えた。糸色先生がほっと胸を撫でていた。
「そう。それならいいわ。一応、体温だけ測っておくわ。ショックで気絶しただけだから、何も問題はないと思うけど、念のためにね」
智恵先生にも安心したような笑顔が漏れた。智恵先生は机の上に置かれた抽斗を開けて体温計を引っ張り出すと、私に手渡した。それから、スツールをもう一つ持ってきて、可符香の隣に座った。
私はセーラー服の裾をつかんで、体温計を体の中に潜り込ませようとした。でも、糸色先生を気にするようにちらと見た。糸色先生はあっと顔を赤くして、背を向けた。私はセーラー服をまくって、体温計を脇の下に入れた。
「それで、智恵先生。あの、あれはいったい、何だったんですか?」
私は躊躇いがちに、あのホルマリン漬けについて訊ねた。
智恵先生は、呆れたというふうに溜め息をついた。
「もう高校生でしょ。説明が必要なの?」
「いや、そうじゃなくて……」
私は苦笑いを浮かべて首を振った。
「智恵先生。あまりそういう発言は。未成年の前ですので」
糸色先生がちらと顔を智恵先生のほうに向けて注意した。
「あらそうね。糸色先生、もうこっち見ても大丈夫ですよ」
智恵先生が首をひねって糸色先生を見上げた。糸色先生がこちらを向いた。
「あれが何なのかくらい、ちゃんとわかります。そうじゃなくて、どうしてあんな部屋が用務員室にあって、あんなものがホルマリン漬けにされていたのか、それを聞きたいんです。」
千里が腕組をして、調子を強く言った。
「千里ちゃん、あれを見たの?」
「うん、まあ……」
私は千里を振り返った。すると千里は顔を暗くしてうつむいた。
「奈美ちゃんが倒れた後、真っ先に委員長が駆けつけてくれたんだよ」
可符香が明るい声で補足した。つまり、警察がやってくる前に、千里はあのホルマリン漬けを見てしまったわけだ。
私は千里に同情を込めた目で振り返った。千里は腕組を解いて、指先で忌まわしい記憶を消そうとするように額を撫でていた。いつもきっちり振り分けられている富士額が、今だけ少し乱れて見えた。
「それはつまり、こういうことでしょう。切り落としたから、ホルマリン漬けにして保管した。蘭京さんの密かなコレクションだったんじゃないかしら。あの部屋は、誰にも見付からずコレクションを蒐集するために作った秘密の部屋」
智恵先生は膝の上に両掌を組み合わせて、さも当り前というように説明した。
「そんな趣味、あるんですか?」
私はどんな表情を作っていいかわからず、声と表情を引き攣らせた。
私の脇の下で、ピピと音がした。体温計が音を鳴らしたのだ。私はセーラー服の下に手を突っ込んで、体温計を取り出し、智恵先生に手渡した。
「36度5分。平熱ね。問題なさそうだわ」
千恵先生は軽く笑顔を浮かべて頷き、席を立った。体温計をケースに入れて、引き出しに戻す。
「それで、その、智恵先生?」
私は智恵先生を目で追いかけて、話の続きを聞こうとした。
智恵先生が私たちを振り返って、胸の下で腕を組み合わせた。
「ネクロサディズムと呼ばれる性倒錯の一種ね。1980年から1990年にかけて、ロシアのロストフ州の森で、判明しているだけで50人の子供の死体が発見されたわ。死体はいずれも陵辱の跡が残り、性器が持ち去られていた。男の子ならペニスを。女の子なら子宮がくり貫かれていたそうよ。後に犯人であるアンドレイ・チカチーロが逮捕された後、彼の自宅からは夥しい数の性器コレクションが発見された」
智恵先生の言葉は重く、沈黙した保健室にしばらく残るような気がした。
アンドレイ・チカチーロに関する説明は、正確なものではありません。小説の演出のために、脚色が加えられています。ウェキペディアの記述などを参考にしてください。
次回 P010 第2章 毛皮のビースト7 を読む
小説『さよなら絶望先生~赤い瞳の少女~』目次
P009 第2章 毛皮を着たビースト
6
誰かが保健室に入ってきた。
「具合はどう? 少し頭をぶつけたと聞いたけど」
カーテンを開けて覗き込んできたのは新井智恵先生だった。その後ろに、糸色先生と千里がいた。
私は体を起こして、足をベッドの外に出した。
「いえ、別に。寝起きで体がちょっと怠いだけです」
私は先生を不安にさせないように、と軽く微笑んで答えた。糸色先生がほっと胸を撫でていた。
「そう。それならいいわ。一応、体温だけ測っておくわ。ショックで気絶しただけだから、何も問題はないと思うけど、念のためにね」
智恵先生にも安心したような笑顔が漏れた。智恵先生は机の上に置かれた抽斗を開けて体温計を引っ張り出すと、私に手渡した。それから、スツールをもう一つ持ってきて、可符香の隣に座った。
私はセーラー服の裾をつかんで、体温計を体の中に潜り込ませようとした。でも、糸色先生を気にするようにちらと見た。糸色先生はあっと顔を赤くして、背を向けた。私はセーラー服をまくって、体温計を脇の下に入れた。
「それで、智恵先生。あの、あれはいったい、何だったんですか?」
私は躊躇いがちに、あのホルマリン漬けについて訊ねた。
智恵先生は、呆れたというふうに溜め息をついた。
「もう高校生でしょ。説明が必要なの?」
「いや、そうじゃなくて……」
私は苦笑いを浮かべて首を振った。
「智恵先生。あまりそういう発言は。未成年の前ですので」
糸色先生がちらと顔を智恵先生のほうに向けて注意した。
「あらそうね。糸色先生、もうこっち見ても大丈夫ですよ」
智恵先生が首をひねって糸色先生を見上げた。糸色先生がこちらを向いた。
「あれが何なのかくらい、ちゃんとわかります。そうじゃなくて、どうしてあんな部屋が用務員室にあって、あんなものがホルマリン漬けにされていたのか、それを聞きたいんです。」
千里が腕組をして、調子を強く言った。
「千里ちゃん、あれを見たの?」
「うん、まあ……」
私は千里を振り返った。すると千里は顔を暗くしてうつむいた。
「奈美ちゃんが倒れた後、真っ先に委員長が駆けつけてくれたんだよ」
可符香が明るい声で補足した。つまり、警察がやってくる前に、千里はあのホルマリン漬けを見てしまったわけだ。
私は千里に同情を込めた目で振り返った。千里は腕組を解いて、指先で忌まわしい記憶を消そうとするように額を撫でていた。いつもきっちり振り分けられている富士額が、今だけ少し乱れて見えた。
「それはつまり、こういうことでしょう。切り落としたから、ホルマリン漬けにして保管した。蘭京さんの密かなコレクションだったんじゃないかしら。あの部屋は、誰にも見付からずコレクションを蒐集するために作った秘密の部屋」
智恵先生は膝の上に両掌を組み合わせて、さも当り前というように説明した。
「そんな趣味、あるんですか?」
私はどんな表情を作っていいかわからず、声と表情を引き攣らせた。
私の脇の下で、ピピと音がした。体温計が音を鳴らしたのだ。私はセーラー服の下に手を突っ込んで、体温計を取り出し、智恵先生に手渡した。
「36度5分。平熱ね。問題なさそうだわ」
千恵先生は軽く笑顔を浮かべて頷き、席を立った。体温計をケースに入れて、引き出しに戻す。
「それで、その、智恵先生?」
私は智恵先生を目で追いかけて、話の続きを聞こうとした。
智恵先生が私たちを振り返って、胸の下で腕を組み合わせた。
「ネクロサディズムと呼ばれる性倒錯の一種ね。1980年から1990年にかけて、ロシアのロストフ州の森で、判明しているだけで50人の子供の死体が発見されたわ。死体はいずれも陵辱の跡が残り、性器が持ち去られていた。男の子ならペニスを。女の子なら子宮がくり貫かれていたそうよ。後に犯人であるアンドレイ・チカチーロが逮捕された後、彼の自宅からは夥しい数の性器コレクションが発見された」
智恵先生の言葉は重く、沈黙した保健室にしばらく残るような気がした。
アンドレイ・チカチーロに関する説明は、正確なものではありません。小説の演出のために、脚色が加えられています。ウェキペディアの記述などを参考にしてください。
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小説『さよなら絶望先生~赤い瞳の少女~』目次
■2009/07/29 (Wed)
創作小説■
この小説は、『さよなら絶望先生』を題材にした2次創作小説です。2次創作に関する法的問題については、こちらをご覧下さい。【著作物】【二次創作物】【パロディ】【パロディ裁判】
P008 第2章 毛皮を着たビースト
5
……かーごーめーかごーめー
かーごのなーかのとーりーはー……
どこかで、女の子の歌う声が聞こえた。声は細く伸びきって、今にも途切れそうだった。
いーつーいーつーでーやーうー……
空は真っ赤に燃え上がっていた。東の空が焦げ付くような真っ黒な色に沈んでいた。
そんな空の下に、女の子が一人、ちょこんと座っていた。
女の子は一人きりでうずくまり、顔を掌で覆って、唄を歌っていた。
私は何となく不思議な心地で、女の子を見ていた。目の前の風景も足元も、なんとなくふわふわと浮かび上がるような気がした。そこに立っているという感じではなかった。
女の子は一人で唄を続けていた。孤独な声が、静寂が包み始める夕暮れに、ぽつんと漂っているようだった。
私は、女の子の側へ走った。
「……ちゃん、何しているの?」
私は女の子の名前を呼んだ。
ゆっくりと意識が覚醒するのを感じた。でも、まだ意識は現実と夢の境を曖昧に漂っていた。
「……よーあーけーのばーんにー……」
女の子の歌の続きが聞こえてきた。掌に、暖かなぬくもりを感じる。きっと握っていてくれたんだ。
「……ちゃん、何しているの?」
私は女の子の名前を呼んだ。
間もなく曖昧だった感覚が、はっきりした形を持ち始めた。白く霞んだ世界が、輪郭線を持ち始める。
側にいたのは可符香だった。可符香が私を見詰めながら、ゆったりとした調子で唄を口ずさんでいた。
「起きた?」
可符香が優しく微笑んだ。
私はまだ夢の中の気分が抜けず、ぼんやりとしていた。可符香の顔に、暗い灰色の影が落ちていた。
周囲を消毒液の臭いが包んでいた。私はベッドの上だった。そこは保健室で、私はベッドで眠っていた。左の窓を振り向くと、空が灰色に曇って、雨が静かなせせらぎのような音を立てていた。
ベッドを囲むカーテンが揺れて、誰かが顔を出した。千里だった。
「やっと、起きた。風浦さん、私、智恵先生呼んでくるわね。」
千里は目を覚ましている私に微笑みかけると、可符香に言付けをして急いで保健室を出て行った。
私は浅くため息をついた。寝起きの体はひどく気だるくて重かった。
「可符香ちゃん、私、どうしたの?」
私はとりあえず状況を知ろうと訊ねた。
「奈美ちゃん、ごめんね。奈美ちゃん、あのホルマリン漬けを見て、びっくりして気絶しちゃったんだよ。恐い思いさせてごめんね」
可符香は申し訳なさそうに微笑んだ。私は怒っていなかったし、もし怒っていたとしても、可符香のそんな顔を見るとすべて許せてしまう気がした。
「ううん、いいの。それで、あの部屋は? 蘭京さんは?」
私は枕の上で首を振って、次の質問をした。
「すぐに先生がやってきて、警察に通報されたわ。いま用務員室は、警察の人で一杯だよ。学校はすぐに休校になって集団下校。学校に残っているのは、私たちと先生だけ。蘭京さんはどこに行ったかわからない。みんな探しているけど、見つからないの」
可符香は丁寧に、あの後のできごとを一つ一つ説明してくれた。
私は、もう一度窓を振り返ってみた。ベッドの左側は窓になっていた。灰色に色を失っている風景に、時々赤い光が混じるのに気付いた。パトカーの警光灯だ。本当に、警察が来ているらしかった。
体がはっきり覚醒してくると、夢で見た光景が頭の中に浮かんだ。あれは、幼稚園の頃の風景だ。あのとき私は、あの女の子と……。
とそこまで考えたところで、私は思考が止まってしまった。あの女の子は、なんていう名前だっただろう。私は覚醒する瞬間、なんて言ったんだろう。
ふと私は、可符香を振り返った。その顔をじっと見詰める。可符香はまだ私の掌を握ったままで、私の視線を受けてかわいらしく首をかしげた。
「ねえ、可符香ちゃん。可符香ちゃんって、小さい頃、あちこち引越ししていたんだよねえ? それじゃ、○○○幼稚園って、通ったことない? ここの地元の幼稚園なんだけど。私、子供の頃、可符香ちゃんと会っている気がするの」
私は可符香の顔が、夢の中の女の子とぴったり重なるような気がした。だからもしかしたら、と訊ねてみた。
可符香は、考えるように宙を見上げたり、うつむいて唸ったりした。しばらく時間がかかるようだった。
「一度通った幼稚園とか小学校とかは、ちゃんとみんな憶えているつもりだけど……。ごめんなさい。○○○幼稚園に通った憶えはないわ」
可符香はごめんなさいと、と首を振った。
「ううん、いいよ。私の記憶違いだったみたいだから」
可符香にそんな顔をされて、私も申し訳なくなって首を振った。
多分、記憶違いだろう。幼稚園の頃の記憶だし。小さい頃のことだから、思い込みで記憶の書き換えなんかしてしまったのかもしれない。
でも、時々可符香に感じる、この懐かしい感じはなんだろう。本当に私は、あの頃に可符香に会わなかったのだろうか。
次回 P009 第2章 毛皮のビースト6 を読む
小説『さよなら絶望先生~赤い瞳の少女~』目次
P008 第2章 毛皮を着たビースト
5
……かーごーめーかごーめー
かーごのなーかのとーりーはー……
どこかで、女の子の歌う声が聞こえた。声は細く伸びきって、今にも途切れそうだった。
いーつーいーつーでーやーうー……
空は真っ赤に燃え上がっていた。東の空が焦げ付くような真っ黒な色に沈んでいた。
そんな空の下に、女の子が一人、ちょこんと座っていた。
女の子は一人きりでうずくまり、顔を掌で覆って、唄を歌っていた。
私は何となく不思議な心地で、女の子を見ていた。目の前の風景も足元も、なんとなくふわふわと浮かび上がるような気がした。そこに立っているという感じではなかった。
女の子は一人で唄を続けていた。孤独な声が、静寂が包み始める夕暮れに、ぽつんと漂っているようだった。
私は、女の子の側へ走った。
「……ちゃん、何しているの?」
私は女の子の名前を呼んだ。
ゆっくりと意識が覚醒するのを感じた。でも、まだ意識は現実と夢の境を曖昧に漂っていた。
「……よーあーけーのばーんにー……」
女の子の歌の続きが聞こえてきた。掌に、暖かなぬくもりを感じる。きっと握っていてくれたんだ。
「……ちゃん、何しているの?」
私は女の子の名前を呼んだ。
間もなく曖昧だった感覚が、はっきりした形を持ち始めた。白く霞んだ世界が、輪郭線を持ち始める。
側にいたのは可符香だった。可符香が私を見詰めながら、ゆったりとした調子で唄を口ずさんでいた。
「起きた?」
可符香が優しく微笑んだ。
私はまだ夢の中の気分が抜けず、ぼんやりとしていた。可符香の顔に、暗い灰色の影が落ちていた。
周囲を消毒液の臭いが包んでいた。私はベッドの上だった。そこは保健室で、私はベッドで眠っていた。左の窓を振り向くと、空が灰色に曇って、雨が静かなせせらぎのような音を立てていた。
ベッドを囲むカーテンが揺れて、誰かが顔を出した。千里だった。
「やっと、起きた。風浦さん、私、智恵先生呼んでくるわね。」
千里は目を覚ましている私に微笑みかけると、可符香に言付けをして急いで保健室を出て行った。
私は浅くため息をついた。寝起きの体はひどく気だるくて重かった。
「可符香ちゃん、私、どうしたの?」
私はとりあえず状況を知ろうと訊ねた。
「奈美ちゃん、ごめんね。奈美ちゃん、あのホルマリン漬けを見て、びっくりして気絶しちゃったんだよ。恐い思いさせてごめんね」
可符香は申し訳なさそうに微笑んだ。私は怒っていなかったし、もし怒っていたとしても、可符香のそんな顔を見るとすべて許せてしまう気がした。
「ううん、いいの。それで、あの部屋は? 蘭京さんは?」
私は枕の上で首を振って、次の質問をした。
「すぐに先生がやってきて、警察に通報されたわ。いま用務員室は、警察の人で一杯だよ。学校はすぐに休校になって集団下校。学校に残っているのは、私たちと先生だけ。蘭京さんはどこに行ったかわからない。みんな探しているけど、見つからないの」
可符香は丁寧に、あの後のできごとを一つ一つ説明してくれた。
私は、もう一度窓を振り返ってみた。ベッドの左側は窓になっていた。灰色に色を失っている風景に、時々赤い光が混じるのに気付いた。パトカーの警光灯だ。本当に、警察が来ているらしかった。
体がはっきり覚醒してくると、夢で見た光景が頭の中に浮かんだ。あれは、幼稚園の頃の風景だ。あのとき私は、あの女の子と……。
とそこまで考えたところで、私は思考が止まってしまった。あの女の子は、なんていう名前だっただろう。私は覚醒する瞬間、なんて言ったんだろう。
ふと私は、可符香を振り返った。その顔をじっと見詰める。可符香はまだ私の掌を握ったままで、私の視線を受けてかわいらしく首をかしげた。
「ねえ、可符香ちゃん。可符香ちゃんって、小さい頃、あちこち引越ししていたんだよねえ? それじゃ、○○○幼稚園って、通ったことない? ここの地元の幼稚園なんだけど。私、子供の頃、可符香ちゃんと会っている気がするの」
私は可符香の顔が、夢の中の女の子とぴったり重なるような気がした。だからもしかしたら、と訊ねてみた。
可符香は、考えるように宙を見上げたり、うつむいて唸ったりした。しばらく時間がかかるようだった。
「一度通った幼稚園とか小学校とかは、ちゃんとみんな憶えているつもりだけど……。ごめんなさい。○○○幼稚園に通った憶えはないわ」
可符香はごめんなさいと、と首を振った。
「ううん、いいよ。私の記憶違いだったみたいだから」
可符香にそんな顔をされて、私も申し訳なくなって首を振った。
多分、記憶違いだろう。幼稚園の頃の記憶だし。小さい頃のことだから、思い込みで記憶の書き換えなんかしてしまったのかもしれない。
でも、時々可符香に感じる、この懐かしい感じはなんだろう。本当に私は、あの頃に可符香に会わなかったのだろうか。
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小説『さよなら絶望先生~赤い瞳の少女~』目次