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■2010/01/03 (Sun)
映画:外国映画■
バリアンは妻が自殺した罪で投獄されていた。キリスト教の理念では、自殺は大罪である。その夫であるバリアンも、同じ罪があるとして投獄されていた。
バリアンの妻は墓地ではなく“十字路”に首を落とされた姿で埋葬された。その埋葬を取り仕切っていたのは、バリアンの弟である神父であった。
間もなくしてバリアンは釈放された。バリアンは村で唯一の鍛冶屋。教会の建設が進まないという理由だった。
バリアンは希望を失った顔のまま、鍛冶屋に戻りもとの生活を再開させた。
広大なセットに思えるが、実際に制作されたセットは1つだけだ。同じ場所を、角度と小物の配置を変えて何度も撮影している。デビュー以来、セット撮影が多かったリドリー・スコットらしい節約術だ。
自殺した妻の罪は決して許されないのか――?
妻を亡くした悲しみ、キリスト教への疑問。バリアンは何も語らず、孤独のうちで苦悩にしていた。
そんなバリアンの元に旅の騎士団がやって来た。聖十字軍のゴッドフリーだ。
ゴッドフリーはエルサレム王の直臣であり、戦地に戻れば百人の部下を持つ騎士であった。村の長はさっそくバリアンを迎え入れ、歓迎する。
だがゴッドフリーの目的は、バリアンにあった。ゴッドフリーはバリアンの鍛冶屋を訪ね、自分が父親であると告げる。そのうえで、共にエルサレムへ行こうと誘う。
しかしバリアンは、妻が眠るその土地を選ぶ。もうしばし妻といるその時間を――。
劇場公開版では存在すら感じさせなかったシビラの息子。『ブレードランナー』でもそうだったが、編集というものについて考えさせられる。基本的なあらすじは変わっていないが、どの場面を選択するかで実写の映画は大きく印象を変える。
鍛冶屋の仕事は夜更けまで続いた。バリアンはもくもくと火花を散らし、鉄を叩き続けた。
そんなバリアンを神父が尋ねる。神父はバリアンの弟で、妻の埋葬を指示した男だ。神父はバリアンを疎ましく思っていた。
だから神父は、バリアンを追い出そうとエルサレム行きを勧める。それでも頑ななバリアンに、神父はバリアンの妻を埋葬する時に、その首を落とし、十字架を奪ったと挑発する。
バリアンに、衝動の炎が宿った。
バリアンは弟を熱を持った鉄で串刺しにし、炎で焼き殺した。さらに妻の持ち物である十字架を取り戻すと、夜のうちに村を立ち去った。
本作は『ラストサムライ』と同じように、イスラム側のスタッフに意見を伺いながら制作が進められた。結果として、イスラム側の視点や思想を多く取り入れた映画となっている。
『キングダム・オブ・ヘブン ディレクターズ・カット』は2時間半の劇場公開作品よりさらに50分も追加された長大な映画だ。通して見ると3時間14分にも及ぶ。
もちろん劇場公開作品とは様々な部分で異なる。
バリアンの妻について詳細に語られるようになり、劇場公開版では存在すら感じさせなかったシビラの息子も登場する。
劇場公開版の『キングダム・オブ・ヘブン』は、エルサレムの戦いを冒険物語として描いた作品だった。フランスの若者の下に父親と名乗る男が現われ、冒険の旅が始まる。冒険の最中に幾多の困難が待ち受け、若者はいつしか英雄として目覚める……。
劇場公開版『キングダム・オブ・ヘブン』を要約すると、そういった物語になる。
だが英雄物語というほどバリアンは目立った活躍をしないし、いわゆる冒険物語のように何かの褒美を得て古里に帰還する物語ではない。英雄叙事詩としてみると、ひどく違和感のある映画だった。
だから改めてディレクターズ・カット版を見ると、映画が冒険物語として描いたのではないとわかる。
キリスト教とは何か?
信仰とは何か?
罪とは?
正義とは?
『キングダム・オブ・ヘブン ディレクターズ・カット』は劇場公開版よりもっと複雑で、深みのあるテーマを掘り下げていく。
キリストが貼り付けにされた丘で、バリアンは一晩過ごす。しかし特別な奇跡は起きない。バリアンは十字架を埋めて「君は地獄ではない。私の心に」と呟く。
現実世界でもそうだが、キリスト教は自身の理念や思想に捉われ、原理主義に陥っている。人間同士を向き合うヒューマニズムはなく、かつてキリストが論じたような理想論など影も形もない。
バリアンの旅の最中、キリスト教徒が道行く人々に、こう説教するのを見かける。
「人を殺すのは罪だ。だが異教徒を殺すのは罪にならない。天国への道だ」
自殺と、同じ宗教の者を殺すのは罪になるが、異教徒の殺人を奨励している。
バリアンの弟の神父は、そんなキリスト教の理念に従って義姉の首を落とした。さらに兄も同罪として容赦なく投獄した。それがキリスト教の教義だから、それに従ったに過ぎない。
バリアンが求めていたのは妻の魂の救済だった。
イエス・キリストは全ての人と魂に赦しを与えようとした。生まれながらにして罪を持った人間〔=原罪〕の業をたった1人で背負い、死に臨んでいった。だが現実のキリスト教は、どんな罪でも決して許そうとはしない。許す切っ掛けを決して与えない。
そんなキリスト教が支配する世界に、本当に許しなどあるのか。
バリアンは神とキリストを試すかのように弟を殺害する。妻と同じ地獄へ行くためだ。
映画中に描かれたエルサレムの戦いは実際にあったが、物語そのものはフィクションだ。登場人物も歴史から取られているが、バリアンとゴッドフリーが親子であったという事実はない。
エルサレムへ行けば、新しい世界が待っている――。
とゴッドフリーはバリアンに語って聞かせる。
身分に関係なく、生まれ持った才能と資質が試される場所。それこそがエルサレムだ。
バリアンはエルサレムへ行き、キリストの磔刑の丘まで行く。
しかし、何も得られなかった。罪の許しもなかった。神秘体験もなかった。
エルサレムは父が語ったような理想世界ではなく、不法と不徳が支配する渾沌とした国だった。
エルサレムに、果たしてどんな価値があるのか?
次第にバリアンは、信仰心を失っていく。
映画に攻城塔が登場するのは初めてではないが実際に動いたのはごく最近(参照)。近年はデジタルばかり注目されるが多くの点で撮影技術は進歩しているのだ。かつての映像作家が見たら悔しがるだろう(余談ながら雲もデジタルだ。実写映画にとって天候は1つの難関だった。雲を相手に1週間待った黒澤明なら現代の撮影法を喜んだだろう)。
僧侶であるホスピタラーは、バリアンに諭すように語る。
「信心深いのも考え物です。“神の意思”と称する狂信者がいかに非道を行ったか見てきました。私が人を殺す者の目に見えたのは“狂信”です。“聖人”とは弱き者のために、勇気を持って正義を行う人々のことです。神が望む“善”というものは、ここと――ここに。善人かどうかは日々の行いが決めます」
とホスピタラーはバリアンの頭と胸を示す。
難解なテーマを持った作品だ。冒険物語風のテイストを盛り込んだのは、物語に親しみを持たせるためだろう。だがディレクターズカットを見ると冒険映画ではないとわかる。愉快な娯楽活劇ではないし、興行的にも惨敗だった作品だが、見逃す愚は犯したくない。
本当の信仰とは、盲目的に教会に従うことではない。それは“狂信”だ。映画は“信仰”と“狂信”の違いを語る。
人々を救うために、どれだけの勇気を発揮できるか。
エルサレムでは人間の地位ではなく、人間本来の資質と高潔さが推し量られる場所だ。それはこの渾沌としたエルサレムで、いかに善行を実践できるか、という意味だった。
それこそ、正しい“天国への道”なのだ。
待ち受ける困難は、人間としての資質を量るための試練だ。
バリアンは、間もなく運命に向き合って戦う道を選ぶ。
決して自身の信念を曲げず、魂を汚す行為を犯さず、いかに人々を多く救えるか。
それは人間としての価値を試す戦いだった。
映画記事一覧
作品データ
監督:リドリー・スコット
音楽:ハリー・グレッグソン=ウィリアムズ 脚本:ウィリアム・モナハン
出演:オーランド・ブルーム エヴァ・グリーン
〇 リーアム・ニーソン ジェレミー・アイアンズ
〇 エドワード・ノートン デヴィッド・シューリス
〇 ブレンダン・グリーソン マートン・ソーカス
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■2010/01/03 (Sun)
映画:外国映画■
ジーン・アイリス・マードックは著名な作家として知られている。
サルトルの研究書を始め、1995年までに26冊の小説や戯曲、詩篇を発表した。
アイリスは奔放な性格の一方で、博識で知性が深く、戦後のイギリスを代表する女性作家であった。
アイリス・マードックはイギリスでは著名な作家だ。日本でもいくつか著書が翻訳され出版されている。
ある晩、アイリスはレストランで夫のジョンとの対話中、自分が同じ言葉を繰り返していることに気付く。
兆候はゆっくりと、だがあるときを境に崖崩れのように迫ってきた。
別の日のインタビュー番組の出演中に、アイリスは唐突に自分の言葉を失い、インタビューアの質問もわからなくなる。そのとき以来、自分が何をしているのか、外出しても何の用事だったのかわからなくなる。
物忘れは急速に多くなり、ちょっとした出来事にも動揺し、混乱するようになった。
病院で検査を受けると、アイリスは“認知症”の診断が下される。
若き日のアイリスを、ぽっちゃり美人のケイト・ウィンスレットが演じる。プライベートでの食生活がわかりやすく映画に現れる女優だ。『アイリス』でも裸を披露するが、かなり太っている。
どんなに優れた知性も豊かな知識も、いつかその人間とともに失われてしまう。
アイリスはイギリスを代表する作家にして哲学者だったが、その例外になはれなかった。
アイリスは次第に言葉を失い、思考する手段をなくす。
世界はゆっくりと霞んでいき、アイリスの自我は、自身の内部世界に閉ざされていく。
ジョン役のジム・ブロードベントとヒュー・ボネヴィル。印象が非常に似ているので、若い姿、老いた姿に違和感がなかった。アイリスの認知症に気付いたジョンは、アイリスに言葉を思い出させようと常にノートを持たせる。
夫のジョンは、献身的にアイリスの介護を続ける。
だが変わっていくアイリスにジョンは動揺し、苛立ち、怒りをぶつける。もはやアイリスは、知的でユーモアのセンスのある、作家のアイリスではない。
アイリスはやがて記憶のすべてを失い、人格まで変わってしまう。
それでも、愛はとどまり続けるのか。
ジョンにとって、アイリスの介護はまさに試練だった。
その愛情に偽りはないのか、真実のものなのか。
若い頃のアイリスは、ジョンと交際中でも別の男性とセックスする奔放な女性だった。若い頃、老いた頃と2つの時代が交差するが、どちらもジョンによるアイリスへの愛情を試す試練として描かれる。
作家時代のアイリスは、常に言葉の重要性について語り続けてきた。
人間の意識は言葉によって制限され、品格を維持する。あるいは、言葉は人間の深層をなにひとつ指し示さない。
だがアイリスは、“愛”だけは唯一の言葉であると信じていた。
アイリスを支え、作家たらしめていたのは、言葉だ。それが失われた時、アイリスの本質はどのように変異するのか。
“愛”は言葉のない世界でも存在しえるのか。
映画記事一覧
作品データ
監督・脚本:リチャード・エアー 原作:ジョン・ベイリー
音楽:ジェームズ・ホーナー 脚本:チャールズ・ウッド
出演:ジュディ・デンチ ジム・ブロードベント
〇 ケイト・ウィンスレット ヒュー・ボネヴィル
〇 エレノア・ブロン アンジェラ・モラント
サルトルの研究書を始め、1995年までに26冊の小説や戯曲、詩篇を発表した。
アイリスは奔放な性格の一方で、博識で知性が深く、戦後のイギリスを代表する女性作家であった。
アイリス・マードックはイギリスでは著名な作家だ。日本でもいくつか著書が翻訳され出版されている。
ある晩、アイリスはレストランで夫のジョンとの対話中、自分が同じ言葉を繰り返していることに気付く。
兆候はゆっくりと、だがあるときを境に崖崩れのように迫ってきた。
別の日のインタビュー番組の出演中に、アイリスは唐突に自分の言葉を失い、インタビューアの質問もわからなくなる。そのとき以来、自分が何をしているのか、外出しても何の用事だったのかわからなくなる。
物忘れは急速に多くなり、ちょっとした出来事にも動揺し、混乱するようになった。
病院で検査を受けると、アイリスは“認知症”の診断が下される。
若き日のアイリスを、ぽっちゃり美人のケイト・ウィンスレットが演じる。プライベートでの食生活がわかりやすく映画に現れる女優だ。『アイリス』でも裸を披露するが、かなり太っている。
どんなに優れた知性も豊かな知識も、いつかその人間とともに失われてしまう。
アイリスはイギリスを代表する作家にして哲学者だったが、その例外になはれなかった。
アイリスは次第に言葉を失い、思考する手段をなくす。
世界はゆっくりと霞んでいき、アイリスの自我は、自身の内部世界に閉ざされていく。
ジョン役のジム・ブロードベントとヒュー・ボネヴィル。印象が非常に似ているので、若い姿、老いた姿に違和感がなかった。アイリスの認知症に気付いたジョンは、アイリスに言葉を思い出させようと常にノートを持たせる。
夫のジョンは、献身的にアイリスの介護を続ける。
だが変わっていくアイリスにジョンは動揺し、苛立ち、怒りをぶつける。もはやアイリスは、知的でユーモアのセンスのある、作家のアイリスではない。
アイリスはやがて記憶のすべてを失い、人格まで変わってしまう。
それでも、愛はとどまり続けるのか。
ジョンにとって、アイリスの介護はまさに試練だった。
その愛情に偽りはないのか、真実のものなのか。
若い頃のアイリスは、ジョンと交際中でも別の男性とセックスする奔放な女性だった。若い頃、老いた頃と2つの時代が交差するが、どちらもジョンによるアイリスへの愛情を試す試練として描かれる。
作家時代のアイリスは、常に言葉の重要性について語り続けてきた。
人間の意識は言葉によって制限され、品格を維持する。あるいは、言葉は人間の深層をなにひとつ指し示さない。
だがアイリスは、“愛”だけは唯一の言葉であると信じていた。
アイリスを支え、作家たらしめていたのは、言葉だ。それが失われた時、アイリスの本質はどのように変異するのか。
“愛”は言葉のない世界でも存在しえるのか。
映画記事一覧
作品データ
監督・脚本:リチャード・エアー 原作:ジョン・ベイリー
音楽:ジェームズ・ホーナー 脚本:チャールズ・ウッド
出演:ジュディ・デンチ ジム・ブロードベント
〇 ケイト・ウィンスレット ヒュー・ボネヴィル
〇 エレノア・ブロン アンジェラ・モラント
■2010/01/03 (Sun)
映画:外国映画■
8年前のあの事件から、すべてが始まった。
スピード・レーサーの兄、レックスは一流のカー・レーサーだった。あらゆるレースに出場し、伝説的なレコードを打ち立てていった。
だがある夜、レックスは突然に家を出て行く。弟のレーサーにマッハ号を預けて……。
その後のレックスは、人格が変わったように攻撃的なレースをするようになった。危険な妨害運転で事故を誘発し、何人もの選手を出場停止にした。その末にレックスは、カーサー・クリストの雪山のコースで、事故死を遂げる。
レースの映像は『F-ZERO GX』に酷似しているがまったくの別物。さらに『マリオカート』を足した感じだ。ギミックの1つ1つがほどよくぶっ壊れていて、楽しすぎる映画だ。
あれから8年……。
スピード・レーサーは成長し、兄レックスに匹敵する選手となった。そんなレーサーに、スカウトの誘いがひっきりなしにやってくる。
ローヤルトン工場社長、アーノルド・ローヤルトンもレーサーをスカウトしようとする一人だった。ローヤルトン社長は、レーサーを自分の工場へと案内し、契約に合意するように迫る。
だがレーサーは「家族を裏切れない」と契約を断る。
するとローヤルトン社長は、態度を豹変させ、過去50年のレースがすべて自分達の手による八百長であると明かす。そのうえに「今後、レースに出られなくしてやる」と脅迫する。
神聖なるレースの背後に蠢く、企業原理、暗黒街の陰謀――。
レーサーはあえてレースに挑戦し、八百長試合を打ちのめそうとする。
映像はあまりにも前衛的かつ先鋭的。何の偏見なしに鑑賞するのは、やや上級者向けな感じもある。某作家が、「ガキの妄想をすごいCGで描いた」とあったが的確だと思う。色々思うところはあるが“考えるな感じろ”だ。
映画『スピード・レーサー』は冒頭から強烈だ。
画像のすべてがどぎつい極彩色で塗り固められ、異様なハイテンションで物語が展開する。『マトリックス』で描かれたような静けさと孤高の哲学はどこにもない。まるで子供のお絵かきのように、キッチュで毒々しいジャンクフード的な映像が連続する。
それでも、『スピード・レーサー』は第一級のエンターティメントだ。
『スピード・レーサー』の感性は、かつて誰も見たことも経験したことのない領域に突入している。
場面が絵巻物のようにレイアリングされていく。現実的なパースティクティブを超越し、作り手のイメージを強烈に刻印する。強烈だが、それだけに挑発的だ。
『スピード・レーサー』は今時のリメイク映画にありがちな“現代的”なアレンジをあえて拒んだ映画だ。
確かに当時のアニメーションの色彩や雰囲気は現代のリアリズムと肌が合わない。
ウォシャウスキー兄弟は、当時のアニメーションが持っていた感性を一切改変せず、現代のテクノロジーの力でむしろ強烈さを倍増させて映像化した。日本のアニメに詳しいウォシャウスキー兄弟らしい思い切りだし、完成された映画には、アニメに対する愛情を一杯に感じる作品になった。
映画の“リアリティ”とはあくまでも“映画内リアリティ”であって、現実世界とは別物だ。映画のリアリティとは“映画内原理主義”ともいうべきものであって、映画のリアリティなどはっきり言えば幻想だ。リアリティという言葉が生み出した“錯覚”と言うべきだろう。リアリティのみが映画の価値を計る物差と信じている人こそ、この挑発的な映画を見て欲しい。
映画の良し悪しを判断する根拠に、よく“リアリティ”という言葉が引き合いに出される。しかし“リアリティ”という刷り込みは、現代の作家にとって制約の一つになりつつある。
従来的な撮影法と文法を几帳面に踏襲すれば、間違いなく“リアルな映画”が描けるだろう。しかし、それ以上のイマジネイションには決してたどり着けない。
だからこそ、『スピード・レーサー』は従来の手法を過去のものと見做し、まったく新しい撮影方を実験し、開拓した。
デジタルの魔力は、現実世界におけるあらゆるパースティクティブを跳躍して、直裁的に作家のイメージに刻印する。
『スピード・レーサー』の映像は、時間や空間を自由に飛び越えて、物語を独自の方法で構築する。
映画技法の限界と、デジタルとの融合。
それが映画を我々の知らない世界へと誘おうとしている。
『スピード・レーサー』はある意味で、孤高の哲学が描いた作品だ。
映画記事一覧
作品データ
監督・脚本:ラリー・ウォシャウスキー&アンディー・ウォシャウスキー
音楽:マイケル・ジアッキノ 撮影:デヴィッド・タッターサル
出演:エミール・ハーシュ クリスティナ・リッチ
〇 マシュー・フォックス スーザン・サランドン
〇 ジョン・グッドマン キック・ガリー
〇 RAIN(ピ) 真田広之
スピード・レーサーの兄、レックスは一流のカー・レーサーだった。あらゆるレースに出場し、伝説的なレコードを打ち立てていった。
だがある夜、レックスは突然に家を出て行く。弟のレーサーにマッハ号を預けて……。
その後のレックスは、人格が変わったように攻撃的なレースをするようになった。危険な妨害運転で事故を誘発し、何人もの選手を出場停止にした。その末にレックスは、カーサー・クリストの雪山のコースで、事故死を遂げる。
レースの映像は『F-ZERO GX』に酷似しているがまったくの別物。さらに『マリオカート』を足した感じだ。ギミックの1つ1つがほどよくぶっ壊れていて、楽しすぎる映画だ。
あれから8年……。
スピード・レーサーは成長し、兄レックスに匹敵する選手となった。そんなレーサーに、スカウトの誘いがひっきりなしにやってくる。
ローヤルトン工場社長、アーノルド・ローヤルトンもレーサーをスカウトしようとする一人だった。ローヤルトン社長は、レーサーを自分の工場へと案内し、契約に合意するように迫る。
だがレーサーは「家族を裏切れない」と契約を断る。
するとローヤルトン社長は、態度を豹変させ、過去50年のレースがすべて自分達の手による八百長であると明かす。そのうえに「今後、レースに出られなくしてやる」と脅迫する。
神聖なるレースの背後に蠢く、企業原理、暗黒街の陰謀――。
レーサーはあえてレースに挑戦し、八百長試合を打ちのめそうとする。
映像はあまりにも前衛的かつ先鋭的。何の偏見なしに鑑賞するのは、やや上級者向けな感じもある。某作家が、「ガキの妄想をすごいCGで描いた」とあったが的確だと思う。色々思うところはあるが“考えるな感じろ”だ。
映画『スピード・レーサー』は冒頭から強烈だ。
画像のすべてがどぎつい極彩色で塗り固められ、異様なハイテンションで物語が展開する。『マトリックス』で描かれたような静けさと孤高の哲学はどこにもない。まるで子供のお絵かきのように、キッチュで毒々しいジャンクフード的な映像が連続する。
それでも、『スピード・レーサー』は第一級のエンターティメントだ。
『スピード・レーサー』の感性は、かつて誰も見たことも経験したことのない領域に突入している。
場面が絵巻物のようにレイアリングされていく。現実的なパースティクティブを超越し、作り手のイメージを強烈に刻印する。強烈だが、それだけに挑発的だ。
『スピード・レーサー』は今時のリメイク映画にありがちな“現代的”なアレンジをあえて拒んだ映画だ。
確かに当時のアニメーションの色彩や雰囲気は現代のリアリズムと肌が合わない。
ウォシャウスキー兄弟は、当時のアニメーションが持っていた感性を一切改変せず、現代のテクノロジーの力でむしろ強烈さを倍増させて映像化した。日本のアニメに詳しいウォシャウスキー兄弟らしい思い切りだし、完成された映画には、アニメに対する愛情を一杯に感じる作品になった。
映画の“リアリティ”とはあくまでも“映画内リアリティ”であって、現実世界とは別物だ。映画のリアリティとは“映画内原理主義”ともいうべきものであって、映画のリアリティなどはっきり言えば幻想だ。リアリティという言葉が生み出した“錯覚”と言うべきだろう。リアリティのみが映画の価値を計る物差と信じている人こそ、この挑発的な映画を見て欲しい。
映画の良し悪しを判断する根拠に、よく“リアリティ”という言葉が引き合いに出される。しかし“リアリティ”という刷り込みは、現代の作家にとって制約の一つになりつつある。
従来的な撮影法と文法を几帳面に踏襲すれば、間違いなく“リアルな映画”が描けるだろう。しかし、それ以上のイマジネイションには決してたどり着けない。
だからこそ、『スピード・レーサー』は従来の手法を過去のものと見做し、まったく新しい撮影方を実験し、開拓した。
デジタルの魔力は、現実世界におけるあらゆるパースティクティブを跳躍して、直裁的に作家のイメージに刻印する。
『スピード・レーサー』の映像は、時間や空間を自由に飛び越えて、物語を独自の方法で構築する。
映画技法の限界と、デジタルとの融合。
それが映画を我々の知らない世界へと誘おうとしている。
『スピード・レーサー』はある意味で、孤高の哲学が描いた作品だ。
映画記事一覧
作品データ
監督・脚本:ラリー・ウォシャウスキー&アンディー・ウォシャウスキー
音楽:マイケル・ジアッキノ 撮影:デヴィッド・タッターサル
出演:エミール・ハーシュ クリスティナ・リッチ
〇 マシュー・フォックス スーザン・サランドン
〇 ジョン・グッドマン キック・ガリー
〇 RAIN(ピ) 真田広之
■2010/01/03 (Sun)
映画:外国映画■
ゲームソフトを題材にした映画もシリーズ3作目だ。
バイオハザードの脅威が世界中に広がり、地上はゾンビたちの支配する地獄に変わっていた。地上から文明の光は消え、人間による自治は失われ、渾沌とした砂漠と荒野ばかりが無限に広がっていた。
生き残った人たちは少数で固まり、サバイバルの生活を続けていた。
そんな僅かに残った人間の包囲網も、次第にゾンビの脅威によって狭められていく……。
妙に愛嬌のあるゾンビたち。恐怖感は皆無だし、現代人はすでにゾンビくらいでは驚きもしないし恐怖も感じない。
『バイオハザード』はゾンビを題材にした映画だが、おそらく作り手はホラーを指向していないのだろう。
おぞましく体が崩れ、不気味な唸り声を上げるゾンビたち……。だがそこに恐怖は一片もない。むしろ不思議な愛着のようなものを感じる。
おそらく制作者は、ゾンビを恐怖の対象ではなく、もっと純粋なキャラクターとして描いたのだろう。
だからなのか、映画中には次から次へとオリジナル・ゾンビが登場する。犬ゾンビにカラスゾンビ。前作である『バイオハザード2』では、ゾンビというよりむしろ怪獣と呼ぶべきキャラクターも登場した。
『バイオハザード3』にしてようやく気付いたのだが、このシリーズはゾンビとの戯れを描いた作品と見るべきかも知れない。おぞましい恐怖表現より、子供じみた無邪気さこそが映画の主題なのかも知れない。
サックリ感のある映画。むしろ『鬼武者』的な感覚がある。後半は超能力を身につけ、ジャンプ漫画っぽいスーパーバトル展開が描かれる。
“ゲームの映画化”の歴史は意外と古い。しかし“ゲームの映画化”の成功例は非常に少ない。ほとんどの作品はあまりにも奇妙で、無理矢理にオリジナル・ゲームの要素を突っ込んだだけであって、とても鑑賞に堪えられるものではなかった。
ゲームの映画化は一般の観客だけではなく、ゲーム・ファンにすら嫌われるいちジャンルである。
その状況が変わりはじめたのは、ゲーム自体が本質を変え始めたことにあるのだろう。映像や音楽の表現がより高度に、一般的に接している絵画や映像、音楽に接近した。そうするとゲームは、ゲームらしい古典的な『構造としてのゲーム』から『シチュエーションとしてのゲーム』として姿を変えた。
――あなたは理由もわからないまま荒れ果てた廃墟で目を覚ます。扉を開けると、廊下には恐ろしいゾンビが……。あなたはそこにある物でゾンビの脅威を排除し、廃墟から脱出しなければならない。
『構造としてのゲーム』というのはルール作りがあり、そのルールを遵守しつついかに鮮やかなプレイを見せられるか。現代のゲームはそうではない。まず『シチュエーション』が設定され、そのなかでプレイヤーが何をするか――場所だけが与えられているのだ。
ゲームと映画、映像的な差異は失われつつあるが、本質的な差異は決して埋らない。ゲームはゲームだし、映画は映画。ジャンルの違いをどのように飛び越え、違うメディアでどう再現するか。
現代のゲームはかつてのものとすっかり様変わりしてしまった。企画においても、ゲーム・ルールよりもまず『シチュエーション』が提示され、それに従って構想される。
どんな状況で、どんなふううに敵が飛び出し、プレイヤーはどこへ向っていくのか。
『シチュエーション』こそが現代ゲームの本質である。
そのシチューションの構造には、観察主義に基づく映像が必須である。当然、映像として表現するのだから、映画的な技法や表現にも接近する。そうすると、ハリウッド映画の本質に近付きはじめる。
ハリウッド映画の多くは理屈がない。まずシチュエーションがあり、そのシチュエーションを説明するだけの少々の「理屈」だけがある。
だからゲームの映画化は、かつてより製作しやすくなっているはずなのである。
『ポケモン』はアニメ化の際、アニメ制作者全員が『ポケモン』をプレイするのが必須条件だった。当り前に思える話だが、当時、これが報道されるほど画期的だった。それくらい、映像作家はゲームの映像化に対し、真剣に接してこなかったわけである。
映画『バイオハザード』はそうした変化を象徴する作品だ。かつての“ゲームの映画化”は作家の独創で、あまりにも別物に書き換えられてしまったし、そうして描かれたものは大抵、見る者をがっかりさせる代物だった。そもそも作家がゲームに興味がなく、1秒もプレイせず偏見とやっつけ仕事で制作されてしまう場合すらあった。
だが現代の“ゲームの映画化”は、ゲームで描かれた映像や演出からほとんど改編を加える必要がない。むしろゲームのイメージを増幅させてくれる。
しかし一方で、ジレンマもある。
ゲームはどんなに映画を指向しても映画にはなれないし、映画はどんなにゲームのシチュエーションを再現してもゲームにはなれない。
この対立をいかに解消するか。
“ゲームの映画化”という課題は、まだ全て達成させられていない。
映画記事一覧
作品データ
監督:ラッセル・マルケイ
音楽:チャーリー・クロウザー 脚本:ポール・W・S・アンダーソン
出演:ミラ・ジョヴォヴィッチ オデッド・フェール
〇 アリ・ラーター イアン・グレン
〇 アシャンティ クリストファー・イーガン
バイオハザードの脅威が世界中に広がり、地上はゾンビたちの支配する地獄に変わっていた。地上から文明の光は消え、人間による自治は失われ、渾沌とした砂漠と荒野ばかりが無限に広がっていた。
生き残った人たちは少数で固まり、サバイバルの生活を続けていた。
そんな僅かに残った人間の包囲網も、次第にゾンビの脅威によって狭められていく……。
妙に愛嬌のあるゾンビたち。恐怖感は皆無だし、現代人はすでにゾンビくらいでは驚きもしないし恐怖も感じない。
『バイオハザード』はゾンビを題材にした映画だが、おそらく作り手はホラーを指向していないのだろう。
おぞましく体が崩れ、不気味な唸り声を上げるゾンビたち……。だがそこに恐怖は一片もない。むしろ不思議な愛着のようなものを感じる。
おそらく制作者は、ゾンビを恐怖の対象ではなく、もっと純粋なキャラクターとして描いたのだろう。
だからなのか、映画中には次から次へとオリジナル・ゾンビが登場する。犬ゾンビにカラスゾンビ。前作である『バイオハザード2』では、ゾンビというよりむしろ怪獣と呼ぶべきキャラクターも登場した。
『バイオハザード3』にしてようやく気付いたのだが、このシリーズはゾンビとの戯れを描いた作品と見るべきかも知れない。おぞましい恐怖表現より、子供じみた無邪気さこそが映画の主題なのかも知れない。
サックリ感のある映画。むしろ『鬼武者』的な感覚がある。後半は超能力を身につけ、ジャンプ漫画っぽいスーパーバトル展開が描かれる。
“ゲームの映画化”の歴史は意外と古い。しかし“ゲームの映画化”の成功例は非常に少ない。ほとんどの作品はあまりにも奇妙で、無理矢理にオリジナル・ゲームの要素を突っ込んだだけであって、とても鑑賞に堪えられるものではなかった。
ゲームの映画化は一般の観客だけではなく、ゲーム・ファンにすら嫌われるいちジャンルである。
その状況が変わりはじめたのは、ゲーム自体が本質を変え始めたことにあるのだろう。映像や音楽の表現がより高度に、一般的に接している絵画や映像、音楽に接近した。そうするとゲームは、ゲームらしい古典的な『構造としてのゲーム』から『シチュエーションとしてのゲーム』として姿を変えた。
――あなたは理由もわからないまま荒れ果てた廃墟で目を覚ます。扉を開けると、廊下には恐ろしいゾンビが……。あなたはそこにある物でゾンビの脅威を排除し、廃墟から脱出しなければならない。
『構造としてのゲーム』というのはルール作りがあり、そのルールを遵守しつついかに鮮やかなプレイを見せられるか。現代のゲームはそうではない。まず『シチュエーション』が設定され、そのなかでプレイヤーが何をするか――場所だけが与えられているのだ。
ゲームと映画、映像的な差異は失われつつあるが、本質的な差異は決して埋らない。ゲームはゲームだし、映画は映画。ジャンルの違いをどのように飛び越え、違うメディアでどう再現するか。
現代のゲームはかつてのものとすっかり様変わりしてしまった。企画においても、ゲーム・ルールよりもまず『シチュエーション』が提示され、それに従って構想される。
どんな状況で、どんなふううに敵が飛び出し、プレイヤーはどこへ向っていくのか。
『シチュエーション』こそが現代ゲームの本質である。
そのシチューションの構造には、観察主義に基づく映像が必須である。当然、映像として表現するのだから、映画的な技法や表現にも接近する。そうすると、ハリウッド映画の本質に近付きはじめる。
ハリウッド映画の多くは理屈がない。まずシチュエーションがあり、そのシチュエーションを説明するだけの少々の「理屈」だけがある。
だからゲームの映画化は、かつてより製作しやすくなっているはずなのである。
『ポケモン』はアニメ化の際、アニメ制作者全員が『ポケモン』をプレイするのが必須条件だった。当り前に思える話だが、当時、これが報道されるほど画期的だった。それくらい、映像作家はゲームの映像化に対し、真剣に接してこなかったわけである。
映画『バイオハザード』はそうした変化を象徴する作品だ。かつての“ゲームの映画化”は作家の独創で、あまりにも別物に書き換えられてしまったし、そうして描かれたものは大抵、見る者をがっかりさせる代物だった。そもそも作家がゲームに興味がなく、1秒もプレイせず偏見とやっつけ仕事で制作されてしまう場合すらあった。
だが現代の“ゲームの映画化”は、ゲームで描かれた映像や演出からほとんど改編を加える必要がない。むしろゲームのイメージを増幅させてくれる。
しかし一方で、ジレンマもある。
ゲームはどんなに映画を指向しても映画にはなれないし、映画はどんなにゲームのシチュエーションを再現してもゲームにはなれない。
この対立をいかに解消するか。
“ゲームの映画化”という課題は、まだ全て達成させられていない。
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作品データ
監督:ラッセル・マルケイ
音楽:チャーリー・クロウザー 脚本:ポール・W・S・アンダーソン
出演:ミラ・ジョヴォヴィッチ オデッド・フェール
〇 アリ・ラーター イアン・グレン
〇 アシャンティ クリストファー・イーガン
■2010/01/03 (Sun)
映画:外国映画■
――ドッグヴィル。
その町はロッキー山脈の麓に置かれ、廃坑になった銀鉱山で道は行き止っていた。町の中央通りを“楡通り”と呼んだが、そこには楡の木は一本もなかった。どの家も貧相で、トムの家だけがそれなりに見栄えがよかった。
トムは作家だった。本人は作家のつもりだった。
トムはドッグヴィルの人々に、良心と道徳を教える方法をいつも考えていた。ドッグヴィルの町の人々に、何かを示すことができれば、人々は今よりもっと良心的になって、豊かな生活と精神性を獲得できるはずではないか。
そうすれば、トム自身も人々に称賛される。
だが、そのためのいい方法が思いつかず、トムは考えていた。
冒頭で明らかにしているが、トムが良心を示したい動機は自身が尊敬されたいからだ。グレースを匿おうという発想も、良心ではなくエゴに基づくものだ。
そんなある日の夕暮れ。風の音に紛れて、トムは銃声を聞いた。
行ってみると、暗がりの中に、一人の美女が潜んでいた。グレースだ。
グレースはギャングの一味に追われ、逃げていた。
トムはこれこそ天からの贈り物だと感動する。
トムは早速、町の人たちを集会所に集め、皆でグレースを守り匿おうと提案する。それがトムがいつも考えていた良心を示す方法だ、と。
ドッグヴィルの人たちは戸惑いつつもトムに同調し、グレースの受け入れようとする。
ラース・フォン・トリアー監督は『ドッグヴィル』の映像を、子供と遊んだRPGから着想を得た。なるほど、俯瞰から見た映像は確かにRPGだ。線だけの壁や記号的に置かれた家具、ノックのふりなど、どれもRPG(それも古き良きファミコン時代の)を連想させる。私もRPGは数十本遊んだがこんな映像など思いつかなかった。
映画『ドッグヴィル』には広いステージと白線だけしかない。明確なセットはなく、場所を説明する小道具や家具が点々とあるだけだ。家と家と区切るドアすらなく、役者たちは子供のごっこ遊びのように何もない場所をノックしている。
映画のすべての表現が人間の演技に委ねられた作品だ。だが『ドッグヴィル』の表現は人間の生々しさをクローズアップさせる。
壁も天井も突き抜けて、すべてを見渡せる状態が町の村意識を増幅させている。ドッグヴィルの町では、住人のプライバシーなど白線一本程度なのだ。
何もかもが隣人に筒抜け。一人だけの秘密などドッグヴィルではありえない。
『ドッグヴィル』のカメラは常にゆらゆらと揺れて、照明は暗く、俳優の顔も暗く影が落ちる。映画にはいわゆる映画的リアリティは皆無だが、異様な生々しさに満ちている。
ドッグヴィルの町の人々は、グレースを受け入れ、匿おうと一時は結束する。
グレースの目には、ドッグヴィルの線と小道具だけの町は美しく、人々は良心的に思えた。都会の人間がよく言うような、素朴さ(らしきもの)を持っているように思えた。
だがドッグヴィルの人々が本性を現すまで、さほど時間は掛からなかった。
村社会の結束は、現代人が考えるような理想よりよっぽど陰湿で排他的な方向において強化される。
怒り、妬み、苛立ち。それから迷信。
人と人を結びつけるのは、哀れみや愛情ではない。エゴだ。
人間が人間の内部に最終的に見出すのは、文明化されない蛮性だ。
町の人たちは一度は結束する。しかし一枚の手配写真で、その決心をあっさりと変えてしまう。権力者からの軽い脅し。この程度の切っ掛けで街の人たちの結束は脆く崩壊する。
「人はどこでも同じだと思い知った。獣のように貪欲だ。餌を与えれば、腹が破裂するまでむさぼる」
田舎の素朴さや良心など幻想に過ぎない。コマーシャルが美麗字句で固めた虚構は、圧倒的な排他性に打ちのめされる。
良心や理想、道徳は、一種の快楽装置だ。良心はその人間に陶酔的な恍惚感を与える。“正義の側にいる”と。
だが良心にも道徳にも限界がある。良心も道徳も社会順序性を持つと、単に義務感を伴った労働となる。快楽は薄れ、不快さが被さり、良心や理想といった演技状態を維持するのは困難になる。
道徳的人格を維持するには努力と忍耐が必要だ。すぐに耐え切れなくなり、次に破壊の衝動が迫ってくる。
教養の高さは、高潔さを維持するための防波堤にならず、むしろ破壊の衝動に理性的な順序性を与え、正当的な理由を与える。
そのときに人々は、自身の蛮性を隠そうともせず、容赦なく牙をむいて襲い掛かる。
客人の訪問は人間の本性を容赦なく剥き出しにする。むしろ今まで、隣人だからこそ我慢してきた欲望や抑圧が、客人に対して一気に放出される。暴力的欲動や性欲。客人が美しく力が弱いと、よりあからさまに欲望が姿を現す。グレースは町の人たちが隠蔽してきたエゴを暴き立てる。この映画を見終わった後はしばらく人間不信になる。
グレースはドッグヴィルの町の人々を静かに審査する。
グレースは人々の良心を冷静に審査し、蛮性がむき出しになっていく過程を観察している。グレースの存在は町の人たちが隠そうとしていた本性を暴き立てる。
ドッグヴィルの町に良心が完全に消えうせ、愚かしさ一杯に満ちたとき、グレースは町の人々に然るべきジャッジを下す。
愚かしさには罰を与えねばならない。
神ならばそうしただろうし、トムが最初に思ったように、グレースは天からの贈り物なのだから。
映画記事一覧
作品データ
監督・脚本:ラース・フォン・トリアー
撮影:アンソニー・ドッド・マントル
編集:モリー・マーリーン・ステンスガード
出演:ニコール・キッドマン ポール・ベタニー
〇 クロエ・セヴィニー ローレン・バコール
〇 パトリシア・クラークソン ベン・ギャザラ
〇 ジェームズ・カーン ステラン・スカルスガルド
〇 ジャン=マルク・バール ハリエット・アンデルセン
〇 ブレア・ブラウン ジェレミー・デイヴィス
〇 フィリップ・ベイカー・ホール ジョン・ハート
その町はロッキー山脈の麓に置かれ、廃坑になった銀鉱山で道は行き止っていた。町の中央通りを“楡通り”と呼んだが、そこには楡の木は一本もなかった。どの家も貧相で、トムの家だけがそれなりに見栄えがよかった。
トムは作家だった。本人は作家のつもりだった。
トムはドッグヴィルの人々に、良心と道徳を教える方法をいつも考えていた。ドッグヴィルの町の人々に、何かを示すことができれば、人々は今よりもっと良心的になって、豊かな生活と精神性を獲得できるはずではないか。
そうすれば、トム自身も人々に称賛される。
だが、そのためのいい方法が思いつかず、トムは考えていた。
冒頭で明らかにしているが、トムが良心を示したい動機は自身が尊敬されたいからだ。グレースを匿おうという発想も、良心ではなくエゴに基づくものだ。
そんなある日の夕暮れ。風の音に紛れて、トムは銃声を聞いた。
行ってみると、暗がりの中に、一人の美女が潜んでいた。グレースだ。
グレースはギャングの一味に追われ、逃げていた。
トムはこれこそ天からの贈り物だと感動する。
トムは早速、町の人たちを集会所に集め、皆でグレースを守り匿おうと提案する。それがトムがいつも考えていた良心を示す方法だ、と。
ドッグヴィルの人たちは戸惑いつつもトムに同調し、グレースの受け入れようとする。
ラース・フォン・トリアー監督は『ドッグヴィル』の映像を、子供と遊んだRPGから着想を得た。なるほど、俯瞰から見た映像は確かにRPGだ。線だけの壁や記号的に置かれた家具、ノックのふりなど、どれもRPG(それも古き良きファミコン時代の)を連想させる。私もRPGは数十本遊んだがこんな映像など思いつかなかった。
映画『ドッグヴィル』には広いステージと白線だけしかない。明確なセットはなく、場所を説明する小道具や家具が点々とあるだけだ。家と家と区切るドアすらなく、役者たちは子供のごっこ遊びのように何もない場所をノックしている。
映画のすべての表現が人間の演技に委ねられた作品だ。だが『ドッグヴィル』の表現は人間の生々しさをクローズアップさせる。
壁も天井も突き抜けて、すべてを見渡せる状態が町の村意識を増幅させている。ドッグヴィルの町では、住人のプライバシーなど白線一本程度なのだ。
何もかもが隣人に筒抜け。一人だけの秘密などドッグヴィルではありえない。
『ドッグヴィル』のカメラは常にゆらゆらと揺れて、照明は暗く、俳優の顔も暗く影が落ちる。映画にはいわゆる映画的リアリティは皆無だが、異様な生々しさに満ちている。
ドッグヴィルの町の人々は、グレースを受け入れ、匿おうと一時は結束する。
グレースの目には、ドッグヴィルの線と小道具だけの町は美しく、人々は良心的に思えた。都会の人間がよく言うような、素朴さ(らしきもの)を持っているように思えた。
だがドッグヴィルの人々が本性を現すまで、さほど時間は掛からなかった。
村社会の結束は、現代人が考えるような理想よりよっぽど陰湿で排他的な方向において強化される。
怒り、妬み、苛立ち。それから迷信。
人と人を結びつけるのは、哀れみや愛情ではない。エゴだ。
人間が人間の内部に最終的に見出すのは、文明化されない蛮性だ。
町の人たちは一度は結束する。しかし一枚の手配写真で、その決心をあっさりと変えてしまう。権力者からの軽い脅し。この程度の切っ掛けで街の人たちの結束は脆く崩壊する。
「人はどこでも同じだと思い知った。獣のように貪欲だ。餌を与えれば、腹が破裂するまでむさぼる」
田舎の素朴さや良心など幻想に過ぎない。コマーシャルが美麗字句で固めた虚構は、圧倒的な排他性に打ちのめされる。
良心や理想、道徳は、一種の快楽装置だ。良心はその人間に陶酔的な恍惚感を与える。“正義の側にいる”と。
だが良心にも道徳にも限界がある。良心も道徳も社会順序性を持つと、単に義務感を伴った労働となる。快楽は薄れ、不快さが被さり、良心や理想といった演技状態を維持するのは困難になる。
道徳的人格を維持するには努力と忍耐が必要だ。すぐに耐え切れなくなり、次に破壊の衝動が迫ってくる。
教養の高さは、高潔さを維持するための防波堤にならず、むしろ破壊の衝動に理性的な順序性を与え、正当的な理由を与える。
そのときに人々は、自身の蛮性を隠そうともせず、容赦なく牙をむいて襲い掛かる。
客人の訪問は人間の本性を容赦なく剥き出しにする。むしろ今まで、隣人だからこそ我慢してきた欲望や抑圧が、客人に対して一気に放出される。暴力的欲動や性欲。客人が美しく力が弱いと、よりあからさまに欲望が姿を現す。グレースは町の人たちが隠蔽してきたエゴを暴き立てる。この映画を見終わった後はしばらく人間不信になる。
グレースはドッグヴィルの町の人々を静かに審査する。
グレースは人々の良心を冷静に審査し、蛮性がむき出しになっていく過程を観察している。グレースの存在は町の人たちが隠そうとしていた本性を暴き立てる。
ドッグヴィルの町に良心が完全に消えうせ、愚かしさ一杯に満ちたとき、グレースは町の人々に然るべきジャッジを下す。
愚かしさには罰を与えねばならない。
神ならばそうしただろうし、トムが最初に思ったように、グレースは天からの贈り物なのだから。
映画記事一覧
作品データ
監督・脚本:ラース・フォン・トリアー
撮影:アンソニー・ドッド・マントル
編集:モリー・マーリーン・ステンスガード
出演:ニコール・キッドマン ポール・ベタニー
〇 クロエ・セヴィニー ローレン・バコール
〇 パトリシア・クラークソン ベン・ギャザラ
〇 ジェームズ・カーン ステラン・スカルスガルド
〇 ジャン=マルク・バール ハリエット・アンデルセン
〇 ブレア・ブラウン ジェレミー・デイヴィス
〇 フィリップ・ベイカー・ホール ジョン・ハート