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■2010/08/13 (Fri)
写真■
(1280×1024)
(1920×1080)
この日は農業的にどういう日か知らないけど、あちこちで焚き火をやってきた。お陰で、奥のほうが淡くかすんで印象的な夕景になった。
(1280×1024)
(1920×1080)
(1024×1280)
(1080×1920)
美しい風景はまあ良かったのだけど、大量に映りこんだ虫に困った。消すのは大した苦労ではないけど、面倒くさい作業だった。
(1280×1024)
(1920×1080)
夕景を正面から。平凡な構図だけど、光の印象が際立つ。
(1280×1024)
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(1280×1024)
(1920×1080)
あれ? 同じ構図の写真載せちゃった。しまった……。
写真日記 目次
■2010/08/11 (Wed)
評論■
7・クライマックス
当り前の定義を示すが、クライマックスとはそれまでに提示した全てが統括される場面のことである。
だが最近のアニメでは、放送回数を無駄に消費して、最後になって唐突に何かをする、というパターンが目立つ。物語の最後の最後という局面に差し掛かると、それまでの文脈をまったく無視して、唐突に難題が提示され、その難関に対して登場人物たちが何かしようというドラマが作られる。
まるで、夏休みの宿題を、残りの数日になって大慌てで片付けようとするみたいに。
それまで描いてきた全ての要素を足し算していったところにクライマックスは存在している。クライマックスはそこに至るまでの物語の全体像を克明にし、作品の真の姿を示す場面である。
作品はクライマックスに向けて物語を綴っていくべきだし、そこに至るまでの構造に間違いがなければ、クライマックスは確実に素晴らしい瞬間になる。
『鋼の錬金術師』におけるクライマックスは、言うまでもなく『約束の日』である。夜明けのシーンから数えて16話(→第49話親子の情)。通常のアニメなら一つのシリーズを終えてしまうだけの分量を、この『約束の日』というたった一日のために消費された。物語中の時間で見て行くと、夜明けから日食が発生する昼までの短い時間だ。
ここまで長い場面を一つのシーンとして描いてきたアニメはないし、今後においても稀な作品になるのは間違いない。しかもどの場面も息苦しいまでの緊張感に満ち満ちていて、一瞬の隙も油断も許さない名シーンの連続であった。
最近のほとんどのアニメは尻すぼみになって忘れられ、埋もれていくだけだが、ここまで右肩上がりに輝きを放った作品の例は非常に貴重だ。
なぜ『鋼の錬金術師』はあのような傑出した場面を作り出せたのか。それはこれまでの組立ての全てに意味があり、意味を与えようという作者の意識的な意図があり、それが結実するフィールドの構想があったからである。才能と偶然によって作られたものではなく、構想しようという意志力と計算力があのようなクライマックスを作り出せたのだ。
漠然としたキャラクターのアイデアと勢いだけでは後に残る作品は生まれない。作品をどのように発展させていくか、どのような結末を目指して物語を構築していくか、その構想力がなければ、物語創作は確実に失敗する。
そこに、ある程度の思想や理性的な知性も必要だ。物語最初に提示したベーシックを哲学的領域まで深化させられるまでとことん考えぬかれば、物語は広がりと深さを獲得することはできない。
『鋼の錬金術師』という作品を支えたのは、原作者荒川弘の優れた構想力によるものだ。エピソードの一つ一つに物語後半に向けて意味づけをしようという意思があり、それが着実に効力を持ってクライマックスを作り上げた。それから、ふとすると難しくなりがちな物語の背景や構造を、冒険物語の過程の中で順当に解説し、読み手に理解を促していった。物語作りにおいて大切な心構えである「わかりやすく語ること」という当り前の作法を心得た結果である(物語をもっともらしく見せようとして意図的に難しく、わかりにくくしようとする作品と作家は多いが→押井守)。
はっきり言えば、荒川弘は絵がうまい漫画家ではない。アクション描写が優れているわけでも、感動的なドラマに長けている作家でもない。ビジュアル構築を見ても、第1次世界大戦前後ふうのドイツの風景に、今どきなファッションが不自然に混じっている。これならば、今どきの素人のイラストレーターのほうがずっと優れた作品を描くことができる(最近は素人でもやたら絵がうまいのだが)。それでも『鋼の錬金術師』を誰もが認める傑作に押し上げたのは、荒川弘の構想力とそれを支える知性、それから深い洞察力である。そして、ふとすると複雑になりかける物語(あるいは哲学)を、誰にでも理解できるように噛み砕いて伝える能力である。
ただ漠然と物語を作るのではなく、終局的な意図を持って物語を綴っていく、という考え方が大切なのだ。構想しようという意志力そのものが必要な心構えなのだ。
『鋼の錬金術師』相当のストーリーを、あるいは『鋼の錬金術師』を越えたいと思うのなら、キャラクターやベーシック的なものを考え出した後に、それをどのように生かすべきか、どのように深化させられるか、キャラクターとベーシックがスカスカになるまで考え抜く。最初に提示したアイデアでどれくらいのスケールまでイメージを押し広げられるか。その考える力なしには、どんな傑作は生まれない。
前回:伏線の作り方
■2010/08/11 (Wed)
評論■
6・伏線の作り方
最近の多くのアニメで失敗し、困難に思われている要素に「伏線」がある。伏線をどう配置するのか、どのタイミングで提示すべきなのか、これが難しく考えられている。
単純に答えを示せば、「物語の中における解説」と同じように提示すればいいのである。つまり、主人公が体験する過程そのものが「解説」であると同時に、「伏線」であればいいのだ。
もしや伏線と言うものを思わせぶりに予告する台詞やアクションのことであると捉えていないだろうか。確かにそういうわかりやすい伏線も存在するが、それは効果的ではないし、伏線というものの利用方法の全てでもない。
ここでは、伏線の2つの活用法方を提示しておく。
〇1・物語を次に移すための準備段階としての伏線
〇2・物語の最終局面に必要な要素を準備するためのもの
『鋼の錬金術師』における伏線は、物語のなかで主人公が体験すべきものとして描かれてきた。例えば「コーネロ→賢者の石」、「スカー→イシュバール殲滅戦」。物語を解説すると同時に、物語領域を拡張するための準備段階として伏線が活用されてきた。だから、伏線とは物語の過程の中に、それとなく配置していくのが正しいやり方である。
また、伏線は物語の続きを予告するためではなく、物語の最終局面に向けて物語を補強するものである、という考え方もある。
例えば第21話のエドの台詞。
エド「で、二人で一緒にあっちに持っていかれて、一度分解された。その過程で、俺とアルの精神が混線してしまった可能性がないだろうか」
ウィンリィ「どういうこと?」
エド「こっちにいる俺と、あっちにいるアルの肉体が繋がっている可能性はないかってことだ。ほら、俺って歳の割りに身長ちい……ちい……ちっさい……」
これは第63話でエドが自分の扉を代価として真理に捧げた後、脱出のためにアルの扉が使える、ということを予告し、あるいはあらかじめ理屈を示しておくことで、読者の理解を促すためのものだ。
あるいは第45話のリンの台詞では、
リン「セントラルの地下にいるあのお父さまとやらが来るべきその日に扉を開ける。俺の素人考えだが、そこにお前たち兄弟が飛び込めば、2人とも元の体に戻れるんじゃないか」
これは必ずしも正しい知識ではないが、お父さま(ホムンクルス)の目的を予告し、その最終局面においてエドとアルが元の体を取り戻すヒントを示している。
伏線とは物語の解説の延長上にあり、クライマックスに必要なフィールドを整えるための準備である。そのための心理的準備を読者に促し、どう捉えるべきか、何が起きたのかを理解させるためのヒントを与えるものだ。
例えば、ホーエンハイムの旅の途上で、方々で自身の血を大地に振り撒いていた。あれが何の意味を持つのか、物語の最後の最後というところで明かされるのだが、あれも物語の最終局面を構築するための準備活動であるといえる。
伏線とは「回収」するためにものではなく、「準備」するものだと心得たほうがよい。
今どきの作家や読者は「フラグ」という考え方をするが、これは伏線ではない。それまで物語と接してきた経験と照らし合わせ、ありがちと思える展開を予測し、その結果を共有することが「フラグ」である。だからフラグは、作り手と受け手の間で「約束事」として共有されるだけで、伏線としての効果など持ち得ないどころか、その文化圏に属していない新規のユーザーを排除してしまう、ということを忘れてはならない。
この伏線を、物語の文脈の外で何となく振り撒いてはならない。
例えば『聖剣の刀鍛冶』という作品がある。『聖剣の刀鍛冶』の登場人物の一人であるルーク・エインズワースの瞳の色が、左目と右目と違っていた。質感も違うように描かれ、何かあるらしいと了解させるために、執拗にクローズアップを繰り返されていた。
しかし、これは主人公セシリー・キャンベルが関知しない伏線であった。主人公が察知できない伏線は、どんなに繰り返しても、なんら効力を持ち得ない。物語とは主人公が物語上にある物事を了解していく過程であり、主人公が関知しないところで何か伏線めいたものを何となく配置しても、それは物語の最終局面に対してほとんど何も貢献しない。
そのうちにも、ルークの瞳の色が違う理由が解説されたが、主人公の驚きは何もなく、それまでに組み立てた伏線もどきは何ら効果を持たなかった。
だから効果のないところで伏線をいくら振り撒いても、何ら意味はないのである。
ところで、ある一つの結末に向って、知識や仮定を提供することが伏線であるとする。伏線とは、読者の考え方を誘導し、「こう考えるものですよ」というガイドラインであると考える。
すると、伏線という手法を使った別のやり方も考えられる。
読者にわざと間違った考えかたを示し、物語の最終局面を間違った方向に誘導するやり方である。つまりミスリードである。
ただし、ミスリードは非常に扱いの難しい手法だ。第一に、ミスリードはミスリードなりに一貫した思考過程を示さねばならないし、その土台となる基礎知識的なものは、正解の知識と一致していなければならない(乖離していると、読者を混乱させるだけだ)。うまくいけば読者を心地よい驚きに導けるが、不用意にミスリードを示せば、物語の軸は完全に捻じ曲がり、読者が物語の本筋を見失ってしまう恐れがある。ミスリードを使う物語上の意図や、狙う機会があれば、どんどん活用していきたい手法だ。
前回:読者の心理を操作する
次回:クライマックス