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■2011/05/03 (Tue)
評論■
最後に残った批評
『魔法少女まどか☆マギカ批評・前編』を読む
『魔法少女まどか☆マギカ』は大きな社会現象を引き起こし、それは一時的なムーブメントに終わらず、放送が終了した今でも多くの人に様々な話題を提供し続けている。放送を見逃したという人も、話題の大きさに感化されてニコニコ動画やこれから発売になるDVDやブルーレイでぜひ見たいという動きがある。『魔法少女まどか☆マギカ』は深夜放送にも関わらず、多くの人が視聴し、ショックを受け、その話題に無関係でいることが難しいくらいの大きな波となった。その影響力について、少し想像してみるとしよう。
まず、漫画・アニメ・ゲームといった分野に魔法少女ものは激増するだろう。魔法少女ものが流行している、とにかく魔法少女ものさえ描けば儲かる――そんな安易な幻想(“勘違い”ともいう)を抱いた経営者たちがいくつもの魔法少女ものの企画をスタートさせるだろう。作家側はいまいち乗り気ではない、というか「絶対外れるだろうな」と思いながらも、ギャラの大きさに断りきれず黒歴史を積み重ねてしまう。そうして無数の魔法少女たちが望まれもせずに生み出され、あるいはそれに準じたジャンルヒーローが大量に放り出され、アニメ・ゲームなどの視覚メディアの紙面を埋め尽くすだろう。
かつて『もののけ姫』『エヴァンゲリオン』という2大ヒットアニメが制作された直後、勘違いした社長たちが次々とアニメに投資、大量の作品を作らせたものの、そもそも人手不足のアニメーターに極端すぎるオーバーワークを強いることになり(最近理解したことだが、アニメに詳しくない一般人は、普段のアニメーターは仕事が少ないと思い込み、「むしろありがたい話じゃないか?」と結論づけてしまう傾向にある。どうやらお笑い芸人と一緒という前提があるらしく、アニメの仕事は大量の過労死を生み出す激烈な仕事、という事実はなかなか了解してくれない)、結果的にアニメ全体のクオリティを引き下げる結果となった。『魔法少女まどか☆マギカ』実体的な黒字実績はさほど大きくないから『もののけ姫』『エヴァンゲリオン』当時ほどの大きな動きは起きないと想像されるが、結果的にアニメのクオリティを引き下げてしまうような現象を引き起こす可能性はある。
それから、漫画・小説のコンテストに大量の魔法少女ものが送られてくるだろう。もっとも、今のこの時期に魔法少女ものを描けば、それだけで『魔法少女まどか☆マギカ』の影響と見做され、下読みに本編を読んでもらえず梗概だけで落とされるだろう(下読みはまず梗概だけで落とす)。最終審査に残る作品に魔法少女ものは1本も残らず、漫画・小説コンテストの背景にそんなことが起きてるなど我々は知る切っ掛けもないだろうが。とりあえず、もしライトノベル作家志望が今これを読んでいたら、こう忠告したい。余程の独創的なアイデアがない限り、少なくとも10年間は魔法少女ものは禁じ手にすべきだ、と。
インキュベーターの語る「エントロピー」の解説が正しくない、という指摘がある。物語内における原則に矛盾がなければ現実世界の法則を多少捻じ曲げても問題ない。物語世界に矛盾がない状態のほうがよほど大事だ。が、この種の周辺知識的な描写は可能な限り現実の法則に学び、一致させたほうがよい。現実的な描写や法則を取り入れれば取り入れるほどに物語の真実味は増大するし、一般的な認識において、「リアリティ」の密度がより高い作品ほど上質な作品と考える傾向にあるからだ。リアル云々を重視しすぎてしまうと、女の子が魔法で変身する、という設定自体リアリティがないという話になってしまうが。
それからもう一つの影響――ストーリー展開、あるいはそれに準ずる性格を取り入れた作品がいくつも生み出されるだろう。かつて『エヴァンゲリオン』が社会現象をもたらした後、漫画・アニメの主人公たちの性格が暗くなり、物語の展開も憂鬱気味に、それからとりあえず(展開の必要、不要に関わらず)内面世界に逃避・埋没していく場面が描かれるようになった。
「影響」は決して悪いことではないし、非難されるような状態ではない。『エヴァンゲリオン』のヒットの後、誰もが『エヴァンゲリオン』の真似をした。みんな不器用に自身の創作、あるいは企画の中に『エヴァンゲリオン』を取り入れ、漫画・アニメの業界は一時的に(うんざりさせられるほど)『エヴァンゲリオン』の模造品だらけになった。
だが結果的に、漫画・アニメは以前より良くなった。登場人物はより深い内面まで描かれるようになったし、ストーリーは現実的な背景をしっかり描写されるようになり、何より画面の精度は確実に上がった。いま『エヴァンゲリオン』を再び見ても、そこから何かを見出すことはできない。かつてあれほど影響力を持ったはずの映像、ストーリーは今となってはどこにでもある平凡な創作物の一つでしかない。はっきりいえば、ただの古いアニメである(あの古臭い作品を未だに神聖視する人は多いようだが)。当時の感覚でいって『エヴァンゲリオン』という作品のショックを乗り越えるためには、その作品をひたすら模倣するしか方法がなく、結果的に時代は『エヴァンゲリオン』を踏み越えてそれ以上の作品を作り出す力を、あるいは方法を獲得したのだった。時代は『エヴァンゲリオン』を踏み台にして、確実に一歩上の段階へと突き進んだのだ。
それでは『魔法少女まどか☆マギカ』からどんな影響が想像されるだろう。『魔法少女まどか☆マギカ』というショックを人々はどのように乗り越えていくだろう。重要と思われた人物の強制的な死亡だろうか。主人公の意のままにならない残酷なストーリー展開だろうか。『魔法少女まどか☆マギカ』の物語の特徴は、登場人物たちの想いがただひたすら伝わらないことだ、という見方もある。あるいは魔法少女ものではなく、別の古くからあるジャンルヒーローを『魔法少女まどか☆マギカ』と同じルールで再構築する、という描き方だろうか。
しかしその模倣の方法では『魔法少女まどか☆マギカ』というショックを乗り越え、創作の意識をそれ以上の段階へと押し上げることはできない。作家たちはいつか『魔法少女まどか☆マギカ』以上の作品を生み出さねばならず、それができなければ視聴者は「いくら見てもあれ以上の感動が得られることはない」とアニメの視聴自体に飽きてしまう。作る側の成長速度よりも、見る側の「目が肥える」速度のほうがよほど早いのだ。だから『魔法少女まどか☆マギカ』はどのように物語が構成され、展開していったかそれを解体し、分析していく必要があるのである。『魔法少女まどか☆マギカ』は小さな町が舞台で、主要登場人物はたったの6人だけである。それがいかにしてあれだけの大きなスケールを持ち、あれだけの大きなエモーションを演出できたのか。そのスケールを操作する方法について、見ていきたいと思う。
鹿目まどかの母・鹿目詢子とそれからクラス担任の早乙女和子の会話シーン。ここで2人が実は古くからの友人であることがわかる。鹿目詢子と早乙女和子は物語にほとんど関与しない脇役であるが、面白いくらいディティールはしっかり作られ、登場回数は少ないものの極めて強い印象を残す。この2人を中心に据えたエピソードがなかったことが実に惜しい。
改めて『魔法少女まどか☆マギカ』の物語をそれぞれの構成要素に分解してみよう。
中心点―鹿目まどか
時間遡行者―暁美ほむら
第2の中心点―美樹さやか
前任者―巴マミ
介入者―佐倉杏子
使者―キュゥべえ
その他―上条恭介/志筑仁美
とりあえず中心的な物語を構築する登場人物は以上の8人だ。鹿目まどかの家族を含めるともう少し増えるが、さほど物語に介入してこないから必要ないと見做す。ちなみに物語の舞台となる場所は主人公たちが暮らす街一つだけである。
次にエピソードごとにおける物語の構成である。
1~3話までがこの物語における基本的な解説である。魔法少女の前任者であり指導役である巴マミと出会い、そして死による別れが描かれる。巴マミの死によって、物語の本質的な過酷さが直裁的に視覚化される。巴マミは自ら死ぬことで、物語の背景的な重さを解説し、鹿目まどかと見る者に警告を与えたのだ。
4~9話は鹿目まどかは物語の中心点という役割を一時的に美樹さやかに譲り、美樹さやかは魔法少女としての運命を代弁する。美樹さやかの物語の中に、上条恭介と志筑仁美の恋愛物語が描かれ、さらに佐倉杏子が介入してくる。「魔法少女とは何であるのか?」この物語上の命題は巴マミが解説した段階よりもさらに次の段階へと進んでく。
「魔法少女になると魂がソウルジェムに移され、肉体は死亡する」「ソウルジェムに輝きが失われると、魔法少女は魔女に変化する」この事実が明かされる頃、キュゥべえの正体がにわかに明らかになって行き、それぞれの関係性にコペルニクス的転回が起きる。自身の肉体の死と失恋に絶望した美樹さやかは、終局的に魔女に変化し、魔法少女としての運命を解説する役割を終える。巴マミと同じように、美樹さやかも自ら死亡することで、物語の本質的な“設定”を説明したのである。
ここまでの途上で、この物語における重大なテーゼが解説されている。
「魔法少女になるためにはキュゥべえと契約しなければならない。その契約とは、希望を一つ現実にすることである」
「ただし、この希望を叶えられると同時に、その主体はそこから消失する」
「間もなくソウルジェムは呪いを吐き出すようになり、魔法少女は希望の代弁者ではなくなる」
最大の希望を叶えた後に残るのは絶望だけ――というわけではないが、魔法少女たちは自身の希望に裏切られるわけである。自らの延命を願った巴マミは早々に死亡し、幼馴染の治療を願った美樹さやかはその幼馴染に裏切られ、佐倉杏子もやはり父親のために願い、父親に裏切られるという末路を経験している。魔法少女は自身が願った希望の当事者には絶対になれないのである。魂を天秤にかけた希望は結局幸福を生み出さず、だから魔法少女は恨み――呪いと絶望を吐き出すようになり、最後にはその本質を攻撃と破壊のシンボルへと変えてしまうのだ。
第10話は以上の前提を踏まえながら、もう一つのツイストである暁美ほむらが抱えている秘密が描かれる。暁美ほむらの過去――その物語が始まる以前に、どんな経緯があったのか。暁美ほむらは何を望み、魔法少女になったのか。ここでそれまで停滞していたかのように思われていた鹿目まどかが再びクローズアップされて、実は物語の大きな中心点に立つ重要な存在であったことが明らかにされる。【暁美ほむら―鹿目まどか】の物語を背景に置きながら【美樹さやか―佐倉杏子】の物語が描かれ、その物語に必要なルール設定が説明されていたわけである。
ちなみに暁美ほむらの願いは「鹿目まどかとの出会いをやりなおす」ことであった。その願いは確かに叶えられたが、鹿目まどかの死という結末だけが回避できない。だがそれでも暁美ほむらのソウルジェムが真っ黒な絶望に満たされないのは、「やり直し」が可能だったからだった。やり直しが可能である限り、暁美ほむらのソウルジェムは決してほむら自身を魔女に変えることはない。しかし11話のラスト、鹿目まどかは絶対に救えないという事実に行き当たり、ついにソウルジェムは真っ黒な闇に反転する(暁美ほむらは鹿目まどかを救うのではなく、鹿目まどかに救われなければならなかったのだ)。どうやっても魔法少女は自身が叶えた希望の主体にはなれず、最後に残すのは絶望という運命なのである。
物語はこうして終局面である11話12話へと向かっていく。10話までの物語によって必要な設定“ルール”が説明され、2つのツイストによって重要なキーワードが提示されている。
1つめのツイストはキュゥべえが黒幕であること。2つ目のツイストは時間遡行者である暁美ほむらの過去。
キュゥべえが黒幕という事実により、魔法少女という運命の全容が説明された。魔法少女になるためには強い願いが必要であり、願いが叶うと魂は肉体から分離されソウルジェムへと移される。ソウルジェムは間もなく恨みや呪いを吸い込み、吐き出して魔女へと変化する。これらは全てキュゥべえの企みであり、エントロピーを得て宇宙の延命を図るためであった。ここで重要なのは大きな望みが魔法少女を作り出す、という部分である。
もう一つのツイストは暁美ほむらの存在である。1つ目のキーワードを前提において、ほむらは時間を逆行して鹿目ほむらを死の運命から救い出そうとした。しかし何度繰り返してもその試みは失敗に終わり、時間遡行を繰り返すたびにまどかに絡んだ因果の糸は強くなり、物語におけるまどかの重要度は肥大化していった。
『魔法少女まどか☆マギカ』を支える最終的なキーワードは上の2つである。「魔法少女になるためには強い願いが必要」「暁美ほむらの過去」。この2つのキーワードを基本構造として背景に起き、どこまで深くドラマを描きこんでいけるか、あるいはスケールを大きく描けるか。
物語を構築する基本的な構成は、シンプルであればあるほど良い。ここを複雑にすると、物語の本質を見誤り、作る側も見る側も何となく「?」という状況になり、そこから魅力的な作品が生まれることはない。物語の本質となるキーワードは常にシンプルで、もっといえば簡単な形に視覚化できるものが望ましい。大きなバジェットで作品を創作する場合は、このキーワードはワンフレーズのスローガンにして、チーム全体が常に目にでき、自身が作ろうとする本質を再確認できるようにするべきである。
その物語において何を語るべきなのか。それからどの程度の規模の物語を描くつもりなのか。基本的なキーワードが持っている可能性、強さ、そのキーワードから構想されるスケールの全体スペースを計算に入れつつ、作り手はテーマの設計をじっくり吟味しなくてはならない。物語がどの程度の規模を持ち、結末に何が描かれるか、そして見る者にどの程度のエモーションを提示できるのか。すべてを逆算し、絞り込み、中心的な核を見定めた上で作り手はキーワードの選択を行うべきである。
基本的なキーワードをシンプルに設定しつつ、その上にどんなディティールを描くべきか。基本的なキーワードがシンプルな力強さを持っていれば、その上に描かれるディティールがどんなに複雑怪奇な有象無象であっても、作る側も見る側の物語の本質を見失うことはなく、物語の本質は変わらず強い輝きを放ち続ける。むしろディティールを複雑に描いたほうが、映像はもっともらしい力を持ち始める。だから基本的なキーワードがシンプルでありながらどれだけの力を持ち得るか、それを思いつくこと自体に作家の構想力=《実力》が試される。
物語とは登場人物の感情のぶつかり合いを描くものであるが、同時に作家の思想・思考を具体的な形にして提示する唯一の方法である。だから物語とは、一つの思想である以前に、作家自身の人格である。物語とは仮定として構築された宇宙であり、世界である。集合無意識から分離された世界であると同時に、集合無意識的なものを包括する世界である。作家はいかにして物語を思考し、構想し、世界を構築していくか。そのドラマが描く感情がどれだけの人々に動揺を与えられるか。そしてどれだけの影響力を持ち得るか。それを想定するために、シンプルでありながらより強い力を持ち得るキーワードの設定が必要なのである。
『魔法少女まどか☆マギカ』の場合は、上の2つがキーワードとなり、そのキーワードが前提となって登場人物が配置され、結末に向かっていくドラマが描かれた。シンプルなキーワードは、『魔法少女おりこ☆マギカ』『魔法少女かずみ☆マギカ』といったシリーズを生み出す拡張性を持ち得る。作家の構想は大成功である。宇宙そのものを飲み込む結末を生み出した構想力の凄まじさは、普通に考えられるイマジネーションを大幅に飛躍し、クライマックスが提示したエモーションの強さはかつて体験したことのない恍惚と陶酔をもたらした。シンプルでありながら強い力を持ち得るストーリー。脚本家・虚淵玄はこの課題を完璧な解答を示して乗り越え、魔法少女》をより新しく、刺激的で、感動的な叙事詩に変えて今の時代に復活させた。
第10話の放送後、東日本大震災の影響により11話12話の放送が大幅に延期になってしまった。しかしその間にアニメファンの熱狂はどこまでも高まり続け、「客席は充分に暖まった」状態になっていた。それに11話12話はひと連なりになった前後編であり、これを分離して放送することはありえなかった。放送の延期と2話連続放送。むしろこのことが『魔法少女まどか☆マギカ』という社会現象をより大きなものにした。
わたしの、最高の批評
脚本家の構想が完了すれば、後は芸術家の仕事だ。その場面をどのように描き、キャラクター、俳優に誰を選択するか、どんな音楽を映像に当てはめるか。構想に間違いがなく、どこにも矛盾も破綻もなく、それでいて素晴らしいクオリティの高さを示すことができていれば、後は余程の間違いがない限り、芸術家が余程の無能でない限り、作品は成功する。
『魔法少女まどか☆マギカ』は構想の方法について、重要を思えるキーワードを提示してくれた。しかしそのキーワードを充分に活用するためには相応の実力が必要であり、また野放図に展開させるスケールの大きなイマジナリィが必要だ。小さな笑いを積み重ねただけの小手先の技だけがいくらうまくなっても、陶酔と恍惚を持ったクライマックスを描くことはできない。
日本のアニメは間違いなく世界最強のポテンシャルを持っている。日本以外のテレビアニメと比較すると、日本のテレビアニメのクオリティは異常なレベルであるといっていい。しかし、劇場アニメの分野で見ると、西洋のアニメに1歩2歩も遅れている。ピクサーやドリームワークスが制作するアニメが稼ぎ出す興行収入と比較すると、日本のアニメは完全に敗北している。ストーリー、アクションを比較しても、日本のアニメが勝てそうな分野といえば、せいぜいバイオレンスとセクシャリティだけであり、日本以外の多くの人たちが日本のアニメに注目し期待しているのは、実際には暴力とエロだけだ。クエンティ・タランティーノも、安っぽい暴力とエロにまみれたグラインドハウスで日本のアニメを知り、詳しくなった。
なぜか? 長編物語を構成するためのノウハウがまったくないからだ。物語の結末を見定め、どのように描き、スケールを操作するのか。あるいはクライマックスに向かってどのように物語を組み立てればいいのか、誰も知らないからだ。アニメ映画のほとんどが無計画にストーリーが進行し、意味のない台詞をいくつも積み重ね、後半に進むほど退屈な中だるみが増大し、なにやら哲学的な台詞やシーンが描かれて何となく映画が終わる。作り手のその時の気分が徒にフィルムに投影されただけで、一貫したテーマ、あるいは主体性を見出すことができない。だから映画作りのプロであるハリウッドの製作者に日本のアニメは敗北し続けるわけだし、日本のアニメがマニアックな一部の人たちの趣味という範疇から抜け出せず、閉鎖した印象を持たれてしまい、そうすると当然市場も閉鎖し、アニメーターの給料体制(最重要事項)も一向によくなるわけもない。
大きな構想、それから大きな予算をふんだんに利用し、大きな作品を組み立てるための方法論を知らないから、これだけの高いポテンシャルを持ちながらそれ以上の広がりをもつことができないのだ。日本のアニメは何でもない日常を切り抜いた作品を描くことを得意としているが、それは「同じ文化圏」にいる人たちにのみ有効な表現なのであって、日本以外の人たちにとっては「?」だし、下手すると同じ日本人にすら文化を共有していないと「?」である場合もある。作品のほとんどは同じ予算で同じスケールで構想が組み立てられ、だから描けるものの限界も同じで、それ以上の、その向うにあるものが何であるのかの想定もできないないし、描こうともしない。今の日本に必要なのは、「うまい味噌汁の作り方」ではない。そんなものは誰でも作れる。必要なのは巨大建築を構想するようなスケールの大きく、それでいてコケ脅しではない骨の通った堅牢なるモニュメントを作る力である。
『魔法少女まどか☆マギカ』は大きな作品を作るための基本的な構想の手法をほんの少し、断片的に示してくれた。あとはどのように自分たちの作品に取り入れていくか、である。始めに書いたように、「影響」を受けることは決して悪いことはではない。自身のものとして体得できるまで、何度も繰り返し「真似」して「パクれ」ばいい。かつてアニメ・ゲームのストーリーが何を見ても『エヴァンゲリオン』の模倣になったように、徹底的に影響を受け真似して、その末に『エヴァンゲリオン』を踏み越えてそれ以上の作品が描けるようになればいい。『魔法少女まどか☆マギカ』もいつか「ただの古くさいアニメ」になるだろう(いつまでも当時の価値観、当時感じた感情を引きずって神聖化する連中はいるだろうが、そういうのは無視して結構)。
『魔法少女まどか☆マギカ』はアニメに対する意識を一段階止揚する切っ掛けを与えてくれた。これを切っ掛けに、同じ品質のアニメをただむやみに量産し続けるだけの今の状況から、もう少し野心的で挑発的な作品を作ろうというモチベーションが生まれればいいと思う。
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■2011/04/18 (Mon)
評論■
批評なんて、あるわけがない
2010年の終わり頃。アニメは二つのオリジナル作品の発表に沸き立っていた。山本寛監督『フラクタル』、そして新房昭之監督『魔法少女まどか☆マギカ』の二つだ。
いずれも今のアニメ界を代表するアニメーション監督であり、2人の優れた傑作の数々は常にアニメファンの話題の中心であり、作品を発表するたびに熱狂的な支持者の一団を生み出し、制作会社にはありがたい黒字を提供してきた。その2人が同じタイミングでオリジナルストーリーを創作し、ぶつけ合う。
果たしてどちらの作品が勝利を収めるのか。批評家はどちらを支持し、アニメ雑誌はどちらに多くのページ数を割くのか。あるいは、DVD・ブルーレイ売り上げはどちらがランキングを独占するのか。言語数、売り上げ枚数、インターネット上のページ枚数、アニメファンはどちらが高い数字を獲得するのか、冷静に見守った。
結論を言えば――というかすでにあからさまな結論が出ているのだが、勝者は『魔法少女まどか☆マギカ』だった。圧勝という言葉が相応しい勝利だった。
インターネット上の話題は完全に『魔法少女まどか☆マギカ』が独占。普段アニメを見ない、という層までも熱中させ、DVD・ブルーレイ売り上げは、予約だけでも『けいおん!!』を越え、本格的に販売がスタートすれば『化物語』のレコードを越えるだろう。新房昭之監督は売り上げ、批評家評価の1、2位の両方を獲得したことになる。
一方の『フラクタル』は放送開始からわずか一ヶ月目には誰も話題にしなくなり、おびただしい数で制作され放送されるアニメ群の影の中に埋没した。山本寛の名前と『フラクタル』という作品自体は辛うじて忘れられずに済んだものの、情報を見つけてもそこにあるのはあまりにも辛辣なネット批評家たちの罵詈雑言だけである。扱いで言えば、今期もっとも安易なストーリーとキャラクターで制作された『インフィニット・ストラトス』よりも遥かに下、それも東京タワー最上部から見下ろしたマンホールの穴の底、とういうくらいが相応しい扱いであった。
第1話においてまどかの家族環境が詳しく解説された。まどかという人物を知る上で大切なファクターであるが、第1話以後、この家族はほとんど顔を見せなくなった。母親は度々登場するものの、父親は第3話に1度だけ。弟の存在は完全に物語から消失した。監督の意思としては、もう少しこの家族を描いてみたかったらしく、実際にその余地は充分にあっただろう。が、全12話という尺度の都合上、消える以外になかった。
『魔法少女まどか☆マギカ』も『フラクタル』も番組放送直前にあっても、徹底した秘密主義が貫かれていた。大雑把で抽象的な言葉が並んだ「あらすじ」と、いくつかのキャラクターイラストのみ。担当声優は明かされたものの、それがどういったキャラクターで、どのように物語、あるいは主人公と関わっていくのか、まったく不明だった。『魔法少女まどか☆マギカ』に至っては当初、脚本家である虚淵玄の名前すら明かされていなかった。
その物語がどう転んでいくかわからない。どちらも原作なし、という緊張感に満たされていた。
原作なし、という緊張感を効果的に発揮させられたのは間違いなく『魔法少女まどか☆マギカ』だ。『魔法少女まどか☆マギカ』の物語は落ち着いた語り口で順当に展開していった。2人の主人公である鹿目まどかや美樹さやかの立場、謎めいた転校生である暁美ほむら、魔法少女として艶やかな活劇を披露する巴マミ――。1、2話においてはまず必要であると思われる物語上のルール設計が語られた。魔法少女になるにはキュゥべえに見出され、キュゥべえと契約しなければならない。その契約条件は一つだけ願いを叶えること……。それから魔女と戦い、それで得られるグリーフシードを使うことによって、濁ったソウルジェムの輝きを取り戻すことができる。
1話2話は解説に徹底され、ドラマが動き出したのは第3話からだ。魔法少女になるための決意を固めるまどか――しかしその直後、巴マミが魔女の攻撃に油断し、死亡する。
魔法少女といえば女児の見るもの。可愛らしいキャラクターが登場し、甘いお菓子のようなストーリで、決して誰かが死んだり、思いがけないトラブルに見舞われることは決してない。巴マミの死亡はその定石を木っ端微塵に砕き、アニメユーザーに痺れるような緊張感を与えると同時に視線を釘付けにした。巴マミの首切りシーンは今や「誰もが知る有名なアニメの一場面」の一つに数えられるくらいである。第3話のラストシーンを切っ掛けに、物語の激鉄は派手な炸裂音を撒き散らしながら放たれたのである。
蒼樹うめのキャラクターは正面、ななめ、横といった決まりきった構図は存在するが、その中間を埋める絵がない。振り向きの中コマにどうしても不自然に見える絵が入ってしまう。顎の下の空間もなく、アオリからの絵が見せられないという問題がある。平面的な構図を強調した『ひだまりスケッチ』とは違い、アオリ俯瞰といったダイナミックな構図で絵が多く、作画スタッフはかなり苦労したらしい(みんな顎の下よりスカートの中を気にしたようだが)。
その後のストーリーは、どこまでも色調は暗く沈み、暗澹極まる展開を見せていった。第4話から第9話までは、活動が停滞するまどかに代わって(何者かによってまどかの活動に制限がかけられていた)美樹さやかが主人公となり、《魔法少女の運命》を代弁する。
幼馴染の上条恭介の腕の治療を代償に魔法少女になる美樹さやか。が、上条はさやかの友人である志筑仁美とすでに懇意の仲であり、間もなくその関係は成立する。同じ頃、美樹さやかの前に佐倉杏子が立ちふさがり、魔女との戦い、上条恭介との関係など、ことあるごとに妨害する。
そうして間もなく、キュゥべえが意図的に隠していた魔法少女というものの真実が明らかになっていく。願いを叶えられたと同時にその肉体から魂が抜き取られ、ソウルジェムに移されること。魔法少女の本体自身は“死亡”したことになる。
上条との失恋と、自身の肉体の死亡に絶望したさやかは、自分の身を破壊するような危険な戦い方にその身を投じていく。さやかの狂気はやがて濁った憎しみを撒き散らすようになり、膨れ上がった憎しみは、さやか自身を魔女に変えてしまう。魔法少女の末路――それは魔女になることであった。
全面ガラス張りの教室や、液晶パネルの黒板、不思議な様式美を持った自宅に、カットごとに変わるおびただしい数の椅子……。前衛的に思えるが、前者においては全て実際の風景にあるから、後者においては実写ドラマではすでに取り入れられているから、という理由で採用された。現実的に考えると「?」な描写も多々あるが、その場面における印象の強さが優先された。特にアニメは生活空間の描写が苦手で、背景と書割を取り違えていることが多いだけに『魔法少女まどか☆マギカ』から学ぶべきところは多い。
一つ一つの物語は順当に解説され、謎掛けと解明のバランスがよく、一幕一幕がひとつのドラマとして実に心地よい区切り方を心がけられている。主要登場人物は(キュゥべえを含め)わずかに6人――推理小説マニュアルが推奨する容疑者と同じ数であり、物語はミステリ並みの謎掛けの連続で、次の一手を容易に明かそうとしない。驚きの解明は決してコケ脅しにならず、周到な準備を持ってドラマの中に組み込まれている(ツイストが2重に仕掛けられている構造も素晴らしい)。
たった6人だけで展開していく物語だが、その構造は堅牢な強さを持ち、物語の中で完全なる小宇宙を形成している。
特筆すべきは、「視聴者の感情移入」の強さである。これは作り手が意図して操作したいと思ってもできず、それこそ創作における神頼みの部分である。その物語が支持されるか否か――映像作品の制作は1本で1億のお金が吹っ飛ぶものである。ハリウッドのブロックバスターなどは100億円前後が1本の映画製作に消費される。それだけのお金を消費して支持されなければ? 映像制作はひとつの博打であり、誰もが応援して欲しいと思い、願い、時には色々仕掛けたりするものである。
読者による「感情移入」はある程度なら作り手側にも操作可能である。主人公の立場をとにかく丁寧に、順当な準備を持って解説することである。物語とは主人公を介して語られる一つの世界観である。主人公は物語という非日常的な空間と立場の中心に立ち、その世界構造の解説者となる。読者がその物語の主人公の立場を理解し、感情的な経緯に共感し、同情するようになれば、その物語は成功である。読者は主人公と一体となり、あらゆるアクロバティックな展開が迫ろうとためらいもなく、同じ大きさの勇気を抱いて危険の中に飛び込んでいくようになる。
最近はネットの力によって、読者の声(リターン)は凄まじい速度で返ってくるようになった。かつて視聴者の声は番組を放送した後、少数の気まぐれを持った何人かがその想いを葉書にしたため、それが放送局、制作会社と長い長い旅をしてようやくどんな反応を抱いたか、感情を抱いたかを知ることができるのである。それが今や、リターンは一瞬である。特にニコニコ動画では、夥しい数のコメントによって、視聴者がどの場面でどんな感情を抱いたか、あるいは一つのシーンや台詞でどれだけの人が反応したのか即座に知ることができる。作り手にとって若干怖いところもあるが、視聴者の意識を正確にトレースするシステムを獲得したことにより、映像制作はよりスリリングになったし、視聴者の声を即座に制作に反映させられることも可能になった。視聴率などという古いシステムは、もうとっくに博物館行きの過去の遺物である。
『魔法少女まどか☆マギカ』はその感情移入の効果が絶大な力を持って発揮された。物語中、美樹さやかは暁美ほむらや佐倉杏子といった魔法少女たちに失望し、死んだ巴マミを理想化、神聖視するようになっていく。同じ現象が視聴者の多くの内面に起きたようだ。巴マミの死亡にショックを受けた多くの視聴者は、その想いをイラストに描き出すだけではなく、巴マミの映像集を制作し、中には巴マミが生存する「もしも」を題材にしたオリジナルゲームを作成する者まで現れた。
ここまでの動きの中で作り手は何一つ介在していない。通常は作り手側が何かしら仕掛けをし(例えば映画CMで「『まどか☆マギカ』チョ~サイコ~」とか言うあれだ。バカらしいが大多数の一般人には効果がある)、ユーザーの多くがそのお祭り騒ぎに揺り動かされていくものだが、驚くべきことに『魔法少女まどか☆マギカ』の作り手は何一つユーザーの活動に手を加えていない(単純にプロモーションのお金がなかったのだろう)。『魔法少女まどか☆マギカ』を見た決して多くもないユーザーがそれぞれで自発的に活動し、現在に至るまでの大きなムーブメントを作り出していったのだ。
作り手による感情移入の仕掛けは見事に成功。『魔法少女まどか☆マギカ』の物語は読者の心を完全に、それも決別不能なほどの密着度で鷲掴みにした。こういった状態になれば、クライマックスでよほどの間抜けをしない限り、『魔法少女まどか☆マギカ』は批評、ソフト売り上げの両方で確実に成功する。『魔法少女まどか☆マギカ』の企画は、まさに大成功であった。
物語の真相が明かされる第10話だがやや疑問がある。例えば『ワルプルギスの森』の出現について、何故まどかとマミはあらかじめ知っていたのだろう。それから魔法少女になると魂がソウルジェムに移されてしまうという設定だが、これはキュゥべえが秘密にしていたことのはず。どうして巴マミはこの秘密を知っていたのだろう(最終的にほむらも知らなくてはならないから、矛盾ではないが)。物語中に描写されなかったどこかで説明された、ということになっているのだろうか。とにかく尺度に限りがある急ぎ足のエピソードだから、やや仕方ないところだったかも知れない。
好評も、不評も、あるんだよ
一方の世紀の失敗作として誰からも見向きも話題にもされなくなったのは山本寛監督の『フラクタル』だ。『フラクタル』は山本寛監督が自身のアニメ生命を賭け、それまでの全てを注ぎ込んで制作されたはずの作品であった。それがどうしてここまで惨憺たる内容になったのか。
『フラクタル』はネット社会における現代の人間像を描いた作品である。あらゆるものが高度に情報化し、情報化する一方で一次情報である実体を喪失し、情報と同時に実体が虚ろになっていく現代をSFファンタジーの文脈の中でうまく風刺した作品である。おそらく作り手が想定した設計に大きな間違いはない。作り手には相応の意思があって『フラクタル』という作品があったのだ。作品を構成する設定、設計、思想そのものにはおそらく大きな間違いはなかっただろうと思う。だがその描き方、展開の方法に欠陥があった。
例えば主人公クレインの描き方だ。クレインが主人公としてのイニシアチブを持っていたのは、おそらく第2話までだ。第2話においてクレインはネッサとの交流に動揺し、生活空間を徹底的に破壊された結果、その破壊はクレイン自身の意識に革命を起こす。そこには間違いなく変化の物語があり、変容を受け入れ、それまでの生活を捨てるクレインの姿は実にドラマティックな活力があった。
が、『フラクタル』における変容のドラマはこれで終わりであった。第3話以降、クレインは主人公として特に何もしなくなった。
第3話『グラニッツ村』では、《フラクタルシステム》に干渉を受けない人々との交流が描かれる。グラニッツ村訪問はクレインの変化の段階を体現する重要な場面であるが、この頃からクレインの役目はただそこにいて、状況に翻弄されながら何もせず傍観しているだけのただのカメラマンになってしまった。状況は次々と変化するものの、クレインはその中心に介在せず、物語の主導的立場としての力を発揮しない。第3話から第4話冒頭にかけて、僧院の儀式を襲撃する大きな場面が描かれるが、物語の導線はそのクライマックスから完全に逸れたまま、ピントのぼけたグラニッツ村の日常とクレインの行動をひたすら描き続けた。間もなく襲撃というダイナミックな場面があるというのに、そこに至るまでのあらゆる経緯、例えば襲撃準備や“襲撃しなければならない理由・根拠”といった描写を映像からごっそり切り捨てて、視聴者にとっては不意打ちのような展開でいきなり襲撃という場面が描かれてしまった。それは明らかな失敗であった。実弾を使った血なまぐさい戦闘が描かれているというのに、見ている側はまだぽかんとした傍観者の気分のままで、カタルシスなどはどこにもない。物語の一人として介在し、その状況を応援しようという気分にはなれなかった。戦いの結果、主要人物と思われたブッチャーの死が描かれるが、エンリの悲しみにまったく共感を持てない。ブッチャーの死はテレビの向うの知らない誰かの死でしかなく、その死は視聴者の感情を何一つ干渉することはなかった(モブキャラが死んだのかと思った……というくらい、ブッチャーの死には関心が持てなかった)。“感情移入”の完全なる失敗である。『魔法少女まどか☆マギカ』における巴マミとの死による視聴者の反応を比較してみると、その差は歴然だろう。
物語の後半へ行くほどに、『フラクタル』の作劇は奇怪な様相を見せ始めるようになった。例えば第6話「最果ての街」。フラクタルシステムから見放された人々をロストミレニアムに引き入れようと強引な手術を施すディアスを、クレインとフリュネが目撃する。そこで様々な事件が起きて、クレインとフリュネの2人はその様子を間近で見ているのだが、まるで透明人間であるかのように、誰もクレインとフリュネの2人を気にかけていない。その後、ディアスの正体が明らかになった後、クレインとフリュネは難民たちとともに銃口を向けられた上で囲まれるのだが、クレインとフリュネはその包囲からいとも簡単に脱出してしまう。透明人間の“ように”ではなく、“完全に”透明人間の扱いである。その場で起きているドラマに一切参加していないのだ。
そもそも、グラニッツ一族は何を目標にしてフラクタルシステムの破壊を目論んでいるのだろう? フラクタルシステムによって、誰かが犠牲になったり不幸に陥った、といった描写はどこにもない。むしろフラクタルシステムに見捨てられたことにより、医療サービスが受けられないなどの問題のほうが大きく取り上げられているように思える。フラクタルシステムによる洗脳の様子が客観的に見るといびつ、というだけであって、それ以上の問題はどこにも見当たらない。フラクタルシステムは理想的な未来のシステムで、どこに欠陥があるのかわからない。というより、本来物語の中で描かれるべきだった“目標・目的”がごっそり抜け落ちてしまっていた。あるのは妙に空々しく聞こえるスンダ・グラニッツによる“思想”だけである。スンニ・グラニッツが感情的になってまくし立てるだけの言論らしきものには何ら共感を得るものはなく、どこか青春のリビドーと社会思想を履き違えた時代遅れの左翼活動家の姿を連想させる。要するに、思想の核となる“中身”がないのだ(最終話でのスンダの台詞「世界がどうなったらいいかわからん」って、オイ!)。
「フラクタルシステムは何が問題だったのか?」もっとも重要と思えるこの命題を解説する努力を放棄し、見る側との意志の共有・共感を求めようともしない。そんな作品にどうやって感情移入せよというのだ。
物語とは一人の人格が変容を受け入れていく経緯が描かれていくものだが、それとは別に、一つの物語は一つの思想として独立するものである。社会あるいは人間のアイデンティティーはあらゆる情報・思考の集積によって構成されるものであり、物語はこのアイデンティティーの構築に絶大な影響力を持つことができる。
が、『フラクタル』が描く映像・思想の中には何一つ見る側を啓発するような発見はなかった。物語のほとんどは確かに役に立たないものであるが、時にその時代の社会意識を転覆させるだけの影響力を持つことができる。作り手の意識の革命は、実際社会の意識を止揚させ、その時代に大きな痕跡を残すことすらできる。時に社会をそれ以前・以後に振り分けてしまうくらいの力を持つ場合もある。しかし『フラクタル』には時代遅れの陳腐な経験主義があるだけで、今の時代に対して啓蒙するだけの力はなく、砂粒のごとく散乱する現代の意識のどこかに埋没するだけの弱々しい存在でしかなかった。
『フラクタル』はいったいどこを目指していたのか。そもそもそこが見えてこない。“構想”、それから“思想”の二つが欠如した作品だった。
本当の批評と向き合えますか?
傑作と呼ばれるものの条件の中に、『複雑さとシンプルさ』が同時に混在していることが挙げられる(他にも挙げるべきものはあるが今回は取り上げない)。複雑さとは作品を描く際におけるあらゆる描写に必要なものである。構造の複雑さ、描写の複雑さ、ミステリ小説ならばトリック描写の複雑さ……。作品は繊細で精密で複雑で猥雑で、いっそ複雑奇怪な有象無象の何かであればあるほどよい。
その一方で、作品の核であるテーゼ――物語作品であれば主人公の感情はシンプルに訴えかけてこなければならない。主人公はその場面でどうしてそう思ったか、結果的になぜその行動を選択したのか。主人公の感情、立場、行動を起こした理由・根拠は誰が見ても明快であればあるほどよい。
主人公とそれに相応する主要人物の感情は作品の複雑さの中に埋没してはならない。もし作品の複雑さと同じくらい主人公の感情も複雑怪奇で捉えどころのないものにしてしまうと、誰も物語について来られなくなる。作品がより複雑で奇怪なトリックの数々に張り巡らされていれば、シンプルに浮かび上がってくる主人公の感情はより強い情緒を持って読者に訴えかけてくるはずだ。それが現実世界で決して体験できない複雑さと特殊感情で満たされていれば、その作品は特別な存在として賞賛されるかもしれない。
逆に作品の構造がシンプルで、主人公の感情描写もやはりシンプルであると、批評でよく言われるような「作品の奥深さ」や「人物描写の重さ」を見出すことができず、安易な作品と誰も見向きされなくなってしまう。
読者は主人公の立場や感情の経緯をひたすら追いかけることによって、物語を読み解いていく。主人公やそれに相応する人物と一緒に怒ったり笑ったり泣いたりしながら物語を進めていくのである。主人公の立場に深く理解し、同情していくこと。主人公の感情が読者の感情を強く揺さぶり、動揺を与え、最後には感情的陶酔である“感動”を与えること。それこそ名作であることの条件であるし、この感動のないドラマが名作と呼ばれることは絶対にない。
登場人物の感情がいまいち理解できない、推し量れない作品に何ら魅力を感じないし、そんな作品をわざわざ手に取ろうという好事家も少数派だろう。訴えたい主義や主張が無駄に羅列した言葉の中に埋没して、何が言いたいかわからない本や批評が魅力的に思えないのも同じ理由だ。
映画における名作は、主人公の立場が特殊で、その物語の中にあまりにも深い奥行きを内包しているが、それでも物語の経緯を見失うことはない。複雑であるのに、誰が見ても明らかなシンプルさを持ち、特に主人公の感情はビビッドに訴えかけてくるものがある。それは作り手が傑作とは何であるかよく理解し、主人公の感情描写を注意深く描写し、それを見た読者がどう思うかをひたすら考え続けているからである。
『魔法少女まどか☆マギカ』はどうやらこの傑作の条件に当てはまりそうだ。
『魔法少女まどか☆マギカ』の主要登場人物はわずかに6人。しかしその関係は複雑で、物語の進行には常に謎が付きまとい、なかなか明かそうとしない。次の一手がどうなるかわからない緊張が常に作品に張り巡らされ、読み進めていくのが怖いくらいなのに誰もその手を止めようとしなかった。主人公や主要登場人物の立場は極めて特殊だったが、作り手は周到に登場人物の状況を説明し、シンプルに理解できるように心がけていた。結果としては読者はまどかやマミ、さやかの感情に強く潜りこんで行き、作品と一体となって物語を追跡するようになっていった。物語の感情曲線は第9話から真相が明かされる10話において一度クライマックスを迎えるが、読者の感情も同様に極まっていった。
特に第10話「もう誰にも頼らない」は繊細に取り扱うべきエピソードである。第9話までに解説された全てがなければ第10話は深く理解できないし、それ以上に遅いと物語の感情はあまり効果を持たなくなる。物語の背景にある謎が10話に至るまでに順当に解説されていなければならない。『魔法少女まどか☆マギカ』を構成する要素は決して単純ではないし、むしろ複雑で読者が理解しなければならない特殊用語・特殊設定もそこそこに多いが、第10話まで追いかけていけば問題なく理解できるように構成されている。物語全体の力点がどこにあるのか作り手がよく理解したうえで、几帳面なくらいの繊細さで構成していったことがよくわかる。これが『フラクタル』との違いであり、『魔法少女まどか☆マギカ』が多くの人々に賞賛される理由である。
第7話ラストシーン。シルエットで描かれた戦闘シーン。余計なディティールを省いたことにより、ダイナミックな動きが強調された。真っ暗闇の中、極端に大きく描かれた目や口が印象的だ。が、これを見たいわゆる作画厨と呼ばれる連中は「手抜き」とこき下ろした。少しでも絵描きの素養のある人間ならば即座に気付くが、このシルエット画は一度ディティールを描いた上で真っ黒に塗りつぶしている。まったく手抜きではない。コントラストを調整するとわかるが、完全なシルエットではなく黒の濃度にも段階が付いているので、色指定も仕上げも楽ではない。「作画厨」と呼ばれる一団が実は基本的な教養がないことが暴露された瞬間である(作画厨はアニメ批評ブログを書いている人に多いようだ。誰とは言わないが)。
完全なるオリジナルストーリーを映像で描こうという人はすっかり少なくなった。アニメの制作には莫大なお金がかかるし、製作会社は原作なし、というリスクを恐れるようになった。それ以前にオリジナルストーリーを描こうというモチベーションを持った人が業界に少なく、少数ながらオリジナルストーリーを制作しようという試みはあるものの、もしかすると物語を構築するためのノウハウを持っている人は今のアニメ業界にいないのかも知れない。『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』『閃光のナイトレイ』……最近制作されたオリジナルストーリーはどれも後半に進むにつれてボロボロに崩れていった。漫画のカットを映像の上で再現するだけのアニメを作り続けたせいなのか、それはよくわからないし、その究明は現場にいる人たちで行うべきであろう。ここで何かを提示できたとしても、制作の現場に何ら影響力を持つことはできない。
そんな中にあって(そんな状況だからなのか)シャフトが仕掛けたオリジナルアニメーションの挑戦は、奇跡の輝きを放っている。『魔法少女まどか☆マギカ』は成功はアニメ史における少し大きな史跡として記録され語り継がれるだろう。そして新房昭之の名前は、その時代における多くのアニメ監督の一人ではなく、時代を代表する最高の監督として残されるだろう。
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公式ホームページ
■2011/04/12 (Tue)
シリーズアニメ■
ある穏やかな春の朝のことだった。空には雲ひとつないすっきりした青空が広がっている。風が暖かくて、冬の寒さはもう遠くに去ってしまったように思われた。
でも長野原みおの気分は沈みがちで、自分の胸を押さえつつ何度もため息をこぼしていた。
そんなみおの後ろ姿を見つけて、相生裕子――ゆっこが駆け寄る。
「みおちゃーん。スラマッパギ~」
ゆっこは手を軽くあげて、元気に声をかけた。
みおは憂鬱そうな顔をしていたけど、ゆっこの顔を見つけて少し明るい顔を浮かべた。
「ああ、ゆっこ。おはよう」
やはり憂鬱さを引きずっているように、沈んだ挨拶を返す。
――あれ? スラマッパギ素通り?
拳を思い切り振り上げたのに、みっともなく空振りしたような気分で、それでもゆっこはできるだけ気持ちを引きずらずにみおの右隣に並んで歩き始めた。
「どうしよう。学生証付け忘れて来たよ」
みおが再び左胸を気になるように押さえはじめた。
「そういう時は、私は3年生だ~って言っちゃえばいいんじゃない」
ゆっこはさっきの気まずさなど早々に忘れて、元気な声で提案した。
「なんの解決にもなってないじゃん」
軽く非難するように、みおが不満な声を上げる。
とその時、どこかで低く唸る音がした。ゆるい振動が足元を駆け抜けていく。
「なに? 雷? 晴れてるのに」
みおが足を止めて、顔を緊張でこわばらせていた。
ゆっこも足を止めた。でもからかう調子で軽く、
「いきなり降ってくるかもよ。夕立とか、雹とか……」
ガツンッ
衝撃的だった。重いショックが頭の上に落ち、痛みが首を通して全身に凄まじい速度で駆け巡っていく。
しかしそれは、ゆっこの頭にぶつかったおかげで勢いをなくし、カランカランと軽い音を立てながら足元に転がった。
こけしだった。
「……こけしが、降ってきた」
ゆっこは愕然と呟いた。
「大丈夫、ゆっこ?」
「うう、まさかのこけしだよ」
痛みとショックで、ゆっこは今にも泣き出しそうな声を漏らした。
「びっくりした。どっから落ちてきたんだろう」
みおがしゃがみこんで、不思議そうにこけしを拾う。
「わかんないよ~」
とゆっこは泣き出しそうな声で訴えるけど、すぐに気分を改めて笑顔を浮かべた。
「でも、人生の中でこけしに当たるなんてなかなかないからね。滅多にないでしょ、そんな人」
ゆっこは元気に喋りながら歩き始める。
「まずいないよ」
みおはまだショックから逃れられないように顔をこわばらせていた。
「逆についているかも……」
ズゴッ
強烈だった。でもそれは、やはりゆっこの頭にぶつかったおかげで勢いをなくし、カランカランと軽い音を立てながらゆっこの足元に転がった。
赤べこだった。
ゆっこは愕然と膝を着き、アスファルトの地面をつかんでうなだれた。
「ついてねぇ……」
絶望がひしひしと伝わってくる暗い声だった。
「ゆっこ大丈夫?」
みおが片膝を着いて、うなだれるゆっこを覗き込もうとする。
「まさかの赤べこだよ……」
それでもゆっこは、気丈にも立ち上がり、再び歩きはじめた。みおは地面に落ちている赤べこを拾い、ゆっこと並んで歩く。
「違う。ついてないんじゃない」
ゆっこは無理に気分をまくしたてるように、半ばやけっぱちの声で主張を始めた。
「こう考えればいいんだよ、みおちゃん。当たったものが生ものじゃなくて良かったって。そう考えれば不幸中の幸いって……」
ぺしょ。
一瞬、世界が色を失くしたように思えた。
痛くはなかった。痛くはなかったけど、それは物凄い勢いでゆっこの頭にぶつかってそのままの張り付き、それきり人としての尊厳とかその他もろもろの何かを奪い去って、どこか真っ白な知らないどこかに連れ去ってしまうかのように思えた。
ゆっこは茫然とした気分のまま、自分の頭の上に手を伸ばし、それを掴んで目の前まで持ってきた。
「……シャケだー!」
ゆっこは意味もわからず、叫んでいた。
『日常』その表題が示すように、この物語には血肉が踊りそうな冒険もなければ遠大な思想もなく、ビビッドな感情が交差しそうな恋物語もない。ただただ『日常』の一コマ一コマがそこにあるだけだ。
そんな気の抜けそうな作品にも関わらず、京都アニメーションは意味のわからないところで無駄な感性の高さと技術の強さをこれでもかと映像の中に注ぎ込み、『日常』の物語を見逃すべきではない一つの映像作品へと昇華させている。
まず左のカット。物語の冒頭、意味もなく唐突に爆発が描かれる。わずか6秒数コマ。にも関わらず、ロングで描かれた町並みを完全なデジタルで描いている。町を描くということは、描くこと自体の大変さとそれに支払う時間に関わらず、理不尽に安っぽく見做され、大抵の場合、無関心に素通りされてしまう。町の描写は簡単に描くとただの箱と見做されてしまうし、こだわりすぎてしまうと膨大に時間を奪い取られ、仕事として割が合わなくなってしまう。ただの箱と思われるとむしろそこが際立って作品そのものが安く見られるし、逆にきちんと描かれていても、それ自体当たり前だと思われているので誰も特別な関心を見せようとはしない。そんな宿命を背負ったロングでの町並みを、しかも尺にしてたったの6秒のシーンを、全面デジタルで描く。おそらく気付く人は少数だろうに、そんな場面であっても決して手を抜かず、技術の高さを惜しみなく投入する。もちろん手書きで描かれた爆発エフェクトのディティールも注目すべきポイントである。
なんともいえず、素敵な作品である。この一瞬だけで、アニメ『日常』を特別な作品として注目すべきものに仕上げてしまっている。
対象を中心に捉えながら周囲が動いているのは、対象をカメラの中心にぴったりと固定しつつ、カメラをPANさせている状態を想定しているためである。こうすると、画面はフィックス状態で静止しているように見えるのに、周囲の風景が移動しているような映像が作れる。アクションの最中での台詞など、そのシーンが持っている移動感を殺さずフィックスの画面を作りたい時などに利用できる技法である。
次も爆発シーンの続き。
映像としては一瞬だが、凄まじいディティールで描かれている。アニメで爆発を描く場合は、ロングで爆発の泡が広がっていく様子を描き、その大きさで威力の強弱を表現するというやり方がセオリーである。ここまでカメラを低く設置し、爆発の威力を有り体に描写するケースは珍しいし、確実にその効果を上げている。
左のカットは爆発の衝撃が真っ白な津波のような表現でカメラ正面に飛びついてくるように描かれている。はっとするような瞬間を描いているが、その周囲を飛び交うのは場違いに思える奇妙な物体ばかりで、爆発の恐ろしさはどこにもなく、衝撃をむしろシュールな笑いに変えている。
背景は一昔前のアニメで描かれがちだった平面的で記号的な描写をあえて取り入れている。うっかりすると平凡に取られがちな描写だけど、よくよく見るとあちこちに作り手による遊び心とネタ仕込が大量に張り巡らされている。ニコニコ動画で視聴している人は、ぜひコメントなしでその一つ一つを確かめながら見てもらいたい。この作品を見る場合のもう一つの楽しみになるはずだ。
最後に食べるはずだったタコさんウインナーを落とし、それを拾おうとゆっこが覚醒モードを発動する。現実的な時間としてはわずか数秒……「3秒ルゥール」という台詞があるから、おそらく3秒以内のできごとを数分という壮大な尺度に引き伸ばし、ドラマチックな瞬間の数々に仕上げている。
わずか数分だが、あらゆる作画技術が惜しみなく投入された素晴らしいシーンである。左のカットはタコさんウィンナーを目指して疾走するゆっこ。足の動きがラフな線で捉えられている。これはその通り足の動きを一定の規則性を持ったラフな線を描いて仕上げられる。ただし、鉛筆の線は一定の濃さを維持しなければならず(原則として線の濃さに強弱があってはならない)、ラフに書かれた勢いは、線の流れだけで描かなければならない。原画マンはのびのびとその場面の持っている力強さを描けるが、トレスして仕上げる動画マンはやや緊張する動画である。
ラフに描かれた線は、形さえ繋がっていれば正確に中割りする必要はないし、そもそも原理的に中割り不可能である。だが、時々ラフに放り出された線の一つ一つをコンピューター並みの精密さで中割りしてしまう神業の持ち主が現れる。あまりに正確すぎる動画ができあがってしまうと、残念だがリテイクの原因となって返ってきてしまうので注意したい。
アイキャッチの前後に小ネタが挟まれる。【起→結】くらいの勢いで展開するのだが、ここは物語のリズムを作るためのものなので、むしろ短くていいだろう。小さなネタを散りばめた作品のいいクッションになっている。
物語の合間合間に挿入されるショートショート。それまでのシーンと比べて線や色彩などが変更され、はっきりと違うシーンであることが意識されている。
この場面では、おそらくトレスに筆ペンを使用し、意図できない不規則さとやらわらかさが出るように表現しようとしたのだろう。色塗り分けには2つの方法がある。1つは筆ペンでトレスした同じ動画用紙に色トレスで塗りわけ線を描く方法。もう1つは別の動画用紙を用意し、塗り分け指示だけを描く方法である。仕上げスタッフはこの2つの方法のいずれかを参考に塗り分け作業を行う。どちらの方法を採用しても動画作業はひと手間多くなるし、後者の方法の場合は使用する動画枚数が増えてそのぶん予算にかかってきてしまう。
見る側には大変さのほとんどは伝わらないが、それでも作り手は決して表現に手を抜いてはならない。作り手の苦労なんて1%くらいしか伝わらず、その一方で見る側の好みに合わないと「手抜きだ!手抜きだ!」の理不尽な大合唱が始まる――それがアニメ制作の宿命なのである。
『日常』で描かれる日常はどちらかといえば超現実的な異空間である。不思議な感性を持った人々に、現実的な演劇を無視し跳躍した描写の数々、そして画面のあちこちに張り巡らされたシュールな笑い。しかし映像が主旨しているのは、奇妙に思えるくらいゆったりと落ち着いた日常という毎日であり、その日常の中で繰り広げられる何でもない一コマ一コマである。不思議な描写の数々が特別は激しさや恐ろしさを持つことはなく、ゆったりとした展開の中で淡々とした静けさを湛えながら描かれ、なだらかに満たされる背景音楽とともに過ぎ去ってしまう。
我々にとっては超現時的な異空間だが、しかし不安に思うことない。登場人物たちにとってはあの日々は、飽くまでも「日常」なのだ。
その一方で、『日常』の映像は素晴らしい力強さで描写される瞬間がある。第1話においてはゆっこがタコさんウインナーを手に入れるために格闘を繰り広げるあの瞬間である(第2話ではノートを巡る走り)。作り手はあのほんの数分のために不条理とも思える技術と労力を投入しているが、我々が受け取る印象は圧倒される技術力でも美術的な感性でもなく――笑いである。ゆっこがタコさんウインナーに手を伸ばす瞬間、映像はかつてない劇的なクライマックスを描く――しかし作り手がその表現手法にこだわりを込めれれば込めるほどに、我々は唖然と力の抜けた奇妙な笑いを漏らすのである。
圧倒するような技術をほんの一瞬の笑いのために。その制作上の“理不尽”こそが、『日常』という作品に内包された“理不尽”な笑いを効果的に盛り上げている。
『日常』という作品と接していると、ふとスタジオジブリ制作の『となりの山田くん』を思い出す。『となりの山田くん』はそれまでのジブリ作品が描いてきた精緻な芸術的描写を敢えて放棄し、「絵が動くアニメ本来の面白さ」に立ち返った作品だった。その意図は間違いなく成功し、『となりの山田くん』は単純な線画でありながら、動くこと自体のプリミティブな面白さを目一杯詰め込んだ作品となった。
が、そのメッセージは見る側にはまるで伝わらず、「手抜きアニメ」の非難を浴び、興行成績はそれまでジブリが経験したことのない勢いで大敗(実は『となりのトトロ』よりは稼いでいるが、『もののけ姫』との落差が凄まじかった)。監督の高畑勲はその後、10数年にわたりアニメ監督をやるチャンスを喪った。
だが、実は『となりの山田くん』は当時最先端だったデジタル技術を投入して制作された作品だった。それまで困難だった曖昧な線を取り込む技術を開発し、やわらかな絵として仕上げるための手法を考案し、その果てにようやく完成した映像だったのだ。制作費はその2年前に公開された超大作『もののけ姫』を越え(ほとんどパソコン導入のための予算だが)、そもそも作画枚数の多いジブリ作品の中にあって空前の作画枚数を記録した。また『となりの山田くん』は、アニメはカーボン転写したセルアニメでなければならないという定石を打ち破り、表現そのものへの可能性を開拓した作品だった。
アニメ制作の苦労は、1%でも見る側に伝わればいいほう。『となりの山田くん』のために支払った苦労を理解できたのは本当にごく少数――それも技術に関心を持った人や、アニメの現場を経験した人たちだけであった。
あれから12年の時が流れた。『日常』はふとすると、「手抜き」と蹴り落とされそうな作品である。それも、線の密度こそが作品を支える絶対的なクオリティと信じる狂信的なアニメファンほど嫌いそうな作品である。
ざっくりと省略された線、奥行きを切り落としたパースティクティブ、単純化した平面的な演劇、記号的な書割のような背景、そしてあまり可愛くないキャラクター(『ハルヒ』や『らき☆すた』と比べて)――。しかしそれは、充分に発達した技術的な裏打ちがあり、さらに京都アニメーションならではの繊細な動画作りの感性あってこそ達成し得たものである。むしろ技術を持っているからこその「遊び」が『日常』という作品における醍醐味となっている。
思えば『となりの山田くん』は真面目すぎたのかもしれない。映画館という場所は、日本人にとって厳粛な場所である。映画館という場所に入ると、多くの鑑賞者は黙って映像を睨みつけ、真っ暗闇の全てを削ぎ落とした空間の中で、目の前に映し出される作品とだけ対峙する。そんな厳粛さと『となりの山田くん』は噛み合わなかったのかも知れない。
その一方、『日常』はシュールなギャグやニコニコ動画といった場所が作品の味方をするかも知れない。笑いは見る側の緊張と警戒感を解きほぐし、ニコニコ動画の騒々しさはあらゆる厳粛さを放棄させてしまう。
果たして『日常』はどのように受け入れられていくのだろう。すべての作品が黒字になればいい。それは作り手を含めた全てのアニメユーザーの願いである。『日常』が作り手から解き放たれた時、見る側・受け手はどのような印象を抱き、作品はどのように変貌していくのか。おそらく『日常』は、通常の作品のようにその作品だけで独立し自己完結せず、作り手だけではなく多くの受け手側の意識や印象や時に意識的な改変に作られた膨大な二次創作の全てを内包し、ようやく一つの作品として完結するだろう。その最終的な局面において、『日常』がどのような姿を見せるのか。きっと作り手の想像もしない方向へ飛躍した作品になっているだろう。しかしそんなシュールな状況すらも、『日常』という作品の内包する一つの感性として受け入れられ、語られていくだろう。
この作品は深夜放送であり、ニコニコ動画で配信される作品である。『日常』に限らず、多くのアニメーションがニコニコ動画に集まってきている。『花咲くいろは』(←私の住んでいる地域ではテレビ放送しないらしい)『シュタインズ・ゲート』『そふてにっ』『30歳の保健体育』そしてまだ完了していない『魔法少女まどか☆マギカ』。
ニコニコ動画では主力コンテンツとして注目を浴びる一方、テレビ放送ではテレビ欄の隅っこのほうで省略して書かれる深夜放送である。これはもはや、テレビの敗北と言うべきだろう。
例えば『けいおん!』はゴールデンタイムで放送すれば、テレビ局は最近経験したことのない数値の視聴率と、莫大な広告費を得ただろう。しかしテレビはそのチャンスをものの見事に逃してしまった。特に『けいおん!』は、第1期の成功の1年後、第2期の放送があったのにも関わらずにだ。テレビはいまだに『冬のソナタ』の成功体験を忘れられず(言うほど成功していないと思うのだが)、新しい韓国俳優を発掘し、大々的に韓国ドラマの放送を宣伝すれば全ての視聴者の関心を取り戻せると信じている。まるで宗教だ。
しかしテレビの仕事に従事しているほとんどの人たちは、自分たちが大きなチャンスを取り逃していることに気付いていないだろう。アニメという文化そのものを、何か特殊で異常な性癖を持った人たちによるいびつな何かに貶め、大衆的な場面から深夜という隅っこに追いやってしまった。それでいて、自分たちこそが大衆文化の中心で、日本中の関心がテレビに釘付けできるという――いや釘付けにできていると信じている。おそらく彼らの脳内で、厳しい鎖国制度ができあがり、周囲に関心が向けられないのだろう。自分たちの領域からさほど遠くないコミュニティで、どんな変化が起き、新しい社会性が作られているのか。テレビはその全てを知らず、いや何かしらの変化を察知しているからこそ大慌てでレッテル張りをしてアニメを深夜に追い込み、「良心は自分たち」であり、彼らは「異端」であるという印象をより多くの人たちの共通意識にしようとしている。
だからテレビはチャンスを失い、ニコニコ動画がチャンスを得た。もっとも魅力的なコンテンツはテレビからインターネットに移された。まだアニメのいくつかは深夜枠を借りているが、間借りしているだけに過ぎない。遠からず、アニメはテレビを捨てるだろう。アニメユーザーはすでにテレビへの興味をほとんど失っている。もはやアニメユーザーがテレビを捨てるが先か、アニメ業界がテレビを捨てるが先か、といったところまで来ている。
いっそテレビはこのまま鎖国してくれればいい。テレビはとっくに妄言と狂信を振りまくだけの場所になっている(テレビは常に「ネットは嘘ばかりで信用ができない」と喧伝するが、テレビのほうがよっぽど信用できない。テレビは嘘を吐き散らかす病的な媒体になりつつある)。鎖国して永久にこちらの存在を認知せず、テレビがお気に入りの芸能人のスキャンダルだけを追い回してさえいればいい。そして自分たちが“今も”大衆文化の中心だ、という夢を見続けていつのまにか消えてなくなる。テレビにはそれがお似合いだろう。
「日常」 公式ホームページ
作品データ
監督:石原立也 原作・構成協力:あらゐけいいち
副監督:石立太一 シリーズ構成:花田十輝 キャラクターデザイン・総作画監督:西屋太志
色彩設計:宮田佳奈 設定:高橋博行 編集:重村建吾(楽音舎)
美術監督:鵜ノ口穣二 撮影監督:高尾一也 音響監督:鶴岡陽太(楽音舎)
音楽:野見祐二 音楽プロデューサー:斎藤滋(ランティス)
音響制作:楽音舎 音楽制作:ランティス プロデューサー:伊藤敦・八田英明
アニメーション制作:京都アニメーション
出演:本多真梨子 相沢舞 富樫美鈴 今野宏美 古谷静佳
○ 白石稔 堀川千華 川原慶久 山本和臣 平松広和
○ 小林元子 吉崎亮太 廣坂愛 比上孝浩 玉置陽子
○ 樋口結美 佐土原かおり 山口浩太 小菅真美 稲田徹
○ 水原薫 チョー 中博史 皆口裕子
■2011/03/08 (Tue)
ゲーム■
2月の半ばに入った頃だった。私もネット予約に敗北し、発売日にニンテンドー3DSを手に入れるのは無理か、と諦めていたのだが、ふと何気なく近所のゲームショップに出かけると「ニンテンドー3DS予約受付中」の張り紙があった。さっそく店に入り、店員に聞いてみる。
「ニンテンドー3DSの予約受付まだやっていますか?」
「ええ、まだやっていますよ」
「発売日に手に入りますか」
「予約されたら確実に手に入ります」
というわけで、何の苦労もなく発売日にニンテンドー3DSを手に入れた。ネットが駄目ならば、リアル店舗を訪ねてみるべきかもしれない。どうしても手に入らない、と思っていた貴重な品も、案外簡単に手に入るかもしれない(予約なしでも買えたらしい)。転売屋に天誅!
発売日に同時購入したロンチタイトルは次の3本。
『Nintendogs+cats&Newフレンズ』
『スーパーストリートファイター4 3D』
『リッジレーサー3D』
本当なら、一つ一つのソフトを取り上げて詳しく記事を書きたいところだが、一本一本をしっかりプレイする時間もなく、記事にする時間もないので、短く要約して書きたい。
『ARゲームズ』
本機にあらかじめプリセットされたゲームの中でも期待していた作品。「マトあて」「タマつき」「つり」「らくがき」「キャラさつえい」「Miiさつえい」の6種類のゲームが遊べる。「マトあて」「タマつき」は回り込んだり覗き込んだり、携帯ゲームなのに全身を使ったアクティブな遊びが極めて新鮮。ゲームとしては難易度が低く、ショートゲームといった感じなので、やりこむ深度は浅い。
「キャラさつえい」は有名な任天堂キャラクターを現実空間の中に出現させ、3Dカメラによる撮影ができる。おそらくこれは、新しいカードやデータの更新などで、様々なキャラクターを登場させられるのではないかと思う。アニメキャラクターなども登場させられるはずなので、キャラクタービジネスにとって新しいチャンスだろう。とりあえず、『ラププラス3D』はこのARカードを利用した何かをやってくれるはずだ。
『顔シューティング』
こちらも本機にあらかじめプリセットされているゲーム。顔写真を取り込み、それをゲーム中の敵にして遊ぶゲームである(ちゃんと目と口を認識するので、笑ったり怒ったりといった表情を作ったりする)。このゲームはジャイロセンサーが利用され、プレイヤーは立ちあがって360度、上や下に本機を向けて敵を探し、撃破していかなければならない。周りに何もない場所を探してプレイすることをお勧めする。難易度は決して高くないものの、ちゃんと攻略法を考えないとクリアできないようになっており(ミニゲームだが、ここはさすが任天堂)、それにかなり運動になる。連続で3ステージほど遊んだが、それだけでも息が上がってしまった。ちょっとしたダイエットになりそうなゲームである。新しい顔写真を取り込めば次のステージに進めるというルールなので、さっそく家族全員の顔写真を撮らせてもらった。ちなみに、撮影対象は別に人間である必要はないらしい。
こちらはなかなか楽しいゲームで、しばし夢中になってプレイした。
余談だが、バイオハザードシリーズは絶対にこのジャイロセンサーを採用するに違いない、と思っていたが予想が外れてしまった。ニンテンドー3DS本機を前後左右に動かし、ゾンビがどこから迫ってくるかわからない、というゲームだったら面白いと思っていたのだが。
『Nintendogs+cats&Newフレンズ』
想像以上にふわふわである。3D表示にすると、子犬の顔の凹凸もはっきりと識別できるくらいちゃんと立体に見える。ただし、子犬の3Dモデリングの完成度に比べて、部屋内部のディティールはあっさりしている。
Nintendogs+cats&Newフレンズは一日のうちにできる内容が限定されており、長時間遊べば遊ぶほど何か得になるゲームではない。毎日少しずつ、まったりと子犬と仔猫との一時を楽しむゲームである。
たぶんヘビーユーザーには向かないゲームだと思うが、忙しい合間にちょっと遊びたい人、あるいはふわふわした子犬や仔猫と遊びたい人にはお勧めだ。ちなみにゲームをはじめて最初は子犬しか選択できず、仔猫を得るのは数日間のゲームプレイが必要だ(長時間プレイしても、ゲームがある程度以上進行し過ぎないように設計されてる)。
ところで個人的な話だが、現在私は仕事が忙しく、ゲームで遊ぶ時間がなかなか取れない。『Nintendogs+cats&Newフレンズ』を数日間放置し、久しぶりにプレイしたら、喉はカラカラ、お腹がすいてやせ細った愛犬の姿が……。妙なところでリアルなゲームである。毎日少しずつでも様子を見なくてはならないようだ(時間がないのに、いったいどうしろと……)。
『スーパーストリートファイター4 3D』
私が格闘ゲームをプレイするのは『ストゼロ』以来である。久しぶりに格闘ゲームを手にしたわけだが――波動拳が出せなくなっていた。昇竜拳などはたまにまぐれで出る程度。まず波動拳の練習からはじめなければならず、アーケードモードもいまだ最弱難易度から抜け出せない。例によって、親指の腹を真っ赤に腫らせているところだ。
というわけで、当然、他機種版の『ストリートファイター4』をプレイしておらず、比較記事などは書けるわけないので、ここではなくヘビーユーザーによる記事を参考にするべきだろう(対戦相手になってくれる人もいないし)。
プレイ動画などで見かけたものより、背景のディティールが減少したように見える(これについては後述する)
『リッジレーサー3D』
リッジレーサーシリーズをプレイするのは、多分『リッジレーサー2』以来。というわけで、こちらもシリーズを統括した詳しい記事を書くことはできない。ヘビーユーザーの記事を参考したほうがいいだろう。ゲーム自体は非常に楽しく、グランプリモードのEVENT2以降は3Dを意識した高低差の極端に激しいコースが中心となり、アトラクション的な楽しみが加わってくる。ただ、ややポリ欠けの多さが気になるところだ。
ゲーム批評ではないが、リッジレーサーを遊ぶ際には視点変更し、主観視点にすることをお勧めする。あの臨場感は2Dゲーム機では絶対に体験できない。3Dゲーム機ならではの特権だ。
某ネット記事(ニコニコニュース:レースゲームの醍醐味が3Dによって昇華された!『リッジレーサー3D』インプレッション)に、「コーナーをドリフトする瞬間、振動演出が加わり、3D効果が薄れる」と書かれていたが、これは多分、ニンテンドー3DS本機を左右に傾けてしまったたためだろう。ゲームプレイ中、緊張してボタンを押しているとゲーム機を左右に傾けてしまうことがよくある。確かにゲームプレイ中、ついつい左右に傾けてしまう瞬間はあるものの、落ち着いてまっすぐに構えてゲームプレイすれば「ドリフトの瞬間に3D効果が薄れる」ということはまずない。ちなみに「振動演出」は多分、ニトロエンジンのことだろう。プレイし始めて最初の頃、カーブを曲がるときにL・Rボタンを押してしまうのだ。後で少し触れるが、ニンテンドー3DSの3D表現は、左右方向からの視角に極端に弱いという弱点を持っている。
ちなみに今回購入した3本の中で、『リッジレーサー3D』が一番のお気に入りだ。「映像が美しくない」という不評が多く(美しくないのは事実だし、3Dによる立体感もいまいち)、確かにポリ欠けなど引っかかるところは多いものの、実際に3本通してプレイしてみると『リッジレーサー』が一番面白かった。
「ゲームは3Dを獲得することで、確実にその性質を変化させる」と私は考えている。ゲームはポリゴン技術を獲得したことによって、ゲーム中世界を立体的に表現することを可能とし、さらにゲーム機自体の表現能力の向上、あるいは作家の表現手法・方法の進歩によって、より複雑で濃密な別世界へと直裁的にプレイヤーを引き込む力を得た。ポリゴンを得ることによって、それまで平面状の座標軸を操作させるだけのゲームから、作家が意図した完全な別世界の中をキャラクターが自由に走り、戦い、空を飛ぶスペースへとゲームを進化させた。ポリゴンによる立体表現は、明らかにゲームの次元を一段階止揚させたのである。
しかしその一方で、ゲームは一つのジレンマに悩ませることになったのである。“距離感”である。
例えば、目の前に立っているゾンビはあと何歩で自分と接触するのか、あと数歩の距離にあるはず穴は実際どれくらいの距離なのか。主観視点によるゲームは特にこの“距離感”による問題に捉われ続けた。現実問題ならば何ら問題にならないごく当たり前の“距離感”の認識に対して、ゲームプレイヤーはひどく困惑し、ゾンビの接近を正確に推し量ることができず無防備にその牙と爪によってズタズタにされ、あるいは目の前にある穴に間抜けに片足を突っ込んでしまっていた。
ポリゴンによる立体表現は、むしろゲームプレイを犠牲にしている。ゲームの映像表現がどんなに優れた技術と感性で進化し、無限と思える奥行きを獲得しても、結局はカメラを操作し古典的な横スクロールの視点に固定した上でゲームを進行させている。
なぜそうなってしまうのか。それは表現上はどんなに立体的であっても、最終的にアウトプットされる映像は2次元でしかないからだ。
例えば映画にありがちな場面だが、俳優の2人が向き合って殴りあう場面があるとする。大抵の場合、カメラは殴る側の背後に回り、殴られる俳優の顔面を捉える。そして、一方が殴り、もう一方が殴られた振りをして吹っ飛ぶ。この時、もちろん俳優の拳は当たっていない。最低でも20センチ。50センチ近くも離れている場合もあるという。最近のアクション映画の格闘シーンは、俳優の動きもカメラの動きも非常に複雑になっているが、この原則は今も変わっていない。どんなアクション映画でも、カメラはこれから殴ろうとする俳優の背後に素早く視点を移動し、相手俳優は殴られた振りをして吹っ飛ぶ。
なぜそんなふうに見えてしまうのか。それは最終的にアウトプットされる画面が2次元だからだ。2次元だから距離が圧縮され、20センチや50センチといった距離を感じさせなくしてしまう。
ゲームにおいてもこの原則は一緒だからこそ、大きなジレンマであった。ただ映像を鑑賞するだけならば、俳優同士の距離感など気にせずとも楽しめるのだが(というか気付かない場合がほとんど)、ゲームとしてある仮想3次元空間を移動したり敵と戦ったりする場合は“距離感が圧縮される”ことが大きな障害になってしまう。距離感が圧縮されてしまうから、間もなく迫ってくるカーブのタイミングを正確につかめず、あるいは届くと思って振りかざした剣が敵に当たらず空振りしてしまう(『ゼルダの伝説 時のオカリナ』敵に当てるつもりで剣を振ったもののなかなか当たらず、ジャンプ切りしたら敵本体に接触してダメージ……みんな一度はやったはずだ)。
ゲームの作り手は、“距離感が圧縮される”現象の前に苦闘し、その打開策として、概ね2つの方法を採用してきた。カメラの高さをキャラクターからやや離れて上方から捉えるか、あるいは世界をポリゴンで構築する一方、ゲームの進行自体は古典的な横スクロールの形式を採用するかの2つだ。
だがニンテンドー3DSは、あからさまな立体を描くことで、これまで困難であった“2次元変換された立体空間”への認識を感動的なまでに容易にしてくれた。我々はもう、作り手が複雑に構成した立体空間を前にしても困惑することもないだろう。どこが出っ張っていてどこが引っ込んでいるか、ポリンゴンに貼り付けられたテクスチャー(むしろ邪魔な陰影表現)に惑わされて、「この壁は果たして上れるのだろうか?」などと悩む必要はなくなった(と思う)。これまでは向かってくる敵の攻撃を大げさにキャラクターをのけぞらせて避けていたものが、3Dディスプレイなら動きを最小限にし、敵の剣をすんででかわし、反撃に転じる、というようなゲームプレイも玄人でなくてもできるようになるかもしれない。3Dディスプレイの採用は、ゲームのビジュアルに華を添えるだけではなく、ゲームキャラクターに実在感を与えるだけでもなく、それ以上にゲームプレイにおいて革命的な変化を与える。ゲームの攻略それ自体に影響を与えられるのだ。
ここ十数年、ゲームは同じ思考方法を延長させ、ひたすらビジュアルだけを進化させてきた。それは間違いなくゲームをゴージャスにさせてきたが、批判的に捉えれば、それは決定的な変化とは言い切れなかった。ゲームという構造を何一つ変える力はそこになく、ビジュアルがゴージャスなゲームは、本質的な変化も革命も止揚も引き起こさなかった。
だが我々はニンテンドー3DSにおいて、あからさまな変化を目にした。ニンテンドー3DSというゲーム機によって、ゲームの本質は確実に変わるのである。
批判的な意見も多いが、私は映像における3Dを肯定的に捉えている。
映画と技術は決して切り離せない関係で結ばれている。いや映画の本質は技術である、と言い換えてもいい。口うるさい大批評家様の意見によれば「映画の本質は、脚本の素晴らしさと俳優の演技、それが芸術的な感性で結ばれたときだ」と語るだろう。それは間違ってはいないし、反対する気もない。しかしそれは、ソフト制作的な面での話であって、ハード的な側面を一切無視している。映画を決定的に変化させるのは、あくまでもハード的な側面で革命を起こした時なのだ。
例えば、映画がトーキーになり肉声を獲得し、テクニカラーが採用され自然の風景が画面上に再現され、カメラがクレーンと結びつき構図はよりダイナミックに縦横無尽に動くようになり、次にデジタルの導入で、超現実的なキャラクターと生身の俳優を競演させることに成功した。最近の映画の傑作である『アバター』や『ロード・オブ・ザ・リング』などは、どちらも数年早いと決して作ることはできなかった。技術という地平が少しずつ物語に追いつくことで、あの驚くようなビジュアルが実現したのである。
口うるさい大批評家様は、いつも無邪気にこう連呼する。「もっと新しい作品を!もっと斬新な作品を!」「最近の作品はどれも似たり寄ったりだ!」。
黙れ、と言いたくなる。新しい発想や才能がそう簡単に見つかるはずもない。見つからないこそ、作り手は苦労して「これこそは!」という題材を必死に探しているのだ。という以前に、“同じ人間である限り、どんなに国籍や人種が変わろうとそこに共通する精神構造が見出され、それらが考え、作り出そうとする創作物にはどこかしらに共通する構造が必ず見出される”のである。つまり本当に斬新な物語を目にしたいのであったら、自分努力で宇宙に出て火星人でも連れて来い、とう話である。
だからこそ技術的な平面を一段止揚させ、映画の印象を変えつつ同じ映画を作る(技術的な本質を変えつつ、同じものを作る)ことは、新しい映画を提供するという方法論に間違いはない。例えば(技術的な)エポックメイキングと賞賛される『アバター』などは、ストーリーだけを抜き出すと、似たような映画を過去作品のインデックスの中からいくらでも見出せる。映画という括りを外し、小説、民話、神話といった範疇から似たような構造、アイデアを持った作品を探せば、信じられないくらいたくさん見つかるだろう(どんな物語も、別の物語と比較するとどこかに必ず共通点が見出される。そんな当たり前の事実を知らず、ほんの少しの類似を見つけ出しては「パクリだ!謝罪しろ!」と大騒ぎする大批評家様は自ら無知を表明しているようなものだ)。絶対的唯一の個性を求めるなど、高望みでしかないのだ。そういうものは人間ではなく神様に求めておくれ(最近は神様の創造物にも「マンネリかな?」と思うようにすらなってきたが。南米奥地の希少性の高いトカゲを見ても「似たようなデザインをどこかで見たな……」という印象しかなくなってしまった。神様の創造物に驚くことがなくなってしまった)。
と長い前置きを書きながら、私は全ての映画を3D化するべきとも思っていない。特に過去作品の映画を3D化することはあまりにも愚かしい行為である。
というのも3D以前の映画の全ては、平面で表現することを前提としたトリック映画だからだ。
例えば先にあげた俳優同士の殴り合いのシーン。20~50センチ離れてもパンチが当たったように見えるのは、平面だからだ。他にも映画にありがちなシーンといえば、大きな洋館の中に入っていくと、どこまでも続く壮大に長い廊下が出現する。あるいはロボット格納庫にずらりと並ぶ待機中のロボット軍団。ほとんどの場合、この長い廊下やロボットの群れは「マット画」と呼ばれる精巧な「絵」である。「このCG全盛の今の世の中に、時代遅れのマット画なんて」と思う人は多いと思うが、マット画は今現在も現役の映画手法である。CGよりもずっと早く安く手軽でしかも上質に制作できるマット画とマット画アーティストは、現場において非常に重宝する存在である。
以上のような平面を前提とした表現をそのまま3Dで鑑賞すると、当たり前のようだがあらゆる不具合が出現する。例えば、永遠と続く廊下やずらりと並ぶロボットは、誰がどう見ても平面状に描かれたマット画でしかないと気付いてしまう。俳優同士の殴り合いは、実は当たっていないという事実に気付かれてしまい、せっかくの俳優の演技やアクション監督の努力を台無しにしてしまう。
俳優同士の殴り合いのシーンは、実際の3D映画撮影における一つの問題となっており、解決策として、拳を相手の体ぎりぎりまで接近させる、あるいは本当に当てるしかない、という事態になっている。主演級スターの顔に痣を作るわけにはいかないから(次の撮影が脚本の次のシーンとは限らないので、撮影進行に不具合が生じる)、殴られる瞬間のシーンだけ代役を立てて背面から撮影したり、顔を殴る行為そのものをなしにしてしまったり。とにかく、この初歩的問題が解決されるまで、主演俳優の顔面が殴られるシーンは、映画からなくなりそうだ(多分デジタル上で距離感を変換できるようになるのだろう)。
過去のあらゆる映画を、3D変換してしまうテレビなどが開発されているが、愚の骨頂としかいいようがない。そんなことをすれば、映画に込められたあらゆるマジックがたちどころに解き明かされてしまい、映画の世界から夢と幻が消えてなくなってしまう。俳優同士がどんなに素晴らしい演技で対峙していても拳が当たっていない事実に気付いてしまうし、初歩的な遠近法の応用で撮影された『ロード・オブ・ザ・リング』は小人や人間といった人種が交じり合う妖精世界の物語ではなく、ただの遠近法で撮影された映画に過ぎないとわかってしまう。3Dテレビは決して夢のアイテムではないのだ。
3Dが有効な影響力を与えるのは、映画ではなくゲームである。ゲームは3Dによって確実にその本質を変化させるが、映画、あるいは映像全般においてはそれほど決定的ではないと考えられる。3Dを前提に制作された映画ならば、その有効性を充分に発揮できるかもしれないが、すべての映像作品が3Dである必要はない。特に毎日ぼんやりと見ているニュース番組やバラエティ番組が3Dになったとしても、その事実に何の意味があるのか、とむしろ問いたくなる。どうでもいいよ、と思うし、3Dテレビの購入を見送っているほとんどのユーザーはこの「別にどうでもいいよ」という心境なのだろう。実際に3Dテレビを購入したところで、ほとんどの番組、あるいはDVD、ブルーレイは3Dに非対応であるのだから、まさしく無駄な買い物ということになってしまう。3Dが本質を変化させられるのは、映画ではなくゲームであるのだ。
ところでニンテンドー3DSはこれまで任天堂が発売してきた携帯ゲーム機と比較すると、やや高めの値段に設定されている。2万5000円。過去の任天堂携帯ゲーム機の値段は、ややバラつきがあるものの1万円~1万5000円の範囲に抑えられてきた。もっとも高かったニンテンドーDS-LLが1万8000円である。任天堂の携帯ゲーム機が2万円を越えたことはたぶん前例がなかったはずだ。
任天堂の携帯ゲーム機がやや低めに設定されていたのは、子供でも何とかなる値段設定にするため、あるいは据え置き型ゲーム機を「ゲームの主役」と位置づけた上で、携帯ゲーム機はその付属品、あるいはオマケという認識だったからかもしれない(全部私の思い込みだが)。実際にこれまでの携帯ゲーム機は据え置き型ゲーム機とは比べようもないくらい機能面で低く、制作されるゲームソフトも、据え置き型ゲーム機で製作されるゲームと比較するとやはりボリュームは少なめだった。据え置き型ゲーム機で制作される有名シリーズ作品が携帯ゲーム機で制作されるときは、決して「本家シリーズ」ではなくあくまでも「番外編」という扱い。据え置き型ゲーム機のストーリーを「本流」とする小さな「サブストーリー」というポジションが携帯ゲーム機の立場だった。
据え置き型ゲーム機に対する「オマケ」。小さなゲーム機。それがこれまで携帯ゲーム機が背負ってきた宿命のようなものだった。
だがニンテンドー3DSの値段は2万5000円。これは、これまで任天堂が発売してきた据え置き型ゲーム機と同じ値段である。ニンテンドー3DSのポテンシャルがそこまで高い、ということへの自信と主張であると考えられる(実際ニンテンドー3DSはゲーム機本体だけでもこれでもかと色んな要素が一杯に詰め込まれている。恐ろしく贅沢な代物、という印象だった)。それ以上に感じられるのが、携帯ゲーム機の質的変化――いやポジションの変化である。
これまでは据え置き型ゲーム機がゲームの主役だった。高いマシンスペックと膨大なデータ量を記録できる記録メディア。そして、そのポテンシャルの高さを最大限に利用したゲーム。そういうものは、携帯ゲーム機では実現できない質量的な“大きさ”が必要だった。
が、技術の進歩は質量的な大きさを、より小さなものの中にぎっしり押し込めてしまった。携帯ゲーム機でも高いマシン性能と膨大なデータを蓄積できる記録メディアを獲得し、かつては絶対不可能だった映像表現も携帯ゲーム機でも問題なく可能になってしまった。しまもニンテンドー3DSには、据え置き型ゲーム機にない2画面と3Dディスプレイという強力な武器を持っている。「大は小を兼ねる」ではなく、「小が大を包括する」時代がやってきたのである。
ニンテンドー3DSならば、完璧主義の天才肌監督によるこだわりのゲームを制作することだってできるだろうし、実際に制作されるだろう。対戦も通信機能の発達でストレスなく行えるから、画面を分割する必要もない。もう家族に背中を睨まれながら、あるいはゲームそのものに敵意を向けられながら居間のテレビを間借りしなくてもいいのだ。ゲームの中心は据え置き型ゲーム機から携帯ゲーム機に中心軸を移したのだ。もしも今の現状で一人用RPG超大作を据え置き型ゲーム機で出そうとするならば、「空気を読めよ」という冷ややかな水をぶっ掛けられるだけだろう。携帯ゲーム機でも超大作RPGの制作は充分可能だ。
(テレビの存在価値は、もうアニメと映画だけで充分だ。オンエアされているほとんどの番組に見るべきものがないのなら、テレビはゴミとして廃棄してしまったほうがいいだろう。テレビがあると部屋が狭くなる。アニメと映画だけならば、コンパクトなプロジェクターを買い、真っ白な壁面に映像を映すだけでいい)
とは言うものの、据え置き型ゲーム機がまったく必要なくなるとも思っていない。パブリックな場所を複数人で興じ、その楽しさや興奮をその場にいる全員で共有する場合はやはり据え置き型ゲーム機の出番だろう。例えばパーティーゲームや、複数人で競うことを前提で設計されたアクションゲームやレースゲーム。
一人で淡々と一つのゲームに集中し、道を究めていく場合は携帯ゲーム機だ。例えばRPGやシューティングゲーム、シミュレーションゲーム、レコードを競い合うタイプのレースゲーム。
据え置き型ゲーム機はよりパブリックなポジションを強めていく一方、携帯ゲーム機は一人きりで攻略やレベル上げ、レースゲームのタイム更新といったより個的な感心を強めていくゲームに特化していくだろう。要はそれぞれの立場をより明確に切り分けていく、というわけだ。
性能面にこだわってゲーム機を選択する時代は終わった。これからは「どんな方向性のゲームを遊びたいか」でゲーム機を選択するようになるだろう。作り手にとっては、「どんな方向性のゲームを作りたいか」で発売するゲーム機を選択する。パブリックな場所を共有する意義があり、なおかつあのリモコンコントローラーを有効に使えるアイデアがあるならばWiiだろう。それ以外のゲームを作るならばニンテンドー3DSを選択するべきだろう。なにしろマシンスペックが高く、しかも全てのゲームが3D表示になるので、空間表現にこだわった作品ならばニンテンドー3DSのほうがプレイヤー側としてはありがたい。
ユーザー、制作者、双方がどんな基準でゲームを選択し、制作し、購入するか。ニンテンドー3DSはその区別をはっきりと付けさせるゲーム機だ。まさにゲームに対する考え方を一段階変えさせるゲーム機だ。
本体仕様と同じくらい興味深かったのは、あまりにも豪華なソフトラインナップである。任天堂がゲーム業界における主導的立場を失って以来、ソフトメーカーは様々な理由で任天堂を離れていった。別のゲーム機のほうが販売台数が多く、より高い商業的利益が見込める。別のゲーム機のほうが性能が高く、それと比較すると任天堂ゲーム機の性能はやや不安がある。そうなると、わざわざ任天堂機で発売する理由があまりないという結論になる。
ところが、ニンテンドー3DSには多くのソフトメーカーが戻ってきている。任天堂ゲーム機とはまったく縁のなかったナムコの『リッジレーサー』、性能面の問題で任天堂ゲーム機を避けてきた『メタルギアソリッド』、かつて「これからは任天堂ゲーム機を中心にゲームを出す!」と宣言しておきながら、あっさりと裏切った『バイオハザード』シリーズの帰還。他にも『デッド・オア・アライブ』『ストリートファイター』『テイルズ・オブ~』シリーズ、もちろん任天堂開発による人気シリーズ(『ゼルダの伝説 時のオカリナ』!)も発売ラインナップに含まれている。ゲームキューブやWiiにはなかった豊富さと幅の広さ。任天堂にとってもゲーム業界にとっても黄金期である、スーパーファミコン時代の再来を予感させる。古いゲームユーザにとってはこれだけでも感動的な事件だ。
任天堂はゲーム機の傑作と呼ばれたゲームキューブの商業的失敗以来、ゲーム作りのスケールを大幅に縮小し、開発の視点をコアゲームユーザーから軽薄短小と呼ばれるライトユーザーに移し始めた。《タッチジェネレーション》、初期においては「軽薄短小」と呼称されたゲーム群である。これまでのゲーム作りと販売方法に限界を感じていた任天堂は、むしろこれまでゲームに接したことのない多くの人たちにゲームの良さを知ってもらい、手に取ってもらおうと考えた。
この戦略は着実に成功を収め、ゲーム人口は飛躍的に増大。この深刻な不況下にも関わらず、任天堂の黒字はWii発売後3倍近くまで飛翔している(もし今のような経済不況、デフレ下でなければ? と思うととんでもない業績である)。「軽薄短小」構想は大成功であった。
しかし、軽薄短小は軽薄短小なのである。軽薄短小ユーザーは流行に乗せられて2万5000円のゲーム機を買ったものの、それ以上に入れ込むことはしなかった。一つのゲーム機をしっかりやり込もうとはせず、新しい情報を仕入れて別のソフトメーカーや作家の作品に触れようという考えを持たず、飽きたらポイッ。テレビラックの横に放置したまま、旧型ビデオデッキと共にそこにあったことすら意識しないようになる。軽薄短小は物事の良し悪しを自力で判断することができないし、しようともしない。ただその一時だけ大騒ぎできる道具さえあればいい。軽薄短小はどんなに素晴らしい芸術が目の前にあっても、無関心に通り過ぎるだけ。どんなに優れた栄養を与えても、少しも健康状態がよくならない痩せた肉体のようなものなのである。軽薄短小はいつまでたっても軽薄短小。だから軽薄短小なのだ。
ニンテンドーDSとWiiはこの絶対的多数派である軽薄短小ユーザーを大幅に獲得したが、その一方で本当にゲーム好きである少数のユーザーから見放されていった。サードパーティーも任天堂ゲーム機から遠ざかっていき、気付けば「任天堂ソフトしか売れていない」という状況になっていた(本体売り上げは飛躍的に伸びたものの、ソフト売り上げは思ったほど伸びていない)。売れているのは『脳トレ』とどこかのお笑い番組とタイアップした安っぽいゲームだけである。ネットコミュニティでは、ニンテンドーDSを所持していること自体が失笑の対象になってしまった。
批評家の意見を借りれば、確かにどの作品も別のゲームハードで一度発売された作品のリメイクやシリーズ作品ばかりである。だが「注目度」という要素だけを抜き出せば破壊力は抜群である。ほとんどのコアゲームユーザーは、ニンテンドー3DSというゲーム機自体ではなく、ソフトラインナップのほうが遥かに魅力的で、これだけを動機に購入を決めるだろう。持っているユーザー人口が多くなれば、ゲーム会社の経営者はそのゲーム機で作品を出そう、という考え方を持つようになる。これまで「プレ……プレなんとかがたくさん売れてるからプレなんとかで開発する」と言っていたのと同じ理屈だ。
ニンテンドー3DSは間違いなく高い売り上げを獲得するだろう。それも爆発的に。その後も一過性の流行に終わらず、息の強いペースで必要とされ続けるだろう。そうすれば金玉混在の無数のゲームがニンテンドー3DSに集まってくるようになる。バグ満載のどうしようもない駄作も出るだろうし(それはそれで愛好家に素晴らしい話題を提供してくれるだろう)、今まで誰も考えたことのない奇怪な作品も出るだろう。それに、あくまでも携帯ゲーム機である。低い予算で、アイデア勝負の作品も期待できる。もちろん、天才的な作家がひたすらこだわりぬいた芸術的なゲームも出るだろう。ニンテンドー3DSは様々なタイプの作家の要求に応えられるだけの高いスペックを持っている。
XBOX360やプレなんとかはハイスペックすぎて、ハリウッド的に言えばブロックバスター作品でなければメーカーもユーザーも受け入れられない状況になっている。例えば『桃太郎電鉄』のような伝統あるシリーズは、「ビジュアルが相応しくない」という理由でソニーはプレなんとかでの発表をお断りしている。XBOX360やプレなんとかはゲーム云々を議論する前に、映像表現にゴージャスにしないとユーザーから安っぽく見られる場合があり(特に『ファイナルファンタジー7』を切っ掛けにゲームにはまり込んだユーザーに多い考え方だ)、映像に金と労力のほとんどを消費し、ゲームの本質的側面を疎かにしてしまう傾向が少なからずある(見た目は確かに豪華だけど、ビジュアル面をマイナスすれば「これファミコンでも開発可能だよね?」というゲームはたくさんある。見た目は豪華だけど、中身は8ビットゲーム。そういうゲームって実は多い。ゲーム自体も、見た目は確かに豪華だが、実は同じボタンをひたすら連打しているだけで全ステージクリアできてしまうものもある)。
そこで携帯ゲーム機である。携帯ゲーム機であるというフットワークの軽さが、映像表現だけに捉われない、より柔軟なゲームクリエイトを可能にしてくれるだろう――と期待したい。
ニンテンドー3DSにおける弱点は、どう考えてもバッテリーの少なさだ。たったの3時間。バックライトを抑えるなどをすれば5時間ほど持つ、という仕様だが、それでもたったの5時間である。ゲームで遊ぶにはあまりにも不安定な短さだ。
次のモデルチェンジがニンテンドー3DSLiteになるのかLLになるのかわからないが(現時点でかなり小さいが)その時にはバッテリーを見直されていることを強く希望したい。
それから、これは構造的問題なのかもしれないが、3D立体視野角度があまりにも狭い。ゲーム機に対してほぼ真正面、近づけすぎても駄目、遠ざけすぎても駄目、35センチ前後というかなり限定的な範囲を推奨している。
ゲームプレイ中、複雑なコマンドを入力しようとボタンを押している最中、どうしてもゲーム機本体を傾けて画面が2重にぶれてしまう瞬間がある。リッジレーサーの話題で「コーナリング中に画面が2重にぶれる」というのを挙げたが、これは「そういう演出」なのではなく、プレイ中、本体をある一定以上傾けてしまったせいだ。3Dに見える範囲があまりも狭いために起きてしまう現象だ。昇竜拳すらまともに出せない人間(つまり私)が『スーパーストリートファイター4』のような複雑なコマンドが必要なゲームをプレイすると、しょっちゅう画面がぶれる。この3D視角の問題は構造的な問題で難しいのかもしれないが、次のモデルチェンジの時には是非とも改善、3Dに見える視角を大幅に広げてほしいところだ。
少し蛇足になるが、ニンテンドー3DSは「3Dで見せること」を新たに考える必要があるのかもしれない。というのも『スーパーストリートファイター4』の背景ビジュアルが、少しあっさりしているように見えたからだ。おそらく別の3Dではない画面で見ると、ごちゃっとした密集感を表現しているように見えるのだろうが、立体になることでそれぞれのパーツの間に「ゆとり」が生まれ、2Dで見るほどの密集感が失われてしまっていた。それは間違いなく3Dであることの「売り」なのだが、2Dで表現していた時のように見せられない、という問題もあるのかもしれない。……まあ2Dで見せたい場合は、2Dで作ればいいという話なのだが。
ニンテンドー3DSは6歳以下の幼児には3D機能を使わせないように注意喚起している。本家サイトでもそう注意喚起されているので、ここでもそれにならいたいと思う。
しかし、実際にはどんな年齢でも3D視聴は視力に何ら影響はない、という見解もある。いずれにしても、確たる根拠がまだ出揃っているとは言いがたいので、とりあえずは6歳以下という規制には従うべきだろう。
最後に私個人的な見解である。私の場合、ニンテンドー3DSで遊んだ後、ちょうど「ステレオグラム」で遊んだ後のような感じになり、非常に目がスッキリした感じになる。読書の合間にニンテンドー3DSで遊べば、確実に目の疲れが解消されている。
これがどういう状況なのか、いまいちよくわからない。ニンテンドー3DSをプレイすると、短時間でも激烈な目の痛みを感じるという人のほうが圧倒的多数である。確かに私も、3D映画『アバター』を視聴したとき、最初の1時間ほどはひどく苦労したのを覚えている。どの空間にピントを合わせるべきか、特に3D映画は俳優の演技と字幕が違う距離に出てくるので、かなりの疲労感があった(ただし激痛というのはなかった)。が、途中から慣れてきたのか、字幕と俳優の演技の両方を見ることに苦労はなくなった。そういった経験があるからなのか、ニンテンドー3DSの画面には何ら苦労なく見ることはできた。数時間連続で遊んでも、眼精疲労というのはまるで感じない。
もしかしたら、慣れの問題なのかも知れない。ゲームがポリゴン表現を獲得したはじめの頃、3D酔いする人が多数報告された。3次元空間の中を目まぐるしく動くキャラに目と頭が追いつかず、車酔いしたような状況になるのである。これもポリゴン表現が一般的になるにつれて、3D酔いを訴える人は確実に減っていき、今では3D酔いを口にする人はいなくなった。ポリゴン表現に慣れたのか、あるいはゲームそのものからリタイアしたのかのどちらかだろう。私は3D酔いしたことはない。
現時点で、「ニンテンドー3DSをプレイすると視力がよくなったように感じる」という人は少数だがいるようである。それはあくまでも少数派であるし、目が痛いという人のほうが圧倒的多数だ。そもそも小さな画面を首と手の位置を固定して、しかもかなり強烈なバックライトを浴びているのだから、目に良いはずなどないのである。それに、その人間がもともと持っている目の性質(例えば両目の視力の差)によって3Dがまったく見えない、それが原因で視力悪化の原因になる、などがあるようである。3Dで遊ぶことは、まだある程度の警戒が必要かも知れない。
「ニンテンドー3DSの予約受付まだやっていますか?」
「ええ、まだやっていますよ」
「発売日に手に入りますか」
「予約されたら確実に手に入ります」
というわけで、何の苦労もなく発売日にニンテンドー3DSを手に入れた。ネットが駄目ならば、リアル店舗を訪ねてみるべきかもしれない。どうしても手に入らない、と思っていた貴重な品も、案外簡単に手に入るかもしれない(予約なしでも買えたらしい)。転売屋に天誅!
発売日に同時購入したロンチタイトルは次の3本。
『Nintendogs+cats&Newフレンズ』
『スーパーストリートファイター4 3D』
『リッジレーサー3D』
本当なら、一つ一つのソフトを取り上げて詳しく記事を書きたいところだが、一本一本をしっかりプレイする時間もなく、記事にする時間もないので、短く要約して書きたい。
『ARゲームズ』
本機にあらかじめプリセットされたゲームの中でも期待していた作品。「マトあて」「タマつき」「つり」「らくがき」「キャラさつえい」「Miiさつえい」の6種類のゲームが遊べる。「マトあて」「タマつき」は回り込んだり覗き込んだり、携帯ゲームなのに全身を使ったアクティブな遊びが極めて新鮮。ゲームとしては難易度が低く、ショートゲームといった感じなので、やりこむ深度は浅い。
「キャラさつえい」は有名な任天堂キャラクターを現実空間の中に出現させ、3Dカメラによる撮影ができる。おそらくこれは、新しいカードやデータの更新などで、様々なキャラクターを登場させられるのではないかと思う。アニメキャラクターなども登場させられるはずなので、キャラクタービジネスにとって新しいチャンスだろう。とりあえず、『ラププラス3D』はこのARカードを利用した何かをやってくれるはずだ。
『顔シューティング』
こちらも本機にあらかじめプリセットされているゲーム。顔写真を取り込み、それをゲーム中の敵にして遊ぶゲームである(ちゃんと目と口を認識するので、笑ったり怒ったりといった表情を作ったりする)。このゲームはジャイロセンサーが利用され、プレイヤーは立ちあがって360度、上や下に本機を向けて敵を探し、撃破していかなければならない。周りに何もない場所を探してプレイすることをお勧めする。難易度は決して高くないものの、ちゃんと攻略法を考えないとクリアできないようになっており(ミニゲームだが、ここはさすが任天堂)、それにかなり運動になる。連続で3ステージほど遊んだが、それだけでも息が上がってしまった。ちょっとしたダイエットになりそうなゲームである。新しい顔写真を取り込めば次のステージに進めるというルールなので、さっそく家族全員の顔写真を撮らせてもらった。ちなみに、撮影対象は別に人間である必要はないらしい。
こちらはなかなか楽しいゲームで、しばし夢中になってプレイした。
余談だが、バイオハザードシリーズは絶対にこのジャイロセンサーを採用するに違いない、と思っていたが予想が外れてしまった。ニンテンドー3DS本機を前後左右に動かし、ゾンビがどこから迫ってくるかわからない、というゲームだったら面白いと思っていたのだが。
『Nintendogs+cats&Newフレンズ』
想像以上にふわふわである。3D表示にすると、子犬の顔の凹凸もはっきりと識別できるくらいちゃんと立体に見える。ただし、子犬の3Dモデリングの完成度に比べて、部屋内部のディティールはあっさりしている。
Nintendogs+cats&Newフレンズは一日のうちにできる内容が限定されており、長時間遊べば遊ぶほど何か得になるゲームではない。毎日少しずつ、まったりと子犬と仔猫との一時を楽しむゲームである。
たぶんヘビーユーザーには向かないゲームだと思うが、忙しい合間にちょっと遊びたい人、あるいはふわふわした子犬や仔猫と遊びたい人にはお勧めだ。ちなみにゲームをはじめて最初は子犬しか選択できず、仔猫を得るのは数日間のゲームプレイが必要だ(長時間プレイしても、ゲームがある程度以上進行し過ぎないように設計されてる)。
ところで個人的な話だが、現在私は仕事が忙しく、ゲームで遊ぶ時間がなかなか取れない。『Nintendogs+cats&Newフレンズ』を数日間放置し、久しぶりにプレイしたら、喉はカラカラ、お腹がすいてやせ細った愛犬の姿が……。妙なところでリアルなゲームである。毎日少しずつでも様子を見なくてはならないようだ(時間がないのに、いったいどうしろと……)。
『スーパーストリートファイター4 3D』
私が格闘ゲームをプレイするのは『ストゼロ』以来である。久しぶりに格闘ゲームを手にしたわけだが――波動拳が出せなくなっていた。昇竜拳などはたまにまぐれで出る程度。まず波動拳の練習からはじめなければならず、アーケードモードもいまだ最弱難易度から抜け出せない。例によって、親指の腹を真っ赤に腫らせているところだ。
というわけで、当然、他機種版の『ストリートファイター4』をプレイしておらず、比較記事などは書けるわけないので、ここではなくヘビーユーザーによる記事を参考にするべきだろう(対戦相手になってくれる人もいないし)。
プレイ動画などで見かけたものより、背景のディティールが減少したように見える(これについては後述する)
『リッジレーサー3D』
リッジレーサーシリーズをプレイするのは、多分『リッジレーサー2』以来。というわけで、こちらもシリーズを統括した詳しい記事を書くことはできない。ヘビーユーザーの記事を参考したほうがいいだろう。ゲーム自体は非常に楽しく、グランプリモードのEVENT2以降は3Dを意識した高低差の極端に激しいコースが中心となり、アトラクション的な楽しみが加わってくる。ただ、ややポリ欠けの多さが気になるところだ。
ゲーム批評ではないが、リッジレーサーを遊ぶ際には視点変更し、主観視点にすることをお勧めする。あの臨場感は2Dゲーム機では絶対に体験できない。3Dゲーム機ならではの特権だ。
某ネット記事(ニコニコニュース:レースゲームの醍醐味が3Dによって昇華された!『リッジレーサー3D』インプレッション)に、「コーナーをドリフトする瞬間、振動演出が加わり、3D効果が薄れる」と書かれていたが、これは多分、ニンテンドー3DS本機を左右に傾けてしまったたためだろう。ゲームプレイ中、緊張してボタンを押しているとゲーム機を左右に傾けてしまうことがよくある。確かにゲームプレイ中、ついつい左右に傾けてしまう瞬間はあるものの、落ち着いてまっすぐに構えてゲームプレイすれば「ドリフトの瞬間に3D効果が薄れる」ということはまずない。ちなみに「振動演出」は多分、ニトロエンジンのことだろう。プレイし始めて最初の頃、カーブを曲がるときにL・Rボタンを押してしまうのだ。後で少し触れるが、ニンテンドー3DSの3D表現は、左右方向からの視角に極端に弱いという弱点を持っている。
ちなみに今回購入した3本の中で、『リッジレーサー3D』が一番のお気に入りだ。「映像が美しくない」という不評が多く(美しくないのは事実だし、3Dによる立体感もいまいち)、確かにポリ欠けなど引っかかるところは多いものの、実際に3本通してプレイしてみると『リッジレーサー』が一番面白かった。
「ゲームは3Dを獲得することで、確実にその性質を変化させる」と私は考えている。ゲームはポリゴン技術を獲得したことによって、ゲーム中世界を立体的に表現することを可能とし、さらにゲーム機自体の表現能力の向上、あるいは作家の表現手法・方法の進歩によって、より複雑で濃密な別世界へと直裁的にプレイヤーを引き込む力を得た。ポリゴンを得ることによって、それまで平面状の座標軸を操作させるだけのゲームから、作家が意図した完全な別世界の中をキャラクターが自由に走り、戦い、空を飛ぶスペースへとゲームを進化させた。ポリゴンによる立体表現は、明らかにゲームの次元を一段階止揚させたのである。
しかしその一方で、ゲームは一つのジレンマに悩ませることになったのである。“距離感”である。
例えば、目の前に立っているゾンビはあと何歩で自分と接触するのか、あと数歩の距離にあるはず穴は実際どれくらいの距離なのか。主観視点によるゲームは特にこの“距離感”による問題に捉われ続けた。現実問題ならば何ら問題にならないごく当たり前の“距離感”の認識に対して、ゲームプレイヤーはひどく困惑し、ゾンビの接近を正確に推し量ることができず無防備にその牙と爪によってズタズタにされ、あるいは目の前にある穴に間抜けに片足を突っ込んでしまっていた。
ポリゴンによる立体表現は、むしろゲームプレイを犠牲にしている。ゲームの映像表現がどんなに優れた技術と感性で進化し、無限と思える奥行きを獲得しても、結局はカメラを操作し古典的な横スクロールの視点に固定した上でゲームを進行させている。
なぜそうなってしまうのか。それは表現上はどんなに立体的であっても、最終的にアウトプットされる映像は2次元でしかないからだ。
例えば映画にありがちな場面だが、俳優の2人が向き合って殴りあう場面があるとする。大抵の場合、カメラは殴る側の背後に回り、殴られる俳優の顔面を捉える。そして、一方が殴り、もう一方が殴られた振りをして吹っ飛ぶ。この時、もちろん俳優の拳は当たっていない。最低でも20センチ。50センチ近くも離れている場合もあるという。最近のアクション映画の格闘シーンは、俳優の動きもカメラの動きも非常に複雑になっているが、この原則は今も変わっていない。どんなアクション映画でも、カメラはこれから殴ろうとする俳優の背後に素早く視点を移動し、相手俳優は殴られた振りをして吹っ飛ぶ。
なぜそんなふうに見えてしまうのか。それは最終的にアウトプットされる画面が2次元だからだ。2次元だから距離が圧縮され、20センチや50センチといった距離を感じさせなくしてしまう。
ゲームにおいてもこの原則は一緒だからこそ、大きなジレンマであった。ただ映像を鑑賞するだけならば、俳優同士の距離感など気にせずとも楽しめるのだが(というか気付かない場合がほとんど)、ゲームとしてある仮想3次元空間を移動したり敵と戦ったりする場合は“距離感が圧縮される”ことが大きな障害になってしまう。距離感が圧縮されてしまうから、間もなく迫ってくるカーブのタイミングを正確につかめず、あるいは届くと思って振りかざした剣が敵に当たらず空振りしてしまう(『ゼルダの伝説 時のオカリナ』敵に当てるつもりで剣を振ったもののなかなか当たらず、ジャンプ切りしたら敵本体に接触してダメージ……みんな一度はやったはずだ)。
ゲームの作り手は、“距離感が圧縮される”現象の前に苦闘し、その打開策として、概ね2つの方法を採用してきた。カメラの高さをキャラクターからやや離れて上方から捉えるか、あるいは世界をポリゴンで構築する一方、ゲームの進行自体は古典的な横スクロールの形式を採用するかの2つだ。
だがニンテンドー3DSは、あからさまな立体を描くことで、これまで困難であった“2次元変換された立体空間”への認識を感動的なまでに容易にしてくれた。我々はもう、作り手が複雑に構成した立体空間を前にしても困惑することもないだろう。どこが出っ張っていてどこが引っ込んでいるか、ポリンゴンに貼り付けられたテクスチャー(むしろ邪魔な陰影表現)に惑わされて、「この壁は果たして上れるのだろうか?」などと悩む必要はなくなった(と思う)。これまでは向かってくる敵の攻撃を大げさにキャラクターをのけぞらせて避けていたものが、3Dディスプレイなら動きを最小限にし、敵の剣をすんででかわし、反撃に転じる、というようなゲームプレイも玄人でなくてもできるようになるかもしれない。3Dディスプレイの採用は、ゲームのビジュアルに華を添えるだけではなく、ゲームキャラクターに実在感を与えるだけでもなく、それ以上にゲームプレイにおいて革命的な変化を与える。ゲームの攻略それ自体に影響を与えられるのだ。
ここ十数年、ゲームは同じ思考方法を延長させ、ひたすらビジュアルだけを進化させてきた。それは間違いなくゲームをゴージャスにさせてきたが、批判的に捉えれば、それは決定的な変化とは言い切れなかった。ゲームという構造を何一つ変える力はそこになく、ビジュアルがゴージャスなゲームは、本質的な変化も革命も止揚も引き起こさなかった。
だが我々はニンテンドー3DSにおいて、あからさまな変化を目にした。ニンテンドー3DSというゲーム機によって、ゲームの本質は確実に変わるのである。
批判的な意見も多いが、私は映像における3Dを肯定的に捉えている。
映画と技術は決して切り離せない関係で結ばれている。いや映画の本質は技術である、と言い換えてもいい。口うるさい大批評家様の意見によれば「映画の本質は、脚本の素晴らしさと俳優の演技、それが芸術的な感性で結ばれたときだ」と語るだろう。それは間違ってはいないし、反対する気もない。しかしそれは、ソフト制作的な面での話であって、ハード的な側面を一切無視している。映画を決定的に変化させるのは、あくまでもハード的な側面で革命を起こした時なのだ。
例えば、映画がトーキーになり肉声を獲得し、テクニカラーが採用され自然の風景が画面上に再現され、カメラがクレーンと結びつき構図はよりダイナミックに縦横無尽に動くようになり、次にデジタルの導入で、超現実的なキャラクターと生身の俳優を競演させることに成功した。最近の映画の傑作である『アバター』や『ロード・オブ・ザ・リング』などは、どちらも数年早いと決して作ることはできなかった。技術という地平が少しずつ物語に追いつくことで、あの驚くようなビジュアルが実現したのである。
口うるさい大批評家様は、いつも無邪気にこう連呼する。「もっと新しい作品を!もっと斬新な作品を!」「最近の作品はどれも似たり寄ったりだ!」。
黙れ、と言いたくなる。新しい発想や才能がそう簡単に見つかるはずもない。見つからないこそ、作り手は苦労して「これこそは!」という題材を必死に探しているのだ。という以前に、“同じ人間である限り、どんなに国籍や人種が変わろうとそこに共通する精神構造が見出され、それらが考え、作り出そうとする創作物にはどこかしらに共通する構造が必ず見出される”のである。つまり本当に斬新な物語を目にしたいのであったら、自分努力で宇宙に出て火星人でも連れて来い、とう話である。
だからこそ技術的な平面を一段止揚させ、映画の印象を変えつつ同じ映画を作る(技術的な本質を変えつつ、同じものを作る)ことは、新しい映画を提供するという方法論に間違いはない。例えば(技術的な)エポックメイキングと賞賛される『アバター』などは、ストーリーだけを抜き出すと、似たような映画を過去作品のインデックスの中からいくらでも見出せる。映画という括りを外し、小説、民話、神話といった範疇から似たような構造、アイデアを持った作品を探せば、信じられないくらいたくさん見つかるだろう(どんな物語も、別の物語と比較するとどこかに必ず共通点が見出される。そんな当たり前の事実を知らず、ほんの少しの類似を見つけ出しては「パクリだ!謝罪しろ!」と大騒ぎする大批評家様は自ら無知を表明しているようなものだ)。絶対的唯一の個性を求めるなど、高望みでしかないのだ。そういうものは人間ではなく神様に求めておくれ(最近は神様の創造物にも「マンネリかな?」と思うようにすらなってきたが。南米奥地の希少性の高いトカゲを見ても「似たようなデザインをどこかで見たな……」という印象しかなくなってしまった。神様の創造物に驚くことがなくなってしまった)。
と長い前置きを書きながら、私は全ての映画を3D化するべきとも思っていない。特に過去作品の映画を3D化することはあまりにも愚かしい行為である。
というのも3D以前の映画の全ては、平面で表現することを前提としたトリック映画だからだ。
例えば先にあげた俳優同士の殴り合いのシーン。20~50センチ離れてもパンチが当たったように見えるのは、平面だからだ。他にも映画にありがちなシーンといえば、大きな洋館の中に入っていくと、どこまでも続く壮大に長い廊下が出現する。あるいはロボット格納庫にずらりと並ぶ待機中のロボット軍団。ほとんどの場合、この長い廊下やロボットの群れは「マット画」と呼ばれる精巧な「絵」である。「このCG全盛の今の世の中に、時代遅れのマット画なんて」と思う人は多いと思うが、マット画は今現在も現役の映画手法である。CGよりもずっと早く安く手軽でしかも上質に制作できるマット画とマット画アーティストは、現場において非常に重宝する存在である。
以上のような平面を前提とした表現をそのまま3Dで鑑賞すると、当たり前のようだがあらゆる不具合が出現する。例えば、永遠と続く廊下やずらりと並ぶロボットは、誰がどう見ても平面状に描かれたマット画でしかないと気付いてしまう。俳優同士の殴り合いは、実は当たっていないという事実に気付かれてしまい、せっかくの俳優の演技やアクション監督の努力を台無しにしてしまう。
俳優同士の殴り合いのシーンは、実際の3D映画撮影における一つの問題となっており、解決策として、拳を相手の体ぎりぎりまで接近させる、あるいは本当に当てるしかない、という事態になっている。主演級スターの顔に痣を作るわけにはいかないから(次の撮影が脚本の次のシーンとは限らないので、撮影進行に不具合が生じる)、殴られる瞬間のシーンだけ代役を立てて背面から撮影したり、顔を殴る行為そのものをなしにしてしまったり。とにかく、この初歩的問題が解決されるまで、主演俳優の顔面が殴られるシーンは、映画からなくなりそうだ(多分デジタル上で距離感を変換できるようになるのだろう)。
過去のあらゆる映画を、3D変換してしまうテレビなどが開発されているが、愚の骨頂としかいいようがない。そんなことをすれば、映画に込められたあらゆるマジックがたちどころに解き明かされてしまい、映画の世界から夢と幻が消えてなくなってしまう。俳優同士がどんなに素晴らしい演技で対峙していても拳が当たっていない事実に気付いてしまうし、初歩的な遠近法の応用で撮影された『ロード・オブ・ザ・リング』は小人や人間といった人種が交じり合う妖精世界の物語ではなく、ただの遠近法で撮影された映画に過ぎないとわかってしまう。3Dテレビは決して夢のアイテムではないのだ。
3Dが有効な影響力を与えるのは、映画ではなくゲームである。ゲームは3Dによって確実にその本質を変化させるが、映画、あるいは映像全般においてはそれほど決定的ではないと考えられる。3Dを前提に制作された映画ならば、その有効性を充分に発揮できるかもしれないが、すべての映像作品が3Dである必要はない。特に毎日ぼんやりと見ているニュース番組やバラエティ番組が3Dになったとしても、その事実に何の意味があるのか、とむしろ問いたくなる。どうでもいいよ、と思うし、3Dテレビの購入を見送っているほとんどのユーザーはこの「別にどうでもいいよ」という心境なのだろう。実際に3Dテレビを購入したところで、ほとんどの番組、あるいはDVD、ブルーレイは3Dに非対応であるのだから、まさしく無駄な買い物ということになってしまう。3Dが本質を変化させられるのは、映画ではなくゲームであるのだ。
ところでニンテンドー3DSはこれまで任天堂が発売してきた携帯ゲーム機と比較すると、やや高めの値段に設定されている。2万5000円。過去の任天堂携帯ゲーム機の値段は、ややバラつきがあるものの1万円~1万5000円の範囲に抑えられてきた。もっとも高かったニンテンドーDS-LLが1万8000円である。任天堂の携帯ゲーム機が2万円を越えたことはたぶん前例がなかったはずだ。
任天堂の携帯ゲーム機がやや低めに設定されていたのは、子供でも何とかなる値段設定にするため、あるいは据え置き型ゲーム機を「ゲームの主役」と位置づけた上で、携帯ゲーム機はその付属品、あるいはオマケという認識だったからかもしれない(全部私の思い込みだが)。実際にこれまでの携帯ゲーム機は据え置き型ゲーム機とは比べようもないくらい機能面で低く、制作されるゲームソフトも、据え置き型ゲーム機で製作されるゲームと比較するとやはりボリュームは少なめだった。据え置き型ゲーム機で制作される有名シリーズ作品が携帯ゲーム機で制作されるときは、決して「本家シリーズ」ではなくあくまでも「番外編」という扱い。据え置き型ゲーム機のストーリーを「本流」とする小さな「サブストーリー」というポジションが携帯ゲーム機の立場だった。
据え置き型ゲーム機に対する「オマケ」。小さなゲーム機。それがこれまで携帯ゲーム機が背負ってきた宿命のようなものだった。
だがニンテンドー3DSの値段は2万5000円。これは、これまで任天堂が発売してきた据え置き型ゲーム機と同じ値段である。ニンテンドー3DSのポテンシャルがそこまで高い、ということへの自信と主張であると考えられる(実際ニンテンドー3DSはゲーム機本体だけでもこれでもかと色んな要素が一杯に詰め込まれている。恐ろしく贅沢な代物、という印象だった)。それ以上に感じられるのが、携帯ゲーム機の質的変化――いやポジションの変化である。
これまでは据え置き型ゲーム機がゲームの主役だった。高いマシンスペックと膨大なデータ量を記録できる記録メディア。そして、そのポテンシャルの高さを最大限に利用したゲーム。そういうものは、携帯ゲーム機では実現できない質量的な“大きさ”が必要だった。
が、技術の進歩は質量的な大きさを、より小さなものの中にぎっしり押し込めてしまった。携帯ゲーム機でも高いマシン性能と膨大なデータを蓄積できる記録メディアを獲得し、かつては絶対不可能だった映像表現も携帯ゲーム機でも問題なく可能になってしまった。しまもニンテンドー3DSには、据え置き型ゲーム機にない2画面と3Dディスプレイという強力な武器を持っている。「大は小を兼ねる」ではなく、「小が大を包括する」時代がやってきたのである。
ニンテンドー3DSならば、完璧主義の天才肌監督によるこだわりのゲームを制作することだってできるだろうし、実際に制作されるだろう。対戦も通信機能の発達でストレスなく行えるから、画面を分割する必要もない。もう家族に背中を睨まれながら、あるいはゲームそのものに敵意を向けられながら居間のテレビを間借りしなくてもいいのだ。ゲームの中心は据え置き型ゲーム機から携帯ゲーム機に中心軸を移したのだ。もしも今の現状で一人用RPG超大作を据え置き型ゲーム機で出そうとするならば、「空気を読めよ」という冷ややかな水をぶっ掛けられるだけだろう。携帯ゲーム機でも超大作RPGの制作は充分可能だ。
(テレビの存在価値は、もうアニメと映画だけで充分だ。オンエアされているほとんどの番組に見るべきものがないのなら、テレビはゴミとして廃棄してしまったほうがいいだろう。テレビがあると部屋が狭くなる。アニメと映画だけならば、コンパクトなプロジェクターを買い、真っ白な壁面に映像を映すだけでいい)
とは言うものの、据え置き型ゲーム機がまったく必要なくなるとも思っていない。パブリックな場所を複数人で興じ、その楽しさや興奮をその場にいる全員で共有する場合はやはり据え置き型ゲーム機の出番だろう。例えばパーティーゲームや、複数人で競うことを前提で設計されたアクションゲームやレースゲーム。
一人で淡々と一つのゲームに集中し、道を究めていく場合は携帯ゲーム機だ。例えばRPGやシューティングゲーム、シミュレーションゲーム、レコードを競い合うタイプのレースゲーム。
据え置き型ゲーム機はよりパブリックなポジションを強めていく一方、携帯ゲーム機は一人きりで攻略やレベル上げ、レースゲームのタイム更新といったより個的な感心を強めていくゲームに特化していくだろう。要はそれぞれの立場をより明確に切り分けていく、というわけだ。
性能面にこだわってゲーム機を選択する時代は終わった。これからは「どんな方向性のゲームを遊びたいか」でゲーム機を選択するようになるだろう。作り手にとっては、「どんな方向性のゲームを作りたいか」で発売するゲーム機を選択する。パブリックな場所を共有する意義があり、なおかつあのリモコンコントローラーを有効に使えるアイデアがあるならばWiiだろう。それ以外のゲームを作るならばニンテンドー3DSを選択するべきだろう。なにしろマシンスペックが高く、しかも全てのゲームが3D表示になるので、空間表現にこだわった作品ならばニンテンドー3DSのほうがプレイヤー側としてはありがたい。
ユーザー、制作者、双方がどんな基準でゲームを選択し、制作し、購入するか。ニンテンドー3DSはその区別をはっきりと付けさせるゲーム機だ。まさにゲームに対する考え方を一段階変えさせるゲーム機だ。
本体仕様と同じくらい興味深かったのは、あまりにも豪華なソフトラインナップである。任天堂がゲーム業界における主導的立場を失って以来、ソフトメーカーは様々な理由で任天堂を離れていった。別のゲーム機のほうが販売台数が多く、より高い商業的利益が見込める。別のゲーム機のほうが性能が高く、それと比較すると任天堂ゲーム機の性能はやや不安がある。そうなると、わざわざ任天堂機で発売する理由があまりないという結論になる。
ところが、ニンテンドー3DSには多くのソフトメーカーが戻ってきている。任天堂ゲーム機とはまったく縁のなかったナムコの『リッジレーサー』、性能面の問題で任天堂ゲーム機を避けてきた『メタルギアソリッド』、かつて「これからは任天堂ゲーム機を中心にゲームを出す!」と宣言しておきながら、あっさりと裏切った『バイオハザード』シリーズの帰還。他にも『デッド・オア・アライブ』『ストリートファイター』『テイルズ・オブ~』シリーズ、もちろん任天堂開発による人気シリーズ(『ゼルダの伝説 時のオカリナ』!)も発売ラインナップに含まれている。ゲームキューブやWiiにはなかった豊富さと幅の広さ。任天堂にとってもゲーム業界にとっても黄金期である、スーパーファミコン時代の再来を予感させる。古いゲームユーザにとってはこれだけでも感動的な事件だ。
任天堂はゲーム機の傑作と呼ばれたゲームキューブの商業的失敗以来、ゲーム作りのスケールを大幅に縮小し、開発の視点をコアゲームユーザーから軽薄短小と呼ばれるライトユーザーに移し始めた。《タッチジェネレーション》、初期においては「軽薄短小」と呼称されたゲーム群である。これまでのゲーム作りと販売方法に限界を感じていた任天堂は、むしろこれまでゲームに接したことのない多くの人たちにゲームの良さを知ってもらい、手に取ってもらおうと考えた。
この戦略は着実に成功を収め、ゲーム人口は飛躍的に増大。この深刻な不況下にも関わらず、任天堂の黒字はWii発売後3倍近くまで飛翔している(もし今のような経済不況、デフレ下でなければ? と思うととんでもない業績である)。「軽薄短小」構想は大成功であった。
しかし、軽薄短小は軽薄短小なのである。軽薄短小ユーザーは流行に乗せられて2万5000円のゲーム機を買ったものの、それ以上に入れ込むことはしなかった。一つのゲーム機をしっかりやり込もうとはせず、新しい情報を仕入れて別のソフトメーカーや作家の作品に触れようという考えを持たず、飽きたらポイッ。テレビラックの横に放置したまま、旧型ビデオデッキと共にそこにあったことすら意識しないようになる。軽薄短小は物事の良し悪しを自力で判断することができないし、しようともしない。ただその一時だけ大騒ぎできる道具さえあればいい。軽薄短小はどんなに素晴らしい芸術が目の前にあっても、無関心に通り過ぎるだけ。どんなに優れた栄養を与えても、少しも健康状態がよくならない痩せた肉体のようなものなのである。軽薄短小はいつまでたっても軽薄短小。だから軽薄短小なのだ。
ニンテンドーDSとWiiはこの絶対的多数派である軽薄短小ユーザーを大幅に獲得したが、その一方で本当にゲーム好きである少数のユーザーから見放されていった。サードパーティーも任天堂ゲーム機から遠ざかっていき、気付けば「任天堂ソフトしか売れていない」という状況になっていた(本体売り上げは飛躍的に伸びたものの、ソフト売り上げは思ったほど伸びていない)。売れているのは『脳トレ』とどこかのお笑い番組とタイアップした安っぽいゲームだけである。ネットコミュニティでは、ニンテンドーDSを所持していること自体が失笑の対象になってしまった。
批評家の意見を借りれば、確かにどの作品も別のゲームハードで一度発売された作品のリメイクやシリーズ作品ばかりである。だが「注目度」という要素だけを抜き出せば破壊力は抜群である。ほとんどのコアゲームユーザーは、ニンテンドー3DSというゲーム機自体ではなく、ソフトラインナップのほうが遥かに魅力的で、これだけを動機に購入を決めるだろう。持っているユーザー人口が多くなれば、ゲーム会社の経営者はそのゲーム機で作品を出そう、という考え方を持つようになる。これまで「プレ……プレなんとかがたくさん売れてるからプレなんとかで開発する」と言っていたのと同じ理屈だ。
ニンテンドー3DSは間違いなく高い売り上げを獲得するだろう。それも爆発的に。その後も一過性の流行に終わらず、息の強いペースで必要とされ続けるだろう。そうすれば金玉混在の無数のゲームがニンテンドー3DSに集まってくるようになる。バグ満載のどうしようもない駄作も出るだろうし(それはそれで愛好家に素晴らしい話題を提供してくれるだろう)、今まで誰も考えたことのない奇怪な作品も出るだろう。それに、あくまでも携帯ゲーム機である。低い予算で、アイデア勝負の作品も期待できる。もちろん、天才的な作家がひたすらこだわりぬいた芸術的なゲームも出るだろう。ニンテンドー3DSは様々なタイプの作家の要求に応えられるだけの高いスペックを持っている。
XBOX360やプレなんとかはハイスペックすぎて、ハリウッド的に言えばブロックバスター作品でなければメーカーもユーザーも受け入れられない状況になっている。例えば『桃太郎電鉄』のような伝統あるシリーズは、「ビジュアルが相応しくない」という理由でソニーはプレなんとかでの発表をお断りしている。XBOX360やプレなんとかはゲーム云々を議論する前に、映像表現にゴージャスにしないとユーザーから安っぽく見られる場合があり(特に『ファイナルファンタジー7』を切っ掛けにゲームにはまり込んだユーザーに多い考え方だ)、映像に金と労力のほとんどを消費し、ゲームの本質的側面を疎かにしてしまう傾向が少なからずある(見た目は確かに豪華だけど、ビジュアル面をマイナスすれば「これファミコンでも開発可能だよね?」というゲームはたくさんある。見た目は豪華だけど、中身は8ビットゲーム。そういうゲームって実は多い。ゲーム自体も、見た目は確かに豪華だが、実は同じボタンをひたすら連打しているだけで全ステージクリアできてしまうものもある)。
そこで携帯ゲーム機である。携帯ゲーム機であるというフットワークの軽さが、映像表現だけに捉われない、より柔軟なゲームクリエイトを可能にしてくれるだろう――と期待したい。
ニンテンドー3DSにおける弱点は、どう考えてもバッテリーの少なさだ。たったの3時間。バックライトを抑えるなどをすれば5時間ほど持つ、という仕様だが、それでもたったの5時間である。ゲームで遊ぶにはあまりにも不安定な短さだ。
次のモデルチェンジがニンテンドー3DSLiteになるのかLLになるのかわからないが(現時点でかなり小さいが)その時にはバッテリーを見直されていることを強く希望したい。
それから、これは構造的問題なのかもしれないが、3D立体視野角度があまりにも狭い。ゲーム機に対してほぼ真正面、近づけすぎても駄目、遠ざけすぎても駄目、35センチ前後というかなり限定的な範囲を推奨している。
ゲームプレイ中、複雑なコマンドを入力しようとボタンを押している最中、どうしてもゲーム機本体を傾けて画面が2重にぶれてしまう瞬間がある。リッジレーサーの話題で「コーナリング中に画面が2重にぶれる」というのを挙げたが、これは「そういう演出」なのではなく、プレイ中、本体をある一定以上傾けてしまったせいだ。3Dに見える範囲があまりも狭いために起きてしまう現象だ。昇竜拳すらまともに出せない人間(つまり私)が『スーパーストリートファイター4』のような複雑なコマンドが必要なゲームをプレイすると、しょっちゅう画面がぶれる。この3D視角の問題は構造的な問題で難しいのかもしれないが、次のモデルチェンジの時には是非とも改善、3Dに見える視角を大幅に広げてほしいところだ。
少し蛇足になるが、ニンテンドー3DSは「3Dで見せること」を新たに考える必要があるのかもしれない。というのも『スーパーストリートファイター4』の背景ビジュアルが、少しあっさりしているように見えたからだ。おそらく別の3Dではない画面で見ると、ごちゃっとした密集感を表現しているように見えるのだろうが、立体になることでそれぞれのパーツの間に「ゆとり」が生まれ、2Dで見るほどの密集感が失われてしまっていた。それは間違いなく3Dであることの「売り」なのだが、2Dで表現していた時のように見せられない、という問題もあるのかもしれない。……まあ2Dで見せたい場合は、2Dで作ればいいという話なのだが。
ニンテンドー3DSは6歳以下の幼児には3D機能を使わせないように注意喚起している。本家サイトでもそう注意喚起されているので、ここでもそれにならいたいと思う。
しかし、実際にはどんな年齢でも3D視聴は視力に何ら影響はない、という見解もある。いずれにしても、確たる根拠がまだ出揃っているとは言いがたいので、とりあえずは6歳以下という規制には従うべきだろう。
最後に私個人的な見解である。私の場合、ニンテンドー3DSで遊んだ後、ちょうど「ステレオグラム」で遊んだ後のような感じになり、非常に目がスッキリした感じになる。読書の合間にニンテンドー3DSで遊べば、確実に目の疲れが解消されている。
これがどういう状況なのか、いまいちよくわからない。ニンテンドー3DSをプレイすると、短時間でも激烈な目の痛みを感じるという人のほうが圧倒的多数である。確かに私も、3D映画『アバター』を視聴したとき、最初の1時間ほどはひどく苦労したのを覚えている。どの空間にピントを合わせるべきか、特に3D映画は俳優の演技と字幕が違う距離に出てくるので、かなりの疲労感があった(ただし激痛というのはなかった)。が、途中から慣れてきたのか、字幕と俳優の演技の両方を見ることに苦労はなくなった。そういった経験があるからなのか、ニンテンドー3DSの画面には何ら苦労なく見ることはできた。数時間連続で遊んでも、眼精疲労というのはまるで感じない。
もしかしたら、慣れの問題なのかも知れない。ゲームがポリゴン表現を獲得したはじめの頃、3D酔いする人が多数報告された。3次元空間の中を目まぐるしく動くキャラに目と頭が追いつかず、車酔いしたような状況になるのである。これもポリゴン表現が一般的になるにつれて、3D酔いを訴える人は確実に減っていき、今では3D酔いを口にする人はいなくなった。ポリゴン表現に慣れたのか、あるいはゲームそのものからリタイアしたのかのどちらかだろう。私は3D酔いしたことはない。
現時点で、「ニンテンドー3DSをプレイすると視力がよくなったように感じる」という人は少数だがいるようである。それはあくまでも少数派であるし、目が痛いという人のほうが圧倒的多数だ。そもそも小さな画面を首と手の位置を固定して、しかもかなり強烈なバックライトを浴びているのだから、目に良いはずなどないのである。それに、その人間がもともと持っている目の性質(例えば両目の視力の差)によって3Dがまったく見えない、それが原因で視力悪化の原因になる、などがあるようである。3Dで遊ぶことは、まだある程度の警戒が必要かも知れない。