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■2011/11/21 (Mon)
オリジナル・アニメ・DVD■
久米田康治作品は、久米田康治自身の個人史である。
ほとんどの創作は、その創作について語られる時、物語やキャラクター、あるいは背景に流れるその当時の社会情勢などが中心に語られる。物語やキャラクター、当時の社会情勢、意識などが充分に解説され解釈を加えられ、それから“憶測”として作者の深層心理が考察される。作者がどうしてその場面を描いたのか、作者はどんな社会に接地して、どんな情報に精通し、どんな判断で題材を選択したのか。そうした諸々の断片をパズルのように組み合わせて、批評家は作家の人物像を作り出すのである。
しかし久米田康治の創作は例外的である。なぜならば、久米田康治作品は、直接久米田康治自身について語っているからである。
久米田康治がどんな意識でその時代の現象に接し、漫画に取り入れようとしたのか。久米田康治が何を好み、何を嫌い、何を尊敬したのか――。そうした心理的なあらゆる傾向が、何もかも包み隠されず漫画の中で描かれ、キャラクターの口から直裁的に語られ、あるいは批評的に描写された。だから久米田康治作品は、久米田康治自身以外の何物でもない。作者自身の心理的な過程そのものが刻印されている。
『かってに改蔵』のDVDシリーズは、久米田康治のおよそ10年にわたる創作の過程を超特急で追いかけようという特殊な企画である。久米田康治のキャラクターの描き方や漫画のスタイルの変化。通常のシリーズ作品であれば、視聴者の混乱を避けてある程度の作家の変化やムラは刈り取られ、平均的な部分のみがピックアップされてアニメーションというメディアに落とし込んでいくのだが、『かってに改蔵』はむしろ変化の自体を克明に、ダイジェストとして描き、『さよなら絶望先生』へと続く久米田康治の作家としての過程を描いている。『かってに改蔵』の原作における作品スタイルがすでに『さよなら絶望先生』に近い形式を持っているために、『かってに改蔵 下巻』ではカット割りや箇条書きの出し方、擬音を女性声優でなぞるやり方まで、何もかもが『さよなら絶望先生』方式で描かれている。
『かってに改蔵』のDVDシリーズは、久米田康治という人物の過程を描き出した、極めて特殊な形態の“伝記”であるという見方もできる。
前回『かってに改蔵 中巻』の記事を読んだ人は僅か数人……10人にも満たない人数だった。繰り返すが、10人を越えなかった。本当にこのDVDシリーズは売れたのだろうか、と心配になる数字である。『かってに改蔵』DVDの売れ行きが『さよなら絶望先生』のアニメ4期が断念された背景と関係しているのではないだろうか。
しかし、『かってに改蔵』の全シリーズをあまりにも端的にかいつまんで映像化されてしまったために、一見様にはあまりにも不親切な内容になってしまっている。原作では変化の過程が1週ごとに丹念に描かれてきたが、アニメではその過程がざっくり切り落として映像化してしまったために、熱心な原作読者でない限り、わかりづらい作品になってしまった(一度読んだことがある、という読者でも「?」な部分がたくさんあるだろう)。
『かってに改蔵』は確かに1話完結のギャグ漫画であるが、その内容でやらかした多くの事件や現象はデフォルトされずに持ち越され、それがシリーズ全体における変化になっている。キャラクターなどはその一つで、DVDシリーズ上巻と下巻では同じキャラクターでも性格や描き方がまるっきり変わってしまっている。名取羽美の猟奇的な性格に変化したのはあまりにも有名であるが、実際には主人公である勝改蔵も随分違うキャラクターに変わった。坪内地丹などは、もはや人間以外の何かである。(地丹は変化の大きなキャラクターだったため、アニメ版では前半後半で設定が2パターン作られている)
この変化は中心的なキャラクターだけに留まらず、多くのサブキャラクターたちにも影響を与えている。
そのうちの一つを見てみると、『かってに改蔵 下巻』の第6話Bパートにおいて唐突に登場する色黒の少年である。あの少年は坪内地丹の弟・砂丹である。地丹の弟は第1巻では地丹そっくりの肌の色が違うだけのキャラクターだったが、愛蔵版第10巻第14話226ページに再登場したとき、まるっきり別人のさやわかイケメンとして描きなおされた。
また地丹の妹・牡丹もやはり当初地丹そっくりなキャラクターとして描かれていたが、愛蔵版第11巻第8話125ページにおいて再登場したとき、恥ずかがり屋のメガネっ子キャラとして設定が変更されていた。『かってに改蔵』には女の子キャラはまあまあいるのに、メガネキャラがいないという事態のために急遽書き改められたキャラクターである。
アニメ『かってに改蔵 下巻』の第5話Bパートで、山田さんが学園から立ち去るエピソードが描かれているが、実はこれ、次エピソードのための壮大なフリなのである。原作では「さよなら山田さん」の次に「帰ってきた山田さん」が描かれ、「感動的に去ったと思ったら、すぐに帰ってきた」という笑いになっているのである。しかしアニメ版では、フリだけでオチが描かれず、ギャグ漫画らしくない不思議な後味で終わってしまった。アニメ版6話Bパートの背景にちらっと登場するのは、「原作では帰ってきたから」である。
ちなみにこの山田さんにちなんだエピソードは(原作では)この後しばらく続くことになり、山田さんの名前はじわじわと蝕まれてそのうちに山口さんに変わり、実はギャグ漫画の背景で、山田さん山口さんと砂丹の2人が悪と戦うバトル展開が描かれていたという事実が明らかになる。
アニメ版第6話Aパートでは、地丹がなぜか奇妙なぬいぐるみ姿で登場する。原作を見ると、愛蔵版第12巻第4話64ページで無理矢理着ぐるみを着せられ縫い付けられるシーンが描かれている。それきり脱ぐことができなくなり、次のエピソードでもあの格好のままだった、というわけなのである。
アニメ版第6話Bパートで、名取羽美に生贄にされている少女が登場する。このキャラクターが最初に登場したのは愛蔵版第12巻第7話116ページである。名取羽美に対する恐怖のあまり、名取羽美の信者になってしまった少女である。その後何度か登場するものの、最後までキャラクター名は与えられなかった。
また、名取羽美は勝改蔵と同棲している。同棲が始まったのは愛蔵版第9巻第3話50ページからである。「勝」の表札の上に、「名取」の名前が貼り付けられてあるのは、そういう理由である。
泊亜留美もアニメでは一度だけしか登場せず、どんなキャラクターなのかわかりにくい。泊亜留美は地丹の後輩で、地丹が片思いをしてストーカーし続けていた相手である。『かってに改蔵』はキャラクターが年を取らない設定の漫画だが、泊亜留美だけは順調に年を取る設定で、初登場時は中学生、次に高校1年生になり、間もなく改蔵たちと同じ高校2年生に、最後には高校3年生になり改蔵たちより上級生になった。アニメ版に登場する泊亜留美は、すでに改蔵たちより一つ上の学年になっている設定である。
最後に、下巻に入り、またしても中巻とは違うキャラクターの描き方が試みられている。ちょっと見て明らかに違うのは瞳の描き方だ。中巻では瞳孔の黒を中心に置き、周辺に向かって何重かのグラデーションを作る方法で描かれている。下巻では、瞳孔の黒を中心に置き、中心地点より上をBLブラック、下部分のみに明るい色が使われるようになった。
原作を改めて確かめると、愛蔵版第11巻第19話でようやくこの描き方で定着したようだ。その以前のエピソードでもこの瞳の描かれ方は何度も試みられているが、移行期間と見られるエピソードがしばらく続いている。最初に瞳の描かれ方が変わったのは、おそらく愛蔵版第11巻第12話182ページ1コマ目の改蔵のクローズアップショットだろう。その後、徐々に瞳の描かれ方は新しいやり方に変わって行き、第19話で完全に以降完了したようだ。
ざっくりとした説明だが、『かってに改蔵 下巻』はこれだけの解説を前に置かないとわかりづらい作品である、と了解したほうが良いだろう。
モブキャラとして出演し続けた新谷良子。『かってに改蔵 下巻』に入り、ついに名前のある役名を獲得したようだ。改蔵のクラスメイトである「しえちゃん」がそれだ。しえちゃんは原作初期から一応登場していたが、いつの間にか名前が与えられ、独立していたキャラクターに成長した。作品と同じように、新谷良子もそれなりの場所に着地したようである。
第5話 バックトゥザTORAUMA
Aパート・イノセントワールド (愛蔵版第10巻第19話より/冒頭シーン愛蔵版第6巻第8話より)
名取羽美は自転車を押して歩きながら、街の建物を見ていた。ふと商店街の一角が切り崩され、鉄骨むき出しの構造物が組み立てられているのが目に付いた。安全第一のプレートが掲げられ、高い防壁に囲まれ、いま建設の真っ最中といった様子だ。
「再開発か……」
ぼんやりと黄昏れるように言葉を漏らす。
「どうかしたの」
一緒に歩いていた彩園すずが尋ねる。
「昔ここらへん古い商店街があって、私たちの遊び場だったんです」
――それは昭和30年代頃の話。戦後の闇市を辛うじて抜け出せた商店街は、その時代ではそこそこの治安を維持し、人が多く行き交う活気に満ちた場所になっていた。ショウウインドウには新しい時代を象徴するようなテレビや洗濯機といった商品が並び始め、それが大量消費時代の幕開けを予感させていた……。
「まだ生まれてないっつーの! ダメよ、某長期連載ポリス漫画のマネしよーたって」
もとい、せいぜい90年代。この辺りは子供たちの格好の遊び場だった。
「懐かしいなぁ」
「どんな遊びするの?」
過去の思い出に浸り始める羽美に、すずが尋ねる。
「めちゃぶつけとか交差点ベースボールとか、けっこう危ないことして親や先生に禁止されたっけ……」
そんなふうに思い出しながら歩いていると、前方を少し行ったところに改蔵が歩いているのに気付いた。辺りを警戒するようにきょろきょろしながら、こそこそと商店街脇の路地へと忍び込んでいく。
何か怪しい。名取羽美と彩園すずの2人は改蔵の後をついて行くことにした。改蔵はやがて、いかにも怪しい雰囲気を孕んだ、重そうな鉄扉の向う側へと入っていく。その向うは“禁止された遊び”を懐かしむ場所だった……。
Bパート・サヨナラ山田サン (愛蔵版第11巻第13話より)
「山田さんのためにカンパしてください」
改蔵が安っぽい箱を手に、クラスの一同に呼びかける。箱には「カンパ箱」と書かれた紙がセロテープでいかにも即席という感じに貼り付けられている。
「か、カンパって、まさか……」
しえちゃんが声を震わせながら尋ねる。他のクラスの女の子も、青ざめたり汗を浮かべたりして改蔵を見ていた。
「今まで気付かなかった僕の責任でもあるんです」
突然に、名取羽美が改蔵を殴る。血が点々と散った。改蔵の体が横向きになって吹っ飛び、扉にぶつかった。
紛らわしいが、“例のアレ”ではなかったようだ。
改めて解説すると、山田さんが学費を払えないため、学校を辞めなくてはならなくなったそうだ。
「いいの。私、学校を辞める」
しかし山田さんの言葉に深刻な影はなく、かといって努めて明るさを装うわけでもなく、無感情にそう言った。
実は山田さんには、もっと別の悩みがあった。山田さんには足りない物がある。
とある漫画家には才能がなかった。とある経営者には決断力がなかった。とある政治家には愛国心がなかった。山田さんには……人を好きなる心がなかった。
Cパート・アル意味、貝ニナリタイ。 (愛蔵版第14巻第1話より)
それはとある冬の日のできごとだった。改蔵と羽美は、炬燵に体を潜り込ませながら、のんびりとテレビを見ていた。
「独占中継! おめでとうトニ・タワラちゃん!! 超豪華結婚披露宴!!」
テレビの画面に大きなテロップが画面全面に現れる。それに続いて、披露宴の様子が映される。赤絨毯の上を、真っ白なウェンディングドレスを身にまとった女と、白スーツの男が手を組んでしずしずと歩いていく。
そんな場面を見ながら。
「ぷっ! 自分デザインのウェンディングドレスって……!」
改蔵がさっそく突っ込む。しかし汗を浮かべながら。
「うそお! 8メートルのベールだってさ……!」
羽美も突っ込む。しかし言葉は震えている。
「ウェンディングケーキが地球ってさあ……」
「本人たち出演の再現ドラマって……」
突っ込みはさらに続くが、発言のたびに勢いは弱くなり、ついに何も言えなくなってしまった。
……そこまでやられたら、もう何も言えません。
何事も中途半端にすると叩かれたり悪口言われたりする。だったら徹底的な過剰さをそこに作り出してしまえば、もう誰も何も言わなくなるのではないだろうか。
ハルウララ人気だってそうだ。50~60連敗なら駄馬だ駄馬だとからかわれるが、100連敗もしたら、もう誰も文句言わない。むしろ応援すらしたくなるというもの。
テストの点数だって、中途半端に悪い点数だから叱られる。全科目堂々の0点だったら、親も諦めてくれるのではないか。
というわけで、ここにやりすぎて何も言われなくなった人たちがいる……。
第6話 孤独な女
Aパート・スレスレ★サーカス (愛蔵版第12巻第5話より)
街にサーカスがやってきた! 広場に大きなテントが設置されて、人々が集まってくる。陽気なピエロが風船を配り、テントの周辺は賑やかな雑踏と笑顔で満たされていた。
テントの中に入っていくと、すでに素晴らしい技の数々が披露されている。定番の玉乗り、ナイフでジャグリング、空中ブランコ……。
「すごーい! すごーい!」
観客席に座る名取羽美が、子供のように興奮して声を上げる。その隣に座る改蔵は、退屈そうにピエロたちの技を冷淡に見つめていた。
次は細い綱の上を、一輪車が渡ろうとする。しかしその途上で、演者がふらふらとバランスを崩し始める。
それに異様な興奮を見せる羽美。
「しーっぱい! しーっぱい! しーっぱい!」
突然立ち上がり、拳を振り上げて叫び始める。
「やめてくださいお客さん! 縁起でもない!」
ピエロが羽美の前に飛び出してくる。しかし羽美は、しばらく一人で「に・く・へ・ん!」コールを続けるのであった。
という羽美は置いておいて、改蔵が鼻の先で嘲笑的な笑いを漏らした。
「綱渡り感に欠けるんじゃないかなぁって」
綱渡りというほど必要に迫られていない。本当の切迫感がそこに演出できていない。本当にギリギリスレスレの綱渡りとはどんなものなのか――改蔵はピエロをもう一つのサーカステントへと連れて行く。
Bパート・近ゴロ、オヘソ出サナイネ。 (愛蔵版第14巻第14話より)
勝改蔵は名取羽美をちらちら見ながら、胸をときめかせていた。ただし顔はこわばり、一杯の汗が浮かんでいる。
「最近、羽美を見ていると、ドキドキしてしまうのです」
改蔵は彩園すずに身の内を告白する。
するとすずは、「あー」と感情のない言葉を長く漏らした。
「それは恋ね」
「恋! そんな! 俺が羽美を好きになるなんて。どうなってしまったんだ俺!」
改蔵は錯乱して部室を飛び出してしまった。
ダットンのアロンの実験によるところの、感情の誤認識である。恐怖心からくる心臓のドキドキと、恋のドキドキと感情が勘違いする現象である。「吊り場理論」という言葉でよく知られているあの現象である。(Wikipedia:吊り橋理論)
それを知った羽美。
「ついに改蔵が私のことを好きになったの? 私を見るとドキドキして堪らないと言うのね!」
大喜びの羽美。しかし羽美は、より恐怖を与えると、そのぶん改蔵が自分を好きになってくれると解釈。そういうわけで、羽美による恐怖の虐殺と破壊が始まった……。
かってに改蔵 上巻
かってに改蔵 中巻
さよなら絶望先生《本家》目次ページへ
作品データ
総監督:新房昭之 監督:龍輪直征 原作:久米田康治
キャラクターデザイン:山村洋貴 メインアニメーター:岩崎安利
美術監督:飯島寿治 伊藤和宏 ビジュアルエフェクト:酒井基 色彩設計:滝沢いづみ
構成:東冨耶子 構成・脚本:高山カツヒコ 編集:関一彦
撮影監督:江藤慎一郎 音響監督:亀山俊樹 音楽:川田瑠夏
プロデューサー:宮本純乃介 アニメーションプロデューサー:久保田光俊
オープニング主題歌:水木一郎と特撮 エンディング主題歌:新☆谷良子
アニメーション制作:シャフト
出演:櫻井孝宏 喜多村英梨 斉藤千和 豊崎愛生 堀江由衣
○ 立木文彦 新谷良子 岩男潤子 永田依子 明坂聡美
○ 小野友樹 千々和竜策 中國卓郎 矢澤りえか MAEDAX
ほとんどの創作は、その創作について語られる時、物語やキャラクター、あるいは背景に流れるその当時の社会情勢などが中心に語られる。物語やキャラクター、当時の社会情勢、意識などが充分に解説され解釈を加えられ、それから“憶測”として作者の深層心理が考察される。作者がどうしてその場面を描いたのか、作者はどんな社会に接地して、どんな情報に精通し、どんな判断で題材を選択したのか。そうした諸々の断片をパズルのように組み合わせて、批評家は作家の人物像を作り出すのである。
しかし久米田康治の創作は例外的である。なぜならば、久米田康治作品は、直接久米田康治自身について語っているからである。
久米田康治がどんな意識でその時代の現象に接し、漫画に取り入れようとしたのか。久米田康治が何を好み、何を嫌い、何を尊敬したのか――。そうした心理的なあらゆる傾向が、何もかも包み隠されず漫画の中で描かれ、キャラクターの口から直裁的に語られ、あるいは批評的に描写された。だから久米田康治作品は、久米田康治自身以外の何物でもない。作者自身の心理的な過程そのものが刻印されている。
『かってに改蔵』のDVDシリーズは、久米田康治のおよそ10年にわたる創作の過程を超特急で追いかけようという特殊な企画である。久米田康治のキャラクターの描き方や漫画のスタイルの変化。通常のシリーズ作品であれば、視聴者の混乱を避けてある程度の作家の変化やムラは刈り取られ、平均的な部分のみがピックアップされてアニメーションというメディアに落とし込んでいくのだが、『かってに改蔵』はむしろ変化の自体を克明に、ダイジェストとして描き、『さよなら絶望先生』へと続く久米田康治の作家としての過程を描いている。『かってに改蔵』の原作における作品スタイルがすでに『さよなら絶望先生』に近い形式を持っているために、『かってに改蔵 下巻』ではカット割りや箇条書きの出し方、擬音を女性声優でなぞるやり方まで、何もかもが『さよなら絶望先生』方式で描かれている。
『かってに改蔵』のDVDシリーズは、久米田康治という人物の過程を描き出した、極めて特殊な形態の“伝記”であるという見方もできる。
前回『かってに改蔵 中巻』の記事を読んだ人は僅か数人……10人にも満たない人数だった。繰り返すが、10人を越えなかった。本当にこのDVDシリーズは売れたのだろうか、と心配になる数字である。『かってに改蔵』DVDの売れ行きが『さよなら絶望先生』のアニメ4期が断念された背景と関係しているのではないだろうか。
しかし、『かってに改蔵』の全シリーズをあまりにも端的にかいつまんで映像化されてしまったために、一見様にはあまりにも不親切な内容になってしまっている。原作では変化の過程が1週ごとに丹念に描かれてきたが、アニメではその過程がざっくり切り落として映像化してしまったために、熱心な原作読者でない限り、わかりづらい作品になってしまった(一度読んだことがある、という読者でも「?」な部分がたくさんあるだろう)。
『かってに改蔵』は確かに1話完結のギャグ漫画であるが、その内容でやらかした多くの事件や現象はデフォルトされずに持ち越され、それがシリーズ全体における変化になっている。キャラクターなどはその一つで、DVDシリーズ上巻と下巻では同じキャラクターでも性格や描き方がまるっきり変わってしまっている。名取羽美の猟奇的な性格に変化したのはあまりにも有名であるが、実際には主人公である勝改蔵も随分違うキャラクターに変わった。坪内地丹などは、もはや人間以外の何かである。(地丹は変化の大きなキャラクターだったため、アニメ版では前半後半で設定が2パターン作られている)
この変化は中心的なキャラクターだけに留まらず、多くのサブキャラクターたちにも影響を与えている。
そのうちの一つを見てみると、『かってに改蔵 下巻』の第6話Bパートにおいて唐突に登場する色黒の少年である。あの少年は坪内地丹の弟・砂丹である。地丹の弟は第1巻では地丹そっくりの肌の色が違うだけのキャラクターだったが、愛蔵版第10巻第14話226ページに再登場したとき、まるっきり別人のさやわかイケメンとして描きなおされた。
また地丹の妹・牡丹もやはり当初地丹そっくりなキャラクターとして描かれていたが、愛蔵版第11巻第8話125ページにおいて再登場したとき、恥ずかがり屋のメガネっ子キャラとして設定が変更されていた。『かってに改蔵』には女の子キャラはまあまあいるのに、メガネキャラがいないという事態のために急遽書き改められたキャラクターである。
アニメ『かってに改蔵 下巻』の第5話Bパートで、山田さんが学園から立ち去るエピソードが描かれているが、実はこれ、次エピソードのための壮大なフリなのである。原作では「さよなら山田さん」の次に「帰ってきた山田さん」が描かれ、「感動的に去ったと思ったら、すぐに帰ってきた」という笑いになっているのである。しかしアニメ版では、フリだけでオチが描かれず、ギャグ漫画らしくない不思議な後味で終わってしまった。アニメ版6話Bパートの背景にちらっと登場するのは、「原作では帰ってきたから」である。
ちなみにこの山田さんにちなんだエピソードは(原作では)この後しばらく続くことになり、山田さんの名前はじわじわと蝕まれてそのうちに山口さんに変わり、実はギャグ漫画の背景で、
アニメ版第6話Aパートでは、地丹がなぜか奇妙なぬいぐるみ姿で登場する。原作を見ると、愛蔵版第12巻第4話64ページで無理矢理着ぐるみを着せられ縫い付けられるシーンが描かれている。それきり脱ぐことができなくなり、次のエピソードでもあの格好のままだった、というわけなのである。
アニメ版第6話Bパートで、名取羽美に生贄にされている少女が登場する。このキャラクターが最初に登場したのは愛蔵版第12巻第7話116ページである。名取羽美に対する恐怖のあまり、名取羽美の信者になってしまった少女である。その後何度か登場するものの、最後までキャラクター名は与えられなかった。
また、名取羽美は勝改蔵と同棲している。同棲が始まったのは愛蔵版第9巻第3話50ページからである。「勝」の表札の上に、「名取」の名前が貼り付けられてあるのは、そういう理由である。
泊亜留美もアニメでは一度だけしか登場せず、どんなキャラクターなのかわかりにくい。泊亜留美は地丹の後輩で、地丹が片思いをしてストーカーし続けていた相手である。『かってに改蔵』はキャラクターが年を取らない設定の漫画だが、泊亜留美だけは順調に年を取る設定で、初登場時は中学生、次に高校1年生になり、間もなく改蔵たちと同じ高校2年生に、最後には高校3年生になり改蔵たちより上級生になった。アニメ版に登場する泊亜留美は、すでに改蔵たちより一つ上の学年になっている設定である。
最後に、下巻に入り、またしても中巻とは違うキャラクターの描き方が試みられている。ちょっと見て明らかに違うのは瞳の描き方だ。中巻では瞳孔の黒を中心に置き、周辺に向かって何重かのグラデーションを作る方法で描かれている。下巻では、瞳孔の黒を中心に置き、中心地点より上をBLブラック、下部分のみに明るい色が使われるようになった。
原作を改めて確かめると、愛蔵版第11巻第19話でようやくこの描き方で定着したようだ。その以前のエピソードでもこの瞳の描かれ方は何度も試みられているが、移行期間と見られるエピソードがしばらく続いている。最初に瞳の描かれ方が変わったのは、おそらく愛蔵版第11巻第12話182ページ1コマ目の改蔵のクローズアップショットだろう。その後、徐々に瞳の描かれ方は新しいやり方に変わって行き、第19話で完全に以降完了したようだ。
ざっくりとした説明だが、『かってに改蔵 下巻』はこれだけの解説を前に置かないとわかりづらい作品である、と了解したほうが良いだろう。
モブキャラとして出演し続けた新谷良子。『かってに改蔵 下巻』に入り、ついに名前のある役名を獲得したようだ。改蔵のクラスメイトである「しえちゃん」がそれだ。しえちゃんは原作初期から一応登場していたが、いつの間にか名前が与えられ、独立していたキャラクターに成長した。作品と同じように、新谷良子もそれなりの場所に着地したようである。
第5話 バックトゥザTORAUMA
Aパート・イノセントワールド (愛蔵版第10巻第19話より/冒頭シーン愛蔵版第6巻第8話より)
名取羽美は自転車を押して歩きながら、街の建物を見ていた。ふと商店街の一角が切り崩され、鉄骨むき出しの構造物が組み立てられているのが目に付いた。安全第一のプレートが掲げられ、高い防壁に囲まれ、いま建設の真っ最中といった様子だ。
「再開発か……」
ぼんやりと黄昏れるように言葉を漏らす。
「どうかしたの」
一緒に歩いていた彩園すずが尋ねる。
「昔ここらへん古い商店街があって、私たちの遊び場だったんです」
――それは昭和30年代頃の話。戦後の闇市を辛うじて抜け出せた商店街は、その時代ではそこそこの治安を維持し、人が多く行き交う活気に満ちた場所になっていた。ショウウインドウには新しい時代を象徴するようなテレビや洗濯機といった商品が並び始め、それが大量消費時代の幕開けを予感させていた……。
「まだ生まれてないっつーの! ダメよ、某長期連載ポリス漫画のマネしよーたって」
もとい、せいぜい90年代。この辺りは子供たちの格好の遊び場だった。
「懐かしいなぁ」
「どんな遊びするの?」
過去の思い出に浸り始める羽美に、すずが尋ねる。
「めちゃぶつけとか交差点ベースボールとか、けっこう危ないことして親や先生に禁止されたっけ……」
そんなふうに思い出しながら歩いていると、前方を少し行ったところに改蔵が歩いているのに気付いた。辺りを警戒するようにきょろきょろしながら、こそこそと商店街脇の路地へと忍び込んでいく。
何か怪しい。名取羽美と彩園すずの2人は改蔵の後をついて行くことにした。改蔵はやがて、いかにも怪しい雰囲気を孕んだ、重そうな鉄扉の向う側へと入っていく。その向うは“禁止された遊び”を懐かしむ場所だった……。
Bパート・サヨナラ山田サン (愛蔵版第11巻第13話より)
「山田さんのためにカンパしてください」
改蔵が安っぽい箱を手に、クラスの一同に呼びかける。箱には「カンパ箱」と書かれた紙がセロテープでいかにも即席という感じに貼り付けられている。
「か、カンパって、まさか……」
しえちゃんが声を震わせながら尋ねる。他のクラスの女の子も、青ざめたり汗を浮かべたりして改蔵を見ていた。
「今まで気付かなかった僕の責任でもあるんです」
突然に、名取羽美が改蔵を殴る。血が点々と散った。改蔵の体が横向きになって吹っ飛び、扉にぶつかった。
紛らわしいが、“例のアレ”ではなかったようだ。
改めて解説すると、山田さんが学費を払えないため、学校を辞めなくてはならなくなったそうだ。
「いいの。私、学校を辞める」
しかし山田さんの言葉に深刻な影はなく、かといって努めて明るさを装うわけでもなく、無感情にそう言った。
実は山田さんには、もっと別の悩みがあった。山田さんには足りない物がある。
とある漫画家には才能がなかった。とある経営者には決断力がなかった。とある政治家には愛国心がなかった。山田さんには……人を好きなる心がなかった。
Cパート・アル意味、貝ニナリタイ。 (愛蔵版第14巻第1話より)
それはとある冬の日のできごとだった。改蔵と羽美は、炬燵に体を潜り込ませながら、のんびりとテレビを見ていた。
「独占中継! おめでとうトニ・タワラちゃん!! 超豪華結婚披露宴!!」
テレビの画面に大きなテロップが画面全面に現れる。それに続いて、披露宴の様子が映される。赤絨毯の上を、真っ白なウェンディングドレスを身にまとった女と、白スーツの男が手を組んでしずしずと歩いていく。
そんな場面を見ながら。
「ぷっ! 自分デザインのウェンディングドレスって……!」
改蔵がさっそく突っ込む。しかし汗を浮かべながら。
「うそお! 8メートルのベールだってさ……!」
羽美も突っ込む。しかし言葉は震えている。
「ウェンディングケーキが地球ってさあ……」
「本人たち出演の再現ドラマって……」
突っ込みはさらに続くが、発言のたびに勢いは弱くなり、ついに何も言えなくなってしまった。
……そこまでやられたら、もう何も言えません。
何事も中途半端にすると叩かれたり悪口言われたりする。だったら徹底的な過剰さをそこに作り出してしまえば、もう誰も何も言わなくなるのではないだろうか。
ハルウララ人気だってそうだ。50~60連敗なら駄馬だ駄馬だとからかわれるが、100連敗もしたら、もう誰も文句言わない。むしろ応援すらしたくなるというもの。
テストの点数だって、中途半端に悪い点数だから叱られる。全科目堂々の0点だったら、親も諦めてくれるのではないか。
というわけで、ここにやりすぎて何も言われなくなった人たちがいる……。
第6話 孤独な女
Aパート・スレスレ★サーカス (愛蔵版第12巻第5話より)
街にサーカスがやってきた! 広場に大きなテントが設置されて、人々が集まってくる。陽気なピエロが風船を配り、テントの周辺は賑やかな雑踏と笑顔で満たされていた。
テントの中に入っていくと、すでに素晴らしい技の数々が披露されている。定番の玉乗り、ナイフでジャグリング、空中ブランコ……。
「すごーい! すごーい!」
観客席に座る名取羽美が、子供のように興奮して声を上げる。その隣に座る改蔵は、退屈そうにピエロたちの技を冷淡に見つめていた。
次は細い綱の上を、一輪車が渡ろうとする。しかしその途上で、演者がふらふらとバランスを崩し始める。
それに異様な興奮を見せる羽美。
「しーっぱい! しーっぱい! しーっぱい!」
突然立ち上がり、拳を振り上げて叫び始める。
「やめてくださいお客さん! 縁起でもない!」
ピエロが羽美の前に飛び出してくる。しかし羽美は、しばらく一人で「に・く・へ・ん!」コールを続けるのであった。
という羽美は置いておいて、改蔵が鼻の先で嘲笑的な笑いを漏らした。
「綱渡り感に欠けるんじゃないかなぁって」
綱渡りというほど必要に迫られていない。本当の切迫感がそこに演出できていない。本当にギリギリスレスレの綱渡りとはどんなものなのか――改蔵はピエロをもう一つのサーカステントへと連れて行く。
Bパート・近ゴロ、オヘソ出サナイネ。 (愛蔵版第14巻第14話より)
勝改蔵は名取羽美をちらちら見ながら、胸をときめかせていた。ただし顔はこわばり、一杯の汗が浮かんでいる。
「最近、羽美を見ていると、ドキドキしてしまうのです」
改蔵は彩園すずに身の内を告白する。
するとすずは、「あー」と感情のない言葉を長く漏らした。
「それは恋ね」
「恋! そんな! 俺が羽美を好きになるなんて。どうなってしまったんだ俺!」
改蔵は錯乱して部室を飛び出してしまった。
ダットンのアロンの実験によるところの、感情の誤認識である。恐怖心からくる心臓のドキドキと、恋のドキドキと感情が勘違いする現象である。「吊り場理論」という言葉でよく知られているあの現象である。(Wikipedia:吊り橋理論)
それを知った羽美。
「ついに改蔵が私のことを好きになったの? 私を見るとドキドキして堪らないと言うのね!」
大喜びの羽美。しかし羽美は、より恐怖を与えると、そのぶん改蔵が自分を好きになってくれると解釈。そういうわけで、羽美による恐怖の虐殺と破壊が始まった……。
かってに改蔵 上巻
かってに改蔵 中巻
さよなら絶望先生《本家》目次ページへ
作品データ
総監督:新房昭之 監督:龍輪直征 原作:久米田康治
キャラクターデザイン:山村洋貴 メインアニメーター:岩崎安利
美術監督:飯島寿治 伊藤和宏 ビジュアルエフェクト:酒井基 色彩設計:滝沢いづみ
構成:東冨耶子 構成・脚本:高山カツヒコ 編集:関一彦
撮影監督:江藤慎一郎 音響監督:亀山俊樹 音楽:川田瑠夏
プロデューサー:宮本純乃介 アニメーションプロデューサー:久保田光俊
オープニング主題歌:水木一郎と特撮 エンディング主題歌:新☆谷良子
アニメーション制作:シャフト
出演:櫻井孝宏 喜多村英梨 斉藤千和 豊崎愛生 堀江由衣
○ 立木文彦 新谷良子 岩男潤子 永田依子 明坂聡美
○ 小野友樹 千々和竜策 中國卓郎 矢澤りえか MAEDAX
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■2011/10/18 (Tue)
シリーズアニメ■
あーーはっはっはっは!
私はイカ娘でゲソッ! 私たちの住処である海を汚す人間どもを侵略し、平和を取り戻すために地上にやってきたでゲソ!
私が来たからには、もういい加減なことは書かせないでゲソ。この変なブログは完全に私のものでゲソ。ここを拠点に、電脳世界は私が制圧するでゲソ!
アニメ第2期スタートの前に、これまでの成果を語るでゲソ。
人間たちの悪しき振る舞いに怒りを覚えた私は、海での平和な生活を捨て地上に這い上がり、最初に目に付いた海の家「れもん」を侵略の拠点にしようと飛び込んだでゲソ。……なのに気付けば「れもん」で働くことになっていたでゲソ。
仕事のない時は栄子たちの家で過ごし、漫画を読んだり、セガのゲームで遊んだりしているでゲソ。たけるや清美は大切な友達でゲソ。千鶴は……普段はいい人だけど、怒ると怖い人でゲソ。早苗は変な女でゲソ。一度早苗の部屋に監禁され、変な服を着せられ、恥ずかしい写真を一杯撮られたでゲソ。早苗は危険人物だから仲良くなりたくないでゲソ。シンディーは宇宙人の研究でなぜか日本の海水浴場に居座っている変な女でゲソ。
私の周りにはこんな変なやつらばっかりだけど、私は負けないでゲソ。いつか人類を支配し、もとの美しい海を取り戻すでゲソ!
「侵略者」と自称しつつ、普段の活動は海水浴場のゴミを拾ったり……悪いことはあまりできないでゲソ……。いや、私は人間たちを倒すためなら、どんな極悪非道の手段をためらわず、この世界を煉獄の闇に変える覚悟はできているでゲソ! 例えば……ピンポンダッシュとか……。やっぱり千鶴が怒ると怖いから、おとなしくしているでゲソ。
もしかしたら何もしないで「れもん」で働いているだけに見えるかも知れないけど、侵略活動は着実に進行しているでゲソ。
2010年に私の目覚しい活動の記録がテレビ放送されて以来、あらゆる作品やメディアに進出しているでゲソ。
まずは人間界の学問の中心地である早稲田大学の学園祭を2度も侵略。池袋のナンジャタウンでは私をモチーフにしたメニューが作られているでゲソ。オンラインゲーム「トリックスター」でも私の侵略拠点が出現。「とある魔術の禁書目録」のイン……なんだったでゲソ? とにかく侵略してきたでゲソ。今ではカーペイントで私を取り上げるのは常識! スタジオジブリの宮崎駿も「イカ娘」をお気に入り作品に挙げているでゲソ!(←これは本当でゲソか?) 私の口癖「~ゲソ」はネット流行語大賞銅賞を受賞しているでゲソ。 私の勢力は着実に人間世界に広まっていっているでゲソ。このまま突き進めば、世界侵略もきっと夢では終わらないでゲソ!
もちろん幕間のコマーシャルも私が完全に侵略済みでゲソ! はじめて「CMをスキップさせない」有効な手段を見たという感慨だったでゲソ。利権団体は一方的に自分たちの利益ばかり主張する前に、どうやったら飛ばさず見てもらえるか、もう少し考えたほうがいいでゲソ。
映像は海水浴場を舞台にしているので、砂浜と海の色彩が背景の中心となり、すっきりした映像に仕上がっているでゲソ。海水浴場を舞台にしているけど、中心的な人物の描写を除いてモブキャラは思い切って背景に追いやられ、映像の密度は最近の作品においては際立って低いでゲソ。ほとんどの背景が砂浜と海、空だけなので、ざっくりとした印象があるでゲソ。しかも登場するキャラクターは水着と海パンだけでも不自然にならないし、その以上に手を加える必要がないでゲソ。
エンディングテロップを見てもわかるように、スタッフ構成も少人数。1つのエピソードに対して原画はたったの5人。第2原画を加えても10人を越えないでゲソ。もしかすると、漫画の制作人数を同じくらいの少なさでゲソ。
シンプルな映像構成でキャラクターが中心にクローズアップされるから、自然とキャラクターの動画と、その精度の高さのみに意識が集中できるでゲソ。もしかしたら、最近のアニメ作品において、もっとも経済効率のいい作品ともいえるでゲソ。
ただ、エンディングの歩き動画はDVD/ブルーレイまでに書き直してほしいでゲソ。動画の7から原画の1へリピートする瞬間の動きがちゃんと繋がっていないでゲソ。上下動のある動きなのに、スカートの高さが変わらないのも不自然でゲソ。何度も繰り返される動画だから、もう少し大切に描いてほしかったでゲソ。
また、『侵略! イカ娘』の舞台は夏に限定されているため、それ以外の季節を描く必要がないでゲソ。来る日も来る日も延々夏が繰り返され、世界は夏に固定されてしまっているでゲソ。もっとも、季節をテーマにしたエピソードを描けないという弱点はあるし、夏以外のシーズンでは作品の雰囲気が現実世界と合わなくなるという弱点もあるでゲソ(「季節をテーマにしたエピソードを描けない」これは1話完結の日常を舞台にした作品としてはかなり致命的な弱点で、エピソードを練りこむのはかなり大変らしいでゲソ)。
永遠に夏の陽気さが続く作品……それが『イカ娘』でゲソ!
もしも私が「れもん」から去ると……どうやら季節が動き出すらしいでゲソ。なんででゲソか?
秀逸なのが主演を勤めた金本寿子の演技でゲソ。文章にしてもややどころではない奇妙な「~ゲソ」喋りを決して浮き上がらず、自然な言葉の中に見事に取り込んでくれたでゲソ。
……って、私に中の人はいないでゲソー!
世界侵略への道は遠く険しく、果てしないでゲソ。この先、どんな障害が私の前に待ち受けているのか……。
今までも多くの苦難を乗り越えてきたでゲソ。MITの手先と戦ったり、早苗のおぞまし罠にはめられたり、たけるの小学校を侵略したり……。世界侵略達成への道はまだ半ば。始まったばかりでゲソ!
いつか、かつてのような海の美しさを取り戻すために……私は人間世界を侵略し続けるでゲソ!
イカ娘さん、代筆ありがとうございました……主より
作品データ
総監督:水島努 監督:山本靖貴 原作:安部真弘
シリーズ構成:横手美智子 キャラクターデザイン・総作画監督:石川雅一
色彩設計:坂本いづみ 美術監督:舘藤健一 撮影監督:濵 雄紀
音楽:菊谷知樹 音響監督:若林和弘
アニメーション制作:ディオメディア
出演:金本寿子 藤村歩 田中理恵 大谷美貴
○ 伊藤かな恵 中村悠一 片岡あづさ 生天目仁美
○ 菊池こころ 佐々木雄二 勝杏里
■2011/09/27 (Tue)
評論■
『BLOOD』シリーズはプロダクションI.Gが制作するオリジナルアニメーションで、テレビ、映画、ゲームと媒体を変えながら繰り返し描かれてきた作品であり、プロダクションI.Gを代表するオリジナルシリーズとして高い人気と支持を得ている。物語は制服姿の少女が日本刀を手に迫り来る怪物を薙ぎ倒していくバトルアクションであるが、実は主人公である少女もヴァンパイアであるという宿命を抱える伝奇的なストーリーを特徴としている。
最新作である『BLOOD-C』は人気女流作家であるCLAMPをゲストとして迎え、キャラクターデザインを担当、それからストーリー構成の一部をCLAMPから提供を求め、作品のカラーもCLAMPスタイルに纏め上げられている。
物語の舞台は浮島神社を中心とする小さな田舎町である。浮島神社の巫女である更衣小夜は神主である父と2人きりで過ごし、毎夜のごとく八卦に現れる告げに従い、御神刀を手に「古きもの」と呼ばれる異形の魔物たちと戦っていた。
恐ろしい宿命を背負う小夜だが、一方で日常は穏やかで平和的に流れていった。朝食は近所のカフェ・ギモーブの主である七原文人からいただき、のどかに歌いながら学校へ向かう。小夜のいる教室はわずか20名ほど。同じ教室には網埜優花や双子の求衛ののとねね、委員長の鞆総逸樹、寡黙な時真慎一郎といった友人たちがいた。小夜の昼の姿は、私立三荊学園に通うごく普通の女子高生であった。
そんな二重生活を続けていく小夜だったが、間もなく戦いの最中に不思議なイメージを見るようになる。それだけではない。昼の穏やかに思えた日常の中にも、何か得体の知れない違和感が広がっていく……。
激しいバトルアクションと怪しげな雰囲気をまとった伝奇を絡めた粗筋だが、シリーズを通して視聴し続けると、あまりの退屈さに見る側の体力とモチベーションをじわりじわり削り取られてしまう作品である。
ではなぜ『BLOOD-C』の映像に「退屈さ」を感じてしまうのか。一向に進行する気配を見せないストーリーだろうか。間違いなく違う映像なのに、同じように感じられる映像が何度も繰り返されるせいだろうか。近年のアニメ作品と比較して、一つの画面に描かれる情報の密度が低いせいだろうか。あるいは、その密度の中に、物語の進行を感じさせる新鮮さがないせいだろうか。台詞に際立った才能を感じさせないからだろうか。
おそらく視聴者が感じているのはその全てで間違いないであろう。しかしここでは、あえて物語を構成する設定や、背景の密度の低さを肯定的に受け入れ、もう一つの側面、「主人公が置かれている立場・状況」を中心に話を進めていくとしよう。
『BLOOD-C』の物語はなぜ退屈に感じられるのか。それは「主人公の置かれている立場・状況」がエピソードをいくら消費しても変化が見られないからである。「主人公の置かれている立場・状況」が変わらない、つまりそれは、実質的に「物語が進行していない」と同義であり、エピソード数をいくつ重ねても新しい展開はそこになく、むしろエピソード数を無用に消費すればするほどに視聴者はそのぶん退屈さを募らせ、次の放送を見るたびに失望の度量を大きくしていくのである。
もっと詳しくエピソードごとに“何が描かれたか”“何が語られたか”を見ていくとしよう。
次に第2話。第1話とほぼ代わり映えのない日常のシーンが描かれる。第1話との違いであり、キーと考えられるのは“ギモーブ”という食べ物。それから無口なクラスメイト時真慎一郎とのささやかな交流だろう。Bパートのバトルイベントの直前、書庫で父・唯芳との対話がある。母も御神刀を手に「古きもの」と戦ったが破れた、という話がある。
第3話。喫茶ギモーブで朝食、学校へ登校、クラスメイトとの日常的な会話が続く。クラスメイトとギモーブを尋ねたところに警官がやってきて、パン屋の主人が行方不明だと告げられる。その夜、小夜は「古きもの」を追い求める過程でパン屋の主人を見つけ、「古きもの」が飲み込み、殺害される場面を目撃する。小夜は「古きもの」に戦いを挑み、勝利するが、「古きもの」は死に際に「主、約定を守れ」と呟く。
第4話は前回の戦いを回想するところから始まる。「約定を守れ」そのことについて父・唯芳に尋ねると「古きものに惑わされてはいけない」と窘められる。その後はこれまでのエピソードで描いてきた日常の繰り返し。喫茶ギモーブで朝食、学校でクラスメイトの談笑、エピソードの後半に入り約束事になっているバトルイベント。その後、もう一度日常が描かれている。昨夜の戦いではかなりの人が死んだ。しかし街では騒ぎどころかニュースにもならず、いつもの日常が続いていた……。
第5話は冒頭からバトルイベントが始まる。一つ目玉の尼僧と戦い勝利する。一つ目玉の「古きもの」も「約定を守れ」と意味深な台詞を残して死ぬ。
Bパートは再び日常の話。雨で体育が自習になったから怪談をしよう、という話になる。そこで先生の筒鳥香奈子が加わり、その街に残る古い言い伝えを“怪談”として語って聞かせる。
「この街では昔から人ではないものが住まっている。それは人と違う形をしているときもあるし、似たような姿で現れるときもある。けれど、どれも同じなの。人を喰らうこと。それはあまりにも強く、人はその前にあまりにも無力で、なくせないものがあっても、愛するものがいても人ではないものには何にも関わりがない。見つかり、襲われれば、喰われていくだけだった。人たちは、なんとかその人ではないものと話し合おうとした。人ではないものの中には、人と同じ言葉を話すものもいたから。けれど、何も変わらなかった」
「なぜ、ですか?」
小夜が震える声で尋ねる。
「人でないものにとって、人は糧でしかないから。そして、人たちはある決意をした……」
とここで一発の落雷が激しく轟き、小夜が気絶してしまう。
その後、小夜は帰宅し、自宅の書庫の本を読む。今日先生から聞いた話を思い出しながら古い本を読むが、そこに何か違和感があるのに気付く。そこに求衛ねねが尋ねてきて、「古きもの」に襲われる。小夜は御神刀を手に戦うが、ねねが「古きもの」に喰われて死亡する。
第6話。前回のバトルイベントの続きから始まり、小夜は「古きもの」を倒すが、唯芳に眠らされてしまう。小夜は自分の部屋で目覚めるが、夢で見た光景を少しずつ記憶するようになっている。小夜は何か危険なものを感じ、刀を持って学校へ登校する。しかし学校は休校になり帰宅することに。その最中、不思議な犬が話しかけてくる。犬は何か知っているらしい。小夜は追及しようとしたが、そこに怪物と化した求衛ののが襲い掛かってきて、小夜はののもろとも「古きもの」を斬り殺す。
第7話。眠れない小夜に犬が話しかけてくる。小夜と犬はどこかで会ったことがあるらしい。犬はとある店の主だった。そこに小夜が尋ねてきた。「ある願いを叶えるために約束した」と犬は語るが、核心を聞く前に目を覚ましてしまう。Bパートは再び日常が描かれる。ギモーブで朝食を摂り、学校へ行くが「休校よ」と告げられて帰宅。その帰宅途中で「古きもの」と遭遇して戦いになる。「古きもの」は饒舌に御神刀の話も、母の話も、唯芳の話も「戯言だ!」と喚き散らした末に小夜に両断されて死亡する。
第8話は前回の続きから始まり、「古きもの」を退治し、時真との交流がしばし描かれる。小夜は時真にこれまでの事の次第を語って聞かせる。神社に帰り、風呂で休息。そこであの犬が現れ、「怪我がすぐに治る自分の体についてどう思う?」「皆を守る約束を破ったらどうなると思う」と尋ねられるうちに、不思議なイメージを見るようになる。しかし唯芳が風呂場に現れたためにイメージは中断される。それから3日が過ぎて、学校に登校するように指示が来る。学校へ行くと「古きもの」が唐突に現れ……。
第9話。前回のラストに現れた怪物が学校を襲撃。ここでクラスメイトのほとんどが死亡し、多くの犠牲を払ってようやく小夜は「古きもの」を撃退する。ここで小夜は、ようやく違和感の正体に気付く。学校の中に、自分のクラスメイト以外の生徒がいないこと。それから、果たして自分は小夜であったのか、疑問を持つように。
第10話。小夜はまだ自問を続ける。そういえば、母の記憶なんてそもそもなかったことに気付く。そう思い当たった直後、神社を「古きもの」が襲い掛かり、時真が「古きもの」の手によって死亡する。Bパート、自分の部屋で目を覚ました小夜は、ギモーブへ行き、文人から朝食を頂く。そこに先生の筒鳥が尋ねてきて、書庫を見せてほしい、と頼まれる。小夜は筒鳥とともに書庫へ。そこで筒鳥は「いつまでこんなバカな遊びを続けるつもり」と。書庫にある本はすべてニセモノと指摘する筒鳥。そこに、死んだはずの求衛ののとねねが現れる……。
第11話。筒鳥、求衛ののとねね、それから時真の4人が集まり、すべて芝居だったと明かす。街は大きなセットで、たまに見かける人はみんなエキストラとして雇われた人たちばかり。みんなある目的のために集められ、監視されていた、と告げられる……。
第1話は視聴者に基本的な情報、設定が解説されるので絶対必要である。物語の背景である街がどんな場所か、主人公である小夜がどんな立場にいて、どんな活動をしているのか。第1話における解説は必要なプロセスだから絶対に外せない。
問題があるのはその後の第2話から第4話だ。断片的に必要なキーワードが散りばめられているが、本質的には何も物語が進んでいない。今回のテーマに照らし合わせて言えば、主人公の立場・状況に対し何ら影響力を持っていない。第4話までに小夜は様々な戦いを経験してきたが、その戦いが小夜に与えた影響は何もなく、小夜に与えられた立場や状況は何も変化していない。視聴者の立場に立てば、「物語が何も進行していない」というふうに感じられるし、「物語が何も進行していない」というのははっきりとした事実である。
第5話に入り、ようやく視聴者は新たな情報を得ることになる。教室での怪談を語る場面で、物語の背景にある“設定”が説明される。
が、残念ならが第5話における“怪談”は物語に対して、あるいは小夜の立場・状況に対して何ら影響力を与える力にはならなかった。なぜなら“怪談”として筒鳥の口から語らえれた“物語”はそもそもその作品が始まる前提から用意されているものであって、それをあらためて説明されただけに過ぎず、それが新たな物語を展開させる切っ掛けにはならなかった。事実として、その“設定”を聞いた後も小夜の立場や状況、小夜の思想そのものに対して何ら影響を与えることはなく、第1話に前提として提示された物語をその後も繰り返してしまう。
ついでに付け加えると、“怪談”という表装を借りた“解説”自体が間違っている。「雨で何となく暗い雰囲気だから怪談をやろう」という展開からしてかなり突飛だし、筒鳥香奈子から語られた怪談は、ちっとも怪談に聞こえない。聞き手がどう努力しても、「設定を説明しているよう」にしか聞こえないのだ。怪談らしい恐ろしげな雰囲気や怪しさはどこにもなく、台詞が語りらしく聞こえてこない(演技が悪いわけではない)。しかし筒鳥の説明に対して、生徒たちは驚いたり怯えたりする描写が描かれ、最後には小夜がショックで昏倒してしまう。筒鳥の話はただの設定説明でしかない、と勘のいい視聴者は即座に理解するはずだから、語りは怖くも恐ろしくもない。なのに怯えた表情を語りの間に差し挟まれると、あまりにもわざとらしく、しらじらしいという印象になってしまうのである。
どうせだったら訳知りの先輩を登場させて、解説を解説として堂々と説明させたほうが手っ取り早く、自然だ。
作品を退屈にしている原因の一つがバトルイベントだ。小夜は時々目を赤くして、より強い力を発揮するが、その目が赤くなる条件がいまいち不明である。しかも、いつも何人か犠牲になった後で、「なぜもっと早く覚醒しないのか」と突っ込みたくなる。どうせなら、もっと緊張感のあるタイミングで目を赤くするべきだ。「目が赤くなる条件は残りの尺と関係しているのではないか」と言われてしまう原因になってしまっている。
第6話に入り、メインキャラクターである求衛ねね・のの姉妹が死亡する。普通の感覚で言えばかなりショッキングな場面であるはずなのに、主人公の小夜が置かれている状況を劇的に変化させる要因にはならなかった。ねねとののの死が小夜の立場・状況に革命を与えることはなく、小夜はその後も変わらず学校へ通うし、敵である「古きもの」と戦い続ける。
求衛ねねとののの死は、客観的に見て大きなインパクトがあってしかるべきである。それに、真昼の大通りでかなり派手な大立ち回りを演じ、求衛ねね・ののだけではなくかなりの人が死亡したし、街の一角に甚大な破壊をもたらした。にも関わらず、誰一人小夜を通報していないのである。警察は制服巡査がたった1人描かれるだけで、あれだけの死亡者(それ以前にかなりの行方不明者が出ている)が出たのにも関わらず、警察は何もしていないのである。
本来であったらあれだけの破壊と死者が出た場合、通報後20分以内でパトカーがすっ飛んできて(どんな田舎でも離島でも20分以内で現場に到着する、という内規がある)、現場は完全に封鎖、機動捜査隊、鑑識による初動捜査が始まるはずである。救急車もやってくるだろう。どう見ても大きな事件だから、かなりの数の捜査員が現場にやってきて、街は厳戒態勢のような状態に陥るはずである。
それにあの場面で小夜を目撃した人もたくさんいた。あの瞬間、間違いなく小夜は第1級の被疑者として町中に指名手配写真が配布されるはずである。もし警察の目から奇跡的に見逃されたとしても、街の人々による警戒の目、差別の意識は強烈に小夜に向けられるはずである。しかし、実際にはそんな状況にはならなかった。あれだけの怪我人と死者を出したのにも関わらず、町の人たちは小夜に何ら干渉してくることはなかった。
メインキャラクターであるはずの求衛ねね・のの姉妹が死亡した、という点にも注目したい。求衛ねね・ののは第1回から登場してきた、作品を彩る賑やかなキャラクターである。視聴者も――普通ならば――かなり愛着を抱いているはずである。しかし求衛ねね・ののの死に小夜の落胆も悲しみも描かれることはなく、その死が物語に対してドラマティックな揺さぶりを与えることはなかった。視聴者にも少しばかりの――奇妙な――動揺を与えただけで、求衛ねね・ののの死が感動的な感傷を生み出すわけでもなく、そして物語自体にも何ら影響を与えることはなかった。小夜が置かれている立場・状況に対して何ら変化を与えなかった。ただ単に、毎回登場しているキャラの1人が減っただけ、という印象であった。
120分の映画の場合、物語を転換させるツイストは3~4回が適切だとされている。20~30分に一度ツイストが入る感覚である。シリーズアニメではどれくらいの期間でツイストを入れるべきか、具体的な方法論が示された例はない。早すぎると受け手が感情移入しづらいし、遅すぎると緩慢に感じる。ただ、シリーズアニメは劇場映画より初期地点から大きな変換とその課程を描けるという利点がある。これは大いに自覚して利用すべきところだ。
7話・8話について何ら解説すべき特記事項は見当たらない。求衛ねねとののの死という――普通に考えて――ショッキングな事件が起きたにも関わらず、小夜はほとんど動揺を見せず、自分の置かれている立場や状況に何らかの疑問を呈することもなく、その後も日常と戦いの繰り返しが描写された。その最中に、断片的で意味深なキーワードがいくつも差し挟まされたが、そのキーワードを受け取って小夜が何かしらのアクションを――物語の方向性を変化させるような抵抗運動的な何かをするわけでもなく、普段どおりの行動をその後も繰り返し続けた。はっきり言えば、無駄打ちエピソードである。
9話に入ってようやく、初めて有意義と思われる変化が作品に訪れる。「古きもの」が突如真昼の学校に出現。小夜のクラスを襲撃し、生徒のほぼ全員を虐殺。
『BLOOD-C』以外の普通の作品であれば、間違いなくキャラクターが置かれている立場・状況を一変させる大事件である。しかしクラスメイト全員死亡、という凄まじい惨劇を前にしても、小夜自身の変化といえば「自分のクラス以外の生徒がいない」ということと「自分自身のアイデンティティ」が少々揺らいだだけであった。小夜自身のこの2つの変化と発見は、よくよく考えるまでもなくクラスメイト全員死亡という事件とはまったく無関係の話であり、「もっと早く気付けよ」と突っ込むべきところである。クラスメイトの死亡という事件が何らかのドラマを引き起こす切っ掛けにならず、物語の状況を次に移すためのステップにすらならず、小夜自身に与えた変化といえば、少々の内的な発見だけで、やはり小夜が置かれている立場や状況に変化は起きなかった。視聴者は「結局なにも変わっていない」と受け取ったはずである。
10話にも記すべき変化は何もない。9話の延長で「古きもの」襲撃後の発見を延々繰り返しただけで、有意義な進展のない無駄打ちエピソードである。
10話をすっ飛ばして11話に入り、死んだはずのキャラクターが再登場して、実は全てお芝居だったと明かす。これが本来の意味で初めて有意義な変化だった、と言えるだろう。停滞に次ぐ停滞が延々続き、初めて目の前のもやもやした霞が晴れたような気分である。恐ろしく長い助走が終わり、ようやく三段跳びの最初の一歩目を踏み出せたような、そんな感慨であった。
11話の展開が、3話か4話までに描けていれば、もっと良かった。
おおよそ意味のないプロットの連続に、物語に何ら変化を与える力を持たないサブキャラクターたち。プロット作りは構造的、機能的意義を持って構成しなければならない。それぞれのキャラクターがどんな役割をもって主人公の立場・状況に介入してくるか。ただ思いついたものを整理せず物語に放り込んだだけではダメだし、何が必要で何が必要ではないか、それは物語を描く前に作り手が厳しく判定を下すべき問題である。(『ゆるゆり』の件はあまりにも特殊な事例なので、比較として取り上げるべきではない)
ここで最近の優秀作品『シュタインズ・ゲート』を引き合いに出すとしよう。『シュタインズ・ゲート』は未来ガジェット研究所……大檜山ビル2階を主だった舞台としてキャラクターたちはほとんど移動せず、エピソードによっては大檜山ビル2階の1室だけで進行することは珍しくない。未来ガジェット研究所が置かれる秋葉原から外に出る場面は基本的にない(東京ビッグサイトのコスプレ会場に行く場面が例外として少しあるだけである)。物語の半径は秋葉原周辺を限界としてそれ以上周辺に広がっていくことはなく、物語に必要なキャラクターやファクターは秋葉原周辺にほとんど準備されている、という設定である。
ふとすると物語が閉塞的になって、退屈な内容になる危険性の高い設計にも関わらず、『シュタインズ・ゲート』は飛びぬけて面白い。今年一番の傑作であるといっても誰も反論しない優れたエンターテインメントである。
では『シュタインズ・ゲート』と『BLOOD-C』を比較した場合、決定的に違うポイントはどこであろうか。それは主人公鳳凰院凶真……いや岡部倫太郎が置かれている立場・状況が確実な歩みを持って少しずつ変化してくところだろう。それぞれのキャラクターに出会い、タイムマシン発明のヒントを握るIBN5000を手に入れ、SERNと少しずつ関わっていく様を順当に描いている。一見するとゆっくりとした慎重な歩みに思えるが、実際には極めて合理的意図を持って着実に物語が目指すクライマックスに向けて重要なファクターを積み上げていっている。
『シュタインズ・ゲート』の物語が決定的な変化を迎えたのが12話。とある重要人物の死によって、物語は大きな節目を迎える。そこで岡部倫太郎は発明したばかりのタイムマシンを利用し、過去へとタイムリープし、とある人物の死を回避するために、様々な方法を考案し、何度も同じ時間を繰り返すのだが、その段階で、これまでに積み上げてきた全てのエピソードが実はかなり重要な意味を持っていることを岡部と視聴者は知ることになり、愕然となるわけである。
全てのキャラクターの台詞、行動が何らかの意図を持って合理的に描かれており、それらが主人公岡部倫太郎の立場・状況に干渉している。だから物語の舞台が同じ場所の繰り返しであっても退屈は感じない。“物語の舞台自体は移動していない”のに、“物語そのものに移動感”があり、その移動感を視聴者に感じさせるようにしっかり描かれている。
『シュタインズ・ゲート』はユニークにひねくった名台詞の数々も楽しみのポイントであるが、それ以上に人を惹きつけさせる力を持っていた。物語の根本である骨格が太く、揺るぎない強さを持っているからである。近年のアニメ作品群にあって間違いなく良質な一作と言える作品であった。
漫画・小説養成講座などでは、物語が失速ぎみと感じたら、とりあえず主人公を走らせろ!と教えている。確かに主人公が走るとそれだけで疾走感が出る。走る、飛ぶといった原初的な行動は、読む側に無条件の爽快感を与えるのである。しかし『BLOOD-C』には毎回必ずバトルイベントが挿入されたが、爽快感、疾走感はどこにもなかった。どこかRPGのエンカウントバトルのような、まだるっこしい義務感があっただけだ。それは恐らく、“戦った”という経験に意義を与えられなかったからだろう。
そろそろ『BLOOD-C』に話を引き戻し、この感想文をやっつけるとしよう。
『BLOOD-C』の基本的な設定、キャラクターを変更しないルールで、どのように改変し、描けば退屈しないで視聴が耐久マラソン状態にならずに済んだのだろうか。視聴を飽きさせない重要なポイントは、物語に停滞感を与えないことである。それはどんなにひねくったユニークな台詞を連打したとしても、本質的な“変化”がなければどんな作品でも退屈であると判定されてしまう。
大切なのは物語の構築に“移動感”を意識することである。この“移動感”を描くために、主人公の立場・状況を常に明快にしていくと効果的である。
主人公小夜は夜な夜な「古きもの」との死闘を演じていた。間もなく「古きもの」が小夜に「約定を守れ」と語りかける。そこで小夜は、父・唯芳に疑いを持つようになる……。
『BLOOD-C』の決定的問題は、主人公小夜の性格があまりにも淡白に描かれすぎたことである。「古きもの」と戦い、激しく傷ついても翌日には何事もなく回復してしまっている。「古きもの」に語りかけられても、小夜自身の意識と行動に何ら影響を与えることがなく、前回と同じ行動、台詞を当り前のものとして繰り返してしまう。小夜の設定が磐石過ぎて、そこに動きを感じないのだ。
だから、ここを少々改変すれば作品に動きが生まれる。唯芳に対する疑いが生じると共に、「古きもの」との戦い自体に疑いと迷いが生じ、そもそもなぜ自分が「古きもの」と戦うようになったか、その起源を追跡するようになる(そしてその起源に対しても疑いを持つようになる)。
これでかなり退屈な繰り返しの物語から、ある程度の動きが生じたはずである。
それでも小夜は、人々に危害を加える「古きもの」との戦いをやめるわけにはいかず、危険の中に身を置き続ける。だが間もなく「古きもの」は夜だけではなく昼の街中にも現れるようになり、戦いは多くの被害者を生み出すようになる。街の人たち、それから小夜のクラスメイトは小夜の存在を強く意識し、同時に小夜も街の人たちを強く意識するようになる。偏見や差別、誤解がこの両者の間に生まれ、小夜は孤独な立場へと追いやられてしまう。こう描けば小夜の孤独なヒロイズムの側面が強く際立ち、同時に鞆総、時真との関係にメロドラマ的な情緒を生み始めるはずである。『BLOOD-C』はなぜか恋愛物語に発展しそうな要素を避けて描かれていたが、恋愛は人々を強く惹きつけるので、むしろ積極的に描き、あるいは恋愛の匂いを漂わせておくべきである。
小夜は街の人たちから徹底的な排除と妨害を受けながらも、戦いを続けていく。おそらくサブキャラクターたちの心理も追いつめられていき、どこかで限界を迎えるだろう。その両者が限界に達したところでネタ晴らし。「実はなにもかもお芝居だった」と誰かが小夜に明かす。登場キャラクターそれぞれの心理的過程をしっかり描けば、間違いなく緊張感を伴う力強いプロットに変わったはずだ。
何となく意味ありげな台詞やキーワードを物語のあちこちに振りまく手法は何ら合理的効果を持たない。それらの台詞やイメージは視聴者に物語の背景を想像させる切っ掛けを与えるが、合理的効果を予想して配置しないと、ただ単に次の展開や話のオチを予想させるヒントになってしまい、かえって物語を追いかけていく楽しみがなくなってしまう。しかも主人公に与えられている立場や状況にはなんら影響を与えていないのだから、物語を次の段階に移す機会を見出せないまま単に時間(あるいはページ枚数)を消費するだけになってしまう。だから、主人公の立場・状況を明確に意識し、物語に移動感を与えることが大切なのだ。
上に書いた修正プロットだけでは正直なところ、視聴者を惹きつける力を持ちえたとは思えない。だが、とりあえずオリジナルプロットよりはほんの少し退屈さが緩和され、もう少し視聴を続けようというだけの移動感が生まれたはずだ。
物語を本当に魅力的にする力とは、合理的な思考、判断とはもっと違うもの――インスピレーションの強烈さである。傑作を生み出す力とは、常識と意外性の谷間に沈んでいる小さなひらめきである。そのひらめきを見出せない限り、いくら会社命令といえど無理に作品を捻り出すべきではない。どんな企画でも熟成させる期間が必要なのだ。物語に確実な移動感があり、さらにドラマティックな感情の高ぶりをより多くの人に共感させられる力があれば、どんな作品でももう少し高い評価が得られるはずである。
プロダクションI.Gは少し前まで、日本で最も絵のうまいアニメーターを抱える制作会社として世界に知れ渡っていた。しかしその勢いは今どこにもない。つい最近も、アニメファンから最低の評価を受けた『もしドラ』もプロダクションI.G作品だった。今のままではアニメファンから見放され、DVD売り上げも伸びず、それらは会社経営に対して甚大な影響力を持つようになるはずだ。会社は良質な作品を作り続けなければならない。そろそろ名誉挽回のための打ち上げ花火を見たいところだが。
『BLOOD-C』のような明らかな失敗作と接すると、その制作会社に乗り込んで、関係者をしつこいくらい追い回してインタビューし、どうしてそうなったのかどの段階で失敗が生じたのか、その原因を追求したくなる。もちろん一介のブロガーにそんな権限などあるわけがないし、普通は失敗作の原因なんて当事者は振り返りたくないはずだし、ほとんどの当事者は自分たちの創作が失敗だったと認めたくないはずだ(大抵の場合、失敗の原因と反省を受け手の側に求める)。
一般的な批評家は、制作スタッフの中に知っている名前を何人か見出し、その数人を“戦犯”という名の生贄と祭り上げる。
しかしそういう批評のやり方は何の意味がない。ただ制作スタッフの中の数人を引っ張り上げて精一杯の力で叩きのめしても、失敗した原因を知ったことにはならず、次の作品に向けた反省にもならない。“祭り上げる”“叩く”はイジメにありがちな典型的な心理状態――ストレス解消法でしかなく、叩けばスッキリするだろうが、反省を見出したわけではなく、次も同じ失敗を繰り返すだろうし、やはり反省がなければ誰かを生贄として祭り上げ、放逐した挙句、そのうちにも組織の力は弱体化していく。
どんな天才的な監督、有能なスタッフが集まっても失敗するときは失敗するのである。
映画やアニメといった集団制作を前提とした作品は、個人が作り上げる漫画や小説と明らかに性質が違う。何が原因で失敗したのか、なぜ作品が失速したのか、その原因を分析するのは容易ではない。まずいって当事者ですら理解できていない場合がほとんどだ。
映画やアニメといった集団制作になると、あらゆる状況が製作過程に出現する。時間勝負でお金が流れ出て行ってしまうので、状況のどこかで一旦止めましょうというわけにはいかない。まるで洞窟の掘削作業のごとく、自分でどこを掘り進めているか見失うこともしばしばある。だから、どこで作品の品質という重要問題にほころびが生じたのか、ある意味、作り手が一番理解できず、作り手が知りたいと思うところなのである。
制作開始までに有能なスタッフが集まらなかったのか。どこかで制作体制に甚大な被害をもたらす障害が生じたのか。単純に制作途上でお金が尽きて、無理矢理スケールダウンしなくてはならず、その影響でストーリー構造にも被害を与えてしまったのか。制作に絶対必要なスタッフが病気で倒れた、というケースもあり得る。どこかの段階で間違いなく最終結果に影響を与える何かが起きているはずだけど、当事者がそれを把握できず、また予測もできなかった。
だからその失敗の事例を収集し、分析し、失敗のパターンをインデックスにして提示できれば、将来的には失敗するケース自体はかなりの確率で減らせるはずである。もちろん、【失敗作ではない=傑作】というわけではない。【失敗作ではない=まあまあそこそこの作品】に過ぎない。だが明らかな失敗作を作ってしまうよりかはマシだと思いたい。
その逆に傑作を作り出すことは容易ではないし、どんな作品も傑作を作るための参考にはならない。大ヒットした傑作を手本にしてそれと同等の精度を持った芸術を作り上げても、そのときには人々はすでに違うパースティクティブの作品を求め始めている(例えばセガは、ソニーのゲーム機を意識して丸みを帯びたホワイトボディのドリームキャストを作ったが、当のソニーはブラックボディのいかめしいトールタイプのゲーム機を作った)。傑作に少々の改変を加えてもダメだ。それだけでもオリジナルが持っていたエッセンスは完全に失われる。傑作とはトランプで作ったピラミッドのような、微妙でぎりぎりの均衡を持って奇跡的にそこに立っているものと了解しなくてはならない(つまり、ほとんどのリメイク映画は失敗する宿命を抱えているわけだ)。
だからこそ、傑作ではなく駄作にこそ学ぶべきものはあるのだ。「つまらないから」といって切り捨てるのではなく、「なぜつまらないのか」を貪欲に知ろうとする意識が、作品をよりよくする秘密を知るチャンスを得ることになるのだ。
作品データ
『BLOOD-C』
監督:水島努 原作:ProductionI.G/CLAMP 原作監修:藤咲淳一
ストーリー・キャラクター原案:CLAMP 脚本:大川七瀬、藤咲淳一
アニメーションキャラクターデザイン:黄瀬和哉 総作画監督:後藤隆幸
コンセプトデザイン:塩谷直義 『古きもの』デザイン:篠田知宏
プロップデザイン:幸田直子 美術設定:金平和茂 美術監督:小倉宏昌
色彩設計:境成美 3DCGI:塚本倫基 編集:植松淳一
撮影監督:荒井栄児 特殊効果:村上正博
音楽:佐藤直紀 音響監督:岩浪美和
アニメーション制作:ProductionI.G
出演:水樹奈々 藤原啓治 野島健児 浅野真澄
○ 福圓美里 阿部敦 鈴木達央 宮川美保
最新作である『BLOOD-C』は人気女流作家であるCLAMPをゲストとして迎え、キャラクターデザインを担当、それからストーリー構成の一部をCLAMPから提供を求め、作品のカラーもCLAMPスタイルに纏め上げられている。
物語の舞台は浮島神社を中心とする小さな田舎町である。浮島神社の巫女である更衣小夜は神主である父と2人きりで過ごし、毎夜のごとく八卦に現れる告げに従い、御神刀を手に「古きもの」と呼ばれる異形の魔物たちと戦っていた。
恐ろしい宿命を背負う小夜だが、一方で日常は穏やかで平和的に流れていった。朝食は近所のカフェ・ギモーブの主である七原文人からいただき、のどかに歌いながら学校へ向かう。小夜のいる教室はわずか20名ほど。同じ教室には網埜優花や双子の求衛ののとねね、委員長の鞆総逸樹、寡黙な時真慎一郎といった友人たちがいた。小夜の昼の姿は、私立三荊学園に通うごく普通の女子高生であった。
そんな二重生活を続けていく小夜だったが、間もなく戦いの最中に不思議なイメージを見るようになる。それだけではない。昼の穏やかに思えた日常の中にも、何か得体の知れない違和感が広がっていく……。
激しいバトルアクションと怪しげな雰囲気をまとった伝奇を絡めた粗筋だが、シリーズを通して視聴し続けると、あまりの退屈さに見る側の体力とモチベーションをじわりじわり削り取られてしまう作品である。
ではなぜ『BLOOD-C』の映像に「退屈さ」を感じてしまうのか。一向に進行する気配を見せないストーリーだろうか。間違いなく違う映像なのに、同じように感じられる映像が何度も繰り返されるせいだろうか。近年のアニメ作品と比較して、一つの画面に描かれる情報の密度が低いせいだろうか。あるいは、その密度の中に、物語の進行を感じさせる新鮮さがないせいだろうか。台詞に際立った才能を感じさせないからだろうか。
おそらく視聴者が感じているのはその全てで間違いないであろう。しかしここでは、あえて物語を構成する設定や、背景の密度の低さを肯定的に受け入れ、もう一つの側面、「主人公が置かれている立場・状況」を中心に話を進めていくとしよう。
『BLOOD-C』の物語はなぜ退屈に感じられるのか。それは「主人公の置かれている立場・状況」がエピソードをいくら消費しても変化が見られないからである。「主人公の置かれている立場・状況」が変わらない、つまりそれは、実質的に「物語が進行していない」と同義であり、エピソード数をいくつ重ねても新しい展開はそこになく、むしろエピソード数を無用に消費すればするほどに視聴者はそのぶん退屈さを募らせ、次の放送を見るたびに失望の度量を大きくしていくのである。
もっと詳しくエピソードごとに“何が描かれたか”“何が語られたか”を見ていくとしよう。
《次の段落まで読み飛ばし推奨》
第1話は基本的な情報が解説される。更衣小夜は浮島神社の巫女であり、父親と2人きりで過ごしている。夜になると御神刀を手に「古きもの」と呼ばれる怪物と闘争を繰り広げている。島で唯一の学校である私立三荊学園には何人かの親しい友人がいる。もう1つ、第1話の重要と思えるキーはどこかの神社の前に佇む変な“犬”だろう。次に第2話。第1話とほぼ代わり映えのない日常のシーンが描かれる。第1話との違いであり、キーと考えられるのは“ギモーブ”という食べ物。それから無口なクラスメイト時真慎一郎とのささやかな交流だろう。Bパートのバトルイベントの直前、書庫で父・唯芳との対話がある。母も御神刀を手に「古きもの」と戦ったが破れた、という話がある。
第3話。喫茶ギモーブで朝食、学校へ登校、クラスメイトとの日常的な会話が続く。クラスメイトとギモーブを尋ねたところに警官がやってきて、パン屋の主人が行方不明だと告げられる。その夜、小夜は「古きもの」を追い求める過程でパン屋の主人を見つけ、「古きもの」が飲み込み、殺害される場面を目撃する。小夜は「古きもの」に戦いを挑み、勝利するが、「古きもの」は死に際に「主、約定を守れ」と呟く。
第4話は前回の戦いを回想するところから始まる。「約定を守れ」そのことについて父・唯芳に尋ねると「古きものに惑わされてはいけない」と窘められる。その後はこれまでのエピソードで描いてきた日常の繰り返し。喫茶ギモーブで朝食、学校でクラスメイトの談笑、エピソードの後半に入り約束事になっているバトルイベント。その後、もう一度日常が描かれている。昨夜の戦いではかなりの人が死んだ。しかし街では騒ぎどころかニュースにもならず、いつもの日常が続いていた……。
第5話は冒頭からバトルイベントが始まる。一つ目玉の尼僧と戦い勝利する。一つ目玉の「古きもの」も「約定を守れ」と意味深な台詞を残して死ぬ。
Bパートは再び日常の話。雨で体育が自習になったから怪談をしよう、という話になる。そこで先生の筒鳥香奈子が加わり、その街に残る古い言い伝えを“怪談”として語って聞かせる。
「この街では昔から人ではないものが住まっている。それは人と違う形をしているときもあるし、似たような姿で現れるときもある。けれど、どれも同じなの。人を喰らうこと。それはあまりにも強く、人はその前にあまりにも無力で、なくせないものがあっても、愛するものがいても人ではないものには何にも関わりがない。見つかり、襲われれば、喰われていくだけだった。人たちは、なんとかその人ではないものと話し合おうとした。人ではないものの中には、人と同じ言葉を話すものもいたから。けれど、何も変わらなかった」
「なぜ、ですか?」
小夜が震える声で尋ねる。
「人でないものにとって、人は糧でしかないから。そして、人たちはある決意をした……」
とここで一発の落雷が激しく轟き、小夜が気絶してしまう。
その後、小夜は帰宅し、自宅の書庫の本を読む。今日先生から聞いた話を思い出しながら古い本を読むが、そこに何か違和感があるのに気付く。そこに求衛ねねが尋ねてきて、「古きもの」に襲われる。小夜は御神刀を手に戦うが、ねねが「古きもの」に喰われて死亡する。
第6話。前回のバトルイベントの続きから始まり、小夜は「古きもの」を倒すが、唯芳に眠らされてしまう。小夜は自分の部屋で目覚めるが、夢で見た光景を少しずつ記憶するようになっている。小夜は何か危険なものを感じ、刀を持って学校へ登校する。しかし学校は休校になり帰宅することに。その最中、不思議な犬が話しかけてくる。犬は何か知っているらしい。小夜は追及しようとしたが、そこに怪物と化した求衛ののが襲い掛かってきて、小夜はののもろとも「古きもの」を斬り殺す。
第7話。眠れない小夜に犬が話しかけてくる。小夜と犬はどこかで会ったことがあるらしい。犬はとある店の主だった。そこに小夜が尋ねてきた。「ある願いを叶えるために約束した」と犬は語るが、核心を聞く前に目を覚ましてしまう。Bパートは再び日常が描かれる。ギモーブで朝食を摂り、学校へ行くが「休校よ」と告げられて帰宅。その帰宅途中で「古きもの」と遭遇して戦いになる。「古きもの」は饒舌に御神刀の話も、母の話も、唯芳の話も「戯言だ!」と喚き散らした末に小夜に両断されて死亡する。
第8話は前回の続きから始まり、「古きもの」を退治し、時真との交流がしばし描かれる。小夜は時真にこれまでの事の次第を語って聞かせる。神社に帰り、風呂で休息。そこであの犬が現れ、「怪我がすぐに治る自分の体についてどう思う?」「皆を守る約束を破ったらどうなると思う」と尋ねられるうちに、不思議なイメージを見るようになる。しかし唯芳が風呂場に現れたためにイメージは中断される。それから3日が過ぎて、学校に登校するように指示が来る。学校へ行くと「古きもの」が唐突に現れ……。
第9話。前回のラストに現れた怪物が学校を襲撃。ここでクラスメイトのほとんどが死亡し、多くの犠牲を払ってようやく小夜は「古きもの」を撃退する。ここで小夜は、ようやく違和感の正体に気付く。学校の中に、自分のクラスメイト以外の生徒がいないこと。それから、果たして自分は小夜であったのか、疑問を持つように。
第10話。小夜はまだ自問を続ける。そういえば、母の記憶なんてそもそもなかったことに気付く。そう思い当たった直後、神社を「古きもの」が襲い掛かり、時真が「古きもの」の手によって死亡する。Bパート、自分の部屋で目を覚ました小夜は、ギモーブへ行き、文人から朝食を頂く。そこに先生の筒鳥が尋ねてきて、書庫を見せてほしい、と頼まれる。小夜は筒鳥とともに書庫へ。そこで筒鳥は「いつまでこんなバカな遊びを続けるつもり」と。書庫にある本はすべてニセモノと指摘する筒鳥。そこに、死んだはずの求衛ののとねねが現れる……。
第11話。筒鳥、求衛ののとねね、それから時真の4人が集まり、すべて芝居だったと明かす。街は大きなセットで、たまに見かける人はみんなエキストラとして雇われた人たちばかり。みんなある目的のために集められ、監視されていた、と告げられる……。
■■■■
第1話は視聴者に基本的な情報、設定が解説されるので絶対必要である。物語の背景である街がどんな場所か、主人公である小夜がどんな立場にいて、どんな活動をしているのか。第1話における解説は必要なプロセスだから絶対に外せない。
問題があるのはその後の第2話から第4話だ。断片的に必要なキーワードが散りばめられているが、本質的には何も物語が進んでいない。今回のテーマに照らし合わせて言えば、主人公の立場・状況に対し何ら影響力を持っていない。第4話までに小夜は様々な戦いを経験してきたが、その戦いが小夜に与えた影響は何もなく、小夜に与えられた立場や状況は何も変化していない。視聴者の立場に立てば、「物語が何も進行していない」というふうに感じられるし、「物語が何も進行していない」というのははっきりとした事実である。
第5話に入り、ようやく視聴者は新たな情報を得ることになる。教室での怪談を語る場面で、物語の背景にある“設定”が説明される。
が、残念ならが第5話における“怪談”は物語に対して、あるいは小夜の立場・状況に対して何ら影響力を与える力にはならなかった。なぜなら“怪談”として筒鳥の口から語らえれた“物語”はそもそもその作品が始まる前提から用意されているものであって、それをあらためて説明されただけに過ぎず、それが新たな物語を展開させる切っ掛けにはならなかった。事実として、その“設定”を聞いた後も小夜の立場や状況、小夜の思想そのものに対して何ら影響を与えることはなく、第1話に前提として提示された物語をその後も繰り返してしまう。
ついでに付け加えると、“怪談”という表装を借りた“解説”自体が間違っている。「雨で何となく暗い雰囲気だから怪談をやろう」という展開からしてかなり突飛だし、筒鳥香奈子から語られた怪談は、ちっとも怪談に聞こえない。聞き手がどう努力しても、「設定を説明しているよう」にしか聞こえないのだ。怪談らしい恐ろしげな雰囲気や怪しさはどこにもなく、台詞が語りらしく聞こえてこない(演技が悪いわけではない)。しかし筒鳥の説明に対して、生徒たちは驚いたり怯えたりする描写が描かれ、最後には小夜がショックで昏倒してしまう。筒鳥の話はただの設定説明でしかない、と勘のいい視聴者は即座に理解するはずだから、語りは怖くも恐ろしくもない。なのに怯えた表情を語りの間に差し挟まれると、あまりにもわざとらしく、しらじらしいという印象になってしまうのである。
どうせだったら訳知りの先輩を登場させて、解説を解説として堂々と説明させたほうが手っ取り早く、自然だ。
作品を退屈にしている原因の一つがバトルイベントだ。小夜は時々目を赤くして、より強い力を発揮するが、その目が赤くなる条件がいまいち不明である。しかも、いつも何人か犠牲になった後で、「なぜもっと早く覚醒しないのか」と突っ込みたくなる。どうせなら、もっと緊張感のあるタイミングで目を赤くするべきだ。「目が赤くなる条件は残りの尺と関係しているのではないか」と言われてしまう原因になってしまっている。
第6話に入り、メインキャラクターである求衛ねね・のの姉妹が死亡する。普通の感覚で言えばかなりショッキングな場面であるはずなのに、主人公の小夜が置かれている状況を劇的に変化させる要因にはならなかった。ねねとののの死が小夜の立場・状況に革命を与えることはなく、小夜はその後も変わらず学校へ通うし、敵である「古きもの」と戦い続ける。
求衛ねねとののの死は、客観的に見て大きなインパクトがあってしかるべきである。それに、真昼の大通りでかなり派手な大立ち回りを演じ、求衛ねね・ののだけではなくかなりの人が死亡したし、街の一角に甚大な破壊をもたらした。にも関わらず、誰一人小夜を通報していないのである。警察は制服巡査がたった1人描かれるだけで、あれだけの死亡者(それ以前にかなりの行方不明者が出ている)が出たのにも関わらず、警察は何もしていないのである。
本来であったらあれだけの破壊と死者が出た場合、通報後20分以内でパトカーがすっ飛んできて(どんな田舎でも離島でも20分以内で現場に到着する、という内規がある)、現場は完全に封鎖、機動捜査隊、鑑識による初動捜査が始まるはずである。救急車もやってくるだろう。どう見ても大きな事件だから、かなりの数の捜査員が現場にやってきて、街は厳戒態勢のような状態に陥るはずである。
それにあの場面で小夜を目撃した人もたくさんいた。あの瞬間、間違いなく小夜は第1級の被疑者として町中に指名手配写真が配布されるはずである。もし警察の目から奇跡的に見逃されたとしても、街の人々による警戒の目、差別の意識は強烈に小夜に向けられるはずである。しかし、実際にはそんな状況にはならなかった。あれだけの怪我人と死者を出したのにも関わらず、町の人たちは小夜に何ら干渉してくることはなかった。
メインキャラクターであるはずの求衛ねね・のの姉妹が死亡した、という点にも注目したい。求衛ねね・ののは第1回から登場してきた、作品を彩る賑やかなキャラクターである。視聴者も――普通ならば――かなり愛着を抱いているはずである。しかし求衛ねね・ののの死に小夜の落胆も悲しみも描かれることはなく、その死が物語に対してドラマティックな揺さぶりを与えることはなかった。視聴者にも少しばかりの――奇妙な――動揺を与えただけで、求衛ねね・ののの死が感動的な感傷を生み出すわけでもなく、そして物語自体にも何ら影響を与えることはなかった。小夜が置かれている立場・状況に対して何ら変化を与えなかった。ただ単に、毎回登場しているキャラの1人が減っただけ、という印象であった。
120分の映画の場合、物語を転換させるツイストは3~4回が適切だとされている。20~30分に一度ツイストが入る感覚である。シリーズアニメではどれくらいの期間でツイストを入れるべきか、具体的な方法論が示された例はない。早すぎると受け手が感情移入しづらいし、遅すぎると緩慢に感じる。ただ、シリーズアニメは劇場映画より初期地点から大きな変換とその課程を描けるという利点がある。これは大いに自覚して利用すべきところだ。
7話・8話について何ら解説すべき特記事項は見当たらない。求衛ねねとののの死という――普通に考えて――ショッキングな事件が起きたにも関わらず、小夜はほとんど動揺を見せず、自分の置かれている立場や状況に何らかの疑問を呈することもなく、その後も日常と戦いの繰り返しが描写された。その最中に、断片的で意味深なキーワードがいくつも差し挟まされたが、そのキーワードを受け取って小夜が何かしらのアクションを――物語の方向性を変化させるような抵抗運動的な何かをするわけでもなく、普段どおりの行動をその後も繰り返し続けた。はっきり言えば、無駄打ちエピソードである。
9話に入ってようやく、初めて有意義と思われる変化が作品に訪れる。「古きもの」が突如真昼の学校に出現。小夜のクラスを襲撃し、生徒のほぼ全員を虐殺。
『BLOOD-C』以外の普通の作品であれば、間違いなくキャラクターが置かれている立場・状況を一変させる大事件である。しかしクラスメイト全員死亡、という凄まじい惨劇を前にしても、小夜自身の変化といえば「自分のクラス以外の生徒がいない」ということと「自分自身のアイデンティティ」が少々揺らいだだけであった。小夜自身のこの2つの変化と発見は、よくよく考えるまでもなくクラスメイト全員死亡という事件とはまったく無関係の話であり、「もっと早く気付けよ」と突っ込むべきところである。クラスメイトの死亡という事件が何らかのドラマを引き起こす切っ掛けにならず、物語の状況を次に移すためのステップにすらならず、小夜自身に与えた変化といえば、少々の内的な発見だけで、やはり小夜が置かれている立場や状況に変化は起きなかった。視聴者は「結局なにも変わっていない」と受け取ったはずである。
10話にも記すべき変化は何もない。9話の延長で「古きもの」襲撃後の発見を延々繰り返しただけで、有意義な進展のない無駄打ちエピソードである。
10話をすっ飛ばして11話に入り、死んだはずのキャラクターが再登場して、実は全てお芝居だったと明かす。これが本来の意味で初めて有意義な変化だった、と言えるだろう。停滞に次ぐ停滞が延々続き、初めて目の前のもやもやした霞が晴れたような気分である。恐ろしく長い助走が終わり、ようやく三段跳びの最初の一歩目を踏み出せたような、そんな感慨であった。
11話の展開が、3話か4話までに描けていれば、もっと良かった。
おおよそ意味のないプロットの連続に、物語に何ら変化を与える力を持たないサブキャラクターたち。プロット作りは構造的、機能的意義を持って構成しなければならない。それぞれのキャラクターがどんな役割をもって主人公の立場・状況に介入してくるか。ただ思いついたものを整理せず物語に放り込んだだけではダメだし、何が必要で何が必要ではないか、それは物語を描く前に作り手が厳しく判定を下すべき問題である。(『ゆるゆり』の件はあまりにも特殊な事例なので、比較として取り上げるべきではない)
ここで最近の優秀作品『シュタインズ・ゲート』を引き合いに出すとしよう。『シュタインズ・ゲート』は未来ガジェット研究所……大檜山ビル2階を主だった舞台としてキャラクターたちはほとんど移動せず、エピソードによっては大檜山ビル2階の1室だけで進行することは珍しくない。未来ガジェット研究所が置かれる秋葉原から外に出る場面は基本的にない(東京ビッグサイトのコスプレ会場に行く場面が例外として少しあるだけである)。物語の半径は秋葉原周辺を限界としてそれ以上周辺に広がっていくことはなく、物語に必要なキャラクターやファクターは秋葉原周辺にほとんど準備されている、という設定である。
ふとすると物語が閉塞的になって、退屈な内容になる危険性の高い設計にも関わらず、『シュタインズ・ゲート』は飛びぬけて面白い。今年一番の傑作であるといっても誰も反論しない優れたエンターテインメントである。
では『シュタインズ・ゲート』と『BLOOD-C』を比較した場合、決定的に違うポイントはどこであろうか。それは主人公鳳凰院凶真……いや岡部倫太郎が置かれている立場・状況が確実な歩みを持って少しずつ変化してくところだろう。それぞれのキャラクターに出会い、タイムマシン発明のヒントを握るIBN5000を手に入れ、SERNと少しずつ関わっていく様を順当に描いている。一見するとゆっくりとした慎重な歩みに思えるが、実際には極めて合理的意図を持って着実に物語が目指すクライマックスに向けて重要なファクターを積み上げていっている。
『シュタインズ・ゲート』の物語が決定的な変化を迎えたのが12話。とある重要人物の死によって、物語は大きな節目を迎える。そこで岡部倫太郎は発明したばかりのタイムマシンを利用し、過去へとタイムリープし、とある人物の死を回避するために、様々な方法を考案し、何度も同じ時間を繰り返すのだが、その段階で、これまでに積み上げてきた全てのエピソードが実はかなり重要な意味を持っていることを岡部と視聴者は知ることになり、愕然となるわけである。
全てのキャラクターの台詞、行動が何らかの意図を持って合理的に描かれており、それらが主人公岡部倫太郎の立場・状況に干渉している。だから物語の舞台が同じ場所の繰り返しであっても退屈は感じない。“物語の舞台自体は移動していない”のに、“物語そのものに移動感”があり、その移動感を視聴者に感じさせるようにしっかり描かれている。
『シュタインズ・ゲート』はユニークにひねくった名台詞の数々も楽しみのポイントであるが、それ以上に人を惹きつけさせる力を持っていた。物語の根本である骨格が太く、揺るぎない強さを持っているからである。近年のアニメ作品群にあって間違いなく良質な一作と言える作品であった。
漫画・小説養成講座などでは、物語が失速ぎみと感じたら、とりあえず主人公を走らせろ!と教えている。確かに主人公が走るとそれだけで疾走感が出る。走る、飛ぶといった原初的な行動は、読む側に無条件の爽快感を与えるのである。しかし『BLOOD-C』には毎回必ずバトルイベントが挿入されたが、爽快感、疾走感はどこにもなかった。どこかRPGのエンカウントバトルのような、まだるっこしい義務感があっただけだ。それは恐らく、“戦った”という経験に意義を与えられなかったからだろう。
そろそろ『BLOOD-C』に話を引き戻し、この感想文をやっつけるとしよう。
『BLOOD-C』の基本的な設定、キャラクターを変更しないルールで、どのように改変し、描けば退屈しないで視聴が耐久マラソン状態にならずに済んだのだろうか。視聴を飽きさせない重要なポイントは、物語に停滞感を与えないことである。それはどんなにひねくったユニークな台詞を連打したとしても、本質的な“変化”がなければどんな作品でも退屈であると判定されてしまう。
大切なのは物語の構築に“移動感”を意識することである。この“移動感”を描くために、主人公の立場・状況を常に明快にしていくと効果的である。
主人公小夜は夜な夜な「古きもの」との死闘を演じていた。間もなく「古きもの」が小夜に「約定を守れ」と語りかける。そこで小夜は、父・唯芳に疑いを持つようになる……。
『BLOOD-C』の決定的問題は、主人公小夜の性格があまりにも淡白に描かれすぎたことである。「古きもの」と戦い、激しく傷ついても翌日には何事もなく回復してしまっている。「古きもの」に語りかけられても、小夜自身の意識と行動に何ら影響を与えることがなく、前回と同じ行動、台詞を当り前のものとして繰り返してしまう。小夜の設定が磐石過ぎて、そこに動きを感じないのだ。
だから、ここを少々改変すれば作品に動きが生まれる。唯芳に対する疑いが生じると共に、「古きもの」との戦い自体に疑いと迷いが生じ、そもそもなぜ自分が「古きもの」と戦うようになったか、その起源を追跡するようになる(そしてその起源に対しても疑いを持つようになる)。
これでかなり退屈な繰り返しの物語から、ある程度の動きが生じたはずである。
それでも小夜は、人々に危害を加える「古きもの」との戦いをやめるわけにはいかず、危険の中に身を置き続ける。だが間もなく「古きもの」は夜だけではなく昼の街中にも現れるようになり、戦いは多くの被害者を生み出すようになる。街の人たち、それから小夜のクラスメイトは小夜の存在を強く意識し、同時に小夜も街の人たちを強く意識するようになる。偏見や差別、誤解がこの両者の間に生まれ、小夜は孤独な立場へと追いやられてしまう。こう描けば小夜の孤独なヒロイズムの側面が強く際立ち、同時に鞆総、時真との関係にメロドラマ的な情緒を生み始めるはずである。『BLOOD-C』はなぜか恋愛物語に発展しそうな要素を避けて描かれていたが、恋愛は人々を強く惹きつけるので、むしろ積極的に描き、あるいは恋愛の匂いを漂わせておくべきである。
小夜は街の人たちから徹底的な排除と妨害を受けながらも、戦いを続けていく。おそらくサブキャラクターたちの心理も追いつめられていき、どこかで限界を迎えるだろう。その両者が限界に達したところでネタ晴らし。「実はなにもかもお芝居だった」と誰かが小夜に明かす。登場キャラクターそれぞれの心理的過程をしっかり描けば、間違いなく緊張感を伴う力強いプロットに変わったはずだ。
何となく意味ありげな台詞やキーワードを物語のあちこちに振りまく手法は何ら合理的効果を持たない。それらの台詞やイメージは視聴者に物語の背景を想像させる切っ掛けを与えるが、合理的効果を予想して配置しないと、ただ単に次の展開や話のオチを予想させるヒントになってしまい、かえって物語を追いかけていく楽しみがなくなってしまう。しかも主人公に与えられている立場や状況にはなんら影響を与えていないのだから、物語を次の段階に移す機会を見出せないまま単に時間(あるいはページ枚数)を消費するだけになってしまう。だから、主人公の立場・状況を明確に意識し、物語に移動感を与えることが大切なのだ。
上に書いた修正プロットだけでは正直なところ、視聴者を惹きつける力を持ちえたとは思えない。だが、とりあえずオリジナルプロットよりはほんの少し退屈さが緩和され、もう少し視聴を続けようというだけの移動感が生まれたはずだ。
物語を本当に魅力的にする力とは、合理的な思考、判断とはもっと違うもの――インスピレーションの強烈さである。傑作を生み出す力とは、常識と意外性の谷間に沈んでいる小さなひらめきである。そのひらめきを見出せない限り、いくら会社命令といえど無理に作品を捻り出すべきではない。どんな企画でも熟成させる期間が必要なのだ。物語に確実な移動感があり、さらにドラマティックな感情の高ぶりをより多くの人に共感させられる力があれば、どんな作品でももう少し高い評価が得られるはずである。
プロダクションI.Gは少し前まで、日本で最も絵のうまいアニメーターを抱える制作会社として世界に知れ渡っていた。しかしその勢いは今どこにもない。つい最近も、アニメファンから最低の評価を受けた『もしドラ』もプロダクションI.G作品だった。今のままではアニメファンから見放され、DVD売り上げも伸びず、それらは会社経営に対して甚大な影響力を持つようになるはずだ。会社は良質な作品を作り続けなければならない。そろそろ名誉挽回のための打ち上げ花火を見たいところだが。
『BLOOD-C』のような明らかな失敗作と接すると、その制作会社に乗り込んで、関係者をしつこいくらい追い回してインタビューし、どうしてそうなったのかどの段階で失敗が生じたのか、その原因を追求したくなる。もちろん一介のブロガーにそんな権限などあるわけがないし、普通は失敗作の原因なんて当事者は振り返りたくないはずだし、ほとんどの当事者は自分たちの創作が失敗だったと認めたくないはずだ(大抵の場合、失敗の原因と反省を受け手の側に求める)。
一般的な批評家は、制作スタッフの中に知っている名前を何人か見出し、その数人を“戦犯”という名の生贄と祭り上げる。
しかしそういう批評のやり方は何の意味がない。ただ制作スタッフの中の数人を引っ張り上げて精一杯の力で叩きのめしても、失敗した原因を知ったことにはならず、次の作品に向けた反省にもならない。“祭り上げる”“叩く”はイジメにありがちな典型的な心理状態――ストレス解消法でしかなく、叩けばスッキリするだろうが、反省を見出したわけではなく、次も同じ失敗を繰り返すだろうし、やはり反省がなければ誰かを生贄として祭り上げ、放逐した挙句、そのうちにも組織の力は弱体化していく。
どんな天才的な監督、有能なスタッフが集まっても失敗するときは失敗するのである。
映画やアニメといった集団制作を前提とした作品は、個人が作り上げる漫画や小説と明らかに性質が違う。何が原因で失敗したのか、なぜ作品が失速したのか、その原因を分析するのは容易ではない。まずいって当事者ですら理解できていない場合がほとんどだ。
映画やアニメといった集団制作になると、あらゆる状況が製作過程に出現する。時間勝負でお金が流れ出て行ってしまうので、状況のどこかで一旦止めましょうというわけにはいかない。まるで洞窟の掘削作業のごとく、自分でどこを掘り進めているか見失うこともしばしばある。だから、どこで作品の品質という重要問題にほころびが生じたのか、ある意味、作り手が一番理解できず、作り手が知りたいと思うところなのである。
制作開始までに有能なスタッフが集まらなかったのか。どこかで制作体制に甚大な被害をもたらす障害が生じたのか。単純に制作途上でお金が尽きて、無理矢理スケールダウンしなくてはならず、その影響でストーリー構造にも被害を与えてしまったのか。制作に絶対必要なスタッフが病気で倒れた、というケースもあり得る。どこかの段階で間違いなく最終結果に影響を与える何かが起きているはずだけど、当事者がそれを把握できず、また予測もできなかった。
だからその失敗の事例を収集し、分析し、失敗のパターンをインデックスにして提示できれば、将来的には失敗するケース自体はかなりの確率で減らせるはずである。もちろん、【失敗作ではない=傑作】というわけではない。【失敗作ではない=まあまあそこそこの作品】に過ぎない。だが明らかな失敗作を作ってしまうよりかはマシだと思いたい。
その逆に傑作を作り出すことは容易ではないし、どんな作品も傑作を作るための参考にはならない。大ヒットした傑作を手本にしてそれと同等の精度を持った芸術を作り上げても、そのときには人々はすでに違うパースティクティブの作品を求め始めている(例えばセガは、ソニーのゲーム機を意識して丸みを帯びたホワイトボディのドリームキャストを作ったが、当のソニーはブラックボディのいかめしいトールタイプのゲーム機を作った)。傑作に少々の改変を加えてもダメだ。それだけでもオリジナルが持っていたエッセンスは完全に失われる。傑作とはトランプで作ったピラミッドのような、微妙でぎりぎりの均衡を持って奇跡的にそこに立っているものと了解しなくてはならない(つまり、ほとんどのリメイク映画は失敗する宿命を抱えているわけだ)。
だからこそ、傑作ではなく駄作にこそ学ぶべきものはあるのだ。「つまらないから」といって切り捨てるのではなく、「なぜつまらないのか」を貪欲に知ろうとする意識が、作品をよりよくする秘密を知るチャンスを得ることになるのだ。
作品データ
『BLOOD-C』
監督:水島努 原作:ProductionI.G/CLAMP 原作監修:藤咲淳一
ストーリー・キャラクター原案:CLAMP 脚本:大川七瀬、藤咲淳一
アニメーションキャラクターデザイン:黄瀬和哉 総作画監督:後藤隆幸
コンセプトデザイン:塩谷直義 『古きもの』デザイン:篠田知宏
プロップデザイン:幸田直子 美術設定:金平和茂 美術監督:小倉宏昌
色彩設計:境成美 3DCGI:塚本倫基 編集:植松淳一
撮影監督:荒井栄児 特殊効果:村上正博
音楽:佐藤直紀 音響監督:岩浪美和
アニメーション制作:ProductionI.G
出演:水樹奈々 藤原啓治 野島健児 浅野真澄
○ 福圓美里 阿部敦 鈴木達央 宮川美保
■2011/08/16 (Tue)
オリジナル・アニメ・DVD■
「なぜ今さら?」
かつての原作愛読者を茫然とさせ、批評家たちを「?」と首を傾げさせ、作品を知らない世代ばかりか、原作者すらも置き去りにして進行するアニメシリーズの中巻がいよいよ登場である。
『かってに改蔵 中巻』は愛蔵版2巻~4巻とかなり広い範囲をベースに描かれている。初期の頃に提示した天才塾との対立という縦糸が後方に消えかかり、新たな方向性を獲得しようという時期である。この頃から我々のよく知る後期『かってに改蔵』に近い内容になり、羅列ネタや風刺といった、後の『さよなら絶望先生』に続くパターンの片鱗がかすかに見え始める頃である。
『かってに改蔵 中巻』において、キャラクターの設定が新たに書き直され、再調整が加えられる。
連載当初ではそれなりに普通の少女として描かれていたはずの名取羽美は、この頃から“友達がいない”あるいは猟奇的な性格が再設定される。後に“ヤンデレ”とカテゴライズされるキャラクターを確立しはじめる頃であり、『かってに改蔵 中巻』の中でその過程が描かれる。
第1話Bパート『コノ子ノ七ツノオ祝イニ』では名取羽美の幼少期における凶暴な本質が描かれ、それが現在における猟奇的な性格と常識的な社会性が欠落するという性格の裏付けになっている。また幼少期のエピソードは、『かってに改蔵』シリーズにおける典型的な一つのパターンを形成する重要度の高いエピソードであり、『かってに改蔵』というシリーズ全体像を描く上にも避けて通れないエピソードだ。ちなにみ『コノ子ノ七ツノオ祝イニ』における「かーさーぷーたーはーがーすー」の台詞は声優喜多村英梨がどうしても声を当てたかった台詞であり、彼女にとって夢の叶った瞬間である(それだけに、見事な熱演であった)。
その一方で主人公である勝改蔵は、暴走しがちな名取羽美に翻弄されるキャラクターへと書き直される。妙な思い込みと妬みでエピソードの切っ掛けを作り、あるいはエピソードに変化を与える提示するなど、主人公としての存在感と重要度は相変わらず高いが、『上巻』で描かれた暑苦しいヒーロー然とした重さは消え去り(演技の面でも暑苦しさは消えた)、どこか子供じみていて、それでいてギャグ漫画原作らしいユニークなパーソナリティーを構築している。名取羽美や坪内地丹があまりにも個性的に際立っていくのに対して、勝改蔵は少々思い込みの激しいものの、ある程度の常識を持ち、目の前で起きている事件に対して驚いたり怯えたりなど平均的な反応を見せる良識的な性格を持つようになった。
そして坪内地丹は、『上巻』を比較して明らかに頭身が低く縮まり、いよいよ人として社会的人格を崩壊させていく。第1話Aパート「どうしようラヴストーリー」ではすぐに図に乗る、すぐに勘違いする、その上であっという間に身を滅ぼすといったダメ人間のお手本のような性格を披露する。声優の演技面でも、『上巻』ではまだキャラクターの造形と声優のテンションの間にズレが見られ、何か掴みかねている違和感があったものの、『中巻』に入りようやく両者の気持ちは接近してきたようである。『中巻』の段階で話のオチをつける都合のいいキャラクターとしてのポジションを確立しており、これが切っ掛けとなり、間もなく“人ではない何か”へとシフトしていく。おそらく『下巻』においてその展望が見られると期待されるので、その過程にもぜひ注目したいところである。
(彩園すずだけは相変わらずなので解説を省略する。キャラクターとしてもポジションとしての鉄壁の地位を守っている。初登場時から変更の必要のない、完成したキャラクターだったのだろう)
キャラクターの描き方も、『上巻』と違うアプローチが試みられている。『上巻』では標準的で今日的なアニメーションのスタイルを踏襲して描かれていたが、『中巻』に入って線の量はざっくり切り落とされ、線や影塗りわけ、色彩はよりシンプルに描かれるようになった。キャラクターの頭がやや大きくデザインされ、頭身が少しずつ低く描かれていく。
瞳の描かれ方にも注目したい。『上巻』ではハイライト、BLベタ、中間色、標準色と段階的に描かれていたが、『中巻』に入り、瞳の中央に瞳孔が丸く描かれ、それを中心に3段階のグラデーションが続く。ハイライトの描き方も小さく点のように描かれ、『上巻』ほどの主張はない。この瞳の描き方は『かってに改蔵』後期まで一貫した作画方法として継続されていく。
物語の描き方にも変化が多く、そろそろ『かってに改蔵』シリーズだけではなく、久米田康治の作風として定着する要素がいくつも見られる。初期においては勢いの強かった下ネタは次第に自制的になり、物語を彩る変態たちはまだ登場し続けるが、ブリーフパンツという文明的な被服を獲得し、視聴に少し安心感を与えるようになった。特徴的である羅列ネタや、その当時の流行や世相を取り入れた風刺ネタはこの頃から顕著に見られるようになり、羅列ネタが次々と映像化され、あっという間に流れていく様子が楽しい(ただネタの大半が賞味期限切れなのが残念なところだ。若い世代はついていけないかもしれない)。
だが、テレビアニメーションよりまだスケジュールに余裕が持てるはずのOADシリーズなのにも関わらず、作画にブレが多く見られるところが残念なところである。
第1話Cパート『イツカギリギリスル日!?』20:31あたり。名取羽美のセーターの袖口の線が回転しているように見える。この線は本来、動いてはいけない部分である。これは完全に動画マンのミスである。なぜチェックは見落としたのだろう?
同じく第1話Cパート。21:30あたり。手前に身を乗り出している名取羽美が、後ろに体を動かす。ここで原画と原画の間コマがごっそり抜け落ち、名取羽美が急に場所を移動したように見える。まさかの中割りの抜けである。ここで本来必要だったのは、およそ5枚程度の中割りだ。ここで「果たしてチェックは仕事していたのだろうか?」と疑問に思わずにはいられなくなる。また極端な広角レンズふうを意識したカットだが、天井が近すぎでしかもキャラクターと同じ歪みが描かれておらず、また彩園すずがひどく平面的で、まるで紙に描いた絵を角度をつけて貼り付けただけのように見える。
第2話Aパート『ゴーイング娘』35:14あたり。カメラワークが変化する動画としてはそこそこに難しいカットだが、動画の最後、勝改蔵の指が突然縮んだように見える。これも動画マンのミスで、原画の始まりと終わりとしっかりと確かめずに中割りしたために起きたミスだ。下書き段階で気付いていれば、ほんの数分で修正できるミスだから、動画担当、チェックが気付かず見落としたのだろう。それに広角レンズふうに描かれたカットだが、やはり天井が近すぎである。
この他にも作画面におけるミス、絵画のブレは多く見られた。撮影による最終仕上げも、『上巻』の丁寧さと比較すると、もう一歩である。もう発売してしまった作品だから仕方ないが、『下巻』ではもう少し頑張ってもらいたいところである。
『かってに改蔵 中巻』は初期に描かれた諸要素を放り捨て、我々がよく知っている『かってに改蔵』のイメージに近付き、あるいは久米田康治が独自の作風を身につける過渡期を描いている。アニメ版『かってに改蔵』シリーズが、久米田康治の作風の変化と、試行錯誤の過程を追跡し、映像化しているのだということがよくわかる。『かってに改蔵』のアニメーションは迷いなく確実に『かってに改蔵』に接近して行き、久米田康治という作家の深層を抉り取っていくのだろう。
まあ、それはそれとして……売れてるのか、これ?
第1話 炎の幻影紅天女
Aパート ドウシヨウラヴストーリー(愛蔵版第3巻第13話)
「我々に何か足りない要素があるとつねづね思っていたのですが……わかりました」
勝改蔵はいつにない慎重な口ぶりで切り出した。我々に足りないもの、あるいはこのシリーズに不足しているもの、それは――
「我々にはラブが足りないのです!」
思えばラヴコメとしてスタートしたはずのこの作品。今となっては誰一人ラヴを自覚する者のないラヴ劣等生、ラブ落第生である。このままラヴ不足が続けば、深刻な問題を引き起こす可能性もある。
と議論に燃え上がる科特部にとある人物がやってくる。元天才塾演劇コースラブ影先生である。ラヴ先生とは日本を代表する世界的ラヴ演出家である。受賞した作品は数知れず、ラヴ先生の手にかかればどんな物語もラヴに変換されるという。「ラヴとりじいさん」「ラヴすて山」「ラブカニ合戦」……いくつもの代表作を持った名演出家である。
そんなラヴ先生が科特部を尋ねた理由はただ一つ。科特部に天性のラヴの素質を持った少年がいたからであった。
Bパート コノ子ノ七ツノオ祝イニ(愛蔵版第4巻第13話)
これは、勝改蔵が7歳の頃の思い出である。
「おかあさま、ボクはもう7歳なのですが、男子は5歳なのではないですか?」
神社に勝改蔵の母子が尋ねる。まだ利発で天才、神童と称えられていた頃の改蔵が不思議そうにしている。
そこに、神社の神主が現れる。
「七五三が7歳、5歳、3歳だけのものと思ったら、大間違いです。健康を願う全ての人に七五三を祝う権利があるのです! というわけで古来より当天才大社では、様々な年齢の七五三をお迎えしているのです」
ただし、誰もが祝う権利はあるものの、誰もが天神様の元までたどり着けるとは限らない。天神様に至る道には、様々な苦難に満ちた試練が待ち受けているのだ。そんな恐るべき場所に放り出されてしまった改蔵。
すると、道の途上に名取羽美が待ち構えていた。羽美も試練に出されたのだという。改蔵は羽美と2人で天神様を目指すが……。
Cパート イツカギリギリスル日!?(愛蔵版第3巻第3話)
とあるファーストフードのお店。クラスで美人で有名な山田さんが、トレーにジュースとやきそばパンを乗せ、開いている席を探していた。
「あなたもギリギリに挑んでみませんか?」
不意に後ろから男が顔を寄せてきた。
驚いて振り返っている間に、男はカップにジュースを注ぎ込む。カップはぎりぎり一杯までジュースに満たされる。表面張力で辛うじて保っているけど、一歩でも動いたら、この均衡は崩れてしまう……。
「ギリギリ感を楽しみたまえ!」
「いやあぁぁ!」
男たちは山田さんのうなじを、腰を、太股をつんつんと撫でていく。山田さんは耐え切れず悲鳴を上げ、バランスを崩され、そして……。
「最近この界隈で、限界ギリギリを強要される事件が続発している」
電波が1本だけで、今にも切れそうな携帯電話。電池ギリギリで、セーブできないゲームボーイ。紙がぎりぎりのトイレットペーパー。布がぎりぎりの水着。
事件は拡大する一方だが、犯人は神出鬼没でなかなか姿を現さない。いったいどうすれば……。
「おびき出してみるか」
と彩園すずが提案したのは、棒倒しだった。
第2話 裏切りのサイエンス
Aパート ゴーイング娘(愛蔵版第4巻第21話)
空気の読めない人がいます。
まだ人の少ない早朝の教室。女子生徒たちが暗くうつむいてひそひそと話をしている。
「お父さんの会社、倒産しちゃって……」
とそこに名取羽美が元気に飛び込んでくる。
「ねえねえ、今朝公園でずーっとスーツ着てブランコに乗っているおじさんがいてね。ありゃリストラね。家族にいえないのよ」
羽美は口元を隠しながら愉快そうに笑った。
空気の読めない人がいます。
「重症ですな。ここまで空気が読めないと……。友達ができないわけだな」
「なんですってええ!」
羽美が改蔵の首を掴む。
「失礼なこと言わないでよ! 読めるわよ空気くらい!」
羽美は改蔵を激しく揺らしながら訴えた。
果たして羽美は空気が読めないのか? 彩園すずの提案で、第3者に意見を聞いてみることとなった。すると次から次へと出てくる。羽美の「空気読めない武勇伝」の数々!
周囲から指摘された羽美は、「空気読めるようになってやる!」と叫びながら教室を飛び出してしまう。
Bパート 西から来た女(愛蔵版第2巻第14話)
虎馬高校校門前。砂の混じった風にまぎれるように、女が一人立っていた。
「許さへんで、絶対に! あの女だけは!」
女は目をギラギラさせて呟きに怒りを込めた。その手には一枚の写真。写真には美しい少女が涼しげな微笑を浮かべていた――写真の少女は彩園すずである。女は写真の中で微笑む彩園すずに怒りの炎を向ける。
しかし女は、怒りの炎を抑え込んで一人考えに沈んでいく。
――あの女の周囲には極悪非道の取り巻きがいるらしい。迂闊には手を出されへん……。
考えながら、女は虎馬高校の廊下をうつむきながら歩く。ふと、掲示板の張り紙に気付いて足を止める。
《生徒会急募》
「これや!」
女はかすかな希望を見つけて声を弾ませた。
女はジュン。彩園すずと浅からぬ関係を持ち、因縁のライヴァルである――とジュンは思い込んでいる。
かってに改蔵 上巻
かってに改蔵 下巻
さよなら絶望先生《本家》目次ページへ
作品データ
総監督:新房昭之 監督:龍輪直征 原作:久米田康治
キャラクターデザイン:山村洋貴 メインアニメーター:岩崎安利
美術監督:飯島寿治 伊藤和宏 ビジュアルエフェクト:酒井基 色彩設計:滝沢いづみ
構成:東冨耶子 構成・脚本:高山カツヒコ 編集:関一彦
撮影監督:江藤慎一郎 音響監督:亀山俊樹 音楽:川田瑠夏
プロデューサー:宮本純乃介 アニメーションプロデューサー:久保田光俊
オープニング主題歌:水木一郎と特撮 エンディング主題歌:新☆谷良子
アニメーション制作:シャフト
出演:櫻井孝宏 喜多村英梨 斉藤千和 豊崎愛生 堀江由衣
○ 立木文彦 新谷良子 岩男潤子 永田依子 高岡瓶々
○ 徳本英一郎 平田真菜 五十嵐亮太 小野友樹 浅科准平
○ 渡辺由佳
かつての原作愛読者を茫然とさせ、批評家たちを「?」と首を傾げさせ、作品を知らない世代ばかりか、原作者すらも置き去りにして進行するアニメシリーズの中巻がいよいよ登場である。
『かってに改蔵 中巻』は愛蔵版2巻~4巻とかなり広い範囲をベースに描かれている。初期の頃に提示した天才塾との対立という縦糸が後方に消えかかり、新たな方向性を獲得しようという時期である。この頃から我々のよく知る後期『かってに改蔵』に近い内容になり、羅列ネタや風刺といった、後の『さよなら絶望先生』に続くパターンの片鱗がかすかに見え始める頃である。
『かってに改蔵 中巻』において、キャラクターの設定が新たに書き直され、再調整が加えられる。
連載当初ではそれなりに普通の少女として描かれていたはずの名取羽美は、この頃から“友達がいない”あるいは猟奇的な性格が再設定される。後に“ヤンデレ”とカテゴライズされるキャラクターを確立しはじめる頃であり、『かってに改蔵 中巻』の中でその過程が描かれる。
第1話Bパート『コノ子ノ七ツノオ祝イニ』では名取羽美の幼少期における凶暴な本質が描かれ、それが現在における猟奇的な性格と常識的な社会性が欠落するという性格の裏付けになっている。また幼少期のエピソードは、『かってに改蔵』シリーズにおける典型的な一つのパターンを形成する重要度の高いエピソードであり、『かってに改蔵』というシリーズ全体像を描く上にも避けて通れないエピソードだ。ちなにみ『コノ子ノ七ツノオ祝イニ』における「かーさーぷーたーはーがーすー」の台詞は声優喜多村英梨がどうしても声を当てたかった台詞であり、彼女にとって夢の叶った瞬間である(それだけに、見事な熱演であった)。
その一方で主人公である勝改蔵は、暴走しがちな名取羽美に翻弄されるキャラクターへと書き直される。妙な思い込みと妬みでエピソードの切っ掛けを作り、あるいはエピソードに変化を与える提示するなど、主人公としての存在感と重要度は相変わらず高いが、『上巻』で描かれた暑苦しいヒーロー然とした重さは消え去り(演技の面でも暑苦しさは消えた)、どこか子供じみていて、それでいてギャグ漫画原作らしいユニークなパーソナリティーを構築している。名取羽美や坪内地丹があまりにも個性的に際立っていくのに対して、勝改蔵は少々思い込みの激しいものの、ある程度の常識を持ち、目の前で起きている事件に対して驚いたり怯えたりなど平均的な反応を見せる良識的な性格を持つようになった。
そして坪内地丹は、『上巻』を比較して明らかに頭身が低く縮まり、いよいよ人として社会的人格を崩壊させていく。第1話Aパート「どうしようラヴストーリー」ではすぐに図に乗る、すぐに勘違いする、その上であっという間に身を滅ぼすといったダメ人間のお手本のような性格を披露する。声優の演技面でも、『上巻』ではまだキャラクターの造形と声優のテンションの間にズレが見られ、何か掴みかねている違和感があったものの、『中巻』に入りようやく両者の気持ちは接近してきたようである。『中巻』の段階で話のオチをつける都合のいいキャラクターとしてのポジションを確立しており、これが切っ掛けとなり、間もなく“人ではない何か”へとシフトしていく。おそらく『下巻』においてその展望が見られると期待されるので、その過程にもぜひ注目したいところである。
(彩園すずだけは相変わらずなので解説を省略する。キャラクターとしてもポジションとしての鉄壁の地位を守っている。初登場時から変更の必要のない、完成したキャラクターだったのだろう)
キャラクターの描き方も、『上巻』と違うアプローチが試みられている。『上巻』では標準的で今日的なアニメーションのスタイルを踏襲して描かれていたが、『中巻』に入って線の量はざっくり切り落とされ、線や影塗りわけ、色彩はよりシンプルに描かれるようになった。キャラクターの頭がやや大きくデザインされ、頭身が少しずつ低く描かれていく。
瞳の描かれ方にも注目したい。『上巻』ではハイライト、BLベタ、中間色、標準色と段階的に描かれていたが、『中巻』に入り、瞳の中央に瞳孔が丸く描かれ、それを中心に3段階のグラデーションが続く。ハイライトの描き方も小さく点のように描かれ、『上巻』ほどの主張はない。この瞳の描き方は『かってに改蔵』後期まで一貫した作画方法として継続されていく。
物語の描き方にも変化が多く、そろそろ『かってに改蔵』シリーズだけではなく、久米田康治の作風として定着する要素がいくつも見られる。初期においては勢いの強かった下ネタは次第に自制的になり、物語を彩る変態たちはまだ登場し続けるが、ブリーフパンツという文明的な被服を獲得し、視聴に少し安心感を与えるようになった。特徴的である羅列ネタや、その当時の流行や世相を取り入れた風刺ネタはこの頃から顕著に見られるようになり、羅列ネタが次々と映像化され、あっという間に流れていく様子が楽しい(ただネタの大半が賞味期限切れなのが残念なところだ。若い世代はついていけないかもしれない)。
だが、テレビアニメーションよりまだスケジュールに余裕が持てるはずのOADシリーズなのにも関わらず、作画にブレが多く見られるところが残念なところである。
第1話Cパート『イツカギリギリスル日!?』20:31あたり。名取羽美のセーターの袖口の線が回転しているように見える。この線は本来、動いてはいけない部分である。これは完全に動画マンのミスである。なぜチェックは見落としたのだろう?
同じく第1話Cパート。21:30あたり。手前に身を乗り出している名取羽美が、後ろに体を動かす。ここで原画と原画の間コマがごっそり抜け落ち、名取羽美が急に場所を移動したように見える。まさかの中割りの抜けである。ここで本来必要だったのは、およそ5枚程度の中割りだ。ここで「果たしてチェックは仕事していたのだろうか?」と疑問に思わずにはいられなくなる。また極端な広角レンズふうを意識したカットだが、天井が近すぎでしかもキャラクターと同じ歪みが描かれておらず、また彩園すずがひどく平面的で、まるで紙に描いた絵を角度をつけて貼り付けただけのように見える。
第2話Aパート『ゴーイング娘』35:14あたり。カメラワークが変化する動画としてはそこそこに難しいカットだが、動画の最後、勝改蔵の指が突然縮んだように見える。これも動画マンのミスで、原画の始まりと終わりとしっかりと確かめずに中割りしたために起きたミスだ。下書き段階で気付いていれば、ほんの数分で修正できるミスだから、動画担当、チェックが気付かず見落としたのだろう。それに広角レンズふうに描かれたカットだが、やはり天井が近すぎである。
この他にも作画面におけるミス、絵画のブレは多く見られた。撮影による最終仕上げも、『上巻』の丁寧さと比較すると、もう一歩である。もう発売してしまった作品だから仕方ないが、『下巻』ではもう少し頑張ってもらいたいところである。
『かってに改蔵 中巻』は初期に描かれた諸要素を放り捨て、我々がよく知っている『かってに改蔵』のイメージに近付き、あるいは久米田康治が独自の作風を身につける過渡期を描いている。アニメ版『かってに改蔵』シリーズが、久米田康治の作風の変化と、試行錯誤の過程を追跡し、映像化しているのだということがよくわかる。『かってに改蔵』のアニメーションは迷いなく確実に『かってに改蔵』に接近して行き、久米田康治という作家の深層を抉り取っていくのだろう。
まあ、それはそれとして……売れてるのか、これ?
第1話 炎の幻影紅天女
Aパート ドウシヨウラヴストーリー(愛蔵版第3巻第13話)
「我々に何か足りない要素があるとつねづね思っていたのですが……わかりました」
勝改蔵はいつにない慎重な口ぶりで切り出した。我々に足りないもの、あるいはこのシリーズに不足しているもの、それは――
「我々にはラブが足りないのです!」
思えばラヴコメとしてスタートしたはずのこの作品。今となっては誰一人ラヴを自覚する者のないラヴ劣等生、ラブ落第生である。このままラヴ不足が続けば、深刻な問題を引き起こす可能性もある。
と議論に燃え上がる科特部にとある人物がやってくる。元天才塾演劇コースラブ影先生である。ラヴ先生とは日本を代表する世界的ラヴ演出家である。受賞した作品は数知れず、ラヴ先生の手にかかればどんな物語もラヴに変換されるという。「ラヴとりじいさん」「ラヴすて山」「ラブカニ合戦」……いくつもの代表作を持った名演出家である。
そんなラヴ先生が科特部を尋ねた理由はただ一つ。科特部に天性のラヴの素質を持った少年がいたからであった。
Bパート コノ子ノ七ツノオ祝イニ(愛蔵版第4巻第13話)
これは、勝改蔵が7歳の頃の思い出である。
「おかあさま、ボクはもう7歳なのですが、男子は5歳なのではないですか?」
神社に勝改蔵の母子が尋ねる。まだ利発で天才、神童と称えられていた頃の改蔵が不思議そうにしている。
そこに、神社の神主が現れる。
「七五三が7歳、5歳、3歳だけのものと思ったら、大間違いです。健康を願う全ての人に七五三を祝う権利があるのです! というわけで古来より当天才大社では、様々な年齢の七五三をお迎えしているのです」
ただし、誰もが祝う権利はあるものの、誰もが天神様の元までたどり着けるとは限らない。天神様に至る道には、様々な苦難に満ちた試練が待ち受けているのだ。そんな恐るべき場所に放り出されてしまった改蔵。
すると、道の途上に名取羽美が待ち構えていた。羽美も試練に出されたのだという。改蔵は羽美と2人で天神様を目指すが……。
Cパート イツカギリギリスル日!?(愛蔵版第3巻第3話)
とあるファーストフードのお店。クラスで美人で有名な山田さんが、トレーにジュースとやきそばパンを乗せ、開いている席を探していた。
「あなたもギリギリに挑んでみませんか?」
不意に後ろから男が顔を寄せてきた。
驚いて振り返っている間に、男はカップにジュースを注ぎ込む。カップはぎりぎり一杯までジュースに満たされる。表面張力で辛うじて保っているけど、一歩でも動いたら、この均衡は崩れてしまう……。
「ギリギリ感を楽しみたまえ!」
「いやあぁぁ!」
男たちは山田さんのうなじを、腰を、太股をつんつんと撫でていく。山田さんは耐え切れず悲鳴を上げ、バランスを崩され、そして……。
「最近この界隈で、限界ギリギリを強要される事件が続発している」
電波が1本だけで、今にも切れそうな携帯電話。電池ギリギリで、セーブできないゲームボーイ。紙がぎりぎりのトイレットペーパー。布がぎりぎりの水着。
事件は拡大する一方だが、犯人は神出鬼没でなかなか姿を現さない。いったいどうすれば……。
「おびき出してみるか」
と彩園すずが提案したのは、棒倒しだった。
第2話 裏切りのサイエンス
Aパート ゴーイング娘(愛蔵版第4巻第21話)
空気の読めない人がいます。
まだ人の少ない早朝の教室。女子生徒たちが暗くうつむいてひそひそと話をしている。
「お父さんの会社、倒産しちゃって……」
とそこに名取羽美が元気に飛び込んでくる。
「ねえねえ、今朝公園でずーっとスーツ着てブランコに乗っているおじさんがいてね。ありゃリストラね。家族にいえないのよ」
羽美は口元を隠しながら愉快そうに笑った。
空気の読めない人がいます。
「重症ですな。ここまで空気が読めないと……。友達ができないわけだな」
「なんですってええ!」
羽美が改蔵の首を掴む。
「失礼なこと言わないでよ! 読めるわよ空気くらい!」
羽美は改蔵を激しく揺らしながら訴えた。
果たして羽美は空気が読めないのか? 彩園すずの提案で、第3者に意見を聞いてみることとなった。すると次から次へと出てくる。羽美の「空気読めない武勇伝」の数々!
周囲から指摘された羽美は、「空気読めるようになってやる!」と叫びながら教室を飛び出してしまう。
Bパート 西から来た女(愛蔵版第2巻第14話)
虎馬高校校門前。砂の混じった風にまぎれるように、女が一人立っていた。
「許さへんで、絶対に! あの女だけは!」
女は目をギラギラさせて呟きに怒りを込めた。その手には一枚の写真。写真には美しい少女が涼しげな微笑を浮かべていた――写真の少女は彩園すずである。女は写真の中で微笑む彩園すずに怒りの炎を向ける。
しかし女は、怒りの炎を抑え込んで一人考えに沈んでいく。
――あの女の周囲には極悪非道の取り巻きがいるらしい。迂闊には手を出されへん……。
考えながら、女は虎馬高校の廊下をうつむきながら歩く。ふと、掲示板の張り紙に気付いて足を止める。
《生徒会急募》
「これや!」
女はかすかな希望を見つけて声を弾ませた。
女はジュン。彩園すずと浅からぬ関係を持ち、因縁のライヴァルである――とジュンは思い込んでいる。
かってに改蔵 上巻
かってに改蔵 下巻
さよなら絶望先生《本家》目次ページへ
作品データ
総監督:新房昭之 監督:龍輪直征 原作:久米田康治
キャラクターデザイン:山村洋貴 メインアニメーター:岩崎安利
美術監督:飯島寿治 伊藤和宏 ビジュアルエフェクト:酒井基 色彩設計:滝沢いづみ
構成:東冨耶子 構成・脚本:高山カツヒコ 編集:関一彦
撮影監督:江藤慎一郎 音響監督:亀山俊樹 音楽:川田瑠夏
プロデューサー:宮本純乃介 アニメーションプロデューサー:久保田光俊
オープニング主題歌:水木一郎と特撮 エンディング主題歌:新☆谷良子
アニメーション制作:シャフト
出演:櫻井孝宏 喜多村英梨 斉藤千和 豊崎愛生 堀江由衣
○ 立木文彦 新谷良子 岩男潤子 永田依子 高岡瓶々
○ 徳本英一郎 平田真菜 五十嵐亮太 小野友樹 浅科准平
○ 渡辺由佳
■2011/05/31 (Tue)
オリジナル・アニメ・DVD■
もしかして、まだアニメ化を疑っている人いませんか?
どうしてこうなってしまったのか――。あれは10年前。ある作家の元に思いがけない知らせが届いた。
「おめでとうございます、先生! アニメ化です!」
あれは幻聴だったのか、エイプリルフールの悪戯だったのか。アニメ化の話題はそれきりふっつり途切れて、あたかも初めからそんな話などなかったかのように扱われ、ただちに人々の意識の中から忘却した。
思えばサンデー時代は苦難そのものであった。作家とは名ばかりでその地位は果てしなく低く、単に待っているだけの編集から軽く扱われ、虐げられ、苛められ、苦労して描きあげた原稿をなくされても謝罪の言葉など一つもなく、あのサンデーキャラ全員登場するはずのCMにすら『かってに改蔵』キャラは出させてくれなかった。期待していた印税は、辛うじて生活が維持できる程度しか入ってこず、編集のほうが作家よりはるかにお金をもらっているのが漫画業界における現実である。貯金を貯めて老後の備えなどできるはずもない。
作家とはただの期間工でしかない。売れればそのわずかな間だけチヤホヤされ、売れなくなると使用済みの紙くずみたいにポイッと捨てられてしまう。人情なんて一片もない酷薄な世界である。
久米田康治はそんな漫画業界の最底辺をひたすら低空飛行し続けてきた。編集からひたすら苛められ、罵倒を浴びせられ、原稿をなくされ、CM制作で無視され、講談社に移ったとたん小学館時代の全ての作品が絶版扱いにされ、それでも眼差しの奥に宿った輝きは失われず、どん底の真っ黒な沼の底からいつか夜空に輝く星たちのようになりたいと――下ネタ漫画で輝きたいと心の底から願い、恨み、妬み続けていた。
それが、どうしてこうなってしまったのか……。いうまでもない。何もかも小学館が悪いのである。
あの頃忘れられ、失われた夢は、すっかり忘れられたタイムカプセルを知らない誰かに拾われたかのように思いがけず開かれてしまった。『かってに改蔵』連載終了から7年の時を経て、まさかのアニメ化である。
久米田康治先生、おめでとうございます。
オチのない冗談はさておき、『かってに改蔵』の原作が完結してから実に8年。「なぜこんな時期に?」と首をかしげずにはいられない作品のまさかの映像化である。
アニメ『かってに改蔵』は原作初期をベースに描かれている。キャラクターは後期の、線の数を減らした洗練された表現ではなく、連載初期の線が多く、陰影を多用してキャラクターを立体的に見せようとしていた時期をベースにしている。カットの作りは全身を捉えた舞台風のロングサイズから極端なクローズアップへと何度もジャンプを繰り返しながら描かれている。色彩は連載初期のカラーページを意識した、まるでマーカーでべったり塗りたくったような原色そのままの色で描かれ、その上に様々なフィルターが丁寧に被せられている。暗いシーンでの影はセル調の実線が消えかける滲み出るようなブラックが施され、光の差し込むシーンでは色の境界線にブルーやグリーンが淡く溶け出すような処理が与えられている。ふとすると、キャラクターにも背景にも質感を持たない単調ともいえる色彩を、撮影の効果によってこの作品特有の不思議な風合いを持った映像に仕上げている。
次回予告では特にマーカーでべったり塗ったような色彩で描かれている。茶色ならべったりと茶色、緑ならべったりと緑。まるで絵の具をチューブから出してそのまま水に薄めもせず描いたような色彩である。当時の原作の色彩を忠実に再現している。
ちなみに1話と2話で次回予告の映像は微妙に変わっている。コマ送りをしてしっかり確かめたい場面だ。
その一方、オープニング・エンディングは後期の洗練されたタッチのほうが採用されている。アニメ本編、オープニング・エンディングとでまったく違う画風が試されているのに注目である。
またアイキャッチでは「現在の久米田康治」ふうのタッチで描かれている。
エピソードは、映像化作品としては非常に勇気のあるエピソードが選抜されている。後期の『さよなら絶望先生』に続く社会風刺漫画としての要素はまだ片鱗としてわずかに見える程度でしかなく、むしろ下ネタ漫画として油の乗った、まさに第1の絶頂期ともいえるエピソードを中心に採用している。
具体的に描写するとこのブログがうっかり成人指定にされてしまいそうな、テレビのような公共的なメディアでは絶対放送できないような描写が次から次へと繰り出されていく。有り体に表現すれば、チンコである。それも子供チンコではなく、悶々と欲求のはけ口を求める成人チンコである。成人チンコが次から次へと見る者を唖然とする数で描写され、クローズアップされ、その後に作品特有の微妙な笑いを後方に残して去っていく。この頃の久米田康治が描く変態たちは、全裸がデフォルトで、ブリーフという文明的な被服はまだ獲得する前であった。
「どうせテレビ放送は絶対不可能だし、映像を買う人はそれなりの理解のある人のはずだ」という開き直りっぷりが清々しい心地よさを残していく。(ビデオの最初に、「このビデオグラムはテレビ放送バージョンとは違う……」云々の注意書きが挿入される。あれもギャグなのだろうか)
キャラクターは漫画原作の1巻~2巻をベースに描かれている。名取羽海はまだ普通の女の子だった頃で、坪内地丹はびっくりするほど頭身が高く描かれる。いずれにしても、まだ人として真っ当な時期で、勝改蔵と天才塾の一同に振り回されていた頃だ。
女性キャラクターは特にバストを強調的に描かれている。彩園すずはともかく、このタッチのお陰で羽海も(それなりに)スタイルのいい女の子のように見える。
アニメ『かってに改蔵』は徹底した原作至上主義が貫かれた作品である。原作どおりの台詞に、原作どおりの展開。原作で提示された以上のものは何もなく、イレギュラーは徹底的に排除された映像作品である。「原作ストーカー」と新房昭之に評された龍輪直征らしいデビュー作品に仕上がっている。どこまでも原作通りで、原作に忠実であろうとする、原作原理主義の性格が映像に浮かび上がってくる。まさに『かってに改蔵』の原作が好きな人が制作し、原作が好きな人のために映像化された作品である。
第1話 覚醒めた男
Aパート 詩ってるツモリ!?(愛蔵版第1巻第4話)
ある日の科特部。いつものように部員たちが、何かをするわけでもなくぼんやりとくつろいでいた。
ふと、彩園すずが坪内地丹の背中に何か張られているのに気付く。
「あら地丹くん。そのポエム、どうしたの?」
ポエム? 手鏡で背中を映してみると、確かにポエムがそこに貼り付けられていた。
「ああ、をとうとよ/君をヌク/君下多毛ことヌカれ」
地丹だけではなかった。勝改蔵は顔にポエムが、名取羽海は太股にポエムが書かれていた。
これはきっと奴らの仕業に違いない。「叫ぶしびんの会」と呼ばれる謎の詩人集団。そしてそれは科特部の敵に違いない……。
とそんな科特部の前に、件の「叫ぶしびんの会」の一同が堂々と姿を現す。
Bパート 走り出したら止まらない!?(愛蔵版第2巻第2話)
唐突に、構内に悲鳴が轟いた。科特部に飛び込んできたのは、美人で有名なクラス委員の山田さんであった。
「私……妄想されたんです!」
それはその日の登校時の出来事であった。美人で有名なクラス委員の山田さんの前に、全裸の男が突然現れて――、
「お前をオレの中で妄想してやる!」
と宣言。全裸の男は美人で有名なクラス委員の山田さんをニタニタと歪めた眼差しでじっと見つめながら妄想をはじめ、興奮したあえぎ声を漏らし、全身に汗を染み出し、その最後に――どうやら絶頂に達したようだった。
というわけなのだが、特に触られたりしたわけじゃないから、罪にも問えない。
これは伝説の妄想族「吐鬼女嬉」の連中に違いない。そしてそれは、科特部の敵だろう。勝改蔵は、「吐鬼女嬉」と戦うために、彼らが現れそうな場所に待ち伏せを張る。
Cパート 学校の海パン(愛蔵版第1巻第8話)
その学校には、古くから伝わる怪奇の伝承があった。北校舎のずっと閉鎖されたままのプール。そこで昔、生徒が溺れたそうだ。しかし、その死体が浮かび上がらず、ただ血まみれになった海パンだけが後に残されていた、という……。
第2話 美しき男たちの品格
Aパート フランスはどこだ!?(愛蔵版第1巻第6話)
「先輩! 改蔵先輩お久しぶりです!」
改蔵が街を歩いていると、唐突にサッカーユニフォームの男が声をかけてきた。改蔵の古くからの知り合いで、いま流行りの高校生Jリーガーであった。
しかし彼は、ワールドカップ代表選抜に外された直後であった。
「残念だったな、代表入り」
「どーせ僕のパスは理解されないんです……」
サッカーユニフォームの男は愕然とうなだれた。
仕方がなかった。今の日本代表では彼のキラーパスに合わせられない。なぜならば、彼がキラーパスを放つと……。
Bパート ファッション大魔王!?(愛蔵版第1巻第21話)
最近街で、怪事件が流行っているらしい。その名も、「連続セーラー服エリ立て魔」。その正体を掴むべく、オカルト専門の科特部が集まっていた。
とそんなところに、美人で有名なクラス委員の山田さんの悲鳴が雑踏を切り裂く。駆けつけてみると、美人で有名なクラス委員の山田さんのエリが逆立ちした格好でぱりぱりに固められていた。
「フフフ……。本来、セーラー服とはそのようにエリを立てて着こなすのだ」
不意に不敵で不気味な笑い声が耳に飛び込んでくる。颯爽と現れた男こそ「連続セーラー服エリ立て魔」の犯人、オシャレ先生マリオであった。
かってに改蔵 中巻
かってに改蔵 下巻
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作品データ
総監督:新房昭之 監督:龍輪直征 原作:久米田康治
キャラクターデザイン:山村洋貴 メインアニメーター:岩崎安利
美術監督:飯島寿治 伊藤和宏 ビジュアルエフェクト:酒井基 色彩設計:滝沢いづみ
構成:東冨耶子 構成・脚本:高山カツヒコ 編集:関一彦
撮影監督:江藤慎一郎 音響監督:亀山俊樹 音楽:川田瑠夏
プロデューサー:宮本純乃介 アニメーションプロデューサー:久保田光俊
オープニング主題歌:水木一郎と特撮 エンディング主題歌:新☆谷良子
アニメーション制作:シャフト
出演:櫻井孝宏 喜多村英梨 斉藤千和 豊崎愛生 堀江由衣
○ 立木文彦 堀内賢雄 新谷良子 小野友樹 永田依子
○ 紗倉のり子 徳本英一郎 樋口智透 渡部由佳
○ 畑健二郎 MAEDAX
どうしてこうなってしまったのか――。あれは10年前。ある作家の元に思いがけない知らせが届いた。
「おめでとうございます、先生! アニメ化です!」
あれは幻聴だったのか、エイプリルフールの悪戯だったのか。アニメ化の話題はそれきりふっつり途切れて、あたかも初めからそんな話などなかったかのように扱われ、ただちに人々の意識の中から忘却した。
思えばサンデー時代は苦難そのものであった。作家とは名ばかりでその地位は果てしなく低く、単に待っているだけの編集から軽く扱われ、虐げられ、苛められ、苦労して描きあげた原稿をなくされても謝罪の言葉など一つもなく、あのサンデーキャラ全員登場するはずのCMにすら『かってに改蔵』キャラは出させてくれなかった。期待していた印税は、辛うじて生活が維持できる程度しか入ってこず、編集のほうが作家よりはるかにお金をもらっているのが漫画業界における現実である。貯金を貯めて老後の備えなどできるはずもない。
作家とはただの期間工でしかない。売れればそのわずかな間だけチヤホヤされ、売れなくなると使用済みの紙くずみたいにポイッと捨てられてしまう。人情なんて一片もない酷薄な世界である。
久米田康治はそんな漫画業界の最底辺をひたすら低空飛行し続けてきた。編集からひたすら苛められ、罵倒を浴びせられ、原稿をなくされ、CM制作で無視され、講談社に移ったとたん小学館時代の全ての作品が絶版扱いにされ、それでも眼差しの奥に宿った輝きは失われず、どん底の真っ黒な沼の底からいつか夜空に輝く星たちのようになりたいと――下ネタ漫画で輝きたいと心の底から願い、恨み、妬み続けていた。
それが、どうしてこうなってしまったのか……。いうまでもない。何もかも小学館が悪いのである。
あの頃忘れられ、失われた夢は、すっかり忘れられたタイムカプセルを知らない誰かに拾われたかのように思いがけず開かれてしまった。『かってに改蔵』連載終了から7年の時を経て、まさかのアニメ化である。
久米田康治先生、おめでとうございます。
オチのない冗談はさておき、『かってに改蔵』の原作が完結してから実に8年。「なぜこんな時期に?」と首をかしげずにはいられない作品のまさかの映像化である。
アニメ『かってに改蔵』は原作初期をベースに描かれている。キャラクターは後期の、線の数を減らした洗練された表現ではなく、連載初期の線が多く、陰影を多用してキャラクターを立体的に見せようとしていた時期をベースにしている。カットの作りは全身を捉えた舞台風のロングサイズから極端なクローズアップへと何度もジャンプを繰り返しながら描かれている。色彩は連載初期のカラーページを意識した、まるでマーカーでべったり塗りたくったような原色そのままの色で描かれ、その上に様々なフィルターが丁寧に被せられている。暗いシーンでの影はセル調の実線が消えかける滲み出るようなブラックが施され、光の差し込むシーンでは色の境界線にブルーやグリーンが淡く溶け出すような処理が与えられている。ふとすると、キャラクターにも背景にも質感を持たない単調ともいえる色彩を、撮影の効果によってこの作品特有の不思議な風合いを持った映像に仕上げている。
次回予告では特にマーカーでべったり塗ったような色彩で描かれている。茶色ならべったりと茶色、緑ならべったりと緑。まるで絵の具をチューブから出してそのまま水に薄めもせず描いたような色彩である。当時の原作の色彩を忠実に再現している。
ちなみに1話と2話で次回予告の映像は微妙に変わっている。コマ送りをしてしっかり確かめたい場面だ。
その一方、オープニング・エンディングは後期の洗練されたタッチのほうが採用されている。アニメ本編、オープニング・エンディングとでまったく違う画風が試されているのに注目である。
またアイキャッチでは「現在の久米田康治」ふうのタッチで描かれている。
エピソードは、映像化作品としては非常に勇気のあるエピソードが選抜されている。後期の『さよなら絶望先生』に続く社会風刺漫画としての要素はまだ片鱗としてわずかに見える程度でしかなく、むしろ下ネタ漫画として油の乗った、まさに第1の絶頂期ともいえるエピソードを中心に採用している。
具体的に描写するとこのブログがうっかり成人指定にされてしまいそうな、テレビのような公共的なメディアでは絶対放送できないような描写が次から次へと繰り出されていく。有り体に表現すれば、チンコである。それも子供チンコではなく、悶々と欲求のはけ口を求める成人チンコである。成人チンコが次から次へと見る者を唖然とする数で描写され、クローズアップされ、その後に作品特有の微妙な笑いを後方に残して去っていく。この頃の久米田康治が描く変態たちは、全裸がデフォルトで、ブリーフという文明的な被服はまだ獲得する前であった。
「どうせテレビ放送は絶対不可能だし、映像を買う人はそれなりの理解のある人のはずだ」という開き直りっぷりが清々しい心地よさを残していく。(ビデオの最初に、「このビデオグラムはテレビ放送バージョンとは違う……」云々の注意書きが挿入される。あれもギャグなのだろうか)
キャラクターは漫画原作の1巻~2巻をベースに描かれている。名取羽海はまだ普通の女の子だった頃で、坪内地丹はびっくりするほど頭身が高く描かれる。いずれにしても、まだ人として真っ当な時期で、勝改蔵と天才塾の一同に振り回されていた頃だ。
女性キャラクターは特にバストを強調的に描かれている。彩園すずはともかく、このタッチのお陰で羽海も(それなりに)スタイルのいい女の子のように見える。
アニメ『かってに改蔵』は徹底した原作至上主義が貫かれた作品である。原作どおりの台詞に、原作どおりの展開。原作で提示された以上のものは何もなく、イレギュラーは徹底的に排除された映像作品である。「原作ストーカー」と新房昭之に評された龍輪直征らしいデビュー作品に仕上がっている。どこまでも原作通りで、原作に忠実であろうとする、原作原理主義の性格が映像に浮かび上がってくる。まさに『かってに改蔵』の原作が好きな人が制作し、原作が好きな人のために映像化された作品である。
第1話 覚醒めた男
Aパート 詩ってるツモリ!?(愛蔵版第1巻第4話)
ある日の科特部。いつものように部員たちが、何かをするわけでもなくぼんやりとくつろいでいた。
ふと、彩園すずが坪内地丹の背中に何か張られているのに気付く。
「あら地丹くん。そのポエム、どうしたの?」
ポエム? 手鏡で背中を映してみると、確かにポエムがそこに貼り付けられていた。
「ああ、をとうとよ/君をヌク/君下多毛ことヌカれ」
地丹だけではなかった。勝改蔵は顔にポエムが、名取羽海は太股にポエムが書かれていた。
これはきっと奴らの仕業に違いない。「叫ぶしびんの会」と呼ばれる謎の詩人集団。そしてそれは科特部の敵に違いない……。
とそんな科特部の前に、件の「叫ぶしびんの会」の一同が堂々と姿を現す。
Bパート 走り出したら止まらない!?(愛蔵版第2巻第2話)
唐突に、構内に悲鳴が轟いた。科特部に飛び込んできたのは、美人で有名なクラス委員の山田さんであった。
「私……妄想されたんです!」
それはその日の登校時の出来事であった。美人で有名なクラス委員の山田さんの前に、全裸の男が突然現れて――、
「お前をオレの中で妄想してやる!」
と宣言。全裸の男は美人で有名なクラス委員の山田さんをニタニタと歪めた眼差しでじっと見つめながら妄想をはじめ、興奮したあえぎ声を漏らし、全身に汗を染み出し、その最後に――どうやら絶頂に達したようだった。
というわけなのだが、特に触られたりしたわけじゃないから、罪にも問えない。
これは伝説の妄想族「吐鬼女嬉」の連中に違いない。そしてそれは、科特部の敵だろう。勝改蔵は、「吐鬼女嬉」と戦うために、彼らが現れそうな場所に待ち伏せを張る。
Cパート 学校の海パン(愛蔵版第1巻第8話)
その学校には、古くから伝わる怪奇の伝承があった。北校舎のずっと閉鎖されたままのプール。そこで昔、生徒が溺れたそうだ。しかし、その死体が浮かび上がらず、ただ血まみれになった海パンだけが後に残されていた、という……。
第2話 美しき男たちの品格
Aパート フランスはどこだ!?(愛蔵版第1巻第6話)
「先輩! 改蔵先輩お久しぶりです!」
改蔵が街を歩いていると、唐突にサッカーユニフォームの男が声をかけてきた。改蔵の古くからの知り合いで、いま流行りの高校生Jリーガーであった。
しかし彼は、ワールドカップ代表選抜に外された直後であった。
「残念だったな、代表入り」
「どーせ僕のパスは理解されないんです……」
サッカーユニフォームの男は愕然とうなだれた。
仕方がなかった。今の日本代表では彼のキラーパスに合わせられない。なぜならば、彼がキラーパスを放つと……。
Bパート ファッション大魔王!?(愛蔵版第1巻第21話)
最近街で、怪事件が流行っているらしい。その名も、「連続セーラー服エリ立て魔」。その正体を掴むべく、オカルト専門の科特部が集まっていた。
とそんなところに、美人で有名なクラス委員の山田さんの悲鳴が雑踏を切り裂く。駆けつけてみると、美人で有名なクラス委員の山田さんのエリが逆立ちした格好でぱりぱりに固められていた。
「フフフ……。本来、セーラー服とはそのようにエリを立てて着こなすのだ」
不意に不敵で不気味な笑い声が耳に飛び込んでくる。颯爽と現れた男こそ「連続セーラー服エリ立て魔」の犯人、オシャレ先生マリオであった。
かってに改蔵 中巻
かってに改蔵 下巻
さよなら絶望先生《本家》目次ページへ
作品データ
総監督:新房昭之 監督:龍輪直征 原作:久米田康治
キャラクターデザイン:山村洋貴 メインアニメーター:岩崎安利
美術監督:飯島寿治 伊藤和宏 ビジュアルエフェクト:酒井基 色彩設計:滝沢いづみ
構成:東冨耶子 構成・脚本:高山カツヒコ 編集:関一彦
撮影監督:江藤慎一郎 音響監督:亀山俊樹 音楽:川田瑠夏
プロデューサー:宮本純乃介 アニメーションプロデューサー:久保田光俊
オープニング主題歌:水木一郎と特撮 エンディング主題歌:新☆谷良子
アニメーション制作:シャフト
出演:櫻井孝宏 喜多村英梨 斉藤千和 豊崎愛生 堀江由衣
○ 立木文彦 堀内賢雄 新谷良子 小野友樹 永田依子
○ 紗倉のり子 徳本英一郎 樋口智透 渡部由佳
○ 畑健二郎 MAEDAX