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■2012/07/10 (Tue)
シリーズアニメ■
\アッカリ~ン/

『ゆるゆり』が始まった。
『ゆるゆり』が始まったのは2008年、最初の掲載雑誌は『コミック百合姫S』であった。しかしマイナーな弱小雑誌の宿命に翻弄されるままに流浪し、現在では姉妹誌『コミック百合姫』で連載が続いている。
本来であれば、掲載されている雑誌が休刊になると漫画の連載はその時点で終了となる。どんなに濃密な長編ドラマが予定されていようと、雑誌休刊という絶対的な強制力には逆らえず、どんな状況であれ物語は強制終了、編集者は社内異動で保護されるものの、ほとんどの作家は世間に放逐である。雑誌休刊で捨てられた作家のその後は、野良犬すら拾い上げない哀れなものである。
しかし『ゆるゆり』だけは、雑誌が休刊になろうが作品が移籍しようが、何食わぬ顔で、その後もあの驚嘆すべき掲載スピードを緩めず連載が続いていったのである。
間もなく多くの読者も『ゆるゆり』という作品に気付き、その特異性が注目され、今では『コミック百合姫』最大の稼ぎ頭として邁進し続けている。
『ゆるゆり』の主人公は歳納京子である。第2巻のあとがきで、作者自身の発言でそう書かれている。歳納京子は常に漫画の中心にいて扇動者としての役割を持って物語を牽引し、扉絵でも登場回数が多い。歳納京子は間違いなく実質主人公である。
しかし歳納京子が主人公であるという事実にちょっとした論争が起き、編集者が「赤座あかりが主人公ではないか?」と提示されたことにより、主人公の交代が執り行われたのである。
赤座あかりが主人公である根拠――第1回掲載時の登場の仕方が何となく主人公っぽかったからだ。
これを指摘され、作者も「じゃあ赤座あかりが主人公で」となんともいえないゆるさと柔軟さで主人公交代が受け入れられたのである。
歳納京子→吉川ちなつ→船見結衣
→は強い感心と結びつきを現している。関係性、という面では、歳納京子と船見結衣は幼馴染みという点で強い結びつきを持っている。
さらにこの関係性を生徒会一同他を巻き込んで延長すると、以下のようになる。
池田千鶴→池田千歳→杉浦綾乃→歳納京子→吉川ちなつ→船見結衣
やはり赤座あかりの名前が出てこない。上に取り上げられなかったキャラクターたちも、それぞれ対にキャラクターが存在し、そこで何かしらのドラマが生まれるように作られている。が、赤座あかりだけがこのウロボロスの輪の中にいないのだ。
原作第2巻15話yryrホラー・ショー(アニメ版9話)の2ページ目1コマ目に赤座あかりが間違いなく登場する。しかし、その後全てのコマから赤座あかりが剥落し、最後の最後で、実は幽霊だった、というオチで再登場する。
どうしてこうなったのか。おそらく、作者がネームの段階で、赤座あかりを書くのを忘れていたためだろう。作者自身赤座あかりの不在に気付き、オチに使ってしまおう、と考えたのではないか。作者自身が赤座あかりがいないミスに柔軟に対応した結果、赤座あかりの影の薄さが強調されたのだ。
しかし、目立たない、影が薄い、存在感がない、その事実を個性と捉えることで、むしろ赤座あかりのキャラクターは、登場しないことによって強調されていくのだ。全登場人物から無視される、トラブルに見舞われてもほっとかれる、そもそもエピソードに登場していない、などを繰り返すほどに、そこに描かれていないはずの赤座あかりの存在感はより強く際立ち、作品を支配するアイコンとして輝き始めるのだ。
……と、いうことにしておこう。
第1回目の掲載は、後で見るとおとなしめの2話掲載である。その後、ゆるやかにペースを上げていき、第2巻で1度の雑誌出版で5回掲載。その後、執筆ペースはインフレ状態でそのうちにも『コミック百合姫S』の掲載作品はほとんど『ゆるゆり』のみで埋まるという謎の事態に突き進み、この段階で雑誌出版スピードより単行本出版スピードのほうが先になり、第6巻は『まんがなもり ゆるゆりSPECIAL』という雑誌で独立。第7巻は全編書き下ろしとなった。
左は第2巻あとがきに描かれた歳納京子である。頭上からふってくる丸々としたくらげ(のようなもの)を、バレーのように打ち返している姿が描かれている。
これはおそらく、一発書きだろう、と考えられる。
根拠は線全体の流れかたである。線が均一に描かれているのは、線の太さに差が出ない画材が使用されているからだろう(SignoやHI-TECかも知れない)。しかし、それだとしても線の流れが均一である。もしも下書きのある漫画原稿であれば、肌の質感、髪の毛の柔らかさ、服の素材、それぞれで様々な太さに描き分けられる。左の絵の場合、全体が同じ緊張感を持って線が流れている。また、線の継ぎ目が修正されていない。
全編書き下ろしとなった第7巻ではあとがきもキャラクターが中心の漫画が描かれた(右)。ある程度下書きがあったかも知れないが、ほとんど一発書きであると想像される。
なもりは動きを捉えるのがうまい。全身の動きに合わせて、髪の毛、上着、スカートがつられて動く瞬間をしっかり捉えている。もしアニメーターだったら、いい原画を描いただろう。
ここで比較として『じょしらく』を取り上げてみよう(『じょしらく』を比較として取り上げたのは、比較対象として妥当性云々ではなく、単になんとなく机の上に置いてあったからだ。どちらもオチのない漫画、という共通点があるからいいだろう)。
『じょしらく』は当初3段構成、大きなコマでキャラクターが描かれていたが、その後コマのが小さく分割されるようになり、2巻以降は4段から5段構成が基本となり、一つのコマに複数キャラクターが描かれ、台詞量も多く、勢いを付ける集中線などの漫符が多く取り入れられている。
一方『ゆるゆり』での漫画の構成はもっとシンプルだ。台詞量は少なく、漫符も必要最低限しか描かれていない。ほとのどのコマで背景が描かれていないのも特徴だ。シンプルにキャラクターの表情や、台詞のやりとりを追いかけられるように、不要な素材を削ぎ落とした結果だろう。
また作家なもりは、間欠泉のごとくアイデアが沸き続けているのだろう。ここまでの執筆速度を維持するためには、その分のアイデアも必要になってくる。アイデアが出てこなくなったら、当然執筆速度も落ちるはずだが、なもりの場合、加速し続けている。アイデアが途切れることなく延々出続けているためだろう。
第7巻のあとがきで、作者の近況の代わりに、各キャラクターたちの近況が描かれた。これがたっぷり14ページ。振り返ってみるまでもな
アニメ配信に併せて、ニコニコ静画では「大室家」の連載が始まった。てっきり4コマ漫画か何かだろう、と思っていたら、本格的に構成された漫画だった。連載回によってページ数は変動するようだが、ほぼ週刊雑誌連載分が毎週掲載されている。アニメ配信中はずっと連載が続くようだから、アニメシリーズ1本終わる頃には単行本1冊くらいになりそうだ。ところで、どうして大室家だったのだろう? 取り上げるべきキャラクターは他にもいるような……赤座家とか。
色彩の構成は第1期と変わらない、あまり差の出ない穏やかなぬくもりで描かれている。線と影はシンプルで、少女たちの身体と動きを捉える必要最低限の要素で構成されている。相変わらず元気な歳納京子の線は、大胆に省略されたり、あえて歪まされたり、アニメーターが動きを楽しんで
(特にノリノリでアクションを決めたのはオープニングである。規則性のほとんどない謎の動きを、フルコマで描いている。オープニングはほぼフルコマで描かれ、前作とは違う贅沢さを感じさせる)
いつもは大人しく控えめな赤座あかりが鬱陶しいくらいに厚かましいダンディズムを発揮し、女の子たちを虜にしていく。そのあまりの不自然状況に、視聴者たちは夢の話だと察する。この夢が前半9分にもおよび、あまりにも長く、しつこい内容であるのに関わらず、視聴者たちは赤座あかりへの同情と哀れみを込めて、このささやかな夢の一時を妨害しないよう暖かく――見なかったことにするのだ。
おそらく、作者であるなもり自身、歳納京子たちが何をするのか、何をやらかすのか、空想の中で好き勝手遊び回っている状況を楽しんでいるのだろう。作家として、歳納京子を制御して特定のどこかへ導こうという発想は多分ない。読者と同じ目線で、作者自身もキャラクターたちを追いかけている、そんな感じかも知れない。
みんな『ゆるゆり』に夢中なのだ。
ゆるゆり♪♪ スペシャルサイト
ゆるゆり♪♪ あにてれサイト
なもり twitter
作品データ
監督:太田雅彦 原作:なもり
副監督:大隈孝晴 シリーズ構成・脚本:あおしまたかし キャラクターデザイン・総作画監督:中島千明
総作画監督:越智信次・尾尻進矢 色彩設計:真壁源太 美術監督:鈴木俊輔(スタジオ風雅)
撮影監督:佐々木正典 音響監督:えびなやすのり 音響制作:ダックスプロダクション
音楽:三澤康広 音楽制作:ポニーキャニオン
アニメーション制作:動画工房
出演:三上枝織 大坪由佳 津田美波 大久保瑠美
藤田咲 豊崎愛生 加藤英美里 三森すずこ
倉口 桃 白石涼子 後藤沙緒里 竹達彩奈 悠木碧
■2012/05/15 (Tue)
読書:研究書■

軽い気持ちだった。どうせ落選して、弁護士の仕事に戻れるだろう、と考えていた。それがまさかの当選。その時点で、さくら子は弁護士の道を諦め、政治家として生きていくことを――泣く泣く――決めたのである。
とはいえ、政治とは無縁の仕事を、生活を歩んできたさくら子である。政治家になったといっても、そこで何をするべきなのか、何を目指すべきなのか、そのビジョンは何も見えてこなかった。何年たっても相変わらず政治音痴の半端者のままだった。
だというのに、かつて総理大臣を務めた朝生一郎に、「総選挙に出馬してくれ」と懇願されたのである。
なぜ自分が……? 政治家としての自覚がいまだに中途半端なままで、そもそも政治というものが何なのかもよくわからない。今度も、「どうせ落選するだろう」と願うような気持ちがあった。
しかし霧島さくら子は、自民党第26代総裁に、第97代日本国内閣総理大臣に就任したのである。
「……なんで、私が総理大臣?」
『コレキヨの恋文』、この本は、2009年に出版されベストセラーにもなった『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』、通称『もしドラ』のパクリである。あるいは、『もしドラ』を手本に描かれた小説である。作者である三橋貴明自身それを認めて、堂々と公言している。しかし、そこにある切実さ、作品が抱えている重さはまったくの別物だ。
いま日本は、デフレである。デフレであるから経済不況が続いているのである。デフレであると、市場に物が溢れているのにそれらが売れず、企業は充分な利益が得られず、給与が切り詰められ、存続のために従業員がリストラされる。失業者がじわじわ増え続け、大学を出たばかりの新卒は仕事に就くチャンスを失う。にも関わらず、市場には物で溢れ返り、今の日本が深刻な不況であるという現実がなかなか見えてこない。これがデフレの状態であり、デフレの怖さなのである。
そんなことは今どき子供でも知っている? 常識?
では、なぜ誰もデフレに対して深刻に語ろうとしない? なぜ誰もデフレを解消しようと努力しない? なぜデフレを解消させる術を知っている政治家に票を入れず、経済状況を深刻にさせる総理ばかり支持するのだ?
それはデフレを知っているつもりになっているからだ。デフレという言葉と状況は理解している。しかし、「ではどうすれば良いのか」その対応策について、あるいはデフレという現実感がいまいち掴めずにいるから、デフレが20年も続く事態に陥っているのである。
『コレキヨの恋文』はデフレという問題を改めて見詰め直し、では国家として何をすべきなのか、物語というわかりやすい形に描かれた実用書である。
霧島さくら子は、ある桜の咲く夜に、コレキヨ――高橋是清と邂逅する。
「このところの日本の政治は、本当にひどかったですよね」
さくら子は何でもない世間話をするつもりで、是清に声をかける。しかし、さくら子は是清を1930年代の人間だと知らずに、一方是清は、さくら子を2010年代の人間だと知らない。なのに二人の対話は、ことごとく一致するのである。
まずデフレ。1920年代も現在と同じくデフレ不況が続いていた。切っ掛けは第1次世界大戦特需で膨れあがったバブルが崩壊したためだ。
1990年代も土地バブル崩壊で、その後20年間デフレが続いている。このデフレが続いている期間も一致している。
デフレが始まってから以後、総理大臣が毎年のように代わった。橋本龍太郎、小渕恵三、小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎、鳩山由紀夫、管直人、野田佳彦……。小泉純一郎が例外的に4年間総理大臣を務めたものの、この10年間の総理交代劇はあまりにも目まぐるしいものがあった。
1920年代も同じだった。1913年に山本権兵衛内閣が発足されたのをはじめに、ほぼ毎年のごとく総理の名前が変わっている。大隈重信、寺内正毅、原敬、高橋是清、山本権兵衛(第2次)、清浦奎吾、加藤高明、若槻禮二郎、田中義一、濱口雄幸、若槻禮二郎(第2次)、犬養毅、佐藤実、岡田啓介……。ほとんどの総理が1年だけの就任で変わってしまっている。
「ライオン宰相」と呼ばれた総理もいた。現代は小泉純一郎のことだが、1920年では濱口雄幸のことだ。ともに国民人気を背景に総理大臣に就任し、緊縮財政でデフレを悪化させた。
ペテン師と呼ばれた総理もいる。1920年代では若槻禮二郎のことであり、現代では管直人のことである。若槻禮二郎は1926年弾劾を受けるものの、予算を成立させたら自分で解散するから、と弾劾を引っ込めるように懇願したが、予算成立後も総理の座に居座り続けた。一方管直人も、不信任案を受けたものの、自分から退陣するからと民主党員を説得したが、その後も総理の座に居座り続けた。
(高橋是清に相当する人物も今の時代にいるようだ。これについては、敢えて書かないが)(あとついでに、朝日新聞も相変わらずだったようだ。朝日新聞の権力に寄りかかり、国民を扇動する記事ばかり書く傾向は、当時から変わらないようだ)
アメリカのバブル崩壊もあった。現代では2007年のサブプライムローン、リーマンショックの2つであり、80年前はNYウォール街株式大暴落のことである。ともに日本はすでにデフレ下での事件で、釣られるようにデフレを深刻化させた。
さらに日本では大きな震災が深刻な被害をもたらした。1923年の関東大震災、1933年の昭和三陸地震。1995年の阪神・淡路大震災、2011年東日本大震災。
都市伝説の話ではないものの、1920~30年代と現代は一致する事象があまりにも多い。さくら子と是清は、互いに過去の人間、未来の人間と気づかないまま言葉を交わすものの、ことごとく噛み合ってしまうのである。ここまでくると気味が悪い。神の悪戯の悪魔の仕業か、何者かの手が加わっているようにすら思えてしまう。
違いもある。1920年代の情勢不安は現代とまったく違う種類のものだ。当時は、常に戦争、軍事的衝突が多かった時代だ。日本は軍部が強力な権限を持ち、さらに権限を拡大させようと画策を巡らしていた。世界の戦争に日本がいつ巻き込まれてもおかしくない状況であり、実際巻き込まれ、日本は国家として一時的に深刻なレベルで衰退させてしまった。
現代では自衛隊にそれほどの力はなく、世界戦争というほど大きな戦争が起きそうな気配はとりあえずない。(日本には戦争の気配はないものの、周辺の国々、特に中国・北朝鮮・韓国などの特定アジアに不穏な動きは絶えることはない)
1920年代は毎年のごとく総理大臣が政権ごと交代したが、一度だけ、これが幸いな結果をもたらしたことがあった。1923年の関東大震災である。関東大震災が起きた翌日、山本権兵衛内閣が発足。これは関東大震災から日本を復興させるために作られた内閣である。
しかし現代では悲しいことに、東日本大震災後、政府は何もしていない。ただ作業着を着て現場視察をして、何かやっています的なパフォーマンスを披露しただけだった。それどころか、民主党は東北をTPPの実験場にするつもりである。瓦礫と廃墟の東北地方は、いまだに復興の希望は見えてこない。自民党は東北の復興予算を提示するものの、民主党はこれを頑なに拒否。結局復興予算を受け入れたのは震災から90日後だった。
それにしても現在がデフレであることを知りながら、なぜデフレを解消しようと誰も努力しないのか。私は個人的に3つの理由を考えた。
第1に、生活のポテンシャルが無駄に高いからだ。今はそこそこのお金があれば、それなりの生活ができてしまう。とりあえずパソコン一台あれば仕事の娯楽の両方をこなすことができるし、全国に巡らされた交通網で、どこへ行くにも支障はない。それにトイレに入れば最新鋭のハイテク便器が尻を洗ってくれる。ある程度以上水準の高い生活が保証されるから、経済的な深刻さが掴めないのだろう。
第2に、物が枯渇することがないからだ。今の日本は間違いなく経済不況であるが、スーパーやコンビニから食品が消えることはなく毎日きちんと供給されている。「物で溢れ返るが、それを買うお金がない」という状況がデフレの状態なのだがら当り前なのだが、物が溢れ返るからこそ不況の深刻さが見えてこないのだと思う。これがある日を境に、いきなり物や食品がなくなったら――デフレが続けばいつかは間違いなくそうなるのだが――、そうなるまで人々はデフレであることの実感は得られないのだろうと思う。
第3の理由が少子高齢化である。高齢者の数が圧倒的に多い。なぜこれが問題なのか。
現代は高齢者が意識や思考に対して、絶対的なイニシアチブを持ってしまっている。高齢者が考えた、発言したものが、現代人の思考の一つの基準として社会に広がる現象が見られる。
例えば「最近の若者はなぜ消費しない? なぜ車を買わない?」。老人たちは「テレビで車を使ったデートシーンが出てこないからだ」とか「若者が草食化しているからだ」あるいは、「物で充実して満足しきっているからだ」などの回答を勝手に作り出し、社会全体に強要している。
若者の目線から答えを示せば、消費しない理由はいたってシンプルである。「お金がない」からだ。
しかし老人たちはなかなかこの答えに辿り着かない。なぜならば、日本のお金のほとんどは、老人たちが独占してしまっているからだ。デフレであるからといって、お金が消滅するわけではない。老人たちはお金を持っているのである。だから当然、若者も同じようにお金を持っているだろう、ではなぜ物を買わないのだ? となってしまう。新しい車を発売しても、購入するのは若者ではなく老人たちである。この状況・理由について、おそらく老人たちは真面目に考えたことはないのだろう。もしも「若者はお金がない」という状況を知っても、老人たちは「今の若者は自分たちのように働かないからだ」と奇妙きわまりないロジックを引き出し、若者批判を展開させる。いくら仕事しても給与に反映されない、というのがデフレの今の問題なのだが、それが理解できないのだ(仕事をせず、生活保護を受けた方が割のいいお金が得られる、という有様である)。
「今の日本の経済は充分に成熟した。だからこれからは衰退するしかないのだ」というよく聞く悲観論も、高齢化社会が関連している。「もう自分たちは充分成熟した。あとは衰退するだけ」というのは、自分たちの状況を説明しているだけで、経済の話ではない。自分たちの心理状況を、現在の経済の状況に重ね合わせて語ってみせているだけで、それは現実の経済について何か語っているわけではなく、これはある意味のポエムである。
大きな企業のトップに君臨するのは老人たちである。老人たちは自分たちはお金を持っている、今はデフレで物が安くて、チャンスのはずだ。そう考えている。現状認識を完全に取り違えたままであるから、常人にも狂人にも理解不能な商品展開を繰り出し、失敗し続けている。デフレでお金がない、という現状認識、あるいは社会認識がなかなか広がらないから、社会そのものがデフレという状況について考える機会を失っているのだ。
高橋是清の時代。1930年代は間違いなくデフレを脱却したのである。『コレキヨの恋文』はマクロ経済における基本的な考え方の解説に始まり、いかにすればデフレを脱却できるのか、その方法が描かれている。“解説”と“物語”の2つを軸に、小説は進行していく。

また『コレキヨの恋文』は現在から数年後――おそらく1、2年後――の未来が想定されたシュミレーション小説である。現在の民主党の政権が倒れ、政権が再び自民党に戻された。それ以後のできごとが描かれた作品である。
シミュレーション小説だから、未来を予測するための現在の描写に、かなりの枚数を割いて書かれている。最近の民主党総理の脱税疑惑や外国人献金などの暗い側面など避けることなくしっかり描いている。
世界情勢についての描写も細かい。特に欧州ユーロ圏についての描写が多く、ギリシャが債務不履行(デフォルト)を宣言した後、ヨーロッパ各国が次々に追随。真っ先にドイツがユーロを脱退した。ユーロ圏全体での不良債権は合計で3000兆円に達するという。3000兆円の不良債権、なんてゾッとするが、このシミュレーションはどこまで正確なのだろう。
中国のバブル崩壊についても少しだが描かれている。中国はバブル崩壊した後(これはシミュレーションではなく事実としてすでに崩壊している)、政府は軍事的冒険に乗り出し、尖閣諸島を中心に、日本と軍事的緊張を持つようになる。
世界は暗澹とした経済不況に陥り、1930年代のような戦争の影がちらちらと見え始めてくる。……経済的な問題を、戦争で解決しようというのだ。
しかし『コレキヨの恋文』は悲観的なシミュレーションを描いていない。バブル崩壊、デフレ不況、世界情勢の不安定。ならばどうすればいいのか、どうすれば解決するのか、その具体的な指針を示した小説である。
マクロ経済の常識に照らし合わせ、デフレである今、どうするべきなのか、どう考えるべきなのか。戦争もしなくていいし、日本のデフレ脱却は実は簡単である。世界情勢を再び安定させることだって、不可能ではない。
日本国民は教養豊かな国民性を持っている。正しい知識を与えれば、間違いなく正しい行動をとることができる。そのための理解力も極めて高い。問題は、正しい知識を得る機会を喪っていることにある。
なぜか? 120%新聞とテレビが悪い。新聞とテレビが中心となって誤った情報を国民に広げ、正しい知識と得る機会を奪っている。新聞とテレビは自分たちの感情だけで「土建屋悪玉説」を主張し、自分たちのお気に入りの政治家(民主党)を御輿に担ぎ上げ、さらには一部の官僚が主導し、間違いなく日本経済を悪化させる増税、TPPをあたかも素晴らしい政策ように喧伝している。
マスコミが政治について解説するとき、常に“政局”ばかり取り上げる。政治家と政治家が対立する場面だけを切り取り、いかにも自分たちが審判になったつもりになってジャッジを下す。そこでマスコミは、正義と悪役を作り出してしまう。そうすることによって、さらに政局そのものを煽り立て、政治家から政治を遠ざけてしまう。国民が知りたいのは、知るべきなのは、その政策がどんな効果をもたらすのか、それだけである。だが、前面で出てくるものはいつも政局で、政治そのものを知る機会を国民から奪ってしまっている。
残念ながら『コレキヨの恋文』は物語小説としてはあまり出来のいい作品ではない。
物語は節々でぶつ切れになるし、連続性のない場面がいくつか取り上げられているだけだ。後は“エピソード”として描かれず、大雑把な粗筋としてまとめられてしまっている。
“解説”が『コレキヨの恋文』の本旨ではあるものの、物語との連続性はあまり自然ではない。“解説”の占める重要度が大きい一方、“物語”が背景に押しやられてしまっている。
人物の描き方も良くない。どこかで聞いたような名前の東田剛、間違いなくあの人がモデルである朝生一郎、官房長官の九条といった人物が登場するものの、それらの人物がまったく掘り下げられていない。演芸会のような表面的な台詞がちらちらと並ぶだけで、感情が現れる場面はなく、人物同士の交流も浅く、そこにドラマが起きそうな予兆はない。
文章の構築もあまりいいものではない。『コレキヨの恋文』は執筆協力としてさかき漣の名前を堂々と公開している(ゴーストライターの存在を明らかにするのは珍しい)。三橋貴明は音速タイプタッチと呼ばれる異常な速筆で、次々と著書を出版しているが、文章がうまいというわけではない。これまでの著書を見ても、放り投げたかのような文章、バラバラのリズムの句読点。きちんと自分の本を読み直してから出版したのかと疑いたくなる。「何しろ」の語が3ページおきに出てくるのもよくない。『コレキヨの恋文』は小説作品として、さかき漣が大部分を直し、三橋貴明特有の癖を修正しているものの、まだ“一般的な小説”の水準には及ばない。
もしも将来的に『コレキヨの恋文』を映像化する場合、映像作家はこの小説から新しいエピソードをかなりの量で作り出さねばならなくなるだろう。もちろんそこには、人を引きつけるドラマがなければならない。単に“マクロ経済について説明してくれる映画”では、人の気持ちを引きつけることはできない。原作そのままでは、映画にならない。
「経済の成長はもう成熟しきっていて……」などはマクロ経済の常識からいってあり得ない。経済の成長とは、本書に書いてあるとおり、名目GDPを成長させることである。名目GDPのポイントを上げれば自然とデフレは収束し、うまく政治の舵取りをすれば、ゆるやかなインフレ状態のまま経済成長し続けることはできるのである。お金は回り続けるだけでよく、お金が回る過程で人々は様々なサービス、良質な品を手にすることができる。
1930年代、高橋是清の時代もデフレであり、そのデフレは脱却できたのである。もっとも、その時代は軍部が強力な権限を持っていた時代である。確かにデフレは脱却できたものの、あの忌まわしき事件が起きて、日本は歴史史上最悪の暗黒時代に突入する。
しかし、今は少なくとも国内に戦争の気配はない。まっとうな政党のまともな政治があれば、いつでも直ちにデフレを脱却でき、経済成長させることができる。問題なのは、誰もその方法を実行しようとせず、また実行しようとしても国民が理解できず、正しい政策を信じることができないからである。
日本国民は教養豊かな国民性である、と私は信じている。教育のレベルは極めて高いし、一人一人に知性がある。正しい知識を与えられれば、正しく行動できる。ただ、そのチャンス――正しい知識を得る――がないのである。すでに書いた通り、マスコミが全部悪い。
だから『コレキヨの恋文』が書かれたのである。マクロ経済を物語という接しやすい本にすること。『コレキヨの恋文』を通じて、読者がマクロ経済を理解すること、さらにはいかにデフレを脱却できるか、その方法を示すための本である。デフレの時代だからこそ、読むべき価値のある本である。
三橋貴明オフィシャルブログ「新世紀のビッグブラザーへ」
著者:三橋貴明
執筆協力:さかき漣
出版:小学館
■2012/05/08 (Tue)
シリーズアニメ■

俺は福部里志を相手に、思っていたことを話す。
放課後だ。窓から射す光はささやかで、教室の中は灰色に溶け込もうとしていた。教室の中には何かの仕事を始末しようとしている男子生徒が一人と、机を挟んで、楽しげな会話をひそひそと交わしている2人組の女子生徒が残っている。俺は何の興味も関心もなく、ただそこにいるから、というだけでそういう連中の背中を眺めていた。
「奉太郎に自虐趣味があったとは知らなかったね」
里志は俺の机に肘を付けて頬杖をしながら、俺を上目使いに見て、この男特有の軽い皮肉っぽさを混じらせながら言う。
「自虐趣味?」

「別に後ろ向きなわけじゃない」
俺は声にかすかな憤慨を混じらせた。といっても、感情的になるほど俺はアクティブじゃない。
「奉太郎的にはね。省エネ、なんだよね。奉太郎は」
やけに得意げだ。
もったい付けた言葉を選んでいるが、別に議論しようってわけじゃない。単なる暇つぶしだ。放課後の猶予時間を無駄に消費する……あるいは、そうすることですべき決断やそれに伴う行動に対して保留しようとしている。

「ただただ面倒で、浪費としか思えないことには興味が持てない。そのモットーはすなわち!」
里志が俺を指さす。俺は思わず、里志の指先に注目してしまった。
「やらなくてもいいことはやらない。やらなきゃいけないことなら手短に」
俺は溜め息混じりに言う。俺の普段からの口癖、信条であるが、それを他人に言わされるとなると、なにやら腹立たしい。
「だね。でもね、奉太郎。この多彩な部活動の殿堂、神山高校で部活にも入っていない奉太郎は、結果だけ見れば灰色そのものってことだよ。そんな奉太郎が寂しい生き方なんて、自虐趣味の何物でもない」
「口の減らない奴だな」
愚痴をこぼす。かといって、この男が不愉快なわけではない。鬱陶しいくらい言葉が溢れ出す男だが、不愉快に思ったことは一度もない。むしろ、不思議と好意すら感じていた。
そんな俺の心情を察しているかのように、福部は身を乗り出して、また俺を上目使いにした。
「何を今更。中学からの付き合いだろ」
いや、今度はさすがに苛っときた。
「ふん。まあいい。先に帰れ」
どうやら暇つぶしと保留はおしまいだ。面倒だがそろそろ行動に移さねばならない。
「先に? どういうこと?」
里志は少しきょとんとした風情だった。俺は何も言わず、内ポケットの畳んでしまっていた紙切れを引っ張り出し、里志の前で開いてみせた。

「まさかそんな! 入部届! 奉太郎が部活に! しかも古典部に!」
大げさな奴だな。教室に居残っていた連中が、ちらと俺たちを注目する。俺はそんな視線を逃れて、

と里志に尋ねる。教室の一同は、ただちに俺たちから興味を喪った。
「もちろんさ! だけど何だって奉太郎が古典部?」
疑問の里志。俺は、もう一つの紙切れを引っ張り出した。今度はもう少し厚みのある。手紙だった。

「インドから送ってきた。ベナレスだかどこかだか……」
里志は手紙を受け取り、文章にさっと目を通した。
「これは困ったね。お姉さんの頼みか」
「部員がいなくて、廃部寸前らしい。存続のために入部しろ……だとさ」
俺は憂鬱に頬杖を突く。
「お姉さんの特技は確か……」
「合気道と逮捕術。痛くしようと思えばかなり痛い」
「あっはっは。これは断り切れない」
里志はこれ以上ないくらい、朗らかに笑ってみせた。他人の不幸は何とやら。実に忌々しい。
「でも部員がいないんだよね。だったら古典部の部室は独り占めじゃないか。学校の中にプライベートスペースが持てるってのも、結構いいものだよ」
「プライベートスペース?」
俺はにわかに興味が沸き上がって、顔を上げて里志を見た。里志の朗らかな笑顔に、さっき感じた嫌みぽさはなかった。
さて行動だ。俺は職員室へ行き、予備の鍵を手に入れ、それから校舎を移って階段を一段一段上っていく。ようやくたどり着いたそこは、特別棟の4階の地学準備室。まさに最果てだ。
ドアを開けようとする。鍵がかかっている。まあ当たり前か。職員室で手に入れた鍵を鍵穴に差し込み、ドアを開けた。


俺は女を覗き込もうと、地学準備室の中を進んだ。女は何かに気をとられているように、まだ俺の存在に気づかない。かすかに、女のうなじが、横顔が見えた。ほんの少し見えただけだったが、それでも黄金比を巧みに組み合わせたような、整った顔立ちに思った。

整った顔。大きく憂いのこもった瞳。綺麗に整った真っ直ぐの黒髪。何ともいえない落ち着いた佇まい……。

俺は……どんなつもりだったが自分でもわからないが、その瞬間言葉を失って、女の顔を、姿を見つめてしまっていた。女も、しばらく驚いたような大きな瞳のまま、俺を見つめていた。そして、女はふっと微笑みを作った。
□■□


千反田えるがそう言った瞬間、デジタルエフェクトの洪水が花咲く。エフェクト少女、と呼べば斬新に聞こえるが、『咲-Saki-』などの前例がすでにあるので、珍しいわけではない。しかしこれほどまで入念なデジタルエフェクトに包まれるアニメヒロインは個性的ですらある。
デジタルエフェクトだけではなく、アニメーターによる作画も堂に入っている。まるで意思を持ったかのように長く伸びて絡みついてくる黒髪。黒髪に添えられる淡い緑の葉。デジタルエフェクトは絡みついてくる黒髪のように複雑に織り込まれている。
超現実的な構図の作りと相まって、見る者を有無言わさず千反田えるの世界に引き込んでしまう。圧倒的な作画の世界であり、デジタルエフェクトの楽しげな饗宴である。

髪の毛の線や、服のしわ、特に重要度の高い顔のディティールなど。必ずしも睫が3本でなければならない、というような規則性は思い切って放棄して、その構図に相応しい線の密度、流れが採用されている。
こういった線の流れは、最近にかけてどんどん曖昧さやラフで描いた瞬間のイメージを取り入れるようになったが、『氷菓』はその中でもさらにその傾向を推し進めている。
この頃はMMDなど、三流のコンピューターでも誰でも簡単にアニメーションを再現できるツールが登場している。そこそこのスペックとソフトさえあれば、誰でもアニメーションが作れる時代だ。大きな予算は必要ではない。そんな時代だからこそ、コンピューターでは決して到達することのできない線の感性、手書きだからこそ現れる精神性にこそ重点が置かれている。

左は例の台詞(呪文?)を口にした直後の瞳のクローズアップである。実線で縁取られた外線と、中心となる黒目。色トレスの線が合計3本(しかもこの色トレス線は中心の黒目を縁取る線と重なり合い、違う明るさ色が指定されている)。ハイライトは瞳の中に4つ、白目部分に1つ。色トレス線の色の境界には、ブラシでかすかなハイライトが加えられている。さらに瞳の中に、デジタル処理で星屑がきらきらと散っている。これに別のカットでは、奉太郎の姿が別に作画され、合成されている。劇中では、真っ白に輝いているハイライトが艶やかに回転する。
さらに、目を縁取る実線にも注目したい。睫の数など、ある程度の法則性はあるものの、左右非対称である。瞳の下の線も、左右違うリズムで描かれている。ここにも線の曖昧さが取り入れられている。
瞳のクローズアップ、そのディティールに無用なこだわりを見せるのはアニメの分野においてありがちなことだが、ここまで徹底された例を見るのは初めてだ。
あと控えめな巨乳としても注目したいキャラだ。

左は第2話の振り向きの一例だ。振り向きの動画としてはごく普通だが、それに髪の毛が異様な量感を持って一緒に動いてくる。ごく普通の振り向き動画が、きわめて凶悪な代物に変わってしまっている。
千反田えるの髪の動きは常にこの調子だ。部分的に絵を動かそうと思えば、その部分の線だけ動かせばいい。しかし決してそうはせず、全身の動きを取り入れるだけでも飽き足らず、さらに髪の毛も動かしている。
ごく普通に長い黒髪を描こうと思えば、もう少しまとまりをもって描けば済む話だ。その方が簡単に済むし、それでも綺麗に見える。『氷菓』はその方法を選択せず、わざと髪の流れにわずかな乱れを作り、それがあらゆるタイミングに合わせて揺れ動く様子を描写している。おそらく、その線の動きや軽やかさを研究するために、実際の髪の動きをずいぶん観察したのだろう。


やや話が逸れるが、最近よく見かけるようになったMMDの動画作品について、一つ苦言を呈したい。MMDのほぼすべての動画作品に対して言えることだが、髪の動きが美しくない。
しかしあの動きは、おそらく正確な重力計算に基づくものなのだろう。キャラクターの動き、指定したアクションに対して、コンピューターが計算した動きなのだろう。
それでは駄目なのだ。「リアルな動きは実はリアルではない」。計算上正しい描写が正しいわけではない。
例えば、いくつか折り重なった線の羅列を描いていると、何本かの線は必ず歪んだり、弧を描いたりしているように見える。錯覚だ。絵の世界、映像の世界では、この種の錯覚はしばしば起きる。描き手はこの錯覚に気づき、修正を加えつつ、“実は正しくないが、絵としては正しい”線を選んで描きこんでいく。
動きについても同じだ。コンピューターの導き出した“正しい動き”であっても、描き手の意思で修正を加え、完成を目指していかなければならない。それに、無用に暴れ回るツインテールは美しくない。
背景のディティールも、手頃な予算と期間で制作されるテレビアニメーションとは思えないくらいの描き込みである。

空間の奥行き、レンズの焦点。あるいは光の処理だ。


多くの部活ものの学園物語――最近の学園ものは部活の話が中心である――で見られる部室の描写は、もっと簡素なものである。小さな6畳くらいの空間。机がいくつか置かれて、隅にロッカー、それから水場があるだけである。
しかし、地学準備室は必要あるのか、と問いたくなるくらい物で溢れ返っている。扉から見て右手にガラス戸のある大きな棚。棚には移動式の梯子が備え付けられている。棚の中にはビーカーなど、何かの実験に使いそうなものが置かれている。左手には大きな机。しかし、物が一杯置いてあって、とても使用できるものではない。机の裏には中途半端な空間があり、ここに生徒用の机が重ねて敷き詰められている。机の背後の壁には、もう一つ棚がある。
果たしてここまで描く必要があるのか。普通のアニメーションなら、スタッフの負担を軽減させるために、あるいは間に合わせるようにもっと簡素に描くものだ。あそこまで容赦のない密度が常に張り込まれてくる空間、となると、描ききれないスタッフもいるはずだ。それでも敢えて逃げのない挑戦的な映像を作ることに、描き手の意地を感じた。


ここで注目すべきは、テーブルの上に置かれた招き猫だ。いったい何の意味があって置いているのだろう? ともかくも、招き猫と信楽焼は欲しい。

内装も、やけに掲示物が多い。壁という壁に、何かしらの絵画や時計が置かれている。薄いカーテンに隠れて、絵画が掛けられている。やけに多く飾られている時計は、どれも意匠にこだわって描かれ、デジタル処理で与えられた陰影表現が実に美しい。


アーケードの下を歩き、雨をしのいでいる。アーケードの端までくると傘を差し、再びアーケードの下に入り、傘を閉じる。単に傘を差して歩く、だけではなく、ロケーションに合わせた演技が描かれている。
アニメの背景は、ただ書き割りになりやすい。実際の場所で撮影しているわけではないから、俳優がどれだけの距離を歩いて、そこが背景のどの地点なのか、考えるのが難しいし、そこまで入念な背景を作り出すのが困難だからだ。
『氷菓』のこだわりはここでも強烈で、あたかも実際の俳優が実際の場所で演技しているような前提で描かれている。



ただの妄想場面。映像の世界ではありがちな場面だが、『氷菓』で描かれるこの場面は強烈だ。異様な密度、ゆったりしているが妙に圧力のあるメロディ。大きく歪んだレンズワークに、濃厚な色彩、やはり圧倒されるディティール。瞬発的に見る者を異空間に放り込み、何とも言えない居心地の悪さに引き込まれていく。
何気ない場面だから描写の強さが際立つ。ふとテレビアニメであることを忘れる場面だ。
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いかにもミステリといった風情の、論理的な言葉の選び方。ミステリ風のもったいつけた言い回し、と書くべきだろうか。言葉の使い方はミステリである。ミステリには、日常的な言葉や、生活感を示す場面はほとんど登場してこない。あらゆる場面は、ミステリとしてのロジックの中に取り込まれ、何気ない台詞や日常の場面こそ、むしろ事件を解き明かす鍵が隠されている。
しかし『氷菓』が向き合っているのは、組織の陰謀でもなく、殺人事件でもなく、ごくごく日常――日常の中にささやかに差し挟まれている“不思議”である。
『涼宮ハルヒの憂鬱』は日常の物語である。SF作品に分類されているし、実際『涼宮ハルヒの憂鬱』にはSF的な台詞がいくつも登場し、日常世界として描写されているあらゆるものはSFというロジックの中で描かれている。
だが『涼宮ハルヒの憂鬱』は実際には日常の物語だった。侵略者が登場するわけでもないし、宇宙へ旅立つわけでもない。宇宙人未来人

対して、『氷菓』はミステリという文脈・視点で“日常”が再構築された作品である。やや特殊で、むしろ違和感が際立つ。その違和感こそが、『氷菓』をその他のアニメ作品とは違う、特別な個性を持った作品にしているのだ。
それにしても、『氷菓』が描いてみせた日常の空間は圧倒的だ。テレビアニメであることを忘れるくらい、あるいはテレビアニメということを作り手自身が意識していない、徹底したものを感じさせる。ここまで来ると、京都アニメの日常に対するこだわりが、何か特別なもののようにすら感じる。
学園もの、といえば、今はほとんどがコメディだ。同じ学園ものでありながら、いかに学園ものを捉えるか――というテーマとして見ても、なかなか面白い作品だ。

『氷菓』はもっと簡単に描くことができる。背景のディティールを落とし、デジタル処理で作り出す光処理を抑え、キャラクターの線はもっとシステマチックに、誰にでも描きやすい簡素な形にすることだってできたはずである。シリーズアニメという小さなバジェットと、制作期間を考慮すると、そうしたほうが効率がいいし、安全である。
しかし『氷菓』はあえて妥協しなかった作品である。確かにテレビアニメだが、その構図を、キャラクターをどこまで洗練させられるか、あるいはグレードを上げることができるか。
絵画の作りに正面から向き合い、挑戦している作品だ。そのためのあらゆる手間と苦労を惜しまない。純粋に絵描きとして(アニメ作家として)、作品に向き合おうとしている。そんなふうに思える作品だった。
放送終了後の評論
作品データ
監督:武本康弘 原作・構成協力:米澤穂信
キャラクター原案・デザイン・総作画監督:西屋太志 シリーズ構成:賀東招二
色彩設計:石田奈央美 設定:唐田洋 美術監督:奥出修平
撮影監督:中上竜太 編集:重村建吾 音響監督:鶴岡陽太 音楽:田中公平
アニメーション制作:京都アニメーション
出演:中村悠一 佐藤聡美 阪口大助 茅野愛衣 雪野五月
■2012/04/24 (Tue)
シリーズアニメ■

この最初のカットでぶっ飛んだ。
主人公の西見薫の足下で切り捨てられた急な坂道を、学生たちが群れをなしてぞろぞろと登ってきている。朝の登校風景だ。皆それぞれの顔で、憂鬱そうにうつむいたり、ぼんやり視線を投げかけたり、友達を見つけて笑顔で挨拶したり。
そのただ中であり構図の中心で、西見薫は呪いのこもった憂鬱をカメラの正面に向けている。
パースの行方は遙か向こうまで立体的に描かれ、同じ方向を目指して歩いてくる学生たちの1人1人を手抜きなしに描いている。ふとすると“ただのモブキャラ”と切り捨てられそうな群衆を、それぞれ何かしらの表情と演技を付け、何かしらの“背景”を思わせるように描かれている。
坂道はただでさえ作画の難しい題材である。地上の位置が断続的に変化し、そこに立つべき人も建物もそれに合わせて浮き上がったり沈んだりしているように描かねばならず、下手に描くとあっという間に空間の歪んだ気持ち悪い絵になってしまう。うっかりすると、浮世絵的な縦構図の絵でごまかされそうな場面である。
しかし『坂道のアポロン』はこの坂道を絵画としてごまかしのない正攻法で描き、見る者に対し、自信たっぷりに突きつけた。
これは凄いアニメが来たぞ。

西見薫は横須賀から九州の叔父の家に居候することとなった。やってきた場所は長崎。東京とはあまりにも環境が違う。聞き慣れない博多弁。節操のない視線。囁き声とは言えなくらいの遠慮のない声。教室から聞こえてきた声は、転校生への好奇や期待ではなく、余所者に対する侮蔑だ。
転校続きだった西見薫は人と接することが苦手だ。転校直後にありがちな生徒たちの視線を浴びると、途端に気持ち悪くなる。同じことを子供の頃から何度も繰り返した挙げ句、吐く癖がついてしまっていた。
全身にまとわりついてくる不快から逃れる唯一の方法――。自分を取り戻すための場所――。それは屋上へ行くことだった。
しかしそこにいたのは、川渕千太郎。この学校の問題児で、同じクラスメイトからも恐れられる不良少年である。西見薫が駆け上がった屋上で見たものは、3年の不良グループと殴り合いの喧嘩をする千太郎だった。
だが不思議にもこの2人を結びつけるものがあった。音楽である。
西見薫はクラシック。千太郎はジャズ。ジャンルは違えども、同じ音楽趣味として、引きつけるものがあった。

それは見る者にとっても、親しみのない異境である。学園ものの舞台として大阪や広島はまあまああるものの、それ以上に西に踏み込んだ作品は例が少ない。スタジオジブリの『海が聞こえる』は希少な例の一つだろう。聞き慣れない博多弁、都会ものに対する遠慮のない軽蔑。西見薫だけではなく、多くのアニメの視聴者にとっても新鮮であり、強烈に感じるところである。
60年代――昭和40年代という年代にも作品特有の個性を感じさせる。
調べてみると、この頃、SFブームが起き、ビートルズが来日し、ウルトラマンの放映もこの頃だ。少年マガジンでは『巨人の星』の連載が始まり、骨太な不良少年漫画隆盛の時期である。千太郎のような大柄な不良少年も、実際の風景にいたかもしれない。思えばいま権威的ともいえるくらい大きくなった文化の始まりが、おおむねこの時代に集中している。
ひょっとしたらジャズも色んな文化に乗って日本にやってきたかも知れない。若者たちはその音楽の端っこに触れて、夢中になってギターを弾きドラムを叩き下手くそに真似しようとしていた。『坂道のアポロン』そんな時代の空気を追いかけ、描こうとした作品だ。


女学生の着こなしもいかにも古い。長いスカート、男子生徒のものと見た目があまり変わらない飾りっ気のないブラウス(男子生徒の学ランは最近のものと変わりがなく、逆にびっくりさせられる)。
もっと特徴的なのは、現代のセンスからは想像できない千太郎のファッションだろう。破けた学生帽、ワイシャツの下には赤と白の縞々模様のシャツを着込んでいる。今時あんな赤と白の縞々シャツは、あの漫画家の普段着でしかお目にかかることはできない。
学校の風景は、鉄骨とコンクリートを組み合わせただけの不格好な積み木細工のような建築である。机や椅子などは、机や椅子といわず、はっきりいえばただの腰を掛けるだけの木の構造物でしかない。きっとその日の午後には腰がどうにかなっているだろう。今時はもう少し洒落た建築物として学校が描かれるが(それでも我慢ならないくらい美的センスが喪失しているが)、『坂道のアポロン』はあえてその時代にあったであろう古さや、記憶の中に危うく残存している建築の形を再現しようとしている。現在のセンスで、しかし当時の形をある種の理想として追いかけている。


ムカエレコードの地下に作られた狭いスタジオ。そこで景気よくドラムを叩く千太郎。その圧倒的な音感と、作画のエネルギー。
この場面は、モデルとなった演奏者の周囲に無数のカメラを設置し、動きを“一度”に撮影し、それを素材としてアニメーターに引き渡して描き起こしさせたものだ。
ここで監督は、“一発撮影”にこだわった。同じ演奏を、カメラワークを変えてやり直させる、ということをさせなかった。それはジャズのリズムではない。ジャズはその瞬間に込められた勢いで呼吸感そのものだ。だから素材の継ぎ接ぎはさせず、一発撮影に執着した。
アニメーションとして描き起こす際にも、もちろんロトスコープのようななぞり描きというわけにはいかない。まず、実写の演者とアニメのキャラクターのフォルムが違う。アニメーションとし

対する西見薫の反応も秀逸だ。はじめはドラムの音に驚き、耳を塞ぐ。しかし間もなくそのリズムに捕らわれる。いつの間にか塞いでいた耳を放し、引き込まれている。その心情の移り変わりを、模範的なモンタージュの積み重ねで描いているが、その効果は抜群である。西見がじわじわと引き込まれいく過程が、実際にアニメを見ている人の気持ちとなって重なり、西見の心情をリアルに感じさせてくれる。それには動画の圧倒するエネルギーと、一発撮りにこだわったドラムの音の圧力があったからこそだ。
この瞬間だけでも、テレビアニメの歴史に残していいだけの堂々たる名シーンである。

いま学園ものは、題材で描かれる。

キャラクター創作についてもすでに飽和状態で、よほどの場外ホームランを打たない限り、現在進行形で量産されるおびただしいキャラクターたちの中に埋没してしまう。キャラクターのあらゆる系統は提出済みで、そこから新しく何かを提示するのはもはや不可能。「できるものなら、やってみろ」状態だ。
だからこそ、何をモチーフにして学園物語を描くべきか。あるいは主人公に何をさせるべきか。漫画雑誌を手に取ると、そのモチーフの探索に作家も編集者も苦労している様が見えてくる。野球やサッカー、バスケットといったメジャーなスポーツの傑作はすでに積み上げるほど描かれてきた。どう切り口を変えてみても、どこかの誰かがすでに足跡を残している。今の漫画家は、過去の作家が描き散らかして雑草すら残っていない荒野で、新しい何かを描き、結果的に読者に「面白い!」と言わせねばならないのだ。
ある作家は女の子に麻雀をやらせ、ある作家は女の子にギターを持たせ、ある作家は女の子を自転車に乗せ、ある作家は女の子に水泳をさせ……。

だからこそ題材なのである。題材が持っている専門性が否応なくその物語を、あるいはキャラクターをそれ以外の多くの作品と違う道を歩ませる。例えば、麻雀をはじめた人と、ギターをはじめた人とは、向かう結末はまるっきり違うだろう。あるいは、その先に見えてくる風景も違ってくるだろう。登山家と航海士が見る風景が同じはずはない。また専門性が読者に新鮮な知識を与えてくれるはずだ(最終的には、読者にどんな風景を見せられるか、が勝負である。そこで「あの作品とあまり変わらない」と思われたら、もうその作品には価値はない)。
だからいかに題材を描くか、題材を探すか、がいま漫画/アニメにおいて重大なテーマになっているのだ。その題材でいかに多くの人に影響を与えられるか、『坂道のアポロン』を見てジャズに興味を持った、ジャズをやってみようと思わせられるかが、ヒットを切り分けるポイントとなっている。
『坂道のアポロン』が見つけ出したテーマはジャズ。時代は60年代。たった50年前とはいえ、現代とは見える風景もキャラクターのイメージも違う。気合いたっぷりに描いたジャズの演奏シーンも圧巻だ。この組み合わせは、やはり新鮮だ。ファーストインプレッションは文句なしの満点だ。この先に良き展開が、そして良き結末が描かれることに期待しよう。
作品データ
監督:渡辺信一郎 原作:小玉ユキ
脚本:加藤綾子・柿原優子 キャラクターデザイン:結城信輝 総作画監督:山下喜光
美術監督:上原伸一 美術設定:上原成代 色彩設定:鎌田千賀子
編集:廣瀬清志 撮影監督:武原健二 録音監督:はたしょう二 音楽:菅野よう子
アニメーション制作:MAPPA/手塚プロダクション
出演:木村良平 細谷佳正 南里侑香 諏訪部順一
○ 北島善紀 岡本信彦 村瀬歩 佐藤亜美菜
■2011/12/06 (Tue)
劇場アニメ■
そんな渡り廊下を、澪を先頭に、次に紬、律、一番最後に唯という順番で歩いている。律は紐で縛った一杯の本の束を抱えていて、唯はゴミの入った透明の袋を後ろ手に持っていた。
「あ~あ……」
ふと唯が溜め息をこぼす。
「どした?」
律が唯に声を掛ける。唯は開けたままになっていた扉の前に立って、中庭の様子を見ていた。
「うん……」
唯は律を振り向くけど、考え事をするように視線を落とす。
「さっきのさわちゃんの話?」
律が気を遣うようにする。ついさっき、部室でさわ子先生が「留年の可能性がある」なんて話を始めたのだ。からかわれていただけだ、とわかっていても、やはり引っ掛かるものがある。
「じゃなくてね」
唯が考えていたことはもう少し違うようだ。
「もしかして私たち、先輩としての威厳がないまま卒業しちゃうんじゃないかな」
「え~」
声を上げたのは律と紬だ。
「そんなことないぞ! 私たちは……」
「背が高い!」
勢いよく声を上げたのは紬だった。
「年上だ!」
律が紬を振り向く。
「元気!」
「他にないのか」
呆れるように澪が突っ込む。それじゃ、尊敬できないだろ。
唯は、再び扉から外を見ていた。校舎の向こう側に見える、淡く霞んだ空を見ていた。
「私、最後に何か先輩らしいことしたい!」
思いを告白するように、唯が振り返った。
そして2011年12月3日、誰もが待ち望んだ作品がついに封切られた。『映画けいおん!』である。
『映画けいおん!』を一言で表現するならば「脇道の映画」である。大雑把な枠組みとして、唯たちがロンドン旅行するという話があるものの、唯たちの物語やキャラクターの対話はひたすら脇道を突き進んでいく。脇道と小さなネタが調子のいいテンポでいくつも紡がれ、ゆっくりと本筋の物語や舞台に移り進んでいく。いったいシーンの数は全体でいくつになったのだろう、というくらいシーンが矢継ぎ早に飛んでいく。
映画の物語作法としてはイレギュラーだが、『けいおん!』らしさが貫かれた『けいおん!』でしかあり得ない劇場映画として仕上がっている。『けいおん!』という作品に深く接し、誰よりも理解している山田尚子監督だから見つけ出せた、より『けいおん!』らしい作法を持った映画だ。
しかし『映画けいおん!』の映像に接していると、不思議と映像の世界に包み込まれているような、不思議な充足感に捉われる瞬間がある。確かに線の密度や設定はテレビシリーズからあえて変更が加えられていないが、“そこにあるべき空気”の存在を丹念に、繊細に描かれている。その場所にあるべき暗さや熱の感覚、奥行き。撮影スタッフは、架空の場所である絵画世界を、あたかも実在して呼吸している場所のように仕上げている。例えば教室内の仄暗さ。テレビシリーズでは漠然と描かれてきたが、劇場版ははっきりと光の存在が意識されている。どこから光が差し込んで、どれだけの暗さ、明るさをもっているのか。場面ごとにその差異がはっきりわかるように描かれている。映画という枠組みを持ったことで、生活空間の描写そのものに奥行きが与えられた点も大きいだろう。今まで見えな
ま
音響、撮影ともにこの映画において素晴らしい仕事をした。
キャラクターの線の密度はテレビシリーズから変わらなかった一方、動画枚数は非常に多い。ほんの僅かな動き、仕草を油断なく捉える。そもそも作画監督の堀口悠紀子はキャラクターのほんの僅かな動きを逃さず、繊細な動画を得意とし、どん
前半の学校のシーン、家庭のシーンは色彩は特別テレビ版から変わった印象はないものの、どこか仄暗く、閉鎖した印象で描かれている。それが一変するのがロンドン旅行が始まってからだ。舞台がロンドンに移ってから、映像はこれでもかと賑やかに、華やかに、ディティールは線と色彩の洪水という勢いで描写されていく。いかにも「ロンドン旅行」というような観光地を巡っていくだけのものではなく、フェティッシュなレベルでロンドンへ行って目に付いた風景の一つ一つが取り上げられ
ロンドンから帰ってきた日常風景の描き方にも注目である。あれだけ華やかな色彩が急に抑えられて、彩度を抑えた落ち着いた印象に変わる。後半のクライマックスの一つである教室でのライブシーンですら、色彩は抑えられ、窓の外の光を強調するように描かれている。
日本側の彩度の高い描き方を見ると、不思議と旅行から帰ってきた、日本の湿度に戻ってきた、という印象を感じる。そこが作り手側の狙いの一つだろう。
物語は最後の場面へ、テレビシリーズ版の最終回のエピソードへとザッピングしていく。そこへ近づくほどに、画面は白く漂白していく。まるで夢との端境を表現するように、あるいは夢が覚める瞬間、目蓋の向こうに朝の光を感じている時のように、少女たちが抱いていく幻想を捉え、そこから飛び出していく一歩寸前の“終わりを前にした世界”が描かれていく。劇的なシーン、あるいは台詞などはどこにもないい。映画『けいおん!』のラストシーンはあまりにも静かで、ささやかな幸福が描かれ、それなのにしっかりと引き込まれていく結束の美しさが描かれている。
世界的な通年として、アニメーションの制作現場に女性は少ない。アニメーションの制作はひたすら厳しく、つらく、過酷なものである。しかも、日本ほど安定的な制作体制ができあがっている国は世界を探してもなかなか事例が見つからない。日本以外の場所では、アニメの企画が立てられてそれからスタッフが募集されるが、はじめからアニメーターを専門職をしている人は少ない。そんな業界に女性が立ち入ることは難しく、結果として男性比率が多く、アニメは男性目線になりがちである。それに、業界にやって
しかし『けいおん!』は世界でも珍しい女性が主導になって制作されたアニメーションである。『けいおん!』の主人公、というかほとんどの登場人物は少女である。“少女”は古くから芸術家のモチーフとして描かれてきた対象である。特にアニメにおいては、執拗(病的?)といっていいくらい、ある種の性的コンプレクスが少女像に刻印されてきた。
この少女というモチーフを女性が女性の目線で描けばどうなるのか? その回答ともいえるのが『けいおん!』の映画である。
『けいおん!』で描かれた少女たちはとにかくも賑やかで、騒々しいといっていいくらいだ。いかにもかしこまった“かわいい”表情は作らず、いつも捻り、崩され、弾けている。記号的な“かわいい”の羅列はあえて避けられ、時に大げさに顔が崩され、鼻の穴が強調される。ふとすると、思い切りすぎでは? というくらい思い切った描かれかたをして
芸術は嘘と真実の間をゆらゆらと行き交うものであるが、アニメはどんな手法よりもより深く嘘と真実の間を潜行していく。山田尚子監督はその実体と方法論を否定せず、真っ向から取り上げ、唯たちを描きこんでいく。よくありがちな、少女を冷たい彫刻のような、偶像としての“ビショウジョ”ではなく、より温もりをもった生命感あふれる“女の子”を描いた。だからこそ『けいおん!』は特別な作品でありえるのだ。
これが『けいおん!』が静かに成しえていた革命の一つだ。そして、アニメという文化そのものが変わろうとする継ぎ目の作品として注目すべきだろう。
実は『けいおん!』がいつの間にか達成した“革命”は女性映画という一点だけではない。《宣伝》という部分においても、『けいおん!』は革命的であった。
『けいおん!』は全国130館という規模で公開される。この130館という数字は、通常ジブリアニメやドラえもんでしかありえなかった数字である。しかし深夜発のアニメが、全国130館規模の映画に成長しているのである。しかも、出演キャストがすべてアニメ専門の声優が担当している。
私は個人的に、アニメ映画に素人を採用するという《宣伝方法》に疑問を感じていた。映画は大きな予算を掛けて制
だが、『けいおん!』はその宣伝の規模の大きさにも関わらず、作品としての“純度”が完璧に守られた実に珍しいケースであり、『けいおん!』の後に道が続いていけばいいと思っている。
『映画けいおん!』はより純度を高めた『けいおん!』である。そこに描かれるのは特定の時代を描き出した“かつて”ではない。『けいおん!』はノスタルジーではなく“今”だ。全力疾走で生きている唯たちの“今”が描かれているのが『けいおん!』だ。山田尚子監督は、唯たちの“今”という瞬間を、永遠のフィルムの中に閉じ込め、何よりも美しい芸術作品にした。
この作品は、『けいおん!』という作品とキャラクターに対する“愛”に向けられた贈り物である。
補足!
作品データ
監督:山田尚子 原作:かきふらい
脚本:吉田玲子 キャラクターデザイン・総作画監督:堀口悠紀子
レイアウト監修:木上益治 楽器設定・楽器作監:高橋博行 絵コンテ:山田尚子・石原立也
色彩設計:竹田明代 美術監督:田村せいき 美術監督補佐:田峰育子
撮影監督:山本倫 撮影監督補佐:植田弘貴 3DCG:梅津哲郎 柴田祐司
音響監督:鶴岡陽太 音楽プロデューサー:小森茂生 礒山敦 岡本真梨子 音楽:白石元
出演:
平沢唯/豊崎愛生
秋山澪/日笠陽子
田井中律/佐藤聡美
琴吹紬/寿美菜子
中野梓/竹達彩奈
真田アサミ 東藤知夏 米沢円 永田依子 中村千絵 浅川悠
中尾衣里 中村知子 MAKO 片岡あづさ 北村妙子 平野妹
2012年7月23日修正