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■2012/10/16 (Tue)
ツイッターまとめ■
この記事は、ツイッターに投稿されたツイートをまとめた記事です。
ネタバレあります。
劇場版『魔法少女まどか☆マギカ《前編》 始まりの物語』
ネタバレあります。
劇場版『魔法少女まどか☆マギカ《前編》 始まりの物語』
『魔法少女まどか☆マギカ』が初めて我々の前に姿を見せたのは2011年4月の春である。
その作品は一見すると日曜日の朝に放送しているような明るい変身少女を描いたアニメ。しかし何かが違う、何かがおかしい。そんな予兆をどこかに孕みつつも、当初はあまり話題にされることもなく、その時期に始まる多くのアニメとともに埋もれてしまっていた。
この作品の評価が一変したのは、間違いなく第3話。巴マミの死亡。この瞬間、我々はこの魔法少女を主人公にしたアニメは今までに知られてきた、定石として語られてきたアニメと違う、と気付いたのだ。“定石を踏襲しつつ、定石を徹底的に破壊したアニメ”。ある種の革命がこのアニメの中では描かれてきた。
その後の話はここで記すまでもない。『魔法少女まどか☆マギカ』は従来のアニメ層をはるかに飛躍した支持を獲得し、『文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞』『星雲賞』『アニメーション神戸作品賞』『ニュータイプアワード』その他数え切れない栄冠を手にし、その評判は国内にとどまらず世界へと広がっていき大絶賛の嵐は今現在も止む気配はない。
そして2012年10月6日――あれから1年の時を経て、劇場版が完成した。
“劇場版”である『魔法少女まどか☆マギカ』は3つに分割されて劇場公開されることとなった。その《前編》《後編》はテレビシリーズを原作とする総集編である。
《前編》は物語の導入から、少女達が底なしに転落していく様が描かれる。ストーリーはテレビシリーズとほぼ同じ内容が踏襲される。構図や作画に目立った変化はない。劇場向けに線が修正されたかもしれないが、比較しないとわからないレベルだ。新規カットは編集のリズムが変わったので、その必要に応じて追加された、といった感じだ。
線が修正されなければならない理由は、劇場アニメが大きなスクリーンで投射されるからだ。テレビシリーズだと、テレビのサイズだけを意識すればいい。家庭用テレビはさほど大きくもなく画面の精度もさほど高くないから、ある程度の妥協が許される。しかし同じ素材を劇場に持ってくると、途端に“粗”が目に付いてしまう。線のはみ出しや抜け、クリンナップのムラ。劇場アニメを描く場合、これらに気を遣ってより丁寧な作業が求められる。
(もっとも、最近のテレビは大型化し密度も高く、しかもブルーレイのような再現度の高いメディアも登場しているので、テレビでも劇場クラスの配慮をしなければならなくなっている)
劇場版《前編》はテレビシリーズを1話~8話をまとめた内容で、130分である。およそ1本分の尺が減っている。話の進みはテレビシリーズより性急に、濃厚に描かれる。話の進行をスムーズに行うために、台詞のやりとりなどが変更され、新規カットはその接ぎ穂として必要なぶんだけ描き足されている。
第2話はさっと流すように、必要な要素である“魔女のキッス”という設定とバトルシーンが描かれ、第3話の巴マミが死ぬまでの時間はかなり短くなっている。時間の確認はしていないが、30分から40分といったところ。普通の娯楽映画としてみると、物語の転換はかなり早いほうの部類になる。
決定的に変わったのは背景画と音楽だろう。背景画はほぼ全てのカットに対して変更、グレードアップが求められている。作画の変更は、この背景に合わせて行われている、といった感じだろう。
例えば冒頭の登校シーン、はしゃぐ鹿目まどか、美樹さやかを志築仁実が咳払いして諫める……ここでテレビシリーズでは場面がいきなり変わり、学校の前が描かれていたが、劇場版ではカメラが反転して公園の向こう側が描かれるだけになっている。
ファーストフードの店も設定が変更されたために作画はほぼ全て新しく描き直されている。台詞の間は切り詰められ、“敢えて描かれた無駄話”も切り落とされ、ここでも展開が性急になった。
教室の場面も背景が変更され、ガラス張りだった教室は枠となるフレームが描き足されている。
頻繁に登場する屋上の場面は、どこかのゴシック建築のような風景となり、周囲を尖塔が取り囲む重厚な場面に変わっている。ここは心理的な独白を語る重要な場面と見直されたためだろう、(学校という設定や、他の場面とのデザイン的な整合性を無視し)そういった場面に相応しい重厚さがこの場面に与えられた。
音楽、音響演出は注目すべきポイントである。音楽はテレビシリーズをオリジナルとしているが、そのまま使用されている楽曲はおそらく少ない。BGMがかけられるタイミングもかなり変更され、テレビ版と違う趣を持った心理描写、アクションはよりグレードが上がっている。もっとも注目すべき楽曲は巴マミが死亡する寸前にかかるKalafinaの歌唱曲、マミさんのテーマで知られる『Credens justitiam』に歌詞が付け加えたバージョンで、死亡寸前の明るい感情がより強調的になった。
後半に掛けて、美樹さやかの魔法少女コスチュームの設定に変更が加えられたために、そのぶん作画修正も多くなっている。ソウルジェムの秘密が明かされる場面の流れに変更が加えられ、ここにテレビシリーズとの注目すべき違いが現れている。またソウルジェムを投げ捨てる場面、家を飛び出してきた鹿目まどかが私服を着ている設定に変わっている。おそらく初めての私服姿ではないだろうか。
佐倉京子が常に口にしているお菓子だが、多くの場面で変更が加えられている。テレビシリーズと同じものを食べている場面は僅少だ。
《前編》の上映時間は130分。計算すると1本分削られているわけだが、ほぼ全てのエピソードが余すところなく詰め込まれている。ドラマを描くための必要な情報は極めて多く、場面転換の数が多いために、いささか性急気味、余白や余韻の少ない作品になっている。
通常の娯楽映画の場合、大きな場面変換は20分~30分であるが、《前編》の場面転換はおそらくそれよりはるかに早く、エピソードの量も多い。その分、転落していく少女達の姿が“矢継ぎ早”といった勢いで描かれ、観客をどろっとした暗部のあるドラマに飲み込まれていくような作品となっている。
もはやお約束だが新規カットにいくつかのミスが発見される。
まどかのノート、クローズアップでは鉛筆画なのに、ロングサイズになると色付きになる。
巴マミの髪飾りから巻き巻きに繋がる髪の毛が消失する。
病院の屋上で演奏する上条の場面の最後、1コマだけ目蓋が消失する。髪の毛の線など頻繁に消失している部分はあるが、目蓋という目立つ部分で、しかも劇場スクリーンとなるとこのミスはひどく目に付く。
また上条が音楽を聴いている場面、イヤホンの先にあるはずのCDプレイヤーが消失している。
他にもあると思われるが、私が確認できたのはここまでだ。DVD/ブルーレイで修正されるだろう。
10月9日のツイッターより
劇場版『魔法少女まどか☆マギカ 《後編》永遠の物語』
《前編》が濃縮還元、性急気味・詰め込み気味だったのに対して、《後編》の物語はかなりの余裕を持って登場人物の感情が丁寧に描かれ、クライマックスへの導線がしっかり描かれている。
テレビシリーズにはなかった場面や台詞が多い。美樹さやかが魔女に変貌する場面から始まるが、戦闘はより激しくなり、アクションの段取りは細かく、佐倉京子の心象を示す台詞が追加され、より感情移入しやすい展開になっている。
暁美ほむらの過去が明かされるシーン。テレビシリーズでは新しいエピソードを区切りにして描けたが、一貫した流れを持っている劇場映画では接ぎ穂となる部分に多くの追加カットが足された。不吉な夕日をバックにした墓場のシーン、それから時間が遡っていく描写。それから暁美ほむらの過去へと物語は移っていく。
《後編》は全体を通して作画の変更が多く、暁美ほむらの過去の場面にもいくつか変更があるが(ドラム缶を叩く直前の暁美ほむらや、ほむらが鹿目まどかを撃つ場面でまどかが手を伸ばすカット、それからまどかの体内から魔女が発生する場面など)、音声素材だけはテレビ版のものがそのまま使用されている。劇場版は、テレビシリーズと違う時間軸を想定して作られているが、暁美ほむらの過去の場面だけは“動かざる事実”として扱われているために、そのままの演技が使用されている(ただし「ウィヒヒ」はカットされている)。
暁美ほむらの過去エピソードの終わりに、テレビ版のオープニングが使用されている。テレビ版では失敗ばかりしている魔法少女まどかが描かれている場面が(テレビ版で“詐欺”と呼ばれたシーン。劇場版ではすでにそんな場面などないとわかっているので相応しくなかったのだろう)、劇場版では暁美ほむらに描き直されている。一つの映画の中に2度もオープニングが入る構成は通常の劇場映画の定石から外れるが、この作品においてはなくてはならない要素の一つであり、テレビ版オープニングの歌詞が暁美ほむらの心象を現しているために、より重要である。(映画を作っているのではなく『魔法少女まどか☆マギカ』を作っているから、こうなったのだろう)
音響演出は全て作り直されているが、目立った違いはやはり鹿目まどかが魔法少女になる決意を固めた場面だろう。テレビシリーズでは、鹿目まどかの微笑みをラストシーンとして次エピソードへ移ったが、劇場版ではやはり一貫したエピソードとして描くために、音楽の流れに切れ目をなしにして1つのシーンとして描かれていた。
もう一つの変更として注目すべきは、鹿目まどかが女神となった後の場面。DVD・ブルーレイでは肌色の裸が描かれていたが、劇場版では劇団犬カレーによるナイスフォローが描かれている。
劇場版の《後編》は鹿目まどかと暁美ほむらの二つの分離されていたエピソードが1本に束ねられた構成になり、鹿目まどかと暁美ほむらの感情はより接近して交差するように描かれている。
上映時間は109分。テレビシリーズをそのまま繋いだ物よりも少し長くなっている。削り取られた場面がなく、さらに登場人物の心理描写が補強されたからだ。それに作画はより美しく刷新され、『魔法少女まどか☆マギカ』の決定版であり完全版として制作され、またそう見るべき作品となっている。鹿目まどかは物語の最後にアニメ史上最も美しい輝きを持つ女神へと変化するが、この作品もまた同等の輝きを持った不滅の名作として語り継がれていくだろう。
◇
さて、《前編》《後編》の物語は終わったが、『魔法少女まどか☆マギカ』というサーガはここで終わりではない。これから本当の結末である第3部へ、新たな物語へと進んでいく。
ここで私個人的に制作側にお願いしたいことがある。可能な限り情報は出して欲しくない。『魔法少女まどか☆マギカ』がセンセーションな作品であったのは、“誰も何が起きるかわからない”からだった。
テレビシリーズが始まった当初、公式サイトには大雑把な粗筋しか書いておらず、どんなストーリーなのか想像する余地すらなかった。この段階で佐倉京子に関する情報はばっさり切り落とされていた。
テレビシリーズの第1話2話には脚本家の虚淵玄の名前すら書かれていなかった(DVD・ブルーレイでは書かれている)。虚淵玄の名前は、その筋の人にはそこそこに有名で、この名前を出すと知っている人にはある程度物語の予測ができてしまうためだ。
“何が起きるかわからない”は制作の現場でも徹底された。アニメーターは絵コンテをもらって初めて続きの話を知る、出演者も台本をもらって初めて続きの話を知る、と現場レベルでも秘密主義が貫かれていた(出演者が台本をもらうのは、いつも収録の前日。それまで誰からも続きを教えてもらえなかったそうだ)。
“この話どうなるんだ? この子達はどうなってしまうんだ?”『魔法少女まどか☆マギカ』に関わった全員が先の読めない物語の中に放り込まれ(制作スタッフも同じ立場に放り込まれていた)、意見を言いあったり予想したりと、そういった盛り上がりがあり、その盛り上がりを(主にネットを通じて)共有できたからこそここまでの大きな話題を持った作品になり得たのだ。
早く続きを知りたくて皆がテレビに釘付けになった。もう何年も前にテレビがなくしていた一体感であり、『魔法少女まどか☆マギカ』はそれを取り戻した作品だった。
映画も同じようであって欲しい。可能な限り情報は公開しないで、いきなり観客を劇場の中へ、物語の中へ放り込んで欲しい。『魔法少女まどか☆マギカ』という作品はもう充分に人々に知れ渡っているだろう。だったら余計な情報はもう必要ない。
それからもう一つ。《前編》《後編》は43館という規模で封切られたが、明らかに数が少ない。私が行った(県内唯一の)映画館では人があまりも多すぎで、最初の2日間は予約で全席埋まっており、映画館へ行っても劇場へ入れない状況だった(実際に《後編》は朝10時に全回予約で埋まった)。私は《前編》を3日目に観に行ったのだが、パンフレットはすでに売り切れだった。グッズ類もあらかた売り切れで何も手に入らなかった。
《前編》《後編》はテレビシリーズの総集編である。これは当初から宣伝されていたことであり、だからあえてこの2本をスルーしたという人も多いだろう。しかし第3部を観たい、という人は多いはずだ。《前編》と《後編》とは明らかに違う勢いで人が来ると予想される。《前編》と《後編》と同じ規模で劇場公開などをしたら、暴動が起きるだろう。何時間も劇場前に並んでいるのに映画が観られない、なんて状況があり得る。
これは制作サイドの見込み違いがあったのだろう。『魔法少女まどか☆マギカ』は多くの賞を得て評判になったものの観る人が限定される深夜アニメだ。しかも《前編》《後編》はテレビシリーズの総集編だ。そこまで人が来るなんて、予想しなかったのだろうし、誰も予想しないほどに作品が広がっていたのだ。
だから第3部は劇場館数を増やすべきだ。作り手にとってこれは儲けるチャンスだ。この機会を逃す手はないだろう。
10月15日のツイッターより
つづき
劇場版魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語
過去に書かれた関連する記事
『魔法少女まどか☆マギカ批評 前編』
『魔法少女まどか☆マギカ批評 後編』
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■2012/07/26 (Thu)
ゲーム■
ニンテンドー3DSの勝因
実 売600万台をとうに越えて、ライバル機と目されていたはずのPSVitaをあたかも存在が小さすぎていつの間にか轢き潰していたことにすら気付かないく らいの後方へ引き離し、世間的に見ればニンテンドー3DSはかなり普及したと見なしていいかも知れない。とはいえ、デフレで消費者の気分が落ち込んでいる 最中、しかも一般マスコミによる足の引っ張り合いとしか思えないネガティブキャンペーンにより、いまいち盛り上がりに欠ける実情の今、勝利宣言は早すぎだ し軽率かも知れない(まだ1000万台達成していないし)。一般的にニンテンドー3DSの話題といえば、売り上げ不振で任天堂自体に大きな損害を与えた失敗ハード、という評価のようだし(主に一般マスコミの印象操作によるものだが)。
とりあえずニンテンドー3DSは成功したと見なし、その勝因は何だろう、と考えた時、やはりソフトの充実さを保証したことにあると思う。ソフトの充実さとは2つの意味を持つ。ソフトの発売ラインナップ、それからソフト1本1本の中身についてだ。
任 天堂の最初の反省は、ここ最近の任天堂ハードでは任天堂ソフトしか売れなくなっていたという事実だ。ニンテンドー3DSはその改善から始まり、初めて実機 の発表となった2010年3月のE3の時は、「ニンテンドー3DSはこれだけのソフトメーカーが作品を制作します」という宣言から始まった。ソフトライン ナップの充実は、ある意味でニンテンドー3DS本体の品質や立体3D視よりよほど重要な意味を持っていたかも知れない。任天堂は間違いなくソフトメーカー として最高のものを作り続けたが、ユーザーの好みはもっと多様で、もっと多くの触感の違いを楽しみたいという意識を持っていた。ニンテンドー3DSの最初 の一歩は、まずより多くのソフトメーカーが多様なソフトを作る、という姿を見せること、次に一つ一つの品質を保証することであり、それは間違いなく成功 だった(おそらくソフトメーカー1社1社を訪問し、声を掛けて回ったのではないか、と私は想 像する。“根回し”というとなぜか悪い印象を持つ人は多いが、物事を始める前には大切なことである。何か大きな予定を決めて、全員でそれに向かって計画を 進め、最後に「よーいドン」の合図を出す。任天堂はそういった地道な呼びかけやお願いをして、今の状態を作り出したのだろう……という想像である)。ここ数年、1年に1本を買うか買わないか、くらいだった私が結構な数でゲームを買っているので、やはりゲームに対する印象がずいぶん変わったように思える。
私が購入したニンテンドー3DSソフトは、途中で放り出したものを除けばほとんどが20時間以上プレイしていた。ソフト1本の値段はおよそ5000円ほどであるから、充分娯楽としての責務を果たしているといえる。
私の一日のゲームプレイ時間はおよそ20分ほどだ(1時間を越えることは滅多にない)。 1本のゲームをコンプリートするまで20時間以上、40時間かかるものもある。およそ1ヶ月から2ヶ月ペースで新しいソフトを購入している。他の人も、お おむね同じくらいのペースではないかと思う。これまでに発売した話題作を取りこぼさず購入し、一つ一つじっくりコンプリートしていけば、全て消化するのに おそらく2年以上はかかるだろう。もちろんこれからもニンテンドー3DSはソフトを発売し続けるから、「ソフトの充実さ」という面ではすでに達成している といえる。
その一方で、PS……えっとああ、Vitaの敗因はなんだろうか。それは、任天堂が保証したことを何一つ保証しなかったことだ。ずばり指摘すると、ソフトについてである。
PSVita のソフトといえば何があっただろうか。これといって目を引くようなラインナップがなく、話題になった作品と言えば何かあっただろうか。私は寡聞にして知ら ない。実際、過去に発売したタイトルを見ても、もうすぐ1年になろうとしているのに「これだけ?」と言ってしまうほどに少ない。頑張れば、個人で全て買い 集められそうな数である。
それに、ソフト一つ一つのボリュームにも問題があった。5000円で購入したのに、遊べるのは最初の1ステージだけ。続 きを遊ぼうと思ったらインターネットに接続し、必要なお金を払ってダウンロードするなり、ロックを解除するなりしなければならない。PSVitaソフトは このやや回りくどい商法により、エンディングを見るまで1万円以上かかるものもあるようだ。初期投資の5000円はちょっと高めの体験版を買ったようなも のである。
ソニー側の主張としては、これが中古対策、海賊版対策になるらしい。確かにその効果はあるかも知れないが、その商法でどれだけの数の ユーザーが納得するだろうか。家庭の事情でインターネットに接続できない人も多いだろう。もしも小売店で購入できるソフトが1ステージしか入っていない “体験版”ならば、ソフトの値段は500円くらいが妥当だろう(500円しか利益のないソフトを仕入れる店がどれだけあるか知らないが)。
PSVitaはソフトのラインナップにおいても、ソフト一つ一つのボリュームにおいても、ユーザーに何も保証しなかった。これが決定的な敗因だろう。
こ の頃のソニーの神経症的な中古対策/海賊版対策/コピー対策には疑問しか感じない。例えばブルーレイ・ディスク。SONY ARccOSというソニーが開発したコピーガードは、強力すぎてソニー社製レコーダーでは再生不能だそうだ。ブルーレイへの不満は、常にネットに繋ぎ、最 新バージョンに更新しなければソフトが再生できない、ということにある。そこまでユーザーに不便を強いてまでガードかける必要があるのだろうか。
PSVitaは本体値段さえ下げれば普及台数が飛躍的に伸びるはずだ、という意見は多い。しかし、そうはならないだろう。ソフト面の体制が今のままだと、興味を持つユーザーがそもそも現れない。ユーザーが欲しいのは、ハードではなく多様なソフトのほうである。ハードのみが欲しいというのは大抵はその筋のコレクターだけである。
私個人の考えだが、PSVitaはそこまで高級品ではない。Wi-Fiモデルなら2万4980円。3Gならば2万9980円。ニンテンドー3DSがもともと2万5000円であったことを考えると、そこまで割高感はないはずだ。
他のゲームハードの値段と比較しても、
セガサターン 4万4800円
プレイステーション 3万9800円
ドリームキャスト 2万9900円
プレイステーション2 3万9800円
プレイステーション3 5万9980円
比較は全て据え置き型だが、どのゲーム機も3万円以上の値段で発売している。値段が特に問題になったわけではない。むしろ2万5000円という値段が高く感じるのは、今がそれだけデフレだからだ。
一 方の任天堂の商法がどこまで通用するか、実は私は疑問に感じている。デフレや東日本大震災といったマイナス要因が次々と覆い被さり、今後の普及台数に危機 感を覚えた任天堂は突如、ニンテンドー3DSを1万円値下げをしたが、これは相当に身を切る戦術ではないだろうか。ソフト1本1本の充実さを今後も保証し 続けるのは、作り手としての“誠実さ”の現れだろうが、どちらの面でも金銭的に相当つらいはずだ。どれだけ利益があるのだろう。どこかで突然クオリティの 低下が現れたりしなければいいのだが。
PSVitaでも注目すべき部分はある。その驚嘆すべきグラフィック表示能力、それを支える精緻極まりない有機ELディスプレイだ。 PSVitaの画面を初めて見た時、携帯ゲームの画面とは思わなかったし、直撮りされた写真を見て、まずはめ込み画像だろうと思ってしまった。最初、ニン テンドー3DSは画面が美しい、と思ったが、PSVitaの画面を見た後ではそうは思わなくなってしまった。ニンテンドー3DSのディスプレイはもっと質 を上げるべきだ、とすら思った。
この性能差がどんな有意義な効果を持つかといえば、より高い表現能力を持ったゲームが制作できる、という意味だ。ニンテンドー3DSではまず描ききれないような映像表現が、よりハードルの高い構造を持ったゲームが、PSVitaならば可能だ。
例えば、PSVitaのロンチタイトルであった『アンチャー テッド』は、ニンテンドー3DSでの発売はあり得なかっただろう。ニンテンドー3DSの表現能力では、『アンチャーテッド』のような映像表現はやや難し い。またニンテンドー3DSで発売された『初音ミク Prject mirai』はねんどろいどをモデルとした可愛らしいルックスを持つ作品だが、実は六 等身初音ミクをニンテンドー3DSでうまく描けなかったから、という裏話がある。PSVitaで発売される『初音ミク Project DIVA f』は六等身の初音ミクが自由自在に鮮やかな踊りを繰り広げる。もちろん、リアルタイムムービーだ。あの映像を見た後だと、さすがにPSVitaの能力が羨ましく思うし、ああいった表現ができるという優位性は今後もしばらく消えないだろう思う。
PSVitaの実力なら、据え置きハードで制作されるグラフィック中心のゲーム、例えば『アサシングリード』シリーズや『TheLastofUs』なんてゲームの移植もあるかも知れない。
解せないのが、PSVitaの宣伝方法だ。「大きな画面!」はこれは明らかにライバル機であるニンテンドー3DSを意識したフレーズだ が、携帯ゲームの画面サイズなど五〇歩百歩である。どうでもいい。しかもその優位性は、ニンテンドー3DSLLが発売されることによって消滅した。本来 PSVitaは性能の高さを、その性能の高さで何を表現できるか、をアピールし挑戦すべきだった。それを何一つ主張できなかったこともPSVitaの敗因 だ。
(それに、CMで任天堂機と比較するゲームハードは、確実にいって敗北する)
任 天堂ハードでは本当の名作はあまり発売されない、というジンクスがある。有名シリーズの「決定版」「完全版」といったものはすべて任天堂ハード以外のハー ドから発売されている。どうしてそうなるかよくわからない。わからないが、事実として「名作」は任天堂ハードを避ける傾向がある。
任天堂ハードで発売される作品といえば、なぜか色んなものが省略された小型版である。ビジュアル、サウンド、ゲーム性、任天堂ハードで発売されると、なぜか別ハードで発売される時よりも生彩さに欠けるのだ。
例 えばゲームキューブで発売された『バーチャファイターキッズ』のように、子供向けにルックスを可愛らしくして、もともと複雑な魅力を持っていたはずのオリ ジナルのゲーム性を一気に削ぎ落とし、なにやら残念な作品になっている場合がある。『初音ミク Prject mirai』に対して不満はないが、ある意 味でその系譜にある作品であるといえる。
サードパーティーが本気を出すソフトは、いつも任天堂以外のハードの時なのだ。黄金期と讃えられるスーパーファミコンの時ですら、異様な濃さをもった名作はPCエンジンで発売されていた。
そういう視点で行くと、PSVitaはまだまだこれから、どこかの段階でいきなり化けるハードかも知れない。ハードの売り上げは低空飛行し続けつつもある一定水準から落ちる予兆はないし、今後まだまだ期待すべき所はあると見なしていいのかも知れない。“かも”だが。
もっとも、任天堂は別にソニーと競い合うつもりもないのかも知れないが。
■2012/07/24 (Tue)
ゲーム■
前回を読む
プレイ時間:67時間15分
全キャラクター99段。
私にとって、いやPCエンジンユーザーならば、このゲームに特別な感慨を持たぬ者はいないだろう。『天外魔境Ⅱ』それはゲーム史における一つの伝説である。
当時、最大のバジェットを投入した前例のないスケールで、常識を覆す圧倒的な演出、史上最長のシナリオ、史上最大の広がりを持ったマップ、豪華声優出演陣、なにもかもが型破りな体制で制作されたそれは、ゲームと呼ばず一大叙事詩である。
それを20年ぶりに遊んでみると……想像以上にショボかった。う~ん、こんな感じだったっけ。20年の時間は埋められない。ゲームがいかに変わったか、よくよく思い知らされる作品である。
当 時、“桁外れ”と宣伝されて、実際その通りな豪華な予算と技術が注ぎ込まれたはずの作品なのに、いま遊んでみると、素人制作の同人ソフトにすら届かない ゲームだった。時代と技術がいかに変わったか、をしみじみと考えずにはいられない。「思い出補正」は実際のものに直面すると、瞬く間に崩壊する悲しいもの である。
それでも、史上最長のシナリオ、史上最大のマップは健在である。最近でも、ここまでの長さと広大さを持ったゲームはなかなかお目にかかることはできない。CDの容量(せいぜい700MB。これでも当時は「何でも入る」と言われていた)をムービーなどで水増しせず、限界ぎりぎりまで突っ込んだ執念には今でも圧倒されるものがある。(しかも、これでも相当に削ってなんとか無理矢理押し込んだそうだ)
声 優の演技にも注目だ。出演俳優は24人……だっただろうか。当時のゲームとしては、これでも多いほうである。しかし登場キャラクターは何人いるのだろう? 出演俳優の人数と登場キャラクター数が明らかに釣り合いとれていないので、新しいマップに入るたびに何らかの役で永井一郎さんの名調子が聞ける。ある意 味で贅沢な作品である。(絹役の井上あずみは……当時は注目の声優だったが、いま演技を聞き直すとひどい棒読み。当時は演技云々なんて何も考えてなかったなぁ)
ニ ンテンドーDSのスペックではなかなか再現できず、残念に思えたものもある。音楽である。『天外魔境Ⅱ』のもう一つの目玉は、当時ジブリアニメの音楽担当 で人気だった久石譲である。ニンテンドーDS版は久石譲のオーケストラを再現しようとした痕跡はあるものの、音割れが激しい。音が妙に弱々しい。知らない 人に聞かせても、オーケストラだと気付かないのではないだろうか。
ゲーム中音楽も、オリジナル版ではなくアレンジバージョンが使用されて残念だった。オリジナル版を知っていて、そちらに愛着を持っているからだろうが、音楽はやはりオリジナル版がいい。オリジナル版のほうが勢いがある。
『ファ イナルファンタジーⅢ』のリメイク版でも思ったことだが、音楽がアレンジ版になると、オリジナル版本来が持っていたメロディの強さが失われるように思え る。『ファイナルファンタジーⅢ』のほうは実はオリジナル版のサウンドトラックを持っているのだが、制限の厳しいファミコンの音源でありながら、制限を感 じさせない豊かさと力強さ見事に表現している。今でもたまに聞くくらいである。アレンジ版になると、なぜかその豊かさ、力強さが失われるのである。なんと なく全体がぼんやり曇っているような感じ。『天外魔境Ⅱ』の音楽にも同じようなものも感じた。
表現についても、時代の遍歴を感じさせずにはいられなかった。『天外魔境』シリーズはある種のエグさも個性だった。しかしリバイバル版ではオリジナル版が持っていた苦みが取りさらわれていた。
例えば石見の浜田村の豚……ここではある時、突然に豚が大量発生して、村人がありがたがってその豚をおいしくいただくのであるが、実は……。しかし、リバイバル版では毒も何もない表現に差し替えられていた。あれでは村人が感じたショックは伝わらない。
シー ンについても、変更のある場面があった。『天外魔境Ⅱ』の最大の名シーンといえば、絹が○○するあのシーンだろう。が、ここでも相当の変更があった。血が 出る瞬間は全て削除。音楽はシーンの長さに合わせてぴったりに作られているのだが、シーンが短くなったため、音楽が途中で終わってしまう。技術の変化で シーンがショボくみえるのも仕方ないことだが、途中でシーンが切り捨てられるのがあまりにも残念だった。
改竄はアイテムの名前にまで及んでいた。例えば「人肉切包丁」。言うまでもないが、呪われたアイテムである。装備してはならない。これがリバイバル版では「人」の文字が消えてただの「肉切包丁」。これでは呪われたアイテムだと思わず、普通に装備してしまうじゃないか。
もっ とも許せない変更は主人公卍丸の攻撃命中率である。とにかく当たらない。いくら攻撃しても敵にヒットしない。序盤の雑魚にすらなかなか攻撃が当たらず、そ のうちにもピンチに、という事態も珍しくない。カブキ団十郎が仲間になるまで、攻撃がなかなか当たらない、戦闘がなかなか進行しないことにひどいストレス を感じた。いったい何を考えて、卍丸の攻撃命中率をここまで低くしてしまったのだろうか。変更を提案した愚か者の首を絞めたくなる。
良かったと思うのはローディングゼロ(PCエンジンは読み込みが長い上に、よくエラーを出した)と、2画面である。下画面はPCエンジン版と同じ内容のもの、上画面は補助的なマップ画面やステータスの表示だったが、たかがこの程度でもありがたかった。何しろ、マップ画面に切り替える必要がない(天外魔境Ⅱはマップが尋常ではないくらい広大で、頻繁にマップ画面に切り替える必要があった)。そのぶんのストレスが取り払われる。
戦 闘中はステータスが表示されているわけだが、次の段までの残り経験値が表示されているのがありがたがった。「関係あるの?」と思われるかも知れないが、次 の目標を表示してくれることが、レベル上げのモチベーション維持に繋がった。何もなしにただ盲目的にレベル上げをせよ、といったら99段まで上げられず挫 折しただろう。
あまり壮大すぎる目標は圧倒されるだけである。確実に挫折する。目の前に確実に見える目標を設定し、それを目指していく。そうしないと、大きな目標に辿り着くことはまず無理である。挫折せずに目標を達成する方法、これはよくよく心得るべきである。
プレイ時間:29時間42分
ネット評判があまりに良かったので、どんなものか是非やってみようと思ったのだが、これが詰まらなかった。
面白くなかった理由? それはRPG要素だ。
ゲームはスーパーファミコンで一通りの文法を完成させた後、ひたすらジャンルを複合化す る道を突き進み続けた。アクションゲームに、シュミレーションゲームやシューティングゲームやパズルゲームやRPGなどを継ぎ足して、いかにも前例のない 斬新なオリジナルタイトルの素振りをしたまがい物オリジナルソフトが何本も量産された。セガサターン、プレステーション期以後、ゲームが新しい感触を提供 し、それがジャンルとして確立した例は多分ないと思う。
その中でもRPG要素は良くない。RPG要素を継ぎ足した途端、レベルさえ上げればすべて の局面はゴリ押しできるようになってしまう。RPG要素を継ぎ足した瞬間、ゲームの作り手も受け手も“攻略法”なんてものを考えなくなる。必要ないから だ。レベルさえ上げれば、どんな敵も倒せるから、攻略できなければレベルを上げればいい、という発想になっている。
それに、プレイヤー自身がレベルアップした、という感覚を失わせてしまう。強くなっているのはゲーム中のキャラクターではなく、プレイヤー自身であるべきだ。
もう一つ『閃乱カグラ』が面白くなかった理由は、“爽快さ”を前面に押し出したゲーム性だ。 “爽快さ”を売りにしたゲームはプレステ2期あたりからじわじわと増えてきたわけだが、私はこの手のゲームが大嫌いだ。なぜならば、ボタンを連打すると、 確かに画面上にもの凄いエフェクトが次々と現れ、簡単な操作で大量の敵がばったばった倒れ、いかにも自分がもの凄い力を得たような錯覚を得ることができ る。
が、単調なのだ。ボタンを連打すれば、同じ感触で同じレベルの“爽快さ”が返ってくるが、これが快感に感じるのは、ゲームを始めた最初のうち でしかない。どんなにボタンを押しても同じように快感が返ってくるわけだから、瞬く間にその感覚が当たり前になり、何も感じなくなる。そうすると、ボタンを連打し続ける行為がただの作業にしかならなくなる。
し かもゲーム内容は起伏の全くない、似たような無個性的な敵がただわらわらと群がってくるだけ。いくら進めても、ステージに明らかに今までと状況が変わっ た、と思わせるような展開はやってこない。似たような平坦なステージが繰り返され、区別不能な敵キャラが次々と出てくるだけである。一応ストーリーに展開 があるものの、実際ゲームが始まったら、前のステージから何ら変化のない繰り返しのステージが続くだけである。
また、常に敵がわらわらと密集して 状況が混乱するので、もしもミッションに失敗しても何が起きたかよくわからない。どうして自分が敗北したのか、状況がわからないので反省のしようがない。 いっそ、画面を見ずにただひたすらボタンを連打しているだけでも、このゲームの場合はいいのである。
私はこのゲームもコンプリートするつもりで丹念にミッションを制覇していったのだが、第3章あたりで挫折してしまった。ゲーム自体が“爽快さ”を売りにしたただの“作業ゲー”でしかなく、しかもキャラクターが5人もいるから(隠しキャラクターを含めると6人)、同じ作業を5回繰り返さないと全ステージ制覇にならないのである。
レベルも簡単に上がるようになっており、第3章あたりまでくると全員最高レベルの50に達してしまう。もう上げようがないので、ゲームにそれ以上の楽しみを見つけられなくなる。
キャ ラクターはよくできている。いい絵描きが描いているし、それぞれの背景もしっかり練り込まれている。キャラクターの対話シーンでのモデリングも、動きが同 じパターンの使い回し、という点は気になるものの、原画のイメージをよく再現している。シリーズアニメ化が決定しているが、そこには納得である。
ただ、パッケージイラストのあの衣装が、忍者装束だと知った時は唖然とした。あれは忍者装束ではない。 普通の制服である。ジャージだろそれは、というのもある。「忍び転身!」と華麗に舞をみせつつ、制服から制服に変わる様を見て、私は茫然としていた。アニ メの世界における「異盛装」はあまり現実的ではない飛躍的な衣装――例えばドレスなどの明らかに「異盛装」とわかるコスチュームであり、「異盛装」をする ことでキャラクターは異界の力を借り、物語は現実とは違う特殊な局面に入るのである。が、『閃乱カグラ』で描かれた「異盛装」は現実世界にごく普通に、普 遍的にある衣装であって、「異盛装」とは言えない。それにそもそも、どう考えても忍者が身につけて忍びそうな格好にも見えない。「異盛装」ではなく、単に 着替えただけ。どうして誰も突っ込まなかったんだ? あと、この子達はセーラー服の方が絶対に似合っている。誰だ、ネクタイにしようと言ったのは。ネクタイで首を絞めてやる。
最 後に、このゲームは確か「3Dで飛び出すオッパイ」が売りだったはずなのだが……実際立体3D視を活用しているのはキャラクターの対話シーン、忍び転身の シーン、脱衣シーンの3つだけ。通常のゲーム中などは、3D機能が完全にオフになっている。何でこんな仕様にしたのかよくわからない。
どうやら続編が発売するようだが、私は買わない。どうせゲーム自体は、似たような(“爽快さ”で偽装された)作業ゲーだろうから。
バイト中、帰りのバスの中で読める本はないだろうか。文庫を入れていたら、紙が折れるしいつの間にか入り込んだ水分でヨレヨレになっているし。しかもバスの中は照明が暗く、文庫は読みづらい。
という時に、そういえばニンテンドーDSのダウンロードソフトに青空文庫があったはずだ、と思い出して購入。20作品入っているのでかなり長く読めるはずだ。500円なので値段も高くもない。
『ガリバー旅行記』が好きなので、久しぶりだから『ガリバー旅行記』を読もうと思ったが、第1ページ目で違和感。書棚の文庫と比較して(持っているわけだが)す ぐに違和感の正体に気付いた。『ちょっとDS文学全集』は抄訳版だったのだ。細かく比較したわけではないが、文庫版の3分の1くらいだろうか。文庫版を読 んでいるからストーリーを知っているのだが、この『ちょっとDS文学全集』から読んだ人には細かいところまでちゃんと伝わるだろうか。
もしもちゃ んと本を読みたい、という人にはお勧めできない。というより、教養の面からいってお勧めできない。私のような状況で、「ちょっと読みたい」という人には何 とかお勧めできそうだ。抄訳版でいいところといえば、話が余計な回り道なしでサクサク進むことだがら、電車やバスでの10分間で読む分にはいいだろう。
『ちょっ とDS文学全集』の中で一番面白かったのは『家なき子』だ。心象描写、状況描写の良さもあるのだが、それ以上に展開がいい。DSは1画面の文字数が少ない のだが、その文字数でおよそ200ページおきに主人公ルミが何かしらの危機を迎えるのである。何かしらの危機にぶち当たり、困難を経て幸運が必ずルミを救 い出す。だいたい200ページ前後のリズムで危機と幸運を繰り返し、一定の緊張感が続くように工夫されているのである。全体を通せば非常に長大だが、 200ページ前後が区切りなっているので読みやすい。
エンターテインメントとして優秀だし、少年ルミの成長物語としても感情移入できる内容になっ ている。前半は幸運が幼いルミを救い出す展開ばかりだが、後半は成長したルミが独力で問題を解決していく展開が感動的である。小さな区切りが連続している から、もしも映像化するならばシリーズ作品が相応しいだろう。原作が優秀だから、よほど監督が無能で、制作が見切り発車しない限り、良作ができるはずであ る。名作劇場の女体化ルミを見なかったことが今になって悔やまれる。
逆に面白くなかったのが『スペードの女王』。
まず文章が素 人。何を表現したいのか不明。物語の視点がどこなのかわからない。物語の半分過ぎたところで、ようやく主人公が判明する始末である。その物語もどこへ向 かっているのか不明で、わかりはじめてくるのがやはり中盤以後である。構成がガタガタで、読者にどんな物語を伝えたいのかわからない。
後半にかけ て、ひょっとしてそれまでをひっくり返す大展開でもあるのか、実は全てに意味があるのかも、と期待したものの、そういうものはまったくなかった。身もふた も希望もないバットエンドがただ突きつけられるだけだった。読み終わった時、結末のあまりのひどさに怒りすら覚えた。
プレイ時間:25時間38分
裏ステージ、マリオ/ルイージ両方でクリア。
ステージの構成が非常に良い。一つ一つのステージに個性があり、それぞれに違う解き方があり、しっかりアイデアを練り込んでいったのがよくわかる。『閃乱カグラ』で変な疲れ方をしたから、このゲームはいい気分転換になった。
し かし――ステージそのもの短すぎる。あっという間に終わってしまう。難易度もかなり低めで、しっかり遊びたいと思っても、ゲーム自体がそれに応えてくれな い。長くとも2分程度で一つのステージが終わってしまう。ゲーム全体を通せばそれなりにステージ数はあるのだが、全ステージを一気にクリアするとしてもあ まり時間はかからないだろう。ステージの構成は、一つ一つは確かに練り込まれているが、その一方でワールドごとの個性が薄れてしまっている。どうせなら、 1ワールドすべてに『ゼルダ』モチーフのものを作って欲しかった。
スターコイン収集というおまけ要素もあるのだが、その隠し方があまりにも簡単で、どことなく知育ソフトに接しているような感覚すらある。
全体を通して拍子抜け、喰い足りなさの残るゲームだった。
裏ステージの存在で、ある程度納得した。裏ステージはそこそこの難易度で楽しみがいがある。
簡単すぎる、短すぎる、という欠点はあるものの、スターコイン収集、各ステージでタイムを縮めていくなどの傍流の要素もあるので、まあまあそれなりに楽しめたかな、という気はする。
最終ステージ【8-王冠】の存在には参った。あまりにも場違いな凶暴難易度。なんとかマリオ/ルイージ両方でクリアできたものの、もう一度やろうという気にならない。変なところで両極端なゲームだった。
プレイ時間:5時間50分
体験版で遊んで、あまりにも気になったので購入。初音ミクが可愛い。初音ミクがあまりにも可愛い。とにかく初音ミクが可愛い。これだけで私は満足だった。
私はリズムゲームが苦手で、「ホドヨク」までしか遊んでいないのだが、それでもとりあえずエンディングまで見せてくれる親切さがありがたがった(「ラクラク」でもエンディングまで行ける)。「トコトン」モードは私には無理。
このゲームはほとんど遊んでいないのだが、損な買い物とは思わない。時々ニンテンドー3DSに設置し、のんびりPVを見るのを楽しんでいる。
エンドクレジットのモーション・アクターの中に、小倉唯の名前を見つけた。たぶん声優の小倉唯だろう。まさかモーション・アクターまでやりこなすとは。まだ若いのに驚くべき才能である。
小倉唯には早く“当たり役”を見つけて欲しいところである。『神様のメモ帳』のアリス役は相応しいと思ったのだが、作品自体が不評だった(私は批判されるほど悪い作品だとは思わなかったが)。
プレイ時間:73時間37分
キャンペーンモード、難易度HELLクリア。レイドモードはぼちぼち攻略中。
私 の『バイオハザード』の思い出は、プレイステーション最初期に発売された第1作目の『バイオハザード』である。当時から『バイオハザード』は特別な作品と してすでに語られていた。今までになかったシーン作り、ゾンビ映画へのリスペクト、迫力のある緊張感、そういったフレーズが様々な批評誌に取り上げられて いた。
果たして『バイオハザード』とはいったいどんなゲームなのだろうか。
期待に胸膨らませて電源を入れた私に襲いかかったものは、ゾンビではなくただの失望だった。
ぺらぺらのビジュアル。のっぺりした光表現。凡庸な演出。ゾンビの質感はぺたっとしたいかにもCG製で、もっともらしさは皆無だ。対話シーンではただ手をひらひらさせる動きの繰り返しだ。冒頭の、素人が裏山で撮ってきたような実写ムービーは落胆を通り越して失笑が浮かんだ(きっと涼宮ハルヒが撮ったに違いない)。
もっとも許せなかったのは、攻撃がまったく敵に当たらないことだった。敵はすぐそこ、目の前にいるのにも関わらず、いくら弾を撃っても当たらない。微妙に左右調整しながら狙いを定めるのだが、どうしても当たらない。結局最初の1体目すら倒せず、弾切れになってしまった。
こんなゲームのどこに魅力があるのだ? 私にはまったくわからなかった。こんな駄作に時間を取られるくらいなら、低予算で制作された監督不明のその辺のゾンビ映画を見ていた方がまだ有意義だ。
あれから16年にもなるのか……。
『バイオハザード リベレーションズ』を手に取ったのはたまたま、ホラー成分が不足しているのを感じていたからだ。あれからどれくらい変わっただろうか、という興味は多少はあった。
『天外魔境Ⅱ』でも似たようなことを書いたのだが、時代が変わったな、という感慨だった。16年も時間があったら、技術や表現方法もまったく違う。当時は救いようのないぺらぺらのゲームだと思ったものが、ここまで進化しているとは想像もできなかった。
濃密な陰影表現。じわじわと期待を持たせる演出。潜水服を着込んだキャラクターの質感もいい。ニンテンドー3DSの性能の高さがよくわかる。主要な舞台は幽霊船の中だが、それでも広がりのあるストーリーで引きつけられるものがある(カプコン内に、巧舟以外でまともな脚本が書ける人間がいたことに驚いた。『鬼武者2』なんてものをうっかりやっていたから、「ゲーム屋には話を書かせてはならない」「ゲーム業界にはストーリーを批評できる人間がまだいない」と思っていた)。ゲーム性の変化も良かった。銃を構えた瞬間、即座にFPSになって、シンプルな標準で敵を狙う仕組みになっている(狙いやすい!)。 このゲームでも2画面の存在感は抜群だった。ほとんどの局面でウインドウを開く必要なく、画面をタッチするだけで簡単にアイテム交換ができる。小さいが マップ表示があるのもわかりやすくて良かった。操作方法にはやや癖があり、慣れるのに時間を要するが、それは批評する点でマイナスにはならない。
難易度が私にはちょうど良かった。まさかここまで長い期間をかけて、深くはまりこむとは思わなかった。鈴木史朗氏がなぜこのゲームに特別な愛着を見せるのか、今なら理解できるような気がする。これはかなりの良作である。
ただ……ゾンビが1体も登場しないのが残念だった。実はこの作品で、私はこのシリーズに登場するゾンビがゾンビではなく、ウイルスに感染した人や動物だと初めて知ったのである。
冒 頭の幽霊船に乗り込んだ直後の、暗く不気味な雰囲気は非常に素晴らしかった。何が来るかわからない、ゾクゾクとくるものがあった。が、その後はモンスター 達は当たり前のように姿を見せ、ただのモンスターパニックものになったのは残念だった。私の気分はホラーをやりたかったのだが。
このゲームは、質 のいい、大きなスピーカーに繋げて遊ぶと楽しみが倍加する。ニンテンドー3DSはスピーカーがいいと言われるが、それでもやはり低級品でも独立したスピー カーの質には敵わない。スピーカーに繋ぐと、低音部分が重さを持って部屋中に広がっていくのがわかるはずだ。音が変わると作品の質自体も変わるような気が するので、これはぜひお勧めしたい。
天外魔境Ⅱ
2011年12月14日購入プレイ時間:67時間15分
全キャラクター99段。
私にとって、いやPCエンジンユーザーならば、このゲームに特別な感慨を持たぬ者はいないだろう。『天外魔境Ⅱ』それはゲーム史における一つの伝説である。
当時、最大のバジェットを投入した前例のないスケールで、常識を覆す圧倒的な演出、史上最長のシナリオ、史上最大の広がりを持ったマップ、豪華声優出演陣、なにもかもが型破りな体制で制作されたそれは、ゲームと呼ばず一大叙事詩である。
それを20年ぶりに遊んでみると……想像以上にショボかった。う~ん、こんな感じだったっけ。20年の時間は埋められない。ゲームがいかに変わったか、よくよく思い知らされる作品である。
当 時、“桁外れ”と宣伝されて、実際その通りな豪華な予算と技術が注ぎ込まれたはずの作品なのに、いま遊んでみると、素人制作の同人ソフトにすら届かない ゲームだった。時代と技術がいかに変わったか、をしみじみと考えずにはいられない。「思い出補正」は実際のものに直面すると、瞬く間に崩壊する悲しいもの である。
それでも、史上最長のシナリオ、史上最大のマップは健在である。最近でも、ここまでの長さと広大さを持ったゲームはなかなかお目にかかることはできない。CDの容量(せいぜい700MB。これでも当時は「何でも入る」と言われていた)をムービーなどで水増しせず、限界ぎりぎりまで突っ込んだ執念には今でも圧倒されるものがある。(しかも、これでも相当に削ってなんとか無理矢理押し込んだそうだ)
声 優の演技にも注目だ。出演俳優は24人……だっただろうか。当時のゲームとしては、これでも多いほうである。しかし登場キャラクターは何人いるのだろう? 出演俳優の人数と登場キャラクター数が明らかに釣り合いとれていないので、新しいマップに入るたびに何らかの役で永井一郎さんの名調子が聞ける。ある意 味で贅沢な作品である。(絹役の井上あずみは……当時は注目の声優だったが、いま演技を聞き直すとひどい棒読み。当時は演技云々なんて何も考えてなかったなぁ)
ニ ンテンドーDSのスペックではなかなか再現できず、残念に思えたものもある。音楽である。『天外魔境Ⅱ』のもう一つの目玉は、当時ジブリアニメの音楽担当 で人気だった久石譲である。ニンテンドーDS版は久石譲のオーケストラを再現しようとした痕跡はあるものの、音割れが激しい。音が妙に弱々しい。知らない 人に聞かせても、オーケストラだと気付かないのではないだろうか。
ゲーム中音楽も、オリジナル版ではなくアレンジバージョンが使用されて残念だった。オリジナル版を知っていて、そちらに愛着を持っているからだろうが、音楽はやはりオリジナル版がいい。オリジナル版のほうが勢いがある。
『ファ イナルファンタジーⅢ』のリメイク版でも思ったことだが、音楽がアレンジ版になると、オリジナル版本来が持っていたメロディの強さが失われるように思え る。『ファイナルファンタジーⅢ』のほうは実はオリジナル版のサウンドトラックを持っているのだが、制限の厳しいファミコンの音源でありながら、制限を感 じさせない豊かさと力強さ見事に表現している。今でもたまに聞くくらいである。アレンジ版になると、なぜかその豊かさ、力強さが失われるのである。なんと なく全体がぼんやり曇っているような感じ。『天外魔境Ⅱ』の音楽にも同じようなものも感じた。
表現についても、時代の遍歴を感じさせずにはいられなかった。『天外魔境』シリーズはある種のエグさも個性だった。しかしリバイバル版ではオリジナル版が持っていた苦みが取りさらわれていた。
例えば石見の浜田村の豚……ここではある時、突然に豚が大量発生して、村人がありがたがってその豚をおいしくいただくのであるが、実は……。しかし、リバイバル版では毒も何もない表現に差し替えられていた。あれでは村人が感じたショックは伝わらない。
シー ンについても、変更のある場面があった。『天外魔境Ⅱ』の最大の名シーンといえば、絹が○○するあのシーンだろう。が、ここでも相当の変更があった。血が 出る瞬間は全て削除。音楽はシーンの長さに合わせてぴったりに作られているのだが、シーンが短くなったため、音楽が途中で終わってしまう。技術の変化で シーンがショボくみえるのも仕方ないことだが、途中でシーンが切り捨てられるのがあまりにも残念だった。
改竄はアイテムの名前にまで及んでいた。例えば「人肉切包丁」。言うまでもないが、呪われたアイテムである。装備してはならない。これがリバイバル版では「人」の文字が消えてただの「肉切包丁」。これでは呪われたアイテムだと思わず、普通に装備してしまうじゃないか。
もっ とも許せない変更は主人公卍丸の攻撃命中率である。とにかく当たらない。いくら攻撃しても敵にヒットしない。序盤の雑魚にすらなかなか攻撃が当たらず、そ のうちにもピンチに、という事態も珍しくない。カブキ団十郎が仲間になるまで、攻撃がなかなか当たらない、戦闘がなかなか進行しないことにひどいストレス を感じた。いったい何を考えて、卍丸の攻撃命中率をここまで低くしてしまったのだろうか。変更を提案した愚か者の首を絞めたくなる。
良かったと思うのはローディングゼロ(PCエンジンは読み込みが長い上に、よくエラーを出した)と、2画面である。下画面はPCエンジン版と同じ内容のもの、上画面は補助的なマップ画面やステータスの表示だったが、たかがこの程度でもありがたかった。何しろ、マップ画面に切り替える必要がない(天外魔境Ⅱはマップが尋常ではないくらい広大で、頻繁にマップ画面に切り替える必要があった)。そのぶんのストレスが取り払われる。
戦 闘中はステータスが表示されているわけだが、次の段までの残り経験値が表示されているのがありがたがった。「関係あるの?」と思われるかも知れないが、次 の目標を表示してくれることが、レベル上げのモチベーション維持に繋がった。何もなしにただ盲目的にレベル上げをせよ、といったら99段まで上げられず挫 折しただろう。
あまり壮大すぎる目標は圧倒されるだけである。確実に挫折する。目の前に確実に見える目標を設定し、それを目指していく。そうしないと、大きな目標に辿り着くことはまず無理である。挫折せずに目標を達成する方法、これはよくよく心得るべきである。
閃乱カグラ -少女達の真影-
2012年3月8日購入プレイ時間:29時間42分
ネット評判があまりに良かったので、どんなものか是非やってみようと思ったのだが、これが詰まらなかった。
面白くなかった理由? それはRPG要素だ。
ゲームはスーパーファミコンで一通りの文法を完成させた後、ひたすらジャンルを複合化す る道を突き進み続けた。アクションゲームに、シュミレーションゲームやシューティングゲームやパズルゲームやRPGなどを継ぎ足して、いかにも前例のない 斬新なオリジナルタイトルの素振りをしたまがい物オリジナルソフトが何本も量産された。セガサターン、プレステーション期以後、ゲームが新しい感触を提供 し、それがジャンルとして確立した例は多分ないと思う。
その中でもRPG要素は良くない。RPG要素を継ぎ足した途端、レベルさえ上げればすべて の局面はゴリ押しできるようになってしまう。RPG要素を継ぎ足した瞬間、ゲームの作り手も受け手も“攻略法”なんてものを考えなくなる。必要ないから だ。レベルさえ上げれば、どんな敵も倒せるから、攻略できなければレベルを上げればいい、という発想になっている。
それに、プレイヤー自身がレベルアップした、という感覚を失わせてしまう。強くなっているのはゲーム中のキャラクターではなく、プレイヤー自身であるべきだ。
もう一つ『閃乱カグラ』が面白くなかった理由は、“爽快さ”を前面に押し出したゲーム性だ。 “爽快さ”を売りにしたゲームはプレステ2期あたりからじわじわと増えてきたわけだが、私はこの手のゲームが大嫌いだ。なぜならば、ボタンを連打すると、 確かに画面上にもの凄いエフェクトが次々と現れ、簡単な操作で大量の敵がばったばった倒れ、いかにも自分がもの凄い力を得たような錯覚を得ることができ る。
が、単調なのだ。ボタンを連打すれば、同じ感触で同じレベルの“爽快さ”が返ってくるが、これが快感に感じるのは、ゲームを始めた最初のうち でしかない。どんなにボタンを押しても同じように快感が返ってくるわけだから、瞬く間にその感覚が当たり前になり、何も感じなくなる。そうすると、ボタンを連打し続ける行為がただの作業にしかならなくなる。
し かもゲーム内容は起伏の全くない、似たような無個性的な敵がただわらわらと群がってくるだけ。いくら進めても、ステージに明らかに今までと状況が変わっ た、と思わせるような展開はやってこない。似たような平坦なステージが繰り返され、区別不能な敵キャラが次々と出てくるだけである。一応ストーリーに展開 があるものの、実際ゲームが始まったら、前のステージから何ら変化のない繰り返しのステージが続くだけである。
また、常に敵がわらわらと密集して 状況が混乱するので、もしもミッションに失敗しても何が起きたかよくわからない。どうして自分が敗北したのか、状況がわからないので反省のしようがない。 いっそ、画面を見ずにただひたすらボタンを連打しているだけでも、このゲームの場合はいいのである。
私はこのゲームもコンプリートするつもりで丹念にミッションを制覇していったのだが、第3章あたりで挫折してしまった。ゲーム自体が“爽快さ”を売りにしたただの“作業ゲー”でしかなく、しかもキャラクターが5人もいるから(隠しキャラクターを含めると6人)、同じ作業を5回繰り返さないと全ステージ制覇にならないのである。
レベルも簡単に上がるようになっており、第3章あたりまでくると全員最高レベルの50に達してしまう。もう上げようがないので、ゲームにそれ以上の楽しみを見つけられなくなる。
キャ ラクターはよくできている。いい絵描きが描いているし、それぞれの背景もしっかり練り込まれている。キャラクターの対話シーンでのモデリングも、動きが同 じパターンの使い回し、という点は気になるものの、原画のイメージをよく再現している。シリーズアニメ化が決定しているが、そこには納得である。
ただ、パッケージイラストのあの衣装が、忍者装束だと知った時は唖然とした。あれは忍者装束ではない。 普通の制服である。ジャージだろそれは、というのもある。「忍び転身!」と華麗に舞をみせつつ、制服から制服に変わる様を見て、私は茫然としていた。アニ メの世界における「異盛装」はあまり現実的ではない飛躍的な衣装――例えばドレスなどの明らかに「異盛装」とわかるコスチュームであり、「異盛装」をする ことでキャラクターは異界の力を借り、物語は現実とは違う特殊な局面に入るのである。が、『閃乱カグラ』で描かれた「異盛装」は現実世界にごく普通に、普 遍的にある衣装であって、「異盛装」とは言えない。それにそもそも、どう考えても忍者が身につけて忍びそうな格好にも見えない。「異盛装」ではなく、単に 着替えただけ。どうして誰も突っ込まなかったんだ? あと、この子達はセーラー服の方が絶対に似合っている。誰だ、ネクタイにしようと言ったのは。ネクタイで首を絞めてやる。
最 後に、このゲームは確か「3Dで飛び出すオッパイ」が売りだったはずなのだが……実際立体3D視を活用しているのはキャラクターの対話シーン、忍び転身の シーン、脱衣シーンの3つだけ。通常のゲーム中などは、3D機能が完全にオフになっている。何でこんな仕様にしたのかよくわからない。
どうやら続編が発売するようだが、私は買わない。どうせゲーム自体は、似たような(“爽快さ”で偽装された)作業ゲーだろうから。
ちょっとDS文学全集
2012年3月12日購入バイト中、帰りのバスの中で読める本はないだろうか。文庫を入れていたら、紙が折れるしいつの間にか入り込んだ水分でヨレヨレになっているし。しかもバスの中は照明が暗く、文庫は読みづらい。
という時に、そういえばニンテンドーDSのダウンロードソフトに青空文庫があったはずだ、と思い出して購入。20作品入っているのでかなり長く読めるはずだ。500円なので値段も高くもない。
『ガリバー旅行記』が好きなので、久しぶりだから『ガリバー旅行記』を読もうと思ったが、第1ページ目で違和感。書棚の文庫と比較して(持っているわけだが)す ぐに違和感の正体に気付いた。『ちょっとDS文学全集』は抄訳版だったのだ。細かく比較したわけではないが、文庫版の3分の1くらいだろうか。文庫版を読 んでいるからストーリーを知っているのだが、この『ちょっとDS文学全集』から読んだ人には細かいところまでちゃんと伝わるだろうか。
もしもちゃ んと本を読みたい、という人にはお勧めできない。というより、教養の面からいってお勧めできない。私のような状況で、「ちょっと読みたい」という人には何 とかお勧めできそうだ。抄訳版でいいところといえば、話が余計な回り道なしでサクサク進むことだがら、電車やバスでの10分間で読む分にはいいだろう。
『ちょっ とDS文学全集』の中で一番面白かったのは『家なき子』だ。心象描写、状況描写の良さもあるのだが、それ以上に展開がいい。DSは1画面の文字数が少ない のだが、その文字数でおよそ200ページおきに主人公ルミが何かしらの危機を迎えるのである。何かしらの危機にぶち当たり、困難を経て幸運が必ずルミを救 い出す。だいたい200ページ前後のリズムで危機と幸運を繰り返し、一定の緊張感が続くように工夫されているのである。全体を通せば非常に長大だが、 200ページ前後が区切りなっているので読みやすい。
エンターテインメントとして優秀だし、少年ルミの成長物語としても感情移入できる内容になっ ている。前半は幸運が幼いルミを救い出す展開ばかりだが、後半は成長したルミが独力で問題を解決していく展開が感動的である。小さな区切りが連続している から、もしも映像化するならばシリーズ作品が相応しいだろう。原作が優秀だから、よほど監督が無能で、制作が見切り発車しない限り、良作ができるはずであ る。名作劇場の女体化ルミを見なかったことが今になって悔やまれる。
逆に面白くなかったのが『スペードの女王』。
まず文章が素 人。何を表現したいのか不明。物語の視点がどこなのかわからない。物語の半分過ぎたところで、ようやく主人公が判明する始末である。その物語もどこへ向 かっているのか不明で、わかりはじめてくるのがやはり中盤以後である。構成がガタガタで、読者にどんな物語を伝えたいのかわからない。
後半にかけ て、ひょっとしてそれまでをひっくり返す大展開でもあるのか、実は全てに意味があるのかも、と期待したものの、そういうものはまったくなかった。身もふた も希望もないバットエンドがただ突きつけられるだけだった。読み終わった時、結末のあまりのひどさに怒りすら覚えた。
スーパーマリオ 3Dランド
2012年4月5日購入プレイ時間:25時間38分
裏ステージ、マリオ/ルイージ両方でクリア。
ステージの構成が非常に良い。一つ一つのステージに個性があり、それぞれに違う解き方があり、しっかりアイデアを練り込んでいったのがよくわかる。『閃乱カグラ』で変な疲れ方をしたから、このゲームはいい気分転換になった。
し かし――ステージそのもの短すぎる。あっという間に終わってしまう。難易度もかなり低めで、しっかり遊びたいと思っても、ゲーム自体がそれに応えてくれな い。長くとも2分程度で一つのステージが終わってしまう。ゲーム全体を通せばそれなりにステージ数はあるのだが、全ステージを一気にクリアするとしてもあ まり時間はかからないだろう。ステージの構成は、一つ一つは確かに練り込まれているが、その一方でワールドごとの個性が薄れてしまっている。どうせなら、 1ワールドすべてに『ゼルダ』モチーフのものを作って欲しかった。
スターコイン収集というおまけ要素もあるのだが、その隠し方があまりにも簡単で、どことなく知育ソフトに接しているような感覚すらある。
全体を通して拍子抜け、喰い足りなさの残るゲームだった。
裏ステージの存在で、ある程度納得した。裏ステージはそこそこの難易度で楽しみがいがある。
簡単すぎる、短すぎる、という欠点はあるものの、スターコイン収集、各ステージでタイムを縮めていくなどの傍流の要素もあるので、まあまあそれなりに楽しめたかな、という気はする。
最終ステージ【8-王冠】の存在には参った。あまりにも場違いな凶暴難易度。なんとかマリオ/ルイージ両方でクリアできたものの、もう一度やろうという気にならない。変なところで両極端なゲームだった。
初音ミク Prject mirai
2012年4月23日購入プレイ時間:5時間50分
体験版で遊んで、あまりにも気になったので購入。初音ミクが可愛い。初音ミクがあまりにも可愛い。とにかく初音ミクが可愛い。これだけで私は満足だった。
私はリズムゲームが苦手で、「ホドヨク」までしか遊んでいないのだが、それでもとりあえずエンディングまで見せてくれる親切さがありがたがった(「ラクラク」でもエンディングまで行ける)。「トコトン」モードは私には無理。
このゲームはほとんど遊んでいないのだが、損な買い物とは思わない。時々ニンテンドー3DSに設置し、のんびりPVを見るのを楽しんでいる。
エンドクレジットのモーション・アクターの中に、小倉唯の名前を見つけた。たぶん声優の小倉唯だろう。まさかモーション・アクターまでやりこなすとは。まだ若いのに驚くべき才能である。
小倉唯には早く“当たり役”を見つけて欲しいところである。『神様のメモ帳』のアリス役は相応しいと思ったのだが、作品自体が不評だった(私は批判されるほど悪い作品だとは思わなかったが)。
バイオハザード リベレーションズ
2012年5月14日購入プレイ時間:73時間37分
キャンペーンモード、難易度HELLクリア。レイドモードはぼちぼち攻略中。
私 の『バイオハザード』の思い出は、プレイステーション最初期に発売された第1作目の『バイオハザード』である。当時から『バイオハザード』は特別な作品と してすでに語られていた。今までになかったシーン作り、ゾンビ映画へのリスペクト、迫力のある緊張感、そういったフレーズが様々な批評誌に取り上げられて いた。
果たして『バイオハザード』とはいったいどんなゲームなのだろうか。
期待に胸膨らませて電源を入れた私に襲いかかったものは、ゾンビではなくただの失望だった。
ぺらぺらのビジュアル。のっぺりした光表現。凡庸な演出。ゾンビの質感はぺたっとしたいかにもCG製で、もっともらしさは皆無だ。対話シーンではただ手をひらひらさせる動きの繰り返しだ。冒頭の、素人が裏山で撮ってきたような実写ムービーは落胆を通り越して失笑が浮かんだ(きっと涼宮ハルヒが撮ったに違いない)。
もっとも許せなかったのは、攻撃がまったく敵に当たらないことだった。敵はすぐそこ、目の前にいるのにも関わらず、いくら弾を撃っても当たらない。微妙に左右調整しながら狙いを定めるのだが、どうしても当たらない。結局最初の1体目すら倒せず、弾切れになってしまった。
こんなゲームのどこに魅力があるのだ? 私にはまったくわからなかった。こんな駄作に時間を取られるくらいなら、低予算で制作された監督不明のその辺のゾンビ映画を見ていた方がまだ有意義だ。
あれから16年にもなるのか……。
『バイオハザード リベレーションズ』を手に取ったのはたまたま、ホラー成分が不足しているのを感じていたからだ。あれからどれくらい変わっただろうか、という興味は多少はあった。
『天外魔境Ⅱ』でも似たようなことを書いたのだが、時代が変わったな、という感慨だった。16年も時間があったら、技術や表現方法もまったく違う。当時は救いようのないぺらぺらのゲームだと思ったものが、ここまで進化しているとは想像もできなかった。
濃密な陰影表現。じわじわと期待を持たせる演出。潜水服を着込んだキャラクターの質感もいい。ニンテンドー3DSの性能の高さがよくわかる。主要な舞台は幽霊船の中だが、それでも広がりのあるストーリーで引きつけられるものがある(カプコン内に、巧舟以外でまともな脚本が書ける人間がいたことに驚いた。『鬼武者2』なんてものをうっかりやっていたから、「ゲーム屋には話を書かせてはならない」「ゲーム業界にはストーリーを批評できる人間がまだいない」と思っていた)。ゲーム性の変化も良かった。銃を構えた瞬間、即座にFPSになって、シンプルな標準で敵を狙う仕組みになっている(狙いやすい!)。 このゲームでも2画面の存在感は抜群だった。ほとんどの局面でウインドウを開く必要なく、画面をタッチするだけで簡単にアイテム交換ができる。小さいが マップ表示があるのもわかりやすくて良かった。操作方法にはやや癖があり、慣れるのに時間を要するが、それは批評する点でマイナスにはならない。
難易度が私にはちょうど良かった。まさかここまで長い期間をかけて、深くはまりこむとは思わなかった。鈴木史朗氏がなぜこのゲームに特別な愛着を見せるのか、今なら理解できるような気がする。これはかなりの良作である。
ただ……ゾンビが1体も登場しないのが残念だった。実はこの作品で、私はこのシリーズに登場するゾンビがゾンビではなく、ウイルスに感染した人や動物だと初めて知ったのである。
冒 頭の幽霊船に乗り込んだ直後の、暗く不気味な雰囲気は非常に素晴らしかった。何が来るかわからない、ゾクゾクとくるものがあった。が、その後はモンスター 達は当たり前のように姿を見せ、ただのモンスターパニックものになったのは残念だった。私の気分はホラーをやりたかったのだが。
このゲームは、質 のいい、大きなスピーカーに繋げて遊ぶと楽しみが倍加する。ニンテンドー3DSはスピーカーがいいと言われるが、それでもやはり低級品でも独立したスピー カーの質には敵わない。スピーカーに繋ぐと、低音部分が重さを持って部屋中に広がっていくのがわかるはずだ。音が変わると作品の質自体も変わるような気が するので、これはぜひお勧めしたい。
■
おまけ
■2012/07/24 (Tue)
ゲーム■
2011年2月26日にニンテンドー3DSが発売され、すでに1年が過ぎている。タイトルもかなり出そろってきた、ということもあるし、ここいらで私が個人的に実際に遊んだタイトルを列挙しようと思う。
ニンテンドー3DS本体に最初から入っているソフトである。このシンプルなゲームを、誰がここまで長く遊ぶであろう、と想像できただろうか。
ところで、「ゲームの面白さとは何か?」と尋ねられた時、どう答えるべきだろうか。「ゲームそれ自体の品質」――という回答は間違いなく正解で、異議を唱える者は少ないだろう。ゲーム制作を専門にする人ならば、品質という言葉の中身について、もう少し突っ込んだ解説を加えてくれるだろう。
しかし、私は以前からこの回答は7割くらいが正解、と考えている。というのも、ゲームを得たばかりで夢中になって遊んでいた子供時代のことを思い出すと、ゲームに対する接し方がもう少し違ったように思い出されるからだ。
誰かの家に集まって、わーわー言いながら、誰かが持ってきた未知のソフトをファミコンに差し込んで「何だこれ! 何だこれ!」といちいち驚いたり、笑ったりしていたあの時の感動。「ゲームの面白さ」の原体験を遡っていくと、そういう風景に辿り着くように思えるのである。
それで、一つ一つのゲームについて、そこまでしっかり遊び込んだような記憶もない。当時のゲームは見た目も中身も悲しいまでに貧相で、一方の子供であった私にそれらをきちんと批評するだけの知恵も経験値もない。それでも、あの時代が何よりも輝かしいもののように記憶しているのは、やはりそういうのがとびきり楽しかったからだ。
だから「ゲームの面白さとは何か?」と尋ねられた時、7割くらいはゲーム自体の品質、あとの3割くらいは誰かと接して大騒ぎする時間、と私は答えるようにしている。
もっとも、そういう友人も、それだけのゆとりある時間も私にはもうないのだけど。
「人と接すること」「誰かと接すること」。『すれちがいMii広場』は不完全であるものの、誰かに触れられて楽しい、という瞬間を取り戻してくれたように思える。
『すれちがいMii広場』はすれちがい通信とMiiを利用したシンプルなゲームで終わってしまっているのが残念だ。すれちがい通信とMiiを利用した、もっと奥行きのあるソフトを遊んでみたい。
プレイ時間:80時間53分
主要8キャラクターのみオールレベル99。8キャラクターのみ全職業コンプリート。
私にとって、スーパーファミコン最後のドラクエであった『6』は思い出深い作品。間違いなくスーパーファミコン最大のボリューム、最長のシナリオ。そろそろ新ハードの足音が聞こえ始めた時代だというのに、ここまで練り込んだゲームに圧倒されたし、ずいぶん愛着も感じた。スーパーファミコン版もかなりしっかり遊んだはずだが、それでもまだ奥行きがあり、作り手がプレイヤーに様々なものを要求してくるゲームに、唖然としたものである。
ある時、そういえば『ドラクエ6』がニンテンドーDSで発売されたんだっけ、と思い出して購入。懐かしい思い出に浸ろう、というわけである。
しかし……何だろう、スーパーファミコンの『ドラクエ6』はこうであっただろうか? 妙な違和感があるように思えた。他のシリーズ作品に対して、冒頭からやや難易度が高め。シナリオもこうだっただろうか。当時はあのシナリオにずいぶん感情移入して進めたのだが、当時ほどの感動は得られなかった。
う~ん、思い出補正だったのかなぁ。『ドラクエ4』や『ドラクエ5』のリメイク版は、当時の印象からほとんど変わらなかったのに。
特に、結末はあんな感じだっただろうか。エンディングがどうしても尻切れトンボな感じで物足りない。ひょっとして、裏エンディングに行けば、何か違いがあるのかも、と思ってレベル99まで上げて裏ボスを倒すもののエンディングに変化はなし。
やっぱり思い出は思い出なのだろうか。
いまいち関係のない話だが、ある時ネットで「トルネコは使えない! 何であんなデブが導かれし者だったんだ?」という話題が盛り上がっていた。ざっと読んだものの誰も正解を書くことができなかったようなので、ここで補足しておこうと思う。
トルネコは強い!
証拠として、レベル99データの画像を張り込んでおく。一目してわかると思うが、全てのデータでライアンよりも強い。レベルアップ時の確率、と指摘されそうだが、私は3つのデータ全てをレベル99まで上げたが結果は同じだった。防御力もあるので、前衛の盾として、肉弾戦の切り込み役として、充分に活躍するキャラクターである。しかもトルネコは、敵のアイテムを盗むという特殊スキルを持っている。おかげで資金の足しになる武器防具や、確率は低いものの「力の種」や「守りの種」なども手に入れてくれる便利キャラでもある。
もっとも、(ルックスを含め)あらゆる面で鉄壁のアリーナには及ばないが。
プレイ時間:46時間
すべてのハートのかけら収集済み。ボスオンパレードのみクリアできず。条件厳しすぎ……。ミラーモードはプレイせず。
名作とは『ゼルダの伝説 時のオカリナ』のことである。ゲーム、ビジュアル、サウンド、演出、すべてにおいて比類なき傑作。そろそろ辞書に、名作の指し示すものとして『ゼルダの伝説 時のオカリナ』について書き加えるべきである。
その名作が、ニンテンドー3DSに復活。しかも当時よりビジュアルはより美しく刷新。NINTENDO64の時はハードの性能限界のため、全体に雲がかかったようなぼやけた印象だったものが(あれはあれで美しかったが)、何もかもくっきりして、ハイラル平原の奥の奥までくっきりと見渡せるようになった。NINTENDO64とニンテンドー3DSの性能差に示すためのいい材料になっている。
やはり2画面表示はよかった。「ゲームの問題」と言えば、「ウインドウを開くこと」である。「ウインドウを開く」とゲームは完全ストップとなる。メイン画面は一時的に隠され、そのぶんゲームの進行はゲームの中心から遠ざかってしまう。ゲームが複雑になっていく過程で、この「ウインドウを開く」行動が確実にストレスになっていた。ゲームが複雑になるとウインドウ画面自体がやや重く、開くまでに時間がかかったり、しかもそれを頻繁に開かなければならないとなると、ゲームそのもののリズムを崩してしまう。NINTENDO64版の『時のオカリナ』の欠点を挙げろと言われれば、間違いなく「ウインドウを開くこと」であった。『ゼルダ』シリーズの基本であるが、何度もウインドウを開き、閉じなければならない。頻繁に繰り返す必要のあるアイテム交換、複雑すぎるために何度も確認しなければならないマップ。そのたびに、ゲームは一時中断になるのである。
しかし、2画面表示のおかげで、このストレスがかなり緩和された。2画面のおかげで、ウインドウを開閉する回数は確実に減った。
ニンテンドー3DSはNINTENDO64と比較してボタン数は少ないが、タッチスクリーンにアイテムをストックし、それをタッチして使えるのでむしろ操作を快適にしてくれた。マップ表示がデフォルトなのも嬉しい。マップ画面を開く面倒がなくなった。視線さえ動かせばいいのである。
『時のオカリナ』は2画面になることで、確実にゲームの完成度を上げたと言える。
ただ音楽だけは当時のまま。“完全再現”といえば完璧な作りなのだが、せっかくだからニンテンドー3DSの性能を利用した豪華な音源を聞いてみたかった。特に音響面は最近のゲームとしてはあっさりしすぎ。ガノン城崩壊シーンの破壊音が「ポコン! ポコン!」って……。
プレイ時間:13時間42分
冒頭の場面で、いきなり主人公死亡。物語はたった一晩だけ。
という始まり方で、どんなふうに物語が進むのだろう。しかも“たった一晩で終わる物語”。これだけで読者を満足させるだけの厚みのある物語を作れるのだろう? ハードル高く作りすぎていないだろうか。
懸念づくしでゲームを始めたものの、最後にはひれ伏していた。巧舟のシナリオは完璧だった。作り手側として制約だらけに思えた基本設定をうまく利用し、まさかあれほどの世界観を押し広げてくるとは。ストーリーとゲームルールの連携も見事である。このゲームでしかあり得ない独自性を持ち、ゲームルールと物語がきちんと意義をもって調和している。平面的に作られたビジュアルも個性的で美しく、これも見事だ。ゲームが終わるまでに何度も「巧い!」と声を上げたくなる作品であった。
巧舟はゲーム作家として、シナリオライターとして最高の仕事を果たした。旧来のジャンル(型番)を少々豪華にしただけのゲームしか作れない自称“クリエイター”連中は、『ゴーストトリック』を遊んでみるべきである。
ゲームクリア後に特にこれといってオマケもなし、ゲームそれ自体で勝負を挑んでくる。この切り詰めたシンプルさも気に入った。
プレイ時間:20時間15分
ダイヤモンドミッション以外コンプリート
このゲームの印象を説明すると、ただただふわ~と飛んでいることの気持ちよさだろうか。ただゆったりと飛び、眼下に見下ろす風景が流れていくのを見るのが楽しい。
といっても、ミッションの途中からゲームはかなり複雑になり、あまりゆったりとした気分になれなくなってくるのが残念だったが。欲を言えば、何の制約もなしに延々と空を飛んでいるだけの別モードが欲しかったかな、と思う。
プレイ時間:21時間44分
ノーマルモードで全ステージ勲章獲得。ハードモードはほとんど遊ばず。
世間一般的にNINTENDO64は負けハードと呼ばれ、あまり盛り上がらなかった、と評されるが、実際にはなかなかの名作タイトルが発売されていた。『スターフォックス64』もその一つ。任天堂はコナミのようにシューティングゲームを制作してきた歴史もないのに、どうしてここまでの良タイトルを作れたのだろう、と不思議に思う(そのコナミはシューティングゲームを作らなくなったけど)。
『スターフォックス64』もNINTENDO64時代から飛躍的にビジュアルが進化。細かいディティールがくっきりして見易くなった。惑星ゾネスで角の立つ波に機体が押し返される感じがかなりくっきりしたように思える。ニンテンドー3DSには振動パックなどないだが、映像だけで説得させられるものがある。オールレンジモードで敵・味方の区別が付きやすくなったのもありがたい。NINTENDO64の時は敵味方かまわず打ち落としていたような記憶がある。
NINTENDO64の時代、私はこのゲームを半年近くプレイ、間違いなくハードモード全ステージ勲章獲得したと思うのだが、ニンテンドー3DS版のほうは、どうしてもうまく行かなかった。夢中になって遊んでいた記憶も、指先が覚えてくれていなかったのだろう。実はニンテンドー3DS版を遊んで初めの頃、「機体が動く感触はこうだっただろうか?」と妙な違和感があった。時間がたつと、あれほどやりこんで指に染みついたと思っていたものもあっさりと消えてしまうのである。それが何だか寂しく思えてしまった。
このゲームも『ゼルダの伝説 時のオカリナ』と同じく音楽面は“完全再現”を謳っている。確かに“完全再現”には嘘偽りはないものの、やはりショボい。要塞破壊シーンの音が「ポコン! ポコン!」って。ダンボールのお屋敷を破壊したような印象である。“音”の面でもニンテンドー3DSの性能を見せて欲しかった。
プレイ時間:36時間13分
全コース星3つ獲得済み。
よく練りこまれたコース設計、Miiを含めた多彩なキャラクター、細かいカスタマイズ、旧作を再現したクラシックコース。どこまでも遊び込めるボリューム、遊び甲斐のあるゲーム設計。シリーズ最高傑作ではないだろうか。
特にMiiをゲーム中に使用できるのがいい。マリオやルイージと同じ性能だが、やはり自分と同じ顔をしたキャラクターがゲーム中で走っているのを見ると、感情移入の度合いが違う。このゲームを遊んだ後、もっとゲームの中にMiiを取り入れるべきだ、と真剣に考えるようになった。RPGなどの主人公にMiiが使えると、はまり具合も違うのではないかと思う。
私が最も遊び込んだ『マリオカート』シリーズはNINTENDO64版。クラシックコースでNINTENDO64版が再現されていたが、ここでもコースの奥行きがくっきり映し出されるのに感動した。今さらになって、あそこのディティールは本来こうなっていたのか、と思ってしまった。
1周だけで終わるコースもいい。どうして今までやらなかったんだろう。3周廻るのはよく考えるまでもなく“繰り返し”であるわけだから、どうしてもある時に面倒くさく感じることがある。しかし1周だけならば、しかもその1周がそれだけ遊び込める内容ならば、ありではないか、と。そう思っていたものが『マリオカート7』で実現した。
誰に勧めても問題ない作品である。ハードユーザーもライトユーザーもどちらも確実に取り込めて、同じライン上でほとんど不公平なく双方が楽しめるゲームである。誰かと集まって大騒ぎしながら楽しみたい時は、この作品を選ぶべきである。
しかし贅沢を言うならば……やはりダウンロードコンテンツで追加コースが欲しい。ダウンロードコンテンツを想定した作りになっていないから無理らしい、というのが残念だ。
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すれちがいMii広場
プレイ時間:9時間13分ニンテンドー3DS本体に最初から入っているソフトである。このシンプルなゲームを、誰がここまで長く遊ぶであろう、と想像できただろうか。
ところで、「ゲームの面白さとは何か?」と尋ねられた時、どう答えるべきだろうか。「ゲームそれ自体の品質」――という回答は間違いなく正解で、異議を唱える者は少ないだろう。ゲーム制作を専門にする人ならば、品質という言葉の中身について、もう少し突っ込んだ解説を加えてくれるだろう。
しかし、私は以前からこの回答は7割くらいが正解、と考えている。というのも、ゲームを得たばかりで夢中になって遊んでいた子供時代のことを思い出すと、ゲームに対する接し方がもう少し違ったように思い出されるからだ。
誰かの家に集まって、わーわー言いながら、誰かが持ってきた未知のソフトをファミコンに差し込んで「何だこれ! 何だこれ!」といちいち驚いたり、笑ったりしていたあの時の感動。「ゲームの面白さ」の原体験を遡っていくと、そういう風景に辿り着くように思えるのである。
それで、一つ一つのゲームについて、そこまでしっかり遊び込んだような記憶もない。当時のゲームは見た目も中身も悲しいまでに貧相で、一方の子供であった私にそれらをきちんと批評するだけの知恵も経験値もない。それでも、あの時代が何よりも輝かしいもののように記憶しているのは、やはりそういうのがとびきり楽しかったからだ。
だから「ゲームの面白さとは何か?」と尋ねられた時、7割くらいはゲーム自体の品質、あとの3割くらいは誰かと接して大騒ぎする時間、と私は答えるようにしている。
もっとも、そういう友人も、それだけのゆとりある時間も私にはもうないのだけど。
「人と接すること」「誰かと接すること」。『すれちがいMii広場』は不完全であるものの、誰かに触れられて楽しい、という瞬間を取り戻してくれたように思える。
『すれちがいMii広場』はすれちがい通信とMiiを利用したシンプルなゲームで終わってしまっているのが残念だ。すれちがい通信とMiiを利用した、もっと奥行きのあるソフトを遊んでみたい。
ドラゴンクエスト6
2011年4月4日購入プレイ時間:80時間53分
主要8キャラクターのみオールレベル99。8キャラクターのみ全職業コンプリート。
私にとって、スーパーファミコン最後のドラクエであった『6』は思い出深い作品。間違いなくスーパーファミコン最大のボリューム、最長のシナリオ。そろそろ新ハードの足音が聞こえ始めた時代だというのに、ここまで練り込んだゲームに圧倒されたし、ずいぶん愛着も感じた。スーパーファミコン版もかなりしっかり遊んだはずだが、それでもまだ奥行きがあり、作り手がプレイヤーに様々なものを要求してくるゲームに、唖然としたものである。
ある時、そういえば『ドラクエ6』がニンテンドーDSで発売されたんだっけ、と思い出して購入。懐かしい思い出に浸ろう、というわけである。
しかし……何だろう、スーパーファミコンの『ドラクエ6』はこうであっただろうか? 妙な違和感があるように思えた。他のシリーズ作品に対して、冒頭からやや難易度が高め。シナリオもこうだっただろうか。当時はあのシナリオにずいぶん感情移入して進めたのだが、当時ほどの感動は得られなかった。
う~ん、思い出補正だったのかなぁ。『ドラクエ4』や『ドラクエ5』のリメイク版は、当時の印象からほとんど変わらなかったのに。
特に、結末はあんな感じだっただろうか。エンディングがどうしても尻切れトンボな感じで物足りない。ひょっとして、裏エンディングに行けば、何か違いがあるのかも、と思ってレベル99まで上げて裏ボスを倒すもののエンディングに変化はなし。
やっぱり思い出は思い出なのだろうか。
いまいち関係のない話だが、ある時ネットで「トルネコは使えない! 何であんなデブが導かれし者だったんだ?」という話題が盛り上がっていた。ざっと読んだものの誰も正解を書くことができなかったようなので、ここで補足しておこうと思う。
トルネコは強い!
証拠として、レベル99データの画像を張り込んでおく。一目してわかると思うが、全てのデータでライアンよりも強い。レベルアップ時の確率、と指摘されそうだが、私は3つのデータ全てをレベル99まで上げたが結果は同じだった。防御力もあるので、前衛の盾として、肉弾戦の切り込み役として、充分に活躍するキャラクターである。しかもトルネコは、敵のアイテムを盗むという特殊スキルを持っている。おかげで資金の足しになる武器防具や、確率は低いものの「力の種」や「守りの種」なども手に入れてくれる便利キャラでもある。
もっとも、(ルックスを含め)あらゆる面で鉄壁のアリーナには及ばないが。
ゼルダの伝説 時のオカリナ 3D
2011年6月21日購入プレイ時間:46時間
すべてのハートのかけら収集済み。ボスオンパレードのみクリアできず。条件厳しすぎ……。ミラーモードはプレイせず。
名作とは『ゼルダの伝説 時のオカリナ』のことである。ゲーム、ビジュアル、サウンド、演出、すべてにおいて比類なき傑作。そろそろ辞書に、名作の指し示すものとして『ゼルダの伝説 時のオカリナ』について書き加えるべきである。
その名作が、ニンテンドー3DSに復活。しかも当時よりビジュアルはより美しく刷新。NINTENDO64の時はハードの性能限界のため、全体に雲がかかったようなぼやけた印象だったものが(あれはあれで美しかったが)、何もかもくっきりして、ハイラル平原の奥の奥までくっきりと見渡せるようになった。NINTENDO64とニンテンドー3DSの性能差に示すためのいい材料になっている。
やはり2画面表示はよかった。「ゲームの問題」と言えば、「ウインドウを開くこと」である。「ウインドウを開く」とゲームは完全ストップとなる。メイン画面は一時的に隠され、そのぶんゲームの進行はゲームの中心から遠ざかってしまう。ゲームが複雑になっていく過程で、この「ウインドウを開く」行動が確実にストレスになっていた。ゲームが複雑になるとウインドウ画面自体がやや重く、開くまでに時間がかかったり、しかもそれを頻繁に開かなければならないとなると、ゲームそのもののリズムを崩してしまう。NINTENDO64版の『時のオカリナ』の欠点を挙げろと言われれば、間違いなく「ウインドウを開くこと」であった。『ゼルダ』シリーズの基本であるが、何度もウインドウを開き、閉じなければならない。頻繁に繰り返す必要のあるアイテム交換、複雑すぎるために何度も確認しなければならないマップ。そのたびに、ゲームは一時中断になるのである。
しかし、2画面表示のおかげで、このストレスがかなり緩和された。2画面のおかげで、ウインドウを開閉する回数は確実に減った。
ニンテンドー3DSはNINTENDO64と比較してボタン数は少ないが、タッチスクリーンにアイテムをストックし、それをタッチして使えるのでむしろ操作を快適にしてくれた。マップ表示がデフォルトなのも嬉しい。マップ画面を開く面倒がなくなった。視線さえ動かせばいいのである。
『時のオカリナ』は2画面になることで、確実にゲームの完成度を上げたと言える。
ただ音楽だけは当時のまま。“完全再現”といえば完璧な作りなのだが、せっかくだからニンテンドー3DSの性能を利用した豪華な音源を聞いてみたかった。特に音響面は最近のゲームとしてはあっさりしすぎ。ガノン城崩壊シーンの破壊音が「ポコン! ポコン!」って……。
ゴーストトリック
2011年9月5日購入プレイ時間:13時間42分
冒頭の場面で、いきなり主人公死亡。物語はたった一晩だけ。
という始まり方で、どんなふうに物語が進むのだろう。しかも“たった一晩で終わる物語”。これだけで読者を満足させるだけの厚みのある物語を作れるのだろう? ハードル高く作りすぎていないだろうか。
懸念づくしでゲームを始めたものの、最後にはひれ伏していた。巧舟のシナリオは完璧だった。作り手側として制約だらけに思えた基本設定をうまく利用し、まさかあれほどの世界観を押し広げてくるとは。ストーリーとゲームルールの連携も見事である。このゲームでしかあり得ない独自性を持ち、ゲームルールと物語がきちんと意義をもって調和している。平面的に作られたビジュアルも個性的で美しく、これも見事だ。ゲームが終わるまでに何度も「巧い!」と声を上げたくなる作品であった。
巧舟はゲーム作家として、シナリオライターとして最高の仕事を果たした。旧来のジャンル(型番)を少々豪華にしただけのゲームしか作れない自称“クリエイター”連中は、『ゴーストトリック』を遊んでみるべきである。
ゲームクリア後に特にこれといってオマケもなし、ゲームそれ自体で勝負を挑んでくる。この切り詰めたシンプルさも気に入った。
パイロットウイングス リゾート
2011年9月15日購入プレイ時間:20時間15分
ダイヤモンドミッション以外コンプリート
このゲームの印象を説明すると、ただただふわ~と飛んでいることの気持ちよさだろうか。ただゆったりと飛び、眼下に見下ろす風景が流れていくのを見るのが楽しい。
といっても、ミッションの途中からゲームはかなり複雑になり、あまりゆったりとした気分になれなくなってくるのが残念だったが。欲を言えば、何の制約もなしに延々と空を飛んでいるだけの別モードが欲しかったかな、と思う。
スターフォックス64 3D
2011年10月25日購入プレイ時間:21時間44分
ノーマルモードで全ステージ勲章獲得。ハードモードはほとんど遊ばず。
世間一般的にNINTENDO64は負けハードと呼ばれ、あまり盛り上がらなかった、と評されるが、実際にはなかなかの名作タイトルが発売されていた。『スターフォックス64』もその一つ。任天堂はコナミのようにシューティングゲームを制作してきた歴史もないのに、どうしてここまでの良タイトルを作れたのだろう、と不思議に思う(そのコナミはシューティングゲームを作らなくなったけど)。
『スターフォックス64』もNINTENDO64時代から飛躍的にビジュアルが進化。細かいディティールがくっきりして見易くなった。惑星ゾネスで角の立つ波に機体が押し返される感じがかなりくっきりしたように思える。ニンテンドー3DSには振動パックなどないだが、映像だけで説得させられるものがある。オールレンジモードで敵・味方の区別が付きやすくなったのもありがたい。NINTENDO64の時は敵味方かまわず打ち落としていたような記憶がある。
NINTENDO64の時代、私はこのゲームを半年近くプレイ、間違いなくハードモード全ステージ勲章獲得したと思うのだが、ニンテンドー3DS版のほうは、どうしてもうまく行かなかった。夢中になって遊んでいた記憶も、指先が覚えてくれていなかったのだろう。実はニンテンドー3DS版を遊んで初めの頃、「機体が動く感触はこうだっただろうか?」と妙な違和感があった。時間がたつと、あれほどやりこんで指に染みついたと思っていたものもあっさりと消えてしまうのである。それが何だか寂しく思えてしまった。
このゲームも『ゼルダの伝説 時のオカリナ』と同じく音楽面は“完全再現”を謳っている。確かに“完全再現”には嘘偽りはないものの、やはりショボい。要塞破壊シーンの音が「ポコン! ポコン!」って。ダンボールのお屋敷を破壊したような印象である。“音”の面でもニンテンドー3DSの性能を見せて欲しかった。
マリオカート7
2011年12月4日購入プレイ時間:36時間13分
全コース星3つ獲得済み。
よく練りこまれたコース設計、Miiを含めた多彩なキャラクター、細かいカスタマイズ、旧作を再現したクラシックコース。どこまでも遊び込めるボリューム、遊び甲斐のあるゲーム設計。シリーズ最高傑作ではないだろうか。
特にMiiをゲーム中に使用できるのがいい。マリオやルイージと同じ性能だが、やはり自分と同じ顔をしたキャラクターがゲーム中で走っているのを見ると、感情移入の度合いが違う。このゲームを遊んだ後、もっとゲームの中にMiiを取り入れるべきだ、と真剣に考えるようになった。RPGなどの主人公にMiiが使えると、はまり具合も違うのではないかと思う。
私が最も遊び込んだ『マリオカート』シリーズはNINTENDO64版。クラシックコースでNINTENDO64版が再現されていたが、ここでもコースの奥行きがくっきり映し出されるのに感動した。今さらになって、あそこのディティールは本来こうなっていたのか、と思ってしまった。
1周だけで終わるコースもいい。どうして今までやらなかったんだろう。3周廻るのはよく考えるまでもなく“繰り返し”であるわけだから、どうしてもある時に面倒くさく感じることがある。しかし1周だけならば、しかもその1周がそれだけ遊び込める内容ならば、ありではないか、と。そう思っていたものが『マリオカート7』で実現した。
誰に勧めても問題ない作品である。ハードユーザーもライトユーザーもどちらも確実に取り込めて、同じライン上でほとんど不公平なく双方が楽しめるゲームである。誰かと集まって大騒ぎしながら楽しみたい時は、この作品を選ぶべきである。
しかし贅沢を言うならば……やはりダウンロードコンテンツで追加コースが欲しい。ダウンロードコンテンツを想定した作りになっていないから無理らしい、というのが残念だ。
続きを読む
■2012/07/17 (Tue)
シリーズアニメ■
「漫画は漫画として読めばいい。どうしてアニメにするのか!」
アニメにする必要性があったかどうかは、後々見ていた人々によって判定されるだろう。
このアニメは、女の子のかわいさをお楽しみいただくため、邪魔にならない程度の差し障りのない会話をお楽しみいただく番組です。
というのは建前で、実際には対話こそがこの作品の中心的テーマであるようだ。
原作は久米田康治がネームまでを担当し、それ以降の作業をイラストレーターのヤスが請け負う、という役割分担で描かれる漫画である。ベテラン作家にネームまで描かせ、それまでもっとも重要とされていたキャラクターを別作家に描かせる、というなかなかユニークなシステムで描かれている。漫画とはキャラクターであるのか、それともネームであるのか。漫画家の場合、本質がどこに現れてくるのか、面白い謎かけを解く切っ掛けになる作品である。それ以上に一歩推し進めれば、作家の性質によっていかに分担させ、あるいは共演させるべきなのか、これからの“漫画”のテーマを一歩先んじた作品であるといえる。
『じょしらく』は落語家の少女が主人公であるものの、落語は特に重要なモチーフではない。舞台は楽屋であるが、楽屋という特異性は重要視されず、少女たちも和装姿であるが、これはただその場所と符号させるための変異的な制服といったところで、やはり重要というわけではない。
あくまでも『じょしらく』は会話劇である。誰かがネタを振り、誰かが掘り下げ、誰かが方向性をねじ曲げ、誰かが流れをぶった切る。『じょしらく』の基本ルールは、いかに馬鹿げたあり得ない話であっても絶対に否定しない、全員が話に参加し、ロールプレイを演じる。それが実際あまりにも馬鹿げているからこそ、笑いが巻き起こるわけである。
笑いとは常識的、社会的条理からの脱線と引き戻しのバランスによって引き起こされる。そこでいかに意外性を持ったユニークさが引き出せるかで、笑いの質が決定される(“恐怖”を演出する場合の方法論もほぼ一緒である)。ただ訳のわからないことをいくつ並べても笑いにはならないし、形式化された言葉や状況を展開させても、それは笑いのセオリーではない。
『じょしらく』いや久米田康治の笑いは、ほとんど今現在の社会的なものから拾い上げられている(故に風刺作家と呼ばれる)。現在系で起きている事件や傾向をえぐり出すように批評を加えつつ、あるいは作者の幅広い知識から偉大な賢人の言葉や法則性が拾い上げられ、それらは風刺ネタと奇妙な化学反応を引き起こし、理想的ともいえる笑いの脱線を展開させる。
『さよなら絶望先生』ではネタの羅列と風刺だったが、『じょしらく』の場合ではキャラクターがとことん演じる、という違いがあるようだ。
近年ありがちになった、ネットに散乱している言い回しや誰かが何度も繰り返したネタを羅列するだけの作品とは趣旨が違う。『じょしらく』はネームの中に、久米田康治のオリジナリティが強烈に表れている。
映像制作がシャフトでなくて良かった、と私は密かに思っている。近年のシャフトは、原作漫画のコマをそのままトレースして、何の工夫もなく色だけ塗って画面上にアウトプットするいい加減な手法で映像を制作してきた。動画の質も、目に見えて低下している。構成はボロボロで、見るに堪えない作品を乱発してきた。一方で『じょしらく』はクオリティに問題のあるJCスタッフである。第2話の段階でも、動画の精度や指先のトレースに崩れが見られた。どこまで品質を維持できるか、不安なところである。
アニメ『じょしらく』は尺の長さに合わせて、複数のエピソードがまとられているようだ。第1話Aパート『普段問答』は、原作第2巻特別編として収録された『ふだん問答』を中心としているが、冒頭の「漫画は漫画として読めばいい……」の台詞は第4巻「30日目/ちょいたし講釈」から採られている。アニメとして見易い話を、うまくまとめられているといえる。
舞台は原作通り楽屋から一歩も外に出ず、対話だけで物語が進行する。自然と構図は人物が中心になる。ほとんどのカットにキャラクターが登場し、何かしらの発言しているといった状態である。人物の構図の切り取り方は、顔、首、胸、腰、股間、膝、くるぶし、と“関節”で切る方法が一般的であるが、それでもパターン化されやすく、うっかりすると“ありきたりな構図の連続”になる難しいところである。
また『じょしらく』特有の所作として、キャラクターたちが“地面に直接座っている”ということが挙げられる。あるいは、正座である。正座した姿勢での演技がキャラクターの動きの基本となっている。
和装姿であるから、歩き走きの動画であまり膝を上げられない、という特徴もある。アニメーターは和装での歩き方、走り方の研究をしなくてはならない。
キャラクターは最近のアニメとしては珍しく、フィルターの効果に頼らず、基本的な色彩だけで描かれている。線と色彩が中心で、今どきの傾向と比較する単調に見えるし、動きや構図の描き方次第で映像が弱くなる可能性を孕んでいる。映像としての力強さは、むしろいかに原画/動画の質を保っていけるかにかかっているだろう。
音楽は現代的な楽器だけではなく、趣を感じさせる音色を中心に採用されているが、いかにも伝統的な単調さを強調させるふうでもなく、またコメディ作品にありがちな騒々しさも避け、静かに穏やかな調子で背景を支えている感じである。
出演俳優は原作漫画の限定版に付いていたドラマCDを1代目として、アニメ版は“2代目”という扱いになっている。1代目はすでに名の知れているベテランが中心だったが、2代目は新人が中心、後藤沙緒里だけが1代目からの続投で、一番のベテランとなった。
意外だったのは、冒頭の場面でキャラクターがちゃんと落語を演じていたことだろう。背景がしっかり描けている。第1話の冒頭場面、落語の終わり際の場面が演じられ、舞台袖に下がるまでの所作を、フルコマで妥協なく描かれている。原作とは異なり、落語をきちんと描こう、というアニメ作家側の意識を感じさせる。
原作における落語の場面と言えば「お後がよろしいようで」の一言だけだったが、アニメ版ではもう少し手前の、何を演じていたかわかるくらいまでは描かれている。
モデルとなっているのは【新宿末廣亭】で間違いないだろう。アニメの一場面とグーグルビューを比較すると、ほぼ一致した。寄席だけではなく、周囲の町並みまでそのまま描かれている。場所を特定し、落語の文化を映像の背景に置かれる骨として描こうとしたのだろう。また寄席そのものの解説が加えられたのは意外だった。
毎回Bパートは原作から趣旨を変え、楽屋の外に出るようである。第1話では寄席の周囲を、第2話ではなぜか東京タワー観光。脚本はほぼ完全なオリジナルである。
第1話でみんなが集まってくる場面で一同が着ている衣装は原作第2巻のおまけページに描かれた、ヤスが想像する一同の日常の場面から採られている。第2話の衣装は、原作第4巻目次ページ手前のページに描かれているものを手本にされているようだ。
Bパートは毎回短く、4分から5分と幕間劇のような趣だが、原作を詳しく読み込んでいる者にとっても、なかなか新鮮味のある映像になっている。
あまり知られていない話だが、動画マンは何も指示がなかった場合、原画と原画の間を何を描いてもいいのである。左の例は、原画コマがすでに正面を向いているから、原画の指示通りの動画であるが、時々動画マンの遊び心で突飛な絵が入っていたりすることもある。
『じょしらく』は基本的に楽屋から外に出ることはない。アニメでは時々、外に出るようだ。原作のルール付けを絶対視するわけではなく、柔軟に、自然な脚本の流れに沿って映像を組み立てているようだ。
原作漫画とアニメを比較すると、映像を組み立てる方法論に違いが見られる。アニメはアニメで、妥当といえる脚本と構図の作り方が実践されているようだ。
しかしだからといって、本当に映像化する価値があったのか。舞台は一つだけ、特に動きの必要のない会話劇の映像化。
映像作家の力量は、ここで示される。映像作品として有無言わせる映像の力があれば、その時には『じょしらく』にアニメ化の意義があったのか判断されるだろう。会話劇でも描き方次第で、人を惹き付ける名作になり得る。アニメ『じょしらく』はまだまだこれからである。
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作品データ
監督:水島努 原作:ネーム・久米田康治/作画・ヤス 監修:林家しん平
キャラクターデザイン:田中将賀 シリーズ構成:横手美智子
美術監督:柴田千佳子 色彩設計:村永麻耶 撮影監督:大河内喜夫
編集:西山茂 音響監督:岩浪美和 音楽:横山克
アニメーション制作:J.C.STAFF
出演:小岩井ことり 山本希望
○ 佐倉綾音 南條愛乃 後藤沙緒里