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■2013/10/13 (Sun)
『凪のあすから』は朝の風景から始まる。少年が慌ただしく朝食の準備をしている。上半身裸なのはきっと暑い夏だからだろう。
ごく普通の日常的な風景に見えて、何かがおかしい――。空中を魚が漂っているし、テレビの中では天気予報の代わりに“潮予報”が流れている。少年は籠の中に入れた青い炎をコンロに移して、強火にしている。それに、画面がじわりと青い。
少年が家から外に飛び出した瞬間、違和感の正体が明らかになる。空一杯にただよう魚の群れ。空の向こうには水面が描かれ、さらに向こう側に“地上”がちらりと見える。
そう、そこは水の中。少年たちは水の中に街を作り、住んでいる人達だったのだ。

『凪のあすから』は地上と水中、二つの世界が交差する物語である。地上の街は間違いなく現実に存在すると思われる日本の街だ。一方、水中の「海村」は絶対にあり得ない空想の街でありながら、どこか非現実と言い捨てるわけにはいかない高密度に作られた世界観である。
海村はかなり傾斜のきつい町で、正面から見ると瀬戸内に見られる町のように全体が立ち上がっているように見える。接近してみると、入り組んだ階段が斜面を這うように登っていて、尾道を連想させる。白漆喰を中心にした風景に、青いペンキと茶煉瓦が少しずつ混じって、色の印象は爽やかだ。配色は笹倉鉄平の絵画を感じさせるものがある。町の外縁に建設途中で放逐された高速道路の柱が描かれているが、これがクロード・ロランの絵画に描かれるギリシャ風柱を連想させる。高速道路としては柱が細すぎるので、おそらくはオブジェとして描かれているのだろう。
町全体のシルエットはイタリアのアマルフィ海岸が参考にされていると推測されるが、細部は明らかに日本のもので作られている。日本の植物に、日本語の表記の入った、日本でよく見られる標識や看板、日本的な衣装を着た人達、石畳も日本で見られるものが使われている。全体のイメージはイタリアのアマルフィ海岸やクロード・ロランの絵画といったものが参考にされているが、細部はあくまでも日本のもの、日本に極めて近い文化様式を持った風景が作られている。様々なものを参考にしながら、描き手の理想がそこに込められた世界となっている。
地上の世界は間違いなく実在する日本の風景だ。海村は異世界でありながら、その日本の風景と現実的な地続きを感じさせる空間として構築されている。日本と深い関連を持ち、明かな接点を持って発展していきながら、しかし地上とは明らかに異なる文化様式が創造されている。
トールキンが完全な異世界を作り上げ、自ら“準創造”と呼んだが、『凪のあすから』が試みた創造は、それよりもかなり現実世界と接点を持った、シミュレーション的な発想で世界が作られている。このあまりにも見事な創造に、私は手放しの賞賛を送らねばならない。

海村の住民は一見するとごく普通の人間として描かれているが、細かなところで地上人物との差異が作られている。
まず目の色。瞳も縁の線も、青で描かれている。少し緑が混じった青だ。BLブラックが使用されていないので、少し色が抜けたような淡い印象がある。これが制服の青の色彩と関連を作り、なかなか美しくまとまっている。
瞳の中には3種類のハイライトが使用されている。瞳のもっとも暗い部分と重なる一番大きなハイライト。最近、色んなアニメで見かけるようになった表現方法だ。点々と打たれたハイライトは2つの色パターンが使われている。
海村キャラクターの中でもっとも瞳が大きく描かれるのは向井戸まなかだ。向井戸まなかが斜めに顔を向けた時、瞳の形は水滴を連想させるような歪み方をする。向井戸まなかのような大きな目を持った生き物の瞳がこのように歪むと思えないが、瞳の内部に描かれた瞳孔、ハイライトで立体的なイメージが表現されている。アニメ特有の様式的な表現といえるだろう。
水中世界は全体が青みがかった色調が使われる。おそらくは仕上げまでは通常に作られ、撮影段階で全体を青くするフィルターが使われていると推測される。同じ色を比較してみると、下の画像のように海の世界がやや青くなっているのがわかる(向井戸まなかの肌の影色を比較している)。実線はもちろん黒で描かれているが、このフィルターを使った場合、不思議と線が青く浮き上がってくる。どういった効果によるものなのかはわからないが、海世界独特の雰囲気が演出されている。


一方、地上世界は海岸沿いの風景らしく、夥しい量の錆で覆われている。この錆は、美術スタッフの手によるものではなく、デジタル貼り込みによるものではないだろうか。錆だけではなく、雨の跡や、海風でかすれた看板文字や、様々なものが一杯に貼り込まれた上で完成形にしている。
P.A.WORKSを印象づけているものといえば、高品質な背景であり、背景美術の見事さが、作品の品格を間違いなく底上げしているといえるだろう。もちろん、個々の美術スタッフのポテンシャルの高さがこの世界観を支えているのは間違いないが、やはり撮影スタッフの存在を、あるいは撮影スタッフの連係プレーを無視して語るわけにはいかないだろう。
 P.A.WORKS作品には常にどこかしらに光が当たり、深くはないが爽やかな印象を持ったコントラストが描かれているが、この光の効果も撮影スタッフが底上げしているものだろうと考えられる。この光の効果が的確だから、平面上に書かれた絵画に過ぎないものを実写的な印象にしているのだろう。
細かく見てみると、光は太陽の位置だけではなく、壁や床に当たって反射しているところまで作られている。コントラストも場面設計に合わせて再調整されているようだし、奥行きにもピントの調整が加えられている。これらが元々完成度の高い背景美術をより高品質なものにしているのだろう。
それから雲の描き方だ。同じ場面では同じ雲が描かれ、雲の位置でキャラクターがどの方向を見ているかわかるし、またキャラクターと雲がどのような連携を持つかでシーンの心情を表現している。雲が単に書き割りではなく、シーン全体の設計に対して重要な役割が与えられている。

物語は波路中学廃校のため、海村の少年少女が陸上の学校、美濱中学校に通うようになったというところから始まる。そこで向井戸まなかが木原紡と“特別な出会い”を経験してしまう。
これは中学生――思春期の少年少女の物語だ。古里の海世界を離れて地上に出るというシチュエーションは、外の世界に歩み出そうとする少年少女の身体的心情的移り変わりを表現したものだろう。
そこで、向井戸まなかは木原紡という風変わりな少年に恋をする。しかしまなかはうろこ様に呪いを受け、膝に奇怪な魚を付けられてしまう。これはおそらく、初潮の暗喩だろうと考えられる。初潮でなくても、向井戸まなか自身にコントロールできないものの芽生えの象徴――すなわち“性欲”である。
またこの呪いが、神さまポジションのうろこ様が与えるもの、というところも象徴的である。人間の理性ではどうにもならぬもの、内なる声=神、というわけだ。
もっとも、そういった性的なモチーフが露骨に描かれているわけではない。膝に受けた魚の呪いは、先島光には明かせるけど、他の誰にも明かせない。この段階では二人だけの秘密として描かれていた。二人だけの秘密、という絆の強さというモチーフでも利用されている。この秘密を共有して、先島光は喜んでいる。
しかし、向井戸まなかは不本意とはいえ木原紡にこの秘密を明かしてしまう。向井戸まなかは木原紡がこの秘密を受け入れたことに喜ぶ。2人きりだけの秘密だったところに木原紡が割り込んできて、先島光は怒りを覚える。この怒りははっきり嫉妬だ。
『凪のあすから』はオーソドックスな恋愛ストーリーと見てもいいだろう。しかし現実的に見えるこの物語はファンタジーでもある。海村の人間が地上の人間に恋をすると、追放されるのである。その暗い実例を、先島あかりというキャラクターに演じさせている。現実的な世界を背景にしているが、少しずつ非現実的なルール付けが物語に混入しているのだ。そういうところで、ファンタジー空間を作り出したことに意義が現れてきている。
思春期の恋愛と性――。第2話で、先島光は寝ようとする直前に向井戸まなかの姿を想像する。ただしその姿は裸。裸が描かれたのはただのイメージではないだろう。先島光が向井戸まなかに抱いている性的な欲望……もっとも、それが光自身に明確な自覚として現れているかまだわからないが。
海と陸の異文化恋愛。日本が古来から描いてきた異類婚姻譚の物語であり、思春期の性と恋愛の物語であり。性に関するモチーフがどこまで描かれるかわからないが……最後まで暗喩程度の描写になるか、どこかで表面的な理性が転落して性欲に飲み込まれるか……しかし芽生え始めた性に対する感覚が、恋愛をはじめようという行動と無関係ではないだろう。
異類婚姻譚というファンタジーであり、現実的な思春期の恋愛を描いた物語であり。『凪のあすから』は思った以上に多重的に世界観を構築する狙いがありそうである。

『凪のあすから』は恐ろしく入念に作り込まれた世界観に裏打ちされた映像作品である。一見すると、海の世界はなんのために作られたのだろうか――と思わせるが、異世界というモチーフが『凪のあすから』を標準的な恋愛物語から少し特殊なものに変えている。恋愛をすると追放されるという罰が与えられるという不安。それはお伽話的なルールだけど、高度に作り込まれ考証が行き届いた世界観だから、現代の物語として自立可能なものにしている。
お伽話を、現代を背景にした世界観の中で再現する。もちろんそこには現代的な視座も加えられている。思春期の葛藤や苛立ち。お伽話的な異類婚姻譚でありながら、青春ストーリーという要素も絡みついてくる。より複雑化し、現代的な高度さを持ったお伽話、というふうに表現するべきかも知れない。
『凪のあすから』のストーリーが、もしかすると日本人がずっと深い所に抱き続けていた精神を呼び起こすかも知れない。

続き→とらつぐみTwitterまとめ:作品紹介補足

作品データ
監督:篠原俊哉 原作:Project-118
シリーズ構成:岡田麿里 キャラクター原案:ブリキ
キャラクターデザイン・総作画監督:石井百合子 キーアニメーター:高橋英樹
美術監督:東地和生 美術設定:塩澤良憲 撮影監督:梶原幸代
色彩設計:菅原美佳 3D監督:平田洋平 特殊効果:村上正博
編集:高橋歩 音楽:出羽良彰 音響監督:明田川仁
アニメーション制作:P.A.WORKS
出演:花江夏樹 花澤香菜 茅野愛衣 逢坂良太
   石川界人 名塚佳織 鳥海浩輔 小松未可子 石原夏織

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■2013/10/12 (Sat)
纏流子は真っ直ぐに伸びるその道の途上に立ち止まって、そこから見える風景を睨み付けた。足下には白く濁った空気が悪臭を放ちながら絡みついてくる。街はピラミッドのような三角錐の形を作り、その斜面にしがみつくように建物がひしめいていた。その頂に当たるところが逆光の輝きで黒く浮かんでいたが、にわかに浮かび上がってくるシルエットが、街を取り巻いている統制が行き届いるがグロテスクに感じさせる歪さを象徴しているように思えた。
あそこにあるのが本能字学園鬼龍院皐月が統率する学園で、この学園がそのまま街の全てを支配し統率し、その統率はまさに暴力と理不尽による圧政だった。
あそこなら手がかりが掴めるかも知れない……。纏流子は父を殺害し、片太刀鋏を残していった謎の人物を追っていた。父の仇を求め、関東を放浪した挙げ句、ようやく流れ着いたのがあの本能字学園だった。
纏流子は決意を改めて、街へ至る道へと一歩足を進めた。

『キルラキル』はここ数年のアニメ史を俯瞰してみても、間違いなく突き抜けた個性を持った作品だ。そのアートワークの特殊さは、もはや正気ではないと言ってもいいかも知れない。
物語の構造はいたってシンプルだ。
本能字学園は学園のみならず、街そのものを独裁的な支配状態においていて、街の人達の階級は“制服”で決められる。“征服”と“制服”をかけたシャレだし、「学園ものといえば制服」というファクターをうまく読み替えている。また制服と身分という連なりに捕らわれる日本人の感覚に対するアイロニーにもなっている。
階級が高くなると“極制服”と呼ばれる制服が与えられ、この制服を身につけると特異な能力を得ることができる。この極制服には3つの段階があり、最上級は三つ星。三つ星は生徒会メンバーである“本能字学園四天王”のみに与えられ、学園を統率していた。二つ星が与えられるのは各運動部の部長たちで、彼らは本能字学園四天王の命令に従い、日本中を支配下に収めるための闘争を繰り広げている。
この学園の圧政に纏流子がたった一人で立ち向かうストーリーだが、纏流子が武器とするのは片太刀鋏。これは対極制服用に開発された武器だ。制服を切り裂くからハサミを武器にする……実に理にかなった連想だし、名前を見るとハサミだけではなく“太刀”の語が入っているのが面白い。この片太刀鋏で敵を粉砕し、極制服を切り刻むと、画面には大きく“繊維喪失”の文字が浮かび上がる。これも戦意喪失をかけたシャレだ。
“征服”と“制服”。この制服を裁つために片太刀鋏を使い、“繊維喪失”、すなわち“戦意喪失”させる。アニメといえば学園もので、学園ものといえば制服……。この構図をうまく変換させ、制服を物語構造の中で意味のあるものとして機能させ、さらにこれを粉砕するストーリーを作り出す。シャレといえばそれまでだが、制服と粉砕という構造に鮮やかな連なりを作った発想に脱帽だ。
このシンプルに視覚化された設定を解説するのに、『キルラキル』が必要とした時間はわずかに4分。誰が見ても明らかなストーリーで、あまりにも豪快に突き抜けたビジュアルの凄まじさに、あっという間に映像世界に引き込まれてしまう。


この物語や人物のシンプルさが、映像作家たちがいかに物語やアクションを壮大かつ強烈に語り描き上げるか、という課題に躊躇わず集中できる素地を作っている。
映像を見てただちに気付くのは、画面全体を覆っている白い霧状のものである。おそらく2通りの描き方があり、キャラクターの足下を沈殿している白いガス状のものはブラシ状の筆で擦るように描かれたものだろう。これをデジタル処理して半透明にし、動きが与えられる。
もう一つはざらつきのあるタッチはコンテで描かれたものだ。これは頭上から射し込んでくる光などに使用され、コンテでざっと描いた上に光処理が加えられている。
これらはかつてハーモニー処理と呼ばれる技法の記憶を元にしている。ハーモニー処理とはアクションの決めとなるカットやエピソードの最後となるカットに、セル画に美術スタッフが印象深い厚みを加え、叙情的な印象を与える技法である。
もちろん『キルラキル』で使用され、画面全体を取り巻いているこのざらつきは、正確にはかつてのハーモニー処理とは別様のもので、あくまでも“それらしき記憶”を再生させるものである。まずいってハーモニー処理の光はあんなふうに輝きが与えられることはなかったし、それ以前にノーマルな画面の中に部分的にハーモニー処理が加えられることはなかった。
おそらくは作品にいいようのないざらつきを与えるために考え出されたもので、さらに作品が目指している古っぽさを演出するための効果だ。このざらつきは風景だけではなく、アクションの最中でも常に画面のどこかに書き足されている(もちろん背景美術にも使われている)。この試みは間違いなく成功し、映像を同時代ではまずあり得ない個性的なものにしている。

そのハーモニー処理は劇中で使用されている。
アクションの決めの瞬間など、まさにかつてアニメが使用していたのと同じタイミングで使われる。ハーモニー処理した縦構図の絵を、何度も上下にPANする。完全再現だ。
画面を仰々しく彩るだけではなく、作品の個性を倍加し、さらにはこれが一つのパロディとして笑いを誘う要素にしている。

独特なのはハイライトの効果だ。十字の光が記号的なモチーフとなって画面を彩っている。
この十字の光は、「クロス・フィルター」と呼ばれるものを元にしていると考えられる(アニメでは「ピンホール透過光」とも呼ばれる)。「クロス・フィルター」は光を十文字に輝かせる手法のことで、実写撮影でもよく使われるし、アニメではオープニングアニメーションでヒロインが散らす涙を浮き上がらせるために今でも伝統的に使用される。
『キルラキル』ではこのクロス・フィルターの光をデザインとして意匠化している。この意匠化された十文字の光にも独特のざらつきが与えられ、やはり作品の個性を倍加している。
またこの意匠化された十文字というモチーフは、『エヴァンゲリオン』などに多用された原ガイナックス的なモチーフとも推測できるかも知れない。

『キルラキル』にはしばしばスライドが使用される。『キルラキル』は豪快な動画が描かれることが多いが、あえてスライドを使用し、動きを単純かつ象徴的にすることで、そのギャップに笑いを作り出すことがある。ゆえに、キャラクターのスライドはギャグとして使用されることが多い。
右に掲げたような動画の場合、首をぐるぐる回す動きは「ローリング」と呼ばれている。「ローリング」は主に歩き動画などをクローズアップした時、頭の部分を「ローリングするように動かす」という指示をする場合に使用される。

古いアニメのスタイルが意識された『キルラキル』だが、現代の技術がない限り絶対に不可能な“豪快な動画”がいくつも描かれている。右に掲げたカットは、画面全体がぐるぐる動き回る、ほとんど正気とは思えない動画だ。
デジタルとの併用で描かれる場合が多いが、右のカットはおそらくデジタルは使用されていない。もの凄い速度で流れていく地面はデジタルではなく背景美術が1コマ1コマ描き起こしたものだ。
カメラが方向を変える瞬間、カメラの位置は少し上に上がってキャラクターのみを捉え、その間にカメラを回し、再び地面が映り、キャラクターが地面に激突する場面が描かれる。一番奥に見える校舎は、ひたすら右へPANし続けられるように描かれた長大な一枚絵だろう。
もちろん『キルラキル』にはデジタルを併用した豪快なカットが多く描かれ、それがハーモニー処理されたカットとの連続的な関係を作り、一連のカットの流れが強烈な印象を作っている。

『キルラキル』はかつてのアニメへのオマージュが捧げられている一方、パロディとしても取り上げられている。作中にはしばしば、右(あるいは左)にキャラクターの顔面を置いて、対象を見詰めている場面が描かれる。見て明らかなように、対象と顔との距離は完全に無視されて、同一カットに置かれている。
これはギャグ漫画などで、ボケるキャラクターと突っ込むキャラクターを同一のカットに収めるために多用された構図だ。硬派なアクションばかりではなく、ギャグ漫画からも構図が引用されている。

色彩にはくすんだ印象の、中間色が使用されている。これは撮影技術が今ほど高度でなかった時代の、画像がまだ不鮮明だった頃の記憶を再現したものだ。
アニメがデジタルと出会う以前は、一部の劇場アニメーションは別にしてほとんどのテレビアニメはあまり鮮明な画面を作り出せなかった。アニメカラーも豊富ではなく、最終的にアウトプットされた画像は、青くあるいは赤くくすんで見える場合もあった。
これを『キルラキル』は現代の鮮明に描き出せる技術を持って、一個のスタイルとして再現してみせる。

『キルラキル』を特徴付けているのは現代の様々な技術・技法の産物だが、キャラクター……とくに“線”の描き方は描き手の感性に委ねられている。
それが顕著に現れるのは満艦飾リコだろう(おそらくキャラクターとしても自由さが仮託されているからだろう)。正面顔でも左右のバランスに大きく歪みが出ている。普通のアニメの場合、この左右の歪みは時間をかけて丁寧に修正がかけられる。キャラクターの顔が左右歪んで見えることほど無様な状態はないからだ。
が、『キルラキル』はあえて歪んだまま描かれる。歪みを修整しようという発想がない。普通のアニメの場合、このわずかな歪みでも“不快さ”として浮かび上がってくるのだけど、『キルラキル』は不思議に不思議、むしろこの歪み方が心地よく見えてしまう。
おそらくは普通のアニメの歪みは技術的な欠陥により発生してしまったもの、またあるいはキャラクターが商品として固定された形が存在するからだろう。
しかし『キルラキル』は敢えて歪ませる。キャラクターの左右バランスだけではなく、身体デッサンも正確ではない部分があちこちに見られるが、あえて修正していない。むしろその時々の線の勢いと流れを重視している。アニメーターがその時の気分と勢いがそのまま最終的な画面の中に現れている。技術的な欠陥ではなく、技術的に充分な力を持つ者が敢えて歪ませて描いているのだ。この自由気ままに引かれる線の流れには、描き手の快楽すら感じさせる。この線に仮託された線が、豪快なアクションと連動して素晴らしい画面を作り出している。

■ ■■■ ■■■ ■

 スラムに入った纏流子を、不良少年たちが取り囲む。
「なんなんだ、その時代錯誤なチンピラっぷりは。変な街だと思ったら、住んでいるのもトチ狂った連中だね。いいよ。売られた喧嘩は買うのが信条だ。かかってきな」

名作とは、過去を統括する作品のことである。
……と、たったいま思いついた。
天才には2つの役割がある。
1つには黎明期に革命的な技術を開発し、表現様式を編み出し、その文化を爆発的に発展させる。また同時代の作家たちの感性を刺激させ、啓蒙させ、マイナーでおぼつかないものだったその文化を一挙に一般的な娯楽という立場まで押し上げてしまう。このタイプの天才は同時代作家たちへ、あるいは未来の作家たちのために道筋を作り、文化発展のために多大なる貢献を残す。
もう1つの天才は、文化を総括するためにやってくる。第1の天才が作り出した道筋が充分に開拓され尽くし、多様性を失ってかつてのような勢いがなくなり、人々の関心も失ってまさに絶えようというその時にこそ第2の天才は現れる。その文化の最終的な局面を作り、幕を引くためである。だから第2の天才は徹底的に技巧的、誰もが真似しないような神業を次々と繰り出し、見る者を圧倒させ、茫然とさせる。そうしてその文化の最後の花道を飾り、去って行く。この天才の作りし物が新たな遺伝子として残り、再び息を引き返す切っ掛けを作る場合もあるが。
『キルラキル』は70年代以前の、まだ洗練されているとはいえない時代のアニメをデザインの基調にしている。この作品を見ていると、色んなアニメを連想してしまう。『北斗の拳』だったり『ど根性ガエル』『魁!男塾』『炎の転校生』……詳しい人はもっと色んなモチーフを読み取ることだろう。当時制作されていたバイオレンスアニメ、ギャグアニメ、様々なスタイルが混濁して成立している。上の台詞に出てくるように、まさに「時代錯誤」だ。『キルラキル』は誰もやらず、せいぜいパロディとして茶化す程度だった70年代以前の様式を全力で再現し、鬼気迫る熱気で描き、70年代以前アニメを総括しようとする。それはまるで、あの時代に対する鎮魂歌のようにすら見えてしまう。
もっとも、この作品がむしろ新たな表現形式として一つの道筋を作り、大量の模倣者を生む可能性もあるが。
『キルラキル』は遅れてやってきた天才だ。いやいっそ遅すぎるというくらいだ。もう振り返る者のいない時代を掘り起こし、光を当てて、現代の最高の技術を持ってして復活させた。
本当ならもっと時間的な地続きが感じられるその時に作られるべきだったのかも知れない。もはや当時の記憶がぎりぎり残存しているという状態で、タイミングがもう少し遅ければ、アニメユーザーたちはその作品が70年代以前をモチーフにしていると理解できなくなっていただろう。
だが『キルラキル』はおそらく間に合った。まだアニメユーザーたちの記憶を引き起こすだけの素地が残っていたし、それにかつてを様式化させたデザインは間違いなく比類なき個性となって浮かび上がってくる。

『キルラキル』は情熱的なアニメだ。アニメーターが描いた線が、最終仕上げの段階でもスポイルされずくっきりと浮かび上がる。声優の演技は血管切れそうなくらいの勢いで絶叫熱演を繰り広げている。アクションはいうまでもなく強烈な印象を突きつけてくる。とにかく熱い。そしてうるさい。
この凄まじい熱狂が70年代アニメの最終的な花道となるか、それとも新たな表現技法として枝葉を茂らせるか……それはまだわからない。

続き→とらつぐみTwitterまとめ:作品紹介補足
続き→とらつぐみTwitterまとめ:第3話の感想

作品データ
監督:今石洋之 原作:TRIGGER 中島かずき
副監督:雨宮哲 シリーズ構成・脚本:中島かずき
キャラクターデザイン・総作画監督:すしお アートディレクター:コヤマシゲト
セットデザイン:吉成曜 クリエイティブオフィサー:若林広海
美術監督:金子雄司 色彩設計:垣田由紀子 撮影監督:山田豊徳
編集:植松淳一 音響監督:岩浪美和 音楽:澤野弘之
アニメーション制作:TRIGGER
出演:小清水亜美 関俊彦 柚木涼香 洲崎綾
    稲田徹 檜山修之 吉野裕行 新谷真弓
    岩田光央 たかはし智秋 三木眞一郎 藤村歩

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■2013/10/10 (Thu)
そろそろ校舎の影が深くなって、運動部の声も聞こえなくなった。沈黙した風景の中に、しつこく冬を残した風が重く巡っている。
急ぐ用事もなく、校門までの道のりをゆっくり歩いていた僕が振り返ったのは、風が吹いたのか、何かの予感を感じたのか――。
振り返って黄昏の色に染まるコンクリートの壁をずっとずっと上へと視線を向けると、そこに紺色の布の切れ端がひらりと風に揺れているのが見えた。
何だろう?
 僕はじっと目をこらす。ただの布きれじゃなくてそれは――はっとなったのはそれが女の子だったから。女の子は屋上のフェンスを跳び越えた縁に立っていて、新入生であることを示す紺のリボンを春風にはためかせていた。
自殺!
ただちにそう判断した。自殺。命を絶つこと。おそらく僕が一生試みない行為。
ここで物語の進行は大きく2つに別れる。1つは主人公が積極的に物語に参加して進行していく方法。1つは主人公が消極的で勝手に物語が進行していく方向。
僕は明らかに後者のタイプだったけど、その時ばかりは体が動いた。昇降口に飛び込み、上履きを履かず、靴のまま階段を駆け上がる。全速力で屋上へ、息が上がるとかしんどいとか言っていられない。とにかく階段を駆け上がった。
間もなく屋上へ出た。大きな室外機が独占する小さな広場は、背の高いフェンスにぐるりと囲まれている。緑の味気ない金網の向こうに、女の子は背を向けたまま、立っていた。夕日の輝きが眩しく、女の子の背中を黒く浮かび上がらせていた。
「あ、あの……」
僕は夢中になって叫んだ。そこでどんな言葉を用いたかは割愛するけど、とにかく僕は……、
「とにかく、あなたのような眼鏡の似合う人が死んではいけない!」
という旨を、ただひたすらに伝えようとしていた。その最後に、僕はありったけの思いを込めて叫んだ。
「要するに、眼鏡が大好きです!」
返ってきたのは沈黙だった。その後で、女の子が風に消え入りそうな声で、ぽつりと言った。
「……不愉快です」
女の子が空を飛んだ。フェンスを跳び越えて空中で鮮やかに体を捻りつつ、地面に着地して僕の前に飛びついた。
「……君」
驚いた。茫然としつつも、何かを尋ねようとしていた。
だけど――。
「うあぁぁぁ!」
僕は低く呻いて膝をついた。胸を強烈な痛みが刺していた。意識が白く飛びかけていた。
 僕の胸に、真っ赤な剣が突き刺さっていた。いつの間にか女の子が持っていた剣だ。この剣が、僕の胸を貫き、切っ先が背中から突き出ていた。確実に心臓を貫いている。痛みが制服を赤く染める血のように広がっていった。
「あ、相手が悪かったですね」
女の子は強気を装っていたけど、明らかに怯えるふうに声を震わせていた。柄を握る手も震えている。
僕は消え入りそうな意識をしっかりと繋ぎ止め、かすかに顔を上げた。女の子の……眼鏡を見たかったけど、視界はゆらゆらと霞んでいた。
「あのさ……とりあえず、これどうにかしてくれない? 頼むよ」
なんとかそう、言葉を絞り出した。
「あなた……いったい何者ですか」
女の子は茫然とした色に、困惑を浮かべている。でも、
「それは僕の台詞だよ」
僕は微笑みかけた。
こうして、僕と栗山未来は出会った。こんな2人が、そのとき限りの関係で終わるとしたら、全ての物語はこの世に存在できないだろう。

■ ■■■ ■

黄昏。それは昼と夜の境界。人間界と異界の境界。フェンスの向こう側という境界。少年は人と妖夢の端境に立っている。
ここにはありとあらゆる境界がせめぎ合っている。『境界の彼方』は、その狭間に立っている少年と少女の物語だ。

  思い出すのは2年前の『中二病でも恋がしたい!』だ。この作品の中で、京都アニメは思うさま空想を押し広げて活劇を描いてみせた。あちらの世界とこちらの世界、正気と空想、現在と過去、少年と少女……『中二病でも恋がしたい!』にはありとあらゆる境界が描かれていた。連想をするまでもなく、『境界の彼方』は『中二病でも恋がしたい!』の延長上にある作品、あるいは同じ軸上にある作品であると考えられる。ただし、『境界の彼方』はパロディではない。
『中二病でも恋がしたい!』は学園アクションもののパロディだった。学園アクションものを、冷静な目線で見たらどのように映るか。それは少年の頃に冒険を終えた者が、高校生になったというのにまだ冒険の最中にいる人をどのように見るか……あの時の甘酸っぱさが、現代の白けた視線を混濁させて、強烈な恥ずかしさとして跳ね返ってくる。『中二病でも恋がしたい!』はその姿をコメディとして描いている。
普通に考えれば、順序で言えば逆なのだ。同じ軸上の延長線上ではなく、同じ軸の一歩手前にある作品。それが『境界の彼方』だ。しかし京都アニメは、あえて逆の順序で、パロディを描いた後で、その元ネタにするべき作品の制作に取りかかった。
ジョルジュ・バタイユは熱心なキリスト教徒だったが、「笑い」というものに遭遇して以後、キリスト教がまとっている荘厳さの一切が笑いとしか感じられなくなった。神聖な大聖堂も、厳粛な礼拝も、何もかも滑稽だ――。
「中二病」はまさしく時代全体が笑いに覆われて、厳粛さを失ってしまった時代を象徴する言葉だ。ありとあらゆるエンターテインメントの中に描かれていた真面目さが、パロディに変換されてしまう時代。ありとあらゆるスタイルのエンターテインメントが描かれ尽くしてしまい、視聴され尽くされてしまい、成熟しきったユーザーにはパロディしか連想できなくなってしまった時代。シリアスを描いてもユーザーが脳内でパロディに変換してしまう時代。
『中二病でも恋がしたい!』はそうした今の若者たちが感じている感覚そのものを描いて共感を得たが、『境界の彼方』はそれからいくらか後退してみせる。本格アクションを描いてもパロディと取られてしまうとわかっていながら、あえて――ありきたりすぎるとも言えるような――学園伝奇アクションを描こうとする。

京都アニメの創作は意欲的だし挑戦的だといえるが、映像の作りは――いやキャラクターの作りはシンプルだ。キャラクターの生成にブラシもグラデーショントーンも使用していない。今時は髪の毛や瞳に鮮やかなグラデーションを、頬にブラシを入れるやり方が主流だが、その方法を使用していない。シンプルな線と色だけで構成するキャラクターは、余計なものが取り払われて動画そのものの肌触りを浮き上がらせる。
空間の作りには奥行きを出すためのぼかし掛けが細かくかけられ、しばしば空間的な厚みを出すための陰影がその奥行きに与えられている。
舞台設計は過去の京都アニメーションらしい実直さが現れる。徹底的に取材と考証を重ねた上での緻密な描写。飛躍はほとんどなく、おそらく実際にあるのだろうと思われる風景を丹念に描いている。
中心的舞台が学校であるから、画面の中を学生が多くひしめいているが、今のところデジタルモブは使用されていない。すべて手書きで書き起こされている。朝の登校風景など、多くの学生が一斉に動く場面があるが、あえて手書きでこだわり、手書きで動きが与えられている。

キャラクターの仕上げ処理は非常にシンプルである。そうした理由は動き出した瞬間、意図が見えてくる。
ダイナミックかつ繊細なアクションの連続。映像の主眼は日常世界の描写や、可愛らしいキャラクターにあるのではなく、アクションの動きそのものにあるのだ。
ヒロインの栗山未来は「浮遊する少女」の系譜にあるキャラクターである。
右に掲げた動画には、階段を鮮やかに跳躍する栗山未来が描かれている。まず階段という空間をしっかりしたパースで描き、その中を神原秋人が駆け下りている。これが映像の基準になっている。普通の人は神原秋人のように階段を駆け下りていく。しかしその直後、栗山未来が同じ場所を軽々と跳躍してみせるのである。2回のジャンプだけで階段を飛び降りていく(栗山未来のジャンプはコマ数が少し多く描かれている。これが浮遊している感じを出している)。この栗山未来の動きを見た瞬間、映像にある種の解放感が現れるのである。 さらに神原秋人を蹴り倒した栗山未来は、持っている剣で切り裂こうとする。煙エフェクトがさっと画面を横切るが、さらに刃の動きに合わせて赤い鮮血が飛び散る。神原秋人の血ではない。血で生成した剣が、振り下ろした瞬間わずかに液状に分離して周囲に飛び散ったのだ。これは血で生成した剣、という設定上のものだが、画面の効果として面白いものになっている。

栗山未来は、しばしば地面を氷の上を滑走しているように滑る。実際的な重力の存在を無視して、自然の法則を無視したかのように地面を滑っていく。なぜ滑るのか、どうして滑っているのか、現実的な理由を考えると不思議な描写だが、走る、飛ぶに続く疾走のイメージの連続で繋がれていて、実に痛快な描写になっている。
この動きはもちろん作り手の誇張が作り出したものだが、ふと『中二病でも恋がしたい!』の小鳥遊六花のアクションを思い出す。小鳥遊六花も靴にローラーを仕込んでいて、地面を滑っていた。『中二病でも恋がしたい!』でパロディとして描いていたものを、ここで元ネタとして描いているのだ。

栗山未来のアクションは非現実的かつ誇張された活劇の申し子だが、周囲の環境、自然の法則は丹念に描かれている。
神原秋人が水の入ったバケツを投げる。ここからスローモーション。バケツに気付いた栗山未来。しゃがみ込んで剣を前に突き出す。『スーパーマリオブラザーズ』のBダッシュの後のように滑っていく。剣がバケツに触れて切り裂かれていく。真っ二つに切り裂かれるバケツ。中に入った水が弾け飛んでいく。恐ろしく難易度の高い作画だが、スローモーションで水滴の一つ一つが跳ねていく様子をしっかり描いている(水滴が大きく描かれているところが、唯一の妥協点だ)

栗山未来が持っている剣は、血で生成される。掌から出た一滴が、画面の中に広がっていく。宇宙空間のように空間一杯に広がっていくが、間もなく栗山未来の手元に集まり、剣に変化する。鮮やかなメタモルフォーゼ。コマ全体として20コマ(3コマ撮りだから60コマだろうか)。栗山未来とは別のセルとして動いていたものが、手に収まった瞬間、同じセルに統合される。

この性質がアクションの中で活用される場面がある。妖夢の包帯で、剣の動きが封じられてしまった。妖夢の攻撃が迫る。栗山未来は、とっさに剣を液体に戻す。どろっと粘性の持った血となって弾け、次に構えを直して、血は再び剣に変わる。固体から液体へ、液体から固体へ、メタモルフォーゼがアクションの中に鮮やかに組み込まれている。

走る上下動の動きに、手の動きが激しく動く。上下動の動きはノーマルに描かれ、その上に手の動きが書き足されている。エフェクトはAセル、手の動きがBセル、体の動きがCセルという構成だ。体の動き、手の動きはリピートだが、別様のパターンで動いている。
体の動きと手の動きが違うという、一見すると奇妙に見える動きだが、目にもとまらない動きを、あるいは目まぐるしい動きを、ある種の記号的表現に戻して描かれた場面だ。
この場面のポイントは、キャラクターの上に載せられているエフェクトだ。フルコマで描かれたエフェクトが、人物以上の激しい猛烈さを表現してみせている。

ストロボを当てて、人物の動きを象徴的に見せている。
この動きは実写で表現する場合、俳優には普通にアクションをさせて激しいストロボを当てる。すると俳優は動いているのに、見た目にはパッパッと静止コマを並べているように見える。
『境界の彼方』はその表現を元にしているが、こちらの場合、栗山未来の動きは本格的に静止している。赤く煌めくエフェクトだけが動いている。「ここだ」という決めのポーズだけがストロボの光が当たった瞬間浮かび上がっていく。
こちらも目にもとまらぬ動きを表現した一コマだ。素早い動きを、素早い動きとして描いてみせるのではなく、あえて静止コマの連続で描いてみせている。またアクションのケレン味が生き生きと輝く瞬間でもある。

ついに妖夢を切り裂く! 瞬間、妖夢が輝きを放つ。真っ白に輝く粉が周囲に飛び散る。このエフェクトは次のカットにも描かれている。寸前の赤黒い血が、真っ白に変換されたようで、画面の効果として非常に美しい。


■ ■■■ ■

『境界の彼方』は『中二病でも恋がしたい!』『Free!』に続く3度目の挑戦である。京都アニメは『中二病でも恋がしたい!』以来、自社で本を出版し、それを自ら映像化している。『境界の彼方』はそのオリジナル事業の3本目となる。
私はかねてより、ある程度力を持ったアニメ会社は出版事業を始めるべきだという持論を持っていた。なぜならば、ネット配信を利用すればタダで出版事業を始められるからだ。
出版事業は莫大なお金がかかるし、相応の人員も必要になってしまう。雑誌を出版した場合、300万部売らないと黒字にならない。雑誌単体で利益が出せないから、単行本で収益を計る。そこまでになってくると、相当の資金的な後ろ盾が必要になってくる。サンデーやマガジンすら創刊してから数年近く赤字に悩まされた。
しかしネット上で雑誌を作る場合、基本的にタダだ。誰でも自分でサイトを作って、勝手に始めてしまってもいい。実質的な経費は作家への報酬と、編集家を雇うお金、それからサイトを維持するための少々のお金だけでいい。それらは“莫大”というほどのお金が必要なわけではない。オンライン雑誌で作品を発表し、それから単行本で利益収入を目指す……Kindleを利用するという手もある。
なぜアニメ会社が出版事業を始めるべきなのか……それは“自立”するためである。アニメの製作には莫大なお金がかかり、製作委員会の資金力が頼りだが、アニメ会社は基本的に制作費だけで、作品が大ヒットしても成功報酬を手にすることができない。一方、製作委員会なら大失敗してもリスクを分散させられるという長所もあるが。
アニメーターの労働環境の劣悪さは誰もが知っている話だろう。作品がそれなりのヒットを飛ばしても、現場に還元されることは滅多にない。
ならばアニメ会社が単独で自立するしかない。アニメ会社自身が企画し、制作し、販売まで引き受ける。当然、利益を自分のところで独占する。成功すれば、アニメーターの労働環境を一挙に是正することができる。もちろん失敗したら、責任は自分で引き受けねばならないが。
アニメーターの労働環境を是正させるもっとも手っ取り早く、合理的な方法とは“儲けること”なのだ。
しかしネットユーザーたちの声を聞いてみると、京都アニメの挑戦を“悪しき商法”と捉えている人が多数派のようだ。なぜなのか?
どうやら、儲けようという行為自体が“悪”という歪んだ嫌儲精神に基づくものらしい。従来型のビジネスは“悪しき商法”ではないとネットユーザーたちは考えている。なぜならばその以前にあったから。以前からあったビジネスは“当たり前のものとしてそこにあるもの”だから意識できない。一方、新規なものはそうではないからネットユーザーたちにとって目の前を飛び回る蚊のように存在が浮き上がって見えてしまう。そこで今までにないビジネスを、嫌儲精神に照らし合わせて、“悪”として断罪する。
アニメーターの労働環境の劣悪さを知っていながら、それを是正しようという挑戦を始めると“悪い商法”と批判するのである。
もしかしたら、ユーザーの意識そのものが追いついてくるのを待つべきなのかも知れない。
ともあれ、責任を自社で負うから、勝負には負けるわけにはいかない(実際には音楽事業やDVD販売など色んな事業の協力が必要になるから、製作委員会を作っている)。幸いにも『中二病でも恋がしたい!』『Free!』の2作品は批評的にもビジネス的にも成功を収め、良き道筋を作っている。この作品『境界の彼方』もその道筋に乗って欲しいところだが、残念なことにニコニコ生放送では低評価という結果に終わってしまった。
①56.0%②24.4%③12.6%④3.8%⑤3.2%
①②を合算させるとそれなりの数字だし、③より下を押した人は少ない。しかしこの結果が、ネットでは「『境界の彼方』はつまらない」という評判を定着させ、加速させる一因を作ってしまった。ネットユーザーの間にじわりと醸成されつつある“ブランド嫌い”を援用させる結果となってしまった。
作品はまだ始まったばかり、物語もこれから動き始めるところだ。ストーリーものは、これから起きる“展開”で驚きを与えるのだ。3度目の挑戦はまだまだこれから、始まったばかりだ。

続き→とらつぐみTwitterまとめ:作品紹介補足

作品データ
監督:石立太一 原作:鳥居なごむ
シリーズ構成:花田十輝 キャラクターデザイン・総作画監督:門脇未来
美術監督:渡邊美希子 色彩設計:宮田佳奈 小物設定:髙橋博行
妖夢設定:秋竹斉一 撮影監督:中上竜太 編集:重村建吾
音響監督:鶴岡陽太 音楽:七瀬光
アニメーション制作:京都アニメーション
出演:KENN 種田梨沙 茅原実里 鈴木達央
    進藤尚美 渡辺明乃 松風雅也 川澄綾子 今野宏美

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■2013/08/23 (Fri)
面白い作品に理由があるように、面白くない作品にも相応の理由がある。
しかしあえて問おう。なぜ面白くないのか。「そんなのわかりきっているだろう。面白くないからだ」と多くの人が答えると思うが、それは答えているとは言えない。また面白くない理由を理解しているともいえない。
それでは「面白くない作品について考える必要は?」という問いにどう答えるのか。それは自分が同じ失敗を犯さないためだ。「駄作が犯しているような失敗を自分もするわけないだろう」と多くの人が信じている……自分というものの才能を疑っていない。しかし残念ながら、「こんな失敗誰が犯すんだ?」というような失敗を、ほとんどの作家が犯すのだ。
だからこそ、失敗作から学ぶ必要がある。失敗作を見るのは、考える機会になるから見る必要があるのだ。私が時折「失敗作を見よ」と言っているのはそういう理由からである。

しかし傑作と駄作の差異には何が置かれているのか? という問いに対して、視覚的ロジック的に開示してみせることは(考えの足りない)私にはまだできない。
しかし考え方の基準になりそうなものが一つある。

エンターテインメントとは何か?
そう問われた時、私は“ピンチ”だと答える。

主人公の前にどのようなピンチを設置するか。そしてこのピンチをいかにくぐり抜けるか。
だいたいここを上手く書けるかどうかで、傑作駄作の差が生まれているように思える。

よく挙げられる例が、
「主人公はトイレに行きたい。かなりヤバイ。しかしどこのトイレも使用不能だ。さあどうする?」
ここで、“誰も思いつかないような鮮やかな解決法”を示すことができれば、その作品は傑作だと賞賛されるだろう。

いっそ、ピンチという状況だけを提示して、読者にどうやって切り抜けるか考えよ、というコンテストをやってみるのも面白いかも知れない。誰も思いつけない回答をして見せた者が優勝だ。
創作を教えている学校で、生徒にピンチだけ提示して、「解いてみせろ」という課題をやってみるのもいいかも知れない(経験的に意義があるかどうかは不明だけど)
黒澤明監督の映画『隠し砦の三悪人』はまさにこの方法で作り出されていた。
山名家との戦に敗れた秋月家。秋月家の雪姫は山名家の手から逃れ、とある場所に隠れ住んでいた。雪姫は、秋月家復興のため、隠し持っている大量の黄金とともに友好国早川領へ行かねばならない。しかしその途上の関所には山名家ががっちり監視している。
さあ、どうする?
誰も思いつかない方法を、あるいはいかに面白く切り抜けられるか、その方法を巡り、脚本家たちは毎日ひたすら議論したそうだ。

では面白くない作品がなぜ面白くないのか。それは、ピンチの切り抜け方に問題があるから、と考える。

①ピンチの切り抜け方がおかしい。
そのピンチの切り抜け方がおかしい、道理に合わない、ご都合主義的だ、あまりにも飛躍させすぎだ、総じて腑に落ちない……。こう思われると、その作品は駄作扱いされる。

②主人公の選択が正しいと思えない。
読者の目線で「どうして主人公がここで○○○をしないんだ?」と思われてはいけない。主人公の行動が間抜けに見えてはならない。やはり主人公の行動や選択が腑に落ちるようにしなければならない。
主人公の行動は常に利口で、正しく、読者の想定を必ず“少し”上を進んでいる状態が望ましい。間抜けに見える主人公は、ギャグキャラクターでない限り感情移入しづらい(いや、ギャグキャラクターでも行動がありきたりに感じられるとつまらないだろう)

③そもそも、はじめに設定したピンチ自体おかしい場合。
そのピンチはおかしい。切実さが伝わらない。状況がいまいち理解できない……。また読者の目線で「何だその程度か」と思われてはならない。そういう場合は、「そもそもピンチの設定がおかしい」から練り直す必要がある。

以上に挙げた3つの他にも、まだ考えられるポイントがある。ピンチと主人公との関係性についてだ。

①そのピンチを解くのが主人公でなければならない理由。
目の前に提示されたピンチ! ……でも別に主人公じゃなくても、別の誰かが解けばいいんじゃない? となったら主人公がそもそもの間違いだ、とうことになる。主人公が解かねばならない理由を常に提示し、状況が主人公を強制しなければならない。
「そんな間抜けな過ち、誰が犯すんだ」と思われるかも知れないが、この失敗を犯す作家は非常に多い。ほとんどの推理物は「別にアンタが解かなくても警察に任せればいいよ」と言ってしまうことができるのである。
主人公がそのピンチと向き合わねばならない問答無用の理由が必要なのだ。

それからもう一つ挙げるべきポイントは、

②そのピンチを解くことが、主人公の葛藤と関連しているのが望ましい。
これは「絶対にそうではなければならない」というほどの重要度はないが、やはりそうであったほうが望ましい。
例えば、主人公が何かしらの心の傷を負っている。そこに提示されたピンチ。これが主人公の過去に体験した事件と関連を持ち、トラウマと向き合う結果となり、解決が主人公の回復や解放に繋がる……というプロットができたとしたら、それは「ピンチを鮮やかに切り抜けてスッキリする」という以上に、感動のポイントにすらなる。

要するに、提示したピンチと主人公の間に強い関係を持っていること。これは、物語全体に対する主人公の重要度に関わってくる。もしもこの重要度を主人公より脇役などのほうが持っているとしたら、主人公を練り直したほうがいいだろう。

もう一つの創作のヒントとして、ミステリの論法を利用する、というものがある。
ピンチの性質を説明する過程で、同時に切り抜けるためのヒントも提示するべきである。
ミステリには作者と読者の間に公正性を保つ必要があるために、回答篇までに問題を解くヒントを全て整えておかねばならない、というルールがある。
これはミステリ以外のエンターテインメントを描く場合においても同じだ。もしも、はじめに提示されていないやり方で解決法を示したとしても、例え正しい答えであったとしても「それはなんか狡い。スッキリしない」という悪印象を持たれてしまう。
また当然であるが、ピンチを提示する過程で、答えを悟られてはいけない

以上に挙げたポイントを押さえれば、駄作になることはほとんどないと思われるが、それでも傑作と呼ばれる間にはまだ何かありそうな感じがする。それは恐らく、次のようなポイントではあるまいか。

①誰にでも了解できること。感覚が伝わること。
提示するピンチが誰にでも了解できること。ピンチの内容が簡単であればいい、というのとは意味が違う。いったいどのようなピンチなのか、誰にでもわかるようにきちんと伝えること。伝える能力が試される部分だ。これが伝わらないと、主人公がどこに向かっているのかも伝わらなくなるので重要だ。

②でかいほうがいい。
大風呂敷を広げよ。そのピンチがどんな事態を引き起こしてしまうのか。国家が大パニックとか、世界の終焉とか、それくらい馬鹿げた大風呂敷の方が面白い。そういった国家の危機とか世界の終焉とか、そういうピンチをリアルに感じさせるように描くことができれば、面白いはずだ。
しかし一方で、国家の危機や世界の終焉クラスのピンチにリアリティが感じられなければ、その作品は即座にコメディになる。大風呂敷を広げる時には、相応の状況作りに注意を払うべき。
ピンチはでかいほうがいいが、でかくなればそのぶんリアリティを出すのが難しくなる。「国家の危機!」といってもなかなかピンと来ないが、それでも腑に落ちるようなリアリティが描ければそれでいい(特に国家観がぶっ壊れた日本人はこういう話はなかなか書けないと思う)
国家の危機とか世界の終焉とかそういうレベルではなくても、主人公にとってそれと同じくらいの“切実さ”があればいい感じになる。“主人公にとっての切実さ”というのは、家を失うとか、恋人が死ぬとか、あるいは自分が死ぬとか、そういうもののことだ。むしろそういうお話にした方が“切実さ”はダイレクトに伝わる。

③個性的であれ
ピンチの中身は、今まで誰も思いつかなかったような内容であった方が面白い。誰にでも思いつくようなピンチは、つまり手垢のつきまくったものだから、いくら面白い解決法を提示したとしても、題材という時点で誰も見向きもしてくれない。個性的なピンチであれば、解き方にも個性が出てくるかも知れない。題材にこだわれ。

④絶体絶命
「こんなピンチを乗り越えるなんて絶対不可能だ! もうどうしようもない!」と思わせること。「もうダメだ!!」と一瞬思わせ、そこからの離脱を示してみせる。強烈なピンチは、相応の緊張感に繋がる。そこから見事に、鮮やかに脱出をしてみせる。これこそ、エンターテインメントの醍醐味だろう。

作者は、主人公をピンチで追い詰めていくと同時に、読者・観客を追い詰めていかねばならない。まずピンチの内容をわかりやすく伝えること。そのピンチが回避できないと、途方もなくヤバイ結末に繋がることを伝えること。そうすれば次第に物語の主人公と読者・観客は主人公と同じ目線で追いかけていくようになる。読者・観客は主人公と同じように汗を掻き、ハラハラしながら状況を追いかけていくのだ。そこまで読者・観客の気分を物語の中に吸い込ませることができれば、その作品は間違いなく傑作だろう。

とどのつまり、優れたエンターテインメントとは「脱出劇」なのである。一見すると四方八方手詰まりの状況。もうどうにもならない……。そんな状況からマジックのように優れた脱出を披露してみせる。その瞬間、エンターテインメントは驚きと喝采を挙げるのだ。
最近では『魔法少女まどか☆マギカ』が素晴らしい「脱出劇」の例だった。「こんな複雑なロジックを解決させるのは絶対に不可能だ! バットエンドしかあり得ない!」とみんなに思わせ、みんな最終回が来るまでにさんざん予想合戦したのに、それを上回る回答をしてみせた。しかも、その答えが驚くほどシンプルで、納得のできるものだった。これを提示できたからこそ、『魔法少女まどか☆マギカ』は異議無しで傑作と認定されたのだ。


駄作が駄作であるには相応の理由があるからで、これを回避する方法をこうやって挙げたが……正直なところ、不充分という気がする。
「それは違う」と言う人は多いと思うし、プロの作家がここまでに書いたことを読んだら鼻で笑うかも知れない。
少し考えてみても、上の理論が通用するのはごく一部の娯楽作品のみで、恋愛ものギャグものホラーもの純文学などではまったく通用しないことがわかる
(どういうわけか、ホラーのキャラクターはピンチを切り抜けようと努力しない。幽霊や殺人鬼が作り出した状況に無抵抗に振り回され、次々と人が死んでしまい、主人公も特に主人公としての活躍を見せることなく、あっさりと死んでしまう。ホラーもピンチを切り抜けて脱出すれば、エンターテインメントとしてより面白くなると思うのだけど……)
それとは別に、自分で書いていて“何か”が不充分だという気がしてならない。その“何か”の正体は、いまわかる範囲で書くと「人間の描き方について何も提示していない」というのと「個々の状況の描き方について何も提示していない」という2つだけだ。確かにこの2つを押さえないと、いくらうまいピンチを描いてみせても、それはロジックを整えただけで心情的に迫ってくるものになるかといえば、多分ならないだろう。とにかく不充分なのだ。決定的に何が足りないかといえば、「どうやったらキャラクターに感情移入できるか」あるいは「どうやったらキャラクターが魅力的に見えるか」という問題だ。この問題について、私は何も答えていない。
しかし私としても、この2つの問題について、まだきちんと整えて説明することはできない。それはまた別の機会になりそうだ。

元になっているツイートまとめ→傑作と駄作の狭間にあるものは? エンターテインメントとはピンチである。

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■2013/07/29 (Mon)
この記事には映画のネタバレが多く書かれています。
映画をまだご覧になっていない人は決して読まないでください。

オープニングアニメーション

「もーいいかい」
画面がゆっくりフェードして、大きな鳥居が現れる。赤いワンピースの少女がしゃがみ込み、自分の手で目を隠している。どうやらかくれんぼに興じているようだ。
その始まりのカットから奇妙な印象が画面全体に漂っている。鳥居が描かれているが、どこにも境内は描かれていない。少女の背後に描かれているのは異様な重々しさを持ったコンクリートの残骸――廃墟だ。しかも暮れかける時間で、廃墟に暗い影を落とし始めている。
全てが“端境”を示唆している。鳥居は人間の俗世界と神の神聖なる世界を分けるシンボルだ。暗闇が静かに広まる夕暮れの時間はかつて“逢魔が時”と呼ばれていた。廃墟はかつて何かであったものの残骸であり、現在は何物でもない建築物の遺骸である。そんな只中で“かくれんぼ”を興じる少女は、目を隠し、現実の世界から一時的に目を離している。
案の定、少女は異界に迷い込んでしまう。「もーいいかい」と目を開けて振り返ると、そこは見知らぬ場所で、案内人の白ウサギがぽつんと立っている。白ウサギについて行こうとすると、その向こうから手が伸びて、少女を掴み“あちらの世界”に引きずり込まれてしまう。少女の眼前に現れたのは様々なイメージだ。近未来の世界であり、清涼たる自然のイメージであり……。そのイメージはただ少女を翻弄するだけではなく、ついに少女の体内にまで潜り込み、少女そのものを様々なイメージに変換させる。少女は体内から沸き起こるイメージの連打に驚き、声を上げて、歓喜する。光輝く体内からふわりと現れるのは『SHORTPEACE』の文字。
少女が迷い込んだのは日本人がイメージし、日本人が描いた“日本”という名の異界だ。そのアニメーションは単に『SHORT PEACE』というタイトルを出すために作られた短編であるが、描かれているイメージは圧倒的だし、通俗的な瞬間も見られるがそれを内包しつつ突き抜けたパッションで満たされている。これから始まる映像絵巻のスケールを示唆する物として、充分な力を持った短編アニメーションだ。

作品データ
監督・デザインワーク・作画:森本晃司 音楽:Minilogue
出演:春名風花

■ ■■■ ■

九十九

森はすっかり夜だった。雨は激しく降り注ぎ、雷鳴が轟いている。男はどこかに雨をしのげる場所はないだろうか、と辺りを見回す。すると鬱蒼たる森の深い闇の中に、小さな塚が建てられているのに気付く。「ちょうどいい……」と男は思い、塚の中へと駆け込んだ。
男は旅の疲れを取ろうと、目を閉じて落ち着こうとする。それからふと気付くと、違う場所に迷い込んでいた……。
『九十九』はほとんどがデジタルで作られた作品だ。キャラクターの線は、いかにもデジタルといった感じの固くくっきりとした線で、当然だが一切の“ブレ”がない。旧来的なアニメのイメージで描かれた線に対して、色彩は色トレス塗り分けのようにはっきりと分かれず、淡くグラデーションがかけらえている。静止した一点画になると、この処理がイラストレーションのようでなかなか美しい。しかし動画には線に呼吸感がなく、躍動が感じられない。
すべてがデジタルで描かれた理由と利点は、背景やキャラクターに貼り込まれた「和柄」だ。主人公である男の衣装に描かれたパッチワークのような模様。これが一切の破綻を起こさず、キャラクターにしっかり接地して動き出す。
見知らぬ場所に迷い込んだ男の前に、無数の和傘が目の前で花開く。しかし和傘は古くなり破れ、人ならざる異形が取り憑こうとしている。しかし男は驚きも怯えもせず、妖怪が取り憑く和傘を感嘆して覗き込み、さらに「ちょっと拝借」と手に取ってしまう。男は道具箱を開き、そこに収めていた和紙を引っ張り出すと、破れた和傘を次々と直してしまう。男は古くなって壊れた物を直す、「修理屋」であったのだ。
日本人は、物に対してフェティッシュな考え方を持っている。全ての物に命が宿っていると考えている。物作りを生業にする多くの人は、今でも自分の作っている物に命が宿っていると信じている。流通した後の物であっても、人々は丁重に扱い、愛着を持ち、使わなくなっても大切に保管した。それでも使い切った道具は、“捨てず”に“奉納”したのである。物を異界の霊の元に送り返したのだ。
室町時代の京都を闊歩した「百鬼夜行」と呼ばれる妖怪の集団は、見るからに道具に宿った霊達であった。まさに“物怪”である。物怪の起源についてはさすがに詳しくわからないが、“物”の“怪”という字が当てられていることから、おそらく全ての物に霊が宿るというアニミズム的な信仰と無関係ではあるまい。
『九十九』はまさにその考え方をアニメーションの中で描いた作品だ。物を愛し、物に淫し、物に霊を見出す。そうした日本人が根源的に持っている、“見えざるもの”への信仰そのものをテーマにしている。
男は、使い切ったといえず捨てられたしまった哀れな傘を修繕し、次に使われず捨てられてしまった反物を修繕する。しかしその最後に現れたのは、もはや修繕不能になった道具の霊である。修繕もできなくなり、人から捨てられた道具たちの集合体である。
そんな物怪を前にして、男は手を合わせ、拝むのである。もはや使いようのない道具の霊を感謝し、慰めるのである。使い切った道具を捨てずに“奉納”する……物に神の霊を見出す、日本人の心象そのものが、ここに描かれる。

作品データ
監督・脚本:森田修平
ストーリー原案・コンセプトデザイン:岸啓介 キャラクターデザイン:桟敷大祐
CGI監督:坂本隆輔 美術:中村豪希 作画:堀内博之 音楽:北里玲二
出演:山寺宏一 悠木碧 草尾毅

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火要鎮

映像が始まって最初に現れるのは一つの絵巻物だ。紐が解かれ絵巻物が広がると、画面は左へ左へと進んでいく。絵巻物に現れるのは17世紀の江戸の風景だ。しかもその風景は、“現代人が考えたリアルな風景”ではなく、当時の人が考え、当時の人がおそらくそうした意識で見ていたであろう浮世絵の風景であり、日本画が描いた風景である。その風景がずっと左へと進んでいくと、やがて遠くに見えていた家が接近し、とある大店の屋敷を捉えたところで止まる。
屋敷に住んでいる幼い女の子と、その隣に住んでいる同じ年頃の男の子の物語だ。この絵に、現代的な透視図法が使用されていない。平面的な縦と斜めの線だけで構築されている。影は全く描かれておらず、線の流れは流麗だが立体感はまったくない。17世紀当時、頻繁に描かれた絵画の典型的な様式の再現であり、しかもその様式美の中で人物が演技を始めるのである。
やがてカメラが接近していき、数年後の世界が描かれる。あの女の子と男の子は大人になっている。男の子は火消しに憧れて放蕩を繰り返すうちについに勘当されてしまう。女の子は年頃になり縁談話がやってくるが、想いは未だに勘当されたあの男の子にある。
『火要鎮』は浮世絵・日本画の再現である。それも完璧といえる精度である。絵を見ると現代人ではなく17世紀当時の人が描いた、と納得してしまうくらいの、あまりにも完璧、徹底的に作られた浮世絵の再現アニメである。
どの構図にもまったく立体感がない。透視図法の概念のない時代の絵画が再現されている。縦と斜めの線、それは中世の時代、頻繁に描かれた典型的な浮世絵の構図だ。キャラクターはおそらく日本画から取られているのだろう。日本髪の生え際に描かれる淡いタッチや、微妙にほつれた髪。その髪に飾られる様々な美しい装身具。人間は手書きのアニメーションで描かれ、髪の部分だけがデジタルで貼り込まれて作られた。ちょうど、デジタルのカツラを被せた、という感じだったようだ。こうして完成された動画は、まさしく美人画そのもの。アニメに対して沈黙を続ける画壇も頷かなければならないクオリティだ。
アニメーションの絵は浮世絵に似ている……。なんてことは過去50年間言われ続け、50年間無視されてきた事実だ。線を追いかけていく漫画の技法と、線での構成を様式美まで押し上げた日本画と、版画で生産する都合で線が主体になった浮世絵。それぞれに技術的理由が背景にあって結果的にそういった形に進化したわけだけど、おそらくはそれ以上に日本人が連綿として受け継いできた精神性が似通った形にしてしまうのだろう。
『火要鎮』の凄まじさは、現代的な感性を徹底的に排除して、17世紀当時の感性を再現して見せたことだ。現代的な空間構造は完全に否定されている。レイアウト作りの作法から見直されている。色彩の使い方も、アニメカラーではなく当時の絵でよく見られる淡い中間色だ。衣装の細かい模様や、髪の描き方、立ち回りや言葉遣い、何もかもが浮世絵時代の再現。現代人が考えるリアリティなどがそこに入る余地はなく、現代的な感性で時代劇の世界を刷新するという考えを放棄し、17世紀当時の視点に立ち、その当時の人達が見ていたであろう心象世界そのものを描いてしまっている。
物語後半、江戸の街は業火に包まれる。この場面の炎の描写。めらめらと燃え上がる炎の形。やはりリアルな炎ではなく、絵画の中に描かれた、当時の人が感じていたリアルな絵だ。この炎のフォルムは、伴大納言絵巻から採られているという。実際の炎はあんな形をしていないが、当時の人の美意識が様式化して見せた炎の形そのもので、しかもそれを動画として動かしつつ、かつ炎と感じられる激しさをそこに込めさせている。
火事が起きると火消しの出番だ。当時は放水技術などないから、火事が起きる隣家に乗り込んでいって、柱を切り倒し、思い切って倒してしまう。破壊消防と呼ばれる方法だ。炎が描くスペクタクルも凄まじいが、この破壊消防のシーンも圧巻だ。これまで美しい浮世絵の描写にただ感嘆していたものが、火事の場面に入ると画面が作り出す迫力に圧倒されてしまう。構図は相変わらずパースのない画であるのに関わらず、火消し達が次々と乗り込み、生々しく入り乱れる人々の姿を見て、絵画にすぎないと思っていた世界は、今度はリアルな迫力を持って引き込まれていくのを感じる。そして、そうした荒々しさの中にすっと入り込んでくる哀れさ。作品は荒々しさと詩情を交えながら終幕へと向かっていく……。

作品データ
監督・脚本:大友克洋
キャラクターデザイン・ビジュアルコンセプト:小原秀一 音楽:久保田麻琴
作画監督:外丸達也 エフェクト作画監督:橋本敬史
演出:安藤裕章 美術:谷口淳一・本間禎章
CGI監督:篠田周二 画面設計:山浦晶代
出演:早見沙織 森田成一

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GAMBO

舞台は荒廃が進んだ戦国時代だ。戦ばかりが続き、国土は消耗しきって、人は死に村は絶えて、生き残るためには戦う以外の選択肢はなかった。
そんな最中、とある村の上空から何者かが現れた。およそ3メートルの巨人で、肌の色は赤く、頭に角質化したイボのような角をぽつぽつと付けていた。
見るからにそれは鬼。巨大で凶暴で人の言葉を解さず、立ち向かう者があれば人外の豪腕で粉砕し、問答無用に人の住み家を蹂躙していく。鬼の圧倒的な力を前に人々は為す術もなく破壊されるままに破壊され、女達は連れて行かれていった。たった1匹の鬼の出現で、村は間もなく壊滅という事態まで追い詰められてしまったのだ。
もうすぐ自分も鬼に連れて行かれる……。少女は運命から逃れるように村の外へ駆けていく。辿り着いたそこは彼岸花が咲き乱れる森の一角。その向こうに待ち受けていたのは1頭の巨大な白熊。
少女はすがるように白熊に懇願する「助けて……」。
という物語の流れで、白熊は赤鬼の住み家に乗り込み、決死の戦いを始める。その圧倒的重量感。まさに重量級同士のぶつかり合い。戦国時代の当時、武士ですらやっと150センチという低身長の時代で、家屋も小さい。そんな最中で3メートル級の巨人の戦いは、今の感覚で言うところの怪獣同士の戦いを思わせるくらいの重量感で、実際に映像はそれくらいの力強さが感じられた。
この作品も、最初の一篇『九十九』と同じくデジタル技術でキャラクターが生成されている。ただしこちらの作品は、かなり手書きの生理に近い。私も見ていて、果たして手書きだろうかデジタルだろうか、ど判定できずにいた。後で解説を読むに、キャラクターは全てデジタルで制作されていたようだ。
線はロットリングで描いたような強弱を持った掠れを残し、その線には常にゆらゆらと揺れるタッチ線が添えられている。影は淡く、RETASで作成したグラデーション処理のようで、ややぼんやりした印象に感じられる。『九十九』の線は見るからにデジタルであるのに対して、『GAMBO』の線には手書き特有の呼吸感がわずかに感じられた。揺れるタッチ線がそういう印象を与えているのだろうか。
動きは、特に中割の動きがなだらかに進みすぎて、静の場面ほどデジタルの癖が出ているように感じられた。
もっとも、違和感があったのは線割の動きくらいのもので、アクションが始まったらデジタルであるか、なんてほとんど考えなくなった。おそらく、アクションの動きは1コマ1コマにアニメーターの感性が加わるからだろう。また動きが激しく、考えるより画面の持つ熱量に圧倒されてしまう。
白熊と赤鬼の肌の色は、色を一定に定めず常にゆらゆら揺れている。線画の下に隷属したこの質感がブラシストローク処理に似た印象で、かなりデジタル感があるものの、巨大なものという存在感が何かしら怪しい影がうごめいているような不気味な印象を滲み出している。
『GAMBO』は他のエピソード以上に投げっぱなしの部分が多く感じられる。十字架を下げた白髪の曰くありげな野武士。終盤になって唐突に現れる武装した兵隊は、何ら脈絡もなく現れては白熊対鬼の戦いに参戦する。しかしそれらの解説を全て放り投げて、白熊対鬼の対決という一幕に全てが注がれた作品であった。

作品データ
監督:安藤裕章 原案・脚本・クリエイティブディレクター:石井克人
キャラクター原案:貞本義行 脚本:山本健介
キャラクターデザイン・作画監督:芳垣祐介 美術監督:本間禎章
CGI監督:小久保将志 CGアニメーションチーフ:坂本隆輔
色彩設計・色指定:久保木祐一 コンポジットチーフ:佐藤広大 音楽:七瀬光
出演:田村睦心 浪川大輔

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武器よさらば

『武器よさらば』は大友克洋作品の中でも伝説的な存在感を持つ作品を原作にしている。漫画にデジタル技術が盛りこまれた、最初の作品だ。
舞台となるのは国籍不明の荒野。見渡す限り荒れ果て砂漠化した大地が続き、その中を疾駆する装甲車のような車両が砂煙を吹き上げている。やがて荒野の向こう側に、唐突に残骸のような都市が出現する。舗装されたアスファルトは荒野の手前で寸断され、その一角だけ砂漠のオアシスのように孤立しているが、かつて大きな都市だったらしく、背の高い高層ビルがそびえ立っている。都市の残骸は、長年砂嵐を浴びて、荒野と同じ日に焼けた砂の色をしていた。
主人公達ギムレットの仕事は、廃墟に残された兵器を探索し、この処理を行うことらしい。詳しい設定は語られていないが、彼らは軍人としての訓練も受け、その上でこの仕事を請け負っているようだ。
ギムレット達はプロテクションスーツを身に纏う。これは宇宙服のような外観だが、人間の力を数倍に引き出すパワードスーツで、全身密着型だが空調が効いていて中は涼しく、むしろ荒野のような熱砂の中にいるとプロテクションスーツを着ていた方が涼しいという。
隊員全員がプロテクションスーツを身に纏い、任務遂行のために都市に乗り込んでいく。そこに現れたのはかつての戦争で置き去りにされ現在も機能している無人兵器ゴングだった。ギムレット達はゴングと戦うために作戦を展開していくが……。
監督を務めたのはカトキハジメ。アニメ界隈ではメカデザイナーとしてすでに充分な地位を固めた作家だ。『武器よさらば』は原作に対する猛烈な愛情ばかりではなく、メカデザイナーという仕事で培われた知識、メカに対するフェティッシュな感性が目一杯に注ぎ込まれた作品になった。
作品の中心は言うまでもなく、ゴングとの戦いの一幕に注がれている。ゴングのAIはどうやら高度なものではないようだ。動くものを索敵して、レーザーで打ち込むだけ。ただし、その火力は圧倒的だし、反射速度が異様に速い。たかがそれだけのシンプルな構成のAIだが、人間がこれに立ち向かうのは容易ではない。
ギムレット達は空中に探索機を飛ばして、ゴングの行く先に周り、攻撃のタイミングを見計らう。矢継早に流れていくカット、緊迫した状況、確かな描写力……何もかもが完璧な精度で、少々のハッタリはあるものの充分な知識に基づくアクションだ。原作はどちらかといえばさっぱりした感じの、短いアクションものだったが、映像化された『武器よさらば』はこれでもかと密度を追加して厚みのあるアクションに仕上げている。
“メカ描写”とはやはり“線”だ。デザイン以上に線の集合で圧倒するのが、メカアニメの流儀だ。キャラクターもメカも背景も、画面を幾何学的な線で埋め尽くして圧倒する。もちろん、線には有機的な思想が込められていなければ、ただのハッタリにしかならない。『武器よさらば』では、バイザーから見えている顔面だけを手書きで描き、プロテクションスーツをデジタルで描いている。デジタルで描くことで線の密度を破綻させず一定以上の密度を保たせることができる。またデジタルにすることで、制作途中からのデザイン変更も可能だったようだ。
そうしたデジタルの利点を活かしつつ、作り手はメカアクションの描写に徹底した力を注ぐ。たった十数分のアクションだが、ゴングの脅威を充分伝える内容になっているし、それに対する人間側の作戦展開も見応えある緊迫感を出している。
『武器よさらば』は映像化する際、当時読んだ人達が「思いで補整」して現代化した部分を計算してそのぶんの厚みが追加された作品だ。原作に思い入れのある作家が描いたからこそ、より完成度を高めた大友作品になった、といえる。

作品データ
監督・脚本:カトキハジメ 原作:大友克洋
キャラクターデザイン:田中達之 メカニカルデザイン:カトキハジメ・山根公利
CGI監督:若間真 作画監督:堀内博之 美術監督:小倉宏昌
演出:森田修平 色彩設計:山浦晶代 撮影監督:田沢二郎
編集:瀬山武司 音楽:石川智久
出演:二叉一成 檀臣幸 牛山茂 大塚明夫 置鮎龍太郎

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『SHORT PEACE』は4人の作家による4つの短編の映像絵巻である。全員が割り当てられたそれぞれの場所で、それぞれの“一幕”だけを描いている。しかしその“一幕”は起承転結としての役割を持っていない。1本の連続映画としてものの見事に投げっぱなしで、誰もストーリーを、あるいは映画をまとめようとはしていない。全員が競い合うように、その前後にあるべき物語の流れを削ぎ落として、人間とアクションがもっとも激しく躍動する“クライマックス”のみを描いている。
それだけに熱量が凄まじい。誰もが自分の描きたい一幕のみを描くために、その全てを注ぎ込んでいる。強烈なエゴイズムがフィルムに現れ、それが全体の熱量となって作品の魅力となっている。
一応、お題目として「日本」が掲げられている。4人がイメージした「日本」はそれぞれでまったく異なるものだった。『九十九』は物に取り憑く妖怪を描き日本人のアニミズムの精神性を描き、『火要鎮』は風情ある浮世絵世界の品格を完璧な精度で再現して見せた。『GAMBO』は戦国時代を背景に、好き放題ファンタジーを巡らせて超重量級アクションを描いた。『武器よさらば』は未来の日本が舞台にされているが、もはや日本でなくてもいいじゃないか、という内容になっている。しかも物語のまとめとしての役割を完全放棄している。
モチーフや映像の感触が違うというだけではなく、どの短編にも実験的な要素を孕んでいる。映画を制作するビッグバジェットを利用しつつ、映画そのものが技術実験の場にしてしまっている。それぞれで違う技術、手法が試みられて、この映画で考案されたあらゆる技術は、間もなく業界内にあまねく広がり、技術的なボーダーラインを一つあげてくれるだろう。
全員が投げっぱなしで奔放にイメージした日本。細密である一方でいい加減に風呂敷を押し広げてしまう日本。しかしそれこそ翻って日本だ。格式やありきたりな様式では決して捉えられず、むしろその様式を内包しつつ自由にイマジナリィを放出させる。
まさにそれこそが日本だ。これが日本のアニメであり、アニメの中の日本だ。

総監督:大友克洋
アニメーション制作:サンライズ


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