早朝。柊かがみが青い夏服のセーラー服に袖を通す。
「そういえば、今日から夏服だっけ? こなたあたり、冬服のまま来そう。いるのよねぇ、クラスに一人くらいは」
かがみは一人で想像して、にやにや。そこに、妹の柊つかさが部屋に入ってくる。
「お姉ちゃん、おはよう」
冬服のセーラー服を着ているつかさ。
はっと目が合い、時間が気まずく停止する。
「うわぁ、こんな身近にいたよ」
暑い夏。柔らかなパステルカラーも、コントラスト強く描かれる。
暑さのためか、少女たちは無防備な姿を見せる。
季節は、いよいよ暑い夏に入ろうとしている。
セーラー服は青い夏服に替えられ、アニメの色彩も衣替えをするように変わる。
明るいパステルカラーが中心だった前1巻に対して、第2巻は全体のトーンが寒色系のカラーにまとめられる。
前1巻が華やいだ感じに対して、どこか落ち着いた感じの画面だ。
清涼感のある淡いブルーが、清々しいイメージを描き出している。
こなた達の時間は、つつがなく進んでいるようだ。
制服が替わって、最初の日の通学風景。
背景画は、しっかりした透視図法で描かれる。
夏服の少女たちが、電車に乗るために駅に向かう。
朝の通勤ラッシュも過ぎた頃で、プラットホームに人は少ない。
こなたは、柊姉妹と一緒に、のんびりと駅のプラットフォームを歩く。
「そうだ。懸賞の応募忘れてた。あれ、欲しかったんだよなぁ」
「愛が足りなかったからだよ」
「いや、単に忘れてただけだから」
「いやいや、愛だよ」
いつものように、対話は何の目的も持たずに始まり、進行していく。
対話は、次なるシーンを予感させない。何の蓋然性を持たずに、ただ言葉が羅列されていく。
夢見がちなこなたは、ついビシッと対話を止めてしまう。
ところで、このエピソードだけ、こなたの座席の位置が違っている。いつもは、場所不明の中間あたり。
時間の構成が極めて特殊なアニメだ。
通常の脚本では、対話は1分から2分といったところだ。
ところが、『らき☆すた』では5分くらい当り前に消費する。
原作で4コマに収められていた対話は“こっぺぱん”のメロディによって延長され、継ぎ接ぎにされ、目標を持たず続く。
だが、不思議と停滞感や、鑑賞のストレスはない。
すでに我々は、物語が持っている独特の時間に捕らわれ、それが当然の約束ごととして受け入れようとしている。
遅刻しかけた泉こなた。物語は対話を優先しているので、時にこんな飛躍を見せる。
物語は夏に入るが、こなた達の日常は相変わらずだ。
特に大きな事件はなく、ドラマが始まる気配もない。
ただいつもの女友達が顔を合わせ、対話を重ね、日々を重ねていく。
少女たちは、ゆるやかに夏の一日一日を消費している。
日常とは、そんなものだ。
ドラマの否定と、日常だけの物語。日本の漫画世界では、すでに一つのジャンルを持つ系統だ。
『らき☆すた』の場合、そこに男性の影がほとんど現れない。
ほとんどが10代の少女たちだけで物語が描かれている。
『らき☆すた』に描かれる少女たちは、いずれも現実的な人間の形を相当に崩され、記号化されている。
だが、ほんのりとそこに性の香りがする。
キャラクターたちは記号化されても性だけは否定せず、はっきり女であると、いや少女であると主張する。
『らき☆すた』は少女だけの世界であり、少女達の夢幻の戯れが描かれる。
進展しない物語。だけど楽しそう。
対話に連続性を持たないが、こなた達の日常は閉鎖的な世界の中で補完されていき、一種の物語を形成し始めている。
時間はゆっくり進んでいる。
もうすぐ夏がやってくる。少女は、何か起きるかもしれない夏に、胸を躍らせている。で、結局、何も起きないのだろう。
『らき☆すた』が描く日常は、そんな少女達のどうでもいい毎日。
我々はそんな彼女達のやりとりのなかに、しばらく同居して、ともに会話する。
『らき☆すた 1』の記事へ
作品データ
監督:山本寛 原作:美水かがみ
脚本:待田堂子 絵コンテ・演出:吉岡忍 石立太一
作画監督:池田晶子 米田光良
制作:京都アニメーション
出演:平野綾 加藤英美里 福原香織 遠藤綾
立木文彦 くじら 今野宏美 白石稔 前田このみ
講談社コミックス『さよなら絶望先生 第16集』に付属する、限定生産されたオリジナル・アニメーション・DVDのシリーズ第2弾だ。
テレビシリーズで構築された表現、技法はそのまま踏襲され、ここで改めて作品に論じるべきものはない。
『獄・さよなら絶望先生・下』において、最も注目すべきは、そのオープニングシーンだ。
過去のオープニングシーンが蒐集され、あえて継ぎ接ぎだらけにし、稚拙な色彩をで塗りたくり、そのうえに容赦なく切り刻んで列挙する。
それがオープニングテーマ曲とマッチした瞬間、途方もない毒々しさが吐き出され、かつてない病的イメージを作り出している。
まるで、悪夢そのものが動き出しているようであり、絶望先生という自在さを見事に味方につけている。
日本アニメーションのもはや単調ともいえる線の構成は、徹底的に破壊され、陵辱され、作家自身のイマジナリィを直裁的に刻印している。
作品の毒は、オープニングによってどこまでも強烈に強められている。
オープニング主題歌についても記さねばならない。
今回もオープニング曲は、大槻ケンジと絶望少女たちが熱唱している。
それに加えて、まさかの〈らっぷびと〉が加わり、奇跡のような共演を果たす。
〈らっぷびと〉はインターネットサイトなどでアニメの楽曲を“勝手に”ラップ風にアレンジし、“勝手に”発表していた歌手である。
通常ならば、言語道断極まりない話である。
しかし、〈らっぷびと〉の表現力・技術力の高さに誰もが言葉を失った。新たな才能が生まれた瞬間を目にしたのだ。
〈らっぷびと〉が歌う『人として軸がぶれている』は本家・大槻ケンジの公認を受けたほどである。
そして、遂に本家オープニング主題歌を担当。大槻ケンジとの共演が実現したのである。
〈らっぷびと〉が表現した絶望先生は、新鮮で、前衛的なイメージが強まり、絶望先生の果てなき発展性を象徴している。
すっかり“イタイ女の子”というイメージを定着させた日塔奈美(普通なのになぁ)。毒の多い作品に、朗らかな印象を与えている(普通だからか?)。
さて、アニメーション本編はこれまでのOADシリーズ同様、3話構成で成立している。
『第一話 暗中問答』
原作149話のエピソードだ。
夜更け。人知れぬ古寺に集る少女たち。絶望先生主要キャラクターである少女たちが顔を並べている。
そこに、糸色望が姿を現す。
「皆さん。それぞれのネタを持ち寄りましたね」
そう、これから話すのは怪談ではない。
“ネタ”である。
しかし、ネタというネタが、次々と吹き消されていく。
新しいネタが発見できない。
そんな、連載漫画家のリアルな恐怖を描く。
ホワイト・デーがネタにされている。そういえば『獄・さよなら絶望先生 上』では、バレンタイン・デーがネタにされていた。
ちなみに、「勝者なき」と言いつつ、本作品は『文化メディア芸術祭審査員推薦作品』に選ばれている(下の可符香のカット)。何だかんだで、一人勝ちである。
『第二話 負けた草子』
原作130話のエピソードだ。
二人の男がメイド喫茶に向かっている。その日は、ホワイト・デーだ。二人の男に掌は小さなチョコが握られている。
が、二人の男はメイド喫茶の前で睨みあう。
「自分のほうが愛されている!」
しかし、それは勝者のない、敗者しか生み出さない戦いであった。
世の中、敗者同士の勝者のない不毛の対立がいくつもある。
そんな世の中を皮肉ったエピソードだ。
絶望先生らしい、一篇だ。
オリジナル・ストーリの第三話。高校生の糸色望が桜並木で見たものとは?
『第三話 一本昔ばなし』
今作唯一のオリジナルストーリーだ。
糸色望の高校時代のエピソードが中心に描かれている。
糸色望がいかにネガティブな性格を形成していったか、社会に対して根暗な印象を持つようになっていったのか。
その経緯を、物語漫画風に綴る。
可符香の心象風景(?)
絶望先生のビジュアルイメージは、すでにテレビシリーズで確立している。
だが、このシリーズはあえてOADシリーズであったほうがいいだろう。
テレビには自主規制という縛りが多く、時間的制約すらある。
絶望先生にとって、テレビは、もはや鎖でしかない。
OADによって、その鎖から解き放たれて、のびのびと自由に暴走する姿のほうが絶望先生らしく思える。
かつてない毒素を持ったオープニング。
本編すら霞んでしまう強烈さ。
登場キャラクターを演じる声優達の演技は、見事な調和を果たしている。
アニメシリーズからすでに2年の時を経て演じ続け、どの俳優も、キャラクターの特性を充分に知り抜いている。
今や、声優たちが喋ると、そのキャラクターが本当に呼吸しているような印象すら感じる。
絶望先生はどこまで続き、どこまで広がっていくのだろう。
絶望先生という領域は、今現在をも広がり続けている。
通常の漫画作品より、絶望先生は作品の基盤が柔らかい。
あらゆる才能を受け止めて、その作品の洪水のような情報量の一つにしてしまう。
どんな才能も流行も、絶望先生の手にかかればネタのひとつとして、キャラクターのひとつとして、飲み込まれてしまう。
『獄・さよなら絶望先生・下』においてはらっぷびとという才能を獲得した。
今後も、どこまでも無限の発展性と可能性が期待されるシリーズである。
これからも、ネタ切れにはらはらさせながら、果てなく拡大していく様を見守っていきたい。
さよなら絶望先生 シリーズ記事一覧
コミックス:さよなら絶望先生 第1集
作品データ
監督:新房昭之 原作:久米田康治
副監督・絵コンテ:龍輪直征
演出:宮本幸裕 飯村正之
作画監督:村山公輔 田中穣 岩崎安利
構成:東富那子 色彩:滝沢いづみ 佐藤加奈子
出演:神谷浩史 野中藍 井上麻理奈 谷井あすか
真田アサミ 小林ゆう 沢城みゆき 後藤邑子
新谷良子 松来未祐 後藤沙緒里 井上喜久子
杉田智和 寺島拓篤 水島大宙 子安武人
協力:MAEDAX G
映画『ダークナイト』の公開に先立って製作された、アニメ作品である。
前作『バットマン・ビギンズ』との間を埋めるエピソードが描かれている。
今回のアニメ版は、すべて日本のアニメーション製作会社が作画を担当している。
アニメ『バットマン ゴッサムナイト』は6本の短編集から成り立っている。
構成の方法や、アプローチの手法は、『アニマトリックス』を参考にしている。
しかし、その方向性は、『アニマトリックス』とはまるで違う。
6本の作品は、いずれもバットマンだが、それぞれの作家がそれぞれの視点で、オリジナルのバットマン像を展開させている。
第3話(左)と第6話(右)のブルース。
説明されないと、同一人物とは思えないほど、タッチが違う。
6本のアニメ作品は、あまりにも個性的で、一貫性を見つけ出すのは難しい。
多様なテーマ、多様な舞台。
どうやら、時間的な連続性だけはあるようだ。
しかし、絵柄が違えば、声優も違うし、コスチュームすら変わってしまう。
絵柄については、あまりにも違いすぎて、誰が誰なのかわからなくなってしまう。
まるで6本のアニメが、違う国籍で作られたかのような印象すらある。
第1話は『鉄コン筋クリート』で作画を担当した西見祥示郎が担当する。
そのバットマン像は、史上最もユニークと評される。
どんな姿なのか、見てのお楽しみ。
『アニマトリックス』との決定的な違いは、ベーシック・アニメが存在しないことだ。
6人のアニメ監督が、それぞれのバットマン像を独自に追求した作品だ、といえるだろう。
異様な生々しさを持つゴッサムシティ。
どこかにありそうで、しかしどこにもない風景を作り出した。
今回のバットマンで、最も印象的だったのが、ゴッサムシティだ。
実写で架空の都市を描くのは、非常に難しい。
実景をデジタルで補強したり、セット撮影になったり、
撮影の自由度は、極端に制限されてしまう。
それが、今回のアニメ作品では、ゴッサムシティがより立体的で実在感のある都市として描かれていた。
高精細で、臭いすら感じられるようだ。
日本のアニメーションは、常に物質の手触りや汚れを表現しようとする。
そういった経験の積み重ねが、あの見事な表現力に結びついたのだろう。
第5話。哲学的な面から、バットマン像を探った作品。
6本の短編アニメは、確かにバットマンだが、奇妙なくらいバットマンは客観的だ。
どのエピソードも、バットマンを外から語っている。
バットマンの正体であるブルースですら、バットマンについて語り始めると、客観的になる。
バットマンが、自分自身を語るエピソードは存在しない。
バットマンは、いったい何者なのか。
「正体が誰なのか」といった議論ではない。もっと本質的な問いだ。
その正体について、それぞれの作家が、それぞれの方法で模索した作品だと言うべきだろう。
誰にとっても、バットマンは実像が不明なのだ。
恐怖や不安、恐れ。実像を探ろうとすると、そういった曖昧な言葉ばかりが出てきてしまう。
あるいは、ゴッサムシティという暗い都市が生み出した、幻影みたいなものなのかもしれない。
作品データ
監督:西見祥示郎 東出太 モリヲヒロシ
青木康浩 窪岡俊之
制作:STDIO4℃ ProductionI.G
マッドハウス
出演:玄田哲章 三木眞一郎 中田譲治
井上喜久子 小川真司 納谷六郎
池田勝
裏山の広場に、のび太は寝転がっていた。
傍らには、0点のテスト用紙。
「あ~あ、どうしようっかな……」
唐突に、風が吹いた。テスト用紙は、風に飛ばされてしまう。
藪を抜けると、そこはゴミ置き場。投棄された洗濯機に、木の苗が放り捨てられていた。
のび太は、テスト用紙を追いかけて、森の中へ入っていく。
深い藪を抜けた向うに、ゴミ捨て場があった。
のび太は、そこでテスト用紙を拾う。
それからのび太は、投棄された洗濯機に、木の苗が放り捨てられているのに気付く。
「木の赤ちゃん……?」
のび太はふと思いついて、木の苗を持ち帰ってしまう。
“植物自動化液”を浸して一日置くと、木の苗は意思を持って動き出した。
こう見ると、眼鏡をかけていないのび太の顔が、随分、現代風になっているとわかる。
家に帰り、こっそり庭に植えようとするが、ママに「駄目よ」と釘を刺されてしまう。
そこでドラえもんは秘密アイテム“植物自動化液”を出し、木の苗に注ぐ。
すると翌日の朝、木の苗は意思を持って活動を始めた。
のび太は、動く木の苗に「キー坊」と名付けた。
異世界の風景。植物が中心となる文明都市。発想は、平凡というしかない。
それにしても新シリーズのスネ夫の前髪は、やわらかくなった。
自然の破壊と、逆襲、人間文明の反省。
一昔前のSF漫画では主流となっていたテーマだ。原作『ドラえもん』においても、執拗に繰り返された題材である。
『ドラえもん のび太と緑の巨人伝』は古びたテーマを、最新の感性で再生させる。
今回、いい味を出していたのは、ジャイアンだ。
過去シリーズでは、それほどコメディリリーフではなかったが、今回は笑いの中心である。
物語の中心にあるのは、動き出す植物である。
子供は、しばしば植物に対しても人格があると見做し、ごっこ遊びの相棒にする。
キー坊の発想は、いわば子供遊びが原形だ。
子供の物語としては実にふさわしい創造物だ、
表情の動きが楽しい。表情の豊かさは、新シリーズの特徴だ。
アニメ本来の動きの面白さを取り戻している。
劇場版『ドラえもん』は、全体を通して、キャラクターの動きが特徴的だ。
どの場面も表情は豊かで“線の檻”に捕らわれない、自由な動きを見せる。
アニメは、いつから〈止め絵にパクとパチだけ〉でキャラクターを描くようになったのだろう。
『ドラえもん』のキャラクターは、現代の日本アニメへのアンチテーゼのように自由に動き、線の一つ一つには意識的なかすれを加え、温かみを与えている。
それでいて、背景美術は写実的で克明に描かれ、やわらかなキャラクターと豊かな感性で両立し、ぬくもりのある画面構成を生み出している。
中盤あたりから、物語の連続性はガタガタと崩壊する。
後半の展開は、もはや、“場面”が並んでいるだけだ。
シーンの一つ一つに繋がりがまったくなく、流れとしてみることができない。
ついには、見る行為が、作業か何かのようになってしまっていた。
ただし、物語の後半は、尻すぼみに崩壊していく。
脚本の準備不足か、構想力の欠如か。
物語に論理的構造は消えうせ、ただ場面だけが羅列される。
後半になって登場するキャラクターにしても、中途半端で順序の悪さが目立つ。
冒険アニメの金字塔。
子供時代、誰もが一度は夢中になるのが、ドラえもんの劇場シリーズだ。
そんな輝きを、次回作には取り戻して欲しい。
しかし、それでも有り余る魅力があるのが『ドラえもん』の映画シリーズだ。
唐突に展開する戦いや、急激な変調を見せる物語は、現実的なパースティクティブをもった現代的な物語というより、古典的な民話や神話物語を連想させる。
現代の詩人が失った感性が、子供向け漫画映画の中に残されていた。
いつか、“子供時代の思い出”のひとつに数えられる映画になれば良いだろう。
作品データ
監督:渡辺歩 原作:藤子・F・不二雄 音楽:大野木寛
出演:水田わさび 大原めぐみ かかずゆみ
木村昴 関智一 堀北真希
有田哲平 三宅裕司
赤い海に水没する街。車道には、戦車が警戒態勢で整列している。
突然現れる、正体不明の巨人――使徒。
碇シンジは、十年ぶりに再会した父親に、「エヴァに乗り使徒と戦え」と命じられる。
シンジは、戦いの恐怖と、父親の反発から、何度も逃げ出そうとする。
それでもシンジは、幾多の葛藤を潜り抜けて、戦う決意を固める。
あれから十年。碇シンジの顔つきも、やや凛々しくなった。
あの衝撃的なテレビシリーズから、十年。
エヴァンゲリヲンは、劇場作品として、完全復活を成し遂げた。
ヒロイン、綾波レイは、しばしば“萌え”の原点として語られることがある。(萌えの語源は、セーラームーンの土萌蛍から)
だが、かつてのエヴァシリーズと、様相は異なる。
テレビシリーズでは執拗に描かれた、メランコリーが希薄になった。
男性性が欠落した碇シンジと、傷だらけの少女、綾波レイ。
今回の新劇場版においては、どちらも、キャラクターとして描かれているだけだ。
少年のメランコリーは、もはや中心的テーマではない。
追加作画されたシーンは、どれもトレス線がシャープだ。
古い作画と、どうしても較べて見てしまう。
人間のドラマは、どこまでも希薄で、淡々と描かれている。
具体的なアクションは、ほとんど起きない。
継ぎ接ぎのカットが並び、断片的なナレーションが流れるだけだ。
人間のドラマに、時間的な繋がりも、地理的な連続性もない。
心象風景が、わずかに流れるだけだ。
メカの描写が凄まじい。人間のドラマは希薄で、映画の中心がメカにあるとわかる。
技術が徹底されているが、どうしても子供っぽいものを感じる。
その一方で、過剰に描かれたのが、メカのギミックだ。
メカの描写は、どこまでも詳細で、一つ一つのアクションが執拗に描かれる。
音楽も、人間のドラマより、メカの魅力をいかに増幅させるか、という部分に力点が置かれている。
だからこの映画は、人間のドラマではなく、“ドラマチックなメカ”が中心のアニメと呼ぶべきだろう。
エヴァと周囲のスケールが、より詳細に描かれるようになった。
そうしたメカへの愛情、フェティシズムは強烈だ。
徹底した描写は、“アニメはディティールを描けない”という通念を軽々と飛躍する。
強大なメカが、モーター音をかき鳴らしながら次々と現れ、盛大に破壊されていく。
映画のほとんどが、メカと破壊の連続だか、それがとてつもなく楽しい。
映像に音楽の力が宿ると、メカにも魂が宿る。
作り手のフェティッシュが、凄まじいエネルギーとなって、躍動し始める。
その瞬間、映画はかつてない輝きを放ち始め、大きなドラマが動き出す。
あれから、すでに十年の歳月が流れた。
しかし、エヴァンゲリヲンは、いまだに古びない。
十年間、日本のアニメの進歩に、とどめを刺し続けた作品だ。
今でも最も強烈だし、いまだにアニメの業界内において、イコン的存在である。
アニメは、今もエヴァが見せたイマジナリィから逃れることも、越えることもできない。
作品データ
総監督 庵野秀明
監督 鶴巻和哉 摩砂雪 音楽 鷺巣詩郎
出演 緒方恵美 三石琴乃
山口由里子 林原めぐみ