サンチャゴ老人は、すでに84日間、魚が釣れていなかった。
少年が一緒に行きたいと申し出るが、
サンチャゴ老人は「お前さんの船は、今ついている」と断る。
その夜も、サンチャゴ老人は一人きりで舟に乗る。
85日目の船出だった。
魚がつれなかった日数を、壁に書き付けているサンチャゴ老人。
冒頭のアフリカ旅行の場面は原作にはない部分だ。物語の背景にある広大さを予感させるためのプロローグだ。
夜が明けて、海と空が果てなく広がる。
もう、人の気配はどこにもない。老人の孤独な戦いが、すでに始まっていた。
そんな時、ふと釣り糸の一つが反応を示した。
来たか。
大きい。とてつもなく大きい。それに、凄まじい力だった。
一匹の魚は、老人を引き倒し、小さな舟を引きずろうとする。
それは、老人が今までに見た経験のない巨大な魚だった。
一人の老人と、一匹の魚の戦いが、始まろうとしていた。
『老人と海』はオイルアニメーションと呼ばれる技法で制作されている。日本のセルアニメーションと違って、曖昧な中間色を塗り重ねることによって像を浮かび上がらせる。暗闇のシーンほど光と陰が際立ち、オイルアニメーションの効果をはっきりとさせている。
『老人と海』それは、一人の老人と一匹の魚の終わりなき戦いを描いた物語だ。
老人と魚を取り囲むのは、茫漠とした海だけだ。
一人と一匹がただひたすら対峙する。
それだけの物語だが、その両者に漲る緊張感は、かつてなく重く、力強い。
アニメ版『老人と海』は、原作よりさらに過酷で、精神の戦いとして描かれている。腕相撲のシーンは原作にない部分だが、物語の精神性をよく物語っている。カジキマグロとの戦いは体力、精神の限界を飛び越えて、やがて戦士として、互いの力を認め合うようになる。
老人は、あの魚を殺すことに、幸福を感じていた。
「星を殺さなくていいだけ、幸せだ。海で暮らして、本当の兄弟を殺すことができるんだ」
老人が対峙しているのは、名のない一匹の獣だ。
文明も知恵もない。
だが、彼らはどこまでも凶暴で、それでいて気高い。
老人はそんな獣をすぐ側に迫り、その槍で獣の魂を殺せるのだ。
この茫漠たる海で対峙しているのは、もはや老人と魚ではない。
戦士と戦士による、精神の戦いだ。
老人とカジキマグロ。言葉なき相手だが、いつの間にか絆のようなもので結ばれる。ともに泳ぎ、ともに命を削って殺しあう。戦士としての絆だ。
もちろん、原作にこの場面はない。ただ、大自然とたった一人で対峙するというテーマがより強調された場面だ。
アーネスト・ヘミングウェイの『老人と海』を知らぬ者などいない。
だが、アレクサンドル・ペドロフが描く『老人と海』は、今までに我々が目にした経験のないアニメーションだ。
アレクサンドル・ペドロフが描くアニメーションには、どの瞬間にも美しく、まるで古典芸術でも見ているかのような感動をもたらす。
技法としては、ガラスの板をセルに見立てて、アクリル絵具で画像を作りだす。
このアクリル絵具を指で少しずつずらしながら撮影することで、アニメーションを作るわけだ。
日本のアニメーションのように、キーとなる原画制作や、タイムシートはない。
それでもアレクサンドル・ペドロフが制作するアニメーションは、絵画としても動画としても完璧だ。
圧倒的な絵画を前にして、我々はもはや溜息をつくだけしかできない。
この作品を鑑賞していると、様々な絵画や、画家の名前が浮かぶ。光と陰の描き方は暗いバロック絵画を思わせるし、海のシーンは印象派のようだし、激しいアクションはロマン主義絵画のようだ。おそらく、アレクサンドル・ペトロフが背負う芸術文化そのものが画像に現れたのだろう。
『老人と海』は、ただ老人が巨大な魚と出会い、戦うだけの物語だ。
ふとすると、単調な映像になりかねない題材だ。
だが、アレクサンドル・ペドロフが描くアニメーションはあまりにも美しい。
老人の終わりなき戦いの顛末を、老人と同じだけの情熱で描き出している。
どの瞬間もあまりにも美しく、どの瞬間も途方もなくドラマチックだ。
これを越える美しい映像を、果たして今後見る機会はあるだろうか。
作品データ
監督・脚本・作画:アレクサンドル・ペトロフ
原作:アーネスト・ヘミングウェイ 音楽:ノーマンド・ロジャー
出演:三國連太郎 松田洋治
第72回 アカデミー賞短編アニメ賞受賞
ナルト、サスケ、サクラの三人が、空き地でカカシ先生の到着を待っていた。
ナルトたちに、新たな任務があるらしい。
だが、例によって具体的な説明はなく、ナルトたちはカカシから、映画『風雲姫』を見ておけ、とだけ指示されていた。
そんなナルト達の前に、さまさかの『風雲姫』の主役、富士風雪絵が姿を現す。
富士風雪絵は、何者かに追われ、逃走していた。
ナルトたちは、雪絵を救い出すために、追手たちに戦いを挑む。
どのカットも、非常に細かく、こだわりが現れている。演技空間はどのカットも奥の奥まで描かれ(左のカットの、天井照明まで描かれるのに注目)、ちらと見えるモブまでしっかりと演技が付けられている。
今回の任務は、女優・富士風雪絵を護衛して、次なる撮影現場である雪の国へと無事に送り届けることだった。
間もなくして、女優・富士風雪絵は仮の姿であると判明する。
富士風雪絵は、実は今は滅びた雪の国の正当なる後継者だったのだ。
映画撮影はカモフラージュに過ぎず、真の目的は、雪の国復興のために、雪絵を祖国に連れ戻すことだった。
しかし、そんな雪絵の前に、悪の手先である雪忍ドトウが立ち塞がる。
『NARUTO』は、走り動画にこだわりがある。様々な走りポーズを見せるが、多くのシーンでは前傾姿勢になり、疾走するように駆ける。独特の走りポーズは同制作スタジオ作品の『忍空』から継承されたものだ。この走りポーズが、現実にはない、風を切るような素晴らしい移動感と爽快感を生み出している。
映画『NARUTO-ナルト- 大活劇!雪姫忍法帖だってばよ!!』は大人気ナルトシリーズの記念すべき劇場版一作目である。
その完成度は非常に高く、アクションは圧倒的で、次々と繰り広げられる忍術戦に、観客を飽きさせず引き込んでいく。
どのアクションも力が強く、キャラクター達は人並みはずれた速さで疾走し、高く跳躍する。
ほとんどの場面は厳密なパースティクティブが設定され、キャラクター達はあえて重力の影響を受けている。
だが、その重力をあえて受けつつ疾走する姿が、実に清々しく、動きの一つ一つは美しい。
アクションの一コマだ。ほんの一瞬だが、仕事に妥協がないのがわかる。激しいアクションが連発するが、キャラクター達はレイアウトのパースティクティブの上に設置し、一定の重力感とディティールを常に保ちながらアクションしている。こうした卓越した表現技法は、日本以外のどの国籍でも制作不能だっただろう。
一方で絵画の豪快さと対照的に、物語は単調だ。
物語の展開に大きな転調はなく、まるで滑り落ちるように真直ぐ映画が終わってしまう。
映画関係者や悪の忍者ドトウといった、魅力的なキャラクターが多いが、あまりに捻りのないステレオタイプとして描かれている。
動画の圧倒的な印象に対して、物語にやや物足りなさが残る。
本作は“エフェクト”の映画として見るべきである。どのアクションも、最も豪快に躍動するのは、実は“エフェクト”だ。作画には“エフェクト監督”なる立場の人もいる。もし、これから鑑賞する場合は、エフェクトの動きにも注目してもらいたい。また、注目すべきは製作スタッフである。中心的な製作スタッフは、いずれもアニメ業界を代表する第一級の人達ばかりだ。続くシリーズにはない豪華さである。
それでも、NARUTOには、余りある魅力を多く含んでいる。
力強いアクションや、個性的なキャラクター達。
そんなキャラクター達が超人的アクションを見せる度に、我々は大地から解き放たれたカタルシスを感じずにいられない。
日本において(あるいはアジア文化圏で)は、古くから民話や神話の中に、子供のヒーローを多く描いてきた。
桃太郎や金太郎、一寸法師、少年牛若丸の武勇伝。
戦後を経てアメリカ文化が流入してきた後でも鉄腕アトムやドラゴンボールの孫悟空といったキャラクター達が子供達の一番人気だった。
NARUTOはそういった伝統の上に創造された物語である。
子供の身体が超人的な力を持ち、重力に思い切り反発して疾走し、跳躍する。
NARUTOが持っているカタルシスの根源は、もっと古くから根付いた、我々の精神にあるのだ。
監督:岡村天斎 原作:岸本斉史
脚本:隅沢克之 総作画監督:田中比呂人
キャラクターデザイン:西尾鉄也 メカニックデザイン:荒牧伸志
コンセプトデザイン:遠藤正明 美術監督:高田茂祝
色彩設計:水田信子 撮影監督:松本敦穂
絵コンテ:岡村天斎 川崎博嗣 演出:照井綾子
アニメーション制作:スタジオぴえろ
出演:竹内順子 杉山紀彰 中村千絵 井上和彦
甲斐田裕子 磯部勉 鈴置洋孝 唐沢潤
金子はりい 西川幾雄 高瀬右光
大塚周夫 石塚英彦 美山加恋
いつもの5人組が、リアル鬼ごっこに夢中になっていた。
路上を走り、公園を横切り、町に舞台を移して、いつのまにか知らない路地裏に踏み込んでいっていた。
すると、急に町の喧騒が遠ざかって沈黙が漂った。周囲は高いビルに取り囲まれて陰を落としている。
そんな場所に、ひっそりと映画館が立っていた。
『カスカベ座』
こんな人なんて誰も来そうにない場所に、どうして映画館が?
疑問に思うより先に、しんのすけたちは好奇心と冒険心に胸躍らせて、映画館の中に入ってしまう。
人の気配は全くないのに、映写機はカタカタと動き続けている。不気味な雰囲気だが、子供の冒険心が優る。皆で一緒に映画をみていたが、ふと気付くと、しんのすけ一人になっていた。しんのすけは、皆が先に帰ったと思い込む。
一人きりで家に帰っていくしんのすけ。もうすっかり夜が遅くなっていた。
しかし、他の子供たちがまだ映画館から帰ってきていない。
映画館の中で、子供たちが消えてしまった。
しんのすけは、ひろしとみさえを引き連れて、再び映画館へと向かった。
映画の世界に入ってしまうと、日常での記憶は消えてしまう。子供たちはすでに映画の世界に取り込まれていて、日常の記憶をなくしてしまう。日常を忘れるのも映画の魔力の一つだ。
子供たちは、夢中で遊んでいるうちに、不可思議なアウターゾーンへと踏み込んでいく。
子供の頃には、そういう体験がしばしばある。
遊びで夢中になって駆け回っているうちに、いつも決して行かない、入ってはいけない場所に入ってしまう。
そこで、思いがけない何かを発見する。
現実ではない、異世界への扉。
すぐに帰らなくちゃいけない。
でも、もう帰り方がわからない。異世界の空気はあまりにも魅力的で、帰ろうとしても子供の心を捉え、いつのまにか異世界の住人にしてしまう。
細くて暗い路地の向こう。
そんな場所にある映画館は、もしやアウターゾーンかもしれない。
西部劇世界に登場する人物たちは、皆どこかで見た顔ばかり。マニアなら、にやりとさせる場面が多い。子供より、大人を夢中にさせてしまう『クレヨンしんちゃん』らしい。
『クレヨンしんちゃん』の劇場シリーズといえば、毎回、不可解でシュールな異世界が登場する。
今回の主要な舞台は、もっと現実的な映画館であり、《西部劇》の世界観だ。
『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ』ははっきりと《西部劇》であると設定された珍しい作品だ。
ただし、登場人物の大半は“日本人である”と設定している。
完全な《西部劇》ではなく、わざわざ日本人を交えた無国籍映画とするところが、マニアックな『クレヨンしんちゃん』シリーズらしいひねり方だ。
左のカットは、どう見ても水野晴郎。映画好きで、映画世界に迷い込んできた、という、あまりにもそのまんまな設定。右のカットは、今作のヒロイン、つばきちゃん。毎回ヒロインには独特のこだわりがあり、今回もなかなかの美少女が登場する。
『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ』での西部劇は、やや特殊である。
はっきりとそこが映画の中であることを強調し、映画の仕組みそのものが解説される。
永遠に繰り返される映画世界。
同じ場面、同じ時間を繰り返す世界。
そう、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ』での映画世界は、延々と同じリールを繰り返し続けているのだ。
だから、映画が終わりたくても、決して終われないのだ。
作品としては、他の劇場シリーズよりアクションは少なめ。一方でバイオレンスが多い。いつもの痛快さとは違って、重さのあるドラマを作り出している。ただし、半ばにダレ場があり、やや長い印象がある。ダレ場も本作の特色でもあるが、展開が合理的ではなく、ややマイナス点だ。
毎回、独特な印象を与える『クレヨンしんちゃん』の劇場シリーズだが、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ』が与えるインパクトは、その他のシリーズよりもっと独特だし、深い。
『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ』が解説しているのは、映画という魅力、映画の魔力それ自体である。
映画の世界は、途方もなく魅力的だ。スクリーンに映されるカットの隅々までに魔力が込められている。
できれば、この恍惚的な瞬間を永久に続けたいとすら思う。
だが、永久に終わらない映画がもしあったとしたら。しかも、その世界から逃れられなくなったとしたら。
そんな映画がもし存在したら、映画の魔力は悪魔の呪術となって、見る者を無間の地獄の中に取り込んでしまうだろう。
映画への愛情がたっぷり詰まった作品。
『クレヨンしんちゃん』の劇場シリーズといえば『嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』が圧倒的人気で、本作は陰に隠れやすい。だが、間違いなく傑作映画のひとつだ。
映画とは、いつか終わるものだ。
どんな魅力的な映画も、どんなカリスマ性を帯びた登場人物の人生も、たった2時間でお別れするのが映画だ。
映画には次の展開があり、クライマックスがあり、感動的なエンディングがある。
だからこそ映画は素晴らしい。
『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ』が語り、表現したのは、映画そのもの魅力だ。
そして、映画への無限の愛情である
そんな魅力的な映画も、やはり2時間で終わり、日常に帰らなければならない。
作品データ
監督:水島努 原作:臼井儀人
音楽:荒川敏行 宮崎慎二 脚本:水島努
絵コンテ:水島努 原恵一
色彩設計:野中幸子 色指定:下浦亜弓
制作:シンエイ動画
出演:矢島晶子 ならはしみき 藤原啓治
こおろぎさとみ 真柴摩利 林玉緒
一龍斎貞友 佐藤智恵 斎藤彩夏
村松康雄 長嶝高士 宝亀克寿
玄田哲章 大塚周夫 内海賢二
1999年 東南アジア某国
国連平和維持軍のレイバーが、何者かに襲撃を受けた。
指揮者の柘植は、ただちにモニターで周辺の状況を確認する。すでに、ゲリラ部隊に取り囲まれている。
「ゴングゼロより本部。発砲の許可を要請する」
「発砲は許可できない。全力で回避せよ」
「回避不能。本部、聞こえるか!」
しかし、それ以上の応答はない。
レイバー隊を取り囲むゲリラ部隊が、一斉に射撃を開始する。
柘植はなす術もなく、そこから一歩も動けない。レシーバーに、部下達の悲痛な叫びがこだます。
柘植は、命令を無視して衝動的に応戦をする。
やがて、銃撃は収まった。
何もかもが沈黙する。
たった一人きりで生き残った柘植は、損傷したレイバーの中から脱出する。
外では、雨が降っていた。
柘植は周囲を見回す。
あれだけ激しかった戦闘。だが、どこにも戦闘の影は見付からなかった。
ラーダーを脱出した柘植は、茫然とする。あれだけ激しいと思えた戦闘のあとは、どこにもなかった。
背後には、カンボジアの巨顔遺跡が柘植を見下ろしている。巨顔遺跡は、神の象徴だ。
4年後。東京。
突如、横浜ベイブリッジがミサイルで爆撃された。
いったい誰が? 何の目的で?
だが、どこからも犯行声明はなく、状況と憶測だけが錯綜する。
そんな最中、一人の男が特車2課の後藤隊長を訪ねていた。
男は自衛隊陸幕調査別室の荒川と名乗った。自衛隊の内部観察官だ。
荒川は、後藤に今回の事件の首謀者の名を告げ、協力を求めてきた。
事件の中心人物の名は、柘植行人。ベイブリッジ爆破グループの中心人物であり、荒川が全力で捜索する人物であった。
だが、その所在は不明なまま、事件だけが進行していく。
モニターの映像が繰り返し描かれる。現実とモニター世界との境界線の危うさを表現する。どちらも危うい現実。荒川は「吹っ飛んだベイブリッジは現実だ」と指摘する。
映画『パトレイバー2』が製作されたのは1993年だ。あれからすでに十数年の時が流れている。
だが、『パトレイバー2』が描く都市の景観は圧巻だ。当時の東京の姿を、とてつもない観察眼で接写している。
映画監督押井守が常に主張し続けてきたことだが、アニメの画面には意図したものしか描かれない。
だから、徹底的に“何か”を描いて、画面を埋めなければならない。
では、何を描くのか。
押井守は画面のすべてを徹底的にコントロールし、あらゆるサインを込める。
押井守の映画は、カットの一つが一つの哲学であり、思想であるのだ。
哲学的な映画だが、少なからず“笑い”もある。押井守はかつてタイムボカンシリーズ、うる星やつらシリーズを手がけ、笑いの感性は極めて高い。
現実の世界は、いつの間にかパトレイバーが描く未来世界を飛び越えてしまった。
だが、『パトレイバー2』で語られたテーマは、現在でも重く響いてくる。
日本の平和と、国防意識。
それから現実とモニター世界の錯乱。
あれから数十年の時が過ぎているのに、日本を取り巻く状況はなにひとつ変わっていない。
いや、多少の変化の兆しはある。
中心的言論と、相応する影響力を持っていたテレビは、完全に軸が折れ、狂信と化して、自身がいかに正しいかを喚くだけの産物となってしまった。
現実と非現実の危うさは、現代でも同様に語られるべきテーマである。
水族館の会合のあと、後藤は別れ際に、荒川に訪ねる。
「奴の最終的な目的って、何なんだろうな。奴さん一人で、戦争でもおっぱじめるつもりか」
「戦争だって? そんなものはとっくに始まっている。問題なのは、いかにけりをつけるか。それだけだ」
荒川は、なにか宣言でもするかのように、海岸線を見詰めながら答えた。
「後藤さん。警察官として、自衛官として、俺たちが守ろうとしているものって何なんだろうな。前の戦争から半世紀……。俺もあんたも生まれてこのかた、戦争なんてものは経験せずに生きてきた。平和。俺たちが守るべき平和。だが、この国のこの街の平和っていったいなんだ。かつての総力戦と、その敗北。米軍の占領政策。ついこのあいだまで続いていた核抑止による冷戦とその代理戦争。そして、今も世界の大半で繰り返されている内戦。民族衝突。武力紛争。そういった無数の戦争によって構成され、支えられてきた血まみれの経済的繁栄……。それが俺達の平和の中身さ。戦争への恐怖に基づく、なりふり構わない平和。正当な代価を、よその国の戦争で支払い、そのことから目を逸らし続ける、不正義の平和」
「そんなきな臭い平和でも、それを守るのが俺達の仕事さ。不正義の平和だろうと、正義の平和より、よほどマシだ」
「あんたが正義の戦争を嫌うのはよくわかるよ。かつてそれを口にした連中にろくな奴がいなかったし、その口車に乗って酷い目にあった人間のリストで、歴史の図書館は一杯だからな。だが、あんたは知っているはずだ。正義の戦争と、不正義の平和の差は、そう明瞭なものではない。平和という言葉が、嘘吐きたちの正義になってから、俺たちは俺達の平和を信じることができずにいる。戦争が平和を生むように、平和もまた戦争を生む。単に戦争でないというだけの消極的で空疎な平和は、いずれ実体としての戦争によって埋め合わされる。そう思ったことはないか? その成果だけはしっかり受け取っていながら、モニターの向うに戦争を押し込め、ここが戦線の単なる後方に過ぎないことを忘れる。いや、忘れた振りをし続ける。そんな欺瞞を続けていると、いずれは大きな罰が下る、と」
戒厳令シーンのある一連のカット。
戦車の上の自衛官と、オフィスビルのサラリーマン。どちらも「あれはなんだろう?」というような目で見ている。どちらも、目の前の現実に対して、受け入れられていない様子が描かれる。
『パトレイバー2』が語る平和論は、現代においても決して無視することができない。
日本の平和はあるときから、いや《占領下での平和》が始まったときから、欺瞞に基づくものだった。
危うい均衡の上に成り立った、ただ状況が戦闘ではないというだけの平和。
世界の勢力と均衡が崩されれば、ただちに保障を取り消される危うい平和。
我々はそんな危うさの上に立ち、気付きつつも知らない振りとして、身勝手に平和を叫んでいるだけに過ぎない。
そもそも存在の曖昧な自衛官と、治安を守る警察官。最終的には、警察官と自衛官という対立となり、後藤は自らの職務を果たすために活動する。
戦争を題材にした映画だが、アクションシーンは僅少だ。あくまでも日本の平和論が物語の中心となっている。そのために、テレビシリーズ版のキャラクターはほとんど登場してこない。
映画は、まるで突きつけるように、平和の崩壊をシュミレーションしてみせる。
都市に戒厳令が敷かれ、空中に戦闘ヘリが舞い、往来を戦車が立ち塞がる。
自衛隊内のタガが外れ、守るべきものも戦う相手も定めないままの、ただのデモンストレーションに過ぎない戒厳令が敷かれてしまう。
東京の風景に、戦争の風景がじわりじわりと侵食する。
だが、東京は相変わらず日常を進行させる。
戦争と平和が、奇妙に交じりあって日常を合成する。あきらかな戦争の風景が都市に同居しているのに、都市は相変わらずの日常を続けている。
あまりにも奇妙で、現実感のない平和。それが、我々が過ごしている平和の実体なのだ。
だが、映画は警察官を主人公としている。
後藤は、決して荒川と柘植に同調も迎合もせず、あくまでも警察官として、“欺瞞だらけの平和”を維持しようとする。
作品データ
監督:押井守 原作:ヘッドギア
音楽:川井憲次 脚本:伊藤和典
出演:大林隆之介 榊原良子 冨永みーな 古川登志夫
池水通洋 二又一成 郷里大輔 千葉繁
阪脩 西村智道 仲木隆司 立木文彦
安達忍 小島敏彦 竹中直人 根津甚八
春。卯月。
桜が花びらを散らせる季節。キョン(名称不明)は高校に入学し、新たな学園生活を送ろうとしている。
しかし、キョンの目線は暗い。
風景はモノトーンに沈み、周囲は無機質なコンクリートの塊が積み上げられている。
高校に上がっても、結局はただの日常が延長されるだけ。
そんなのはわかっている。
退屈な毎日が繰り返されるだけだ、と。
だが、突然にキョンの日常は、ビビッドな色彩を帯びるようになる。
涼宮ハルヒの登場によって。
冒頭の場面。キュンを取り囲む現実風景を強調的に描かれている。次のセルを中心とする展開と比較すると、非常に対照的。
「ただの人間には興味はありません。この中に、宇宙人、未来人、異星人、超能力者がいたら、私のところに来なさい。以上!」
涼宮ハルヒは、条理的な社会に対し、徹底的な反抗と異議申し立てをする。
涼宮ハルヒは、中学生時代でも様々な奇行を繰り返し、
毎日目まぐるしく変化する髪型が、キョンによって説明される。
涼宮ハルヒは日常の破壊者であり、非日常への案内人だ。
アニメの冒頭では、涼宮ハルヒの髪型は長い。瞳の力が強く、常に斜めをむいている眉が、ハルヒの意志力の強さを物語っている。キャラクター等身は現実的だが、顔の構成はむしろマスコット・キャラクターに見られるパターンが踏襲されている。
我々の社会は、異端を排除し、想定されない事故に目を向けないことで成り立っている。
この世には、常識しかない、と大人は子供に教える。
特別なことは決して起きないし、あなたたちから特別な事件は決して起きない、と。
現代人の多くはそう信仰しているし、キョンもまた常識の信者だ。
涼宮ハルヒは、そんな常識世界からを拒絶し、脱構築を試みる。
映像の大部分がハルヒのクローズアップで占められる。キョンの意識が、涼宮ハルヒに集中している様子を見せている。
涼宮ハルヒは圧倒的エネルギーを持って、行動を要求しない社会に対して、活動を開始する。
高度に発達した官僚的社会は、現代の少年少女に何を与えたか。
豊かさか?
いや、退屈と憂鬱だ。
涼宮ハルヒは優れた身体、頭脳、イマジネーション(おまけに美少女だ)をもてあますかのように、社会に対して異議申し立てをする。
物語の舞台は学校であるが、学校こそ堅牢なるパースティクティブに覆われた場所だ。
だが、涼宮ハルヒは圧倒的な行動力を持って、現実的なパースティクティブからの超越をはかる。
それは、“世界”への挑戦だ。
ハルヒの行動は突飛だし強引だし、しばしば周囲に被害をもたらすが、陰湿さそのものはない。いわゆる虞犯行為もなく、社会に対する強烈な反抗心を持っているがエンコーやドラッグといった方向には知らないのは、作り手の意識の高さによるものだろう。むしろ、ハルヒの逸脱した快活さが強調され、見る側は単純にハルヒの奇行を楽しめばよい作りになっている。
物語はほとんどがキョンのモノローグで進行する。
キョンのモノローグの大部分は言葉として発せられない。
しかしキョンのモノローグは、物語の進行役として、声なき突っ込み役として、物語に心地よいリズムを与えている。
ハルヒの愉快な仲間たち。キャラクターはどれも造りが独創的で、登場に至るエピソードは秀逸だ。原作者:谷川流の才能の高さが窺える。
背景にあると思わせる設定の仄めかし方も、見事としか言いようがない。
キョンは、条理世界の申し子でもある。
キョンはサンタクロースを信じず、超能力も宇宙人を信じない。
物語は涼宮ハルヒという不条理的飛躍と、キョンの堅牢な条理とを延々交差させ続ける。
だが物語を覆う世界は、学園生活という地点からさほどの逸脱を見せない。
涼宮ハルヒがいかに超絶的な発想を見せようとも、周辺に個性的で「いわゆる一つの萌え要素」を登載したキャラクターを配しようとも、むしろ日常の拘束力は絶対的な強力さを持って涼宮ハルヒを捉える。
結局は、規範に従った、ありがちな学園ものに終始するわけだ。
そんな世界構造も、少しずつ、日常は侵食し始める。
キョンが信仰し続けた常識世界は、じわりじわりと崩壊の兆しを見せる。
作品データ
超監督:涼宮ハルヒ
監督:石原立也 原作:谷川流
キャラクター原案:いとういのぢ
キャラクターデザイン・総作画監督:池田晶子
音楽:神前暁 美術監督:田村せいき 色彩設定:石田奈央美
シリーズ演出:山本寛
出演:杉田智和 平野綾 茅原実里 後藤邑子
白石稔 松本恵 桑原夏子 柳沢栄治