商業的、企業的作品としての色彩は弱く、作家それぞれのイメージを独自の方法で描き出している。
短編作品はどれも尺数自体は短いものの、表現はかつてなく自由で、突き抜けた独創性に溢れている。
1・GALA
ある朝、突然に、天から巨大な“何か”が降ってきた。
“何か”は地面を揺らし、土砂を巻き上げる。
森の住人達は目を覚まし、“何か”に殺到する。ただちに人々は混乱し、狂乱に取り付かれて“何か”を破壊しようとする。
コオニとハゴロモも、人々が集る場所へと駆けつける。
そこでコオニとハゴロモは、あの“何か”の中で目覚め、語りかけてくるものの存在に気付く。
5本の短編集の中で、もっとも馴染みのあるアニメーション・スタイルで描かれた作品だ。
キャラクターも演出技法も、一般的なアニメーションの表現と質感を踏襲している。
前衛的な短編作品が集る中で、もっとも落ち着いて見られる作品だ。
2・MOONDRIVE
舞台ははるかな未来。月に街が築かれ、我々の住む世界と同じような生活が営まれていた。
ある場末のバーで、ジーコたちが集って、ため息をついていた。
この頃はどこもかしくも不況、不況。面白い話はどこにも転がっていない。
そんな時、マスターが、気になる情報を口にする。
西の外れの時計屋のジジイが、古い地図を手に入れたらしい。
宝の地図かもしれない。
ジーコたちは早速、地図を手に入れるために車に乗り込む。
一見すると冒険アニメふうだが、線は走り書きのように崩れ、レイアウトの枠線が残り、背景画の縁が見えてしまっている。
日本アニメーションにありがちな、つるりとしたセルの質感ではなく、あえて動画が汚され、色彩もはみ出し、独特の手触りを作り出している。
アニメは所詮、動画と背景画の合成でしかない、と手の内を明かしているような作品だ。
3・「わんわ」
産婦人科の病室。
小さな男の子が、お母さんのベッドの上で、はしゃいでいた。
側にお父さんがいる。でも、看護婦から何か説明を聞かされ、暗くため息をついていた。
でも男の子は気にしないで、鬼のお面をかぶって遊んでいた。ベッドの上のお母さんが、優しく微笑んでいた。
と、突然に強い風が迫る。
窓が打ち破られ、部屋が崩壊する。
男の子が振り向くと、青鬼が現れ、お母さんを連れ去ってしまった。
男の子は、お母さんを救い出すために、冒険の旅に出る。
児童ものの絵本のような柔らかいパステルの線と色彩で描かれた作品だ。
映像も従来的なわかりやすいパースティクティブはなく、子供の心象風景をそのまま映像にしたかのようなイメージで描かれている。
4・陶人キット
その部屋は、奇怪な機械と、夥しい数のぬいぐるみで埋め尽くされていた。
そんな場所に、女が一人で過ごしている。
女は冷蔵庫から“何か”を取り出し、ボウルに入れて溶き、もくもくと作業を始める。次に、ボウルの中のものを機械に入れて、機械を作動させる。
女は誰と接することはなく、言葉もなく、死んだような目で、毎日を過ごしている。
そんな部屋に、ある日、男が介入する。
「管理局の強制捜査を行います。心当たりは、おありですね」
完璧に制御された色彩、線画、空間表現。
もはやイラストレーションの世界だ。
物語は、多くは語られない。一つの部屋があり、奇怪な機械と奇怪なキャラクターがそこにいる。それで全てだ。
映像のイメージはよそよそしく、誰かの介入を絶対に許さない。
決して広くもない場所に、絶対的イメージを完成させている。
ワンルーム完結するイラストレーションであり、ワンルームの美術だ。
5・時限爆弾
草むらに、クウとシンの二人がいる。
「私は、ちょうちょを捕まえたいと思うのよ」
音楽が始まる。
イメージが、洪水のように押し迫ってくる。
この映像感覚は、言語での解説は不可能だ。
『時限爆弾』で描かれたイメージはあまりにも独創的で、我々の共通言語を完全に否定し、かつてない方向に跳躍している。
美術的なあらゆる表現や技法――光の表現や、質感の表現、パースティクティブといった技術の援用はあるが、その構成の手法は、我々が接した経験のないものだ。
物語の言語的な組み立ては完全に崩壊し、音楽的な文法すら独自の手法で完成させている。
『時限爆弾』の映像は、『時限爆弾』だけで完成され、完璧なレベルで完結しているのだ。
もはや、そのひとつを指し示そうにも、瞬間を引用して説明することすらできない。
完全な独自的空間、瞬間を作り出した奇跡のような作品だ。
『ジーニアス・パーティー・ビヨンド』における5本の短編はどれも独創的で、解説の難しい作品ばかりだ。
と同時に、日本アニメーションの技法を客観し、文法的な解体、再構築を試みている。
日本人の多くは、ペーパーアニメの手法がアニメのすべてだと思っているし、確かに日本のアニメはペーパーアニメの分野において、ずばぬけた表現力と技術力を持っている。
だが一方で、ペーパーアニメ特有の文法にあまりにも捉われすぎている。
日本アニメーション特有の言い回しに捉われすぎている。
あまりにも様式化された文法や技法は、表現の可能性をいたずらに限定するだけだ。
映画、アニメーションのおよそすべては、脚本による言語的物語組立てと、あるいは音楽的時間に支配され、その無限性は抑制されている。
物語を組み立てようとすれば、映画は通俗的な文法に抑制されるし、その分、作家のイメージは限定される。
アニメーションの自由さや奔放さは、現実世界のパースティクティブを写し取ることで、その可能性が限定される。
そんなあらゆる抑制から解放された時、アニメーションはどんな姿を見せるのか。
『ジーニアス・パーティー・ビヨンド』はそんな実験性を含む作品集だ。
どの作品も、通俗的な物語の限定性から解放され、それぞれの方法でイメージを展開させ、自己完結させている。
そのイマジナリィは、まったく新しく、誰も見た経験のない領域に達している。
映画とはどうあるべきか。映画の限界とはなんなのか。
そうした哲学的問いを考える切っ掛けになる作品集だ。
「GALA」
監督・キャラクターデザイン:前田真宏
作画監督:前田真宏 窪岡俊之 音楽:伊福部昭
美術監督:竹田悠介 美術ボード:益城貴昌
出演:高乃麗 中村千鶴 江戸家小猫
「MOONDRIVE」
監督・キャラクターデザイン・作画監督:中澤一登
美術監督:西田稔 音楽:Warsaw Village Band
出演:古田新太 高田聖子 中谷さとみ 高山晃
「わんわ」
監督・キャラクターデザイン・作画監督:大平晋也
美術監督:野崎佳津
出演:鈴木晶子 水原薫 一条和矢 松本吉朗 堀越知恵
「陶人キット」
監督・キャラクターデザイン・作画監督・美術監督:田中達之
出演:佐野史郎 水原薫 大平修也 高橋卓生 高山晃
「時限爆弾」
監督・作画監督・キャラクターデザイン・森本晃司
音楽:Juno Reactor 美術監督:新林希文
出演:菅野よう子 小林顕作 藤田昌代 徳留志津香 堀越知恵
アニメーション制作:スタジオ4℃
でも表情は暗く、気持ちは憂鬱だった。
「私は、今日、彼と別れようと思います。芽生えた恋は、いつだって駄目になる。彼のためにした事だって、全部裏目に出てしまう」
いつも、一方的な「好き」の恋愛。
最後にはつらい思いをするだけ。だから、今日のデートを素敵な思い出にして、おしまいにするつもりだった。
待ち合わせ場所のレストランへ行くと、もう悠大は待っていた。
悠大は、大きなプレゼントの箱を準備していた。
「……欲しいのは、プレゼントじゃないんだけどな」
そう思っても、口には出せない。表情には、いつもの笑顔。なんだか、自己嫌悪だ。
とそんなときに、邪魔が入るみたいに、悠大の携帯電話が鳴った。悠大は、レストランの奥へ行ってしまった。
一人きり。
そう思ったとき、突然にプレゼントの箱が暴れだした。
中から飛び出したのは、四足の変な生き物。
四足の生き物は、暴れてテーブルを突き倒した挙句、レストランの外に飛び出してしまった。
チヅルは、四足の変な生き物を追って、レストランの外へ走り出していく。
『東京マーブルチョコレート』のもう一篇、『マタアイマショウ』は、悠大を主人公にした『全力少年』を、チヅルを主人公に同じ場所、同じ時間で何が起きたかを描く。
チヅルは、あの時どこへ行ってしまったのか。
チヅルは、どんな気持ちでいたのか。明るい笑顔の背後に、どんな切ない思いを隠していたのか。
『東京マーブルチョコレート』のもう一つの物語だ。
チヅルは、
しかし表情は笑顔だけど、心はもう挫けてしまっている。
いつも、恋愛は失敗ばかり。失敗の積み重ねが、チヅルを後ろ向きな気持ちにさせていた。
悠大のことが好き。でも、チヅルの「好き」はいつも一方的で、相手がどう思っているのかわからない。
別れを切り出されて、つらい思いをするくらいなら、いっそ自分から。
クリスマスのデートは、ミニロバの横槍で、台無しになってしまう。
もう、おしまいかな。
そう思ったとき、むしろ「好き」という想いが強くなるのを感じる。
諦めて去ろうとした恋。
でも振り返ると、全力で走ってくる悠大がいた。
『全力少年』へ
作品データ
監督:塩谷直義 脚本:尾崎将也
キャラクターデザイン:谷川史子 作画監督:浅野恭司
美術監督:小林七郎 色彩設計:広瀬いづみ
主題歌:SEAMO
出演:櫻井孝宏 水樹奈々 岩田光央 井上真理奈
中村悠一 宝亀克寿 川崎恵理子 鈴木琢磨
太田哲治 藤葉愛香 高木めぐみ
制作/原作:プロダクションI.G
でも、頭の中は不安で一杯だった。
頭の中に、失敗したかつての恋愛が、いくつもよぎる。
「僕は臆病で弱虫です。女の子と付き合っても、すぐに駄目になってしまう。原因は、僕です」
でも、今日こそちゃんと言うつもりだ、と悠大は決心する。
「好きだ」って。
悠大は、大きなプレゼントを抱えて、待ち合わせの場所のレストランへ向かう。
すぐにチヅルはやって来た。
二人でテーブルを挟んで、悠大とチヅルが微笑みあう。「チヅルちゃん、似合うね。今日の服」なんてこと言っている場合か。プレゼント、渡さなくちゃ。
とそんなときに、邪魔するみたいに電話が掛かってきた。
ペットショップの『ハーメルン』からだ。
プレゼントの箱に、手違いでウサギではなく“ミニロバ”がはいっている。だから、決して開けないように、と忠告される。
悠大は適当に話を流して、チヅルのところへ戻ろうとしたが、チヅルはもういなかった。
どこへ行ってしまったんだろう。
悠大は、チヅルを探して、東京の街を走り回る。
線も色彩も、人間の心理も。何もかもが温かみのある柔らかさで描かれている。
少女漫画風の作画は、均一な線でトレスをするアニメーションでは表現しづらい産物だった。
キャラクターデザインがよくできていても、最後のトレスの段階で、もともとの線の柔らかさを殺してしまい、無機質なただの線に変えてしまう。
だが『東京マーブルチョコ』は、進化したデジタルの技術で、やわらかな線と、あいまいな色調を見事に表現する。
主人公である悠大は、気弱な少年だ。いつも悪い想像ばかりして、不安で心がくじけそうで、実際、これまでに何度もくじけてきた。
世の中は、常に男性の攻撃性を賛美し、攻撃的人格を望んでいる。
悠大は、弱々しい少年だが、それでも眼差しはしっかり前を向いている。
今日こそは、好きって言うんだ、と。
そのたった一言のために、何度もくじけて、それでも真直ぐ前を向いて、走り続ける。
『マタアイマショウ』へ
作品データ
監督:塩谷直義 脚本:尾崎将也
キャラクターデザイン:谷川史子 作画監督:浅野恭司
美術監督:小林七郎 色彩設計:広瀬いづみ
主題歌:スキマスイッチ
出演:櫻井孝宏 水樹奈々 岩田光央 井上真理奈
中村悠一 宝亀克寿 川崎恵理子 鈴木琢磨
太田哲治 藤葉愛香 高木めぐみ
制作/原作:プロダクションI.G
カンフーのことなら、何でも知っていた。あんなふうになりたい、と思っていた。
でも、現実のポーはラーメン屋。
ポーにとって憧れのカンフーは、ずっと遠い、泰山の上の城のようなものだった。
そんなある日、ポーは翡翠城で“龍の戦士”を選抜する式典が催されると知る。
“龍の戦士”とは、無限の力が与えられる“龍の巻物”を手にする許可を与えられた戦士のことだ。
ポーはもちろん翡翠城に行き、“龍の戦士”を指名する式典を見たいと思った。
だが、翡翠城の前には、長い長い階段。
ポーは時間をかけて、ふうふう言いながらやっと階段を登り切るが、ちょうど翡翠城の門が閉じられてしまうところだった。
門の向うで、華やかな式典が始まるが、門の外のポーには何も見えない。
ポーはどうしても“龍の戦士”が指名される瞬間が見たかった。
ポーは、花火を使って自分の体をふっ飛ばし、門の向うに飛ぼうと考える。
ポーの計画はうまくいった。花火はポーの体をふっ飛ばし、高い門を飛び越えた。
だが、ポーが目を開けると、目の前にウーグェイ導師の指。
“龍の戦士”に選ばれたのは、まさかのポーだった。
この決定に、シーフー導師もその弟子であるマスター・ファイブも納得がいかない。
シーフー導師たちは、ポーを追い出すための計画を練りはじめる。
『カンフー・パンダ』の物語は簡潔に整理され、展開が速く、一瞬でも退屈を感じさせない。
キャラクターには、西洋アニメーションに見られる典型的な作法が踏襲されるが、題材が新しく、激しいアクションが類型的であるという退屈さを完全に覆い隠してしまっている。
安心して楽しめる娯楽映画だ。
どんなに優れた技術も、3ヶ月で古びてしまう。これ以上はないと思える美しい映像も、せいぜい数ヶ月の寿命だ。デジタル・アニメーションは常に技術の最先端を更新せねばならず、観客に一寸の隙も見せてはいけないのだ。
だが、デジタル・アニメーションの制作には、数年の時間がかかってしまう。
だから、デジタル・アニメーションの制作者は、数年後の時代を予想して作品を作り、技術を開発せねばならない。
せっかくの技術も、数年後の社会に大量に氾濫していたら、制作者の苦労はすべて無駄になる。
そのために題材選びは慎重に審査せねばならない。
『カンフー・パンダ』が題材にしたのは、カンフー・アクションだ。
近年、ハリウッドで急速に勢力を伸ばしつつある“カンフーもの”。
だが、まだ誰もアニメーションで本格的に制作した者はいなかった。
それに、カンフー・アクションをアニメーションで表現するには、相応の技術の開発が必要になる。
題材選び、技術開発。その両面において、『カンフー・パンダ』は正しい選択を行ったといえる。
『カンフー・パンダ』の主人公はだらしないパンダだ。
デブで鈍くて、とてもカンフーの達人に成長しそうに思えない。
それが、潜在的な力を見出され、覚醒していく。
弟子と師匠の物語。成長のドラマ。アクション。どの要素もしっかりと組み上げられている。
実写ではありえないカメラワークに、二次元アニメではなかなか見られない三次元的な空間移動にアクション。
それに、主人公がパンダだから殺伐としない。要所要所で、笑いを添えてくれる。
物語やキャラクターにはどこか既視感があるし、それは気のせいではない。
それでも、魅力ある作品だ。娯楽映画をきちんと作ろうとしているし、間違いなく制作者の努力は成功している。
誰にお勧めしてもいい作品だ。
作品データ
監督:マーク・オズボーン ジョン・スティーヴンソン
音楽:ハンス・ジマー ジョン・パウエル
脚本:ジョナサン・エイベル グレン・バーガー
出演(英語):ジャック・ブラック ダスティン・ホフマン
アンジェリーナ・ジョリー イアン・マクシェーン
ジャッキー・チェン セス・ローゲン
ルーシー・リュー デヴィッド・クロス
ジェームズ・ホン マイケル・クラーク・ダンカン
出演(日本語):山口達也 笹野高史 木村佳乃
中尾彬 石丸博也 桐元琢也 MEGUMI
真殿光昭 富田耕生 龍田直樹 高木渉
貫くような霧笛の音が、少女の眠りを覚ました。
少女は目をこすりながら、自身の掌を見詰める。
いつの間にか、朝の光が射していた。
少女は毛布を羽織ったまま、ベッドから這い出て、光が射し込む階段を昇った。
入口の穴から外を覗くと、赤く染まる空が見えた。冷たく迫る風が、少女の白い髪を踊らせる。
少女は、頬杖をつきながら、そこから見下ろせる街を見詰めた。
『天使のたまご』は押井守監督にとって、大きな転換点となった作品だ。それ以前は『うる星やつら』などわkりやすい作品の監督を務め、それなりの成功を収めてきた。だが、『天使のたまご』にはその残像はどこにもない。
『天使のたまご』には言葉はない。
登場人物は、わずかに二人だけ。具体的な物語も、リズムのよい音楽もない。
ただただ、静寂の時間だけが流れていく。
『天使のたまご』には、現実世界よりもはるかに静かな瞬間に満ちている。
そんな場所で少女は青年と出会い、なにかが変化し、目覚めの時を迎える。
押井守監督が『天使のたまご』で得たものは多く、大きい。まず、映画製作は、集る人間によって決定されるということだ。本作は、当初はコメディを制作するつもりだったが、画家・天野義孝の才能が加わることによって、大きく方向性が変わることとなった。
少女はショールを羽織り、お腹にたまごを抱えた。身支度はいつもそれだけ。
少女は寝床を走って飛び出し、街を目指した。
街には、人間の影はない。
かつて人が住まう場所であり、人が通る道だった街。人間のために作られ、その痕跡をどこかに残した廃墟。
今は、少女ひとりきりの場所。
だが、どこかに気配がする。
窓という窓、路地という路地。街を巡る空気の中に、人の気配がくっきりと残っている。その気配が、少女を取り囲み、覗き込み、ひそひそと言葉を交わしている。
また、美術監督の小林七郎との出会いも会った。小林七郎との仕事が、後に“レイアウト法”を構想する切っ掛けとなった。ちなみに、小林七郎を指名する切っ掛けとなったのは、『カリオストロの城』の人と仕事がしたかったからだそう。
少女は街の中心地から離れた。
向かったのは、もっと古い時代の遺跡だった。
建物は半ば崩れ、人の痕跡はもう感じられない。崩れかけた階段の下には雨水が溜まり、セイタカアワダチソウが茂っている。
少女はジャムを食べて空腹を満たす。
腹から卵を下ろして、少し向こう側にある階段へ散策に行った。
古いトンネルを抜けると、階段の下が、プールのように水に浸されていた。
水面は、ゆるやかな風に、小波を立てていた。
少女は、水面の側まで降りて、しばらく楽しげに波が作り出す光と影を見詰めていた。
そろそろ戻ろう。すると、そこに知らない男の人がいた。
「あなたは、だれ?」
だが、『天使のたまご』は悲惨なくらい商業的に恵まれなかった。現在、ようやく作品が見直されてきたが、以前はビデオを入手することすら困難だった。この作品が災いして、押井守は以後4年間、仕事を失う。
永遠に続くと思えた静寂のなかで、少女と青年は出会った。
しかし、少女と青年は言葉を交わさない。濃密なふれあいもない。
ただ一度、「あなたは誰?」と訊ねるだけ。
『天使のたまご』の映像と感性を、他に例えるべき作品がない。
言葉はなく、すべてが余白として時間が流れていく。
描きこまれた美しい風景。天野義孝の手による、秀逸な美術。
そうしたなかで流れいく映像は、不思議と“詩”のような手触りを持ち始める。
『天使のたまご』は“言葉”ではなく“映像”で綴る詩であるのだ。
それでも、結局は4年間の失業期間は押井守に様々なものをもたらしたようだ。どの人間と仕事をすると、どんな結果の映画になるか。ちゃんと商業的な配慮も必要だということ。映画監督に必要なものは、すべてこの4年間の空白期間によって得たものだ。それにしても、どうやって生活して来たのだろう。
やがて少女は、青年と打ち解けて、自分の住処へと招いた。
少女の棲家は、あの街よりも、もっと古い時代の遺跡だった。壁には思い出すこともできない時代の絵が描かれ、大きな獣の骨があちこちに散乱している。長い長い螺旋階段には、水を入れた瓶が、律儀に並んでいる。
青年はふと、壁に描かれたレリーフの前で、足を止めた。
「これと、同じ木を見たことがあるよ。あれは、いつのことだったのか。忘れてしまうほど、遠い昔。音を立てて雲が流れていく空の下、真っ黒な地平線が、そのまま盛り上がって生まれた、大きな木。大地から生命を吸い上げて、脈打つ枝をのばし、なにかを掴んでいた。卵のなかの、眠り続ける、大きな鳥を」
我々はいつ目覚め、どうして言葉を綴り、どこへ向かって進んでいるのか。
我々が暮らしているそこも、思考も感情も、なにもかも幻ではないのか。
すべては廃墟が見ている夢ではないのか。
少女は、静かに答える。
「いるよ」と。
たまごのなかで、ひっそりと息をして、空を羽ばたく夢を見ている。
永遠に終わらない夢を
「あなたは、だれ?」
「きみは、だれだい?」
今、見直すと、技術の未熟さが目立つ。線画は今ほど洗練されていないし、アニメカラーの数は少ないし、撮影のミスもある。もしこれが、現在の技術と感性で作ったら、どうなるだろう。きっと、この当時の幻想的な空気は消えてなくなるだろう。
永遠に続くと思えた夢は、いつか終わる。
思いがけない形で、唐突に打ち破られて、光が全身を包み込む。
我々が浮世として感じているこの恍惚は、目蓋が開かれるまでのほんの一瞬のできごとかもしれない。
『天使のたまご』の映像が何を意味しているのか、解説しづらい。
観る人によって、観る人の感性によって、あるいはそのときの感情によって、すべての印象が変わってしまう。
『天使のたまご』には、ただ静けさと不思議な手触りだけを持って、言葉なくそこにたたずんでいる。
誰からも忘れられた作品。
『天使のたまご』は、今もそこで、夢の終わりを待っている。
作品データ
監督・脚本:押井守
アートディレクション:天野義孝
美術監督:小林七郎 作画監督:名倉靖博
音楽監督:菅野由弘 音響監督:斯波重治
アニメーション制作:スタジオディーン
出演:根津甚八 兵藤まこ