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■2009/07/06 (Mon)
評論■
けいおん! 総括!
『けいおん!』での時間は、あまりにも早く流れていく。30分放送、実質12話というなかで、『けいおん!』の物語は1年半も流れ去ってしまった。
空想世界の時間の流れは、現実世界とは違う。空想世界の時間は、極端に停滞したり、間延びしたりしつつ、それでも一定速度を保ちながら進行する。
『けいおん!』の場合、その時間の流れが極端だった。7話で1年だから、各エピソードの間におよそ1ヶ月20日の時間が省略された計算になる。しかも個々のエピソードに連続性はなく、1ヶ月20日おきの、断片的な物語だけが、かいつまんで描かれていったことになる。
だから『けいおん!』には大きな物語はない。キャラクター達のある日常だけが断片的に区切り取られ、これといった連続性もなく描かれた。
『けいおん!』の主要な描写といえば、ただ唯たち四人が軽音部の部室に集まり、のんびりとティータイムを楽しんでいるだけである。だがその描写が、不思議とのどかな安らぎをもたらすのである。
ドラマを排除したその感覚は、どこか御伽噺的異空間に接しているようである。竜宮城やティルナノグ。現実に存在しない夢世界の特徴は、現実世界と違う時間の流れである。と同時に、夢世界での滞在に不思議な幸福と安らぎをの感情を与えてくれる。
『けいおん!』の印象は、竜宮城やティルナノグと時間の流れが逆というだけであって、夢想世界の印象が強く漂っている。『けいおん!』は、現実的な風景描写のなかに、夢想世界を描き出した作品の一つだといえる。
「平沢唯である」という模範解答に間違いはない。確かに物語の作者は、平沢唯を主人公と設定した上で、最初の物語の進行役を担わせている。
平沢唯は、音楽の素人である。だから、音楽という専門性の高い題材の進行役としてふさわしく、同じく音楽の初心者であるという想定の読者と同じ目線で、読者の気分と同じ速度で成長の物語を描ける。
だが平沢唯が主人公であったのは、3話の途上までだ。楽器を手に入れてからの平沢唯は、あっという間に万能の存在になってしまい、音楽活動に対して葛藤が描かれることはなかった。4話以降の平沢唯の役割といえば、田井中律との漫才コンビの相方であって、物語の中心人物としての切っ掛けを作らず、状況に影響をもたらす力をなくしてしまった。『けいおん!』の主人公が平沢唯であるのは第3話までだ。
『けいおん!』の主人公は秋山澪である。
まずルックスからして、秋山澪は主人公にふさわしい。長身でスタイルもよく、長髪黒髪(長髪黒髪は、かつてはヒロインの記号的象徴だった)。物語上の約束事として、最上の美少女として描かれている。
さらに性格もよく、聡明で、誰に対しても面倒見が良い。音楽の能力もすぐれて高い(作詞のセンスだけはアレだが)。その一方で、極端な上がり症という弱点が落差を生み、男性の「守ってあげたい」という母性的な感性を刺激するのである。
秋山澪が主人公であるという根拠は、見た目や性格描写といった部分だけではない。秋山澪は物語の切っ掛けを作り、状況に対して影響を与える力を持っている。「合宿に行こう」と言いだしたのは澪だし、中野梓との葛藤を解決させたのも澪だ。
さらに、キャラクターの葛藤や成長などほとんど描かれたなかった『けいおん!』において、唯一しっかり描かれたのが澪だった。音楽の才能と技術に不安を抱えていたのは澪だったし、6話の学園祭のエピソードは完全に澪を中心に、ステージに上がるまでの物語を描いている。
ここまできて、どうして物語の作者はあらかじめ秋山澪を主人公として描かなかったのが、不思議でならない。
もっとも、主人公の立場は、9話、10話に入り、再び交代することになる。中野梓の登場によって、物語の中心軸は再び変化を迎え、唯から遠ざかっていくのである。
『らき☆すた』は原作の印象を可能な限り変えないという条件下で、ボリュームを増やし、時間的尺度に合わせて1分で充分の対話を5分に引き伸ばし、アニメの立体的空間に合わせて必要最低限のパースティクティブが設定された。
あくまでも4コマ漫画という記号的描写から逸脱も飛躍もしないというルールの中で、いかに濃密な空間を描き、デザイン的感性を美しく演出するか。それが『らき☆すた』でのアプローチであった。
『けいおん!』は『らき☆すた』の延長線上にありながら、もっと濃密で、徹底した観察で描写されている。
キャラクターたちが演技する日常空間は、信じられない精密さで描写されている。メインの舞台となる学校は、単調さはなく、窓やドアのデザインまで丁寧に練りこまれている。登場人物達の住居空間も、極めて常識的な感性でインテリアが選択されている(当り前の話だが、実はアニメでは珍しい傾向である。というのも、アニメーターはほとんど現場に引きこもり生活なので、インテリアの発想が育たないのだ)。
最重要と思われる楽器は、フェティッシュな領域で描写されている。キャラクターごとの身体的設定に対し、妥当と思われる楽器が選択されているし、もちろん全て実在する楽器ばかりだ。作家の下手な独創をあえて排除し、音楽を徹底的に観察し、視覚的に描写しようという意識が見えてくる。
物語においても、原作が断片的な4コマ漫画とは思えないくらい連続性を持っている。エピソード自体短いのだが、確固たる主体性を持って進行していき、時に際立ったドラマを展開させる。『らき☆すた』はある意味、どのエピソードで区切っても構わないところはあったが、『けいおん!』は一つのエピソードとして自立しているのである。
そうした濃密さが漂う『けいおん!』世界だが、奇妙なくらい閉鎖性が高い。
まず、主要キャラクターを除いた外部の人物がほとんど登場しない。社会を構成する大人たちはまったくといっていいほど姿を現さないし、唯の在籍する教室にどんなクラスメイトがいるのか我々は知りようもないし、男性の存在となると皆無である。たまにエンドクレジットに男性声優の名前を見かけると「出てたっけ?」みたいな気分になる。学校が舞台になっているのに、唯たちの担任教師すら不明で、顔が判明している教師は山中さわ子のみである。
単に原作に描かれていないから、といえば身も蓋もないのだが、それが『けいおん!』特有の夢想性を増大させている。主要キャラクターたちの描写が極端にクローズアップされたようになり、キャラクター達の魅力が際立つのである。あくまでも「原作に描かれていないものは描かない」というルールの中で描写したためと想像されるが、その方向性が『けいおん!』独特の印象を偶発的に炙り出したのだ。
物語の途上において、秋山澪と中野梓の葛藤が描かれるが、それでも一般のいわゆるドラマに対して、はるかに印象は薄い。物語の描写は、水彩絵具のように淡く、ふわりとしたやわかさとともに流れていくのだ。
ふと、荻上直子作品の『かもめ食堂』や『めがね』それから森田芳光監督の『間宮兄弟』といった作品を思い出す。
『間宮兄弟』を例に取り上げてみよう。『間宮兄弟』は間宮兄弟が生活するアパートの一室を中心に、外部の社会空間と対比しながら物語が進行していく。間宮兄弟の部屋は、いつも相変わらずでゆるやかな空気に満ちている。それはある種の母親の胎内的世界といってもいい場所である。
それに対して、外部の世界は常に騒々しい刺激に満ちている。間宮兄弟の周辺に配置される人物は、それぞれ何らかの葛藤を抱いている。対立したり憎しみあったり。間宮兄弟の部屋は、そうした外部の危険に対して、間宮兄弟自身を守るように機能している。
『間宮兄弟』は、兄弟が部屋から出て自立していく物語とは違う。むしろ外部世界の葛藤に対して、その小さな世界と、静かで個人的な幸福を守りながら生きていこうとする。作者の「ここにいつまでもいてもいいじゃないか、こういう小さくてゆったりした幸福があってもいいじゃないか」というメッセージが聞こえてきそうだ。あるいは、通俗的であろうとする社会や人間意識に対する(通俗的な社会意識に引き摺られて自滅する現代人の社会性に対する)、ゆるやかな皮肉かもしれないが。
『けいおん!』の特徴は、『間宮兄弟』における兄弟の部屋のみをクローズアップし、それ以外のすべてを削ぎ落として描かれた作品だというべきだろう。
いかにも男性的で、刺激と暴力と葛藤を描くのが物語作法のすべてではない。少女たちが外部世界の、不自然なくらい理不尽に設定された不幸に直面する必要はない(ドラッグだのエンコーだの必要ねえってわけ)。かりそめだが静かでのんびりとティータイムのひとときを楽しむ物語。いかにもなドラマ的状況を投入しなければ、何一つ描写できない凡庸の作家の空想とは、そもそも発想が違うのだ。
そうしたゆるやかな時間を濃密に描き出し、演出すること自体が『けいおん!』の物語の本質なのである。こういった傾向は、キャラクターの印象からか「萌え」という言葉で象徴されるが、実際には「癒し」というべきだろう。『けいおん!』にはあまりにも静かで豊かな時間が流れている。
だが、これを24話まで引き伸ばすと、その物語性質は大きく変質し、くつろぎと安らぎの時間は崩壊してしまうだろう。それは「癒し」の空間ではなく「退屈」の物語だ。「癒し」にはある種の濃密さがなければならない。そして「くつろぎ」はほんの一時だから「くつろぎ」であるのだ。
だから『けいおん!』が12話で短く終るのは、むしろ正解である。くつろぎの時間は永遠であってはならないし、永久に続くくつろぎはもはや苦痛である。
とはいえ、もう少しあの少女たちがのんびりティータイムを楽しむ姿を見ていたかった。
作品データ
監督:山田尚子 原作:かきふらい
キャラクターデザイン・総作画監督:堀口悠紀子 脚本:吉田玲子
音楽プロデューサー:小森茂生 音楽:百石元 音響監督:鶴岡陽太
楽器設定・楽器作監:高橋博行 編集:重村健吾
美術:田村せいき 色彩設計:竹田明代
アニメーション制作:京都アニメーション
出演:豊崎愛生 日笠陽子 佐藤聡美 寿美菜子 竹達彩菜
真田アサミ 藤東知夏 米澤円
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■2009/07/05 (Sun)
シリーズアニメ■
第3次世界大戦勃発。東京を始めとする日本の各都市は、世界から爆撃の中心地となり、紅蓮の炎に包まれた。
放射能に汚染されたかつての爆心地は、ブラックスポットと呼ばれ、現在も巨大な壁に隔離されている。汚染区域は「街(シティ)」からも隔絶され、東京の夜に真っ黒な闇を作り出していた。
だがそんな荒れ果てた大地にも、いつの間にか人が住み着くようになった。
多くは大気汚染によりすぐに死亡したが、まもなく、その彼らの中から不思議な能力を持つ者が現れ始めた。
火、風、重力。彼らはあらゆる超自然的力(フラグメント)を自由に操る。
シティに住む人々は、彼らを畏敬の念と共に「ニードレス」と呼んだ。






『NEEDLESS』は激しいアクションが連発するアニメーションである。主人公達の下には、刺客と称される特殊能力を持った超人が次々に現われ、凄まじい戦いを繰り広げる。
超人的な技が交差し、圧倒的なアクションがぶつかり合う。
なぜ、今この作品を描かなければならかったのか。その回答が、明らかにされるときがくるかもしれない。時代と作品の相互性がどこかで示されるかもしれない。でなければ、あまりにも時代錯誤だ。作り手による、なんらかの思惑が、必ずあるはずだ。
だが、見た目の激しさと裏腹に、『NEEDLESS』という作品自体に、まったく独創性を感じない。
キャラクターのデザインはどれも仰々しく、派手なファッションとベタ塗りのような極彩色で描かれているが、その実体は単調だ。
どこかで見た台詞回し。どこかで見た演技様式。どこかで見たカット構成。どこかで見たドラマ設計。
何もかもに既視感を感じる。果たしてこれはオリジナル作品だろうかと首を傾げたくもなる。
直線が多用されるキャラクターだが、物語も直線的に滑り落ちていく。物語の起伏に意外な波が起きる気配はなく、一直線に進み、一直線に収束していく。昨今の個性的なアニメーションが作られるようなった最中において、信じられないくらい単調な作品だ。
見た目の派手さやキャラクターの仰々しさとは真逆の印象に、奇妙なくらい新鮮さを感じない作品である。

ギャグパートはアメリカン・コメディのように大味で強引。
人物名はほとんどが西洋名だ。西洋コンプレクスがあからさまに現れている。
『NEEDLESS』は、すべて既存のイメージだけで構築された作品だ。
物語の主要な舞台である世紀末的風景。その原因として語られる第3次世界大戦。悪の支配者と戦おうとするレジスタンスの存在。どれも、20世紀の漫画世界でうんざりするほどコピーされた設定である。
キャラクターたちはそれぞれ特徴的な能力、必殺技を持っているが、その全てにおいて既視感がある。
「このキャラクター、別の漫画で見たな」「この必殺技、別の漫画で見たな」という既視感に対し、新たな挑戦はなく、そのまま再現されて描かれてしまっている。
『NEEDLESS』で見た光景は、なにもかもがすでに別のアニメーションの中で間違いなく描かれたものばかりだ。
『NEEDLESS』という作品を制作し、わざわざ繰り返す必要があったのだろうか。
激しいアクション。繰り出される必殺技。だがどれもこれも、見たことがある。意外性がまったくない。この作品におけるオリジナルの部分とは、どこなのだろう。もしかして、我々の既存の認識そのものを突きつけるのがこの作品のテーマなのだろうか。
『NEEDLESS』はテンプレートと呼ばれる設定に対して、ほとんど無抵抗のままアウトプットされた作品だ。作家としてのオリジナルの部分はどこにあるのか、美術家としての主体性と主張はどこにあるのか。
最新のアニメーションなのに、20年近く前の再放送作品を見ているかのような、奇妙な感覚に引き摺られてしまった。
確かに、世紀末的風景を舞台としたSF冒険ものは、かつてアニメーションで大いに流行した題材である。
やがて迫ってくる21世紀未来への不安、世界の核開発の驚異、SFの業界的な流行。当時描かれていたSFアニメーションは、その時代が持っていたエネルギーが反映されている。
だが、時代はとうに変わっている。子供でも、代用的な不安の解消を必要とせず、時代はもっと直接的な問題に対して向き合おうという準備ができている。将来の不安や、世界の不安。現代は、もっと具体的な問題と向き合う覚悟ができている。戯れの世界でも、代用的なSF冒険物語などもはや必要としていないのだ。
単純な勧善懲悪の物語だが、女性キャラは性的な部分を強調的に描かれている。児童ポルノ法に対する反逆的なメッセージだろうか。ちなみに、画像検索に掛けると、一番にエロ画像が出てきた。我々をそういった方面に誘っているのだろうか。
なのに、『NEEDLESS』はかつて体験した物語を、2次創作物のように、一切のフィルターを通さずアウトプットされた。
なぜ、今この作品でなければならなかったのか?
アニメシリーズすべてを鑑賞し終えた後に、我々に驚くような回答が与えられるのだろうか。
今後の展開に望みを託したいと思う。
作品データ
監督:迫井政行 原作:今井神
キャラクターデザイン:加藤裕美 総作画監督:小堺能夫
シリーズ構成:西園悟 脚本:西園 悟 江夏由結 テクニカルディレクター:沼田誠也
美術監督:岡本有香 色彩設計:上村修司 撮影監督:松井伸哉
音楽:加藤達也 飯塚昌明 音響監督:高桑 一
アニメーション制作:マッドハウス
出演:子安武人 喜多村英梨 遠藤 綾 伊瀬茉莉也 伊藤健太郎
加藤英美里 内海賢二 東地宏樹 豊口めぐみ
谷山紀章 後藤沙緒里 牧野由依 茅原実里
放射能に汚染されたかつての爆心地は、ブラックスポットと呼ばれ、現在も巨大な壁に隔離されている。汚染区域は「街(シティ)」からも隔絶され、東京の夜に真っ黒な闇を作り出していた。
だがそんな荒れ果てた大地にも、いつの間にか人が住み着くようになった。
多くは大気汚染によりすぐに死亡したが、まもなく、その彼らの中から不思議な能力を持つ者が現れ始めた。
火、風、重力。彼らはあらゆる超自然的力(フラグメント)を自由に操る。
シティに住む人々は、彼らを畏敬の念と共に「ニードレス」と呼んだ。
『NEEDLESS』は激しいアクションが連発するアニメーションである。主人公達の下には、刺客と称される特殊能力を持った超人が次々に現われ、凄まじい戦いを繰り広げる。
超人的な技が交差し、圧倒的なアクションがぶつかり合う。
だが、見た目の激しさと裏腹に、『NEEDLESS』という作品自体に、まったく独創性を感じない。
キャラクターのデザインはどれも仰々しく、派手なファッションとベタ塗りのような極彩色で描かれているが、その実体は単調だ。
どこかで見た台詞回し。どこかで見た演技様式。どこかで見たカット構成。どこかで見たドラマ設計。
何もかもに既視感を感じる。果たしてこれはオリジナル作品だろうかと首を傾げたくもなる。
直線が多用されるキャラクターだが、物語も直線的に滑り落ちていく。物語の起伏に意外な波が起きる気配はなく、一直線に進み、一直線に収束していく。昨今の個性的なアニメーションが作られるようなった最中において、信じられないくらい単調な作品だ。
見た目の派手さやキャラクターの仰々しさとは真逆の印象に、奇妙なくらい新鮮さを感じない作品である。
人物名はほとんどが西洋名だ。西洋コンプレクスがあからさまに現れている。
物語の主要な舞台である世紀末的風景。その原因として語られる第3次世界大戦。悪の支配者と戦おうとするレジスタンスの存在。どれも、20世紀の漫画世界でうんざりするほどコピーされた設定である。
「このキャラクター、別の漫画で見たな」「この必殺技、別の漫画で見たな」という既視感に対し、新たな挑戦はなく、そのまま再現されて描かれてしまっている。
『NEEDLESS』で見た光景は、なにもかもがすでに別のアニメーションの中で間違いなく描かれたものばかりだ。
『NEEDLESS』という作品を制作し、わざわざ繰り返す必要があったのだろうか。
『NEEDLESS』はテンプレートと呼ばれる設定に対して、ほとんど無抵抗のままアウトプットされた作品だ。作家としてのオリジナルの部分はどこにあるのか、美術家としての主体性と主張はどこにあるのか。
最新のアニメーションなのに、20年近く前の再放送作品を見ているかのような、奇妙な感覚に引き摺られてしまった。
確かに、世紀末的風景を舞台としたSF冒険ものは、かつてアニメーションで大いに流行した題材である。
だが、時代はとうに変わっている。子供でも、代用的な不安の解消を必要とせず、時代はもっと直接的な問題に対して向き合おうという準備ができている。将来の不安や、世界の不安。現代は、もっと具体的な問題と向き合う覚悟ができている。戯れの世界でも、代用的なSF冒険物語などもはや必要としていないのだ。
なのに、『NEEDLESS』はかつて体験した物語を、2次創作物のように、一切のフィルターを通さずアウトプットされた。
なぜ、今この作品でなければならなかったのか?
アニメシリーズすべてを鑑賞し終えた後に、我々に驚くような回答が与えられるのだろうか。
今後の展開に望みを託したいと思う。
作品データ
監督:迫井政行 原作:今井神
キャラクターデザイン:加藤裕美 総作画監督:小堺能夫
シリーズ構成:西園悟 脚本:西園 悟 江夏由結 テクニカルディレクター:沼田誠也
美術監督:岡本有香 色彩設計:上村修司 撮影監督:松井伸哉
音楽:加藤達也 飯塚昌明 音響監督:高桑 一
アニメーション制作:マッドハウス
出演:子安武人 喜多村英梨 遠藤 綾 伊瀬茉莉也 伊藤健太郎
加藤英美里 内海賢二 東地宏樹 豊口めぐみ
谷山紀章 後藤沙緒里 牧野由依 茅原実里
■2009/07/05 (Sun)
シリーズアニメ■
第1話 & 作品解説。
ひたぎクラブ 其の一
ひたぎクラブ 其の一
高校2年生から高校3年生の狭間である春休みに、僕は彼女に出会った。
それは、衝撃的な出会いであったし、また壊滅的な出会いでもあった。いずれにしても、僕は運が悪かったと思う。
もちろん、僕がその不運をたまたま避けられなかったのと同じような意味で、その風をたまたま避けられていたのだとしても、僕でない他の誰かが同じ目に遭っていたかといえば、多分、それはないだろう。
運が悪かったなどというのは、非常に無責任な物言いであり、僕が悪かったと素直にそういうべきなのかもしれない。結局あれは、僕が僕であるがゆえに起きた、そういう一連の事件だったと思う。
難しそうなハードカバーのときもあれば、読むことによって知的レベルが下がってしまいそうな表紙デザインのコミック本のときもある。
頭は相当にいいようで、学年トップクラス。試験の後に張り出される順位表の最初の10人の中に、戦場ヶ原ひたぎの名前は、必ず記載されている。
友達はいないらしい。一人でも、である。もちろん、だからといってイジメにあっているということでもない。いつだって戦場ヶ原は、そこにいるのが当り前の顔をして、教室の隅で、本を読んでいるのだった。自分の周囲に、壁を作っているようだった。
そこにいるのが当り前で、ここにいいないのが当り前のような、まあ、だからと言ってどういうということもない。
例え3年間クラスが同じなんて数奇な縁があったところで、それで一言も交わさない相手もいたところで、僕はそれを寂しいとは思わない。それでいい。戦場ヶ原も、きっとそれでいいはずだ。そう思っていた。
しかし、そんなある日のことだった。
僕はとっさに、女の子の体を受け止めよ
いや、間違っていたかもしれない。受け止めた瞬間、いや、受け止めてずっと後になって、そう思った。
なぜなら、彼女は、洒落にならないくらい、不思議なくらい、不気味なくらい、ここにいないように、軽かったからだ。僕の手の中に、彼女はふわりと、降りてきたみたいだった。
そう、彼女、戦場ヶ原には、体重と呼べるものが、まったくといって言いほどなかったのである。
戦場ヶ原の、衝撃を受けた目が、じっと僕を見詰めた。おそらく僕も、同じ目をして彼女を見ていたのだろう。
僕は、委員長の仕事から逃れるように、「忍野メメさんに呼び出されているんだ」なんて言い訳を作って、席を立った。
鞄を持って教室を出る。そこに、ふらりと誰かの気配が現れた。
振り向くと彼女、戦場ヶ原がいた。
いきなり、僕の口に鉄の味が一杯に広がった。戦場ヶ原が僕の口に、カッターナイフの刃を突っ込んだからだ。
「動かないで」
僕は了解して、彼女の言うまま、体の動きを止めた。カッターの刃は、僕の右の口に、強く押し当てられていた。
「ああ、違うわ。動いてもいいけど、とても危険よ、というのが正しかったわね」
戦場ヶ原は髪を掻き揚げながら、サディステック的な微笑を浮かべた。
僕は事態を把握した。冗談や脅しではない。こいつは本気だ、と。
「好奇心というのは、まったくゴキブリみたいね。人の触れられたくない秘密ばかりこぞってよってくる。うっとおしくてたまらないわ」
僕は言い返したくなって、塞がれた口で「おい」と言葉を発した。
「何よ。左側が寂しいの? だったらそう言ってくれればいいのに」
右の口に、別の何かが突っ込まれた。ホッチキスだ。刃の部分を、口
「まったく、私も迂闊だったわ。まさか、あんなところに、バナナの皮が落ちているなんて、思いもしなかったわ。気付いているんでしょう。そう。私には重さがない。といっても、まったくないわけではないのよ。私の身長体格だと、平均体重は40キ
戦場ヶ原は、ゆっくりと重ねるように僕の名前を呼んだ。
よく喋る女だ。むしろ、知ってほしかったんじゃないか、と思うくらいに。
僕の口の中に、吸い込めなかった唾液で溢れ、鉄の味が口いっぱいに広がってきた。でも、僕は動けない。ぴくりとでも動くわけにはいかなかった。
「さて、私はあなたの秘密を黙ってもらうために、何をすればいいのかしら。私は私のために、何をすべきかしら。口が裂けても喋らないと、阿良々木君に誓ってもらうためには、どうやって口を封じればいいかしら。とにかく、私が欲しいのは、沈黙と無関心。沈黙と無関心を約束してくるなら、2回頷いて頂戴、阿良々木君。それ以外の動作は、停止であれ、敵対行為と見做して、即座に攻撃に移るわ」
すると戦場ヶ原は、にこりと、信じられないくらい悪意を含んだ微笑を浮かべた。
「そう、ありがとう」
戦場ヶ原は、右の口に当てていたカッターを引き抜いた。カッターの
だが戦場ヶ原は、僕に微笑みかけて片目を閉じた。
ホッチキスの刃が、僕の口の中に食い込んだ。
僕はその場にうずくまって、右の顔を抑えた。ひどい痛みが、口から顔全体に一気に広がってきた。
「悲鳴を上げないのね。立派だわ。今回はこれで勘弁してあげる」
戦場ヶ原は膝に手を置いて、僕を見下ろした。
「お前……」
僕は恨み言をいってやりたくて、顔を上げた。でもそこで、行為を終えて恍惚とした表情を浮かべる戦場ヶ原の顔にぶつかって、言葉が堰き止められてしまった。
「それじゃ、阿良々木君。明日からはちゃんと私のこと、無視してね。よろしくさん」
戦場ヶ原はそう言い置いて、その場を去ってしまった。
僕は初めて、これまで何とも思わなかった戦場ヶ原という女に、特別な感情を抱いた。悪魔みたいな女だ、と。
やっと最初の衝撃から逃れ、ゆっくり立ち上がった。口の中から、ホッチキスの刃を引き抜く。血の味が口いっぱいに広がる。左の頬を、いたわるように撫でた。
僕は、激しい憤りを感じた。バナナを階段に捨てた、何者かに。
僕は決心した。校内でバナナを食べている人間を、決して許さないと。いや、食べてもいい。そのバナナの皮を、階段なんぞにポイ捨てするような奴がいたら。僕は本気で許さない。
そこまで決意を新たにして、僕は走り出した。廊下を一気に駆け抜け、階段を飛ぶように降りた。
ようやく一階の廊下が迫ったところで、戦場ヶ原に追いついた。
戦場ヶ原が意外そうな顔をして、それから待ってましたというような微笑を浮かべた。
「戦場ヶ原……」
「いいわ。わかった。わかりました。アララギ君。戦争、しましょう」
戦場ヶ原は楽しげに言葉を弾ませた。
その両手に、文房具が溢れ出した。鉛筆やカッターやペンやセロテープ。それらは、ひとつひとつは恐れる必要もない文房具だ。でも
「違う、違う。戦争しない」
僕は一歩下がった。うっかり間合いに入ったら、殺されそうだ。
「しないの? なーんだ。じゃあ、何の用よ」
「ひょっとしたらなんだけど、お前の力になれるかもしれない、と思って」
「力に? ……ふざけないで。あなたに何ができるって言うのよ。黙って気を払わないでいてくれたら、それでいいの。優しさも、敵対行為と見做すわよ」
むしろ戦場ヶ原は瞳を怒りに燃やし、僕をにらみつけて一歩、階段を上がった。
これ以上うっかりしたことを言うと、また地雷を踏みつけてしまいそうだった。
僕は、口に指を突っ込んで、左の口を裏返して見せた。
はじめて、戦場ヶ原の顔に、衝撃が浮かんだ。そこに、ホッチキスの傷跡がなかったからだ。
「傷が……ない。あなたは、それって、どういう?」
饒舌な戦場ヶ原も、さすがに言葉が見付からないようだった。
「僕は吸血鬼だったんだ。もと、吸血鬼。だからこれは、不死身だったときの名残なんだ」
彼女が秘密を明かしてくれた代わりに、僕も自分の秘密を明かした。
『化物語』のイメージは、かつてない特別な後味を残す。
幾何学的なイメージが覆う映像。トーンを重ねられた色彩。独特のコントラスト。明朝体の文字の羅列。テキストのみの画像。
なにもかもが、この作家でしかありえない、この作品でしかありえない、独創的な印象を描き出している。
『化物語』においては、あらゆるものがデザインの素材でしかない。あらゆるものがデザインの感性に合わせて解体され、独自の方法で再構築されていく。
アニメキャラクターもその例外ではない。
『化物語』のキャラクターたちは、徹底して動きを持たない。全ての動作は、決定的な瞬間を維持したまま静止し、指先の一本に至るまで、その瞬間の緊張で引き攣っている。
要所要所に配される動画は、むしろ静止した瞬間を強調している。
いやむしろ、動かないのはテレビアニメーションというジャンル自体である。
作業的、あるいは予算的理由により、テレビアニメーションの動きは徹底的に抑制され、動かせない故に、いかに動いた印象を与えられるか。日本のテレビアニメージョンはその黎明期以来、その演出手法の模索に腐心してきた。
テレビアニメーションの動きのほとんどが、クロースアップの目パチと口パクだけで終る。それがキャラクターを中心に置き、実在感を炙り出すための、最も簡単で、マニュアル的な手法だからだ。とりあえず止めの絵に、目パチと口パクだけ描いていればとりあえずの生命観がそこに現れて見えるからだ。
だが新房昭之監督の映像は、徹底的にキャラクターは動かない。むしろ動かさないことを、演出的な信条としている。
人物は断片にまで解体され、背景の幾何学模様と一体となり、あるいは色彩に埋没する。
キャラクターなどただの線の集まりでしかない、という
アニメキャラクターはカットという言葉どおり、構図の中で分解され、作家のデザイン的な世界の中に埋没する。一方でコピー&ペーストされて、新たなイメージの素材にされていく。
一方で、デザイン世界がカットの全体が覆う中で、切り刻まれたアニメキャラクターは何ともいえない官能を匂わせ始める。切り刻まれたキャラクターの身体の印象は、むしろSM的なフェテッシュな感覚を増大させ、バイオレンスで溢れる『化物語』の中に鮮烈なエロティシズムを漂わせ始めている。
『化物語』の映像イメージは、ディティールで埋め尽くされる昨今のアニメーションと逆行するように、むしろディティールが剥離されていく。
キャラクターは立体と実在を失ってただの線画というレベルにまで解体されるし、風景から色彩が省かれていく。リアリズムの作家が追求する全てが、映像から間引かれていく。
その代わりに代入されているのが、説明的な明朝体の文字だ。
その文字の羅列も、高密度アニメーションのようにディティールを補強する効果を与えていない。むしろ、それは意図されていない。
映像から説明的なディティールを剥ぎ取る代わりに、明朝体の文字で直接解説を試みているのだ。
だが、羅列される文字のほとんどが、現代においては馴染みの薄い、おそらくほとんどの人が判別不明であろう旧字体である。
むしろこれは、読めないことを意図している。だが、なんとなくぼんやりと理解できる。ディティールの洪水のように作られたアニメが意図するのは、ディティールの洪水を「無意識」の領域で受け止めさせるためだ。判読不明の旧字体の羅列も、意図としては同じだ。シンプルなシルエットラインに置かれた文字の洪水を「無意識」の領域で受け止めさせようとする。そうして、ひとつの密度を持った映像として、作品が補完されている。
ほとんどのユーザーは、映像に描かれているものがなんだかわからいまま、強引な勢いで作品世界に引き込まれていく。
通常の映像体験での感覚をぼろぼろに狂わせて、まったく新たな様式美の世界が生まれようとしている。これは、新たな形式のアニメーションであり、作家個人の感性そのものが刻印されたアニメーションだ。
鑑賞後、一つのデザイン帖を見終えたかのような、贅沢な後味を残す作品だ。
作品データ
監督:新房昭之 原作:西尾維新
キャラクター原案:VOFAN キャラクターデザイン・総作画監督:渡辺明夫
シリーズディレクター:尾石達也 ビジュアルディレクター:武内宣之
美術監督:飯島寿治 色彩設定:滝沢いづみ ビジュアルエフェクト:酒井 基
音楽:神前 暁 音響監督:鶴岡陽太
撮影監督:江藤慎一郎 編集:松原理恵
アニメーション制作:シャフト
出演:神谷浩史 斎藤千和 加藤英美里 沢城みゆき
花澤香菜 堀江由衣 櫻井孝宏 喜多村英梨
井口裕香
■2009/07/02 (Thu)
映画:外国映画■
チャンセンとコンギルは、旅の芸人だった。
チャンセンは綱渡り芸を得意とし、コンギルは女形芸人として、愛らしさと美貌を振り撒いていた。
だが、コンギルはあまりにも美しすぎる女形だった。
その日も演目の終わりに、一座の親方がコンギルを貴族に差し出そうとしていた。
チャンセンは親方に反発し、コンギルを連れて一座を逃げ出してしまう。

女性がうらやむ美貌のコンギル。相方のチャンセンは、蓬髪に髭面。実にわかりやすい組み合わせだ。二人は物語の必要、不要に関わらず、スキンシップを繰り返す。二人男の情念による物語が根底にあるとわかる。
物語の中心にいるのは、美しい男性のコンギルだ。
体の線が細く、容姿は完璧に整い、微笑は男たちを魅了させる。
王も貴族も、コンギルに心を奪われ、好色な思いに捉われてしまう。
そんなコンギルを守ろうとするチャンセンとの絆は深い。
チャンセンとコンギルは手を繋いで、自分達の運命から逃走を図る。
自由を得た二人の前に、人の気配のない一面の野原が広がる。
男同士のあまりにも深い絆。閉鎖的な恍惚の光景が広がっている。
だが、そんな二人だけの絆に、邪な権力者達の欲望が滲み寄ってくる。
二人が逃亡を始めると、突如として美しく幻想的な野原が広がる。二人きりの空間がいかに幸福であるかを解説するシーンだ。それでも、二人は際どく性的な方向に進むのを避けている。二人はやがて美しい野原を後にし、生活のために猥雑な日常世界へ帰っていくが…。
チャンセンとコンギルは、大都会の漢陽へ行き、そこで芸人の仕事を見つけようと思いつく。
チャンセンとコンギルは、漢陽の街で新しい芸人一座に加わるが、人の集まりは芳しくない。
王の命令で大きな狩場が作られ、漢陽から人が減っているというのだ。
そこでチャンセンは「王をネタに芸をやろう」と思いつく。

都会に出て演目を始めるが、人の集まりはよくない。原因は王にあるそうだ。民は王に対する不満が強くなっているに違いない。ならば、王をネタに演目をすれば人が集る。チャンセンの狙い通り人は集まるが、それが原因で役人に逮捕されてしまう。
王をからかった演目は大成功だった。人々が集り、喝采が上がる。
だが突然、役人達が乱入し、チャンセンたちは囚われの身となってしまう。
王を侮辱した罪で、死刑だった。
とっさにチャンセンは、機転を利かせて宣言する。
「王に舞台を見せたい。王が笑えば、侮辱じゃない。王を笑わせてやる」

王は、チャンセン達の芸を気に入り、側に使えるように命じる。王が特に気に入ったのは、コンギルだったようだ。だが、あまりにも美しすぎるゆえに、王宮内の評判も、王妃への嫉妬も激しい。
映画『王の男』は16世紀の李氏朝鮮時代を題材にした物語だ。
だが、歴史物語が持つ風格や重々しさはどこにもない。
映像は全体に光が与えられ、カットの主張は不明だ。
セットは明らかなセットとして描かれ、映画への没入を拒もうとしている。
演技や台詞などは典型的な様式が踏襲され、テレビドラマを鑑賞しているような気分にさせる。

王はコンギルに、性的な欲望ではなく心情的な抱擁を求めていた。コンギルは、まもなく王の孤独に気付き、同情する。王のために、重臣が指示した演目を演じようとするが、それは政治闘争に利用されていた。
だが、美しい男性と、それを取り巻く欲望の物語としては、興味深い映像体験を提供する。
一人の美男子を巡って王が狂い、それを権力闘争に利用する重臣たちの政治劇。
愚かな王は、自身が重臣達の操り人形だとは知らない。
王宮はひとつの演劇空間なのであって、王は知らない間に、その主人公として祭り上げられている。
王にとって何もかもが、ひれ伏す重臣たちも、王妃の愛すらも薄ぺらな演劇に過ぎない。
だから王は、美男子を側に引きこみ、愛を得ようとする。
『王の男』は映画のもう一人の主人公である。
物語はやがて王の孤独に中心を移し、悲劇的な結末を迎える。
映画記事一覧
作品データ
監督:イ・ジュニク 原作:キム・テウン
音楽:イ・ビョンウ 脚本:チェ・ソクファン
出演:カム・ウソン イ・ジュンギ
チョン・ジニョン カン・ソンヨン
チャン・ハンソン ユ・ヘジン
チョン・ソギョン イ・スンフン
チャンセンは綱渡り芸を得意とし、コンギルは女形芸人として、愛らしさと美貌を振り撒いていた。
だが、コンギルはあまりにも美しすぎる女形だった。
その日も演目の終わりに、一座の親方がコンギルを貴族に差し出そうとしていた。
チャンセンは親方に反発し、コンギルを連れて一座を逃げ出してしまう。
物語の中心にいるのは、美しい男性のコンギルだ。
体の線が細く、容姿は完璧に整い、微笑は男たちを魅了させる。
王も貴族も、コンギルに心を奪われ、好色な思いに捉われてしまう。
そんなコンギルを守ろうとするチャンセンとの絆は深い。
チャンセンとコンギルは手を繋いで、自分達の運命から逃走を図る。
自由を得た二人の前に、人の気配のない一面の野原が広がる。
男同士のあまりにも深い絆。閉鎖的な恍惚の光景が広がっている。
だが、そんな二人だけの絆に、邪な権力者達の欲望が滲み寄ってくる。
チャンセンとコンギルは、大都会の漢陽へ行き、そこで芸人の仕事を見つけようと思いつく。
チャンセンとコンギルは、漢陽の街で新しい芸人一座に加わるが、人の集まりは芳しくない。
王の命令で大きな狩場が作られ、漢陽から人が減っているというのだ。
そこでチャンセンは「王をネタに芸をやろう」と思いつく。
王をからかった演目は大成功だった。人々が集り、喝采が上がる。
だが突然、役人達が乱入し、チャンセンたちは囚われの身となってしまう。
王を侮辱した罪で、死刑だった。
とっさにチャンセンは、機転を利かせて宣言する。
「王に舞台を見せたい。王が笑えば、侮辱じゃない。王を笑わせてやる」
映画『王の男』は16世紀の李氏朝鮮時代を題材にした物語だ。
だが、歴史物語が持つ風格や重々しさはどこにもない。
映像は全体に光が与えられ、カットの主張は不明だ。
セットは明らかなセットとして描かれ、映画への没入を拒もうとしている。
演技や台詞などは典型的な様式が踏襲され、テレビドラマを鑑賞しているような気分にさせる。
だが、美しい男性と、それを取り巻く欲望の物語としては、興味深い映像体験を提供する。
一人の美男子を巡って王が狂い、それを権力闘争に利用する重臣たちの政治劇。
愚かな王は、自身が重臣達の操り人形だとは知らない。
王宮はひとつの演劇空間なのであって、王は知らない間に、その主人公として祭り上げられている。
王にとって何もかもが、ひれ伏す重臣たちも、王妃の愛すらも薄ぺらな演劇に過ぎない。
だから王は、美男子を側に引きこみ、愛を得ようとする。
『王の男』は映画のもう一人の主人公である。
物語はやがて王の孤独に中心を移し、悲劇的な結末を迎える。
映画記事一覧
作品データ
監督:イ・ジュニク 原作:キム・テウン
音楽:イ・ビョンウ 脚本:チェ・ソクファン
出演:カム・ウソン イ・ジュンギ
チョン・ジニョン カン・ソンヨン
チャン・ハンソン ユ・ヘジン
チョン・ソギョン イ・スンフン
■2009/06/30 (Tue)
PCソフト■
RETAS STUDIO〔レタススタジオ〕
レタススタジオといえば超高級品で、最近まで30万円以上という価格だったが(初期のころは150万円)、2008年の12月、突如として3万円台に値下げされた。
もちろん、機能制限など一切ない完全版だ。そこそこのパソコンの性能さえあれば(ちなみに、私のパソコンは2002年製で、デュアルコアも入ってないが、問題なく動いた)、実際にプロが現場で使用している作業が、全て自宅でできてしまうのだ。
では、レタススタジオで具体的にどんな作業ができるのか見ていくとしよう。
(ソフトの動作環境、値段、株式会社セルシスへのリンクなどは商品説明の下にあります)
STYLOS(作画)
レタススタジオは4+1のソフト分解されている。最初に紹介するのは作画用ソフトであるSTYLOSだ。
このソフトで、〔レイアウト、原画、動画、タイムシート〕といったアニメーションにおいて最も重要な工程のすべてが制作できる。
ワコム製ペンタブレットに対応しており、パソコン上への直接作画が可能である。アニメーション制作といえば大量の紙(動画用紙)が必要と連想されるが、レタススタジオとペンタブレットあれば、必要最低限の道具で、机の上を散らかす心配なく作業が進められる。最近は高級な液晶ペンタブレットもさほど高くはないから、一緒に購入するすることをお勧めする。
アニメーションツールとしての補助機能も多様である。動画用紙の透明度を設定できるし、順番を整理してでの「指パラ」も即座に行ってくれる。また原画やレイアウトの下に、一枚だけ画像資料(設定や写真、3Dデータなど)を半透明状態で置き、それを参考に絵を描ける。このツール一つで、下書きから動画の完成までのすべてを行える。
STYLOSでの作画作業が終了すれば、次は「彩色仕上げ」である。
PAINTMAN(彩色仕上げ)
一見すると、普通のペイントツールのように見えるが、アニメーション制作ソフトらしい特徴を備えたソフトである。
まず、塗り漏れしそうな線と線の切れ目を感知し、自動的に防ぐ機能。トレスミスによる線の揺らぎを修正し、綺麗に引きなおす機能。塗り忘れを防ぐ機能。さらに、一度引いた線をボタン一つで太くしたり細くしたりなどが可能である。また、重ねた動画の、同じ領域を一気に彩色する機能などもついている。
ところで、各ソフト間のデータの受け渡しは、「カット袋」を使用する。カット袋とは、中に原画やレイアウトや背景などを入れ、各現場を持ち運びする袋である。
もちろん、本当のカット袋があるのではなく、パソコン上に架空のカット袋を作成し、そのカット袋で各ソフト間の受け渡しするのである。STYLOS(作画)で作成した動画や背景をカット袋に保存し、「書き出し」を行い、PAINTMAN(仕上げ)に受け渡す。それから、同じく「書き出し」を行い、CORE RETAS(撮影)にデータを受け渡すのである。
TRACEMAN(スキャン・トレース)
作画→仕上げ→撮影といった流れとは別に、画像をソフトに取り込むためのツールである。
例えば、レタススタジオ以外のソフトで画像を作成した場合だ。フォトショップやペインターといったツールで画像を作成し、レタススタジオに取り込む場合、このTRACEMANが使用される。おおよその作業はSTYLOSでも行えるが、だがやはり限界やソフト特有の癖がある。そういった場合、別のソフトで画像を作り、取り込む場合にTRACEMANが活用される。
また、手書きで動画用紙に作画を行った場合も、TRACEMANで取り込むようになっている。ここで取り込んだ画像を、PAINTMAN(彩色)あるいはCORE RETAS(撮影)に受け渡すのである。
CORE RETAS(撮影)
作画、彩色と進めたカットを、最終的に纏め上げ、特殊効果などを追加するソフトである。この段階において、動画と背景が一つになり、実際の動作を確認できるのである。
また、CORE RETASを使って様々なエフェクトを追加することもできる。例えば止めの動画をスライドさせたり、画面に効果をつけて古ぼけた感じにしたり、印象的なセピアカラーにしたりなどができる。
CORE RETASで一つのカットは完全な形として完成され、次の作業である編集に進む。
Movie Edit Pro(編集)
CORE RETASまで進めた作業は、あくまでも断片的なカットである。完成に向けた編集は、このMovie Edit Proを使用する。
このMovie Edit Proは、レタススタジオとは別のツールである。だが機能面はプロ使用で充実しており、このソフト一本でカットの編集、音楽とアフレコの合成などが行える。
ただしツール自体の使い勝手は、とてもいいものとは言えない。広告には「直感的に使用できる」と説明されているが、広告どおりには使用できない。使われている用語は聞き覚えのない奇怪な専門用語ばかりだし、何をいじったらどうなるのかまったく理解できなかった。もしかしたら使えこなせれば良ツールになるのかもしれないが、私はこのソフトの1%の力も引き出せなかった。
レタススタジオは完全なプロ仕様の製作ソフトである。しかも、驚くような低価格で手に入る。レタススタジオは夢のようなソフトであり、夢を実現させられるソフトである。
ただし、実際に使いこなそうと思うと、高いハードルをいくつも越えなければならない。確かにプロが現場で使っているソフトそのままだが、だからといって「誰でも簡単にプロのような作品を制作できるソフト」ではない。実際に使ってみた感触は、非常に複雑で、自由に使いこなせるまでかなり時間が必要だと思った。
レタススタジオで使われている用語は、実際のアニメの現場で使用されているものが多いが、それでも初心者にとって難しいものだろう。熱心なアニメファンでも知らないだろう用語が、いくつも登場してくる。さらに、レタススタジオ独特の用語もいくつもあり、憶えようと思ったら、ちょっと大変だ。本気でレタススタジオを使いこなそうと思ったら、それ以前に勉強が必要そうだ。
はっきりいって、独学で使いこなすのは難しい。まず専門書店へ行き、ソフトのマニュアルを探すべきだろう。レタススタジオにマニュアルが付属されているし、ネット上に電子マニュアルも存在するが、これだけでは心細い。同梱のマニュアルは薄っぺらく、最低限の使用方法しか書いてない。電子マニュアルも親切なマニュアルとはとても言いがたい。同じモニター上にレタススタジオと被ってしまうし、しかも文字が潰れて非常に読みづらかった。
やはり専門書店などに出向いていき、実際に中身を見た上でマニュアルを購入するのがいいだろう。もし、それが難しいというなら、コンピューターに詳しい協力者を見つけるべきだ。そもそもアニメ制作は一人で担うにはあまりにも過酷なので、協力者の存在は絶対必要である。どちらの理由にせよ、信頼のおける協力者は必要だと思ったほうがいい。
それに、作品制作そのもののハードルとなると、さらに高くなる。まともに作品を制作するつもりなら、最低でもアニメ専門学校卒業くらいの知識、技術は必要だ。現場の経験があればもっといい。初心者はクリンナップ(線を整理すること。現場では「トレス」)すら満足にできないだろう。
すでに、ユーチューブやニコニコ動画などに、レタススタジオを使用したと思われる個人製作作品がいくつか見られるが、基本ができていないものがほとんどだ。例えば歩きの動画に上下動がない。フォロースルーの概念がわかっていない。もっといえば、動画の詰め位置がおかしいなど、やはり素人の独学ではなくプロの現場経験は必要だと私は考える。
レタススタジオは、間違いなく夢のツールだが、その当人の実力以上の力を引き出してくれるツールでは決してない。根本的な絵の技術、シナリオの感性、その両方が容赦なく試されるソフトである。もし本当に自身に実力があり、才能(うぬぼれ)、野心があるならば、迷わずレタススタジオの購入をお勧めしたい。
動作環境(仕様は後に変更されるかもしれません。公式サイトで確認してください)
Microsoft Windows日本語オペレーションシステム
XP Home Edition(Service Pack2以上が必要)、XP Professional(Service Pack2以上が必要)、Vista Home Basic、Vista Home Premium、Vista Buiness、Vista Ultimate
※internet Explorer5.01以上必須。※Quick Time6.0以上推奨。※32bit版のみ対応。64bitでは動作保障はいたしません。※Direct9.0以上推奨(Stylosの3D機能を使用する場合)
コンピューター本体
PC/AT互換機のみ
上記OSがプリインストールされたパーソナルコンピュータ
CPU
Intel Pentiumプロセッサ及び互換プロセッサ
1.0GHz以上(2.0GHz以上推奨)
HDD空き容量
1.0GB以上必須(3.0GB以上推奨)、CoreRETASは3.0GB以上必須(6.0GB以上推奨)、アプリケーションインストール用:約300MB、データその他のインストール用:約2.0GB、作業領域として:約500MB以上(CoreRETASは2.5以上)必須(5.0以上推奨)
モニタ
XGB(1024×768)以上の高解像度ディスプレイ
フルカラー(24bit、1670万色)
タブレット
WACOM製タブレット
BAMBOO、FAVO、intuos、Cintiq、DTシリーズなど
値段36750円(税込み)
株式会社セルシス
レタススタジオサイト