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■2009/09/14 (Mon)
映画:外国映画■
幼少期のアンディ・カウフマンはいつも一人で遊びような子供だった。テレビに夢中の子供で、壁に向かってテレビごっこを興じていた。
観客は誰もいない。アンディ一人きりのステージ。アンディが楽しいと思えば、アンディの耳には幻の拍手が聞こえてきた。
しかし現実には、誰ひとりアンディに手を叩く者はいなかった。
十数年後。大人になったアンディは売れないコメディアンとしてステージに立っていた。
アンディ一人きりのステージだった。観客はアンディを見ていないか、退屈で欠伸をするだけ。それでもアンディは、アンディ自身が楽しいと思えればそれでよかった。
そんなアンディに、支配人が助言する。
「これは商売だ。ショービジネスだ。ショーが下で、ビジネスが上。ビジネスあってのショーさ。君は失格だ。観客を沸かせてみろ」
翌日アンディは、ステージ上でエルヴィス・プレスリーの物まねを演じる。それがノリにノッて観客は大喝采。それをたまたま見ていたテレビ・プロデューサーのジョージ・シャピロが注目。アンディはテレビに出演するチャンスを得た。
アンディは「自分が面白いものは絶対」ということに、疑いをもてないタイプだ。これに同調者がいると、よりその性格が強化される。だから、怒る人がいると予想できなかった。
『マン・オン・ザ・ムーン』は伝説的なコメディアンであり、35歳でこの世を去ったアンディ・カウフマンを描いた作品だ。
アンディ・カウフマンが演出するテレビは常に問題を孕んでいた。テレビを故障したように見せかけたり、内部にまったく知らせず不意打ちのヤラセを起こしたり、アンディ・カウフマンの演出を越えた逸脱行動は、テレビ内外でも多くの問題を引き起こしていった。
アンディ・カウフマンの笑いは、多くの人にって「迷惑」と受け取られたのだ。しかし、なぜ?
アンディ・カウフマンの演出は、しばしば虚構世界を飛びぬけ、現実世界を侵食しようとした。従来のステージの中という文脈から、観客席に踏み込み、見ている人をステージのひとつとして取り込もうとした。
だがそれは、多くの人にとって動揺をもたらすことになる。ステージ上のできごとは虚構であり、見ている我々の側には決して危害を加えない。アンディ・カウフマンはその約束事をやすやすと飛び越え、観客を巻き込み、観客の動揺を誘い、いつの間にか世論そのものを巻き込もうとした。
アンディは観客がどう思うと自分の考えを押し通してしまう。「客を楽しませたいのか、自分が楽しみたいだけか」と問われる。潔癖症の芸術家にありがちな性格だ。
それでもアンディ・カウフマンにとって、その状況自体が虚構に過ぎなかった。所詮、芝居である。ヤラセに過ぎない。遊びのつもりだった。
だが、社会そのものを巻き込もうとするアンディ・カウフマンに対する世間の動揺と、それに基づく拒絶感は大きかった。
新しい表現や、新しい種類の遊び、新しい笑いというものは常に世間に対する激しい反発が起きる。それは戸惑いや動揺に端を発するものだ。先鋭的なものとは、従来的な文脈を踏み越え、暗黙の了解と考えられていた文法を破壊し、新たなものを創造する力である。
一般的な開拓者が新天地を発見することであれば、表現者による開拓者とは、深層心理内に新たな可能性を見出す者である。しかしそこで発見されたものは、フロイトの深層心理を突きつけられたように、激しい動揺と拒絶を誘うだけである。
だからアンディが演出する“笑い”も、やはり受け入れられなかった。
次第にアンディ自身が虚構に取り込まれていく。何を言っても、客は「どうせ虚構だろう」と思い込み、勝手に笑いを見出してしまう。その結果、アンディは客との間に溝を作り孤独になってしまう
ところでアンディ・カウフマンが演出したステージは、果たして“笑い”だったのだろうか。アンディ・カウフマンは人々を巻き込み、文脈を破壊して人々が本当に動揺したところに本物の笑いがあると信じて疑わなかった。だが、アンディの演出は果たして本当に“笑い”に繋がるものだったのだろうか。
思うに、アンディの目論みはある種の劇場的空間を現実世界に現出させることだったのではないか。一つのステージでは終らない、ステージを飛び越えて日常そのもの、すべてを劇場空間として飲み込む。
だからアンディの演出してみせた状況とは、ある種の表現者としての“空間”ではなかったのだろうか。それが虚構とわかる人には、おかしな状況としての“笑い”が起きる、そういう仕掛けだったのだろう。
アンディは表現者であるから、“騙し”が拒絶された。実際には政治家にデマゴーグはたくさんいるが、彼らが国民を騙しても拒絶されない。アンディは所詮すべておかしな虚構に過ぎないと看破し、笑う。
だがアンディ・カウフマンの笑いは受け入れられなかった。とことん受け入れられなかった。しかし一方で受け入れるしかなかった。何せアンディにとって、現実世界のすべてが演出された劇場的空間だったからだ。すでに現実が、アンディの演出する虚構で満たされている以上、受け入れるしかない。
やがて、誰もアンディ・カウフマンを信じなくなった。アンディ・カウフマンがどんなに振る舞っても、ウソに過ぎない。自分たちを笑わそうとしているだけだ。
アンディ・カウフマンはいつの間にか、自分が作り出した演出空間に、自分自身が飲み込まれてしまったのだ。
そしてアンディ・カウフマンは、映画の最後でもう一つ大きな演出空間に飲み込まれてしまう。
現実世界のあらゆるできごとは、所詮は虚構に過ぎない――自分の作った舞台など、その小さな一端に過ぎない。それを悟って、アンディ・カウフマンはこの世を去る。
映画記事一覧
作品データ
監督:ミロス・フォアマン 音楽:R.E.M.
撮影:アナスタス・N・ミコス
脚本:スコット・アレクサンダー ラリー・カラゼウスキー
出演:ジム・キャリー ダニー・デヴィート
〇〇〇コートニー・ラヴ ポール・ジアマッティ
〇〇〇ヴィンセント・スキャヴェリ ピーター・ボナーズ
〇〇〇ジェリー・ベッカー レスリー・ライルズ
〇〇〇マリル・ヘナー レイコ・エイルスワース
〇〇〇マイケル・ケリー リチャード・ベルザー
観客は誰もいない。アンディ一人きりのステージ。アンディが楽しいと思えば、アンディの耳には幻の拍手が聞こえてきた。
しかし現実には、誰ひとりアンディに手を叩く者はいなかった。
十数年後。大人になったアンディは売れないコメディアンとしてステージに立っていた。
アンディ一人きりのステージだった。観客はアンディを見ていないか、退屈で欠伸をするだけ。それでもアンディは、アンディ自身が楽しいと思えればそれでよかった。
そんなアンディに、支配人が助言する。
「これは商売だ。ショービジネスだ。ショーが下で、ビジネスが上。ビジネスあってのショーさ。君は失格だ。観客を沸かせてみろ」
翌日アンディは、ステージ上でエルヴィス・プレスリーの物まねを演じる。それがノリにノッて観客は大喝采。それをたまたま見ていたテレビ・プロデューサーのジョージ・シャピロが注目。アンディはテレビに出演するチャンスを得た。
アンディは「自分が面白いものは絶対」ということに、疑いをもてないタイプだ。これに同調者がいると、よりその性格が強化される。だから、怒る人がいると予想できなかった。
『マン・オン・ザ・ムーン』は伝説的なコメディアンであり、35歳でこの世を去ったアンディ・カウフマンを描いた作品だ。
アンディ・カウフマンが演出するテレビは常に問題を孕んでいた。テレビを故障したように見せかけたり、内部にまったく知らせず不意打ちのヤラセを起こしたり、アンディ・カウフマンの演出を越えた逸脱行動は、テレビ内外でも多くの問題を引き起こしていった。
アンディ・カウフマンの笑いは、多くの人にって「迷惑」と受け取られたのだ。しかし、なぜ?
アンディ・カウフマンの演出は、しばしば虚構世界を飛びぬけ、現実世界を侵食しようとした。従来のステージの中という文脈から、観客席に踏み込み、見ている人をステージのひとつとして取り込もうとした。
だがそれは、多くの人にとって動揺をもたらすことになる。ステージ上のできごとは虚構であり、見ている我々の側には決して危害を加えない。アンディ・カウフマンはその約束事をやすやすと飛び越え、観客を巻き込み、観客の動揺を誘い、いつの間にか世論そのものを巻き込もうとした。
アンディは観客がどう思うと自分の考えを押し通してしまう。「客を楽しませたいのか、自分が楽しみたいだけか」と問われる。潔癖症の芸術家にありがちな性格だ。
それでもアンディ・カウフマンにとって、その状況自体が虚構に過ぎなかった。所詮、芝居である。ヤラセに過ぎない。遊びのつもりだった。
だが、社会そのものを巻き込もうとするアンディ・カウフマンに対する世間の動揺と、それに基づく拒絶感は大きかった。
新しい表現や、新しい種類の遊び、新しい笑いというものは常に世間に対する激しい反発が起きる。それは戸惑いや動揺に端を発するものだ。先鋭的なものとは、従来的な文脈を踏み越え、暗黙の了解と考えられていた文法を破壊し、新たなものを創造する力である。
一般的な開拓者が新天地を発見することであれば、表現者による開拓者とは、深層心理内に新たな可能性を見出す者である。しかしそこで発見されたものは、フロイトの深層心理を突きつけられたように、激しい動揺と拒絶を誘うだけである。
だからアンディが演出する“笑い”も、やはり受け入れられなかった。
次第にアンディ自身が虚構に取り込まれていく。何を言っても、客は「どうせ虚構だろう」と思い込み、勝手に笑いを見出してしまう。その結果、アンディは客との間に溝を作り孤独になってしまう
ところでアンディ・カウフマンが演出したステージは、果たして“笑い”だったのだろうか。アンディ・カウフマンは人々を巻き込み、文脈を破壊して人々が本当に動揺したところに本物の笑いがあると信じて疑わなかった。だが、アンディの演出は果たして本当に“笑い”に繋がるものだったのだろうか。
思うに、アンディの目論みはある種の劇場的空間を現実世界に現出させることだったのではないか。一つのステージでは終らない、ステージを飛び越えて日常そのもの、すべてを劇場空間として飲み込む。
だからアンディの演出してみせた状況とは、ある種の表現者としての“空間”ではなかったのだろうか。それが虚構とわかる人には、おかしな状況としての“笑い”が起きる、そういう仕掛けだったのだろう。
アンディは表現者であるから、“騙し”が拒絶された。実際には政治家にデマゴーグはたくさんいるが、彼らが国民を騙しても拒絶されない。アンディは所詮すべておかしな虚構に過ぎないと看破し、笑う。
だがアンディ・カウフマンの笑いは受け入れられなかった。とことん受け入れられなかった。しかし一方で受け入れるしかなかった。何せアンディにとって、現実世界のすべてが演出された劇場的空間だったからだ。すでに現実が、アンディの演出する虚構で満たされている以上、受け入れるしかない。
やがて、誰もアンディ・カウフマンを信じなくなった。アンディ・カウフマンがどんなに振る舞っても、ウソに過ぎない。自分たちを笑わそうとしているだけだ。
アンディ・カウフマンはいつの間にか、自分が作り出した演出空間に、自分自身が飲み込まれてしまったのだ。
そしてアンディ・カウフマンは、映画の最後でもう一つ大きな演出空間に飲み込まれてしまう。
現実世界のあらゆるできごとは、所詮は虚構に過ぎない――自分の作った舞台など、その小さな一端に過ぎない。それを悟って、アンディ・カウフマンはこの世を去る。
映画記事一覧
作品データ
監督:ミロス・フォアマン 音楽:R.E.M.
撮影:アナスタス・N・ミコス
脚本:スコット・アレクサンダー ラリー・カラゼウスキー
出演:ジム・キャリー ダニー・デヴィート
〇〇〇コートニー・ラヴ ポール・ジアマッティ
〇〇〇ヴィンセント・スキャヴェリ ピーター・ボナーズ
〇〇〇ジェリー・ベッカー レスリー・ライルズ
〇〇〇マリル・ヘナー レイコ・エイルスワース
〇〇〇マイケル・ケリー リチャード・ベルザー
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■2009/09/14 (Mon)
映画:外国映画■
フロリダの海岸に、ザナドゥと呼ばれた巨大な宮殿があった。
チャールス・F・ケーンが一人で建設し、一人で過ごした宮殿だ。世界中のあらゆる贅沢を注ぎ込んだ、世界最大の個人邸宅だった。
1941年。
ザナドゥの主であるケーンが死去する。
死に際に、“バラの蕾”という謎の言葉を遺して。
世界最大の富豪ケーンの死亡は、世界のニュースになった。
映画会社は、すぐにケーンの生涯をまとめたニュース映画を製作する。
すでに映画のほとんどは完成していたが、なにかが物足りない。
あの“バラの蕾”の意味はなんだったのか?
新聞社のトムソンは“バラの蕾”の意味を探るために、ケーンに接した様々な人物を訪問する。
ケーンが巨大な財産を手に入れた切っ掛け。それは幼少期にあった。
ケーンは、小さな宿屋を経営する夫婦の子供だった。
平凡な宿屋だったが、あるとき、老人が宿賃の代わりに鉱山の借用書で支払いをする。
突然に、鉱山の主になったのだ。
母親はケーンの教育と財産管理のために、サッチャーに預ける決心をする。
年は過ぎて、ケーンは25歳になった。
母親の財産はケーンに移され、ケーンは世界で6番目の資産家となった。
しかしケーンが興味を持ったのは、新聞社の経営だった。
さっそくケーンは新聞社を買収し、経営に乗り出す。
芳醇な資金を使い、優秀な記者を次々と集めて、刺激的な記事をいくつも書きたてた。
ケーンのインクワイア紙は瞬く間に市内最大の出版部数を誇る新聞となる。
若者時代のケーンは、すべてに成功していた。
仕事を成功させ、多くの友人の信頼を得て、良き妻を手に入れた。
望みのものを何でも手に入れられる男。
財産を持ち、何でも手に入れられる男。
だがケーンの成功は、間もなく崩壊していく。
ケーンは旅行先で大統領の姪エミリー・ノートンと知り合い、結婚する。だが蜜月は長く続かず、夫婦の感情はすぐに冷めてしまう。
ケーンの人間性の欠如も、この頃からはっきりと現れてくる。
ケーンは、ただ愛されることだけを望んだ。
尊敬されることを。喝采が自分に向けられることを。
「愛してやるから、奉仕しろ、という態度なんだ」
ケーンの友人はそう指摘する。
反省するチャンスは何度もあった。しかしケーンは、自身を決して見詰め直さなかった。
「俺はケーンだぞ!」
俺は正しいんだ。俺は財産を持った男なんだ。
だから俺を愛しろ! 俺を尊敬しろ!
ケーンは、なんでもお金で買えると思った。贈り物をすれば、微笑んでくれると信じていた。
「愛してるさ」
「嘘よ。愛させたいだけだわ」
ケーンは、愛を失っていく。ケーンが人々に与えようとしていたのは、望まれない贈り物だった。
間もなく、誰もケーンを信頼しなくなった。
ケーンは愛を求めた結果、すべてを失った。お金以外は。
白、黒、白……単純だが、コントラストを配列をうまく並べて画像を作っている。平凡な日常のカットも、素晴らしく美しい画像を作り出している。
クローズアップに頼らず、カットを一つ一つしっかり練りこまれて描いている。
ちなみにタイトルとなっている『市民』は『庶民』と意味は異なる。『ブルジョア』を意味する日本語訳だ。「中流家庭」が大半を占める日本では、ややわかりにくいタイトルだ。(日本人が「市民」と「庶民」を混同するのは、全共闘時代の革命家気取りの若者が、「市民よ、立て!」と呼びかけたことが切っ掛けだとか?)
『市民ケーン』の映画技法は、極めて先鋭的である。
カットの運びは巧みで、物語の状況に合わせて、自在に緩急をつける。
俳優のクローズアップに頼る撮影法を廃し、カットをひとつの絵画としてカメラに収めようとする。
『市民ケーン』は俳優ではなく「情景」で、観客の心を惹きつけた映画だ。
「情景」で見る者の心を掴み、編集が心地よいリズムを持って引き込んでいく。
技法へのこだわりは、当時の基準であまりにも複雑だった。素早いカットの流れや、移り変わるフォーカス。当時の人々にとって、CGだらけの映画を見るような印象だったらしい。だが今、この映画を見ても、技法を技法と感じなくなってしまった。この映画で使われた技法は、もはや『文法』である。時代と人間の感覚の変わり方を考えさせられてしまう。
『市民ケーン』の本質は、技法の素晴らしさ以上に物語の普遍性にある。
愛を得ようとして、何もかもを失っていく男。
そんな男の、傲慢さと正直と、あまりにも深い孤独と。
ケーンは映画の中では誰もが知る人物だが、その深い孤独は誰にも理解されなかった。
その孤独を“バラの蕾”という謎めいた言葉に託し、ミステリとして興味をひきつけようとする。
『市民ケーン』の演出は一部の隙もないくらい完璧で、“バラの蕾”の一言は映画の最後まで、我々を強くひきつけていく。
『市民ケーン』は現代エンターティメントが持つ、すべての必要条件を満たした映画なのだ。
信じられない話だが、『市民ケーン』は当時、興行的に惨敗だった。改めて調べてみると、興行成績が制作費を下回っていた。大赤字映画である。当時の観客は、あまりにも技法にこだわりすぎたこの映画を受け入れられなかったのだ。
同時に、監督脚本を担当したオーソン・ウェルズは次回作を作るチャンスを永遠に失ってしまった。早すぎた天才、早すぎた作品、早すぎた技術。しかし、誰かが踏み出さねば映画文法の発展はなかっただろう。
『市民ケーン』は制作から60年以上が過ぎているが、現在においても誰もが認める名作だ。
どれだけ時間が過ぎようとも、何度も繰り返しタイトルが挙げられる作品。
今後も、『市民ケーン』は称賛され続けるだろう。
『市民ケーン』が描いたドラマや映像の素晴らしさは、決して色褪せることはない。不変の名作である。
映画記事一覧
作品データ
監督・主演・脚本:オーソン・ウェルズ
音楽:バーナード・ハーマン 脚本:ハーマン・J・マンキウィッツ
撮影:グレッグ・トーランド 編集:ロバート・ワイズ
出演:ジョセフ・コットン ドロシー・カミング
〇〇〇エヴェレット・スローン アグネス・ムーアヘッド
チャールス・F・ケーンが一人で建設し、一人で過ごした宮殿だ。世界中のあらゆる贅沢を注ぎ込んだ、世界最大の個人邸宅だった。
1941年。
ザナドゥの主であるケーンが死去する。
死に際に、“バラの蕾”という謎の言葉を遺して。
世界最大の富豪ケーンの死亡は、世界のニュースになった。
映画会社は、すぐにケーンの生涯をまとめたニュース映画を製作する。
すでに映画のほとんどは完成していたが、なにかが物足りない。
あの“バラの蕾”の意味はなんだったのか?
新聞社のトムソンは“バラの蕾”の意味を探るために、ケーンに接した様々な人物を訪問する。
ケーンが巨大な財産を手に入れた切っ掛け。それは幼少期にあった。
ケーンは、小さな宿屋を経営する夫婦の子供だった。
平凡な宿屋だったが、あるとき、老人が宿賃の代わりに鉱山の借用書で支払いをする。
突然に、鉱山の主になったのだ。
母親はケーンの教育と財産管理のために、サッチャーに預ける決心をする。
年は過ぎて、ケーンは25歳になった。
母親の財産はケーンに移され、ケーンは世界で6番目の資産家となった。
しかしケーンが興味を持ったのは、新聞社の経営だった。
さっそくケーンは新聞社を買収し、経営に乗り出す。
芳醇な資金を使い、優秀な記者を次々と集めて、刺激的な記事をいくつも書きたてた。
ケーンのインクワイア紙は瞬く間に市内最大の出版部数を誇る新聞となる。
若者時代のケーンは、すべてに成功していた。
仕事を成功させ、多くの友人の信頼を得て、良き妻を手に入れた。
望みのものを何でも手に入れられる男。
財産を持ち、何でも手に入れられる男。
だがケーンの成功は、間もなく崩壊していく。
ケーンは旅行先で大統領の姪エミリー・ノートンと知り合い、結婚する。だが蜜月は長く続かず、夫婦の感情はすぐに冷めてしまう。
ケーンの人間性の欠如も、この頃からはっきりと現れてくる。
ケーンは、ただ愛されることだけを望んだ。
尊敬されることを。喝采が自分に向けられることを。
「愛してやるから、奉仕しろ、という態度なんだ」
ケーンの友人はそう指摘する。
反省するチャンスは何度もあった。しかしケーンは、自身を決して見詰め直さなかった。
「俺はケーンだぞ!」
俺は正しいんだ。俺は財産を持った男なんだ。
だから俺を愛しろ! 俺を尊敬しろ!
ケーンは、なんでもお金で買えると思った。贈り物をすれば、微笑んでくれると信じていた。
「愛してるさ」
「嘘よ。愛させたいだけだわ」
ケーンは、愛を失っていく。ケーンが人々に与えようとしていたのは、望まれない贈り物だった。
間もなく、誰もケーンを信頼しなくなった。
ケーンは愛を求めた結果、すべてを失った。お金以外は。
白、黒、白……単純だが、コントラストを配列をうまく並べて画像を作っている。平凡な日常のカットも、素晴らしく美しい画像を作り出している。
クローズアップに頼らず、カットを一つ一つしっかり練りこまれて描いている。
ちなみにタイトルとなっている『市民』は『庶民』と意味は異なる。『ブルジョア』を意味する日本語訳だ。「中流家庭」が大半を占める日本では、ややわかりにくいタイトルだ。(日本人が「市民」と「庶民」を混同するのは、全共闘時代の革命家気取りの若者が、「市民よ、立て!」と呼びかけたことが切っ掛けだとか?)
『市民ケーン』の映画技法は、極めて先鋭的である。
カットの運びは巧みで、物語の状況に合わせて、自在に緩急をつける。
俳優のクローズアップに頼る撮影法を廃し、カットをひとつの絵画としてカメラに収めようとする。
『市民ケーン』は俳優ではなく「情景」で、観客の心を惹きつけた映画だ。
「情景」で見る者の心を掴み、編集が心地よいリズムを持って引き込んでいく。
技法へのこだわりは、当時の基準であまりにも複雑だった。素早いカットの流れや、移り変わるフォーカス。当時の人々にとって、CGだらけの映画を見るような印象だったらしい。だが今、この映画を見ても、技法を技法と感じなくなってしまった。この映画で使われた技法は、もはや『文法』である。時代と人間の感覚の変わり方を考えさせられてしまう。
『市民ケーン』の本質は、技法の素晴らしさ以上に物語の普遍性にある。
愛を得ようとして、何もかもを失っていく男。
そんな男の、傲慢さと正直と、あまりにも深い孤独と。
ケーンは映画の中では誰もが知る人物だが、その深い孤独は誰にも理解されなかった。
その孤独を“バラの蕾”という謎めいた言葉に託し、ミステリとして興味をひきつけようとする。
『市民ケーン』の演出は一部の隙もないくらい完璧で、“バラの蕾”の一言は映画の最後まで、我々を強くひきつけていく。
『市民ケーン』は現代エンターティメントが持つ、すべての必要条件を満たした映画なのだ。
信じられない話だが、『市民ケーン』は当時、興行的に惨敗だった。改めて調べてみると、興行成績が制作費を下回っていた。大赤字映画である。当時の観客は、あまりにも技法にこだわりすぎたこの映画を受け入れられなかったのだ。
同時に、監督脚本を担当したオーソン・ウェルズは次回作を作るチャンスを永遠に失ってしまった。早すぎた天才、早すぎた作品、早すぎた技術。しかし、誰かが踏み出さねば映画文法の発展はなかっただろう。
『市民ケーン』は制作から60年以上が過ぎているが、現在においても誰もが認める名作だ。
どれだけ時間が過ぎようとも、何度も繰り返しタイトルが挙げられる作品。
今後も、『市民ケーン』は称賛され続けるだろう。
『市民ケーン』が描いたドラマや映像の素晴らしさは、決して色褪せることはない。不変の名作である。
映画記事一覧
作品データ
監督・主演・脚本:オーソン・ウェルズ
音楽:バーナード・ハーマン 脚本:ハーマン・J・マンキウィッツ
撮影:グレッグ・トーランド 編集:ロバート・ワイズ
出演:ジョセフ・コットン ドロシー・カミング
〇〇〇エヴェレット・スローン アグネス・ムーアヘッド
■2009/09/14 (Mon)
創作小説■
この小説は、『さよなら絶望先生』を題材にした2次創作小説です。2次創作に関する法的問題については、こちらをご覧下さい。【著作物】【二次創作物】【パロディ】【パロディ裁判】
12
セーラー服姿の可符香が、可符香を抱き上げて連れて行ってしまった。私は床に尻をついたまま、茫然と見送ってしまった。セーラー服姿の可符香は、部屋の外の廊下を悠然と進んで行き、向こうの角を左に曲がった。
ようやく私は、じわりと思考が戻ってくるのを感じた。扉が開いている。逃げられる。そこまで考えが至ると、私はゆっくりと体を起こした。
部屋の外に出た。部屋の外に、真っ黒な通路が伸びていた。明かりもなく、装飾もなく、ただ長方形に切り取られただけのような通路だった。どこからか明かりが射し込んできて、廊下の形を淡く浮かび上がらせていた。
いったい何が起きたというのだろう? あのセーラー服姿の可符香は? 今ならある程度冷静に考えられる。あれは糸色家を去るとき、廊下で見た少女だった。
しかし、あの少女は何者なのか。どうしてこの屋敷の地下にいるのか。いや、そもそもどうして糸色家にいたのか……。それに、可符香の本当の名前とは。
考えてもやっぱり何もわからなかった。私は考えるのをやめて、廊下を進んだ。
通路は先のほうで左右に分かれていた。私はそこまで進み、左右を見ようとした。
突然、地面が抜けた。私は床の下に落ちてしまった。
落ちたそこは水だった。真っ黒な水が、全身に這い回ってくるのを感じた。私は慌ててもがいた。天井に見える、自分が落ちてきた穴に手を伸ばそうとしていた。
すぐに最初のパニック状態が過ぎ去った。水は浅かった。私の太ももを浸す程度だった。私は水の中に立ち、顔にかかった水滴を払って頭上を見上げた。真っ黒な天井に、自分を落とした穴が白く浮ぶのが見えた。高さは3メートル強。どうにかして届くような高さじゃなかった。
私は部屋の周囲を見回した。部屋は飾りのない長方形。ある一片だけ、壁がくり貫かれて滑り台のような坂道になっていた。その滑り台の先に、明らかに開きそうな継ぎ目のある壁があった。
どうにかなるかもしれない、と私は滑り台のほうに向かおうとした。しかし、太ももに何か触れるものがあった。私は、何だろうと目を向け手で払おうとした。
人骨だった。私はさっと全身に凍えるものを感じて、周囲を見回した。ひたひたと黒い色を浮かべる水面に、いくつもの人骨が浮んでいた。それだけではない。靴の裏に感じる感触も、多分、人骨だ。
私は再びパニックになった。もがくように水の中を進んだ。だけど、急に深いところに足を踏み入れてしまった。私の体が水の中に沈む。私は水を掻き分けて、前方に進んだ。
すると、滑り台の先の壁が開いた。そこから、淡い光が差し込んでくる。私はその光に希望を感じて、滑り台まで進んだ。滑り台まで辿り着き、急な斜面を這い進んだ。
滑り台を登りきって、その向うを覗きこんだ。そこは広い空間だった。部屋はほぼ円形で、何本もの柱が部屋を囲んでいた。私は柱の後ろの陰にいた。
円形の部屋の床に、紋章のような図案が描かれ、柱と同じような間隔で、背の高い燭台が置かれていた。頭上を見上げると、幾何学模様のように梁が折り重なり、そのうえから緩い白色灯の光が当てられていた。その光に、梁から釣り下がるロープのようなものが揺れているのが見えた。
そんな部屋の中央に、男爵が一人で立っていた。男爵はこちらを向いて、手を後ろに回していた。
「ようこそ、美しき乙女よ。歓迎するよ。ここは人間の法が及ばぬ、あらゆる道楽が許される地下の空間だ」
男爵の静かだが朗々とした声が、空間一杯に染み渡るようだった。
私は思わず後ろを振り返った。そこに滑り台が落ちて、黒い水に浮ぶ人骨が見えた。
「ここは自由が許される場所だ。だから君の自主性を重んじようと思う。その下の部屋に留まりたいというなら、止めはしない。そちらは使い物にならなくなった玩具を捨てる場所だがね。だが、あえてここはこちらに来るほうをお勧めしよう。来たまえ」
男爵が右手を上げて、私を誘うように呼びかけた。
私は、滑り台を這い登り、部屋のなかへ入っていった。ふらふらと、呪い師に催眠術を掛けられたように、男爵の前に進んで行った。多分、他にすがるものはなかったし、男爵が助けてくれそうな気が、ほんの一瞬だけしたから。
私は柱の向うの空間に入っていった。足元に、紋章のような図案が描かれている。何の図案かわからないけど、どことなく宗教的で、邪悪なものが感じる気がした。
「君は利口そうだ。少し考える機会を与えよう。“教育と幸福”とは何だと思うかね。君の知性の働きを見たい。答えたまえ」
男爵は手を下ろして、親しみを込めた微笑を浮かべた。
「……教育とは、学校で学ぶものです。幸福とは……わかりません」
私は模範解答と思える答えをした。男爵を真直ぐ見られず、上目遣いにしておずおずと口にした。
だが男爵は、穏やかな顔をにわかに曇らせ始めた。
「退屈な思考だ。欠伸が出るね。君は他人から押し付けられた美徳を、何一つ疑いもなく受け入れるのかね。君自身の主体性や、君がこの世界にいるという痕跡はどこにあるのかね。惜しい話じゃないか。若いうちは、あらゆる罪悪を知り、経験せねばならない。若者が持つ情念は、その機会を得るためにあるのだよ」
男爵はかつかつと靴音を鳴らして紋章の上を歩き、私に説教するように諭した。
男爵の言葉は、どこか魅力的だった。声色のせいか、啓発的な言葉のせいか。私の心が、男爵の側に引き摺られるようなものを感じた。でも私は、抗うように首を振った。
「そんなの、駄目です。だって、それはただの犯罪です!」
私は手を振り回して、男爵に怒鳴った。だけど私の声は私が思う以上に弱く、空間に吸い込まれていった。
「いかんね。さっきも言ったが、ここは人間の法が及ばぬ場所だ。いわば一切の自由が許される場所だ。窃盗、強姦、殺人。どんなタブーを犯しても咎め人はいない。いわば、我々一人一人が神かあるいはカリギュラの立場にあるというわけだ。そんな場所にいるのに、君は何を躊躇うのかね。何を踏みとどまっているのかね。さあ、再教育と行こう。それを取りたまえ。私を、ちょっと殺してみたいと思わないかね」
男爵は私の前に進むと、後ろ手に持っていたらしいナイフを、私の足元に放り出した。
ナイフはちゃんと鍔があり、柄には細かなレリーフが施されていた。刀身は真直ぐな両刃で、長さは10センチほどだった。それでも、立派な凶器に思えた。
「できないです」
私はナイフを見て後ずさりをしてしまった。
「何故かね?」
男爵が上目遣いに私を見た。その眼光が鋭く、私の表面を抉って内面まで覗きこむように思えた。私はまた後ずさりしてしまった。
「……恐いです。人を殺すなんて、恐いです」
私はうつむいて、消え入りそうな声で訴えた。目に涙が滲んで、泣き出しそうだった。
「人殺しなんて、ただの作業に過ぎない。君だって肉くらい食べるだろう。君が恐れているのは、もしや罰則かね? 犯罪というのは、法律と呼ぶものに対する、形式的な違反に過ぎない。確かに法律、ひいては国家を反逆したが、それがなぜ罪悪の意識と結び付けねばならんのかね? 相手が腐敗した政治なら、君の考える罪悪はむしろ英雄的と呼ばれるべきではないかね」
男爵は朗々とした調子で、啓蒙的な演説を始めた。
「……何を……言っているんですか」
私の体が、恐怖に捉われて動けなくなるのを感じた。動悸が早鐘のように打っている。喘ぐように息をしていた。
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小説『さよなら絶望先生~赤い瞳の少女~』目次
P054 第5章 ドラコニアの屋敷
12
セーラー服姿の可符香が、可符香を抱き上げて連れて行ってしまった。私は床に尻をついたまま、茫然と見送ってしまった。セーラー服姿の可符香は、部屋の外の廊下を悠然と進んで行き、向こうの角を左に曲がった。
ようやく私は、じわりと思考が戻ってくるのを感じた。扉が開いている。逃げられる。そこまで考えが至ると、私はゆっくりと体を起こした。
部屋の外に出た。部屋の外に、真っ黒な通路が伸びていた。明かりもなく、装飾もなく、ただ長方形に切り取られただけのような通路だった。どこからか明かりが射し込んできて、廊下の形を淡く浮かび上がらせていた。
いったい何が起きたというのだろう? あのセーラー服姿の可符香は? 今ならある程度冷静に考えられる。あれは糸色家を去るとき、廊下で見た少女だった。
しかし、あの少女は何者なのか。どうしてこの屋敷の地下にいるのか。いや、そもそもどうして糸色家にいたのか……。それに、可符香の本当の名前とは。
考えてもやっぱり何もわからなかった。私は考えるのをやめて、廊下を進んだ。
通路は先のほうで左右に分かれていた。私はそこまで進み、左右を見ようとした。
突然、地面が抜けた。私は床の下に落ちてしまった。
落ちたそこは水だった。真っ黒な水が、全身に這い回ってくるのを感じた。私は慌ててもがいた。天井に見える、自分が落ちてきた穴に手を伸ばそうとしていた。
すぐに最初のパニック状態が過ぎ去った。水は浅かった。私の太ももを浸す程度だった。私は水の中に立ち、顔にかかった水滴を払って頭上を見上げた。真っ黒な天井に、自分を落とした穴が白く浮ぶのが見えた。高さは3メートル強。どうにかして届くような高さじゃなかった。
私は部屋の周囲を見回した。部屋は飾りのない長方形。ある一片だけ、壁がくり貫かれて滑り台のような坂道になっていた。その滑り台の先に、明らかに開きそうな継ぎ目のある壁があった。
どうにかなるかもしれない、と私は滑り台のほうに向かおうとした。しかし、太ももに何か触れるものがあった。私は、何だろうと目を向け手で払おうとした。
人骨だった。私はさっと全身に凍えるものを感じて、周囲を見回した。ひたひたと黒い色を浮かべる水面に、いくつもの人骨が浮んでいた。それだけではない。靴の裏に感じる感触も、多分、人骨だ。
私は再びパニックになった。もがくように水の中を進んだ。だけど、急に深いところに足を踏み入れてしまった。私の体が水の中に沈む。私は水を掻き分けて、前方に進んだ。
すると、滑り台の先の壁が開いた。そこから、淡い光が差し込んでくる。私はその光に希望を感じて、滑り台まで進んだ。滑り台まで辿り着き、急な斜面を這い進んだ。
滑り台を登りきって、その向うを覗きこんだ。そこは広い空間だった。部屋はほぼ円形で、何本もの柱が部屋を囲んでいた。私は柱の後ろの陰にいた。
円形の部屋の床に、紋章のような図案が描かれ、柱と同じような間隔で、背の高い燭台が置かれていた。頭上を見上げると、幾何学模様のように梁が折り重なり、そのうえから緩い白色灯の光が当てられていた。その光に、梁から釣り下がるロープのようなものが揺れているのが見えた。
そんな部屋の中央に、男爵が一人で立っていた。男爵はこちらを向いて、手を後ろに回していた。
「ようこそ、美しき乙女よ。歓迎するよ。ここは人間の法が及ばぬ、あらゆる道楽が許される地下の空間だ」
男爵の静かだが朗々とした声が、空間一杯に染み渡るようだった。
私は思わず後ろを振り返った。そこに滑り台が落ちて、黒い水に浮ぶ人骨が見えた。
「ここは自由が許される場所だ。だから君の自主性を重んじようと思う。その下の部屋に留まりたいというなら、止めはしない。そちらは使い物にならなくなった玩具を捨てる場所だがね。だが、あえてここはこちらに来るほうをお勧めしよう。来たまえ」
男爵が右手を上げて、私を誘うように呼びかけた。
私は、滑り台を這い登り、部屋のなかへ入っていった。ふらふらと、呪い師に催眠術を掛けられたように、男爵の前に進んで行った。多分、他にすがるものはなかったし、男爵が助けてくれそうな気が、ほんの一瞬だけしたから。
私は柱の向うの空間に入っていった。足元に、紋章のような図案が描かれている。何の図案かわからないけど、どことなく宗教的で、邪悪なものが感じる気がした。
「君は利口そうだ。少し考える機会を与えよう。“教育と幸福”とは何だと思うかね。君の知性の働きを見たい。答えたまえ」
男爵は手を下ろして、親しみを込めた微笑を浮かべた。
「……教育とは、学校で学ぶものです。幸福とは……わかりません」
私は模範解答と思える答えをした。男爵を真直ぐ見られず、上目遣いにしておずおずと口にした。
だが男爵は、穏やかな顔をにわかに曇らせ始めた。
「退屈な思考だ。欠伸が出るね。君は他人から押し付けられた美徳を、何一つ疑いもなく受け入れるのかね。君自身の主体性や、君がこの世界にいるという痕跡はどこにあるのかね。惜しい話じゃないか。若いうちは、あらゆる罪悪を知り、経験せねばならない。若者が持つ情念は、その機会を得るためにあるのだよ」
男爵はかつかつと靴音を鳴らして紋章の上を歩き、私に説教するように諭した。
男爵の言葉は、どこか魅力的だった。声色のせいか、啓発的な言葉のせいか。私の心が、男爵の側に引き摺られるようなものを感じた。でも私は、抗うように首を振った。
「そんなの、駄目です。だって、それはただの犯罪です!」
私は手を振り回して、男爵に怒鳴った。だけど私の声は私が思う以上に弱く、空間に吸い込まれていった。
「いかんね。さっきも言ったが、ここは人間の法が及ばぬ場所だ。いわば一切の自由が許される場所だ。窃盗、強姦、殺人。どんなタブーを犯しても咎め人はいない。いわば、我々一人一人が神かあるいはカリギュラの立場にあるというわけだ。そんな場所にいるのに、君は何を躊躇うのかね。何を踏みとどまっているのかね。さあ、再教育と行こう。それを取りたまえ。私を、ちょっと殺してみたいと思わないかね」
男爵は私の前に進むと、後ろ手に持っていたらしいナイフを、私の足元に放り出した。
ナイフはちゃんと鍔があり、柄には細かなレリーフが施されていた。刀身は真直ぐな両刃で、長さは10センチほどだった。それでも、立派な凶器に思えた。
「できないです」
私はナイフを見て後ずさりをしてしまった。
「何故かね?」
男爵が上目遣いに私を見た。その眼光が鋭く、私の表面を抉って内面まで覗きこむように思えた。私はまた後ずさりしてしまった。
「……恐いです。人を殺すなんて、恐いです」
私はうつむいて、消え入りそうな声で訴えた。目に涙が滲んで、泣き出しそうだった。
「人殺しなんて、ただの作業に過ぎない。君だって肉くらい食べるだろう。君が恐れているのは、もしや罰則かね? 犯罪というのは、法律と呼ぶものに対する、形式的な違反に過ぎない。確かに法律、ひいては国家を反逆したが、それがなぜ罪悪の意識と結び付けねばならんのかね? 相手が腐敗した政治なら、君の考える罪悪はむしろ英雄的と呼ばれるべきではないかね」
男爵は朗々とした調子で、啓蒙的な演説を始めた。
「……何を……言っているんですか」
私の体が、恐怖に捉われて動けなくなるのを感じた。動悸が早鐘のように打っている。喘ぐように息をしていた。
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小説『さよなら絶望先生~赤い瞳の少女~』目次
■2009/09/12 (Sat)
創作小説■
この小説は、『さよなら絶望先生』を題材にした2次創作小説です。2次創作に関する法的問題については、こちらをご覧下さい。【著作物】【二次創作物】【パロディ】【パロディ裁判】
11
ここには太陽の光も気温の変化もなかった。だからどれだけ時間が経過したのかもわからなかった。ただ、とにかく長い時間、私たちは小さな部屋の中にいた。
「私たち、どうなったの?」
私は色んなものを紛らすつもりで可符香に話しかけた。小波のように繰り返し迫ってくる退屈と不安。少しでも癒せるものが欲しかった。
「きっと地底人の王国に迷いこんだんだよ」
可符香は頭蓋骨の顎をカチカチ鳴らしながら、明るい声で言った。
「今はそういうのやめて! そういう気分じゃないの!」
私は衝動的に怒鳴ってしまった。それから反省するように、「ごめんなさい」と声を沈ませた。
「いいんだよ。健太郎君も気にしないって言ってるから」
可符香が頭蓋骨に微笑みかけた。その顔に僅かな疲労があるが、いつもの暖かな微笑だった。
私は溜め息をついて、うつむいた。どれだけの時間が過ぎたのだろう、とまた考えていた。空腹は限界を通り越して、ただの疲労としか感じられなかった。
私たちはここから出られるだろうか。それを思うと、狂いそうな不安が私を掴むような気がした。
ふと顔を上げた。可符香は頭蓋骨と向き合って、会話しているように微笑みかけていた。
「可符香ちゃん。どうしてそれが健太郎君なの? どうしてここが地下だってわかるの?」
ようやく私は疑問に気付いて、可符香に訊ねてみた。
しかし、可符香から返事は返ってこなかった。
私は少し体を前に乗り出させて、可符香の表情を覗き込むようにした。
「可符香ちゃん、もしかして、この屋敷を知っているの? あの男爵って男のことも、知っているんじゃないの?」
私はもう一度、追及するように可符香に話しかけた。
可符香は急に表情を殺して、視線を落とした。
「わからない。思い出せないの。ずっと記憶の深いところで、何かが眠っているのをいつも感じている。だけど思い出せないの。これは健太郎君。なぜなら健太郎君だって知っているから。でも、どうして知っているのかその理由が思い出せないの」
いつもポジティブな可符香とは思えない、沈んだ言葉だった。
私は地面に両手をついて、さらに可符香に顔を近づけた。
「ねえ、思い出して。やっぱり10年前、私たち出会っているよね? 同じ幼稚園で、一緒に遊んだよね。ねえ、可符香ちゃん。あのとき可符香ちゃんは、どうしていなくなっちゃったの? ねえ」
私は可符香の記憶を刺激させるつもりで、話しかけた。
可符香は、もどかしそうに首を振った。
「やめて! やめて。……思い出したくないの。恐いから」
可符香は手から頭蓋骨を落とし、膝に顔をうずめた。私を避けるように、体を背けていた。
「ごめんね、可符香ちゃん」
私は申し訳ない気がして、謝って体を元に戻した。
可符香から返事はなかった。興奮しているらしく、はあはあとゆっくり肩を上下させていた。
私は可符香から目を逸らすように、鉄扉を振り向いた。そんな姿の可符香を見るのは初めてだったし、見たいとは思わなかった。
天井の裸電球が、ちりちりと点滅し始めた。あっと私は顔を上げた。裸電球は赤く焦げるような残像を浮べ、消えてしまった。
小さな部屋が真っ黒な闇に閉ざされた。だからといって際立つものもなかった。そこには風の音もなく、部屋の外を歩く気配すらなかった。完全な静寂だった。
そんな時だ。鉄扉の向うに気配が現れた。ひたひたと裸足が床を歩き進む音だった。
私は顔を上げて、気配の動きを探った。風の音もしない沈黙の中、気配は音量を間違えたようにくっきりと浮かび上がる。裸の足音は、間違いなくこちらに向かって進んでいた。
間もなくして、足音は鉄扉の前で停止した。
次に、ガチンッと錠が外れる音がした。続くように、鉄扉がほんの少しだけ、きぃと開いた。外の重たい空気が密かに流れてくるのを感じた。
私は可符香を振り返った。僅かに差し込んだ光に、可符香の姿がうっすらと浮かび上がっていた。可符香の瞳に浮んだ涙が、きらりと光を宿していた。
「可符香ちゃん、行ってみようよ。きっと妖精さんだから」
私は無理にでも微笑んで、いつもの可符香の口ぶりを真似てみた。
私は立ち上がり、鉄扉の前に進んだ。鉄扉は重く、しかも少し錆びていた。私は体重を使って、鉄扉をゆっくりと引いた。
すると部屋の外に、誰かがいた。薄い闇のトーンが折り重なるそこに、セーラー服姿の可符香が立っていた。色彩のないモノトーンの闇なのに、その瞳だけがくっきりと赤色に輝いていた。
私は茫然とセーラー服姿の可符香を見ていた。部屋の奥を振り返る。そこにもやはり可符香はいた。
いったい何が起きているのかわからなかった。思考も働かなかった。
セーラー服姿の可符香が部屋に入ってきて、私の胸を乱暴に突き飛ばした。私は自分を支えられず尻を突いた。
セーラー服姿の可符香は、私をまたいで真直ぐもう一人の可符香の前まで進んだ。可符香は立ち上がるけど、壁を背にしたまま逃げ出さなかった。
可符香の表情が恐怖に引き攣っていた。自分と同じ顔をした可符香を避けようと身を捩じらせるけど、膝ががたがたと震えて動き出せないみたいだった。
セーラー服姿の可符香が、可符香をそっと抱きしめるように体を重ねた。そうして、可符香の左の肩に顔を寄せて、何かを囁いた。
瞬間、可符香がはっとしたように全身を引き攣らせた。その目から人格が消えて、信じられないことに、真っ赤に輝き始めた。それを最後に、可符香は意識を失ってセーラー服姿の可符香に体を預けた。
私は、食堂で聞いた男爵の話を思い出していた。そう、セーラー服姿の可符香は、可符香の本当の名前を告げたのだ、と思った。
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小説『さよなら絶望先生~赤い瞳の少女~』目次
P053 第5章 ドラコニアの屋敷
11
ここには太陽の光も気温の変化もなかった。だからどれだけ時間が経過したのかもわからなかった。ただ、とにかく長い時間、私たちは小さな部屋の中にいた。
「私たち、どうなったの?」
私は色んなものを紛らすつもりで可符香に話しかけた。小波のように繰り返し迫ってくる退屈と不安。少しでも癒せるものが欲しかった。
「きっと地底人の王国に迷いこんだんだよ」
可符香は頭蓋骨の顎をカチカチ鳴らしながら、明るい声で言った。
「今はそういうのやめて! そういう気分じゃないの!」
私は衝動的に怒鳴ってしまった。それから反省するように、「ごめんなさい」と声を沈ませた。
「いいんだよ。健太郎君も気にしないって言ってるから」
可符香が頭蓋骨に微笑みかけた。その顔に僅かな疲労があるが、いつもの暖かな微笑だった。
私は溜め息をついて、うつむいた。どれだけの時間が過ぎたのだろう、とまた考えていた。空腹は限界を通り越して、ただの疲労としか感じられなかった。
私たちはここから出られるだろうか。それを思うと、狂いそうな不安が私を掴むような気がした。
ふと顔を上げた。可符香は頭蓋骨と向き合って、会話しているように微笑みかけていた。
「可符香ちゃん。どうしてそれが健太郎君なの? どうしてここが地下だってわかるの?」
ようやく私は疑問に気付いて、可符香に訊ねてみた。
しかし、可符香から返事は返ってこなかった。
私は少し体を前に乗り出させて、可符香の表情を覗き込むようにした。
「可符香ちゃん、もしかして、この屋敷を知っているの? あの男爵って男のことも、知っているんじゃないの?」
私はもう一度、追及するように可符香に話しかけた。
可符香は急に表情を殺して、視線を落とした。
「わからない。思い出せないの。ずっと記憶の深いところで、何かが眠っているのをいつも感じている。だけど思い出せないの。これは健太郎君。なぜなら健太郎君だって知っているから。でも、どうして知っているのかその理由が思い出せないの」
いつもポジティブな可符香とは思えない、沈んだ言葉だった。
私は地面に両手をついて、さらに可符香に顔を近づけた。
「ねえ、思い出して。やっぱり10年前、私たち出会っているよね? 同じ幼稚園で、一緒に遊んだよね。ねえ、可符香ちゃん。あのとき可符香ちゃんは、どうしていなくなっちゃったの? ねえ」
私は可符香の記憶を刺激させるつもりで、話しかけた。
可符香は、もどかしそうに首を振った。
「やめて! やめて。……思い出したくないの。恐いから」
可符香は手から頭蓋骨を落とし、膝に顔をうずめた。私を避けるように、体を背けていた。
「ごめんね、可符香ちゃん」
私は申し訳ない気がして、謝って体を元に戻した。
可符香から返事はなかった。興奮しているらしく、はあはあとゆっくり肩を上下させていた。
私は可符香から目を逸らすように、鉄扉を振り向いた。そんな姿の可符香を見るのは初めてだったし、見たいとは思わなかった。
天井の裸電球が、ちりちりと点滅し始めた。あっと私は顔を上げた。裸電球は赤く焦げるような残像を浮べ、消えてしまった。
小さな部屋が真っ黒な闇に閉ざされた。だからといって際立つものもなかった。そこには風の音もなく、部屋の外を歩く気配すらなかった。完全な静寂だった。
そんな時だ。鉄扉の向うに気配が現れた。ひたひたと裸足が床を歩き進む音だった。
私は顔を上げて、気配の動きを探った。風の音もしない沈黙の中、気配は音量を間違えたようにくっきりと浮かび上がる。裸の足音は、間違いなくこちらに向かって進んでいた。
間もなくして、足音は鉄扉の前で停止した。
次に、ガチンッと錠が外れる音がした。続くように、鉄扉がほんの少しだけ、きぃと開いた。外の重たい空気が密かに流れてくるのを感じた。
私は可符香を振り返った。僅かに差し込んだ光に、可符香の姿がうっすらと浮かび上がっていた。可符香の瞳に浮んだ涙が、きらりと光を宿していた。
「可符香ちゃん、行ってみようよ。きっと妖精さんだから」
私は無理にでも微笑んで、いつもの可符香の口ぶりを真似てみた。
私は立ち上がり、鉄扉の前に進んだ。鉄扉は重く、しかも少し錆びていた。私は体重を使って、鉄扉をゆっくりと引いた。
すると部屋の外に、誰かがいた。薄い闇のトーンが折り重なるそこに、セーラー服姿の可符香が立っていた。色彩のないモノトーンの闇なのに、その瞳だけがくっきりと赤色に輝いていた。
私は茫然とセーラー服姿の可符香を見ていた。部屋の奥を振り返る。そこにもやはり可符香はいた。
いったい何が起きているのかわからなかった。思考も働かなかった。
セーラー服姿の可符香が部屋に入ってきて、私の胸を乱暴に突き飛ばした。私は自分を支えられず尻を突いた。
セーラー服姿の可符香は、私をまたいで真直ぐもう一人の可符香の前まで進んだ。可符香は立ち上がるけど、壁を背にしたまま逃げ出さなかった。
可符香の表情が恐怖に引き攣っていた。自分と同じ顔をした可符香を避けようと身を捩じらせるけど、膝ががたがたと震えて動き出せないみたいだった。
セーラー服姿の可符香が、可符香をそっと抱きしめるように体を重ねた。そうして、可符香の左の肩に顔を寄せて、何かを囁いた。
瞬間、可符香がはっとしたように全身を引き攣らせた。その目から人格が消えて、信じられないことに、真っ赤に輝き始めた。それを最後に、可符香は意識を失ってセーラー服姿の可符香に体を預けた。
私は、食堂で聞いた男爵の話を思い出していた。そう、セーラー服姿の可符香は、可符香の本当の名前を告げたのだ、と思った。
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小説『さよなら絶望先生~赤い瞳の少女~』目次
■2009/09/12 (Sat)
映画:外国映画■
ゴールデンゲート・ブリッジは歴史が深く、美しい場所だ。
深い霧が出ると、橋全体が雲の中に浮かんでいるように見えて神秘的だ。
しかしこの橋には、もう一つの顔があった。
この橋で1250人が自殺しているのだ。
このドキュメンタリーは、自殺者の周辺にいる人達の証言で語られていく。家族や友人、恋人、職場の同僚といった人たちだ。自殺者がその直前までどんな心理だったか、どんな状態だったのか。当事者のほとんどが飛び降りてしまっているので、周囲の人達から客観的に語られていく。
映画は淡々と、死の瞬間を捉えていく。
その風景は、遠くから見るとひどく穏やかなものに見えてしまう。
写真を撮る観光客や、水上にはヨットで興じる人達がいる。
自殺の瞬間はまるで、日常の一コマのようですらある。
もし当事者自身がいてもうまく解説できないのが自殺の衝動だ。欝状態から脱すると、どうして自分が欝状態だったのか、かつての自分がまるで他人のようにすら感じてしまう。だから自殺する瞬間の心理は謎が多く、憶測で語られてしまう。結局は通俗的なお説教に回答を求めてしまう。
この映画に犯人はいない。彼らがなぜ自殺したのか?
実際の当事者は、ほとんどはこの世にいない。当事者は秘密を抱えたまま、橋から飛び降りてしまう。
彼らがどんな想いだったのか、それを知るチャンスははじめからない。
ただ残された人の言葉だけが重ねられていく。
“彼はこんな気持ちだったんじゃないか”と。
あるいは“あのときに別の判断をしていれば”と。
このドキュメンタリーがセンセーショナルな話題を得たのは、自殺を語ったことだけではない。「飛び降りる瞬間」を映像で捉えたからだ。カメラは、まるで待っていたかのように、探していたかのように、今まさに飛び降りようとする人の姿を捉える。助けにも行かない。なぜカメラマンは、あの瞬間に助けに行かなかったのか。ドキュメンタリーの制作のためか。「他人の死を見過ごした」だから問題になったのだ。
反社会的な行動をする人の心理は、平常な人間には理解できない。
殺人と自殺。
平常な人は、動揺するか怒るくらいしかできない。
彼らがなぜあそこで身を投げたのか。なぜあの時間、あの場所で身を投げなければならないと思ったのか。
遺族に同情できる人はいても、当事者の心理を理解できる人はいない。
前提できない事件に直面すると、人は激しく動揺する。
だから理解しやすい答を求める。
簡単な理由や、有名タレントのお説教、聖書のお告げ、あるいはわかりやすい悪者を作り出す。
どれも子供向け映画に出てくるファクターだ。だから安心できる。深く考えなくていいし、「答えが与えられた」という幻想を得られるからだ。
しかし現実の事件は、いくら謎解きしても犯人は出てこない。死んだ当事者自身が犯人であるから、謎解きをするチャンスすら失ってしまっている。
ただ、無常な気持ちを残すだけだ。
人同士の結びつきは決して深くはならない。ある種の幻想を、互いの心理の中に勝手に抱くだけだ。
側にいる人が「明日、自殺しよう」と考えているなんて、なかなか想像できない。予兆を感じていたとしても止められないだろう。
ブリッジから飛び降りる自殺は、ほとんどは白昼だ。
側には通行人も、カメラで撮っている観光客もいる。
しかし誰ひとり、声をかける者も、飛び降りる瞬間に気付く者もいない。
目に映っていても意識されない。目の前で起きた現実すら直面できないのだ。
自分自身が許せない人間と、世界が許せない人間がいる。
生き続ける日々に、意味を見出せない人がいる。
毎日が我慢大会にしか感じられず、その我慢大会に終わりを見出せない。
生き続けていくのはただ苦痛だ。幻想を抱いて勘違いし続けるほどの間抜けではない。自殺者は現実をまっすぐ、そこに佇む苦痛の連続だけを見出している。
誰からも愛されていない。世界から孤立している。
絶望しか、感じられない。
彼らにとって、死は何を意味するのか。
一時的な気の迷いなのか、逃避なのか、イニシエーションなのか。
彼らは病的な錯乱状態であるが、冷静でもある。
自分の死に対して、慎重に審査し、準備もしている。
だから、病的な状態である一方、死そのものが目的でもあるのだ。
ゴールデンゲート・ブリッジは、何一つ騒ぎ立てず、堂々たる佇まいを見せている。
何が、あの橋に人を引き寄せているのだろう。
そこがあまりにも美しく、幻想的だからだろうか。
答えは、何もない。
映画記事一覧
作品データ
監督:エリック・スティール
深い霧が出ると、橋全体が雲の中に浮かんでいるように見えて神秘的だ。
しかしこの橋には、もう一つの顔があった。
この橋で1250人が自殺しているのだ。
このドキュメンタリーは、自殺者の周辺にいる人達の証言で語られていく。家族や友人、恋人、職場の同僚といった人たちだ。自殺者がその直前までどんな心理だったか、どんな状態だったのか。当事者のほとんどが飛び降りてしまっているので、周囲の人達から客観的に語られていく。
映画は淡々と、死の瞬間を捉えていく。
その風景は、遠くから見るとひどく穏やかなものに見えてしまう。
写真を撮る観光客や、水上にはヨットで興じる人達がいる。
自殺の瞬間はまるで、日常の一コマのようですらある。
もし当事者自身がいてもうまく解説できないのが自殺の衝動だ。欝状態から脱すると、どうして自分が欝状態だったのか、かつての自分がまるで他人のようにすら感じてしまう。だから自殺する瞬間の心理は謎が多く、憶測で語られてしまう。結局は通俗的なお説教に回答を求めてしまう。
この映画に犯人はいない。彼らがなぜ自殺したのか?
実際の当事者は、ほとんどはこの世にいない。当事者は秘密を抱えたまま、橋から飛び降りてしまう。
彼らがどんな想いだったのか、それを知るチャンスははじめからない。
ただ残された人の言葉だけが重ねられていく。
“彼はこんな気持ちだったんじゃないか”と。
あるいは“あのときに別の判断をしていれば”と。
このドキュメンタリーがセンセーショナルな話題を得たのは、自殺を語ったことだけではない。「飛び降りる瞬間」を映像で捉えたからだ。カメラは、まるで待っていたかのように、探していたかのように、今まさに飛び降りようとする人の姿を捉える。助けにも行かない。なぜカメラマンは、あの瞬間に助けに行かなかったのか。ドキュメンタリーの制作のためか。「他人の死を見過ごした」だから問題になったのだ。
反社会的な行動をする人の心理は、平常な人間には理解できない。
殺人と自殺。
平常な人は、動揺するか怒るくらいしかできない。
彼らがなぜあそこで身を投げたのか。なぜあの時間、あの場所で身を投げなければならないと思ったのか。
遺族に同情できる人はいても、当事者の心理を理解できる人はいない。
前提できない事件に直面すると、人は激しく動揺する。
だから理解しやすい答を求める。
簡単な理由や、有名タレントのお説教、聖書のお告げ、あるいはわかりやすい悪者を作り出す。
どれも子供向け映画に出てくるファクターだ。だから安心できる。深く考えなくていいし、「答えが与えられた」という幻想を得られるからだ。
しかし現実の事件は、いくら謎解きしても犯人は出てこない。死んだ当事者自身が犯人であるから、謎解きをするチャンスすら失ってしまっている。
ただ、無常な気持ちを残すだけだ。
人同士の結びつきは決して深くはならない。ある種の幻想を、互いの心理の中に勝手に抱くだけだ。
側にいる人が「明日、自殺しよう」と考えているなんて、なかなか想像できない。予兆を感じていたとしても止められないだろう。
ブリッジから飛び降りる自殺は、ほとんどは白昼だ。
側には通行人も、カメラで撮っている観光客もいる。
しかし誰ひとり、声をかける者も、飛び降りる瞬間に気付く者もいない。
目に映っていても意識されない。目の前で起きた現実すら直面できないのだ。
自分自身が許せない人間と、世界が許せない人間がいる。
生き続ける日々に、意味を見出せない人がいる。
毎日が我慢大会にしか感じられず、その我慢大会に終わりを見出せない。
生き続けていくのはただ苦痛だ。幻想を抱いて勘違いし続けるほどの間抜けではない。自殺者は現実をまっすぐ、そこに佇む苦痛の連続だけを見出している。
誰からも愛されていない。世界から孤立している。
絶望しか、感じられない。
彼らにとって、死は何を意味するのか。
一時的な気の迷いなのか、逃避なのか、イニシエーションなのか。
彼らは病的な錯乱状態であるが、冷静でもある。
自分の死に対して、慎重に審査し、準備もしている。
だから、病的な状態である一方、死そのものが目的でもあるのだ。
ゴールデンゲート・ブリッジは、何一つ騒ぎ立てず、堂々たる佇まいを見せている。
何が、あの橋に人を引き寄せているのだろう。
そこがあまりにも美しく、幻想的だからだろうか。
答えは、何もない。
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作品データ
監督:エリック・スティール