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■2009/09/18 (Fri)
映画:外国映画■
物語の主要な舞台は、ロッキー山脈の麓に見える小さな町だ。
その日、森に出かけていた親子は、墜落する宇宙船を目撃する。
現場に駆けつけると、親子が見た経験のない材質の宇宙船が、そこに横たわっていた。
「保安官に知らせよう」
ただならぬ物を察知した親子は、急いで森を抜け出そうとした。
しかし、親子を幼生エイリアンが襲い掛かる。
光をふんだんに取り入れた画面作り。この種の怪物映画としては、なかなかに美しい画面作りだ。暗闇のシーンと、極端なコントラスをと作り出している。
今回の舞台は、日常的な街である。
これまでのエイリアン/プレデター・シリーズは「非日常空間」が主要舞台であった。
宇宙空間や、ジャングル。エイリアン/プレデターは非日常空間に出現する、異形の怪物だった。
(『プレデター2』は、ロサンゼルスが舞台だったが、日常と接点を持つことはなかった)
暗闇のシーンは、極端な闇で描かれる。シルエットすらはっきりしないが、粒子の荒いフィルムでぼんやりと質感のみを浮かび上がらせる。
光と闇の描かれ方に、特徴がある映画だ。
日常の世界は、自然光がふんだんに取り入れられ、非常に美しい。
それに対し、夜や闇のシーンは、ほとんど何も見通せないくらいの闇が描かれる。娯楽映画の多くは、暗闇のシーンでも、光がやわらかく当たり、全体がぼんやりと浮かび上がるように描いている。
しかし、この映画が描く闇は、まさに「見えない闇」である。何が潜んでいるかわからない闇が、見る者の恐怖を煽り立てている。
マッピング画像。『メトロイド・プライム』に酷似している。この頃はビジュアル面でゲームと映画の境界線を侵食しあっているので、似ていても不思議ではない。むしろ、よくあるできごとになりつつある。
怪物映画としては意外なくらい、日常に焦点が当てられた映画だ。人々の暮らしや、人間関係が丹念に描かれている。
怪物映画としては、極めて珍しい傾向である。
しかし一方で、詳細に組まれた設定とは裏腹に、描写があまりにも不充分である。おそらく、もっと細かくドラマとして発展したかもしれない物語だが、その一部を軽く掠めただけで映画は終ってしまう。
映画はドラマの流れをすべて掬い上げる前に、エイリアン/プレデターの襲撃によって、それまでの組立てを無に返してしまう。
退役軍人である女(名前はわからなかった)。後半、物語の主導的立場を持つようになる。どことなくリプリーに似ている感じ。人物の掘り下げが中途半端なまま進行し、そのまま放ったらかしにするのが『AVP2』の弱いところだ。映画の骨格も骨を覆う肉も貧相なイメージが付きまとう。女軍人の名前や人物像がつかめないまま、というのがその一例。
映画はじわりじわりと非日常を侵食させていく。
前半の展開は、非常にゆったりとしている。前半30分は犠牲者もなく、具体的なアクションシーンも描かれない。しかし物語自体に停滞感はなく、物語は着実に進行させて行く。
非日常はやがて、日常の境界線を踏み越えていく。ある沸点に達すると、映画は急速に、極端なくらいのショックシーンを連発させる。
その境目の線の動きを丹念に描いたのは『エイリアン』の第1作目以来だろう。日常の生活があり、だからこそ、エイリアン襲撃の異常さが際立ってくる。一方で、尺度の短さがドラマを不十分にして、映画を薄っぺらく見せてしまっている部分もある。
その部分を差し置けば、『AVP2』は『エイリアン』第1作目に近づけようとした作品ではないだろうか。
映画記事一覧
作品データ
監督:コリン&グレッグ・ストラウス
脚本:シェーン・サレルノ 音楽:ブライアン・タイラー
編集:ダン・ジマーマン
クリーチャー造形:アマルガメイテッド・ダイナミクス・インク
出演:スティーブン・パスカル レイコ・エイルワース
〇〇〇ジョン・オースティン ジョニー・ルイス
〇〇〇アリエル・ゲイド クリステン・ヘイガー
その日、森に出かけていた親子は、墜落する宇宙船を目撃する。
現場に駆けつけると、親子が見た経験のない材質の宇宙船が、そこに横たわっていた。
「保安官に知らせよう」
ただならぬ物を察知した親子は、急いで森を抜け出そうとした。
しかし、親子を幼生エイリアンが襲い掛かる。
光をふんだんに取り入れた画面作り。この種の怪物映画としては、なかなかに美しい画面作りだ。暗闇のシーンと、極端なコントラスをと作り出している。
今回の舞台は、日常的な街である。
これまでのエイリアン/プレデター・シリーズは「非日常空間」が主要舞台であった。
宇宙空間や、ジャングル。エイリアン/プレデターは非日常空間に出現する、異形の怪物だった。
(『プレデター2』は、ロサンゼルスが舞台だったが、日常と接点を持つことはなかった)
暗闇のシーンは、極端な闇で描かれる。シルエットすらはっきりしないが、粒子の荒いフィルムでぼんやりと質感のみを浮かび上がらせる。
光と闇の描かれ方に、特徴がある映画だ。
日常の世界は、自然光がふんだんに取り入れられ、非常に美しい。
それに対し、夜や闇のシーンは、ほとんど何も見通せないくらいの闇が描かれる。娯楽映画の多くは、暗闇のシーンでも、光がやわらかく当たり、全体がぼんやりと浮かび上がるように描いている。
しかし、この映画が描く闇は、まさに「見えない闇」である。何が潜んでいるかわからない闇が、見る者の恐怖を煽り立てている。
マッピング画像。『メトロイド・プライム』に酷似している。この頃はビジュアル面でゲームと映画の境界線を侵食しあっているので、似ていても不思議ではない。むしろ、よくあるできごとになりつつある。
怪物映画としては意外なくらい、日常に焦点が当てられた映画だ。人々の暮らしや、人間関係が丹念に描かれている。
怪物映画としては、極めて珍しい傾向である。
しかし一方で、詳細に組まれた設定とは裏腹に、描写があまりにも不充分である。おそらく、もっと細かくドラマとして発展したかもしれない物語だが、その一部を軽く掠めただけで映画は終ってしまう。
映画はドラマの流れをすべて掬い上げる前に、エイリアン/プレデターの襲撃によって、それまでの組立てを無に返してしまう。
退役軍人である女(名前はわからなかった)。後半、物語の主導的立場を持つようになる。どことなくリプリーに似ている感じ。人物の掘り下げが中途半端なまま進行し、そのまま放ったらかしにするのが『AVP2』の弱いところだ。映画の骨格も骨を覆う肉も貧相なイメージが付きまとう。女軍人の名前や人物像がつかめないまま、というのがその一例。
映画はじわりじわりと非日常を侵食させていく。
前半の展開は、非常にゆったりとしている。前半30分は犠牲者もなく、具体的なアクションシーンも描かれない。しかし物語自体に停滞感はなく、物語は着実に進行させて行く。
非日常はやがて、日常の境界線を踏み越えていく。ある沸点に達すると、映画は急速に、極端なくらいのショックシーンを連発させる。
その境目の線の動きを丹念に描いたのは『エイリアン』の第1作目以来だろう。日常の生活があり、だからこそ、エイリアン襲撃の異常さが際立ってくる。一方で、尺度の短さがドラマを不十分にして、映画を薄っぺらく見せてしまっている部分もある。
その部分を差し置けば、『AVP2』は『エイリアン』第1作目に近づけようとした作品ではないだろうか。
映画記事一覧
作品データ
監督:コリン&グレッグ・ストラウス
脚本:シェーン・サレルノ 音楽:ブライアン・タイラー
編集:ダン・ジマーマン
クリーチャー造形:アマルガメイテッド・ダイナミクス・インク
出演:スティーブン・パスカル レイコ・エイルワース
〇〇〇ジョン・オースティン ジョニー・ルイス
〇〇〇アリエル・ゲイド クリステン・ヘイガー
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■2009/09/17 (Thu)
創作小説■
この小説は、『さよなら絶望先生』を題材にした2次創作小説です。2次創作に関する法的問題については、こちらをご覧下さい。【著作物】【二次創作物】【パロディ】【パロディ裁判】
16
まといが先頭に立って走り始めた。
「こっちです! 早く脱出しましょう!」
私たちはまといに続いて、廊下を走った。
廊下は細く、複雑に折れ曲がり、何度も分岐していた。大広間を突っ切り、階段をいくつも駆け上った。どこを見ても照明は暗く、床にも壁にも飾りはなかった。同じ場所を走っているような錯覚に陥るような気がした。
でも次の階段を登ると、市松模様の床が現れた。折り返すと、長く続く廊下があった。そこは、ちょうど階段の裏の陰に隠れた場所になっていた。
私たちは尚も走った。走りながら、私は廊下に並ぶ窓に目を向けた。窓の外は月明かりで暗く、針葉樹林が眼下に見えた。ここは2階なのだ。
廊下が正面と左の二手に分かれた。まといは迷いなく左に曲がった。私たちもまといに続いて左に曲がった。
するとそこは、広い円形のホールになっていた。中央が少し落ち窪んで、円を重ねるような階段と繋がっていた。天井は高く、ドーム状になって月の光が広場の中央に落ちていた。その光の中に、セーラー服姿の可符香が立っていた。
私たちは、可符香に気付いて足を止めた。
「よかった。風浦さん、あなただけ見つからなかったんですよ。さあ、こちらへ」
糸色先生が安堵の息をついて、階段を降りて可符香の前に進もうとした。
可符香はふわりと微笑み、スキップするような軽やかさで糸色先生の元に向かった。
私はわかっているのに、すぐに言葉にできなかった。姿形はそっくりだけど、あれは可符香じゃない。瞳は強い赤で輝いていたし、髪型は可符香そっくりに整えられていたけど髪留めを右につけている。
あれは、あれは……。
「先生、違う! あの子は可符香ちゃんじゃない!」
私はやっと頭の配線が繋がって、叫ぶような声をあげた。
でも遅かった。可符香が糸色先生の胸に飛び込んだ。糸色先生の体がくの形に折れて崩れかけた。
「風浦さん……」
糸色先生の顔が驚愕に凍り付いていた。可符香に屈服するように、膝をついた。その腹に、銀色に輝くナイフの柄が見えた。
可符香が糸色先生から一歩離れた。可符香とは明らかに違う、冷たく、それでいて恍惚の混じった微笑を浮かべて糸色先生を見下ろしていた。
「ちょっと、風浦さん何をしているの。」
千里が可符香の前に進み出て、その肩をつかもうとした。
可符香が振り返った。いきなり踏み込み、千里の肩を突き飛ばした。千里が尻をついた。
可符香は素早く背中に手を回した。掌で、きらりと輝くものが踊った。バタフライナイフだ。
可符香がナイフを振り上げた。千里があっと驚きを浮かべた。
しかし、ナイフは落ちなかった。その手前に、分厚い本が遮っていた。私は改めて、何が起きたのか確かめた。
可符香の前に、藤吉が立ち塞がっていた。可符香のナイフは、コミックマーケット案内本に突き刺さって塞がれていた。
可符香が表情を歪ませて、ナイフを持つ手に力を込めていた。だけど藤吉も、全身で踏ん張って押し返そうとしていた。ナイフの刃が、分厚い本をえぐる。可符香はじりじりとその刃先を藤吉の顔に近づけようとしていた。
いきなり可符香が踏み込んだ。藤吉の腹に膝蹴り。藤吉は体をつんのめさせて手からコミックマーケット案内本を落とした。
さらに可符香が踏み込んだ。鋭い爪が襲い掛かる。藤吉の顔がのけぞり、眼鏡が吹っ飛んだ。
「危ない! 藤吉さん逃げて!」
私は千里を抱き起こしながら、警告の声をあげた。
「いいえ、いいのよ。晴美は本来、視力が良すぎるの。あれは、視力を抑えるための眼鏡よ」
「もしかして、漫画を読むために?」
冷静に解説する千里に、私は驚いて振り返った。
可符香が背中に手を回した。3本目のバタフライナイフが可符香の掌で踊った。
先に藤吉が踏み込んだ。可符香の手から、バタフライナイフが落ちた。
可符香が一歩下がった。藤吉は追いかけるように踏み込み、拳を繰り出した。可符香は藤吉の攻撃を流して、間合いに飛び込んだ。藤吉はとっさにガードする。可符香は、藤吉のガードを崩し、顔に肘鉄を食らわした。
藤吉の足元がふらつく。可符香は拳を振り上げた。だが藤吉は踏み込んで、足を払った。可符香がバランスを崩す。瞬間、藤吉が勢いよく地面を踏んだ。強烈な一撃に、可符香が腹を押えてぺたりと座り込んでしまった。掌抵の一撃だった。
藤吉が、ふっと緊張を解いた。可符香がはっと顔を上げた。掴みかかろうと、飛びついた。
これまでにない音が、空間一杯に響いた。藤吉が地面を蹴り、肩をぶつけたのだ。可符香の体が数メートル吹っ飛び、地面に叩きつけられた。今度はすぐには起き上がれないらしく、可符香は苦しそうに咳き込んで体をひくひくとさせていた。
藤吉が、悠然とした足取りで可符香の前に進んだ。
「顔、殴られたくなかったら、走って逃げなさい」
藤吉が凛とした強い言葉で、可符香を見下ろした。
可符香の顔に、強烈な屈辱が浮かんだ。しかし可符香は攻撃に移らなかった。ふらふらする足で立ち上がると、ホールから逃げ出し、側の部屋に飛び込んでいった。
次回 P059 第5章 ドラコニアの屋敷17 を読む
小説『さよなら絶望先生~赤い瞳の少女~』目次
P058 第5章 ドラコニアの屋敷
16
まといが先頭に立って走り始めた。
「こっちです! 早く脱出しましょう!」
私たちはまといに続いて、廊下を走った。
廊下は細く、複雑に折れ曲がり、何度も分岐していた。大広間を突っ切り、階段をいくつも駆け上った。どこを見ても照明は暗く、床にも壁にも飾りはなかった。同じ場所を走っているような錯覚に陥るような気がした。
でも次の階段を登ると、市松模様の床が現れた。折り返すと、長く続く廊下があった。そこは、ちょうど階段の裏の陰に隠れた場所になっていた。
私たちは尚も走った。走りながら、私は廊下に並ぶ窓に目を向けた。窓の外は月明かりで暗く、針葉樹林が眼下に見えた。ここは2階なのだ。
廊下が正面と左の二手に分かれた。まといは迷いなく左に曲がった。私たちもまといに続いて左に曲がった。
するとそこは、広い円形のホールになっていた。中央が少し落ち窪んで、円を重ねるような階段と繋がっていた。天井は高く、ドーム状になって月の光が広場の中央に落ちていた。その光の中に、セーラー服姿の可符香が立っていた。
私たちは、可符香に気付いて足を止めた。
「よかった。風浦さん、あなただけ見つからなかったんですよ。さあ、こちらへ」
糸色先生が安堵の息をついて、階段を降りて可符香の前に進もうとした。
可符香はふわりと微笑み、スキップするような軽やかさで糸色先生の元に向かった。
私はわかっているのに、すぐに言葉にできなかった。姿形はそっくりだけど、あれは可符香じゃない。瞳は強い赤で輝いていたし、髪型は可符香そっくりに整えられていたけど髪留めを右につけている。
あれは、あれは……。
「先生、違う! あの子は可符香ちゃんじゃない!」
私はやっと頭の配線が繋がって、叫ぶような声をあげた。
でも遅かった。可符香が糸色先生の胸に飛び込んだ。糸色先生の体がくの形に折れて崩れかけた。
「風浦さん……」
糸色先生の顔が驚愕に凍り付いていた。可符香に屈服するように、膝をついた。その腹に、銀色に輝くナイフの柄が見えた。
可符香が糸色先生から一歩離れた。可符香とは明らかに違う、冷たく、それでいて恍惚の混じった微笑を浮かべて糸色先生を見下ろしていた。
「ちょっと、風浦さん何をしているの。」
千里が可符香の前に進み出て、その肩をつかもうとした。
可符香が振り返った。いきなり踏み込み、千里の肩を突き飛ばした。千里が尻をついた。
可符香は素早く背中に手を回した。掌で、きらりと輝くものが踊った。バタフライナイフだ。
可符香がナイフを振り上げた。千里があっと驚きを浮かべた。
しかし、ナイフは落ちなかった。その手前に、分厚い本が遮っていた。私は改めて、何が起きたのか確かめた。
可符香の前に、藤吉が立ち塞がっていた。可符香のナイフは、コミックマーケット案内本に突き刺さって塞がれていた。
可符香が表情を歪ませて、ナイフを持つ手に力を込めていた。だけど藤吉も、全身で踏ん張って押し返そうとしていた。ナイフの刃が、分厚い本をえぐる。可符香はじりじりとその刃先を藤吉の顔に近づけようとしていた。
いきなり可符香が踏み込んだ。藤吉の腹に膝蹴り。藤吉は体をつんのめさせて手からコミックマーケット案内本を落とした。
さらに可符香が踏み込んだ。鋭い爪が襲い掛かる。藤吉の顔がのけぞり、眼鏡が吹っ飛んだ。
「危ない! 藤吉さん逃げて!」
私は千里を抱き起こしながら、警告の声をあげた。
「いいえ、いいのよ。晴美は本来、視力が良すぎるの。あれは、視力を抑えるための眼鏡よ」
「もしかして、漫画を読むために?」
冷静に解説する千里に、私は驚いて振り返った。
可符香が背中に手を回した。3本目のバタフライナイフが可符香の掌で踊った。
先に藤吉が踏み込んだ。可符香の手から、バタフライナイフが落ちた。
可符香が一歩下がった。藤吉は追いかけるように踏み込み、拳を繰り出した。可符香は藤吉の攻撃を流して、間合いに飛び込んだ。藤吉はとっさにガードする。可符香は、藤吉のガードを崩し、顔に肘鉄を食らわした。
藤吉の足元がふらつく。可符香は拳を振り上げた。だが藤吉は踏み込んで、足を払った。可符香がバランスを崩す。瞬間、藤吉が勢いよく地面を踏んだ。強烈な一撃に、可符香が腹を押えてぺたりと座り込んでしまった。掌抵の一撃だった。
藤吉が、ふっと緊張を解いた。可符香がはっと顔を上げた。掴みかかろうと、飛びついた。
これまでにない音が、空間一杯に響いた。藤吉が地面を蹴り、肩をぶつけたのだ。可符香の体が数メートル吹っ飛び、地面に叩きつけられた。今度はすぐには起き上がれないらしく、可符香は苦しそうに咳き込んで体をひくひくとさせていた。
藤吉が、悠然とした足取りで可符香の前に進んだ。
「顔、殴られたくなかったら、走って逃げなさい」
藤吉が凛とした強い言葉で、可符香を見下ろした。
可符香の顔に、強烈な屈辱が浮かんだ。しかし可符香は攻撃に移らなかった。ふらふらする足で立ち上がると、ホールから逃げ出し、側の部屋に飛び込んでいった。
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■2009/09/17 (Thu)
映画:外国映画■
突然、銀行が襲われた。襲撃者は安物のスーツにピエロのお面。銀行の正面からだけじゃない。襲撃者は銀行を複数箇所から襲撃し、警報機と電話線の繋がりを切り、金庫をこじ開ける。
計画的な犯行だ。しかし間もなく、襲撃者達は仲間同士で殺し合いをはじめる。
「ボスが用済みを殺せってさ。分け前が増える」
「そうか。偶然だな。俺も言われた」
殺し合いに殺し合いを重ね、ついにはたった一人になってしまった。
「仲間を殺して得意か?」
銀行員の一人が襲撃者の生き残りを罵った。
「お前もボスから同じ目に遭わされるぞ。昔の悪党は信じていた。名誉とか敬意ってものをな。今時の悪党はどうだ? 信念はあるか!」
ピエロお面の襲撃者は銀行員に近付き、その口に手榴弾を押し込んだ。
「俺の信念はこうだ。“死ぬような目に遭ったやつは――イカれる”」
襲撃者がピエロお面を脱いだ。その下に現れたのは、――まるでピエロのような粗末なメイクをした男だった。
映画を取り巻く状況は冒頭から急激に動き始めている。
ジョーカーが押し入って盗み出した金は、ゴッサムシティを牛耳るマフィアの金だった。かつて覆面捜査官が麻薬取引に使った紙幣で、マネー・ロンダリングされるはずの金だった。その金をジョーカーが盗み出した結果、警察も検察もマフィアの金の存在に気付いた。
ハービー・デント検事は着任したばかりの検察官だった。ハービー・デント検察官は純粋な正義漢で、着任時に悪党との戦いを宣言。言葉通りにマフィアの黒幕を裁判所に引きずり出し、正面からの戦いに挑んだ。
ハービー・デント検事は組織犯罪に戦いを挑むジム・ゴードン警部補と同調し、各銀行への捜査令状を発行。ゴッサムシティ・マフィアの根絶を狙った。
だがマフィアの動きも油断なく早かった。ジム・ゴードンがマフィアの金が預けられている銀行に踏み込んだ。だが、すでに金は持ち出された後だった。
事件の中核にいるのは、中国人のラウ。そこまでわかっていたが、しかしラウはすでに金を国外に持ち出し、自身は香港へと高飛びしていた。
警察の権限ではもう手出しできない――頼れるのはただ一人、バットマンだけだった。
その一方で、マフィアの内部にも葛藤があった。バットマンとハービー・デント二人の活躍で、マフィアの活動は限られつつある。いつしか中国人のボスに頼るようになっていた。
そこに現れたのは、本物のキチガイ――ジョーカーだった。
ジョーカーのおかげで、隠し持っていた自分たちの貯金が警察に暴かれてしまった。資金と活動場所を奪われ、組織の衰退を予感していた。
そんなマフィアの集会に、ジョーカーが堂々と姿を見せた。
「1年前に時計を戻そう。泣く子も黙るあんたらはには警察も検事も手を出せなかった。なのに、どうした? タマでも落としちまったか? まあいい。俺は知っている。なぜ“グループ・セラピー”を白昼に開いているか。なぜ夜を恐れるのかを。――バットマンだ。バットマンにあんたらの悪業が暴かれちまったからさ。デントは始まりに過ぎない」
「どうするつもりだ?」
「簡単だ。バットマンを殺す。だがタダじゃやらない。全資金の半分をよこせ」
奇抜なデザインのバットポット。批評家の一部は奇抜すぎてCGだと思った人がいて「CGであるから不自然だ」と批判。しかし危険なシーン以外ほとんど実写だ。この頃は「見たことがないものは全部CG」と判断する人が多く「CGだからダメだ」という通念が浸透している。デジタルは単に手法の一つでしかない。違和感は経験値のなさだ。
映画『ダークナイト』はコミック原作作品であるが、その実体は明らかに犯罪映画だ。『ダークナイト』に描かれた風景は、あまりにも現実的で、これまでのコミック原作作品の刷り込みを軽々と飛躍する。作り手はお手軽なコミック映画を制作しようなど思っていない。観客が本当に驚き、戦慄する物語であり、映像だ。
コミック作品原作としては極めて重厚に作られた世界観。ディティールの描き方にしても犯罪映画が意識されている。それが次第に崩壊していき、独特のコミック世界へと移行していく。
『ダークナイト』の物語は、複雑なパースティクティブが立体的に交差している。警察とマフィアの戦いを中心としながら、警察と警察、検察と検察、それらの対立の一方で警察とマフィアの繋がりという暗部も描いている。
そうした複雑さを、躊躇なく、観客が追いつけないかもしれない懸念を無視して、丹念に描き出している。
映像感覚はどこまでも現実的に、高詳細に描かれ、いかにもコミック原作然とした跳躍した部分は少ない。スーパーヒーローが登場し、デウスエキスマキナ的パワーで事件解決、とはいかない。警察とマフィアの戦い、感情と暴力のぶつかり合いを正面から描き、犯罪映画らしい緊張感のある画面と物語構成を作り出している。
『ダークナイト』でのバットマンは、あくまでも大きな状況の中のいち断片に過ぎない。状況を変える影響力も弱く、主人公としての存在感、主体性は弱い。
現実的な『ダークナイト』だが、拍子抜けなくらい落差が現われる瞬間がある。
それはバットマンの存在である。
バットマンが登場し、秘密アイテムを駆使してアクロバットな活劇を見せる瞬間、『ダークナイト』は犯罪映画としての緊張感を失い、コミック映画に引き戻される。バットマンが登場するたびに、『ダークナイト』は映画の性質を別なものに変質させてしまうのだ。
もちろん、バットマンの存在は魅力的だ。警察も検察も法的に手が出せなくなった瞬間、バットマンが超法規的活劇によって悪が封じられる。秘密アイテムも、今作においては非常に現実的な設計で描かれている。バットマン・スーツにしてもより機能的で、現実にありえそうなディティールで描かれている(疑似科学みたいなものだが)。
しかしバットマンはコミックヒーローなのである。犯罪映画の主人公ではない。
『ダークナイト』には二つの違う映画が同居している。コミックヒーロー映画と、犯罪映画だ。バットマンは犯罪映画としての『ダークナイト』に深く介入せず、飽くまでコミックヒーローという立場のまま、犯罪者の動きを周辺から監視している。
残念なことに、『ダークナイト』のジョーカーが俳優ヒース・レジャーの遺作となった。直接原因は睡眠薬と坑欝剤を一度に服用した結果だが、その背景にどんな事情があったのか不明なままだ。『ダークナイト』のジョーカー役が相当のストレスだったのでは、と伝えられている。
『ダークナイト』の中心人物は誰か――言うまでもなくジョーカーだ。
ジョーカーといえば、かつてジャック・ニコルソンが演じた強烈なキャラクターだ。ジャック・ニコルソンのもともとの凶悪そうな容貌もあって、あの怪演を上回るキャラクターはないだろうと考えられていた。
だが『ダークナイト』でジョーカーを演じたヒース・レジャーの存在感は、ジャック・ニコルソンを完全に忘れさせた。あまりにも圧倒的。夢に見そうなくらい強烈だった。
ジョーカーはコミック・ヒーローのキャラクターだが、犯罪映画としての『ダークナイト』とコミック映画としての『ダークナイト』の両方に調和したキャラクターだ。二つの『ダークナイト』の中心的存在であり、そのどちらの状況、社会に対して決定的な影響力を持っていた。
ジョーカーは犯罪者達を突き動かし、一般の社会に対してもこう囁く。
「お前は俺と一緒だ。さあ、引き金を引け。楽になるぞ」と。
ジョーカーには世界をそのものを変容させる力を持っている。それは、本来主人公にのみ許された特権であるはずだった。
だからこう表現すべきである。『ダークナイト』の主人公はジョーカーであると。
最終回シチュエーションの多い映画だ。次回作の可能性を徹底的に潰してしまっている。しかし実は続編が予定されている。バットマンとキャットウーマンのロマンスが中心になるらしいが……またしてもキャットウーマンは冷や飯くわされそうだ。
『ダークナイト』の魅力は犯罪映画としての堅牢なディティールだが、その威力を倍加しているのは確実にジョーカーだ。
ジョーカーは圧倒的存在感で世界に対する影響力を持っているが、しかし何ら主体性を持っていない。彼はただの野良犬に過ぎない。映画中で、本人の口からそう語られる。
ただ気まぐれに吠えて、気まぐれ状況を混乱させるだけ。ただのキチガイぴえろだ。
『ダークナイト』の物語は、途中からどこに流れていくのかわからなくなってしまう。いったいどんな結末に向かっているのかわからない。なのに、強烈な緊張感が常に全体を支配している。
それはジョーカーがなんの蓋然性も達成目標も持っていないからだ。だから映画は、ジョーカーに引き摺られるように、渾沌とした闇の中を這い進み始める。
ジョーカーは不敵に笑いながら、世界に向かって語り始める。
「マフィアはバットマンを殺せば、以前に戻れると思っていた。だが戻りやしない。お前が変えたからだ――永遠に。世間のモラルや倫理なんてものは、善人の戯言だ。足元が脅かされりゃ、ポイ。たちまちエゴむきだしになる。見せてやるよ。いざって時、いかに文明人とかいう連中が争いあうか――」
当初、ジョーカーはマフィアの連中に「バットマンを殺す」と宣言した。だが、はじめから殺す気などなかった。というかバットマンを殺すと、自分の存在意義が無になってしまう。バットマンがいなければ、自分はただの変態男に過ぎない、とジョーカーは冷静な部分で理解している。
ジョーカーの動機は、バットマンを殺そうと行動することで、社会がどのように変質し、人間の世界が混乱するか――人々が狂気に狂うさまを見て、愉しみたかっただけだ。それがジョーカーという人間であり、ジョーカーはジョーカーのやり方で、世界そのものを具体的方法で啓蒙したのだ。
自分のような人間が世界に注目されるように。そして世界が元通りにならないように。世界の視点、ベクトルを自分の都合のいい方向に転換させたのだ。
「たった一人のヒーロ-が世界を救う」から「ヒーローも世界のいち断片に過ぎない」へ。人間が世界に圧倒され、際立った個性すら埋没される。ヒーローですら、世界は救えなくなった……。ひょっとしたら、時代の影響があるのかもしれない。
犯罪映画としての世界が変質し、混乱が深まっていくと、不思議とコミックヒーローとの距離が接近していく。世界が超現実の領域に踏み込み、むしろコミック的な状況に突入していく。
次第に、犯罪映画という風景の中から、ジョーカーとバットマンの二人が際立ち始める。そうなると映画はクライマックスに向けて、ジョーカーVSバットマンという構造を完成させていく。ジョーカーがひたすら世界を引っ掻き回した結果、犯罪映画はバットマンの存在を必要とし始めたのだ。
『ダークナイト』は「何が起きるかわからない」という緊張感を久し振りに感じた映画だった。
強烈なキャラクターに、重厚なディティールを持った描写。状況のなにもかもが、大きな歯車のひとつに過ぎない。しかし、次第に状況は変質していき、バットマンとジョーカーという変質者を2大ヒーローとして浮かび上がらせていく。
『ダークナイト』はコミック原作映画としての、新しい境地を踏み込んだ作品だ。
映画記事一覧
作品データ
監督:クリストファー・ノーラン
音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード ハンス・ジマー
脚本:ジョナサン・ノーラン クリストファー・ノーラン
出演:クリスチャン・ベイル マイケル・ケイン
〇〇〇ヒース・レジャー ゲイリー・オールドマン
〇〇〇アーロン・エッカート マギー・ギレンホール
〇〇〇モーガン・フリーマン エリック・ロバーツ
計画的な犯行だ。しかし間もなく、襲撃者達は仲間同士で殺し合いをはじめる。
「ボスが用済みを殺せってさ。分け前が増える」
「そうか。偶然だな。俺も言われた」
殺し合いに殺し合いを重ね、ついにはたった一人になってしまった。
「仲間を殺して得意か?」
銀行員の一人が襲撃者の生き残りを罵った。
「お前もボスから同じ目に遭わされるぞ。昔の悪党は信じていた。名誉とか敬意ってものをな。今時の悪党はどうだ? 信念はあるか!」
ピエロお面の襲撃者は銀行員に近付き、その口に手榴弾を押し込んだ。
「俺の信念はこうだ。“死ぬような目に遭ったやつは――イカれる”」
襲撃者がピエロお面を脱いだ。その下に現れたのは、――まるでピエロのような粗末なメイクをした男だった。
映画を取り巻く状況は冒頭から急激に動き始めている。
ジョーカーが押し入って盗み出した金は、ゴッサムシティを牛耳るマフィアの金だった。かつて覆面捜査官が麻薬取引に使った紙幣で、マネー・ロンダリングされるはずの金だった。その金をジョーカーが盗み出した結果、警察も検察もマフィアの金の存在に気付いた。
ハービー・デント検事は着任したばかりの検察官だった。ハービー・デント検察官は純粋な正義漢で、着任時に悪党との戦いを宣言。言葉通りにマフィアの黒幕を裁判所に引きずり出し、正面からの戦いに挑んだ。
ハービー・デント検事は組織犯罪に戦いを挑むジム・ゴードン警部補と同調し、各銀行への捜査令状を発行。ゴッサムシティ・マフィアの根絶を狙った。
だがマフィアの動きも油断なく早かった。ジム・ゴードンがマフィアの金が預けられている銀行に踏み込んだ。だが、すでに金は持ち出された後だった。
事件の中核にいるのは、中国人のラウ。そこまでわかっていたが、しかしラウはすでに金を国外に持ち出し、自身は香港へと高飛びしていた。
警察の権限ではもう手出しできない――頼れるのはただ一人、バットマンだけだった。
その一方で、マフィアの内部にも葛藤があった。バットマンとハービー・デント二人の活躍で、マフィアの活動は限られつつある。いつしか中国人のボスに頼るようになっていた。
そこに現れたのは、本物のキチガイ――ジョーカーだった。
ジョーカーのおかげで、隠し持っていた自分たちの貯金が警察に暴かれてしまった。資金と活動場所を奪われ、組織の衰退を予感していた。
そんなマフィアの集会に、ジョーカーが堂々と姿を見せた。
「1年前に時計を戻そう。泣く子も黙るあんたらはには警察も検事も手を出せなかった。なのに、どうした? タマでも落としちまったか? まあいい。俺は知っている。なぜ“グループ・セラピー”を白昼に開いているか。なぜ夜を恐れるのかを。――バットマンだ。バットマンにあんたらの悪業が暴かれちまったからさ。デントは始まりに過ぎない」
「どうするつもりだ?」
「簡単だ。バットマンを殺す。だがタダじゃやらない。全資金の半分をよこせ」
奇抜なデザインのバットポット。批評家の一部は奇抜すぎてCGだと思った人がいて「CGであるから不自然だ」と批判。しかし危険なシーン以外ほとんど実写だ。この頃は「見たことがないものは全部CG」と判断する人が多く「CGだからダメだ」という通念が浸透している。デジタルは単に手法の一つでしかない。違和感は経験値のなさだ。
映画『ダークナイト』はコミック原作作品であるが、その実体は明らかに犯罪映画だ。『ダークナイト』に描かれた風景は、あまりにも現実的で、これまでのコミック原作作品の刷り込みを軽々と飛躍する。作り手はお手軽なコミック映画を制作しようなど思っていない。観客が本当に驚き、戦慄する物語であり、映像だ。
コミック作品原作としては極めて重厚に作られた世界観。ディティールの描き方にしても犯罪映画が意識されている。それが次第に崩壊していき、独特のコミック世界へと移行していく。
『ダークナイト』の物語は、複雑なパースティクティブが立体的に交差している。警察とマフィアの戦いを中心としながら、警察と警察、検察と検察、それらの対立の一方で警察とマフィアの繋がりという暗部も描いている。
そうした複雑さを、躊躇なく、観客が追いつけないかもしれない懸念を無視して、丹念に描き出している。
映像感覚はどこまでも現実的に、高詳細に描かれ、いかにもコミック原作然とした跳躍した部分は少ない。スーパーヒーローが登場し、デウスエキスマキナ的パワーで事件解決、とはいかない。警察とマフィアの戦い、感情と暴力のぶつかり合いを正面から描き、犯罪映画らしい緊張感のある画面と物語構成を作り出している。
『ダークナイト』でのバットマンは、あくまでも大きな状況の中のいち断片に過ぎない。状況を変える影響力も弱く、主人公としての存在感、主体性は弱い。
現実的な『ダークナイト』だが、拍子抜けなくらい落差が現われる瞬間がある。
それはバットマンの存在である。
バットマンが登場し、秘密アイテムを駆使してアクロバットな活劇を見せる瞬間、『ダークナイト』は犯罪映画としての緊張感を失い、コミック映画に引き戻される。バットマンが登場するたびに、『ダークナイト』は映画の性質を別なものに変質させてしまうのだ。
もちろん、バットマンの存在は魅力的だ。警察も検察も法的に手が出せなくなった瞬間、バットマンが超法規的活劇によって悪が封じられる。秘密アイテムも、今作においては非常に現実的な設計で描かれている。バットマン・スーツにしてもより機能的で、現実にありえそうなディティールで描かれている(疑似科学みたいなものだが)。
しかしバットマンはコミックヒーローなのである。犯罪映画の主人公ではない。
『ダークナイト』には二つの違う映画が同居している。コミックヒーロー映画と、犯罪映画だ。バットマンは犯罪映画としての『ダークナイト』に深く介入せず、飽くまでコミックヒーローという立場のまま、犯罪者の動きを周辺から監視している。
残念なことに、『ダークナイト』のジョーカーが俳優ヒース・レジャーの遺作となった。直接原因は睡眠薬と坑欝剤を一度に服用した結果だが、その背景にどんな事情があったのか不明なままだ。『ダークナイト』のジョーカー役が相当のストレスだったのでは、と伝えられている。
『ダークナイト』の中心人物は誰か――言うまでもなくジョーカーだ。
ジョーカーといえば、かつてジャック・ニコルソンが演じた強烈なキャラクターだ。ジャック・ニコルソンのもともとの凶悪そうな容貌もあって、あの怪演を上回るキャラクターはないだろうと考えられていた。
だが『ダークナイト』でジョーカーを演じたヒース・レジャーの存在感は、ジャック・ニコルソンを完全に忘れさせた。あまりにも圧倒的。夢に見そうなくらい強烈だった。
ジョーカーはコミック・ヒーローのキャラクターだが、犯罪映画としての『ダークナイト』とコミック映画としての『ダークナイト』の両方に調和したキャラクターだ。二つの『ダークナイト』の中心的存在であり、そのどちらの状況、社会に対して決定的な影響力を持っていた。
ジョーカーは犯罪者達を突き動かし、一般の社会に対してもこう囁く。
「お前は俺と一緒だ。さあ、引き金を引け。楽になるぞ」と。
ジョーカーには世界をそのものを変容させる力を持っている。それは、本来主人公にのみ許された特権であるはずだった。
だからこう表現すべきである。『ダークナイト』の主人公はジョーカーであると。
最終回シチュエーションの多い映画だ。次回作の可能性を徹底的に潰してしまっている。しかし実は続編が予定されている。バットマンとキャットウーマンのロマンスが中心になるらしいが……またしてもキャットウーマンは冷や飯くわされそうだ。
『ダークナイト』の魅力は犯罪映画としての堅牢なディティールだが、その威力を倍加しているのは確実にジョーカーだ。
ジョーカーは圧倒的存在感で世界に対する影響力を持っているが、しかし何ら主体性を持っていない。彼はただの野良犬に過ぎない。映画中で、本人の口からそう語られる。
ただ気まぐれに吠えて、気まぐれ状況を混乱させるだけ。ただのキチガイぴえろだ。
『ダークナイト』の物語は、途中からどこに流れていくのかわからなくなってしまう。いったいどんな結末に向かっているのかわからない。なのに、強烈な緊張感が常に全体を支配している。
それはジョーカーがなんの蓋然性も達成目標も持っていないからだ。だから映画は、ジョーカーに引き摺られるように、渾沌とした闇の中を這い進み始める。
ジョーカーは不敵に笑いながら、世界に向かって語り始める。
「マフィアはバットマンを殺せば、以前に戻れると思っていた。だが戻りやしない。お前が変えたからだ――永遠に。世間のモラルや倫理なんてものは、善人の戯言だ。足元が脅かされりゃ、ポイ。たちまちエゴむきだしになる。見せてやるよ。いざって時、いかに文明人とかいう連中が争いあうか――」
当初、ジョーカーはマフィアの連中に「バットマンを殺す」と宣言した。だが、はじめから殺す気などなかった。というかバットマンを殺すと、自分の存在意義が無になってしまう。バットマンがいなければ、自分はただの変態男に過ぎない、とジョーカーは冷静な部分で理解している。
ジョーカーの動機は、バットマンを殺そうと行動することで、社会がどのように変質し、人間の世界が混乱するか――人々が狂気に狂うさまを見て、愉しみたかっただけだ。それがジョーカーという人間であり、ジョーカーはジョーカーのやり方で、世界そのものを具体的方法で啓蒙したのだ。
自分のような人間が世界に注目されるように。そして世界が元通りにならないように。世界の視点、ベクトルを自分の都合のいい方向に転換させたのだ。
「たった一人のヒーロ-が世界を救う」から「ヒーローも世界のいち断片に過ぎない」へ。人間が世界に圧倒され、際立った個性すら埋没される。ヒーローですら、世界は救えなくなった……。ひょっとしたら、時代の影響があるのかもしれない。
犯罪映画としての世界が変質し、混乱が深まっていくと、不思議とコミックヒーローとの距離が接近していく。世界が超現実の領域に踏み込み、むしろコミック的な状況に突入していく。
次第に、犯罪映画という風景の中から、ジョーカーとバットマンの二人が際立ち始める。そうなると映画はクライマックスに向けて、ジョーカーVSバットマンという構造を完成させていく。ジョーカーがひたすら世界を引っ掻き回した結果、犯罪映画はバットマンの存在を必要とし始めたのだ。
『ダークナイト』は「何が起きるかわからない」という緊張感を久し振りに感じた映画だった。
強烈なキャラクターに、重厚なディティールを持った描写。状況のなにもかもが、大きな歯車のひとつに過ぎない。しかし、次第に状況は変質していき、バットマンとジョーカーという変質者を2大ヒーローとして浮かび上がらせていく。
『ダークナイト』はコミック原作映画としての、新しい境地を踏み込んだ作品だ。
映画記事一覧
作品データ
監督:クリストファー・ノーラン
音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード ハンス・ジマー
脚本:ジョナサン・ノーラン クリストファー・ノーラン
出演:クリスチャン・ベイル マイケル・ケイン
〇〇〇ヒース・レジャー ゲイリー・オールドマン
〇〇〇アーロン・エッカート マギー・ギレンホール
〇〇〇モーガン・フリーマン エリック・ロバーツ
■2009/09/17 (Thu)
映画:外国映画■
宝石商のゲートを、四人のラビが潜り抜けた。
「話は聞いているか。文字通り受け取っては駄目だ。アダムとイヴの物語は、道徳的寓話だ。実話のはずがないだろう。素敵な物語だが、所詮、作り話に過ぎない。カトリック教は誤解が多い。ギリシャ語訳の旧約聖書は“若い女”を“処女”と誤訳している。原書のヘブライ語の綴りが似ていたからだ。“処女に我らの息子が宿る”という預言も誤りだ。処女という言葉が誤解を招いた。処女が子供を宿すわけがない……」
四人のラビはくどくどと議論を交わしながらエレベーターに乗り、廊下を進み、そのあいだ喋り続けていた。ところがオフィスに入った途端、突然四人のラビはコートを脱ぎ捨てて正体を明かした。
銃で武装した強盗団だ。
ラビに扮装した強盗団は、宝石商のオフィスから86カラットの大粒ダイヤを強奪し、脱走する。
「ボリス。フォーフィンガー・フランキーがでかいダイヤを持っている。ダイヤは腕に繋いだケースの中だ。銃を買いに、お前のところに行かせた。何? 自分でダイヤを盗めって? アメリカ人が死ねば、俺が疑われる。ボリス、俺の兄弟だろ。頭を使え。ゴタゴタはごめんだぞ。殺したりしたら怪しまれる。奴がロンドンに滞在するのは、ほんの数日だ。手早く動け。ああ、そうだ。一つ情報を教えておく。奴は賭博中毒だ」
ターキッシュは闇ボクシングのプロモーターだった。
いつも一緒のトミーは、幼なじみの相棒だ。
「あんなボロトレーラーがオフィスじゃあな。新しいのを買って来い」
「俺が?」
「お前は目が利く。夏休みをトレーラーで過ごしたいだろ。安いのを見つけてくるんだ」
とターキッシュはトミーに一万ドルを手渡し、“パイキー(流浪民)”の元へと行かせた。
主演はジェイソン・スティサムだが、映画のポスターはDVDパッケージにはブラッド・ピットのものが採用された。これは当時、ジェイソン・スティサムがあまり有名ではなく、ブラッド・ピットのほうが注目されるだろうと考えられたためだ。
映画『スナッチ』は犯罪映画であり、群像劇映画である。
登場人物が次から次へと登場し、物語が錯綜する。
物語の中心に置かれているのは86カラットの大粒ダイヤだ。このダイヤを手に入れるために、それぞれの登場人物達が、それぞれの立場で東奔西走する。
『スナッチ』は犯罪映画だが、どこかしらユーモラスだ。
登場人物はみんな真剣だし、暴力も振るうが、一方でキャラクターとしての癖は強すぎで、奇怪な撮影方法がかつて見た経験のない映画に変質させている。
「犯罪映画」というより「変人奇人映画」。かなりどぎついバイオレンスのある暴力映画だが、ユーモアのあるキャラクターのおかげで現実的になりすぎず、あまりストレスにならない。作家の奇怪な感性を愉しみたい映画だ。
映画の特徴は前衛的な撮影方法と編集方法だ。
間延びした長回しが続いたかと思うと、突然異様な速度で場面が移り変わる。
まったく関連のない別の場所、別のエピソードへ物語が飛び移り、解説を始める。
だが全体を通して不思議な一貫性を持ち、見ている側が物語を見失うことはない。
映画全体に漂う、奇怪なキャラクターがかもし出す不思議なユーモアで、不愉快さも感じない。
ありえないような事件が次々と起こり、謀はことごとく裏切られて、事件は予想もつかない結末へと巡る巡る。
86カラットのダイヤはどこへ行き、誰に手に渡るのか?
映画も物語も、奇怪なくらい前衛的な感性で描かれた映画だ。
映画記事一覧
作品データ
監督・脚本:ガイ・リッチー 撮影:ジョン・マーフィ
出演:ジェイソン・ステイサム ベニチオ・デル・トロ
〇〇〇デニス・ファリナ ヴィニー・ジョーンズ
〇〇〇ブラッド・ピット レイド・セルベッジア
〇〇〇アラン・フォード マイク・リード
「話は聞いているか。文字通り受け取っては駄目だ。アダムとイヴの物語は、道徳的寓話だ。実話のはずがないだろう。素敵な物語だが、所詮、作り話に過ぎない。カトリック教は誤解が多い。ギリシャ語訳の旧約聖書は“若い女”を“処女”と誤訳している。原書のヘブライ語の綴りが似ていたからだ。“処女に我らの息子が宿る”という預言も誤りだ。処女という言葉が誤解を招いた。処女が子供を宿すわけがない……」
四人のラビはくどくどと議論を交わしながらエレベーターに乗り、廊下を進み、そのあいだ喋り続けていた。ところがオフィスに入った途端、突然四人のラビはコートを脱ぎ捨てて正体を明かした。
銃で武装した強盗団だ。
ラビに扮装した強盗団は、宝石商のオフィスから86カラットの大粒ダイヤを強奪し、脱走する。
「ボリス。フォーフィンガー・フランキーがでかいダイヤを持っている。ダイヤは腕に繋いだケースの中だ。銃を買いに、お前のところに行かせた。何? 自分でダイヤを盗めって? アメリカ人が死ねば、俺が疑われる。ボリス、俺の兄弟だろ。頭を使え。ゴタゴタはごめんだぞ。殺したりしたら怪しまれる。奴がロンドンに滞在するのは、ほんの数日だ。手早く動け。ああ、そうだ。一つ情報を教えておく。奴は賭博中毒だ」
ターキッシュは闇ボクシングのプロモーターだった。
いつも一緒のトミーは、幼なじみの相棒だ。
「あんなボロトレーラーがオフィスじゃあな。新しいのを買って来い」
「俺が?」
「お前は目が利く。夏休みをトレーラーで過ごしたいだろ。安いのを見つけてくるんだ」
とターキッシュはトミーに一万ドルを手渡し、“パイキー(流浪民)”の元へと行かせた。
主演はジェイソン・スティサムだが、映画のポスターはDVDパッケージにはブラッド・ピットのものが採用された。これは当時、ジェイソン・スティサムがあまり有名ではなく、ブラッド・ピットのほうが注目されるだろうと考えられたためだ。
映画『スナッチ』は犯罪映画であり、群像劇映画である。
登場人物が次から次へと登場し、物語が錯綜する。
物語の中心に置かれているのは86カラットの大粒ダイヤだ。このダイヤを手に入れるために、それぞれの登場人物達が、それぞれの立場で東奔西走する。
『スナッチ』は犯罪映画だが、どこかしらユーモラスだ。
登場人物はみんな真剣だし、暴力も振るうが、一方でキャラクターとしての癖は強すぎで、奇怪な撮影方法がかつて見た経験のない映画に変質させている。
「犯罪映画」というより「変人奇人映画」。かなりどぎついバイオレンスのある暴力映画だが、ユーモアのあるキャラクターのおかげで現実的になりすぎず、あまりストレスにならない。作家の奇怪な感性を愉しみたい映画だ。
映画の特徴は前衛的な撮影方法と編集方法だ。
間延びした長回しが続いたかと思うと、突然異様な速度で場面が移り変わる。
まったく関連のない別の場所、別のエピソードへ物語が飛び移り、解説を始める。
だが全体を通して不思議な一貫性を持ち、見ている側が物語を見失うことはない。
映画全体に漂う、奇怪なキャラクターがかもし出す不思議なユーモアで、不愉快さも感じない。
ありえないような事件が次々と起こり、謀はことごとく裏切られて、事件は予想もつかない結末へと巡る巡る。
86カラットのダイヤはどこへ行き、誰に手に渡るのか?
映画も物語も、奇怪なくらい前衛的な感性で描かれた映画だ。
映画記事一覧
作品データ
監督・脚本:ガイ・リッチー 撮影:ジョン・マーフィ
出演:ジェイソン・ステイサム ベニチオ・デル・トロ
〇〇〇デニス・ファリナ ヴィニー・ジョーンズ
〇〇〇ブラッド・ピット レイド・セルベッジア
〇〇〇アラン・フォード マイク・リード
■2009/09/17 (Thu)
映画:外国映画■
エヴァン少年は両親がいない。物心ついた時から、施設で暮らしている。
それでもエヴァンは、「いつか両親が迎えに来てくれる」と信じていた。
物語は軽いリズムのようにさらさらと流れていく。ありきたりな設定で憂鬱になる場面はない。安心して休日に見れる映画だ。
エヴァンには、不思議な才能があった。
身の回りの、あらゆる音がメロディに聞こえる。エヴァンは音楽教育を受けていないが、メロディを紡ぎだす本能的才能を持っていた。
ある夜、エヴァンはその“音”に導かれて、施設を脱走する。
音の作り方は独特。左の場面では、ギターの絃を叩いてメロディを作り出す。視覚的には面白いが、実際映画のような音が出るかは疑問。
そのままエヴァンは、ニューヨークの界隈へ。
そこで家出少年たちを集めて働かせている“ウィザード”と名乗る男と出会う。
ウィザードは、すぐにエヴァンの才能に気付き、「金になる」と売り込もうとする。
一方のエヴァンは「たくさんの人が僕の音楽を聞いてくれたら、両親が見つけてくれるかもしれない」と考え、音楽を学ぼうとする。
久々に見たような気がするロビン・ウィリアムズ。映画出演作は多いのだが、なぜか日本公開が減少した。ちなみに物語の構造は『オリバー・ツイスト』によく似ている。原案辺りでは意識されたのだろう。
音楽に満ち溢れた映画だ。
何気ない騒音や、音の断片が、メロディを紡ぎだす。
あるときは陽気なパーカッションであり、あるときは心掻き乱すノイズ。
音楽のリズムは自在に変化し、エヴァンの心理を雄弁に解説する。
物語は脱線も淀みもなく、ご都合主義映画の如くラストまで進んでしまう。
親を探すエヴァン。同時に、親たちもエヴァンを捜し始める。ルイスはかつての恋人、ライラを探そうと思いつくが、その方法がなんとインターネット。しかも写真付で住所が記載されている。ご都合主義もここまで来ると、呆れ果ててしまう。
しかし互いに接点はなく、当てもなくさ迷う。
ヒントになるのは音楽だけ。音楽だけがばらばらになった人達を繋げる。
誰もが音楽に心惹かれ、導かれていく。
音楽の一つ一つは、まとまりのない断片だ。リズムを合わせなければ、ただの雑音だ。誰かが、音の断片をまとめなければならない。
エヴァンは、あちこちに散っている音の断片を集め、ハーモニーを紡ぎだす。様々な人を結びつけるように。
不幸によって、11年間、音楽は停止していた。
エヴァンが楽器を手に取ることで音楽は再び息を吹き返した。
エヴァンが音を縒り合わせることで、離れ離れになった人々が結びつく。
まさに“奇跡のシンフォニー”だ。
映画記事一覧
作品データ
監督 カーステン・シェリダン 音楽 マーク・マンシーナ
脚本 ニック・キャッスル ジェームズ・V・ハート
出演 フレディ・ハイモア ケリー・ラッセル
〇〇〇ジョナサン・リス=マイヤーズ テレンス・ハワード
〇〇〇ロビン・ウィリアムズ ジャマイア・シモーヌ・ナッシュ
それでもエヴァンは、「いつか両親が迎えに来てくれる」と信じていた。
物語は軽いリズムのようにさらさらと流れていく。ありきたりな設定で憂鬱になる場面はない。安心して休日に見れる映画だ。
エヴァンには、不思議な才能があった。
身の回りの、あらゆる音がメロディに聞こえる。エヴァンは音楽教育を受けていないが、メロディを紡ぎだす本能的才能を持っていた。
ある夜、エヴァンはその“音”に導かれて、施設を脱走する。
音の作り方は独特。左の場面では、ギターの絃を叩いてメロディを作り出す。視覚的には面白いが、実際映画のような音が出るかは疑問。
そのままエヴァンは、ニューヨークの界隈へ。
そこで家出少年たちを集めて働かせている“ウィザード”と名乗る男と出会う。
ウィザードは、すぐにエヴァンの才能に気付き、「金になる」と売り込もうとする。
一方のエヴァンは「たくさんの人が僕の音楽を聞いてくれたら、両親が見つけてくれるかもしれない」と考え、音楽を学ぼうとする。
久々に見たような気がするロビン・ウィリアムズ。映画出演作は多いのだが、なぜか日本公開が減少した。ちなみに物語の構造は『オリバー・ツイスト』によく似ている。原案辺りでは意識されたのだろう。
音楽に満ち溢れた映画だ。
何気ない騒音や、音の断片が、メロディを紡ぎだす。
あるときは陽気なパーカッションであり、あるときは心掻き乱すノイズ。
音楽のリズムは自在に変化し、エヴァンの心理を雄弁に解説する。
物語は脱線も淀みもなく、ご都合主義映画の如くラストまで進んでしまう。
親を探すエヴァン。同時に、親たちもエヴァンを捜し始める。ルイスはかつての恋人、ライラを探そうと思いつくが、その方法がなんとインターネット。しかも写真付で住所が記載されている。ご都合主義もここまで来ると、呆れ果ててしまう。
しかし互いに接点はなく、当てもなくさ迷う。
ヒントになるのは音楽だけ。音楽だけがばらばらになった人達を繋げる。
誰もが音楽に心惹かれ、導かれていく。
音楽の一つ一つは、まとまりのない断片だ。リズムを合わせなければ、ただの雑音だ。誰かが、音の断片をまとめなければならない。
エヴァンは、あちこちに散っている音の断片を集め、ハーモニーを紡ぎだす。様々な人を結びつけるように。
不幸によって、11年間、音楽は停止していた。
エヴァンが楽器を手に取ることで音楽は再び息を吹き返した。
エヴァンが音を縒り合わせることで、離れ離れになった人々が結びつく。
まさに“奇跡のシンフォニー”だ。
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作品データ
監督 カーステン・シェリダン 音楽 マーク・マンシーナ
脚本 ニック・キャッスル ジェームズ・V・ハート
出演 フレディ・ハイモア ケリー・ラッセル
〇〇〇ジョナサン・リス=マイヤーズ テレンス・ハワード
〇〇〇ロビン・ウィリアムズ ジャマイア・シモーヌ・ナッシュ