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■2010/01/02 (Sat)
映画:外国映画■
「ハロー、“ストレンジャー(見知らぬ方)”」
見知らぬ者同士は、導かれるように出会う。
いつか“バスター(あんた)”と呼び合うようになる。
謎多きファムファタール。全ての切っ掛け。物語を引き起こす美女。ダンはアリスに惹かれ恋仲になるが、アリスについて何も知らない。ファムファタールは自身の秘密を決して明かさない。秘密それ自体だ。
それに、映画のほとんどは言葉のやり取りだけで終わる。
この映画にとって、舞台は重要ではない。
恋人同士を取り囲む風景は、物語を解説しない。ただの背景、書き割りに過ぎない。
アリスへの想いも枯れ始め、写真家のアンナに惹かれ始める。だがアリスへの愛は裏切れない。理性でどう律したところで、想いはふらふらとゆれて別の新しい愛を求めて彷徨い始める。
短い言葉が、何度も何度も交わされる。
物語の背景を説明するような、重要な台詞は少ない。
この物語が大事にしているのは、二人の間に流れる空気だ。
出会った瞬間のときめきと、別れる直前の悲しみ。
だからこの映画では、二人以上の人物が同時に会話を交わす場面はない。
重要なのは、二人の間に流れる空気だからだ。
写真家のアンナ。ラリーと恋仲だがダンにアプローチを受ける。
二人の男の狭間で、ゆらゆらと振り回される。
四人の男女の、愛を巡る物語だ。
たかが、愛の物語。しかし予定調和はなく、緊張感は決して途切れない。
愛を得るために、男と女はあらゆる戦術を練る。
ラリーの介入により、物語はより複雑に、男も女も迷い揺れ動く。すべてはラリーの計略のうち。
愛を得るためには、誠実であってはならない。
恋愛を経験した者ならば、誰でも知っている認識だ。
男と女を破局させるには、愛を分割させればいい。
今まさに破局を迎えようとしている男女。しかし愛が途切れたわけではない。
愛を分割できないだけだ。
愛情があるからこそ、自身を追い詰め、破局が訪れる。
親密に過ごしているつもりでも、愛する者の全てを理解できない。愛する人でも他人に過ぎないから。だからそこに疑惑が生まれる。
疑惑は、相手の秘密を暴き出そうとする。
しかし全てを暴いた時、破局が訪れる。
映画記事一覧
作品データ
監督:マイク・ニコルズ
音楽:モリッシー 脚本:パトリック・マーバー
出演:ジュード・ロウ ナタリー・ポートマン
〇 ジュリア・ロバーツ クライヴ・オーウェン
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■2010/01/01 (Fri)
映画:外国映画■
町の外れに人知れず建っている廃墟。窓が破られ、壁紙はボロボロに剥がれ、ゴミと埃ばかり降り積っているのに、不自然に椅子とテーブルだけが残されている。人々はまるであの建物に気付いていないように通り過ぎて
暗く荒んだ風景。近付いて覗き込んでみると、表通りの喧騒が一気に遠のき、沈黙が漂っている。でもよく耳を澄ませていると、そこには間違いなく何者かの気配がある。
『スパイダーウィックの謎』の物語は、ある一家が古い屋敷に引っ越してくる場面から始まる。
主人公である少年はジャレッド。双子の弟サイモンがいる。母親ヘレンに強い猜疑心と反抗心を抱いている。なぜ母は父と別れてしまったのか。どうしてこんな見知らぬ場所に引っ越してこなければならないのか。
少年は突きつけられている“今”を受け入れられなかった。
屋敷には秘密が隠されていた。
それは祖父が描き、隠した謎の書物『妖精観察図鑑』だった。この『妖精観察図鑑』が悪しきオーガーたちの手に渡ると、世界が終ってしまう。
ジャレッドとサイモン兄弟は、『妖精観察図館』を守るために戦いを決意する。
少年が空想世界を作り出すのは現実逃避のため。あるいは現実世
だから少年が空想世界に立ち入る切っ掛けは、いつも愛を失った時だ。ジャレッド少年は空想世界を飛びぬけて、愛する者を失った事実を受け入れていく。
あの影には魔物が潜んでいる。あの屋敷には幽霊が支配している。魔物や幽霊は少年の空想の中で、無限の冒険世界の舞台を提供する。古い屋敷は、そうした空想世界を生み出すのに格好の場所だ。
「怪物の弱点はトマトソースなんだ」
大人にはわからない。子供たちだけでルールを作り、子供たちの間で育まれていく世界。空想世界の原理は少しずつ現実世界へと接近し、結びつき、最後には1
そうなると大抵の場合、空想遊びはおしまいだ。空想世界はいつの間にか消えていて、思い出になっている。『スパイダーウィックの謎』は思い出となって消えかけた子供の感情を呼び起こしてくれる。あの時、子供だった私たちがどのように考えたか。暗がりに魔物の姿を見つけ、特別のルールを作り、最後には恐るべき呪いに対し英雄のごとく立ち向かった。
なにもかも、オママゴトのように作り出した仮定の世界に過ぎない。だが『スパイダーウィックの謎』に接した時、ふと思いはあの時の子供の頃に戻っている自分に気付かされる。
とにかく楽しい映画だ。
大人は子供時代の感性を呼び起こすだろうし、子供たちは自分たちの空想遊びを補強するだろう。
登場する怪物たちは決して恐ろしくない。怪物オーガーすら、まるまるしていてユーモラスだ。
子供たちは映画が終った後でも、現実世界に映画の続きを見るだろう。
「あの廃墟にはブラウニーが住んでいるんだ」と。
監督:マーク・ウォーターズ
原作:ホリー・ブラック トニー・ディテルリッジ
音楽:ジェームズ・ホーナー
脚本:キャリー・カークパトリック デヴィッド・バレンバウム ジョン・セイルズ
出演:フレディ・ハイモア サラ・ボルジャー
〇 メアリー=ルイーズ・パーカー ニック・ノルティ
〇 ジョーン・プロウライト デヴィッド・ストラザーン
■2009/11/10 (Tue)
評論■
アスラクラインの失敗
〇 ライトノベルが背負う課題
『アスラクライン』という作品は、その典型的な形式を躊躇いもなく踏襲している。キャラクターの造形は「テンプレート」「属性」と呼ばれるものから選択され、物語はありきたりな台詞をあきもせずに繰り返している。しかも『アスラクライン』の作中で提示される特殊用語の数々は、我々が普遍的に知っている通俗的な感覚から乖離している。用語だらけの言葉が並べられると、何について話をしてるのかまったくわからない。『アスラクライン』という作品だからこそ、というべき異端的な描写があるかといえばそれすらない。わかりにくい上に、特別なドラマがそこにない。敷居が無用に高すぎるのだ。
『アスラクライン』が舞台にしているのは学園である。学園生活は社
もしも彼らが卒業してしまったら、その後の学校はどうなってしまうのだろうか。学校生活の延長に世界の平和云々があるとしても、それを守れるのは学校に在籍している3年間の出来事に過ぎなくなる。卒業したらどうなるのか。留年して世界の平和を維持し続けるのか。
学生にとって学園はあくまでもかりそめの場所でしかない。学園の延長に世界云々の問題があるとするならば、学校教師が手を加えるべき事件である。学生は所詮は学校という社会と、教師という支配者に隷属する存在でしかなく、その想定を上回ることはできない(虞犯行為と退学者を除いて)。しかし『アスラクライン』には教師を含めた大人の存在が驚くほど希薄だ。授業風景にすら、教師は顔すら見せない。あたかも始めから存在していないかのように。
だが『とある科学の超電磁砲』の少女たちも3年生になれば卒業するのである。『とある科学の超電磁砲』に登場する「ジャッジメント」は警察的な組織で、構成メンバーは特殊な訓練を受ける。それでもやはり卒業してしまえばそれまでなのでだ。少女たちが都市の治安を守って戦えるのは、学生で
学園を主要舞台にしたライトノベルは、学園以外の社会が一切でてこないのだ。主人公が接しているのは自宅と学校だけであり、その周辺にあるべき社会がどこにも出てこない。大抵の作品は、子供の監視者であり、資金的な提供者である親が出てこない。親という社会すら描かれないのである。『とある科学の超電磁砲』は学校以外の場所が活躍の場として出てきているように見せかけられているが、あの都市はあくまでも学園の延長だ。社会を統治する大人は、あの風景だけではなく、少女たちの主要な生活の場にすら存在を感じさせない。
最近とくに奇妙に感じたのは『けんぷファー』だ。『けんぷファー』の第1話において、主人公は突然出現した敵と白昼堂々と闘争を繰り広げ、車道をふっ飛ばし電柱をへし折った。ここまでの大騒動を起こしておきながら、警察もマスコミも一切物語に関与してこない。電柱をへし折ったならば、ある程度の停電くらい起きるはずだ。関係した学生はすぐに特定され、警察に連れて行かれるだろう。新聞の一面トップを飾るくらいの事件だ。同じ第1話では図書館の本棚を真っ二つに引き裂かれる場面も描かれた。あれだけの騒動があれば、真っ先に体育館係のおっかない先生が飛びついてきそうだ。
だというのに、『けんぷファー』は大人や社会が一切介入してこない。教師すら見かけなかった。『けんぷファー』の世界で最も権力を持つ者というのは、同年代の子供なのである。まるで世界に子供たちしかいないというように。社会が物語に関わってこないのだ。『蠅の王』の世界のように、子供たちだけの小さなコミニティがそこに描かれている。それでいながら、主人公たちはやはり学校生活という場所に隷属し、その規範にきっちりと従い続けているのだ。
エロゲーであれば、親がいない、あるいは社会が影響してこないという設定にある程度の意味を持たせることができる。エロゲーの主人公たちは親と社会という監視者がいないからこそ、自由奔放に性の放埓が実行できるのだ。家庭内であっても、親という監視者がいる限りタイミングを見計らう必要がある。そうそう簡単に性的な展開には至らないだろう。社会というのが形だけであって実体として存在していないから、野外での性交もありえる。あれは野外であって野外ではない。そもそも社会が介入してこない前提なのだから、どこであっても野外ということにならないのだ。親あるいは大人という社会がないから、エロゲーの主人公たちは自由すぎる性交という反社会的な逸脱行為ができるのだ。
いつの間にそうなったか知らないが、この好都合設定がライトノベル世界に浸透し、当り前の前提となってしまった。ライトノベルには社会が描かれない。大人が描かれない。親のいない空洞化した家庭と教師のいない学校があり、その全てを子供たちだけで統治されている。その前提の上に複雑奇怪な設定と用語が羅列され、我々を困惑させている。学園が舞台であっても、誰もが知るモラトリアル空間としての共感を得ることができない。何もかもが奇怪さを際立たせるだけである。
小説よりもう少し軽めの読書として生み出されたライトノベル。子供の時期には、本格的な小説より確実に入り込みやすく、親しみやすいだろう。アニメや漫画、ゲームと多様に連動しているからイメージが明確だ。権威ある人は「創造力が育たない云々」などというが、想像力などというものは知覚しているものの中から構築されるシュミレーションに過ぎない。知らないものを想像せよというのは無理だ。物を知らない子供に概念だけで構成された小説を与えたって、理解して読み進められるわけがない。だからこそ、ライトノベルが必要なのだ。
しかしライトノベルはそういった子供のための読書入門ではなく、もはや特殊ないちジャンルである。ライトノベルでしか通用しない物語展開に、「お約束」と呼ばれる笑いに、一般人を遠ざけるのが目的なのかと勘ぐってしまう複雑奇怪な特殊用語、特殊設定。マニアックな人以外禁止の領域である。
小説に限らず、物語創作に必要なのは《斬新なアイデア》と《通俗的な常識》のバランスである。そのどちらにも偏ってはならない。片足は常に通俗的な、誰もが知っている認識の上に置いておくべきなのである。時には科学的学術的に誤っている事象でも、一般的な認識はどちらだ、と審査するべきものである。それを踏み外し、野放図に物語を展開させると、誰も付いてこれない奇怪な産物となってしまう。通俗的な感覚が欠落していると、いくらその物語が科学的学術的に正確だとしても、共感は得られないだろう。逆に科学的学術的な視点が欠けてしまうと、物語はなんとなく接地点をなくしてふわふわした印象になり、あまり現実ではない不安定な印象を与えてしまう。(ファンタジーであっても自由に描いていいものではない。ファンタジーに必要なのは民俗学、考古学、人類学の素養だ。風景の描写には自然主義者としての観察眼が必要だ。ライトノベルが描くファンタジーは、ずばりいってしまえば現代人がファンタジー風のコスプレをしているだけだ。ファンタジーを読書したという感慨はどこにもない)
もはやライトノベルは子供のためのものでもなければ大人の読書でもない。単にマニアックな特殊趣向を持った人のための読書だ。さらに進んでいけば、ライトノベルはそれ自体が他の社会から切り離されていくだろう。文学という分野からも孤立していく。孤立した文化というものは、常に世代が引き摺っていく。その世代がライトノベルから遠ざかっていくと、よほどの変わり者ではない限り読者になろうという者は現れないだろう。ライトノベルは単にライトノベルという孤立したジャンルになり、最後には忘れられていくだけである。
〔2009年11月10日〕
前回 『全体の構成』を読む
■2009/11/10 (Tue)
評論■
アスラクラインの失敗
〇 全体の構成
その解説の過程で、創作者は受け手の感情を自由に調整することができる。これは物語制作において、重要なテクニックの一つである。
物語中、独自に提示されたものに対し、好意を示すのか敵意を示すか。その判断を下すのは主人公である。読者は大抵の場合、主人公に「感情移入」することで物語世界へと入っていく。主人公は読者と物語世界を繋ぐ架け橋のような役割を持ち、読者は物語世界に没入している間、主人公の感情に左右され続けるのである。主人公が憎いと思えば憎い、心地よいと思えば心地よい。ある意味、主人公は読者にルールブックを提示し続けているのだといっていい(知識から純粋に知識のみを抽出して接するのは難しい。多くの場合、知識に何かしらの感情を添付してしまう。物語の創作者は、その知識に対し、どう感じるべきなのか操作することができる)。
しかし多くの感想ブログを一覧してみると、ほとんどの人が(全てかも?)アルフォンスの悲劇性に対して共感を持って接していたのだ。これは作者による読み手への感情操作がうまくいっている証拠である。読者の感情を引きこみ、登場人物たちと気持ちを完全に一致させられている。この段階まで行けば、『鋼の錬金術師』はいつでも自由なタイミングでドラマを描き、その度に読者の共感を得られるだろう。そういう意味で『鋼の錬金術師』は物語創作のお手本ともいえる。
だがしかし、『アスラクライン』に限らず多くのアニメ作品はこの順序立てを重要視していない。
物語は自由である。どんなふうに構築しても、物語は物語になる。単に登場人物の設定を羅列しただけの起伏のない物語でも、やっぱり物語だ。だが順序立てがしっかり描かれていない物語は、どんなに愛らしいキャラクターがそこにいても、どんなに素晴らしい作画がそこにあっても名作にはなりえない。なぜならクライマックスとドラマがそこに発生しないからだ。昔の名作アニメに見られるような『感動のラストシーン』なんてものも生まれないだろう。
構成、順序立てをしっかり計画していないと後で困った事態になる。
物語を盛り上げるのは、とにかく「引き」で終ればいいというものではない。だがほとんどのアニメは、キャラクターの設定をただ羅列し、「引き」でラストを次回持ち越しにして終わっている。
このままいけば、『聖剣の刀鍛冶』の行く先は『シャングリ・ラ』と同じ場所である。
いっそ、セシリーの介入していない事件や出来事は描かないほうがいい。そのほうが無駄なシーンの省略になり、そのぶん解説に使うべき時間を捻出できる。セシリーの体験した過程であれば、後でバタバタと説明しなくてもいいし、三流騎士セシリーが様々な経験を経て成長していく物語として際立ってくる。
だが今の段階では、セシリーが不在の事件や展開があまりにも多い。セシリーが不在だった場面で起きた事件は、後で「実はあの時……」と台詞で簡単に説明されてしまうか、最後まで知り得ないままになってしまう。主人公は何にも追い詰められず、戦いに対しても宿命的なドラマも発生せず、なんとなくクライマックス的な「気分」が描かれ、完結してしまうだろう。どんなに美しい作画、アクロバットなアニメーションを描いても、そこに受け手の感情を増幅させるものは一切なく、何となく拍子抜けのぼんやりしたエンディングを迎える。頑張ったアニメータたちにはご苦労様といったところだ。
とはいっても『聖剣の刀鍛冶』は物語の半分も描いていない(この批評文を書いている時点で)。今からでも充分持ち直し可能である。今後の展開に期待を賭けるべきだろう。
追補:世の中には、上に書いたような準備段階の必要のない作品もある。詩や俳句の世界。あるいは携帯小説だ。これらの作品が感情面で共有できるのは、解説すべき要素の全てが通俗的な社会体験によって経験可能か、あるいは大抵の人が経験済みであるからだ。だから、あえて物語中で解説が必要ないというか、解説が無駄というわけだ。だからこの種の作品は単に気分だけが描かれるか(気分だけ書いて許される)、あるいは通俗的な良心をなぐさめる結末が多い。『1分間で深イイ話』といったものがなぜ共感可能なのかというと、解説が必要なほど深い話をしていないからだ。単に良心的・道徳的に優良というだけの話だ。
この解説不要必要のバランスは馬鹿にしてはいけない。例えば1933年の『キング・コング』と2005年版『キング・コング』の違いだ。前者オリジナル『キング・コング』はまったく何も説明がないままに、主人公アンの窃盗シーンが描かれる。『キング・コング』が制作された当時は、大恐慌の真っ只中で、映画中で改めて主人公が貧困状態にある理由など描く必要はなかった。だが2005年版『キング・コング』においては、この理由を充分に描く必要があった。何せ70年前当時の社会情勢である。アンがどうして窃盗を働いたのか、どうして貧困状態になったのか、ほとんどの人は知らないはずである。だから2005年版は必然的に、2時間半という長尺になったのである。
前回 『通俗的な意識』を読む
次回 『ライトノベルが背負う課題』を読む
■2009/11/10 (Tue)
評論■
アスラクラインの失敗
〇 通俗的な意識
スティーブン・スピルバーグの言葉だったような気がするが、「新しい物語とは、周りより半歩だけ前に出ていればいい」という言葉がある(言葉も言った人間も正確ではない、曖昧な記憶なのだが)。つまり、平均的な社会概念から飛び出しすぎだと突飛だと感じるし、逆に平均的すぎると埋没する。だから、「半歩」だけ前に進め、というわけである。
だがその学園風景すら、我々の体験とあまりにも違う異世
『アスラクライン』の世界は我々の知っている体験してる現実風景とあまりに違いすぎて、接点を見出せないのだ。人によっては「リアリティを感じない」と言うだろう。とにかく作品世界に対してまったく共感できないのだ。
だから『アスラクライン』は、もっと通俗的に描くべきだった。作品世界があまりにも独自的で、しかも複雑であるから、そのぶん描写の中に現実を感じさせるものが必要だったのである。誰もが知っている風景描写に、登場人物の心理。特に心理描写は慎重に描くべきだ。作画力に自信が持てない場合、作品に引きこめる手段は人間の心理描写しかない。まずそういった描写をどこまでも細かく、丹念に描く。通俗的な描写の積み重ねの上にファンタジーを描く。そうすれば『アスラクライン』の世界は確実に我々の現実に接近し、共感可能な作品になったはずなのである。
前回 『イントロダクション/多すぎる専門用語』を読む
次回 『全体の構成』を読む