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■2010/01/02 (Sat)
27565147.jpgロンドンの都会で、男と女は出会った。
「ハロー、“ストレンジャー(見知らぬ方)”」
見知らぬ者同士は、導かれるように出会う。
いつか“バスター(あんた)”と呼び合うようになる。
049553eb.jpg美しき女、アリス。
謎多きファムファタール。全ての切っ掛け。物語を引き起こす美女。ダンはアリスに惹かれ恋仲になるが、アリスについて何も知らない。ファムファタールは自身の秘密を決して明かさない。秘密それ自体だ。

d302a6c2.jpg映画『クローサー』には、登場人物は4人しか出てこない。
それに、映画のほとんどは言葉のやり取りだけで終わる。
この映画にとって、舞台は重要ではない。
恋人同士を取り囲む風景は、物語を解説しない。ただの背景、書き割りに過ぎない。
3390aff3.jpgダンは誠実な男である。誠実であるが故に、分割できない愛に悩む。
アリスへの想いも枯れ始め、写真家のアンナに惹かれ始める。だがアリスへの愛は裏切れない。理性でどう律したところで、想いはふらふらとゆれて別の新しい愛を求めて彷徨い始める。



789b459a.jpg台詞のやり取りばかりだが、どれも言葉が少ない。
短い言葉が、何度も何度も交わされる。
物語の背景を説明するような、重要な台詞は少ない。
この物語が大事にしているのは、二人の間に流れる空気だ。
出会った瞬間のときめきと、別れる直前の悲しみ。
だからこの映画では、二人以上の人物が同時に会話を交わす場面はない。
重要なのは、二人の間に流れる空気だからだ。
e85f355b.jpg
写真家のアンナ。ラリーと恋仲だがダンにアプローチを受ける。
二人の男の狭間で、ゆらゆらと振り回される。




四人の男女の、愛を巡る物語だ。
たかが、愛の物語。しかし予定調和はなく、緊張感は決して途切れない。
愛を得るために、男と女はあらゆる戦術を練る。
11e739e2.jpgラリーは策略家だ。愛を得るために計略を練る。手段を選ばない貪欲な男。粘着気質で好色。
ラリーの介入により、物語はより複雑に、男も女も迷い揺れ動く。すべてはラリーの計略のうち。



9426e9e0.jpg愛を得るためには、誠実でなければならない。
愛を得るためには、誠実であってはならない。
恋愛を経験した者ならば、誰でも知っている認識だ。
男と女を破局させるには、愛を分割させればいい。
今まさに破局を迎えようとしている男女。しかし愛が途切れたわけではない。
愛を分割できないだけだ。
愛情があるからこそ、自身を追い詰め、破局が訪れる。

cd1e1240.jpg愛は複雑で、闇に包まれている。
親密に過ごしているつもりでも、愛する者の全てを理解できない。愛する人でも他人に過ぎないから。だからそこに疑惑が生まれる。
疑惑は、相手の秘密を暴き出そうとする。
しかし全てを暴いた時、破局が訪れる。

映画記事一覧

作品データ
監督:マイク・ニコルズ
音楽:モリッシー 脚本:パトリック・マーバー
出演:ジュード・ロウ ナタリー・ポートマン
   ジュリア・ロバーツ クライヴ・オーウェン



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■2010/01/01 (Fri)
8db07cdb.jpg子供の頃よく空想遊びをした。
町の外れに人知れず建っている廃墟。窓が破られ、壁紙はボロボロに剥がれ、ゴミと埃ばかり降り積っているのに、不自然に椅子とテーブルだけが残されている。人々はまるであの建物に気付いていないように通り過ぎてeb1b9a56.jpgいく。
暗く荒んだ風景。近付いて覗き込んでみると、表通りの喧騒が一気に遠のき、沈黙が漂っている。でもよく耳を澄ませていると、そこには間違いなく何者かの気配がある。

fd39ecab.jpg6b00ccbb.jpg367f819e.jpg
『スパイダーウィックの謎』の物語は、ある一家が古い屋敷に引っ越してくる場面から始まる。
主人公である少年はジャレッド。双子の弟サイモンがいる。母親ヘレンに強い猜疑心と反抗心を抱いている。なぜ母は父と別れてしまったのか。どうしてこんな見知らぬ場所に引っ越してこなければならないのか。
少年は突きつけられている“今”を受け入れられなかった。

8e6f5240.jpgac925e7d.jpg屋敷の生活に馴染みかけた頃、物置に何かが潜んでいるのに気付く。少年ジャレッドは冒険心と好奇心を輝かせて、その何かに目を凝らそう5cf26551.jpg3b0f7a60.jpgとする。
屋敷には秘密が隠されていた。
それは祖父が描き、隠した謎の書物『妖精観察図鑑』だった。この『妖精観察図鑑』が悪しきオーガーたちの手に渡ると、世界が終ってしまう。
ジャレッドとサイモン兄弟は、『妖精観察図館』を守るために戦いを決意する。
16171b3b.jpg64841a5b.jpg美しい自然の光景やおばあちゃんの昔語りなどは、空想の世界の原点であり、イメージの補強に最適である。
033af866.jpg空想の世界は、いつも無口で社会に溶け込めない少年の心の中にある。いや、そういったはぐれものの少年だけが、社会の狭間にある何かと結びつき、空想世界の創作者になれるのだ。
少年が空想世界を作り出すのは現実逃避のため。あるいは現実世d4c2dec9.jpg界を再構築し、社会性を取り戻すためだ。
だから少年が空想世界に立ち入る切っ掛けは、いつも愛を失った時だ。ジャレッド少年は空想世界を飛びぬけて、愛する者を失った事実を受け入れていく。
5b24b74c.jpg子供と大人は物事を同じように捉えているわけではない。子供には子供独自の思考とイメージで世界というものを捉えている。むしろ大人たちがなぜ考えもなしに社会を絶対のものとして共有できるのか不思議でならない。

7a4291d7.jpg『スパイダーウィックの謎』は「ごっこ遊び」の映画だ。
あの影には魔物が潜んでいる。あの屋敷には幽霊が支配している。魔物や幽霊は少年の空想の中で、無限の冒険世界の舞台を提供する。古い屋敷は、そうした空想世界を生み出すのに格好の場所だ。
96ee9d0c.jpg「あのサークルの中は安全地帯だ」
「怪物の弱点はトマトソースなんだ」
大人にはわからない。子供たちだけでルールを作り、子供たちの間で育まれていく世界。空想世界の原理は少しずつ現実世界へと接近し、結びつき、最後には16b0021dd.jpgつに世界として共有されていく。
そうなると大抵の場合、空想遊びはおしまいだ。空想世界はいつの間にか消えていて、思い出になっている。『スパイダーウィックの謎』は思い出となって消えかけた子供の感情を呼び起こしてくれる。あの時、子供だった私たちがどのように考えたか。暗がりに魔物の姿を見つけ、特別のルールを作り、最後には恐るべき呪いに対し英雄のごとく立ち向かった。
なにもかも、オママゴトのように作り出した仮定の世界に過ぎない。だが『スパイダーウィックの謎』に接した時、ふと思いはあの時の子供の頃に戻っている自分に気付かされる。
59ce4d82.jpg
とにかく楽しい映画だ。
大人は子供時代の感性を呼び起こすだろうし、子供たちは自分たちの空想遊びを補強するだろう。
登場する怪物たちは決して恐ろしくない。怪物オーガーすら、まるまるしていてユーモラスだ。
子供たちは映画が終った後でも、現実世界に映画の続きを見るだろう。
「あの廃墟にはブラウニーが住んでいるんだ」と。
監督:マーク・ウォーターズ
原作:ホリー・ブラック トニー・ディテルリッジ
音楽:ジェームズ・ホーナー
脚本:キャリー・カークパトリック デヴィッド・バレンバウム ジョン・セイルズ
出演:フレディ・ハイモア サラ・ボルジャー
   メアリー=ルイーズ・パーカー ニック・ノルティ
   ジョーン・プロウライト デヴィッド・ストラザーン



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■2009/11/10 (Tue)
アスラクラインの失敗

〇 ライトノベルが背負う課題

8cea25ec.jpgライトノベルは特殊な傾向を持ち始めている……。まずいって、物語の主要な舞台が学園かファンタジーかのどちらかしかない。ライトノベルのオリジナル性はキャラクターや物語自体にない。その周辺で描かれる特殊設定や用語、それに関連を持つキャラクターたちが作品の本質となっている。キャラクターや物語にはいわゆる「テンプレート」27b7da82.jpgと呼ばれるものがすでに用意され、そこで創造的な何か挑戦しようという作家は少ない。いや、そもそも読者が創造的な何かをそこに求めていない。物語やキャラクターは、作中で提示されるうんざりするような特殊用語の数々によって変質する。
『アスラクライン』という作品は、その典型的な形式を躊躇いもなく踏襲している。キャラクターの造形は「テンプレート」「属性」と呼ばれるものから選択され、物語はありきたりな台詞をあきもせずに繰り返している。しかも『アスラクライン』の作中で提示される特殊用語の数々は、我々が普遍的に知っている通俗的な感覚から乖離している。用語だらけの言葉が並べられると、何について話をしてるのかまったくわからない。『アスラクライン』という作品だからこそ、というべき異端的な描写があるかといえばそれすらない。わかりにくい上に、特別なドラマがそこにない。敷居が無用に高すぎるのだ。
09574c6d.jpgだが『アスラクライン』のような傾向は、ライトノベル全般に見られる傾向になっている。多すぎる特殊設定や、知っていることを前提に笑いを求める「お約束」と呼ばれる展開。もはや一般的な人間には従いていけない、入りがたい「領域」を作り始めている。
『アスラクライン』が舞台にしているのは学園である。学園生活は社b3af7198.jpg会に隷属する大抵の日本人が経験する場所である。そこがどういった場所なのか改めて解説する必要のない場所である。それは1933年版『キング・コング』において、アンの窃盗シーンの理由が描かれないのと同じ理由だ。誰もが当り前に知っている場所であり、知っている社会だからだ。
731192c1.jpgしかし『アスラクライン』が描く学園は、我々の知っている学校生活とはあまりにもかけ離れた場所である。学校内部に悪の組織的なものがあり、対立があり、主人公は学園の延長に世界を左右する何かを背負っているようである。
もしも彼らが卒業してしまったら、その後の学校はどうなってしまうのだろうか。学校生活の延長に世界の平和云々があるとしても、それを守れるのは学校に在籍している3年間の出来事に過ぎなくなる。卒業したらどうなるのか。留年して世界の平和を維持し続けるのか。
学生にとって学園はあくまでもかりそめの場所でしかない。学園の延長に世界云々の問題があるとするならば、学校教師が手を加えるべき事件である。学生は所詮は学校という社会と、教師という支配者に隷属する存在でしかなく、その想定を上回ることはできない(虞犯行為と退学者を除いて)。しかし『アスラクライン』には教師を含めた大人の存在が驚くほど希薄だ。授業風景にすら、教師は顔すら見せない。あたかも始めから存在していないかのように。
b5415257.jpgこれは『アスラクライン』に限定した話ではない。『とある科学の超電磁砲』も大人の存在が希薄な作品である。ただし『とある科学の超電磁砲』は都市それ自体が学園の延長という珍しい構造で作品が描かれている。だから生徒が都市の治安を管理しているという設定だ。なるほど、これなら教師の代理をしていても構わないだろう。『とある科学の超電磁砲』に登場する少女は、いずれも驚異f71862b8.jpg的な異能力者で、治安維持に必要な実行力を持っている。
だが『とある科学の超電磁砲』の少女たちも3年生になれば卒業するのである。『とある科学の超電磁砲』に登場する「ジャッジメント」は警察的な組織で、構成メンバーは特殊な訓練を受ける。それでもやはり卒業してしまえばそれまでなのでだ。少女たちが都市の治安を守って戦えるのは、学生でb64d0052.jpgある期間だけなのである。「学園都市」の治安は、より年若い未熟な少女たちが守り続けるわけである。いや、ひょっとすると彼女たちは、留年して都市の治安維持活動を続けていくつもりなのだろうか。学校の卒業生が犯罪者になる想定はないのだろうか。この場合、幼いあの少女たちは強大な力を持った卒業生犯罪者に対抗できるのだろうか。
学園を主要舞台にしたライトノベルは、学園以外の社会が一切でてこないのだ。主人公が接しているのは自宅と学校だけであり、その周辺にあるべき社会がどこにも出てこない。大抵の作品は、子供の監視者であり、資金的な提供者である親が出てこない。親という社会すら描かれないのである。『とある科学の超電磁砲』は学校以外の場所が活躍の場として出てきているように見せかけられているが、あの都市はあくまでも学園の延長だ。社会を統治する大人は、あの風景だけではなく、少女たちの主要な生活の場にすら存在を感じさせない。
最近とくに奇妙に感じたのは『けんぷファー』だ。『けんぷファー』の第1話において、主人公は突然出現した敵と白昼堂々と闘争を繰り広げ、車道をふっ飛ばし電柱をへし折った。ここまでの大騒動を起こしておきながら、警察もマスコミも一切物語に関与してこない。電柱をへし折ったならば、ある程度の停電くらい起きるはずだ。関係した学生はすぐに特定され、警察に連れて行かれるだろう。新聞の一面トップを飾るくらいの事件だ。同じ第1話では図書館の本棚を真っ二つに引き裂かれる場面も描かれた。あれだけの騒動があれば、真っ先に体育館係のおっかない先生が飛びついてきそうだ。
だというのに、『けんぷファー』は大人や社会が一切介入してこない。教師すら見かけなかった。『けんぷファー』の世界で最も権力を持つ者というのは、同年代の子供なのである。まるで世界に子供たちしかいないというように。社会が物語に関わってこないのだ。『蠅の王』の世界のように、子供たちだけの小さなコミニティがそこに描かれている。それでいながら、主人公たちはやはり学校生活という場所に隷属し、その規範にきっちりと従い続けているのだ。
エロゲーであれば、親がいない、あるいは社会が影響してこないという設定にある程度の意味を持たせることができる。エロゲーの主人公たちは親と社会という監視者がいないからこそ、自由奔放に性の放埓が実行できるのだ。家庭内であっても、親という監視者がいる限りタイミングを見計らう必要がある。そうそう簡単に性的な展開には至らないだろう。社会というのが形だけであって実体として存在していないから、野外での性交もありえる。あれは野外であって野外ではない。そもそも社会が介入してこない前提なのだから、どこであっても野外ということにならないのだ。親あるいは大人という社会がないから、エロゲーの主人公たちは自由すぎる性交という反社会的な逸脱行為ができるのだ。
いつの間にそうなったか知らないが、この好都合設定がライトノベル世界に浸透し、当り前の前提となってしまった。ライトノベルには社会が描かれない。大人が描かれない。親のいない空洞化した家庭と教師のいない学校があり、その全てを子供たちだけで統治されている。その前提の上に複雑奇怪な設定と用語が羅列され、我々を困惑させている。学園が舞台であっても、誰もが知るモラトリアル空間としての共感を得ることができない。何もかもが奇怪さを際立たせるだけである。
小説よりもう少し軽めの読書として生み出されたライトノベル。子供の時期には、本格的な小説より確実に入り込みやすく、親しみやすいだろう。アニメや漫画、ゲームと多様に連動しているからイメージが明確だ。権威ある人は「創造力が育たない云々」などというが、想像力などというものは知覚しているものの中から構築されるシュミレーションに過ぎない。知らないものを想像せよというのは無理だ。物を知らない子供に概念だけで構成された小説を与えたって、理解して読み進められるわけがない。だからこそ、ライトノベルが必要なのだ。
しかしライトノベルはそういった子供のための読書入門ではなく、もはや特殊ないちジャンルである。ライトノベルでしか通用しない物語展開に、「お約束」と呼ばれる笑いに、一般人を遠ざけるのが目的なのかと勘ぐってしまう複雑奇怪な特殊用語、特殊設定。マニアックな人以外禁止の領域である。
小説に限らず、物語創作に必要なのは《斬新なアイデア》と《通俗的な常識》のバランスである。そのどちらにも偏ってはならない。片足は常に通俗的な、誰もが知っている認識の上に置いておくべきなのである。時には科学的学術的に誤っている事象でも、一般的な認識はどちらだ、と審査するべきものである。それを踏み外し、野放図に物語を展開させると、誰も付いてこれない奇怪な産物となってしまう。通俗的な感覚が欠落していると、いくらその物語が科学的学術的に正確だとしても、共感は得られないだろう。逆に科学的学術的な視点が欠けてしまうと、物語はなんとなく接地点をなくしてふわふわした印象になり、あまり現実ではない不安定な印象を与えてしまう。(ファンタジーであっても自由に描いていいものではない。ファンタジーに必要なのは民俗学、考古学、人類学の素養だ。風景の描写には自然主義者としての観察眼が必要だ。ライトノベルが描くファンタジーは、ずばりいってしまえば現代人がファンタジー風のコスプレをしているだけだ。ファンタジーを読書したという感慨はどこにもない)
もはやライトノベルは子供のためのものでもなければ大人の読書でもない。単にマニアックな特殊趣向を持った人のための読書だ。さらに進んでいけば、ライトノベルはそれ自体が他の社会から切り離されていくだろう。文学という分野からも孤立していく。孤立した文化というものは、常に世代が引き摺っていく。その世代がライトノベルから遠ざかっていくと、よほどの変わり者ではない限り読者になろうという者は現れないだろう。ライトノベルは単にライトノベルという孤立したジャンルになり、最後には忘れられていくだけである。
〔2009年11月10日〕
 

前回 『全体の構成』を読む





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■2009/11/10 (Tue)
アスラクラインの失敗

〇 全体の構成

d13521e0.jpg物語が単純に「ドラマと解説」に分解されるのだとしたら、重要になるのはもちろんその順序立てだ。と、すでに書いた。物語の大半は解説の過程であり、ドラマはその結果である。最も感動的なドラマが物語の終盤に描かれるのは、単にカタルシス云々ではなく、必要な解説を全て終えているからである。物語の主人公がどんな人物でどん086dbaa3.jpgな背景を持っているのか。その過程解説がないままにドラマを描いても、受け手は白けるだけである。「共感」できないのである。「共感」がなければ、どんな素晴らしい演技を見せても、「何だあの仰々しい身振りは」くらいの印象でしかなくなるだろう。だから解説は充分に行われなければならないし、しかし一方で、語られすぎて受け手の頭を9baca71a.jpg一杯一杯にしてもならない。当然だが物語のラストを予想されてもいけない(ミステリの場合、語りすぎると途中で犯人がバレる)。解説のバランスも重要なのだ。
その解説の過程で、創作者は受け手の感情を自由に調整することができる。これは物語制作において、重要なテクニックの一つである。
物語中、独自に提示されたものに対し、好意を示すのか敵意を示すか。その判断を下すのは主人公である。読者は大抵の場合、主人公に「感情移入」することで物語世界へと入っていく。主人公は読者と物語世界を繋ぐ架け橋のような役割を持ち、読者は物語世界に没入している間、主人公の感情に左右され続けるのである。主人公が憎いと思えば憎い、心地よいと思えば心地よい。ある意味、主人公は読者にルールブックを提示し続けているのだといっていい(知識から純粋に知識のみを抽出して接するのは難しい。多くの場合、知識に何かしらの感情を添付してしまう。物語の創作者は、その知識に対し、どう感じるべきなのか操作することができる)
9e8ebcec.jpgだが注意点がある。主人公があまりにも世間一般の感性と認識から離れていてはいけない。例えば、一般的に嫌悪を持たれる殺人や盗み。これらを主人公がどんなに好意的に描いても、やはり読者は嫌悪を持ち、主人公と読者の気持ちは離れていくだろう(サド小説は例外。参考にしない)。当然、物語からも読者は遠ざかっていく。主人公が美しいと思うものも、ビジュアルで示す場合はやは6547be57.jpgり美しく描かれてなければならない。例えば主人公が思い寄せる美少女が通俗的な感覚に照らし合わせてちっとも美しくなかった場合。あるいはどうしようもなく性格がひねくれていた場合(最近はツンデレというものもあるが)。主人公がどんなに美麗字句を並べたって、読者の誰も納得しないだろう。だから主人公の感覚や感性は、かなりの部分で通俗的な感覚と一致させておく必要があるのだ。(もちろん例外がある。主人公がある種のカリスマ性を持った人物である場合だ。この場合、読者は「憧れ」として主人公に接するようになる。書き手は読者に「共感」して欲しいのか「憧れ」て欲しいのかまず考えるべきである)
28ebe64d.jpg面白い事例では『鋼の錬金術師』という作品がある。主人公の一人、アルフォンスは自身の体が無機質な鎧であることを悲劇的に語っているのだが、私はまったく共感できなかった。というのも、私は幼少の頃より病弱、虚弱体質で、病気知らずのアルフォンスの肉体は理想のように映るのだ。『銀河鉄道999』の主人公星野鉄郎だってアルフォンスを理想的と見るだろう。
しかし多くの感想ブログを一覧してみると、ほとんどの人が(全てかも?)アルフォンスの悲劇性に対して共感を持って接していたのだ。これは作者による読み手への感情操作がうまくいっている証拠である。読者の感情を引きこみ、登場人物たちと気持ちを完全に一致させられている。この段階まで行けば、『鋼の錬金術師』はいつでも自由なタイミングでドラマを描き、その度に読者の共感を得られるだろう。そういう意味で『鋼の錬金術師』は物語創作のお手本ともいえる。
だがしかし、『アスラクライン』に限らず多くのアニメ作品はこの順序立てを重要視していない。
物語は自由である。どんなふうに構築しても、物語は物語になる。単に登場人物の設定を羅列しただけの起伏のない物語でも、やっぱり物語だ。だが順序立てがしっかり描かれていない物語は、どんなに愛らしいキャラクターがそこにいても、どんなに素晴らしい作画がそこにあっても名作にはなりえない。なぜならクライマックスとドラマがそこに発生しないからだ。昔の名作アニメに見られるような『感動のラストシーン』なんてものも生まれないだろう。
ddc14a40.jpgもっとも、鳥山明や堀口悠紀子のようなキャラクターがあれば別問題だ。鳥山明や堀口悠紀子といった素晴らしいデザイナーがいれば、キャラクターだけで充分に魅力的な物語が作れてしまう。だがそれはあまりにも例外的な話なのでここでは参考にしない(宮崎駿の映画なども手本にしてはならない。あれは天才の造りしものであって、同じくらいの能力がなければ手本にできないと思ったほうがいい)
構成、順序立てをしっかり計画していないと後で困った事態になる。f72370be.jpg最近の失敗作はなんといっても『シャングリ・ラ』であろう。『シャングリ・ラ』は重要と思える物語上の解説をほとんどしなかった作品である。物語は中心軸が不明なまま、あちこちに視点を移し、それぞれで勝手に展開していく。物語上の事件は、主人公が中心となって「体験」すべきなのである。これまでに書いたように、物語に重要なのは6153d6ab.jpg解説の過程なのであり、その中心にいてルールブックを示すのは主人公であるべきなのだ。だが『シャングリ・ラ』の物語は、ほとんどが主人公の知り得ないところで重大事件が起きてしまった。物語の前半部分において、主人公北条國子は世界で起きている事件に対し、関わろうとしなかった。だから『シャングリ・ラ』の物語は、北条國子が7fdba8b7.jpg何も知らないまま進行するか、いつの間にか知識が共有されてしまっていた。順序立てがしっかしりていないから、後になって重大な事件が簡単な台詞で片付けられたしまったり、終盤になってばたばたと新事実らしき説明が羅列する。その重要な事件と説明の最中に主人公がいないという時点で、主人公の存在意義が不明なのである。北条國子は最後に対決した卑弥呼が何者であるか知らないはずで、その結果どうなったかもわからないはずである。何となくラストボスをやっつけてエンディング的な「気分」だけが描かれてしまった。これでは見ている側は何のことやらさっぱりわからない。共感もできない。最後の台詞である「それが私たちのシャングリ・ラだから」という台詞にもまったく重みがない。もっと早い段階で「シャングリ・ラ」という概念を作中に提示し、受け手がその言葉にどんな感情を抱くべきなのか操作しておくべきだった。いきなり言葉だけが出てくるから白々しい印象になってしまうのであるし、せっかくのエンディングに何ら感動するものがなくなってしまうのである。
物語を盛り上げるのは、とにかく「引き」で終ればいいというものではない。だがほとんどのアニメは、キャラクターの設定をただ羅列し、「引き」でラストを次回持ち越しにして終わっている。
a4e3c0ce.jpg最近の事例で危険信号なのは『聖剣の刀鍛冶』だ。『聖剣の刀鍛冶』は多くの事件が起きるし、読者が想像する以上に様々な出来事が背景にありそうだ。だが、その物語の中心に、主人公のセシリー・キャンベルがいない。『聖剣の刀鍛冶』の物語構築は、不器用にあちこちに伏線らしきものを散布し、読者に何か思わせるだけである。魔3670d180.jpg剣についてのリサの反応にしても、ルーク・エインズワースの右目と左目の設定が違うのも(執拗にクローズアップを繰り返しているが)、気付いているのは視聴者であって主人公のセシリーではない。セシリーは何も知らないまま、物語(時間)だけがいたずらに進行してしまっている。作り手は伏線のつもりだと思うが、伏線として有効的に63ff3bec.jpg機能しないだろう。主人公が知り得なかった伏線は、後の展開に何も引っ掛かってこないからだ。
このままいけば、『聖剣の刀鍛冶』の行く先は『シャングリ・ラ』と同じ場所である。
いっそ、セシリーの介入していない事件や出来事は描かないほうがいい。そのほうが無駄なシーンの省略になり、そのぶん解説に使うべき時間を捻出できる。セシリーの体験した過程であれば、後でバタバタと説明しなくてもいいし、三流騎士セシリーが様々な経験を経て成長していく物語として際立ってくる。
だが今の段階では、セシリーが不在の事件や展開があまりにも多い。セシリーが不在だった場面で起きた事件は、後で「実はあの時……」と台詞で簡単に説明されてしまうか、最後まで知り得ないままになってしまう。主人公は何にも追い詰められず、戦いに対しても宿命的なドラマも発生せず、なんとなくクライマックス的な「気分」が描かれ、完結してしまうだろう。どんなに美しい作画、アクロバットなアニメーションを描いても、そこに受け手の感情を増幅させるものは一切なく、何となく拍子抜けのぼんやりしたエンディングを迎える。頑張ったアニメータたちにはご苦労様といったところだ。
とはいっても『聖剣の刀鍛冶』は物語の半分も描いていない(この批評文を書いている時点で)。今からでも充分持ち直し可能である。今後の展開に期待を賭けるべきだろう。

追補:世の中には、上に書いたような準備段階の必要のない作品もある。詩や俳句の世界。あるいは携帯小説だ。これらの作品が感情面で共有できるのは、解説すべき要素の全てが通俗的な社会体験によって経験可能か、あるいは大抵の人が経験済みであるからだ。だから、あえて物語中で解説が必要ないというか、解説が無駄というわけだ。だからこの種の作品は単に気分だけが描かれるか(気分だけ書いて許される)、あるいは通俗的な良心をなぐさめる結末が多い。『1分間で深イイ話』といったものがなぜ共感可能なのかというと、解説が必要なほど深い話をしていないからだ。単に良心的・道徳的に優良というだけの話だ。
この解説不要必要のバランスは馬鹿にしてはいけない。例えば1933年の『キング・コング』と2005年版『キング・コング』の違いだ。前者オリジナル『キング・コング』はまったく何も説明がないままに、主人公アンの窃盗シーンが描かれる。『キング・コング』が制作された当時は、大恐慌の真っ只中で、映画中で改めて主人公が貧困状態にある理由など描く必要はなかった。だが2005年版『キング・コング』においては、この理由を充分に描く必要があった。何せ70年前当時の社会情勢である。アンがどうして窃盗を働いたのか、どうして貧困状態になったのか、ほとんどの人は知らないはずである。だから2005年版は必然的に、2時間半という長尺になったのである。


前回 『通俗的な意識』を読む

次回 『ライトノベルが背負う課題』を読む





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■2009/11/10 (Tue)
アスラクラインの失敗

〇 通俗的な意識

スティーブン・スピルバーグの言葉だったような気がするが、「新しい物語とは、周りより半歩だけ前に出ていればいい」という言葉がある(言葉も言った人間も正確ではない、曖昧な記憶なのだが)。つまり、平均的な社会概念から飛び出しすぎだと突飛だと感じるし、逆に平均的すぎると埋没する。だから、「半歩」だけ前に進め、というわけである。
dbcb1b55.jpg独自的な用語や設定が多くなりがちなSFとファンタジーこそ、この考えをしっかり心得るべきである。創作者の奔放な創造力はある程度封印し、常識的、通俗的概念にしっかり足を置くべきなのである。一般の感性や認識、思考力は思った以上に平均化されている。あまりにも意外で新しすぎるものは、突飛すぎて受け入れられない。素晴らしいアイデ88d5c9ff.jpgアや、革命的な何かを思いついても、それをそのまま物語作品の中にアウトプットしてはならない。片足はあくまでも通俗的な意識に置くべきである。誰もが理解できる常識的、通俗的な世界設計を前提に描き、その後方に意外性のあるアイデアを描く。あるいは常識的な知識や概念を補助道具にして、それを飛び越える新しい何かへの理解を促す。受け手の全てが玄人であるという前提で物語を描いてはならない。物語を描く場合の配慮とは、まず理解を促し、次に読者がどのように考えるか想定する。驚きのアイデアを提示するのは、その後で構わない。
1d6ece3f.jpg人によっては、この通俗的な描写の構築を「リアリティ」と呼ぶ。このリアリティがしっかり描けていれば、受け手は物語を現実世界の延長のように感じ、より登場人物の心理に接近する。もし、このリアリティの構築に欠陥があれば、受け手は何となく不自然なものを感じ、物語への没入を妨げられてしまう。どんな素晴らしい描写も見事な俳優の演技も、e2d360e0.jpg受け手側の体験と一切参照できない、あるいは現実世界と違ってしまうと、なんとなく白々しい嘘に感じられてしまう。物語とは空想物語なのだから、嘘であって当然なのだが、嘘の世界に引きこむにはある程度の真実味が必要なのである。人を騙す詐欺でも、あからさまに嘘だと人を引きこむことなんてできないだろう。
25a20fcd.jpg『アスラクライン』での問題は、この通俗的な部分があまりにも希薄であるという点だ。我々が平均的に体験している現実世界とあまりにも違い、しかも一致する部分が少ない。主人公は少年少女で、舞台は学園のようである。『アスラクライン』と我々の接点はこの学園という部分だけだ。
だがその学園風景すら、我々の体験とあまりにも違う異世77f4b5a2.jpg界として描かれている。『アスラクライン』における学校風景は、なにやら危険なものが孕んだ特殊世界だし、生徒は驚くべき身体能力を持っている。生徒たちを統括する教師の影が一切見えないが、なのに登場人物たちは、奇妙なくらい学園生活のルールに隷属している。親も教師もいないのに、虞犯行為を起こすものは少なく、驚くべき模範的な(しかも健全に)生活や学校でのルールを守っている。騒動や戦いで学校施設が損壊しても、叱責を受ける者はいないし、翌週には大抵もとに戻っている。
『アスラクライン』の世界は我々の知っている体験してる現実風景とあまりに違いすぎて、接点を見出せないのだ。人によっては「リアリティを感じない」と言うだろう。とにかく作品世界に対してまったく共感できないのだ。
だから『アスラクライン』は、もっと通俗的に描くべきだった。作品世界があまりにも独自的で、しかも複雑であるから、そのぶん描写の中に現実を感じさせるものが必要だったのである。誰もが知っている風景描写に、登場人物の心理。特に心理描写は慎重に描くべきだ。作画力に自信が持てない場合、作品に引きこめる手段は人間の心理描写しかない。まずそういった描写をどこまでも細かく、丹念に描く。通俗的な描写の積み重ねの上にファンタジーを描く。そうすれば『アスラクライン』の世界は確実に我々の現実に接近し、共感可能な作品になったはずなのである。

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