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■2010/07/02 (Fri)

写真ライブドア129A
(1280×1024)


写真ライブドア129B
(1920×1080)

動物をモチーフにした遊具には、独特の存在感がある。見かけると、ついつい乗りたくなるし(乗りませんが)、写真に撮りたくなる。
写真の公園はできたばかりなので、遊具も新しい。ツヤツヤ輝いて実に素晴らしい質感を放っている。

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■2010/07/01 (Thu)

写真ライブドア128A
(1280×1024)


写真ライブドア128B
(1920×1080)

ノーコメント

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■2010/06/30 (Wed)

写真ライブドア127D
(1280×1024)


写真ライブドア127E
(1920×1080)

ある日、街をぶらりと歩いていると――、
「おう、ちょっとおめぇ。そこのおめえだよ」
振り向くと、こんなオジサンが地上数十センチのところをふわりと浮かんでいた。
風船を膨らましたみたいな体で、今どきなかなか耳にしないべらんめぇ調子で、それからとにかく全身黄色だった。
どうやらおのぼりさんらしく、道に迷ったらしい。私はオジサンが行きたがっている場所への順路を簡単に教えた。
「すまねぇ。世話ンなったな」
私は何となく引っ掛かるものを残しながら、オジサンと別れた。
44289358.jpg
それから間もなくして、ひょっとしてあれは、あの『さのすけ』の親類の方ではないだろうか、と唐突に思った。風船のように膨らんだ体、癖のあるべらんめえ口調、そして目に焼きつくような黄色。どれを拾ってみても、あの『さのすけ』の特徴と一致する。
 
しかし、私にはそれを確かめる術はもうなかった。あのオジサンと、またどこかで会う機会はあるだろうか?
(※ 『さのすけ』とは右の人物のことです)

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さよなら絶望先生《総合》専用目次



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■2010/06/27 (Sun)
第1期から第2期へ

第2期『けいおん!!』が始まって3ヶ月が過ぎようとしている。当初抱いていた懸念はさらりと洗い流され、作品が持っている個性はそのままの形で継承され、あるいは深度を深めた。唯たちは相変わらずの様子であの音楽準備室に集り、相変わらずの一時を過ごしている。我々が感じていた時間的な隔たりはあの少女たちにはなく、『けいおん!!』第2期はあくまでも第1期の延長として制作されている。
第1期において、目まぐるしい速度であっという間に高校の2年間を駆け上ってきた唯たちであったが、3年生に上がりいよいよ変化の時を迎えようとしている。これまで通り、ただ部室に集まってお茶をしてたまに音楽をするだけ、という訳にはいかない。一見すると同じようにくつろぎの時間が描かれているが、少女たちの眼前には難しい選択が突きつけられている。高校を出てからの将来設計というのは、うっかりするとその後の人生そのものに影響を及ぼすものだ。どの学校を選択するべきなのか、自分の成績を基準にした場当たり的な選択で許されるものではない。作品は明らかに唯たちの将来を意識し、活動しないくつろぎの物語から成長の物語への変化を描こうとしている。
作品趣旨の変化に合わせて、映像表現、物語の綴り方にも若干の変化が見られる。物語がどんな結末を目指しているのかわからないが、現段階において、第1期と比較してどんな変化が見られたかを検証したいと思う。


■ 色彩
keionn-hikaku01.jpgkeionn-hikaku02.jpg←←第1期第1話。←第2期第8話。
色修整なしで並べると違いがわかる。


↓は2枚を重ねてみたもの
keionn-hikaku03.jpgちょっと見て明らかに違うのは色彩である。第1期『けいおん!』においては淡い印象が特徴であったが、第2期『けいおん!!』はビビッドな色彩でキャラクターの存在感がより強くなった。
実際に画像を並べてみるとその違いは明らかである。検証してみると、第2期『けいおん!!』の画像から彩度を30%引くと第1期『けいkeionn-hikaku04.jpgおん!』とほぼ同じ印象になった(右図参照)
もっとも、色彩設計は複雑なカラーバランスを見て調整しているはずだからから、『けいおん!』から『けいおん!!』へ単純に彩度を上げただけの映像というわけではないだろう。
(右の比較図を見るとわかりやすい。右下の絵は、第2期第8話の画像から30%彩度を下げている。唯の肌の色はほぼ一致したが、それ以外の色彩は微妙に違っている)


■ キャラクターの変化
keionn-hikaku05.jpg第1期オープニング、第2期オープニングの唯のクローズアップをほぼ同サイズにして重ね合わせたもの。下顎の輪郭線が意識的に描き分けられているのがわかる。





キャラクターの描かれ方にも若干の変化が見られる。第2期第1話『高3!』の冒頭において、まず唯の顔の印象が変わったように思えた。これは雰囲気の問題ではなく、はっきりとキャラクターデザインそのものが変えられたようだ。
まず輪郭線。第1期の唯は顎のラインが丸みを持って幼い印象で描かれているのに対し、第2期の唯は鋭角的に、すっと流れる線で切り取られている。目鼻口の位置は変わらないが、目の大きさはほんの少し小さく描かれるようになった。髪の生え際は若干下だ。髪のボリュームも若干押えられた印象もある。
大きな変化ではないが、どことなく大人びた雰囲気が漂い始め、これから描かれるであろうドラマ的な展開を意識したデザインになっている。あるいは、「大人になるための物語」が意識されているように思える。
ところで、当初の唯というのは現在よりおっとりのびやかな性格のキャラクターだった。周りよりいつもワンテンポ遅れて反応するくらいの頼りなげな女の子だった。ひたすらくつろぎの時間だけが描かれる『けいおん!』の象徴的なキャラクターであった。
だが第2期に至る過程で、唯の印象は劇的に変化した。しかし「成長した」とは言いがたいように思える。唯は明らかに活動的な性格に変わったが、物語の中心的な導き手としての立場をほとんど果たしていない。ほとんどの場合は律と息のあった漫才コンビ的な立場で(実際にコントやってたし)、物語をかき乱すトリックスター的な役割である。当初かわいいもの好きと思われてたのに、今やすっかり変な人である。物語の中心はあくまでも軽音部という空間にある、という見方であれば問題ないのかもしれないが、唯は主人公としての立場が弱いように思える。
今からでも遅くはない。いっそ、澪を主人公に押し出したらどうだろうか。
keionn-hikaku06.jpgkeionn-hikaku07.jpgkeionn-hikaku09.jpg←←第1期第1話。
←第1期11話。
↓第2期第1話。




その澪も、第1期からデザイン的な変化が見られるキャラクターだ。比較してみると、ルックス自体は変わっていないが髪の毛の描き方がはっきりと変わっている。第1期の映像を順に追ってみると、澪の髪の毛の描き方が次第に変わっているのがわかるだろう。髪の毛の線が次第に増え、単に装飾としての線ではなく、細かな髪の房の流れまで表現するようになった。
堀口悠紀子はパーソナルな感性でキャラクターの髪を描くことで知られている。アニメにおける髪の毛の描き方はすでに文法化され、ほとんどのデザイナーはすでに提示された表現技法からいくつか選択して新しいキャラクターを描くようにしている。この場合において、デザイナーに必要なのは統合力であり、《デザインの》力ではなく《デコレーション》の力が重要視される
しかし堀口悠紀子は観察と独自のディフォルメを組み合わせてキャラクターを創作している。堀口悠紀子の手によるキャラクターを見れば、昨今アニメにおいて増大傾向にある動画マン殺しの爆発ヘアーのキャラクターはいない(余談ながら、アニメにありがちな爆発ヘアは現場で思いっきり嫌われている。正面、横、背後、すべて形が違うからだ。さてどこの出っ張りを引っ込めて、新しい角を引っ張り出すか? 現場の嫌われ物だが需要は決して減らず、デザイナーは競うかのごとく珍妙ヘアーを創作してくる。アホ毛など可愛いものである)。堀口悠紀子のデザインは余計な一工夫などせず、現実を観察し、それを自分だけのやり方でアニメ表現に変換している。マフラーをしたらどのように髪の毛が巻き込まれるか。キャラクターが動いたらどのように髪の毛が釣られて浮かび上がるか。上の画像の2枚目で、澪が後ろ頭を撫でて、それに釣られるように髪の毛の束が一本一本動いている過程が描かれている。堀口悠紀子は正攻法的な観察でキャラクターを描くデザイナーであるとわかる。どちらかといえば地味で、当り前の考え方や表現方法でキャラクターを描いているといえる。(ちなみに第1期は後半に向けてどのキャラクターも線が細かく描かれた)
keionn-hikaku08.jpg『けいおん!』第1期最終話に向けて、澪はゆるやかに余計な肉を削ぎ落としていき、自身の美しさを強めていく。綺麗だな……としんみりと眺めていたいようなキャラクターに成長していく(美人はフィクションであり、現実には存在しない。あくまでも夢想の存在である)
しかし第2期『けいおん!!』になり、なぜか第1期初期の印象に戻る。第1期初期と第2期初期と見比べるとどちらがどちらなのかわからないほどだ。これから変化があるのか、どんな指針をもってデザインしているのかまだ見えてこない部分である。
keionn-hikaku10.jpgkeionn-hikaku11.jpg←←第1期第3話。←第2期第7話。第2期のキャラクターは腰が太く、どっしりした感じがある。


↓身体の描き方比較。左:第1期。右第2期。
4ae4512d.jpgd423c6be.jpgキャラクターの体型の描き方にも変化が見られる。第1期においてはどことなくマスコットキャラクター的でしっかり地面に立っていな97858eb4.jpg4531e024.jpgい印象があった。頭身が低く抑えられ、手足を短く縮めている。『らき☆すた』のような、可愛らしいけど人間というより小動物的な印象を持ったデザインに近い。
しかし第2期『けいおん!』になり、胴回りが太くなり、人物の体型をしっかり捕えるようになった。現実的なデッサンを反映させ、第1期よりも実在感を持った印象で描かれている。これも、物語におけるドラマ的な変化を予兆させる要素として描いているのだろう。(まあ、エピソードや場面によるんだけど)


■ 背景
keionn-hikaku12.jpgkeionn-hikaku13.jpg←←第1期第1話。←第2期第10話。
第1期は視界が窮屈な感じがある。




第1期『けいおん!』の主要人物はあくまでも軽音部の4人のみである。中心舞台は部室として占拠している音楽準備室のみであり、その周辺にはあえて目が向けられることはなかった。
わかりやすい一例は教室の描き方である。第1期『けいおん!』における教室は、極端なクローズアップやロングサイズで描かれることが多かった。クローズアップで中心となる人物を捉え、それ以外の描写を切り落とす。あるいは極端なロングで、クラスメイトの顔をぼやけさせて印象を弱く描く。のびのびとした音楽準備室の描写に対し、教室の風景がひどく閉鎖的でぼやけた印象に見えるのはそういう理由である。
05f19f5a.jpg作品を見れば明らかだが、第2期『けいおん!!』はクラス全員の容姿や性格が設定されている。それも相当に細かい設定が作られているらしい。といっても、物語の中心に取り上げられるわけではなく、たまに何か簡単な台詞を喋るだけである。それだけのためにここまで設定を作るのだから、贅沢な作品といわねばならない。しかもなかなかの美少女揃いである(これは重要)。私の想像だが、0946c4a3.jpg入学時に写真審査があったに違いないと考える(それほどでもない子もいるのだが?…いや失敬)
クラスメイト全員が詳細に設定されることによって、教室の描写に余裕が感じられるようになった。モブキャラクターが設定されていないことをごまかす理由がなくなり、カメラワークが自由に使いこなせるようになった。結果として教室は『けいお8e8f0eeb.jpgん!!』のもう一つの舞台となり、音楽準備室だけの物語という頼りなさからもう一段階作品領域を広げることとなった。
前第1期は軽音楽部とその周辺という描き方だから、どこかしら閉鎖的で物語領域も狭くなりがちだった。音楽準備室という限定された空間で、どこか現実感のない夢を漂うような作品……というコンセプトであるうちは問題なかったのだが、シリーズ作品として展開する場合はどうしても掘り下げるもののない「浅さ」が弱点として付きまとってしまう。例えば第1期『第10話 また合宿!』。これは『第4話 合宿!』の梓を加えただけの焼き直しである。
実は、これが第2期における最大の懸念であった。第1期をそのまま延長しても何もない。だから物語領域を広げるために設定や舞台を追加することは方針として正解であろう(欲をいえば、唯と憂の親たちも登場して欲しかった。高3の進路を前にしている時期で、親が出ないのは不自然だ。三者面談もしないつもりだろうか?)

ところで『けいおん!』はカメラ位置が低い。いや、唯の太股描写が多いという話ではない。『けいおん!』は座り姿勢が多いために、目高でもカメラ位置がやや低めになる傾向がある。このカメラの低さ、常に地面が見える高さであることが、『けいおん!』特有の落ち着いた印象を作り出しているのだと考えられる。
keionn-hikaku14.jpg特にカメラ位置が低いのは平沢家のリビングだ。ソファを置いているが、基本的に床に座りソファを背もたれにするという使い方である(このソファも座面が低めである)。ソファ横のスツールは座るための物ではなく、時々携帯などを置くスペースとして使われているだけである。テレビは床置きで、HDDレコーダーなどは置かれていない(これはkeionn-hikaku15.jpg重要。レコーダーやビデオデッキを置くと急に配線などでごちゃごちゃとしはじめ、スッキリした感じにならない。私もレコーダーやゲーム機を置くのが嫌い)。壁の飾り棚は腰の高さより低く、床に座って眺めるくらいの高さに設定されている。間接照明などは人の高さより下である(憂基準)
以上のような設定でキャラクターを床に座らせると、カメラ位置は自然と低くなる。地面に近い位置で座らせると、キャラクターはごろんと寝転がることが多くなり、この描写が日本人特有の感性なのか、くつろいだ気分にさせる。
また空間の描き方なども常に調整され、「決して窮屈にならない距離感」に注意が向けられている。例えば音楽準備室。実際の豊郷小学校の写真と比較してみればわかるが、アニメで描かれる音楽準備室はやや広めに見えるよう描かれている。カットごとに空間の広さが変更されているのだ。
keionn-hikaku16.jpg例えば右のカット。別のカットと比較すればわかるが、机とベンチはそんなに離れた場所に置かれているわけではない。(澪位置から)椅子から振り向き、ちょっと手を伸ばせばベンチに届く距離だ。だが右のカットは明らかに机からベンチまでの距離が延長され、床に唯が座り、その唯を見守るように梓が立っている様子が描かれている。背景は唯と梓の立ち位置の都合で同じように広げられ、水槽からオルガン、窓までのスペースが驚くほど長く描かれている(水槽横の窓からオルガン横の窓を比較するとわかりやすい)。実写でも小道具を動かして似たような描かれ方はするのだが、空間の広さそのものを変えてしまうのはアニメの特権である。
同じ考え方で、ディティールなどが低く抑えられている。平沢家のインテリアを見て明らかのように、あちこちに隙間ができるように設定されている。ごちゃごちゃしたものを一切見せない、隙間をあえてつくることで、空間的なゆとりを演出しているのである。平沢家の敷地面積はかなり狭いのではないかと思われるが、空間自体は狭く、それでいて狭さを感じさせないバランス感覚があの印象を作り出していると考えられる。レイアウト法的な考え方でいうと、押井守が提唱した「とことんディティールを増大させることで重量感やその場の実在感(リアリティ)を作り出す」という方法論を真逆をいくやり方である。
keionn-hikaku17.jpgまた、どの舞台においても非常に清潔感があるように描かれている。例えば学校の床。学校の床なんてものは、上靴で踏み散らかされ、大概汚いものである。映像演出的な正攻法を考える場合、学校の床はとことん汚く描くべきなのである。しかし、『けいおん!』における床は非常に清潔感がある。音楽準備室でしばしば唯たちが床に座る場面があるが、不潔な感じはまったくしない。座っていい場所として床が描かれている。
この清潔感は平沢家の風景にも同じように言える。インテリアの設定にしても、きっちり整理されて、スッキリした印象が常にある。
『けいおん!』におけるこういった描き方に似た作品がある。荻上直子監督作品の『かもめ食堂』や『めがね』である。『かもめ食堂』も作品全体に清潔感があり、食堂の風景も狭いながらも窮屈な感じが全くない。食事がうまそうに見える、という特徴も『けいおん!』と通ずるところがある。『けいおん!』におけるお菓子の描写も、食器を含めて実にこだわり深い描かれ方をしている(そのお菓子を食べている女の子の描き方も含めて)。『かもめ食堂』の主人公サチエの自宅風景のリビングと平沢家のリビングのインテリアの選び方や空間の作り方なども非常に似ている。どちらも女流監督であり、鑑賞後の印象も似ているので、比較しながら見てみると面白い発見があるかもしれない。


■ 物語後半に向けて
第1期から第2期へ、はっきりと変わったのが時間の描き方だ。第1期では手で掴む間もなく時間が指の間からすり抜けていくような印象があった。特に大きな事件は何もなく、軽音部の部室でゆったりとくつろいでいるうちに気付けば2年間が過ぎ去っていった、とそんな感じであった。見ている側はまるで竜宮城にでも迷い込んだような気分である。
第2期に入り、時間の流れは急に停滞した。これまで取りこぼしていたものを取り戻すように、日常の細かな変化や事件を取り上げようとしている。ぼんやりとした霧の向うだった教室の風景も、細かなディティールを持って描かれるようになった。第1期ではどんな顔をしたクラスメイトがいるのか不明だったが、第2期は徹底して描きこまれている。
まるで少女たちの表情の動きや動き出す瞬間の1コマ1コマを、決して取り逃さないようにしているようだ。
7fc2712c.jpg絵画にしても音楽にしても、上達のコツはただ一つ。ひたむきであることだけだ。熱血パフォーマンスはあくまでもパフォーマンスに過ぎない。しかし多くの日本人は熱血パフォーマンスの方を好む傾向にある。パフォーマンスはあくまでもパフォーマンスであって中身はない。パフォーマンス大喜利の行く果てが、極端な例で言うと連合赤軍の総括のようになることを知らないのだろうか。
第2期『けいおん!!』は第1期の静けさと比較すると、少々騒々しく思える瞬間がある。日常の描写や人物の表情が丁寧に描きこまれる一方で、前作に見られたようなくつろぎの“間”が作品から消えてしまった。いつも何かしらの事件で大騒ぎして、賑やかすぎる印象がある。
しかしコメディの描き方は、アニメ全体を俯瞰してみると、どちらかといえば控えめなほうだ。最近のアニメではもっと大胆にキャラクターを崩したり、画面の線密度を操作して、その極端さに笑いを求めようとしている。だが『けいおん!!』における笑いは、あくまでも『けいおん!』という約束事の中で描かれている。極端にキャラクターの設定や舞台の設定が笑いのために逸脱することはない。あくまでも『けいおん!』という物語の範疇の中で笑いが模索されている。
4efae43b.jpg『けいおん!!』は第2期でも日本経済を大きく動かしている。音楽CDはオリコンなどで1位2位を獲得している。いまだJ-popが文化や流行の中心、あるいは社会的な公共性が保障されていると思っている人はモグリもいいところだろう。もっとも、出演者の結婚だ不倫だと大騒ぎするだけで作品について語るだけの頭のない軽薄短小の大手マスコミは永久にこっちに来て欲しくないが。
ドラマの描き方についても、同様に言える。
ほとんどのアニメでは、大袈裟な表情や多すぎるモノローグでキャラクターの心情を一から十まですべて語ってしまおうとする癖がある。アニメにおける感情表現とはむしろそうするべきだ、と考えられている傾向が作り手とユーザーの両者の間に約束事して決められているようでもある。
だが『けいおん!!』第2期において、モノローグは決して多いほうではない。《文脈》を大切にして描かれている。登場人物の心境的な変化や、内面的な小さな成長を物語上の《文脈》で解説している。実写ドラマやアニメ(映画でも)でありがちな、それまでの物語過程の全部を無視して、突然の独白で物語の流れを変更させてしまうような場面はない。
どちらかといえば淡々としていて、さりげない言葉や表情の動きで物語の過程や成長を描こうとしているように思える。大袈裟な表情の作りもその場面を演出的に作り出すためのものであって、語りすぎる印象はない。そういった意味で、第2期『けいおん!!』は劇場映画的な作品であるといえる。
a115a11a.jpg多数派、少数派、という話しをすると今の社会にある“捩れ”を感じる。大手音楽会社が仕掛ける音楽が売れない原因は違法ダウンロードではないだろう。単にJ-popの聞き手が少数派になっているだけの話だ。が、大手音楽会社を信奉する軽薄短小と大手メディアはいまだに自分たちが少数派になっている現実に気付かず、自分たちが多数派であるという前提で何もかもを考えている。一方のアニメファンは自分たちを勢力の弱い少数派3d4115d2.jpgとして、自分たちの文化を卑下する自嘲的な意味を持った『オタク』という呼称を自分自身に使っている。「自分たちはオタクという人種だから、大多数である軽薄短小よりも社会的に劣る立場であり、文化そのものを表面上から隠蔽すべきである」と考えている。その理由とそうなるに至った発端はここで解説するのは本旨ではないが、いつになったらこの“捩れ”に気付くのだろう。
作品制作というのは、でたとこ勝負的なところがある。作品制作がスタートすると、一時停止が利かない。小説や漫画は作者都合として一時的な停戦を敷くことは可能である。だが映像作品はそういうわけにはいかない。アニメや映画の制作は明確な納期が常に示され、もたもたしているうちにお金が流れ去ってしまう。アニメや映画は大人数で取り掛かるものだから、頭脳(監督)が一瞬でもまごついてしまうと現場の動きが停止し、しかし大人数のスタッフを待機させているわけだからそのぶんお金を消費してしまう。だから映像作品の制作は動き出すとストップが利かないのだ。
だから映像制作の筆頭となる人物は、作品制作がスタートするまでにあらゆる準備をしておく。あらゆる方法論や経験則を駆使し、後の不安要素を徹底して排除しようとする。作品制作が始まった後に準備不足に気付いても、もう手遅れだ。一つの傷や穴が作品を駄目にする。製作の過程で何かが偶発的に生まれる、なんて期待はしてはいけない。偶然に頼って映画つくりをするなどは愚か者のすることだ。
だが、現実には完璧なシュミレーションなど存在しない。すべてを想定して制作を運営していくことなど不可能だ(それ以前に準備期間にも時間制限ある)。どこかで必ず想定不能の領域に踏み込み、フロンティアを目指さなければならない。作品制作とはどこかでそういった冒険的な要素を孕むのである。
私は以前から、日本人は一つの結末を想定し、それに至るまでの物語を作るのは苦手なのではないかと考えている。これについては別の機会で詳しく語りたいと思う。アニメの物語作りは個々のエピソードを作り出す能力はあるが、物語全体を俯瞰して統括的な物語を作ることを極端に苦手としている。いわゆる「当番回」や「お約束」といった言葉はそういった悪習への妥協を表しているのだと思う。つまり、個々のエピソードまではしっかり想定して準備できているが、終局的な目標地点を想定した作品制作が苦手なのだ。粒を生み出すのはうまいが、大きな流れを作り出すのが苦手、というべきだろう。
アニメをいくつか見ていると、1クール目はそこそこに順調に進んで行くのに、2クール目に入ると突然ガタガタと作品が崩壊してしまう作品は珍しくない。たった13話でもガタガタに崩れ、結末の印象が弱くぼんやりした作品になることも珍しくない。そもそも作品がどんな結末を目指して進んでいるか、作り手にきちんと想定できていないからそういう事態に陥るのだ。
keionn-hikaku18.jpg前回の批評で、紬の母親は西洋白人ではないか、という説を唱え失笑されたが今回は紬の運動音痴説だ。前第1期のOPでも描かれているが、紬は走るときに上半身を大きく捻る癖がある。この走り方ではぜったいに早く走れない。「走る」はあらゆる運動における基本の動作だ。腕力はあっても、スポーツには向かないだろう。もっとも、走るフォームがまともな軽音部員は一人もいないが(特にひどいのは唯)。
『けいおん!!』は1クール目は前作第1期の人気の延長としてまあまあの評価が得られた。だがそこから先、いきなり作品が崩壊する危険だって充分にありうる。キャラクターの作画は崩壊し、背景が使いまわしのバンクになり、脚本が間に合わず似たようなシーンの繰り返しになり……。そうやってぶっ壊れたアニメをこれまで何度も見てきた。『けいおん!!』がそうならないとは限らない。
第2期『けいおん!!』の後半の物語は、間違いなく唯のエピソード、あるいは唯の将来の展望が物語の中心になるだろう。物語の進捗状況からいって、間違いなく高校卒業まで描かれるはずだ。
1クール目の物語で、繰り返し「将来への漠然とした不安」を口にする唯が描かれてきた。『#8 進路!』ではまだ決定しきれない将来の選択を先延ばしにしてしまった。
だがその先の展開について、作り手はちゃんと想定しているだろうか? これまでのエピソードで振り撒いてきた小さな種子が、ちゃんと意味のある形で芽を出すのか(ほとんどのこうした伏線つくりは失敗するか放ったらかしで終わる)。今のところ、唯の将来に直接結びつきそうなエピソードは出てきていない。ただエピソードを消費しているだけで、物語はまだ動いていない。『けいおん!』という作品は、軽音部という部室を中心に、その周辺、という描き方をしてきた。周囲の世界というのは、ぼんやりとした曖昧さでざっくり切り落とされてきた(第1期では教室という場所すら“周辺”という判断でざっくり切り落とされてしまっていた)。これを、そのままの発想で延長すると、卒業後の世界――例えば唯の進学先や就職先についてが曖昧にぼかされてしまう可能性が強い。
もし唯の将来を放り出して単にエピソードのすべてを消費するだけだとしたら、それは後味として最悪の作品となるだろう。あるエピソードで、それまでの流れを無視して突然なにかが決まってしまう、という展開もよくない。作り手が唯をどう思っているか、が問題になる部分だ。
『けいおん!!』は第2期に入り、時間の流れに余裕が生まれ、ゆったりと日々のエピソードを描くようになった。だが後半も同じように作品を描くべきではないだろう。後半の展開こそもっと緊張感をもって作品つくりに臨むべきであり、鑑賞すべきなのである。希望としては、あの5人の将来も大切に描いて、桜ヶ丘高校から社会へ送り出して欲しいものである。





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■2010/06/21 (Mon)
6月16日。東京都の都議会定例会(一般会計補正予算案などを審議する会議)において、『非実在青少年規制』が否決となりました。否決となりましたが、石原慎太郎都知事は規制強化の意欲を失っておらず、9月あるいは12月の議会で再提出する考えを明らかにしています。否決になりましたが暫定的なものと考えるべきであって、油断ならない状況がまだまだ続くようです。

3月に非実在青少年規制が提示されてからおよそ3ヶ月。いつもありがちなヒステリックな批判や弾圧はなかったものの、新聞テレビを始めとする大手メディアによる宣伝戦略で一般大衆の意識にじわりじわりと刷り込んでいったように思えます。
私が購読してる読売新聞では――漫画やアニメの世界で信じられないような性暴力が頻繁に描かれている――それが原因となる犯罪が毎年増加傾向にある――などといった記事がしばしば掲載されるようになりました。もちろん、具体的な犯罪例は一件もありません。新聞屋ならいくらでも実例を挙げられそうな気がしますが、それがまったくなく、ただ危険性だけが煽り立てるようにクローズアップされていました(増加傾向にある、という具体的なデータもなく、犯罪が漫画やアニメが原因という根拠も示されません)。非実在青少年規制に反対する著作権団体についてちらと書かれていましたが、その描写はあたかも「良案に反対する怪しげな団体」風の描かれ方でした。あまり詳しくない人が読めば、規制賛成派の意見に賛成してしまうでしょう。

前回記事(→『非実在青少年規制』先送りについて)でも描きましたが、非実在青少年規制の根源的なものは“狂信と妄執”に過ぎません。私のこの意見は今でも変わっていません。規制賛成派の意見の全ては論理的なものではなく、感情的な嫌悪と不安に塗り固められたものです。単に目障りだからこの世界から削除するという、利己的な願望を基づくものです。
歴史的に見て、サブカルチャー批判は数年おきに繰り返してきましたが、今回の事件は過去の事例と様相が違います。東京都知事や警察なども加わり、権力を背景に直裁的な法改正を進めようとしました。ただ民間の団体が周期ごとに大騒ぎするお祭りとは性質が違います。これまでのヒステリックな批判は我慢さえしていればそのうち通り過ぎてしまいましたが、今回は作家が政治の舞台に立ち、反論しなければならないような事態でした。
単純な感情とは論理的な思考よりはるかに強い伝達力を持っています。強い感情にある程度の理屈、あるいは権威が加わればそれは強力な武器となって一般大衆を動かす力となります。その対象にどんな倫理的感情を抱くべきか……これは多くの人が思っている以上に簡単に操作できます。そして新聞やテレビといった大メディアは、いつも情報を大袈裟に煽り立てて、見る側の冷静な理解力を狂わせ、自分たちが意図した感情を広めようとします。
あちこちでかびますしい批判の嵐が吹き荒れると、作家側も何かしらの意思を社会に示すべきであるように思ってしまいます。それが社会人としての立場であるように錯覚しますし、厳しい批判そのものに理解を示し譲歩すべきと思う瞬間もあります。
しかし望まぬ相手への和解は必要ありません。むしろそういうときこそ大地にしっかり両足を着けて立ち、向ってくる荒波に耐える力が必要なのです。相手が戦っているのは妄想であり、妄想の実体は外部世界ではなく心の内です。批評家はカウンセラー代わりに作家とその作品を攻撃しているのです。だからただ意思を強く、あるいは辛抱強く無知と傲慢の嵐を退け、忍耐強く説明して誤解と疑念を解く必要があるのです。

日本のアニメはその黎明期から――手塚治虫が『鉄腕アトム』を制作した頃から商業的な欠陥を抱えていました。手塚治虫はアニメをあくまでも趣味的なものと捉え、商業的な意識を持ちませんでした。だからこそアニメは多様な表現方法を身に付け、発展していきましたが、その一方で商業的な欠陥はその当時から引き継いでしまいました。今でもアニメ会社に稼ぐという意識は弱く、アニメーターやアニメユーザーに商業的なものを嫌う傾向があります(CD1枚出しただけで「儲け主義だ!」と騒ぐ人が多いこと。業界がどんな状況か知っているのか?)
日本のアニメは確かに技術的側面は飛躍的に進歩し、世界でも類を見ない至上の文化と賞賛されるほどになりました。しかし、商業的な側面は衰退しつづけたといっていいでしょう。たまたま宮崎駿のような技術的にも体力的にも常人を遥かに超えた天才がいたから何とか保っていられたようなものです。あるいは趣味的な社長さんが次から次へと現れ、制作費を出してくれたから際どく維持できていたのです(大抵の社長さんはあまりにも割に合わないので一度の出資で手を引いちゃうんだが)
アニメはむしろ保護や援助が必要な時期に来ているのです。しかし東京都が選択したのは表現の規制でした。表現に制限を加え、日本のアニメから力と精神を奪い去ろうとしたのです。規制賛成派は、感性の部分でアニメを殺そうとしたというわけです。

最近では中国や韓国といった国がアニメや漫画に力を入れています。それまで推進してきた表現規制を改め、国が積極的な資金援助をしています。
中国や韓国のアニメが日本に敵うはずがない――そう言う人は非常に多いですが、それは『ウサギとカメ』の態度でしょう。「どうせ追い抜かれることはないさ」。そんな傲慢な態度でふんぞり返っていると、遠からず追い抜かれるでしょう。技術や表現、それから国際的な立場においても。「別に日本が世界で1番である必要はない」と考える人間が政治のトップに就いている、ということも忘れてはいけません(しかも支持されている)。それに、日本国内でも「日本のアニメはどれも一緒だ。中国や韓国産のアニメのほうが新鮮味がある」と考える人も出てきています(多数派の意見とは思いませんが)
中国や韓国だけではなく、アメリカやフランスといった国も日本の影響を受け、日本の作品を手本に新しい作品を作ろうという模索が始まっています。そんな最中、日本は規制を強化しようというのです。勘違いしている人がいますが、この規制は一部の成人向け作品だけが対象になるわけではありません。すべての作品が対象になります。しかも規定は曖昧で、担当した検閲官一人の考えに全てが委ねられる法律です(場合によっては「袖の下」が表現の限界を決める指標となるかもしれません)。作家はどこが法律のライン引きかわからない規制の前に困惑し、キャラクター作りの段階から萎縮してしまうような状況になります。
これはもはや、日本以外の国に「どうぞ、どうぞ」と席を譲るようなものです。石原慎太郎はもともとは小説家であり、表現者であったはずですから、このような規制が文化面にどんな影響を与えるかよく知っているはずです。その上でこのような法案に執着するのですから、いっそ文化的売国奴と呼んでもいいかもしれません。

批評家たちがよく使う常套句があります。
「日本は“諸外国”と比べて遅れている」
あるいは、
「“欧米”ではこのように……」
その帰結として、
「だから“国際的な恥”である」
と。
この“諸外国”あるいは“欧米”という言葉は曲者です。具体的にどの国を示しているのか曖昧にしますし、日本人の西洋コンプレクスを見事なくらい克明に現します。
しかし、はっきり言えば“諸外国”も“欧米”もどうてもいい基準でしょう。何でもかんでもあちらの基準に合わせる必要はありません。そもそも背負ってきた歴史も文化も違う国なのですから、違って当然です。(特に良案というのでもないのに)あちらがああなっているから、という理由で無理に合わせる必要はありません。
それに、ヨーロッパの知的階層には普遍的に皮肉屋が非常に多いものなのです。彼らは挨拶代わりに相手の欠点や弱点や相違点を見出し、素晴らしいとしかいいようのない言い回しで罵倒するのです。皮肉を言うのが礼儀とすら考える文化があるのです。日本のように行儀のいい好人物はヨーロッパの知的階層にはいないと思ったほうがいいでしょう。
批評家は外国から皮肉を言われるのが嫌で、彼らと同じにしたいと言っているのでしょう。しかしもし白人国家と法律を同様にしたところで、彼らの皮肉の応酬がぴたりと止むはずがありません。また別の弱点や欠点を掘り返され罵倒されるだけです。
もし皮肉や揚げ足取りを真に受けて法律を変えても、「本当にやったのかよ」と呆れられるだけです。西洋人と同じ法律に変えれば尊敬が得られるという考え(あるいは同等と見做されるようになるという期待)は根本的に間違っているでしょう。
だから、彼らヨーロッパの人間に法整備の件について皮肉られたら、堂々とこう言って返せばいいのです。
「はい。あなた方より平和な国からやってきました。ただ、最近はあなた方の国の人がやってきて、犯罪を起こすので治安が悪くなりましたけどね」

白人からしてみれば、アジアの国など搾取する対象くらいしか価値はありません。どんなに白人文化を装って、彼らと同じように振る舞っても、民族的に継承した人種に対する差別意識は決してなくなりません。白人はその他の全ての文化を異端と捉え、自分たちと同様にすることを“近代化”と考えています。自分たちと同じ習慣、意識、宗教を獲得すれば文明的になる。特に宗教観は重要視され、自分たちと同じ神を信仰しない国の人間は野蛮とすら考えています。
しかしどんなに白人と同じ習慣や意識を獲得したところで、白人による有色人種への差別、あるいは優越感は決してなくならいでしょう。彼らは外国を、バカンスで自分たちが行きやすい場所にしたいだけです。
そんな皮肉屋の白人たちを黙らせるには、地位ではなく尊敬が必要なのです。日本では“肩書き”さえあれば中身からっぽでもみんな尊敬してくれます。でもヨーロッパでは肩書きでは誰もチヤホヤしてくれません。彼らから無条件の尊敬が欲しいのであれば、まず誰にでも明らかな功績を持ってから行くべきでしょう。

また今回のような問題が取り上げられた背景には、ある社会意識が関連していると考えるべきでしょう。「宮崎勤」というイメージです。
漫画規制、悪書撤廃運動といったムーブメントは、もはや一つの戦後史というべきものでありますが、サブカルチャー、いえ「オタク文化」がここまで反社会的なイメージをもたれるようになった切っ掛けは、間違いなく宮崎勤のイメージが根底にあると考えられます。
オタクは無条件で危険な人物である。根が暗く陰湿で、反社会的な傾向を持ちがちだ。あるいは、そのオタクが接している文化は、間違いなく犯罪に係わり、犯罪を助長する恐れがある。テレビドラマでは暗い部屋でパソコンをいじり、犯罪の計画を立てているオタクの姿はもはや定番です。一般人は直裁的に「オタク=きもい」と思考回路を結び付けています。
それは何故なのか。理由を探ると宮崎勤の事件が根底に現れてきます。今の社会は宮崎勤以後の社会であり、いまだあの事件のイメージを延長し続けているのです。つまり、オタクのイメージとは「オタク=宮崎勤=犯罪者」と繋がるわけです。そのイメージを前提において、オタク文化があるから子供に関わる犯罪がなくならないというわけです。個人的な話ですが、私は宮崎勤直撃世代なので、宮崎勤事件以前、以後で周囲の友人たちの対応があからさまに変わる瞬間を体験しました。宮崎勤事件が日本の社会、文化、意識において大きなターニングポイントであったのは間違いありません。
「宮崎勤=オタク」というイメージそのものが当時のマスコミの捏造だった、という話は重要ですが本題ではないので横に置いておきます。2ちゃんねるをやっている人はよくマスコミの偏向について非難するのに、オタクのイメージだけはマスコミのイメージを素直に受け入れてしまっている、ということに疑問を感じますが。
だから非実在青少年規制に関するこの一件も、問題としてもっとも強く指摘するべきは、宮崎勤というイメージについてでしょう。あるいは、一般の人が無条件に受け入れ、疑う機会すらない社会的刷り込みについてです。受動的な通念だけを抱えて、独力の思考力がないというべきでしょうか。大場ナナコは「オタクは認知障害であるという考えを普遍的に広めるべきだ」と断言しました。この発言の根底にあるものも宮崎勤のイメージでしょう。宮崎勤というイメージを前提において、「認知障害者」であると語ったのです。もしイメージではなく実体、あるいは現実を確かめるだけの(少々の)知性が大場ナナコに備わっていたら、こんな発言や発想はどう頑張っても出てこないでしょう。
宮崎勤事件以後、日本人は文化に対する考え方を決定的に変化させてしまいました。文化に対する意識は確実に後退し、最新の文化を生活の一部として嗜む好事家といった人種を絶滅させました。一般社会のコミュニティから文化的な意識が切り離され、ちょっとした趣向すら病的なものとして「隠すべき」という考えが定着されました。「文系」という言葉が死語になり、残ったのは軽薄短小と呼ばれるただの消費者だけです(メディアは軽薄短小を甘やかしすぎたのではないでしょうか。軽い恋愛、軽い音楽、軽い映画、軽いアニメ、軽いゲーム……娯楽は楽しむためのものですが、時に相手を挑発し動揺させる力も必要です)
私達は当然のように受け入れている社会的な刷り込みに対して、再点検するべきかもしれません。刷り込みに妥協し、思考停止状態に陥ると文化も簡単に切り捨てられるものと考えるようになり、感情的なやり方でしか接することができなくなります。もう少し冷静に物事を見て考える力が必要でしょう。社会が漠然と醸成した感情や気分だけで、貴重な文化を破壊させてしまう前に。

今回の『非実在青少年規制』の背景には、不穏に囁かれる噂があります。なぜ都知事や警察までも熱心に法改正に絡んでくるのか。実は『非実在青少年規制』という法律そのものを隠れ蓑に、新しい利権団体を作ろうというのが本旨というのです。
それは状況証拠と推測に過ぎない――とはいえ、背景に絡んでくる組織や団体などを俯瞰して見ると、「ひょっとして」という思いもしてきます。私にはそこまでの情報分析能力はないので、この件に関してはもっと詳しい人の調査、解説に委ねるべきでしょう。もし疑いようのない証拠が出てきたら、徹底的に糾弾されるべきことですが。

なんにしても東京という場所は騒がしすぎるという気もします。前回記事にも少し書きましたが、外野が騒がしくて創作に集中できなくなったら、思い切って業界ごと移転するべきでしょう。移転先は岡山がお勧めです。
その理由として、まず岡山は物静かな県民性として知られています。犯罪発生率は非常に低く、県別ランキングで下から3位くらいです。東京のような常にどこかで犯罪、という場所と較べると、非常に平和的な土地です。交通の便は悪くなく、大阪、京都のアニメスタジオと連携が取れます。これまでは東京にいる人たちを集めて企業を作っていましたが、岡山が拠点になると西日本を中心にした人材集めが可能になります。土地代が安く、東京の10分の1、20分の1くらいは当り前です。東京では無理だった「土地を買っての会社建設」も岡山なら実現の可能性があります。住宅事情もかなり落ち着いているので、駆け出しのアニメーターが住いに困る心配は多少減ります(瀬戸大橋を越えて香川県とか行くと、月一万の借家があったります)。一年を通しての日照時間、晴れ日が日本で最も長く、ソーラーパネルなどを使用するとある程度の電力が節約できます(いまだ太陽電池の性能がイマイチなので、「ある程度」とします。最近のアニメはデジタル制作の機会が増えているので太陽電池は活用できると思います。「落雷」が少ないのもポイントです。ゲーム会社ならかなりの恩恵を得られるかもしれません)。カルト宗教とヤクザの数も非常に少ないです(ついてきちゃう可能性もありますが)
東京で余計にまとわりついてくる色んなものを振り落とし、地方に出ましょう。東京のような汚い、人間だらけで窮屈なゴミ箱都市は住むべき場所でも仕事するべき場所でもありません。通信技術が発達しているので、東京を仕事場所にする意味ももうありません。じっくり創作に没頭したいなら、静かな土地に移るのが最良の選択です。

関連情報リンク…詳しい情報が得られるように、たくさん用意しました。
一般資料
東京都青少年健全育成条例改正問題のまとめサイト
「反オタク国会議員リスト」メモ
ニコニコ大百科 非実在青少年規制とは
Wikipedia 東京都青少年の健全な育成に関する条例
日本でのマンガ表現規制略史
京都での規制事例 山田啓二によるマニフェスト(PDF)
「第3次男女共同参画基本計画策定に向けて(中間整理)」について
第12分野「メディアにおける男女共同参画の推進」(PDF)
無名-知財政策ウォッチャーの独言→東京都青少年保護条例改正案全文の転載
「青少年の健全な育成に関する条例改正案 質問回答集」の作成について
東京都青少年の健全な育成に関する条例改正案 質問回答集(PDF)
規制推進派
新谷珠恵 マネジメントグループの紹介
大場ナナコのブログ:バースコーディネーター日記
第28期東京都青少年問題協議会委員名簿(PDF)
社団法人 東京都小学校PTA協議会 青少年健全育成条例改正案に関する緊急要望書を提出
規制反対派
たけくまメモ
都条例「非実在青少年」規制問題について
精華大学による「東京都青少年健全育成条例改正案」に対する意見書
まんが・条例ができるまで(1992年作品)
“馬のクソ’でも表現(1)
空気を読まない中杜カズサ
東京都青少年育成条例改正案における表現規制の危険性について語る
難民チャンプ
「非実在青少年」規制について
Timesteps
1990年代の有害コミック運動はそれからどうなったのか
コデラノブログ4
非実在青少年規制反対集会速報
「非実在青少年」だけではない、東京都青少年健全育成条例改正の問題
アルファモザイク→東京都「児ポの基準を発表するわ」 「しずかちゃんの入浴」「ワカメちゃんのパンチラ」はおk
京都精華大学→東京都青少年健全育成条例改正案に関する意見書
ニュースサイト
「非実在青少年」問題とは何なのか、そしてどこがどのように問題なのか?まとめ
都・マンガ規制の問題点を読売新聞が身を呈して実証
“非実在青少年”規制条例、「知っている」層の8割が反対~ニコ動調査
「非実在青少年」問題――ネットで広まる“反対”と“賛成”の意見
漫画性表現規制「議論慎重に」 精華大学部長ら 都の民主会派に意見書
「非実在青少年」規制、橋下知事「大阪府も検討」
「しずかちゃんの入浴」「ワカメちゃんパンチラ」はOK 2次元児童ポルノ規制条例で東京都
「暴力的ビデオゲームはほとんどの子供には無害」と研究者



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