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■2010/08/10 (Tue)
シリーズアニメ■
第1話~第5話までのあらすじ
ある日の午後。小室孝は授業に出席せず、高校の片隅で退屈な時間を過ごしていた。
ふと、校門に不審者が現れる。教師たちの何人かがやってきて、不審者を追い払おうとする。しかし、何か様子がおかしい。
突然、不審者が教師に噛み付いた。悲鳴が上がり、派手に血が吹きあがる。噛み付かれた教師は、その瞬間、絶命してしまった。
だがその直後、死んだはずの教師が起き上がった。意思がないみたいにふらりふらりと足取り危うく歩き、他の教師に襲い掛かり、体に喰らいつき肉を貪る。
何かが起きた。
その様子を見ていた小室孝は、ただちに行動に移す。授業中にもかかわらず教室の中に飛び込むと、幼馴染の宮本麗と、親友の井豪永を連れて脱出を試みる。
学校内は瞬く間が感染が広がり、〈奴ら〉がうろつく修羅へと変わってしまった。小室と宮本、井豪は、〈奴ら〉から逃れつつ屋上へを目指す。
ようやく屋上の給水タンクまで辿り着いたが、井豪が〈奴ら〉に噛まれ、死亡してしまう。死亡してまもなく井豪は〈奴ら〉と同じように、生気のない顔になって、ゆらりと起き上がった。小室は覚悟を決めて、井豪の頭をバットで叩き割る。
一方その頃、学園内の各所でそれぞれの活動が始まろうとしていた。
高城沙耶は平野コータと共に武器を作り、脱出を試みる。
古武術の心得のある毒島冴子は、保険医の鞠川静香を危機から救い、職員室を目指す。
屋上に逃れた小室は、ここに篭城し続けても、いつかバリケードは突破されるし、食糧の蓄えがないと気付く。ここから脱出しなくてはならない。
小室と宮本は、意を決して屋上から脱出する。〈奴ら〉との危険な戦いを潜り抜けつつ、高城沙耶や毒島冴子たちと合流し、職員室に逃げ込む。
そこで、テレビ放送で世界中で〈奴ら〉による襲撃と蹂躙が始まっている事実を知る。学校に篭城していても、いつか〈奴ら〉に襲われ、殺されるだけだ。小室たちは、そこに集った全員と協力し合うことを誓い、マイクロバスで脱出する計画を立てる。
〈奴ら〉を撃退しつつ学校内を進み、ようやくマイクロバスの前まで辿り着く小室たち。すると、そこに生き残りである紫藤浩一と数名の生徒が同乗を求めて飛び込んできた。小室は紫藤たちをバスに乗せて、学校から脱出する。
しかし間もなく紫藤の存在に不満を訴えた宮本が、単独でバスから飛び降りてしまう。小室は毒島と合流する約束をして、宮本を追いかけてバスを降りる。
小室と宮本は、〈奴ら〉の襲撃を退けながら、落ちていたバイクを手に入れて合流地点を目指して走る。
高城たちは小室と合流する約束だった場所を目指して橋を渡ろうとするが、〈奴ら〉に取り囲まれ危機を迎える。
何とか合流できた小室と高城たち。鞠川が、近くに知り合いのマンションがあるから、そこを目指そうと提案する。一同はしばしの休息を求めて、マンションを目指すが、そこもすでに〈奴ら〉の巣窟となっていた……。
ゾンビというキャラクターが日本の作品で描かれる機会はあまりない(作品中では〈ゾンビ〉とは言及されず、あくまでも〈奴ら〉としている)。制作されてもB級映画かゾンビ映画パロディくらいしかない。どうしても、本家ゾンビ映画の模造品か亜流品などで、なかなかゾンビというキャラクターが受け入れることができなかった。
というのも、ゾンビというキャラクター自体が、西洋文化特有のものだからだ。ゾンビは西洋社会が生み出し、育んでいったキャラクターだ。それに、宗教観の違いも少なからず影響しただろう。西洋では死体は焼却せず土葬し、来るべき審判の日に備えるという。そしてゾンビ映画の背景にいつも語られるのは、その審判の日がついにやってきて、罪深き人々が罰を受けてゾンビにされて土の中から甦ったのだ、という解説だ。
ゾンビというキャラクターの発想自体が、西洋文化、宗教が背景にあるわけで、だから日本で描こうとしても、どうしても本家を手本にした模造品、亜流品にしかならないのだ。
かつて三池崇史監督が『スキヤキ・ウエスタン・ジャンゴ』という西部劇映画が制作した。この映画、舞台はどうやら日本らしく(“根畑(ネヴァダ)”という名前の宿場だ)、出演者はすべて日本人。なのに、なぜか台詞はすべて英語という奇妙な映画であった。
なぜならば、西部劇は英語文化が生んだエンターティメントだからだ。銃社会ですらない日本で、日本人が西部劇を演じても決して本物らしくはならない。だから、ここは日本だが日本ではないどこかという場所をでっち上げて、出演者は国籍不明状態で英語を演じたのだ。
「SF映画は英語圏文化の産物であって、日本語で撮影できない」
というのは、映画『アヴァロン』を制作した押井守監督の言葉だ。日本には日本特有の文化があり、日本人が演じる限り、その立場は守るべきである。その歴史的範疇から外れた作品をいくら努力しても、決して望んだ形で実現し得ない。
ゾンビ映画も同じだ。日本人が描くべきではない。
だが、そこは日本のアニメ・漫画である。日本のアニメ・漫画にはあらゆるものを飲み込む土壌がある。何でもあり、でたらめさ、現実の原理や概念など軽く飛躍し、ロボットでもモンスターでも妖怪でも忍者でも、何でも一つのフィールドの中で表現できる。
何でもありを60年続けてきたからこそ、自由な発想で何でも取り込んで、その作品におけるリアリティに異質なものを同居させられるのだ。
だからこそ、『学園黙示録』というゾンビ漫画・アニメがあり得たのである。
しかし、ゾンビを絵画世界で描く試みはそれ自体が難題であるはずだ。日本の漫画キャラクターは基本、人形を素体にしている。ゾンビのようなグロテスクな側面を強調した「生きる屍」のような描写は、日本の漫画のタッチでは難しいはずだ。
それに、ゾンビに襲われ、取り囲まれるという緊張感を描き出そうとしたら、技術面で相当の実力が必要になってくる。
しかもそれをアニメシリーズで描こうというのだ。高いクオリティを維持し続けないと、即座に緊張感を失ってしまうし、誰も続きを見ようとはしないだろう。物語の展開と共に、作画の高さが頼りなのだ。描写に一瞬の隙があってはならない、という難題を宿命付けられた作品だ。
『学園黙示録』に登場する女性キャラクターは最低でもバストサイズが83(毒島冴子 それでもDカッ
第1話においては、ゾンビに襲われる学校生徒はほとんどが女性キャラクターであり、その描写は異形の何かに襲われる恐怖感以上に、強姦を連想させるように描かれている。
だが、むしろそういったセクシャリティがこの作品の
ゾンビ映画の原点であるジョージ・A・ロメロの作品を見ると、意外なくらいゾンビが登場してこないとい
ジョージ・A・ロメロ作品では、ゾンビ以上に、異常な閉鎖状態で取り残された人間の描写を重視している。ゾンビという特殊状態に取り囲まれ、死という危険そのものに直面した人間が密室でどのように行
動し、葛藤を抱き、恐慌状態に陥るのか。
ジョージ・A・ロメロ作品は人間に重心を置いて、ゾンビ映画という状況を描く。
という前提でゾンビ映画というものを考えると、ゾンビ以上に人間の心理や集団が作りだす社会を中心に描くのは、源流に則っていると考えてもいいかもしれない。
ゾンビ映画はシリーズ化する場合が多いが、基本的に2時間で完結する。2時間で完結するという前提だから、主要となる舞台はたった一つだけ。大抵は、その小さな場所で作り上げた社会が限界を迎え、崩壊する結末で終わる。
しかし『学園黙示録』は大胆に最初の舞台から飛び出し、ゾンビの出現によって社会がどのように変質し、事態に対して対処しようとしているのか、その描写を一つ一つ取り上げていく。
2時間作品なら恐らく学校に篭城するだけで物語は終わっただろう。だが『学園黙示録』は面白いくらいに主人公たちの活動範囲が広げられ、社会が描かれ、物語の舞台を次々と移していく。たった2時間という範疇をはるかに飛び越えた物語展開が期待される作品だ。
果たして『学園黙示録』の物語がどのような結末を迎えるのか――。そもそもゾンビ映画は結末を――エピローグが描かれることはなかった。ある程度の希望的観測や、あるいは全員死亡という絶望が描かれるだけである。
ゾンビに取り囲まれている、という状況の向こう側を描いた作品が(多分)皆無なのだ。それは、シリーズではなく2時間作品だから、じっくり描きこめないという弱さがあるためだろう。
『学園黙示録』は史上初めて描かれたゾンビ・シリーズ作品である。ただどこかから脱出するだけの作品ではないだろうし、それで終結するだけの作品など誰も期待していないだろう。長編ならではの、エピローグのある作品が期待されているはずなのだ。
2時間作品では決して描かれない領域がきっとあるはずだ。ゾンビという異常状況の向こう側にいったい何があるのか――。続きの物語を期待して待ちたい作品だ。
学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD 公式ホームページ
学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD ニコニコチャンネル
作品データ
監督:荒木哲郎 原作:佐藤大輔 佐藤ショウジ
シリーズ構成・脚本:黒田洋介 キャラクターデザイン・総作画監督:田中将賀
サブキャラクターデザイン:落合瞳 プロップデザイン:新妻大輔
美術監督:川本亜夕 色彩設計:橋本賢 撮影監督:山田和弘
音響監督:たなかかずや 音楽:和田貴史 編集:肥田文
アニメーション制作:マッドハウス
出演:諏訪部順一 井上麻里奈 竹達彩奈 沢城みゆき
〇 谷山紀章 喜多村英梨 竹内順子 檜山修之
〇 福井裕佳梨 宮野真守
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■2010/08/04 (Wed)
映画:外国映画■
スーパーヒーローたちの自警行為を禁止するキーン条例が制定された1980年代。スーパーヒーローの代名詞であったウォッチメンのメンバーは一般人として平穏な暮らしを過ごしていた。
だが、ある夜。ウォッチメンメンバーの一人であるコメディアンが何者かに殺害された。超人的なパワーを持つスーパーヒーローを誰が殺したのか? 警察は自分たちの手に追える事件ではない、とあっさりと捜査を中断してしまった。
そんな最中、ウォッチメンメンバーであったロールシャッハが自ら事件の調査を始める。ロールシャッハはキーン条例が制定された後も、密かに街の自警活動を続けていた。
ロールシャッハは、コメディアン殺人事件をただの殺人事件ではない、もっと根の深い事件であると推測。ウォッチメンメンバーが狙われていると推測したロールシャッハは、警告を与えるためにかつての仲間たちを訪ねていく。
だが、かつての仲間たちはすでに新しい生活を始めていて、ロールシャッハの警告を受け付けようとしなかった……。
ヒーロー誕生の切っ掛けは、悪漢が扮装して銀行強盗などを繰り返すので、それに対抗する手段としてコスチュームヒーローが生まれた、となっている。それが1930年頃、となっているから、物語における歴史パラレルワールドはこの辺りから始まっている。もともとは警官隊がコスチュームを身にまとって戦ったそうだ。
映画『ウォッチメン』を鑑賞するに当たり、まず注意しておくべきことがある。
この物語は、現実世界を丁寧になぞって作られているように見えるが、「スーパーヒーローが歴史に介在している」という前提を取ってい
るので、少しずつ我々の知る歴史と違ってきている。
その大きなところが、「ベトナム戦争の勝利」だ。ウォッチメンたちの戦争参加により、アメリカはベトナム戦争に勝利した、ということになっている。それからニクソン政権はその後も続き、映画冒頭で3期
目を就任している。
『ウォッチメン』は、「もしもコミックヒーローのような存在が近代史に介入していたら」というifを描いた作品である。『ウォッチメン』はヒーローと悪の対決を描いた作品ではなく、超人的パワーを持った人たちが社会、あるいは世界とどのように向き合い、干渉しあっていったのか、それを描いた作品である。
『ウォッチメン』の映画化には長い前途の旅があった。はじめはスター俳優中心の単純明快なヒーローものにする構想だったようだ。原作があまりにも長大で複雑難解だったため、どう映画にすべきか相当悩んだらしい。最終的には原作をよく知るザック・スナイダーが監督に就任したことで、作品にとってもファンにとっても望ましい形で映画化された。
映画『ウォッチメン』は悪との戦いを描く作品ではない。“宿敵だった”と呼ばれるキャラクターが登場するから、悪との対決はすでに完了済みようだ。
『ウォッチメン』が描くのは、スーパーヒーローが社会とどのように向き合っていくのか、その姿や生き方である。『ウォッチメン』における社会はより大きく、世相、あるいは政治がスーパーヒーローを圧倒し、その活動や力に制限をかけようとしている。スーパーヒーローとはいえ特別な存在ではなく、あくまでも大きな社会のたった一人でしかな
い、という描き方である。
ここが、単に子供のヒーローで、同じストーリーを毎年繰り返すだけで、作品が商品解説番組に成り下がっている日本のヒーローものと違うところである。
『ウォッチメン』が描く街の風景は、臭ってくるような重々しさを湛え、スーパーヒーローは通り行く群集のうちの一人として、埋没するように描かれている。あるいは、裏通りの暗部にひっそり佇んで、街の平和を密かに見守っている。
これは、おそらくヒーロー漫画文化の厚みが違いを分けたのだろう。アメリカだからこそ、ヒーロー漫画にここまでの深みを与えられたのだ。日本の漫画技術は間違いなく世界最高のものだが、ここまで大きく複雑な世界を描き、ヒーローの内面的暗部まで描いた作品はお
そらく日本には存在しないし、そもそも日本人の発想では到達し得ない。ヒーロー漫画の長い系譜とヒーローそのものへの深い洞察、それから強烈な社会の干渉が『ウォッチメン』という到達点へ至らしめたのだ。
Drマンハッタンを演じたビリー・クラダップはほぼ全編、白スーツを身につけて演じた。実際画面上に残ったのはビリーの顔骨格の一部だけで、あとはほとんどデジタルである。画面に映っている筋肉も、堂々たるフルチンも、すべてデジタル上で作られたものである。
『ウォッチメン』は、決してリアルな演劇を追いかけた作品ではない。どの台詞も不必要に重々しく、勿体つけたような言い回しで語られる。物語の語り手であるロールシャッハの独白は、影を持った陰鬱さをまとい、いかにもなハードボイルド風のニヒリズムが込められてい
る。
アクションは決めの瞬間ほどスローモーションが多用され、コミックのコマ割を忠実に再現されている。その動きが様式的に見えて、『ウォッチメン』的な仰々しさを補強している。
物語の展開は、「ヒーロー狩り」を本道として何度も傍流に迷い込んでいく。物語の背景にある、あまりにも複雑な背景、それから各キャラクターの過去の解説。
物語の本流だけを追いかければ、もっと短い作品になるはずだが、
それでは解説不十分な作品になってしまう。作品における精神的部分まで再現しようとしたら、過去を描くサイドストーリーが不可欠なのだ。
だがその過去はあまりにも複雑で重々しく、しばしば物語の本筋がどこにあったのか見失いかけてしまう。
アクションは肉体破壊や流血を強調的に描かれる。スマートなアクションではなく、暴力の痛々しさを強烈に見せ付けるためだ。
ところで、路地裏で悪漢に襲われるシーン。悪漢たちがなぜかちょんまげスタイルに、「侍」と書かれたTシャツ。何だこれは?

『ウォッチメン』はコメディアン、Drマンハッタンの2人が物語のテーマ的部分を体現している。この2人こそが物語上の最重要人物といっていいだろう。もっと言
えば、この2人以外のヒーローはヒーロー漫画としてはありきたりで、平凡な性質を持ったキャラクターたちであると言える。コメディアンとDrマンハッタンの存
在が、『ウォッチメン』を『ウォッチメン』たらしめているのだ。
Drマンハッタンはコミックヒーローの中でも異色の存在である。ある実験の事故を
切っ掛けに超人的パワーを得た――そこまではよくありがちなキャラクターだが、その力はあまりにも絶対的で、超人的といわず、もはや神がかり的な領域に達し
ている。それがスーパーヒーローの“力の大きさ”を現している。神がかっているからこそ、その力が物語における重要な役割を果たすようになる。

もう一人のコメディアンは、スーパーヒーローの中では平凡なパワーの持ち主だが、重要なのはヒーローとしてはあまりにも特異なその性格、気質である。映画
冒頭で死亡するにも関わらず、映画全体を通して最も重要で、コメディアンがいるからこそ、映画に一貫したテーマが与えられたのだ。
『ウォッチメン』の物語の中で主に語られるのは、コメディアンの英雄的側面ではなく、むしろ悪逆非道の数々である。ベトナム戦争では現
地人の女を妊娠させた挙句銃殺。戦争から帰った後も攻撃的な性格を変えることなく、デモ隊に突入しては容赦のない暴力行為。さらには、仲間のウォッチメンメンバーへのレイプ。ちなみに、ケネディを暗殺したのもコメディアンということになっている。
コメディアンについて、ロールシャッハはこう語る。
「人間の本質は暴力だ。どれだけうわべを着飾り、ごまかしても、社会の素顔を奴は見抜き、――自らそのパロディとなった」
人間の本質は暴力であるが、しかしうわべでは平和を語ろうとする。これは物語の背景として大きく取り上げられている核による平和――冷戦を現している。平和を得るために圧倒的な暴力を必要とする矛盾。人間は暴力や攻撃性を前にしないと、決して団結しないし、平和を望んだりもしない。自分に向けられる暴力に抗するのも、やはり暴力である。
だからコメディアンは一人、皮肉を込めた笑いを浮かべるのである。
「な、おかしいだろ」と。
映画記事一覧
作品データ
監督:ザック・スナイダー 原作:アラン・ムーア
脚本:デイヴィッド・ヘイター、アレックス・ツェー
撮影:ラリー・フォン プロダクションデザイナー:アレックス・マクドゥエル
編集:ウィリアム・ホイ 音楽:タイラー・ベイツ
出演:マリン・アッカーマン ビリー・クラダップ
〇 マシュー・グード カーラ・グギーノ
〇 ジャッキー・アール・ヘイリー ジェフリー・ディーン・モーガン
〇 パトリック・ウィルソン スティーヴン・マクハティ
〇 マット・フルーワー ローラ・メネル
〇 ロブ・ラベル ゲイリー・ヒューストン
〇 ジェームズ・マイケル・コナー ロバート・ウィスデン
だが、かつての仲間たちはすでに新しい生活を始めていて、ロールシャッハの警告を受け付けようとしなかった……。
この物語は、現実世界を丁寧になぞって作られているように見えるが、「スーパーヒーローが歴史に介在している」という前提を取ってい
その大きなところが、「ベトナム戦争の勝利」だ。ウォッチメンたちの戦争参加により、アメリカはベトナム戦争に勝利した、ということになっている。それからニクソン政権はその後も続き、映画冒頭で3期
『ウォッチメン』は、「もしもコミックヒーローのような存在が近代史に介入していたら」というifを描いた作品である。『ウォッチメン』はヒーローと悪の対決を描いた作品ではなく、超人的パワーを持った人たちが社会、あるいは世界とどのように向き合い、干渉しあっていったのか、それを描いた作品である。
ここが、単に子供のヒーローで、同じストーリーを毎年繰り返すだけで、作品が商品解説番組に成り下がっている日本のヒーローものと違うところである。
アクションは決めの瞬間ほどスローモーションが多用され、コミックのコマ割を忠実に再現されている。その動きが様式的に見えて、『ウォッチメン』的な仰々しさを補強している。
物語の本流だけを追いかければ、もっと短い作品になるはずだが、
だがその過去はあまりにも複雑で重々しく、しばしば物語の本筋がどこにあったのか見失いかけてしまう。
ところで、路地裏で悪漢に襲われるシーン。悪漢たちがなぜかちょんまげスタイルに、「侍」と書かれたTシャツ。何だこれは?
Drマンハッタンはコミックヒーローの中でも異色の存在である。ある実験の事故を
『ウォッチメン』の物語の中で主に語られるのは、コメディアンの英雄的側面ではなく、むしろ悪逆非道の数々である。ベトナム戦争では現
「人間の本質は暴力だ。どれだけうわべを着飾り、ごまかしても、社会の素顔を奴は見抜き、――自らそのパロディとなった」
人間の本質は暴力であるが、しかしうわべでは平和を語ろうとする。これは物語の背景として大きく取り上げられている核による平和――冷戦を現している。平和を得るために圧倒的な暴力を必要とする矛盾。人間は暴力や攻撃性を前にしないと、決して団結しないし、平和を望んだりもしない。自分に向けられる暴力に抗するのも、やはり暴力である。
だからコメディアンは一人、皮肉を込めた笑いを浮かべるのである。
「な、おかしいだろ」と。
映画記事一覧
作品データ
監督:ザック・スナイダー 原作:アラン・ムーア
脚本:デイヴィッド・ヘイター、アレックス・ツェー
撮影:ラリー・フォン プロダクションデザイナー:アレックス・マクドゥエル
編集:ウィリアム・ホイ 音楽:タイラー・ベイツ
出演:マリン・アッカーマン ビリー・クラダップ
〇 マシュー・グード カーラ・グギーノ
〇 ジャッキー・アール・ヘイリー ジェフリー・ディーン・モーガン
〇 パトリック・ウィルソン スティーヴン・マクハティ
〇 マット・フルーワー ローラ・メネル
〇 ロブ・ラベル ゲイリー・ヒューストン
〇 ジェームズ・マイケル・コナー ロバート・ウィスデン
■2010/07/20 (Tue)
読書:研究書■
アニメが愛した音楽、音楽が愛したアニメ

だが、今回『CUT』が取り上げたのは、まさかの『けいおん!』だ。現在もっとも大きな話題の中心であり、しかもまだ放送中で、今まさにムーブメントが激烈な勢いで動いているこの時期で、である。
インターネットのニュースサイトでは、『けいおん!』が取り上げられることは多い。だがその多くはからかい半分――いや、からかい全部であり、冷やかしである。作品についての解説や、真摯な批評、分析はなく、作品解説から意図的に外した傍流――有り体にいえば、「こんなオタクがいますよ。皆さんどう思いますか?」という見世物小屋的な扱いかたである。もっとも、大きなメディアほど、真面目な批評や解説など期待できないのは仕方のないことだが(大きなメディアにできるのは、せいぜい芸能人の私生活を一般人に暴露することだけである)。
作り手がどんな意識で作品と向き合っているのか。『CUT』ではお得意の制作者インタビューで、作り手の思想、精神を直裁的に訊ね、作品の内面的構造をあぶりだそうとする。
ところで、特集テーマは『アニメが愛した音楽、音楽が愛したアニメ』となっている。最近、際立った傾向を見せているアニメ音楽。「アーティスト」ともちはやされた作家達の音楽に翳りが見え、その隙間に飛び込んでくるように大きなムーブメントを起こしつつあるアニメ音楽。かつてはアニメのおまけ的産物であり、オリコンなどのランキングでは相手にすらされなかった。それが今では、上位ランクをほぼ独占。それまで興味も関心も見せなかったメディアも、嫌でも目を向けざるを得ない、気付かない振りをしているわけにはいかない状況が生まれつつある。
『CUT』は『けいおん!』を中心としつつ、最近おおきな話題となったアニメ作品、それから声優を取り上げる。『Angel Beats!』と水樹奈々である。それから音楽業界から見たアニメ音楽の流行、という興味深い記事もある。
正直なところ、大きな特集とするには役者がすべて揃ったとはいいがたいが、アニメ雑誌以外の雑誌だと思うと、なかなかのチョイスであるといえる。
ほとんどの批評(らしきもの)が作品と制作者を無視したところで、作品の表面的な印象を反笑い的に取り上げたものばかりであった。多くの批評もどきは、「あなた、本当は作品見てないでしょ?」と訊ねたくなるものばかりで、最終的に、読者を「けしからん!」と煽り立てたいだけである(日本人は「けしからん!」論調それ自体が大好きで、そのための燃料を提供しているだけ、という見方もあるが)。
そんな最中だからこそ、『CUT』は余計な偏見を持たず、制作者に直撃する。ページ枚数に対して、記事のディティールが浅く、散漫な印象もあるが、『CUT』らしい視点そのものが興味深く、読んでみるべき内容になっている。
以下、記事中からの抜粋
■ 小森茂生(音楽プロデューサー)×Tom-H@ck(作曲家)
――振り返っていただくところから始めようと思うんですけど。『けいおん!』の立ち上がりのときは、そもそもどんな音楽をやっていこうというお話のもとスタートしたんでしょうか?
小森「まず、僕自身で言えばアニメの仕事は初めてだったんですよ。そんなこともあって、あまりアニソンっていうことを意識しないでいいんじゃないのっていうところから始めて。とにかくかわいくて、カッコいい歌ものができればいんじゃないかなっていうのが最初のコンセンサス……っていうところはありましたね。だからわりと制約は少なかったですよね。最初から絶対こうしなきゃいけないっていうことはなかたので、のびのび……やったでしょ?」
Tom「あ、そうですね、のびのびやらせていただきました」
――そうやって生まれた“Cagayake!GIRLS”っていう楽曲が、第1期オープニングとしてバーンとながれるわけですけど。ある意味、この曲が『けいおん!』でその後発表されていく楽曲のスタンダードになったと思うんですよね。
小森「そうですね、やっぱりあれが全体の色を決めたところはありますよね。あの曲を基本に、じゃあエンディングはこうだろう、じゃあキャラクターイメージソングはどうだっていう、ガイドラインができたっていう。そういう意味では、ほんとに基準になっているとは思いますね」
――それと、あのオープニングが素晴らしかったのは、それが最高のプレゼンテーションだったっていうことですよね。あの曲がアタマに流れることによって、「今からこのアニメで流れてくる音楽っていうのは、これまでのアニソンとちょっと違うんですよ」という。そういう意識が刷り込まれてしまうという。
Tom「興味深いなあ」
――だからそれ以降、みんな期待してエンディングを聴くし、期待してキャラクターイメージソングを聴くし。そして、その高い期待にことごとく応えてくれる楽曲が連発されてきたという。そういう構造があって、「『けいおん!』、めっちゃくちゃ面白いじゃん!」っていう空気がどんどん強くなっていったという。
小森「ただ、たとえばオープン、エンドで面白いものができた。次、挿入歌と、イメソンも面白いものができた。だけど、結局、どれも面白いと感じられるものを作るってことで精一杯だっただけなんですよ。だから、コンセプトとして、何かをやっていこうっていう意識ではなかったですね。まあでも、今考えると大きなコンセプトはあったんですけどね。ただ、それは個々の作品という括りではなかった。全体を統一するものとしての括りでしたね」
――それは、とにかく面白いものを作っていくという?
小森「そう、かわいいけどカッコいいもの。あと唯一、絶対はずせないのはキャラですよね。このキャラでこういうことはやらないだろう、このキャラでこういう詞は歌わないだろうっていう意識はやはり絶対の制約としてはありました。それ以外の、たとえばサウンド的な部分とか、そういうところはほとんど自由にやらせてもらってる感じですけどね」
■ 山田尚子(監督)
――第1期が始まって、とにかく衝撃を受けたんですね。まず軽音楽部だっていうのに、音楽をほとんどやらない。それと、基本的に何も起こらない。あともうひとつ、ある意味で弛緩した時代の空気を反映した作品なのに、自分探しをしない。これは衝撃的だったんですよ。
「それはきっと原作者(かきふらい)さんが狙ってらっしゃるんだろうなとは思うんですよ。ほんとに演奏してるシーンもないし……ヤマ場の学園祭でも『イエーイ!』で、ひとコマで終わったりするんですよ。なので、音楽を見せる作品じゃないっていうのは原作を読んだ時点でわかっていて。基本的には、あっけらかんとした女子高生たちなんですよ。彼女たちが音楽を始めたきっかけも、とにかく音楽が好きで始めたというわけじゃないし、それをブラしてはいかんとは思ってまして。……だから音楽ファンの方に観てますって言われるたびに固まります。ごめんなさい、大丈夫ですか?っていう(笑)」
――『けいおん!』のすごさのひとつに、いわゆるコアなアニメファンだけじゃない層にこの面白さを届けたということがあって。それこそ、普通の高校生が「お前誰が好き?」みたいなことを話しているという。そういう現象が、今、日本中で起こっているんですが、監督自身はこの現象をどう感じているんですか?
「とりあえずアニメ特有の敷居の高さみたいなのはなくしたかった、というのはあります。キャラクター性がばっちり決まってて、この子は心に傷があってとか、いろいろあってもいいと思ったし、一般人としてアニメを観るときに気になる部分とか、これはちょっと入れないなと思う部分とか、自分がアニメに対して感じる気持を一生懸命積んでいった感じですかね。誰でも観れる、楽しめる作品を――ほんとにちっちゃい子から大人まで観てもらえる作品にしたいなと思って。だから、小難しい考え方とか、言い出したらたくさんあるんですけれども、もっと素直に楽しめるものは何だろうかっていう観点で作ってます。もちろん、計算も必要だし、考えたりもしますけど、それが前面に出ては面白くないし、作品から幸せのオーラというか、ハッピーなものが出てればいいんじゃないかなと。そこに終始、エネルギーを注いでいる感じでしょうか」
――面白いのは、この子たちが極めて“普通”であるということで。普通の子たちなのに、奥行きがあって、キャラクターとしての器がでかくてという。なんなんでしょう、これ(笑)。
「普通の子にすごく興味があるんですね。たとえば『〇〇ちゃんってどんな子?』って訊くと、『いや、普通の子』って答えられたりすることってあるじゃないですか。『あの人ってどんな人?』『普通』とか……いろんな人に普通普通って言われているうちに、『普通って何?』と思って、“普通”を研究するようになって……(笑)。でも、結局、普通の子なんていないんですよね。みんな必ずどっかちょっと変だったり面白かったりして……って思って、よく見ているうちに普通の子ってめちゃくちゃ魅力的だな、と(笑)。普通って思われてる子の奥深さってすごいんですよ、なんでもいけるんですよね。だから、この子たちの許容範囲の広さもそういうことなのかもしれない。普通だからこそ、この子たちは優しいし、友だち思いだし、みんなのことを気にかけられるし。性格が悪い子とかいないですから(笑)。『普通、普通』っていっても私の目には普通には見えないんだよなぁ……と思いながら研究してきた結果が『けいおん!』なんだと思います(笑)」
■ 豊崎愛生(平沢唯役)
――『けいおん!』のすごいところとして、音楽との相乗効果がありますよね。この現象的な盛り上がりをメインキャストのひとりとしてどういうふうにご覧になってるんでしょう?
「わたしとしては、『おめでとう、よかったね』っていう気持ちのほうが強いんです。自分だけど自分じゃないなあみないな感じで。この子たちはアニメのキャラクターであって、つまり2次元なんですけど、聴いてくれてる方たちにとっては、この子たちが実際にいて、軽音部をやっているんだっていうふうに思っていただけたら大成功なわけですよね。聴いてくださる方が、豊崎愛生じゃなくて、唯ちゃんが生きていて、歌ってるって思えるように歌えたら、それが一番だと思いますし。そういうことをずっと考えていると、1位をいただいたときも、『唯、よかったねえ』みたいな気持が強くて(笑)。不思議な感覚ではありますけどね」
――実際、第1期の5人の空気感がなければ、絶対に作れなかった曲だと思いますけどねぇ。
「でも制作スタッフさんたちは、『誰にも歌えないような曲を作りたいんですよねえ』みたいなことを言ってたんですよ。「え? じゃあわたしのことはなんだと思ってるんだ』って話なんですけど(笑)。“誰も”のなかにわたしは入ってないのかしらって(笑)。でもスキル的なことも、キー的なことでも、唯ちゃんになると上が出るんですよね(笑)。豊崎愛生だと“GO! GO! MANIAC”は歌わない――歌わないっていうか歌えないんですが、唯ちゃんをフィーチャリングすることによって楽しく歌えるし、出ないキーも出るようになるし(笑)。それはほんとに不思議ですね。ぶっちゃけちゃうと、わたしも歌えるとは思わなかったですから(笑)。でも、歌えると思ってなかったのになんとかできちゃったっていうことは、やっぱりキャラと作品が助けてくれているのかもしれないなあと思います」
■ 麻枝准(『Angel Beats!』原作・脚本・音楽)
――『Angel Beats!』は第1話の放送時から、非常に大きなリアクションがあったと思うんですが、麻枝さん自身、これまでの反響をどう捉えているんでしょうか?
「まあ、ものすごかったですね。第1話のときは、(Girls Dead Monster=ガルデモの)アルバムを録るために東京でホテル暮らししてたんですけど、もう評価が散々で(笑)。まあ、オリジナルアニメっていうのはとにかく注目を集めなきゃ観てもらえないので、とにかくすげえおもしろいものを作ってますよって、自分が矢面に立って頑張ってきたんですけど、それが仇となって、集中砲火で叩かれまくりまして(笑)。もうすさまじかったですよ。アニメファンのみならず、アニメ業界全体を敵に回してしまった、とんでもないことをしてしまった、と思いましたから」
――これだけのクオリティのアニメーションで、CDセールスもあってって、まあ普通に考えれば大成功ですよね。音楽は音楽で、その上位概念としてシナリオ、ストーリー、アニメの全体像があるっていうことが如実にわかるお話なんですけども。
「だから、アニメを作るっていうことになって、やっぱりアニメをいっぱい勉強したわけですよ。そうすると、最初はおもしろかったけど、尻すぼみになっていく作品がどうも多いらしくて。それは何か残念だなあみないな作品がたくさんあるので、そうはならないように、終盤に畳みかけてどんどんおもしろくなってくるように書いてるつもりなので、だからやっぱりそこは勝負なんですよ。最初の雰囲気はよかったけどねぇ、みたいな作品はやっぱり、何というか、隠れた名作で終わっちゃいますよね。最初から最後まで全部がよかったときに名作になるんであって。で、今回、どんだけの人が携わってくれてて、どれだけ心血注いでやってくれてるのかとか、そういうマンパワー的なところも考えても、やっぱり本当に成功させなくちゃダメだっていう使命感が自分にはあって。だからまあ、最後はああだったけど、まあ途中受けたからいいじゃんかとか、音楽売れたからいいじゃん、じゃなくて、『Angel Beats!』はちゃんとみんなの心に残っていくぐらい、いい作品に、13話が終わった時点でならなけりゃダメだっていう、すごい使命感があって。だからほんとに最終回が終わってから感想を見たりとかして、それで落ち着けるかどうか。そこまではまったく気が抜けないですね」※インタビューは作品放送終了前である。
――そこで振り返っていただきたいんですけども。両方やり始めた経緯っていうのは、「俺はふたつ、おもしろいこと考えてんだよ」じゃなくて、仕方なく足してみたっていう感じだったんですか。
「音楽を作っている、要はコンポーザーっていう職業の人たちは、感動できる曲がほしいんだ、ここで泣かせたいんだっていう曲を発注しても、切ない雰囲気の曲が上がってくるだけなんですよ。確かに切なくはあるけど、それ以上にはグッとこないっていうのがあって。それは何かっていうと、結局のところメロディなんです。確かに雰囲気には切なくなっているけど、もっといい曲が流れたら――つまり、もっといいメロディが流れたら、もっと感動できるんじゃない?っていうことが自分のなかにはずーっとあって。で、『じゃあ』っていうんで、自分で書いてみたら、やっぱりよりよくなった、みたいなところから始まってるんですよね」
■ 石原真(NHK「MUSIC JAPAN」プロデューサー
――『けいおん!』関連シングルが1、2位を獲り、『Angel Beats!』のシングルも4枚全部がトップ10ヒットになり、水樹奈々さんも売れまくっているという。まず、これ新しい現象ですよね?
「現象です。恐らくみんなが知らないところでいろんなことが起きてます。たとえば牧野由衣がフランスとロンドンで公演をして、昨日帰ってきたわけです。この間、栗林みな実もメキシコ行ってました。麻生夏子がパリに行くとかね、もう普通のこと。まったくの新人ですよ、アーティストとしたら。しかも、海外のテレビでオンエアされてもいない曲を、吹き替えでもなく、世界中の若者が歌っているという。“ハレ晴れユカイ”なんて世界中の若者のアンセムですよ。もしかしたらオアシスよりも有名なんじゃないかな」
「ということが複層的に起きていって。それはあくまで個人的な趣味の段階でしたが、私はJ-POPの番組をやっておりまして。チャートアクションを見ていて、さすがにこれは地上波の音楽番組の中でも扱ってもいいんじゃいかなあと思ったわけですよ。ただ、もうおわかりだと思うんですけど、差別というか、上下関係というか、垣根がありましたよね」
――ありましたね。
「『ああアニメですか』『ああアニソンですか』っていう。それは、ファンこそ痛切に感じていたわけですよ。ファンは『俺達は虐げられた人民だけども、ほんとにいいものを応援しているんだ』っていう思いが10年前ぐらいからずっとあったんですよね。その垣根をなんとか取ろうという作業をしてきたんですけども。というのも、この人たち、ライブがあまりにも面白いんですよ」
――チャートアクションが象徴する現象もありますけど、根本はやっぱりクオリティが高い、面白い。今一番面白いものが、アニソン/声優カルチャーだということですよね。
「それがですねぇ。たとえば配信系のR&B女性シンガーが面白いかっていったら、うーん……」
――(笑)そうですよねぇ。
「ただ売れるよね。それはそれでいいんですよ。じゃあ、その感じはどこにあるかっていうと、シンガーソングライターと呼ばれる、あるいはアーティストという言葉が恐らく行き詰ってるんだと思う」
――ああ、なるほどなるほど。
「アーティストじゃないんですよ、シンガーだから、この人たち。18、19の小僧や小娘に、コンビニに行って携帯かけたらきみがいなくて寂しかったって歌われても、俺の心は打たないよっていう。それが今のポップミュージックですって言われても、それは違うでしょっていう。それが行きすぎちゃってるんですよ。ロックはいいんですよ。ロックって、自分が作って自分が演奏することだから。ロックをロックたらしめているのは、一代限りってことですよ。ビートルズの曲はビートルズしかやらない。ストーンズはストーンズしかやらない、フーはフーでしょっていう。ポップミュージックの場合は本来プロが寄り集まって作って、3分間の快楽を与える。ちょっと前までは小室(哲哉)さんがいたりつんく♂がいたり、良質なポップスがあったわけじゃないですか。もっと遡れば、松本隆が、筒美京平が、大瀧詠一がいたっていう。そのへんがね、最近つまらなかったってことなんでしょうね」
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けいおん! 目次
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■2010/07/16 (Fri)
シリーズアニメ■
第1章 森島はるか編 アコガレ
辺りは暗く暮れかけている。影を落とした雲が、空を早く流れていた。
広場には、若い男女がそわそわした顔で待ち合わせていた。クリスマスだから、広場にはいつになくカップルで溢れている。僕はそんな人たちに混じって、彼女を待った。
何となく浮きだった様子の広場は、次第に人の数が減り、静かな寂しい空気を残し始めた。そんな場所に、僕は1人で取り残されてしまっていた。
欄干にもたれかかって、そこから街の風景を見下ろした。もう夜の帳は下りていて、きらきらした光がビルとビルの谷間を巡り始めていた。
腕時計をちらと見る。僕は約束の1時間前にこの広場にやって来た。それで、今は約束の時間を過ぎてしまっていた。
僕はもう一度広場を振り返った。広場にはもう誰もおらず、何もない空間を、ただ光が照らしているだけだった。
おかしい。時間も待ち合わせ場所も合っているはずなんだけど。
その時、音を立てて渦を巻いていた風が、際立って冷たくなった。振り返ると、雪が降り始めていた。夜の闇の中を、白い雪がちらちらと浮かび上がっていた。
それでも僕は、そこで彼女を待ち続けていた。でも、彼女はついに現れることはなかった。
「にいに! もおぅ、また押入れにこもって。早く起きないと遅刻しちゃうよ!」
妹の美也の声が飛び込んできた。押入れの中に、鈍い光が射し込んできて、僕の暗澹とした気持が妨害されてしまった。
僕はうんざりしながら重い体を起こし、戸を閉じた。
「うう……。にいに!」
「うるさい。僕はまだ寝ていたいし、ここから出たくないんだ。外は寒いし」
僕はぼんやりした声を漏らし、再び憂鬱な気分に沈む体勢を作った。
「暖房つければいいのに……」
美也が小さく不満を漏らすと、何か思いついたように「にしし…」と笑った。
美也が引き戸の取っ手を掴み、開けようとした。
僕は慌てて反対側の取っ手を掴み、閉めようとした。
「こら、やめろ! 入るな。これは僕1人で鑑賞する作品なんだ!」
がたがたと引き戸を揺らしながら、僕と美也は押し合い引き合いをはじめた。
「うるさい!」
「にゃあも入るの~!」
「わかった、もう出るから」
僕は観念して、引き戸を離した。戸がガラッと全開になり、それに釣られて美也がばたんと倒れた。
僕は欠伸をして押入れから顔を出すと、床に倒れたままになっている美也を見下ろした。
美也が慌てて起き上がり、スカートで剥き出しになった太ももを隠した。
「にいにのバカ!」
美也は髪をくしゃくしゃにしながら、僕に向って頬を真っ赤に膨らませていた。
◇
空想の物語は、失われた十代を取り戻させ、コンプレクスを癒し、あるいは永続的な思い出として残留させる。
失ったモラトリアムと、モラトリアムの再生。『アマガミSS』は十代にありがちな精神と葛藤、挫折、あるいは幸福の達成
言うまでもなく、橘准一の人物像には、見る側が意識を投影できるように設計されている。これは誰かの物語ではなく、あなた自身に向けられた物語である。
主人公の少年を中心に1人置き、その周辺を取り囲むように少女たちを配置する。今どきありがちな作品の構造を、そのまま捻りなく踏襲している。
少女たちは個性的で、自己主張が強く、その造形に作者の
『アマガミSS』は創作的に世界を構築した作品ではなく、普遍的に作られてきた作品の一形態であるのだ。
空間への意識が弱く、キャラクターの立っている位置が曖昧に描かれてしまうことがしばしばある。それに釣られるように、演技も平坦で単調になりがちだ。主人公の目線を意識したクローズアップの多さも、むしろ平坦さを増幅させてしまっ
人間の四肢の描き方も危うい。場面によって、胴体に対して手足が大きくなったり、小さくなったりと不安定だ。
空間と人物の捕らえ方を漫然と描いてしまっていることが、世界構造の弱さに繋がってしまっている。
◇
石畳で舗装された中庭は、中央で丸く切り取られ、水が張られていた。その水の淵に、森島先輩が1人きりで腰を下ろし、静かな佇まいで水面を眺めていた。
水面に宿した夕暮れの黄金色が、森島先輩の半身をきらきらと浮か
僕はそんな森島先輩の佇まいを見て、密かに胸をドキッとさせた。それはあまりにも美しくて、僕の気持ちを強く掴んでしまっていた。
不意に、森島先輩がくしゃみをした。そのくしゃみの声で、僕ははっと我に返った。
「先輩。これ、どうぞ」
僕は森島先輩に近付き、おずおずとカイロを差し出した。
「橘君。使い捨てカイロ?」
「風邪、ひいちゃいますよ」
「ありがとう。優しいのね」
森島先輩が暖かな微笑みを浮かべた。
森島先輩の手が僕の手に重ねられ、カイロを手に取った。ほんの一瞬、僕は掌に森島先輩の生々しい存在を感じて、ドギマギとしてしまった。
「な、何をしていたんですか」
緊張をごまかすように、なんでもない話題を始めた。
森島先輩が水面を振り返った。水面は黄金色を宿して、ゆらゆらと揺れていた。水の輝きが森島先輩の顔を白く浮き上がらせ、何となく寂しく見える表情を克明にさせていた。
「水、ですか?」
「うん。私、水を見るのが好きなの。海とか川とか、噴水とか」
僕は納得する気持で、頷いた。
「そういうふうに言ってくれるのって、響と橘君だけかも。優しいのね。このこの」
森島先輩は顔を上げて、おどけるように僕のお腹を軽く叩いた。
「そ、そんなことないです」
僕はドキドキしながら謙遜した。
不意に森島先輩は、まるで僕を試すかのような緊張をまとって、僕をじっと見詰めた。
「――え?」
僕は答えられず、恥ずかしくなって目を逸らした。
「なんちゃって」
森島先輩はふっと噴出した。
「そうよね。残念。……あったかい」
森島先輩は再び水面に目を移し、頬にカイロを当てた。
僕は、ドキドキと胸が高まってくるのを感じた。胸の底から何度も強い意思が浮かび上がったけど、その度にためらいが押し戻そうとした。
風が吹いていた。森島先輩の顔に映った光が、僕の感情を移すように揺れていた。森島先輩は風に吹き上げられそうになる髪を、そっと押えた。
僕は風が吹いて、過ぎ去るまでの間、ずっと葛藤していた。だけどある瞬間、決心が躊躇いを押し返した。
「好きです」
思い切って、僕は口にした。
「え?」
森島先輩が髪を押えながら、僕を振り返った。
「僕、森島先輩のことが好きです」
胸の中がかーっと熱くなっていた。でも、僕の気持ちは、抑えられなかった。
森島先輩は上目遣いになって、じっと僕を見詰めた。大きな瞳が、じっと僕を突き刺すように向けられる。
「はい! 本気です!」
躊躇いなく――というより、勢いに任せて捲くし立てていた。
「そうなんだ」
不思議な緊張が、僕たちを支配していた。森島先輩はふっと緊張を取り払うと、さっきまでのやり取りがなかったみたいに立ち上がった。
「橘君って、思っていたより男らしいんだね」
「そうですか」
照れて微笑を浮かべる。
森島先輩が僕を振り返り、楽しげに微笑んだ。
「うん。ちょっとびっくりしちゃった。ありがとう。凄く嬉しい」
「先輩……」
ということは……。この感じは……。
でも森島先輩は、ふとそっぽ向いた。
森島先輩は、残念でした、という感じで僕を振り返り、笑いかけた。
「そうなんですか」
僕はふらふらと下がり、愕然とする。
「うん。それじゃまたね、橘君。あ、カイロありがとう。凄く暖かいよ」
僕は茫然とする思いで、ずっと森島先輩の後ろ姿を見送った。森島先輩は向うの建物の陰に消えてしまった。それでも僕は、いつまでも茫然と見ていた。
何となく、冬の風が僕の裸の心をそっと撫でて、そのまますっと過ぎ去った、という感じだった。
それから、少しずつ僕に思考が戻ってきた。
僕、振られちゃったのか? ていうか、告白しちゃった?
いやいや、告白じゃないよ、今のは。今のは……とりあえず、帰ろうか。
アマガミSS 公式ホームページ
作品データ
監督・シリーズ構成:平池芳正 原作:エンターブレイン
スーパーバイザー・構成協力:高山箕犀 坂本俊博 キャラクターデザイン:合田浩章
美術監督:高橋麻穂 色彩設計:松山愛子 編集:廣瀬清志
コンポジットディレクター:加藤友宜 CGディレクター:松浦裕暁
音楽:大森俊之 音響監督:飯田里樹 音響効果:奥田維城
アニメーション製作:AIC
出演:前野智明 伊藤静 名塚佳織 新谷良子
〇 佐藤利奈 今野宏美 阿澄佳奈 寺島拓馬
〇 浅川悠 早水リサ 久保田竜一
■2010/07/13 (Tue)
シリーズアニメ■
第1話 再び空へ
ネウロイは圧倒的な攻撃力で欧州の地域を瞬く間に併合。毒を持った瘴気を振り撒き、大地を腐らせ、人々の作りし文明を崩壊させた。
そんな最中、宮藤一郎博士は魔道エンジンを推進力とする
1944年。連合軍は第501統合戦闘航空団「STRIKE WITCHES」を結成。各国のトップエースや要望なウィッチた
扶桑皇国の女学生である宮藤芳佳も、その1人として招かれ、ネウロイとの戦いの中に身を投じていく。
あの戦いから、間もなく1年の時が流れようとしている……。
卒業式を終えて、宮藤芳佳は自宅である診療所に戻った。静かな居間でくつろぎつつ、何気なく手にした写真に目を向ける。
写真はまだ若い頃の、海が見える絶壁を背景にした姿が映し出されていた。モノクロトーンの写真は、淡く色褪せかけている。
芳佳は心の中で、もうここにいない父親に報告した。
写真をめくる。
次の写真は、ストライカーユニットを背景に、父と坂本美緒が並んで記念写真のように撮影した写真だった。坂本もまだ幼い頃で、軍服姿であるもののあどけない可愛らしさがあった。
……坂本さん。
芳佳をストライクウィッチーズに誘い、ともに戦った戦友であり、永遠の先輩。
ふと芳佳は、坂本との日々を懐かしく思った。それはまるで、白黒写真の風景のように、思い出として色褪せつつあった。
あれから、半年……。まだ戦いの日々は克明な感触として体が記憶しているのに、時間はもう半年が過ぎていた。
……みんな、この手紙から始まったんだよね。
不意に、山川美千子の声がした。何か急を告げる声だった。
芳佳ははっと立ち上がり、玄関に飛び出した。
美千子は悲しそうな顔で、はあはあと肩を揺らし、両掌で何かを包みこむように持っていた。
「みっちゃん、どうしたの」
美千子は今にも涙を噴き出しそうな目を閉じて、何も言わず、掌を差し出した。掌にあったのは、傷ついたウグイスだった。羽根が折れて曲がり、全身をぴくぴくと震えさせていた。
「うん、大丈夫」
芳佳はウグイスを引き取ると、掌の中に包み、目を閉じて意識を集中した。掌がじわりと温もりを宿し、青い光がウグイスを包んだ。
ウグイスがぱっと芳佳の手から飛び立った。治ったのだ。ウ
「よかったね、みっちゃん」
「うん、ありがとう芳佳ちゃん」
芳佳は美千子に微笑みかけた。美千子は目の端に涙を残しながら、嬉しそうにウグイスが去った青空を見ていた。
芳佳は、もう一度空を眺めた。飛び立ったウグイスを見届けようとした。
が、そのとき、空に別の何かが現れた。
「あれ?」
何だろう、と目を凝らそうとした。
落ちてくる!
物凄い速度だった。それは自由を失った感じで、まっすぐ落ちてきた。
芳佳と美千子は、身を小さくして目を閉じた。
周囲は衝撃を残すように、ちらちらと葉や土煙を噴き上げている。芳佳はおそるおそる目を開けて、何が落下したのか確かめようとした。
「ウィッチ!」
芳佳は驚きの声を上げた。
茂みに、女の子が一人、目を回して倒れていた。体をさかさまにして、全身に木の葉をまとい、ストライカーユニットを茂みから突き出していた。その格好
軍人の女の子がはっと芳佳に気付き、体を起こして地面にぺたりと座り込んだ。
「あの、私、陸軍飛行第47中隊、諏訪天姫であります」
顔を上げて、諏訪天姫はしおらしく挨拶する。
「こんにちわ」
「えっと、宮藤芳佳さんは……?」
と諏訪が辺りを見回す。
「はい、私ですけど」
諏訪は安堵の微笑を浮かべると、立ち上がり、居住まいを正すように直立すると、芳佳に手紙を差し出した。
「宮藤博士よりお手紙です」
「え? えーーー!」
芳佳は驚いて声を上げた。
2年の時が流れている今ですら、その影響力は鮮烈であり、「パンツじゃないから恥ずかしくないもん」の台詞はアニメ史に残る名台詞として記憶され、様々なメディア、あるいは別作品に繰り返し引用さ
放送当時より続編を望む声は大きく、あるいは続編制作の噂は決して絶えることなく、多くのユーザーの願いを叶えるかのごとく、2010年、ついに第2シリーズが放送された。
世界の脅威であるネウロイに戦いを挑むのは、あどけなさ
身体に残る幼さはもっと強調的で、全身の比率に対して頭は大きく描かれ、手足は切り詰めたかのように短く描かれている。
少女たちの表情に戦いの影はどこにもなく、丸くふっくら膨らんだ白い頬は、いつもほんのりと朱色に染められている。
そんな存在が、我々と同じ人間であるわけがない。『ストライクウィッチーズ』の男性キャラクターはおそらく現実的な存在であるのだろうが、少女たちは夢想世界から来たりし者たちだ。
おそらく空中を駆け抜けていく姿が、少女たちの本来あるべき姿なのであろう。地上という現実的束縛から解放され、夢想世界の住人である本来的性質がもっとも魅力的に輝く瞬
空中浮遊は戦闘という題目のために用意された舞台であるが、アクションとしての重量感は一切ない。作り手の目論みは、空中を舞台としたアクションにはなく、あくまでも少女たちの姿が中心であり、ストライカーユニットを装着して飛翔する瞬間のフォルムを描くことに意識が向けられている。
空中戦のカメラは、執拗に少女たちの背後に回り、あるいは股間に深く飛び込み、穏やかなカーブを描くヒップラインとパ
多くのアニメの場合、アクションの衝撃の瞬間、あるいは変身シーンの変形箇所、あるいはカメラに向って大見得を切るキャラクターの目線。
しかし『ストライクウィッチーズ』のアクションで「止め」が入るのは、ヒップを写した瞬間だ。コマにして3コマから4コマ。場
キュビズムの思想は、一つの絵の中に、多面的に表情や、実際には見えるはずのない反対側の世界を取り入れて観
『ストライクウィッチーズ』は描き手の欲望が、思うまま空中という舞台の中に制約なく解き放たれた作品である。あるいはそのために構想された場所が空中なのである。
作り手の意識がどこに向かって全力投球されているのか、憶測するまでもない作品である。
ストライクウィッチーズ2 公式サイト
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作品データ
監督:高村和宏 原作:島田フミカネ&Projekt Kagonish
企画:安田猛 シリーズ構成:ストライカーユニット 副監督:八谷賢一
軍事考証・世界観設定:鈴木貴昭 キャラクター原案:島田フミカネ
アニメキャラデザイン:高村和宏 メカデザイン・メカ総作監:寺尾洋之
キャラクター総作画監督:山川宏治 倉嶋丈康 美術設定・美術監督:松本浩樹
カラーデザイン:甲斐けいこ 池田ひとみ 3D監督:下山博嗣
撮影監督:林コージロー 編集:三嶋章紀
音響監督:吉田知弘 音楽:長岡成貢 音楽プロデューサー:植村俊一
製作:第501統合戦闘航空団2010
アニメーション制作:AIC
出演:福圓美里 世戸さおり 名塚佳織 田中理恵
〇 園崎未恵 斉藤千和 小清水亜美 郷田ほづみ
〇 花澤香菜 浅野真澄 佐藤有世 日野聡
〇 天野由梨 翠準子 城山堅 岩崎了
〇 里卓哉 高橋研二 吉開清人 金光宣明
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