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■2010/08/11 (Wed)
評論■
5・読者の心理を操作する
物語の順序立てをしっかり組み立てると、読者は主人公が背負い込んでいる立場や状況を知り、主人公と気持ちを一致させる。感情移入している状態だ。
主人公がどんな過程を経て、現在に至るような苦悩を背負い込むことになったのか。これが読者の側に充分な重さを持って伝わっていれば、その次の「ドラマ」という段階に移ることができる。
ところが、ほとんどの『鋼の錬金術師』読者は、アルの立場に「同情」し、「共感」を示すようになっていた。物語の解説がうまくいき、次なる「ドラマ」の段階に移れるようになった合図である。
ところで、読者の心理は主人公の意思によって、ある程度まで操作可能だ。主人公が物語上で経験したことというのは、読者が物語上にあるものを理解した過程でもあるからだ。主人公の役割とは、その物語の進行役を務めながら、読者に対してルールブックを提示する立場のことであるといえる。
実は同じ内容を、このブログ内ですでに書いたので、ここにその部分を引用したいと思う。
(引用元→批評・アスラクラインの失敗3 全体の構成)
主人公の役割は、その世界における、嫌悪するべきか、好感を持つべきかを示すルールブックになる。物語中における独自のルールや登場人物――例えば「人体練成」や「キメラ」といったもの。そういったものに嫌悪するべきか好感を持つべきか。
主人公との感情的な一体が充分に行われている状態であると、これがうまくいく。
その解説の過程で、創作者は受け手の感情を自由に調整することができる。これは物語制作において、重要なテクニックの一つである。
物語中、独自に提示されたものに対し、好意を示すのか敵意を示すか。その判断を下すのは主人公である。読者は大抵の場合、主人公に「感情移入」することで物語世界へと入っていく。主人公は読者と物語世界を繋ぐ架け橋のような役割を持ち、読者は物語世界に没入している間、主人公の感情に左右され続けるのである。主人公が憎いと思えば憎い、心地よいと思えば心地よい。ある意味、主人公は読者にルールブックを提示し続けているのだといっていい。
感情とは容易に伝播しやすい性質を持っている。例えば、いち集団内の誰かが苛々し始めると、感情は伝播して集団全員が必要あるなしに係わらず怒りの感情を共有し、次第に吐け口となる標的を求めるようになる(これが真逆の喜びの感情でも同じ作用が起きる)。創作者は、主人公の描き方次第で、読者にどのような感情を抱かせるか自由に操作できるのだ。
ところで感情の操作は、ある程度現実的な倫理観に準じていなければ効果を失う。例えば、盗みと殺しというような、普遍的なモラルに反するような行動である。基本的モラルに反する行為は、それまでにどんなにうまい解説をしても、必然的意義について熱弁をふるってみせても、何ら効果を発しないどころか単なる自己弁護して反発を食らうだけである。“良心”と“正義”という吐け口が背景にあって、初めて読者は主人公と気持ちを一体にすることができるのだ。
前回:物語の全体像を作る
次回:伏線の作り方
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■2010/08/11 (Wed)
評論■
4・物語の全体像を作る
はじめに命題として掲げたが、最近のアニメは長大な物語を作ることが不得手になっている。それはなぜなのか。
単純に答えを言えば、物語の構造の作り方、それから発展させるやり方を誰からも学んでいないからだ。繰り返し書くが、「物語は思ったとおり書けばいい。自分の感性だけを信じて奔放に書けばいい」という日教組教育的な創作論にしがみついていたら、絶対に行き詰るし、傑作が誕生する期待はやはりできない(これで傑作ができるのは本物の天才だけ。「自分の感性」あるいは「自分の個性」などというものは徹底的に疑い、見下し、物語と自身を分析的に捉えて作品を作るべきである。「個性」をむやみに賛美する日教組教育的思考は、創作の世界において有害でしかない)。
創作は理性的に構造を組立て、周到に準備するしたたかさが必要だ。読者を物語世界へと誘い、熱狂させ、クライマックスへと感情を導いていく。そのためには、規則正しい順序、段階を踏んでいくべきである。
それではどのように考えて物語に順序立てを作っていくべきなのか。
まず基本的な思考として、物語は大雑把に「ドラマ」と「解説」の二つの局面により分けられる。これに、要所要所の見せ場となる「アクション」を付け足してもいいだろう。
物語はまず、「解説」という基礎段階を踏んでいくべきなのである。いきなり「ドラマ」を作ってはならない。いきなり「ドラマ」を物語上で演出してみせても、それがどんなに素晴らしい展開で、役者の見事な演技力が加わっても、何となく見ている側の感情を上滑りしてしまう。なぜならば、主人公たちが置かれている立場がわからないからだ。
単純な例として、主人公は不治の病である。間もなく命が尽きようとしているが、まさにその時、運命の恋をする……。この「主人公は不治の~恋をする」までが「解説」の部分だ。これを一気に端折って、主人公の死というクライマックスを描いても、見ているほうは「何が起きた?」とぽかんと放り出されるだけだ。まず「解説」、それに至った経緯を語る必要があるわけだ。
「解説」は物語がどんな世界を持ち、主人公がどんな立場であるのか、「ドラマ」を描くための土台作りのような作業だ。
ところで、「解説」はシンプルでなければならない。ダメな例は(SF映画にありがちだが)冒頭テロップで長々と「解説」してしまうことだ。あれで解説したつもりになってはならない。長いテロップを読むのは重労働だし、固有名詞が多く、話が複雑になってくると、テロップが画面に現れている数秒の間にすべてを理解するのが難しくなってくる。SF映画の約束事になっているテロップだが、基本、シンプルであるべきだ。映画の雰囲気作りというべきか、簡単な前置きで終わらせるべきである。
それでは「わかりやすい」「理解しやすい」解説とはどんな解説なのか。単純率直な手法は、「解説」を主人公の「体験」の中に全て描くことである。主人公の体験の中に、物語上の何もかもが説明されるから、読者は主人公と一緒に物語世界の背景を学ぶことができる。物語世界が特殊であると、主人公と一緒に体験していく過程がちょっとした冒険気分になって、楽しい気持で物語を惹き付けていられる。
『鋼の錬金術師』を例に当てはめていくと、主人公エドが体験していく過程が、物語の背景を暴きだす過程と捉えることができる。
次に、エドとアルの過去に物語は遡っていき、2人の現在に至る境遇が解説され
その次に登場したのはキメラだ(→第4
キメラのエピソードが終わると、今度はス
スカーが去っていくと、次は物語上でも最も重要な《第5研究所》だ(→第8話第5研究所)。《第5研究所》において賢者の石に関する秘密がようやく見え始め、これが物語後半に向けての大きな伏線となる。第5研究所は一度通過して終りではなく、物語のうちで何度も繰り返され、その重要度が確かめられる場所である。
こうして見ていくと、『鋼の錬金術師』は順当に物語に必要な解説を、読者の理解を推し量りながら進めていった、ということがわかる。リオールの戦いの前にキメラのエピソードがあってはならないし、当然だがスカーのエピソードが前にあってはならない。単なる「アクション」でも「ドラマ」でもあってもならない。「解説」を各エピソードの中に込めることが大切なのだ。
読者にどのように物語の背景にある多様で複雑なものを了解させていくか、思考すべき過程を提示していくことが創作において必要なのである。
ここで、2つのダメな例を挙げたいと思う。
『電脳コイル』と『シャングリ・ラ』の2作品だ。
このどちらも、物語の後半になって大慌てで「解説」を突っ込んだ作品だ。前半部分はゆったりと進んで行ったのに、物語の最後、クライマックスの直前になって、「実は……」と物語の核心が一気に詰め込み状態で解説される。しかも、そのほとんどが台詞だけによる解説である。
酷かったのは『シャングリ・ラ』のほうだ。物語の後半になって解説の詰め込みが始まるのだが、その解説の中心に主人公がいないのである。つまり、主人公は自分がどんな立場にあるのか知らないまま、物語の終わりに向かっていってしまったのである。見る側にとっても、主人公がどういう立場にいるか提示されていない状態であるから、主人公の心理に感情移入などできるはずもない。そんな状態のまま、クライマックス、エンディングに突入してしまったのだから、物語の重さなどどこにもなく、茫然とするしかないのである。
なぜ、『電脳コイル』や『シャングリ・ラ』のような状態に陥ってしまうのか。第一に、それまでの過程が、物語全体の構造を解説するのに何の必然性を持っていなかったからだし、あるいは作り手が必然性を与えようと考えなかったからだ。
第二に物語全体を俯瞰しながら物語を綴っていくバランス感覚。この2つが欠落すると、「前半は面白かったのに後半は尻すぼみに萎んでいく」という最近のアニメにありがちな失敗をするのだ。
前回:余談・父性に取り囲まれた物語
次回:読者の心理を操作する
■2010/08/10 (Tue)
評論■
3・余談:父性に取り囲まれた物語
『鋼の錬金術師』は父親に取り囲まれた作品であると言える。主人公のエドとアルを中心に、これみよがしな父性のイメージが取り巻き、そのなかで主人公の成長物語が描かれている。実は典型的なエディプス・コンプレクスの物語である。
このお父さま(ホムンクルス)がエドのもっとも大きな敵対者として立ちはだかることで、『鋼の錬金術師』はエディプス・コンプレクスという本質を明快にさせている。
シグと一緒のときは、ほんの僅かな女性性の断片のようなものを見せるが、残念なくらい女性的なものを感じさせない。男性が女性の振りをしている、というようにすら見えてしまう。そのシグだが、印象はぼんやりしていて、父にも母にもなっていない。イズミの添え物である。
ルックス、プロポーションは申し分ないのだが、イズミには女性性が完全に欠落している。エド、アルにとって、男性的、父性的な存在だ(インドの神話に登場する、女神カーリー的なものと考えればいいのだろうか?)。
イズミから卒業し、新たな局面を迎えたエド、アルの新しい教育者として登場する。オリヴィエのイメージは震え上がるほどに苛烈で、その強烈さでエド、アルに戦いの過酷さ、非情さを指導していく。エドとアルは、オリヴィエと接することで、さらなる段階へと成長していく。
アレックスは母性的な存在として、エドとアルの庇護者となり、危険な旅を優しく見守り、時に
アレックスの筋骨隆々のイメージと対立する母性。これは荒川弘特有のユーモアなのだろうか、それともそういうものを好む性格なのだろうか。
実際、物語中に描かれるホーエンハイムのイメージは、エドの成長段階に合わせて、問答無用な厳
エドのイメージ内にあった冷酷さが取り除かれてからは、ホーエンハイムは厳しさも優しさも両立する一人の人間として描かれるようになった。年長者としての強さと、人間としてのユーモア、優しさ、弱さも現れている。上に挙げた激烈な男性性と比較してみると、ホーエンハイムは驚くほど人間的に描写されているのがわかる。
『鋼の錬金術師』の本質はエディプス・コンプレクスである。しかし、ただ父親と対峙し、撃破する物語ではなく、主人公の成長段階で父親をどう捉えられるようになるか、あるいは最終的に受け入れられるようになるか、が主題と見做すことができる。
父親的な存在を撃破し、最終的に美女とのキッスを手に入れる西欧的な物語と比較すると、阿闍世コンプレックス(Wikipedia:阿闍世コンプレックス)的な日本人(アジア人?)の本質的な性格が作品に込められている、と見ることもできる。
前回:基本の構造を作る
次回:物語の全体像を作る
■2010/08/10 (Tue)
評論■
2・基本の構造を作る
物語創作に当たり、作り手はまず作品のベーシックである原理を示さねばならない。
『鋼の錬金術師』におけるベーシックは『錬金術』と呼ばれる特殊能力である。この『錬金術』が『鋼の錬金術師』という作品の大きな特色であり、物語全体に一貫した連なりを与えている。
『鋼の錬金術師』はこの『錬金術』というモチーフをとことん追い込んで、その上で物語構築をしている。物語中で頻繁に繰り返されるアクションは全て『錬金術』のアイデアを応用したものであるし、物語の展開にも常に『錬金術』が係わってくる。そもそも物語の切っ掛けとなった《人体練成》も『錬金術』によるものの結果であるし、『錬金術』のメタファーは傍流に入っても、《キメラ》や《真理》など、物語に重要な影響力を持ち続けている。
また『錬金術師』は物語上における歴史的な広がりすら与えた。その世界における大きな発端、それから現在に至るまでの系譜の中に、常に『錬金術』が係わっているという大きな連なりを作り出した。
素晴らしいのは『錬金術』に哲学的テーマを与えた発想力である。《人体練成》で倫理の問題に正面から直視し、これだけで『鋼の錬金術師』を特別な作品に押し上げてしまった。さらに物語最後まで重要な意味を与えた「全は一、一は全」という禅問答的な問いかけがある。物語中頻繁に繰り返す「等価交換」と同じ意味なのだが、「全は一、一は全」はそれよりずっと意味が深く、物語の発端となる命題(元の体に戻る)を解決させる鍵にまでなっている。
『錬金術』というたった一つの原理をとことん追求した結果、『鋼の錬金術師』は最近の作品では例を見ないくらい世界観を広げ、深度を深めていったのである。逆の言い方をすれば、『鋼の錬金術師』は『錬金術』というモチーフだけを追いかけ続けた作品であるといえる。
物語の基本構造である『錬金術』は極めてシンプルで、理解しやすい。元素の基礎的な知識は小学校で学ぶはずだから、改めて物語上で解説する必要もない。とにかくシンプルであるため、模倣作品が作られたし、どうやら『鋼の錬金術師』の『錬金術』ルールは変身ヒーローにおける変身くらい普遍的に受け入れられたらしい。
ここで、作品のベーシックを構想する場合に重要と思える二つのポイントを挙げたい。
〇1・シンプル
〇2・発展性がある
もし第3があるとしたら、「真似されるほどに魅力的であること」だと思うが、とりあえず取り上げない。
第1にシンプルであること、誰にでも即座に理解できるほどわかりやすい、というものが望まれる。ライトノベルにありがちな複雑奇怪なルール設定を提示しても、読者は誰も理解できず、遠ざけてしまうだけだ。ルール作りに熱心になりすぎて、ルール設定そのものに溺れてはならない。
次に、第1で提示したルールを発展させ、深度を深められること。『鋼の錬金術師』を例にすると、『錬金術』というルールだけで、《人体練成》《キメラ》《国土練成陣》《真理》と、物語上の広がりを与えただけではなく、哲学的な深みすら作品に与えた。
ベーシックは作品全体を支える骨格である。だから、「シンプル」で「発展性がある」ということは、極めて重要である。ベーシックを複雑にすると誰にも理解されないし、(ライトノベルではありがちだが)キャラクターごとに原理が違うとなると、作品における一貫性を疑わねばならなくなる。複雑すぎるルール設定は、まず読者に理解されないし、ルール設定そのものが物語の発展性に制限を加え、妨げる場合もある。直感的に理解できるシンプルさを心がけることが大事だ。当然だが、一度提示したルール設定は、途中での変更、追加はしないほうがいい。
理想を言えば、『スーパーマリオブラザーズ』におけるジャンプアクションくらいシンプルなのがいい。『スーパーマリオ』シリーズでジャンプアクションが提示されてからすでに二十数年の時が流れているが、今でも我々は夢中になって遊んでいる。しかも、基本的な操作はあの時代から、ほとんどまったく変わっていない。初代『スーパーマリオブラザーズ』で遊んでそりきりだったという人でも、最新シリーズを違和感なく遊べるはずだ(つまり、マニュアルが不要であること、が理想的なのだ)。『スーパーマリオ』シリーズくらいのシンプルさであったら、入口の門構えで戸惑う、ということもない。
作者の知性、あるいは本質的資質が試される部分だが、シンプルなベーシックを思想、哲学的な領域まで深化させることができれば、その作品は名作になりうる可能性は一気に高くなる。俗っぽい意識や言語、一過性のニュースに流されず、作品の軸を見失わずテーマ設定を行うように心がけたい。
ベーシックはまだ誰も試みたことがない斬新さが求められる。逆に言えば、ここに新しさを提示できれば、その後の物語展開にも新鮮さが得られる可能性は高くなるし、読者も期待感も高くなる。
「シンプル」であること、「発展性がある」こと、この2つを心得て追求していけば、まだ誰も試みたことのない新しい作品がおのずと見えてくるはずである。
前回:イントロダクション
次回:余談・父性に取り囲まれた物語
■
つづきはこちら
■2010/08/10 (Tue)
評論■
1・イントロダクション
後半展開における『鋼の錬金術師』は概ね評価が高く、好印象のま
ところで、ここ近年かびますしく言われるようになった批評に、「最近
だが、そういった理由を別にしても、最近のアニメは確かに物語を構
最近のアニメは長編の制作が難しくなっている。それは制作会社が尻込みしているから、という理由だけではなく、作り手側に「長編を構
エピソードをどのように配置し、キャラクターを操作し、物語後半への動線を作っていくのか。それでいて、どうすれば見ている側の興味と
それを理解して意識的に物語を作っていく力が弱くなっている。「物語は思いのまま書けばいい」などという、日教組教育的な創作論を振りかざしてるあいだは、どんなに頑張っても絶対に傑作は生まれない。
その一方で、『鋼の錬金術師』は物語後半ほど勢いを強めていった作品である。『鋼の錬金術師』後半は、それまで提示されていた全ての要素、キャラクターが集められ、鮮烈な絵巻物を織り上げていった。クライマックスへ至る動線、それからエンディングは、鮮やかと評するしかない見事さである。もはや近代アニメにおける奇跡であるといっていいだろう。
では、なぜ『鋼の錬金術師』がそんな奇跡を描けたのか。『鋼の錬金術師』だから奇跡が起きたのか、『鋼の錬金術師』以外では奇跡を引き起こせないのか。もし奇跡を起こすことができるのなら、それをある程度まで操作できないものだろうか。
『鋼の錬金術師』を教科書と見做し、「いかに長編の物語を作るか」を考えていきたいと思う。
次回:基本の構造を作る